何だろうと思った。次に目を疑った。そして大いに焦った。
「ゆか……紫様!!」
屋敷の東の縁側に、何かうごめく影があったのだ。夜分だったから、それが倒れた人だと分かるまでにしばし要した。
まさか、それが自らの主八雲紫だなどと、誰に想像できようか。
「紫様! そん、な、何が!? お、御気を確かに!!」
抱き起してゆする。
もしそれが脳震盪なら、一番やってはいけない事なのに。そんな考えの余地もなかった。
「ちぇ、橙はいないか! 橙! 紫様が―――」
「らん……ら……ら、ん……」
橙を呼ぼうとして、何が何だか分からなくて、その震える手に気付いた。
紫の手が、藍の服をぎゅっとつかむ。弱弱しく、握る。
「らん……ら……」
「! 紫様!」
その手を取って、少しでも元気づけようとして、そこで初めて、紫の顔を見た。
泣いていたのだ。
真っ蒼な顔で、不安そうに打ち震えながら、幼子の様に。
「―――紫……さま?」
「や……た……すけ……」
くたりと、壊れた操り人形のように、そうして紫は、意識を失った。
「――――っ!? 紫様! 紫様ぁ!!」
何度呼びかけても、どんなにゆすっても、紫は目を覚ましてくれなかった。
―――油断した。夜道は歩くものじゃない。
夜盗に襲われて、危うく斬られるところだった。
……偶然通りかかった彼のおかげで、私は事なきを得たのだが。
「すまんがな……オフクロにすまんかったと……伝えてくれ……」
「ええ、任せてちょうだい。」
彼は親思いの快男児だった。私も随分と仲良くしてもらったものだ。
彼の心意気には当時随分と助けられた。
そうして彼はまた私を助け、私を置いてこの世を去った―――
夜は明けて今日、診察結果の発表日だ。
昨夜は倒れた紫を担いで、永遠亭に駆け込んだ。
ずいぶん遅かったのに、八意永琳は起きていたのだ。
どんな急患にも快く応じてくれると言う、あの噂は本当だった。
正午過ぎ、再度永遠亭を訪れる。
藍としてはずっと紫についていたかったのだが、結界管理の仕事をすっぽかす訳にもいかなかった。
「それで、紫様のご容体は?」
診察室にて、永琳と面会する。
いつものツートンカラーの上に白衣を羽織った姿。椅子の上に組まれた黒タイツ。
なるほど、藍は理解した。これが女医のエロスか。
男性客で無くとも、悩ましい限りである。
「ええ、それなのだけれどね」
そんな永琳、何やら思案するような顔をして、
「貴女、八雲紫から何か聞いていないかしら?」
などと訊いてくる。
「と、申されますと?」
「たとえばね、最近何かに悩んでいたとか、厄介なものを抱えていたとか」
「……ん~……」
心当たりは―――ない。全く。
「そもそも、紫様は悩みの類を人に話される御方でもありませんから」
「そう……ええ、診察結果なのだけれどね」
ゴクリ、と唾を呑む。
あの八雲の大妖怪、藍にとっては偉大なる主を侵した大病。いったいどんな物なのか。
「結論から言いますと、疲れていたのね」
あれ~?
「……なんですと?」
聞き間違いだろうか? おかしいな。耳掃除は橙にやってもらったばかりなのに。
「ええ、だからね、疲れていたのよ」
「いや待て。仕事はほぼ私に押し付けて家事に精を出す毎日なんだぞ?」
「するの? 家事を? 八雲紫が?」
南無三。これは内緒だった。
「いや、ゲフンゲフン。仕事も家事も押し付けられて毎日が忙しくて全く、はっはっは」
対外的に、八雲紫はグータラで通している。
一日の半分は寝て、仕事も家事も式任せのごく潰しと言うのが、八雲紫の一般認識なのだ。
理由は簡単。そっちの方が大妖怪っぽいじゃないか。
うん、立派な理由だ。
「……へ~……ふ~ん……」
だからそんな意地の悪い笑みで見ないでください後生です。
「そう、話がずれたわね。八雲紫は疲れているのです」
「いやだから―――」
「ただし、心がね」
「―――っ!」
なるほど、得心がいった。
紫は言うまでもなく、妖怪だから、
「精神疲労ですか。それってもしかすると一大事じゃ?」
心の病は少し危ない。
「もしかしなくともフェイタルです。妖怪は鬱病になるとリアルに死ぬのよ?」
少しどころじゃなかったらしい。
「な、なんですと!? え、いや、どうすれば!?」
「落ち着きなさい。まだ鬱と言うほど追いつめられてはいないようです」
立ち上がった永琳は棚から何かのファイルをとりだすと。その中から一枚のプリントを渡してくれた。
八意特製鬱病診断テスト。受験者:鈴仙・U・因幡
「……お弟子に何があった?」
「あっと、失礼。こちらだったわ」
別のプリントを渡される。今度はちゃんと主のものであった。
この医者、割と天然さんかもしれない。
「ええと、診断結果は……52点?」
「要注意。鬱病とは言わないけれど注意しましょうってことよ。まだ手の打ちようがあるってことね」
「なるほど、まだ大丈夫と言うことか」
少し安心する。昨夜はもうだめかと思ったくらいなのだから。
先ほどの鈴仙、85点とか書いてあった気がするのだが見なかった事にする。
「いえ、軽くヤバイです。このまま放置するとかなり危険。そんなレベル」
そして釘を刺された。全く楽観視はできないらしい。
「ええと、どうすればいいのでしょう?」
「ええ、とりあえず彼女は入院させることを推奨いたします。よい薬がありますからね」
「噂に聞く胡蝶夢丸ですか。なるほど。すみませんが、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる。ここは月の医療を全面的に信頼しよう。
どの道、医学知識皆無の藍にはどうする事も出来ないのだから。
「何を言っているの?」
あれ~?
