私はどきどきしていた。普通に、ただ喋っているだけなのに顔が熱くなってくる。彼女が口を開くたびに嬉しい。言葉に相槌を打ってくれるだけで嬉しい。
すると彼女は顔に疑問の色を浮かべた。
「四季さま、顔赤いですよ?ひょっとして熱でもあるんじゃないですか」
あたいは適当に休んでますけど四季さまは真面目だから、と彼女は続けた。
どう返答したものかと思っていると、彼女がこちらに歩み寄ってきた。それだけで心臓が大きく跳ねる。
すっ、と彼女の手が伸ばされた。白い手が私の額に触れた。心臓が破裂しそうだ。きっと顔からは湯気が出ているだろう。
「ううん、熱はないみたいですね。働きすぎじゃないですか?四季さま」
そう言うと、彼女はいたずらっぽく笑った。
「そ、そんなことは……」
言葉を返さなくては、と口を開いたがそれ以上声は出なかった。たまらず俯いてしまう。
「四季さま?」
彼女の声が聞こえた。「本当に大丈夫ですか」心配そうな声色だ。
こんな風になっているのはあなたのせいです。好きです。大好きです。抱きしめてください。そんなことを言いたかった。
だけど私の口は素直な言葉を紡いではくれなかった。
「こ、こまちっ、ゆ、有罪ですっ!」
そんな言葉を紡いでしまった。やってしまった。泣きそうだ。
はえ?と彼女の口から可愛らしい疑問の声が漏れた。きょとんとしている。
「し、四季さま?あたい、有罪ですか」
目の奥が熱い。泣いてしまいそうだ。目に涙が溜まってきた。
毛布にくるまって、枕を抱きしめて彼女を想う夜を何度過ごしただろう。この気持ちを伝えて、彼女に愛されたいと何度願っただろう。そしてその度、同性を好きになっている自分に嫌気がさし、そんな自分を彼女が慰めてくれる光景を想像して自分を慰めた。
そんな不毛な日々を続けるのが辛くなり、この気持ちを伝えたいと何度思ったことだろう。
だが、彼女に拒絶されたらと思うとどうしても言えなかった。上司と部下という関係はまだいいとしても、同性なのだ。彼女に気持ち悪がられたらと思うだけで、怖くなる。
だから、伝えられない。
「……有罪、です……」
蚊の鳴くような声で言って、たまらず彼女に背を向けて走り出す。彼女の声が聞こえたが、立ち止まることは出来ない。したくない。振り向いたら泣いているのを見られてしまうからだ。彼女の上司として――小野塚小町の上司、四季映姫として、そんな姿を見られるわけにはいかなかった。
「四季さま!」
彼女の声にも振り向かず走り続けた。頭の中は自己嫌悪でいっぱいだ。急にわめいて逃げ出して、嫌われただろうか、とそんな不安と後悔がぐるぐると巡る。
気付いたとき、私は自宅に到着していた。いつのまにか、飛んでいたらしい。
すでに仕事は終わっていたから、帰っても問題はない。彼女と――小町と一緒にいたくて、仕事が終わってからも立ち話をしていたのだった。
虫の良すぎる話とは分かっていたが、小町が追いかけてきてくれていないか、と後ろを振り返った。
夜が、残酷に口を開けているだけだった。
「小町……」
か細い声は、すぐに闇に喰われて消えた。
あたいこと小野塚小町は仕事を精力的にこなすタイプではない。とりあえず最低限の線まで仕事をしたら、あとは適当に、サボりながら仕事を終える。
だが今日は、それに輪をかけて三途の渡し舟を漕ぐ手に力が入らない。もっとも、後ろに死人を乗せてもいないので進む必要すらない。あたいの距離を操る能力を用いて、川幅は無限に近いものになっている。
昨晩四季さまを泣かせてしまったことが、頭を支配していた。
「はあ……」
四季さまがぼろぼろ泣いていたわけではない。俯いていて涙声だったのだ。だがそれだけの条件が揃えば、いくらあたいでも泣かせてしまったと分かる。
その後すぐに四季さまは駆け出してしまった。追いかけようと思ったが、何をどう釈明していいものかも分からないうえ、泣かせた自分に慰めの言葉をかける権利があるとも思えず、結局足を動かすことは出来なかった。