「貴女の働きにかかっているのよ八雲藍? 自覚はあります?」
「えっと、皆目。……え? 私が何かやるのですか!?」
理解するのに、しばらく要した。
どういう事なの? Why? 意味が分からない。
「ええと……いいですか八雲の式よ」
“式”をかくべつに強調する。
額に手を添えて、呆れた様子の永琳。どうにも式として、かなりがっかりな反応だったらしい。
「貴女は家に帰って原因を突き止めてきなさい」
「原因?」
「八雲紫が発狂した原因よ。
詳しく判らないなら、せめてきっかけ位はつきとめてきてほしいの」
薬だけでは限界があるのだと言う。
要注意レベルまで神経をすり減らした原因を探して、それを絶たなければならないのだ。
さもなくば、
「幾ら薬で治療しようと、ただのイタチごっこと言う事ですね?」
「察しが及第点で助かります。よろしくね」
方針が決まった。とりあえず、今のところは何とかなりそうで安心する。
帰路につく。
その前に紫に会っておこうかと思ったのだが、
「あ、ごめんなさい。ついさっき寝かしたところよ。薬で」
などと、いやな予感しかしない答えが永琳から帰って来たので諦める。
大丈夫だ。さっき全面的に信頼すると誓ったばかりじゃないかお腹が痛くなってきたなもう。
とりあえず明日の正午までに、何か突き止めてくると言う事で話がまとまった。
「明日までか……」
すでに日が傾いてきている。帰ったら手がかり探しに時間を使い果たすことになりそうだ。
「どうしたものか……」
引き受けてしまったものの、原因など今のところ見当もつかない。
探すとなれば、紫の寝室か。何がしかあるとすれば、そこしかない気もする。
「もしくは、お倒れになったあの縁側周辺……しかし随分と時間もたったし、掃除されているやもしれん……」
ん? 掃除……?
「……あ」
南無三。紫が入院してると言う事は、家事をする人もいないと言う事だ。当然、誰が屋敷の掃除などしようか。
むしろ夕食どうしよう……
「仕方ない……買い物してから帰るか」
夕食は、自分で作るしかない。
チャーハンか、パスタか、雑炊か。適当につくって適当に食べることにしよう。
すまない橙。私のレパートリーは独り暮らしの大学生(男子)並みなんだ。
思った以上に、さらに忙しくなりそうだ。
とりあえず、足を家から里に向ける藍であった。
―――それは流行病だった。妖怪の自分には何の脅威にもならなかったが。
「お母……さん……」
随分と痩せたその姿も、視界が滲んでよく見えない。
握りしめる手が随分と冷たい。か細い声が、どんどん弱くなっていく。
特効薬の名は知っている。昔飲んだ事があった。
しかし、この時代にはそんな物もない。手に入らない。
能力を使えば買いに行けるかもしれない。時代の隙間を操ればもしくは。
しかし、帰ってくる頃には、この子はすでに死んでいる。
「ごめんなさい……ごめん……なさい……」
謝罪しか出てこない。苦しめるために生んだんじゃないのに。
病気にするために、人間にしたんじゃないのにっ!
人間の男との間に、その子を成した。
その子は半妖として生まれたが、境界を操って人間とした。
自分と同じ無間地獄を、その子に味わってほしくなかった。
可愛かった。
ずっと、お母さんになってみたかったから、時間の概念を忘れるほど、幸せな毎日だった。
それが、こんな形で終わるだなんて……っ!
「泣か……ないで……」
娘の手が、私の涙を拭おうと伸びてくる。しかし、私に触れる前に、すとんと落ちた。
私の可愛い娘は、この力も及ばず、私を置いてこの世を去った―――
そんなこんなでやっと、家に帰りつく藍である。
「ただいま~」
……
「た~だ~い~ま~」
……
「……橙?」
おかしいな。すっ飛んで出迎えてくれると思っていたのに。
ついでにご飯にしますかお風呂にしますかそれとも以下略を期待したのに。
「橙~? ただいま帰ったぞ~」
屋敷を少し探してみる。
橙の寝室には居ない。藍の部屋にもいない。紫の部屋にはいまい。
どこへ行ったのだろうか?
と、そこに、
「ふぇ~あ は~ぼ~る ざ ふら~わ~ず ご~ん ♪」
「ん?」
「ろ~んぐ た~いむ ぱ~あ~すぃ~んぐ ♪」
歌が聞こえてきた。
「庭の方からかな?」
出てみる。
「ふぇ~あ は~ぼ~る ざ ふら~わ~ず ご~ん ろ~んぐ た~いま ご~ ♪」
はたして、そこに橙はいた。いつもの帽子ではなく、三角巾だったが。
鼻歌を歌いながら、洗濯物を取り込んでいたのだ。
「橙!」
「あ、藍様! おかえりなさいませ~」
にこやかに振り向く橙。物干し竿からタオルをひょいひょい回収する手は止めない。
「器用だな橙……ただいま。洗濯物済ましてくれていたのか。すまないね、ありがとう」
「いえ、いつもの事です」
「そうなのか?」
「はい。いつもの事です。今日は紫様がいないから、私一人でやりましたけど」
橙は賢いな。私の宝物だ。
などと考える藍である。
まぁ、実際洗濯など、洗濯機に放り込んで洗剤入れてスイッチで何とかなるのだ。
河童印のドラム式洗濯機。取り出し易さと省エネに定評のある最新型だった。
「いつもは紫様の手伝いを?」
「はいです。お掃除にお洗濯、後お買い物にもついて行きます。お料理だけは、包丁が危険だからと……」
洗濯だけではなかったらしい。
なるほど、藍はいつも仕事に出払うから、家の事情をあまり把握していないのだ。
家庭を顧みないお父さんの後悔を経験してしまった藍であった。
「ふぇ~あ は~ぼ~る ざ ふら~わ~ず ご~ん ♪」
そうこうしているうちに、洗濯物に戻ってしまう橙。
なかなかどうして、上手いものだ。歌が。
「やんが~るず はぶ ぴっぜ~む えぶりわ~ん ♪」
歌詞の意味は皆目見当もつかないのだが。
「お~う ふぇん うぃる ぜい えば ら~ん お~う ふぇん うぃる ぜ~い えば ら~ん ♪」
外の歌だろうか?
「その歌は?」
「なんでしょう?」
「いや、さっきから歌ってる鼻歌」
「あ、はい。紫様がよく歌ってらっしゃる歌です。花はどこへ行ったって言うそうです」
「紫様の歌か……」
なるほど。外の歌だった。意味のわからない歌詞も、外の言語なのだろう。
紫はよく鼻歌で、日本語ではない歌を歌う。
以前聴かせてくれたことがあったな。
独唱と重唱の境界を操って、別々の歌詞を同時に歌うという離れ業を見せてくれたのには驚いたが。
さいもん あんど がーふぁんくるで、すかぼろー・ふぇあといったかな?
「終わりました」
洗濯物籠を抱えて、橙がかえってきた。
「おっと、お疲れ様。今日は他に、何かやることはあるかな?」
「お掃除の続きです。日が傾いてきたので、先にお洗濯を取り込んだんです」
「橙はいい子だなぁ……私の宝物だ」
抱きしめて頭をナデナデ。知らず知らずのうちに、随分と成長したものだ。
しかし、掃除か。
「そっか……ちょっと、手伝ってもらおうかと思ったんだけど」
「なんですか?」
「うん、実はね」
昼間の永遠亭で決定した方針を話す。紫を狂わせた原因云々のアレである。
「とりあえず、私は紫様の部屋を探してみるから、橙は屋敷の掃除をお願いする」
「判りました。お掃除しながら、何かないか探してみますね」
「ああ、よろしく頼む」
察しが良くて助かる。
あぁ、なるほど、昼間永琳が行ってた式として云々とは、こう言う事だったのだ。
―――ライバルと言おうか。その女とは何かにつけよく張り合った。
仕事のはかどり具合。所謂大食い競争。目的地まで競走。
好きになった男も、同じ男だった。
何かにつけて気があって、そして何でも取り合った。
本当に年甲斐もなく、はしゃぎ回ったものだった。
「これは私の勝ちじゃない? この病気にかかったのは、私が先だったし」
「何を言ってるの? 病に侵されるのは、たるんでいる証拠よ? この件も私の勝ちです」
「くは~、これはしたり。物は言いようだわ」
病床と言うに、この減らず口である。
それは娘と同じ病だった。当時は不治の病。死に至る病。
「フフ……あんたにゃ負け続けだった私だけど……最期にやっと、あんたに勝つ事が出来たわ」
ニカっと、やつれた顔で彼女は、いつものように笑って見せたのだ。
「紫……私が死ぬとき、泣かないんじゃなかったかしら?」
私の涙を、拭ってくれながら。
それが最期の会話だった。
我が親友は、最期までその暖かい笑顔を絶やさず、私を置いてこの世を去った―――
で、紫の部屋へ。
「お邪魔します……」
別に咎められることではないはずだが、少し緊張する。
部屋については、よく整頓されているようだ。
めぼしい探し場所として、洋服箪笥に本棚、後は机か。
机の下に引き出し収納。あと、机の隣には棚がある。
「洋服箪笥は……いらないかな」
とりあえず、本棚を見てみることにする。
「……漫画か……あとライトノベル……これは? 占い大辞典? あとこれは……心霊スポット集?」
見れば結構オカルトな本が多い。
妖怪は人間に恐れられるからこそ妖怪である。神は人間に信仰されるからこその神なのだ。
幻想郷の起源は、その手の信仰心の欠落から妖怪や神を守る事にあったわけだ。
幻想郷の存在を守るためにも、研究に余念がないのかもしれない。
「にしては、道楽の本ばかりですね紫様……これは……精神論? 学術書か……」
日記があればと思ったのだが、本棚にはどうやらないらしい。
ならば机だろう。
机の上は少し散らかっている。
家計簿に、何かのメモ書きが幾つか。あと、読みかけの恋愛小説。
小説に目を通してみる、これは関係なさそうだ。
「家計に余裕がないとか……言う訳ではないのか……」
メモ書きはすべて、お菓子や料理のレシピだった。
どうやら机もはずれだ。
「あとは、収納と棚か……やれやれ、何も見つからないな」
もう少し部屋を見回してみる。
ベッドの下か? それとも、大きな姿見(デパートの洋服売り場にあるアレ)の裏か?