と、理由を並べてみるものの、それは建前であることも理解していた。足を動かせなかったのはただ、泣かせたうえに追いかけて、四季さまに嫌われたら、とそう考えてしまったからだ。
四季さまのことを好きになってしまったのはいつからだろう、と考えた。
最初は、上司と部下という関係だった。もちろん今もそうだが、あたいはいつからか、自分より頭一つ分も背の低い少女に惹かれていた。
どこからどう見ても年端もいかない少女なのに閻魔をしていたり、病むをえず自殺した人を地獄に送った日の暮れに独りで泣いていたり、胸があまり大きくないことをからかうと顔を真っ赤にして怒ったり、からかった後で嘘です四季さまは素敵です可愛いですと言うと恥ずかしそうにこちらを睨みつけてきたりする、そんな彼女に惹かれていた。
彼女と喋るだけで幸せだった。ただ一緒にいるだけで心が安らいだ。大好きですと告白して抱きしめたかった。
そんな彼女を、泣かせてしまった。
「……しかも、どの言葉が失言だったのかさえ分からないと来たもんだ。四季さま……」
あるいは彼女に触れたいあまり、彼女の額に触ったりしたのが、気味悪がられたのだろうか。四季さま、ともう一度名を呼んだ。
「許してください……嫌いにならないで」
涙がこみ上げてくるのを感じ、頭をぶんぶんと振って涙をどこかへ押し込めようとした。だが、涙はせり上がってくる。
四季さまを泣かせて自分も泣いて、許して欲しいなどと言うのは虫が良すぎる。人を傷つければ、それ以上の痛みを感じなければならなくなるのが道理だ。
だから、この胸の痛みは、罰だ。
それは分かっている。分かっているのだ。罰は受けなければいけない。
それでも涙は止まらなかった。目を開けていられなくなり、身体から力も抜け、船の上に座り込んだ。両手で涙を拭う。
世界で一人ぼっちになった気分だ、と泣きながら思った。もちろんこの無限の川幅は死神である私の能力が生み出した幻想だから、他人からは見えない。つまり他人はこの世界にいないのだが、この孤独はもっと根本的な、心の拠り所を失って、冷たい刃に身を切られるような、そんな孤独だった。
「許して四季さま……ごめんなさい……」
泣き疲れて空を見ると、薄く赤みがかっていた。もう夕暮れだ。日課である、昼休みの昼寝も忘れていた。
死神の仕事は基本的に夜が来たら終わりとなる。閻魔の仕事は、それから若干遅れて終わりとなる。
仕事の時間が終わったら、すぐに閻魔たちのいる建物の入り口に行って、四季さまが出てくるのを待とう。謝るべきことも分からないが、謝って謝って、今まで通りに接してもらおう。
今まで通りでいい。多くは望まない。彼女に触れようなどと思わないから、だから許して欲しい。胸の中の四季さまに言う。
「四季さま……えいき……」
船の上で横になる。紅い空に目を細めた。目尻から一筋、涙が伝った。
そして、意識が途絶えた。
小町のことを気にしながら仕事をしていたため、昼休みになるまでに途方もなく長い時間がかかったように感じた。
私は逃げ出して、家に戻り、言いようのない寂しさに枕を抱きしめながら泣いて、いつの間にか眠った。睡眠は閻魔に必要ないが、それでもやはり泣くと疲れるのだなと思った。そして、兎にも角にも仕事に来た。そうすれば小町に会えるのだ。
昼休みにすることは、もう決めてある。
急いで、三途の川へ向かった。
「小町?そういや朝に見たきり見てませんねェ。よほど業の深い人を乗せたか、どっかでまた……閻魔様に言っちゃまずいかな、まあサボってんでしょう」
「……そう、ですか。顔色はどうでしたか、見てませんか」
「ああそうそう顔色悪かったよ。意気消沈としてるっていうかな、いつも奴はへらへらしてるから、驚いたよ」
三途の川の此岸側にいた、隆々たる体躯の男死神に小町を見なかったかと聞いたら、そんな風に返された。礼を言うと、男は口許に笑みを浮かべながら渡し船に向かって行ってしまった。
昼休みになったら、小町に会って、昨日のことを謝るつもりだった。小町がどんな反応をするにせよ、謝らなければならないと思った。