「姿見か……化粧なんかしない癖に」
服装ばっかり派手で、それ以外は割と地味な紫である。香水もつけない。
服飾は、その人の心情等いろいろ表現する記号である。紫のそれはどこまでもカオスだ。
「思えば、私は紫様のお考えをよく理解できていなかったかもしれない」
と言うより、理解しようともしていなかったかもしれない。
よく判らないと、某清く正しい烏天狗の取材で言った事がある。
理解の範疇を超えると。
妖怪らしさの演出のつもりで言った事だが、もしかしたら、本当に判らないのかもしれない。
主は特別な人だから。
「いかんいかん。私が鬱になってどうする」
ガラっと、収納の一番上の引き出しを開けてみた。
この手の一番上の引き出しは鍵が掛かっているようなものだが、今は開いていた。
「ん?」
開けた勢いで、すとんと何かが奥から出てきた。
裏返しになってよく判らないが、これは、
「……写真立てかな?」
見てみる。
にこやかに笑う紫と、その隣に女の子が一人。
誰だろう? 見たことはないな。
藍が紫と出会う前の、紫の友人だったのかもしれない。
「藍様~」
「―――っ!?」
ドアのノックと呼ぶ声。橙だ。
「橙? ちょっと待ってくれよ!」
写真を引き出しに戻して、閉める。証拠隠滅。
橙がドアをノックするいい子に育ってくれてよかった。
別に悪い事してるわけじゃないのに。
触れてはならないものに触れているような、そんな気がしたのだ。
「どうしたのかな?」
ドアを開けて、橙を迎える。
掃除は終わったのだろうか、三角巾がいつもの帽子に代わっていた。
「お掃除をしていて、こんなものを見つけたんです。」
そう言って差し出してきた物は、長方形の薄っぺらい何かだ。
「写真?」
「みたいです。ちょっと前にあった、お花見の記念写真ですね」
写真には、大勢の笑顔が映っていた。無論藍や橙、紫の姿もあった。
つい1月ほど前だろうか、花見があったのだ。
見知った顔が集まって宴会だ。それでも、ものすごい規模の宴会になってしまったが。
「ふふ……楽しかったですね。また来年もやりたいです」
そう、花見は楽しかった。紫もとても楽しそうだった。
いつになく沢山酒を飲んで、帰りは藍がおぶって行かなければならなかったくらい。
このときは、紫も元気だったのに。
楽しかった花見の写真か……
「この写真、どこにあった?」
「え? あ、はい。東の縁側に落ちていました」
東の縁側。紫が倒れていたところだ。つまり、
「これが原因……いや、少なくともきっかけか……」
「そうなのですか?」
「ああ。お手柄だよ橙。にしても……」
これがきっかけ? 楽しかったはずの思い出なのに、何に心を乱される必要がある?
「……判らん……どういう事だ?」
などと考えていると
「……あの~、藍様?」
と、橙が袖をクイクイ。
「ん?」
「えっと、藍様、そろそろ……時間が……」
「なんだろう?」
時計を見てみる。
只今午後7時25分。南無三。
「夕食時か……すまない。すぐに何か作ろう」
「あ、手伝います」
「いやいや、包丁が危険だから、橙は待ってて」
不服そうな橙を置いて、キッチンへ急ぐ。
捜索は途中だが、気分転換は必要だろう。
―――「お茶、入りましたよ」
「あぁ、すまんね」
夫にお茶を差し出す。彼は縁側から外を見ていた。
だんだん葉も色づいて、秋も真っ盛りとなってきた時分だ。
「紅葉が、綺麗になってまいりましたねぇ」
「あぁ、最近冷え込んできたからなぁ。風邪などひかぬようにせねばならん」
「じゃぁ、囲炉裏を出しておきますね」
もうずいぶんと、その夫に連れ添っていた。
友人にもほぼ先立たれ、娘も先に逝ってしまった。
後はもう夫だけ。夫の死を最後に、この村から姿を消そうと、そう考えていた。
もう少し、後1年、後1月、せめて1日。
少しでも長く夫と過ごしていたいと、私は毎日神やら仏やらに祈って過ごしていたものだ。
「わしはな紫、お前と一緒になれて、幸せだったと思うておるのだ。」
「なんです?」
「娘にも先立たれ、皆先に逝ってしまったな。
じゃが、お前と過ごして、我が人生、本当に幸せなものだったとな。」
なんてことを言うのだろう。それではまるで……
「やめて下さいよぅ。今日明日の命と言う訳でも、ありませんでしょうに」
「ははは、その通りじゃ。縁起でもなかったかの?」
その時は、ただの笑い話だと思ったのだ。実際、その時私は一緒に笑ったのだから。
しかし、彼は最期に、元気なうちに、どうしてもそう伝えたかったのだろう。
私に、礼が言いたかったのだろう。
その次の日の事だ。
私が全霊をもって愛した夫は、まるで眠るように、私を置いてこの世を去った―――
白状すると、藍は橙がガッカリするのだろうと思っていた。
それくらい、紫様の料理と藍の料理には大きな差があったのだ。
「いただきま~す」
こうしてにこやかに手を合わせる橙を見て、ありがたさと申し訳なさに涙が出そうだ。
因みに、案の定というか、今夜は雑炊だった。
「すまないな……大したものが用意できなくて」
「いえいえ、とっても美味しいですよ?」
「橙はいい子だな……私の宝物だ」
「もう、藍様そればっかりです」
次こんな事があった時のためにも、紫に料理を習おうかと考える藍である。
もしくは橙に料理を勉強させるよう、紫に進言してみようか?
「橙の手料理か……じゅるり」
「なんです?」
「あ、いや、なんでもないんだ」
今日も親馬鹿ならぬ主馬鹿な藍である。
仕方ないじゃん。可愛いんだから。
思えば、紫にもこういう時期はあったのだろうか。
「……紫様にとっての私は、馬鹿になれるようなものだったのだろうかな?」
「なんですか?」
「ほら、橙は可愛いだろ? 目に入れたってきっと痛くないぞ?」
「そうなんですか?」
「そうなんです。でだ、紫様はどうだったんだろうなと」
「藍様をですか?」
「ああ。紫様は私を目に入れても、痛くなかったのかな?」
思い出してみる。
紫と出会ったのは、まだ藍が小さかった頃だ。
少なくとも、今の橙よりは小さかったはずだ。
「紫様と藍様の出会いって、どんなだったんですか?」
「知りたいか? フフ……紫様はな、私にとっての、救世主だったんだ」
藍は幼少の頃、化け狐たちの集落で育った。
優しい父親や大好きな母親に囲まれて、あと少しで新しい妹も出来る予定だった。
幸せだった。その時までは。
「村に、人間の討伐隊が差し向けられてな。紫様と出会ったのは、その時だ」
両親も友達も皆殺されて、後は藍ただ一人となった。
隣人の死も傷の痛みも何も分からず、ただ全てが恐ろしかった。
確か、助けてと叫んだな。
武器を持った男たちに囲まれて恐怖に打ち震える藍を、誰かがそっと抱いた。
もう大丈夫。怖い男たちは、私がみんなやっつけてあげますからね。
頭を撫でてくれながら、優しく言う謎の少女。
気づけば、男たちは皆、バラバラの肉片になって死んでいた。
「その女の子が、要するに紫様だ。私は助けて頂いたのさ」
「それで式に? 恩返しですか?」
「いや、紫様が式になれと。私がそれに従った形だったな。」
当時はまだ幼く、尻尾も一本だったため、独りで生きていくことなどできなかった。
紫の提案は、まさに渡りに船だったのだ。
まさに救世主だ。
「……」
「……」
「考えてみるとおかしいな。助け出したとはいえ、見ず知らずの幼子だのに」
式が必要だったとしても、ならもっとましな奴を式にしただろう。
当時の藍は本当に幼い、取るに足りない子供善狐だったのだから。
「情が移ったとかですか?」
「妖怪なのにか? ……紫様ならあり得るか」
あの人は特別だから。
そういえば、自分を式にする時、紫が言っていた事を思い出す。
「独りぼっちは、みんな寂しいですものね……」
「なんです?」
「と、紫様がおっしゃっていたのさ。私を式にする時にな」
「その時、紫様にお仲間はいらっしゃったのですか?」
「いや、群れてはいらっしゃらなかったはずだ。そのあとも私と二人で暮らしていたし」
それ以前は詳しく知らない。断片的に、紫が語ってくれたことも幾つかあったが。
友人や家族、仲間がいた話を、主が語ってくれたことはあったが。
「……そうか……読めたぞ……」
否、正確には思い出したのだ。
独りぼっちは寂しい。
普通の妖怪には一生分からないその感覚を、紫が知る理由。
事の真相。
風呂に入った後、橙は先に寝かせる。
橙は不服そうであったが、確かに、紫がいない今日はしっぽりムフフのチャンスでもあるが。
それよりも、確認しておくことがあったのだ。
予感を、確信に変えるために、
「お邪魔します……」
再び紫の部屋へ。
「ええと、確か一番上だったな……」
机の下の引出しをあけて、先ほどの写真立てを取り出す。
思い出した。この写真の話も、一度聞いた事があったのだ。
紫と藍が出会う前、ずっと前の写真であったはずだ。
所々新旧の境界とか操って修繕してある部分が見られるから、相当古い写真のはずだ。
それもそのはず、この写真は、いわば紫の原点とも言うべきものなのだから。
「妖怪として初めての離別……でしたっけ紫様?」
夜空の星から時間を知り、月から場所を知る不思議な少女。
かつて紫が、無二の親友と呼んだ少女。
名を何と言ったか、ウサギ……レンコン……?
「……そう……確か、宇佐見蓮子とかいったな」
サークル活動とやらで行った先で、神隠しにあってしまったのだと言う。
正確には、紫自らの能力の変質。そして暴走。
蓮子をまきこませまいと精一杯で、いつの間にやら遥か昔。
そして手にしたのは、斬っても死なない異質の我が身。欲しくもなかった異能。
妖怪と化し千幾百年。苦しみ続けて、千幾百年。
文化によって違うのだろうが、平均寿命が80歳なら80年の人生設計をするのが人だ。
人間は1000年以上も生きられるように、頭ができていないのだ。
まして、周りの人間は人生設計云々関係なく、100年もせず死んでしまうのだから。
だから能力の勝手が判っても、蓮子のもとには帰られなかった。
「でも人は……とくに人間は、独りで生きられる生き物じゃない……」
幸いにして、人間の振りをするには便利な能力だったのだろう。
外見年齢の隙間を操れば、年をとる振りもする事ができる。
自分を人間にすることは、どうあっても出来なかったが。
そうしてしばらく、人間のコミュニティーに生きたかのもしれない。
せめて人間であったかつての自分に、縋っていたかったのかもしれない。
幾つも住処を変え、幾人もの友人や家族をつくり、置いて逝かれたのかもしれない。
それが寂しくて、ついに耐えられなくなって、藍を式にしたのかもしれない。
そして、
「また怖くなっちゃったんですか……紫様?」
宴会の写真を見る。紫の満面の笑みを。
過ぎたあの日の笑みを……
楽しかったあの日は、もうやってこない。
終わってしまった宴会は、もう過去の事なのだ。
そうやって、時間がまた過ぎていく。あざ笑うように逃げていく。
きっと、もう何年もすれば、こんな宴会もなくなる。