だが、昼休みに小町が寝ている、とある木の下に彼女はいなかった。タイミングが悪かったのか、と彼岸の船着場に行ったが、そこにも彼女はおらず此岸に来たら、朝から見ていない、と言われた。
これはどういうことなのだ。胸の奥がざわざわと鳴り始める。不安の黒い雲が心を覆っていく。
昼にはいつも小町はあの木の下にいる。そこに私は出かけていって、小町と喋って、昼休みを過ごす。このうえなく幸福な時間だ。
そこに、彼女がいない。
不安の黒雲が胸を覆いつくした。小町はどこにいるのだろう、まさかこのまま二度と会えないなんてことになったら、私はどうなってしまうだろう。拒絶されるのが怖くて逃げ出して、それで終わりなんて、とても耐えられない、そう感じる。
いてもたってもいられなくなり、小町を探した。必死に探した。彼女の同僚にも当たってみたが、大半は彼女を見かけてさえおらず、見かけていてもそれ以上は何もなかった。
川を飛び回ったが、すぐに無駄だと理解した。川の長さは乗る人間の罪の重さで変わる。つまりこの川、今私が見ている川は、実際に死神たちの渡る川ではないのだ。彼等はその能力で距離を操る。距離を操るということはつまり、少しだけ、川という狭い範囲において別の世界を創り、その世界の広さを川幅としてそこを通ることなのだ。だからもし小町が今、川を渡っているのだとしても私にはそれを見つけられない。
どうすればいいか分からず立ち尽くしているうちに休みは終わり、仕事をせねばならなくなった。私は死者たちを裁きながら、小町はただ、罪の深い人間を乗せただけなのだ、だから到着が遅れているだけなのだと自分に言い聞かせた。これほど仕事の時間を長く感じたことはなかった。
それでも時は流れ、仕事が終わった。急いで走る。小町はよく、私のことを一人で夜歩かせたら心配とか何とか言って、迎えに来てくれる。それはたまらなく嬉しいことだったが、今まで恥ずかしくてお礼を言ったり自分から明日も迎えに来てくださいなんて言ったことはなかった。
だがもし小町が今迎えに来てくれていたら、まず昨日のことを謝って、それで迎えに来てくれたことに心からお礼を言おうと私は決めた。死ぬほど恥ずかしいだろうが、小町には、恥ずかしいところや弱いところを見せたって構わない。
そうすれば、小町も私のことを愛してくれるだろうか。
「お願い、迎えに来ていてください、小町……」
小さく呟きながら、外に出た。
そこには、誰もいなかった。
「……なんであたいはこんなに馬鹿なんだ」
目を開いたとき、空は真っ黒だった。輝く月が暗黒の隙間に光っている。
あたいは寝てしまったのだ。
泣き疲れて、倒れこんで、そのまま寝てしまったのだ。よほど寝ていたらしく、月の位置を見るに真夜中も真夜中、丑の刻、そのぐらいの時間だ。
「四季さまのこと、迎えに、行くつもりだったのに」
また涙が出てきた。また泣き疲れて寝てしまって、そのまま永遠に起きれなくなればいい、と自虐した。四季さまを傷つけて、謝ろうと薄っぺらな決意をして、間抜けに寝てしまった自分を本気で殺したかった。そして哀しかった。四季さまの笑顔のためなら何でも出来るつもりだったのが、そうではなかったと自ら証明してしまったことが哀しかった。このうえなく哀しかった。
「しき、さま、ごめんなさい、しきさま……っ」
泣きながら謝っても、その声を聞くのは闇だけだ。誰の返答があるわけもない。
それでも、そうせずにはいられなかった。無意味でも、そうせずには、本当に哀しさと罪悪感で押し潰されそうだった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、月を見上げてもう一度名前を呼んだ。愛しき人の、片想いする人の名前だ。今いる世界は、自分で作り出した無限の道、牢獄だ。だが私が操れるのは距離だけ、川幅だけだ。月、空、星、そういったあまりに大きな、偉大なものは世界に複製できないのだ。
だから、月に願えば、語りかければ、もしかしたら四季さまに伝わるかもしれないと思った。本物の世界に、四季さまのいる世界に、月を通して届くかもしれない。