霊夢がいなくなれば、妖怪は集まらない。魔理沙がいなくなれば、宴会の頻度も減る。
いやだ、まってよ。
私を置いて逝かないで。もう独りにしないで。寂しいよ。いかないでよ。
いやだ。いやだいやだいやだ。だれか。誰か私を―――――
「“助けて”と言ったな……私に……確かに言ったな……」
初めてだ。主に助けを求められたのは。
確かに。承った。
―――「藍は、髪を伸ばさないの?」
「なんです?」
髪をといてあげながら、最近感じた率直な疑問をぶつけてみる。
そういえば、この子は常にショートヘアだった。
助け出した善狐の女の子を、私は引き取って育てることにした。
名前を持たない子だったので、藍だなんて、かつていた娘の名前にしてみる。
以前戯れに、式神の操術を習得していたのが役に立った。何事も、手を出してみるものだ。
もしかしたら、いや、もしかしなくても、私は疲れていたのだ。
離別することに。置いて逝かれることに。
妖狐の女の子なら、人間のように短命ではないだろう。
この子となら、ずっと一緒にいられる。そんな気持ちがあった。
「貴女いつも短く切ってしまうでしょう?こんなに綺麗な髪なのに、伸ばさないの?」
「えっと、恐縮です。でも、これは少し思うところがありまして、願掛けと言いますか」
「あら、どんな願掛けをしているのかしら?」
「え、いえ、大したことではありませんです。はい」
「あらそう? ……綺麗なのに、勿体ないわねぇ」
「あはは……ありがとうございます」
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑う藍。
しかし、髪を短くする理由は終ぞ教えてくれなかった。
勿体ないと思う。
その頃の藍は、私にはまだ及ばないも背も伸びてきて、幼い顔立ちも綺麗になってきていた。
おまけにだんだんスタイルも良くなってきていた。
俗っぽく言えばボン・キュ・ボン予備軍。我が式ながらうらやましい限り。
髪を伸ばせばさぞ綺麗なのだろうと思うのだ。
女の髪は伸ばすものと、古臭い考えだった気もしなくもないが。
「さて終わり。短いからすぐ終わるわねぇ」
「ありがとうございます。短く切るのは、そういう手軽さもあるのですよ?」
「くすくす……合理的なのは結構だけれど、女の子なら身だしなみと合理性はある程度切って考えるべきなのよ?」
そう言って、自分の髪の手入れを始めようとしたら、
「あ、紫様、私がやります」
などと言ってくる。
「あら、やってくれるの? 大丈夫? してくれたことないけど、できる?」
「はい、お任せください」
「そう。じゃぁ、お任せしようかしらね」
不思議なことに、藍の手際は見事なものだった。
櫛が頭に刺さるのかと覚悟をしたのだが、そんなことは一度もなく、丁寧にといてくれたのである。
私の知らないところで、自分の髪で練習していたのかもしれない。
私が何を言わなくても、この子は私のためになろうと、努力をするようになった。
それまで甘えん坊で、夜一人で眠れなかったくらいの子だったのに。
まるで私を母親のように慕ってくれていたと言うのに。
だんだん式としての自覚が出てきたというのだろうか。
主として、喜ぶべきかもしれない。と、同時に、娘の親離れが少し寂しい。
そうやって、時折びっくりするような速さで成長する藍を見て、ある種の不安を感じることがあった。
もう数百年一緒にいるはずだが、この子はずいぶん大きくなったものだ。
私は何も変わらないと言うのに。
この調子でこの子もいずれ、私を置いてこの世を去るのだろうか―――
「以上が、この度の紫様の変調の原因と思われます。憶測ではありますが」
「……なるほど」
翌日、永遠亭にて。約束通りの対策会議を開く。
今日は橙も同伴だったが、藍だけでもいいと言うので紫の見舞いをさせておく。
「これがそのきっかけの?」
「はい。花見の写真です」
「あ~これウチにも届いたわ。烏天狗が新聞と一緒に持って来た。楽しかったわねぇ」
しみじみと、少し思い出に浸る永琳。
永遠亭の面々も花見に同席していたのだ。
病院を空けてもいいのかとか、その手の突っ込みは宴会ではしない。
「……ええ、そうね」
すっと姿勢を直す永琳。
「貴女の推測は、概ね合っているでしょう。こちらの診断結果とも合致します」
「診断? してたんですか?」
「してたんです。ただ、それだけでは不確実だし。心の問題ですからね。」
なるほど。さもありなん。
「にしても、離別の恐怖か……厄介だわ……」
苦々しい永琳。
「まぁ、私にとってもね、他人ごとではないのよ。」
何しろ八意永琳は蓬莱人である。絶対死なない人間である。
その手の苦しみについては半ば専門家の様なもののはずだ。
「先立たれると言うのはね、これほど悲しい事もないのよ。
もうその人と会えなくなると思うと、心にぽっかり穴があくと言うか……
でも、私には……姫様がいたものね……」
「輝夜殿ですね……」
その人は絶対に置いて逝かない、その確信。
その確信に縋る事が出来れば、時間の恐怖におびえる必要も、あるいはないのであろう。
その確信さえあれば……
「八意殿、その事について、お尋ねしたい事が」
「何かしら?」
その確信さえ、持たせてあげられれば。
「率直に訊きます。八意殿、私は後何年生きられる?」
「……突飛な質問ね?」
「妖獣などが相手では計り難い事この上ないでしょうが、
大体の見積もりでいいのです。教えていただけないでしょうか?」
「ええ、そうね。今のままならば、2000年以内に寿命が来るかしら。
ご想像の通り、恐らく八雲紫より先に死ぬことになります。」
「やはりか……」
八雲紫と言う妖怪は、詳細な年齢は不明だが、大体千数百歳である。
かなりの長生きな気もするが、そして幻想郷では年長者だが、妖怪単位で言うとまだ“少女”である。
そう、紫はまだ若いのだ。寿命は程遠い先なのだ。
「今のままならばね。伸ばす方法も、なくはないです」
「と、いいますと?」
「八雲の天狐よ、貴女なら、その方法を知っているはずだわ。そして、それが茨の道であることも知っている。
だから、保険のために自分の寿命を確認したのでしょう?」
読まれていた。
そう。すでに昨日から一つの決意をしてきている。
いましがたの質問は、所謂最後の尻ごみだ。
「私が空狐になれば、寿命も延びましょうか」
「ええ。伸びるどころか、それだけで八雲紫より長生きできるでしょう。
まぁ、空狐になれればの話だけれどね。」
空狐。天狐をも超える大神狐。
人に害を成さぬ神聖な妖怪にして、神通力さえも操る偉大な存在である。
もはや、殆ど神だ。
「苦行になるわよ。貴女が天狐になった時とは、比べ物にならないほどにね。」
2000年生きた天狐が空狐になるのだと言う。
それは、単に2000年生きればいいというものではない。
2000年以上生きるために、修業が必要なのだ。妖獣として、高みに至る修行が。
それは永琳の言う通り、並大抵の覚悟でできるものではない。
しかし、
「かまいません。我が主のためならば」
もはや、迷いはしない。尻ごみも終わった。
頼ってくれたのだ。あの紫様が、頼ってくれたのだから。
だからあとは、突き進むのみだ。
「……そう。なら、私から言いう事はありません」
永琳が椅子から立ちあがる。話が終わった合図だった。
「全てはあなた次第。頑張りなさい、八雲の式よ。」
穏やかな笑みで、永琳はそう言った。
「お元気そうでなにより」
「心配掛けたわねぇ……」
安心した。今日は薬で寝かされていなかった。
帰る前に、紫の見舞いをすることにしたのだ。
橙を迎えに行くという用事もあった。
「御免なさいね。家の事、いろいろ大変だったでしょう?」
家事の事か? 食事の配膳の事か? ああ、大変だったとも。
「いえいえ、噂によると紫様はグータラで働いてくれない人ですから」
だから、笑い話ついでにちょっと皮肉ってみる。
「いなくてもさして変わらない?」
「食事1人分作る手間が省けましたね」
「あらあら、2人前も3人前もさして変わらないでしょうに。一匹一匹個別で、魚でも焼きました?」
誰がそんな回りくどい事するか……
「……雑炊でした」
「それじゃ手間も変わらないわ。おかしいわねぇ……」
見事に皮肉で返された。
昨日の夕食については、橙から聞いて知っていたのだろう。
「……」
「……」
「フフ……まいりました」
「くすくす、まだまだ100年は早いですわ。ダメよ? 女の子なのだから、料理くらいできないと」
それは、貴女が仕事を押し付ける所為で勉強の暇もないからです。
とは、口が裂けても言えない藍である。
「藍様藍様! 紫様に褒めて頂きましたよ!」
「大活躍だったそうじゃない。藍も見習いなさい」
「なら代わりにちゃんと仕事してください」
「さあ橙、今夜は御褒美に、藍を好きにしてもいいわ!」
「え、そんな……好きにするだなんて……」
「話を聞いてくださいって言うか何言ってるんですか余計なお世話ですよ貴女!」
「いい橙、藍の弱点は……」
「……(ゴクリ」
「何言ってんですか橙に何させる気ですかやめてくださいほら橙も聞いちゃダメだこらやめろお前ら!」
……本当に、思いのほか元気そうで何よりである。
「本当に、いろいろとごめんなさいね」
「いえ、本当に家事はほぼ橙がやってくれましたので」
確かにヒヤヒヤした事件だったが、こうして順調に回復してくれるならよしとする。
橙の意外な成長が見られたことも儲け物だ。
「そう、橙よ。あの橙がねぇ」
「そう、橙です。あの可愛い橙がですよ?」
傍らの橙の頭をなでる。大活躍だったからいつもより多めに撫でる。
洗濯物を片づける背中に、何度ルパンダイブをしようと思ったことか。
鼻歌を歌うその唇を、何度自らの唇で塞いで舌差し入れてやろうと思ったことか。
……発想が変態的だが、それだけ感動したのである。
「ダメよ? 感動したからって欲望に身を任せては」
図星だった。
「ゲフンゲフン……知らぬうちに、随分と成長したものです」
「早いものね。ちょっと前までか弱い未熟な女の子だったのに」
「フフ、今でも可愛い未熟な女の子ですよ? 先一昨日の晩などそれはそれは―――」
「いずれその立場も変わるわ。いましがた貴女の感じやすい所教えたから」
「グフッ! 何という事を……っ!?」
「……情事の事だけじゃなくね……見ていなさい」
少し、目線が下がった
「いまにね、ビックリするほど美人になるわ。それにきっと強くなる。
この子は飲み込みも早いものね」
「そうでしょうかね、いや~まだまd―――」
「そうよ。びっくりするわよ? あれよあれよという間に、一人前になっちゃって。
仕事任せてもしっかりやってくるし、背も随分伸びてきたし。
あんなにちっちゃかったのに、尻尾が九本に増えてるし」
「紫様、私の事ですか?」
「だ、だから、橙もそうなるわよ。すぐよ? ……すぐなんだから……」
「すぐですか……それは、うかうかしていられませんね」
そう。うかうかしていられない。
でないと、主はすぐ、
「うかうかしていられないの。あっという間に一人前になるのよ?
あっという間に大人になって、あっという間に―――」
「あっと言う間なら楽なんですがねぇ……」
あっという間に、泣き始めるのだから。笑顔が崩れてしまうのだから。
「あっという間とはいきません。2000年ですから」
「……え?」
「何せ2000年ですよ? しかも、その間超がつくほど厳しい修行の毎日ですよ?
実は昨日も触りだけやってみたんですけどね。あれが毎日とか、気が遠くなりますよ?」
「藍? えっと、何の話かしら?」
「一人でやるのはあまりに苦しいので、橙にも何かやらせましょうか。
橙と一緒に修行か……いいな……俄然やる気が出てきました」
「だから藍、何の話かと―――」
「そうですね、うかうかしていられません。
橙にも頑張ってもらわないと、あの子にも精進させねばなりませんね。
何せ2000年。途方もない時間ですからね」
「藍っ!」
「判りませんか?」
どうやら、本当に判らないらしい。
何と言う。自分から助けを求めておいて、考慮にもないと言う事か。
情けない。そして、ものすごく腹が立つ。
だから、
「あ、ちょ、藍!?」
少し強く抱きしめる。
丁度、紫の頭が藍の顔のすく隣に来る。ささやくにはいい位置だ。
「私たちは、貴女を置いて逝かない……と言う話です紫様。」
「―――っ!?」
「私はね紫様、空狐になろうと思うんですよ。
3000年生きた善狐がなれるあれです。殆ど神のアレ。
あれになれば、もっとずっと長生きができますからね。だから」
敬愛する主のため、尊敬すべき大妖怪のため、そして、僭越ながら大好きなお母さんのため。
腕の中の主が、いつでも笑顔でいられるようにする。から元気で無い笑顔に。
もう金輪際、主が心の病に倒れるような事がないようにする。
それに足る、強い妖狐になって見せる。だから、
「だから、もう大丈夫。貴女の不安は、私がみんながやっつけてあげますからね。」
「な……何を……馬鹿な……ことを……」
震え始めた紫の頭を、そっと、優しく撫でる。
そう、泣きたくなれば泣けばいい。苦しくなったら言えばいい。
こちらはすべて、受け入れる気でいるのだから。
これからは、主が天寿を全うするその日までずっと、拠り所であり続ける所存なのだから。
だから、主のこの涙が、今は少しだけ誇らしい。
涙を見せてもらえた事が、ただ純粋に嬉しかった。
帰り道。ずいぶん遅くなってしまった。
泣き始めた紫が、泣き疲れて寝てしまうまで、結局ずっと抱き合っていたのだ。
「橙もお疲れ様。よく我慢したね」
「いえ、我慢なんかしてないです」
橙はと言えば、そんな藍と紫を見て、何も言わずじっと控えていたのだ。
「何を言うか。病室から出てすぐ、トイレに走ったのはどこの誰かな?」
「あぅ……藍様いじわるです……」
「フフ……橙は可愛いな……私の宝物だ」
こんな橙が、いつか立派になるのだ。否、あっという間に大人に。
「紫様、泣いていらっしゃいました」
「意外だったかな?」
「い、いえ、そんなこと」
「無理はしなくていい」
「ええと、その」
言葉に詰まる橙。
まぁ、無理もない。紫は完全無欠の大妖怪だ。
家でも――外のイメージと差異はあれ――完全無欠の大妖怪なのだ。
だから、今回の件は、少し失望とかさせてしまっただろうか。
橙はまだ可愛い未熟物だから、それも仕方のない事。
「橙、紫様はな―――」
「藍様! いいこと思いつきました!」
「おおう!? ……なんだろう? どうした?」
諭そうかと思ったのだが、何やら目を輝かす橙。
何だろうか?
「えっとですね、紫様の退院祝いに、宴会を企画しましょう。」
「なんと?」
「宴会開くんです。紫様を主役にして、人を集めて、楽しく馬鹿騒ぎするんです」
「え、うん、それで、その心は?」
「楽しい事、いっぱいしましょう。サプライズを、いっぱい起こしましょう。
春には花見をして、夏には流しそうめんして、秋には紅葉狩りして、冬はカマクラ作って。
紫様が忙しくて目を回すくらい、楽しい事いっぱいしましょう。
宴会ももっとしたいです。萃香様にお話ししましょう。」
「うん、それで?」
「先の事なんて、判らないです。居なくなるとか、置いて逝くとか、私にはよく判りません。
でもそれがおツライなら、考えたくないなら、考える必要もなくすればいいんです。
今を楽しめばいい。今に集中して、今を精いっぱい楽しんだら……
先の事なんて、考えるだけ無駄だって思います。何があるかなんて、判らないんだもの」
そう、たとえば藍が空狐になるだなんて言い出すなど、昨日までの紫に想像できただろうか。
橙がこんな事考えているなんて、紫は知っているだろうか。
退院祝いの宴会が開催されたら、紫は驚いてどうなるだろうか。
……思いのほか、橙がこんなに成長している事に、先ほどまで気づいていただろうか。
「橙は可愛いな……私の宝物だ」
「……あの……藍様?」
「いや、フフ、すまない。
なるほど。いい発想だと思う。」
そう、人生常にサプライズ。
何が起こるかわからない。何を起こせるかわからない。
「本当ですか?」
過ぎる時間に怯える前に、楽しい事を探すべきだ。
悲観する必要はない。
楽しい事は、求める者のもとに向こうからやって来てくれるのだから。
「ああ。素晴らしいよ橙。さっそく帰ったら、準備を始めないと」
「あ、じゃあ博麗神社に寄っていきましょう」
「萃香様と、霊夢あたりに協力を依頼しないとな」
それを証明して見せよう。橙と二人でだ。
紫の将来像を、徹底的につくりかえてやるのだ。
サプライズにするなら、急いで準備しなければなるまい。
退院したその日に宴会が望ましい。しかし、あの様子じゃ退院も間近だろう。
さあ、忙しくなりそうだ。
紫が……ねぇ、もう、ねぇ。
でもここだけの話、今俺が考えてるSSも似たような点が結構あって、内心ヒヤヒヤしちゃたりもしました;ww
先立たれる悲しみは八雲の重なるが如し。
幻想郷の大妖怪はあまりに人間じみていて
人の心を捨て去れない、か弱い少女なのでした。
藍と橙のセリフが、現在と未来の両方を見つめていて格好良かったと思います。
紫がテーマなのに、その紫が背景に引いたこのような物語もいいですね。
所々の南無三がツボッたww
実は家事全般をこなしている紫とか、料理がダメな藍とか、しっかりもので良い子な橙。
そして愛され紫。あぁ…和む。
面白かったです。感謝!