「えいきさま……」
「小町!」
ありえないことだが、四季さまの声が聞こえた。とうとう幻聴まで聞いてしまった。この独りの世界、独りの夜に、他人の声はありえない。
だが久しぶりの、四季さまの声だ。綺麗な声。鈴を転がすような声。
その鈴のような音色に引き込まれ、身をゆだねるように、あたいは世界を分解していく。世界が引き絞られ歪み崩れ再構成される。無限が縮まり有限になり、幻想は現実になっていく。引き戻されていく。月だけが揺るがない。
完全に、世界が戻った。
「小町っ!どこ、こまち!私はここです!返事してっ!」
涙声の、鈴の音が聞こえた。違う、聞いたことが、以前一度だけある。
泣いている、四季さまの声だ。
何時間経ったか分からないが私は小町の名をまだ呼んでいた。叫んでいた。暗い川の上で泣きながら絶叫していた。他人から見れば奇行も甚だしいだろう。
だがそれでも絶対に止めるつもりはなかった。小町がひょっこり現れるまでは続けるつもりだ。ここに、川面のどこかにいるはずだ。
もう、独りの夜はいやだ。冷たい夜はいやだ。小町に一度も会わないで眠るなんて、そんなことをしたら、孤独の刃に引き裂かれてしまう。
「小町、小町――っ!返事してっ!」
いつのまにか私は泣いていた。涙の理由に心当たりがありすぎて、どんな理由で溢れる涙なのか分からない。
「こまち、こまち、返事してください!」
涙声で叫ぶ。月に届けとばかりに叫んだ。
「小町っ!どこ、こまち!私はここですっ!返事してっ!」
ふと、川面を見やった。理由はない。何かを感じたかどうかはよく分からない。
「ただいま帰りました、四季さま」
「小町……!」
そこには彼女がいた。
泣き顔の小野塚小町がいた。
「本当に、本当に心配したんですよっ!ばか小町!ばか!」
「ご、ごめんなさい四季さま……」
二人乗りの渡し船の上で、映姫は小町に抱きついて泣いていた。泣きながら小町をばかばかと非難したり見つかってよかったと泣きながら喜んだりと忙しい。
小町は幸せそうな表情を浮かべながら、映姫の頭を撫でた。映姫がいつも被っている帽子は今はない。あの帽子は閻魔としての仕事をするときのものだ。つまり今の映姫は、閻魔「四季映姫・ヤマザナドゥ」ではなくただの「四季映姫」だ。
「ごめんなさい、四季さま」
心から小町は謝った。全てをひっくるめて謝った。その度に涙が出そうだったが、何とかこらえていた。
「謝らなくて……いいです」
小町の胸に埋もれ、目を腫らした映姫が言う。小町はその言葉をどう受け止めればいいか分からないでいた。頭を撫でているほうが困惑していて、抱きついているほうが主導権を握っている。
「だから、小町」
「はい……」
「いなくならないで……ください」
え、と小町は間抜けな声を上げた。「それは、どういう」
「そのままの意味です。ずっと一緒にいてください。小町がいないと寂しい、寂しいから、だから、一緒にいて、小町、ずっと一緒に、いて……」
言い切る前に、顔を真っ赤にした映姫はまた小町の胸に顔を埋めた。小町も、映姫に負けず劣らず顔を真っ赤にしていた。
「……小町、心臓、どきどきしてます、ね」
「そ、りゃあ、こんなこと言われ、たら」
「私も、どきどき、してます……ずっと、小町といるだけで」
「し、しき、さま」
二人とも、これまでにないほどどきどきしていた。映姫は小町に対して、小町は映姫に対してだ。これまで遠く離れていた、決して触れられなかったそれぞれの身体に、そして心に、お互いが触れている。
「こまち……」胸に埋もれたままで、真っ赤な顔の映姫が言った。枕ではない本物の小町を抱きしめて、小町の体温を感じながら。
「しき、さま」小町は船の縁に寄りかかって、胸に埋もれている映姫を抱きしめて言った。映姫の体温を感じながら。
映姫は顔を上げ、小町の顔を見つめる。小町も、映姫を見つめた。
「大好きです、こまち……」
「……大好きです、え、えいき……さま」
「……ありがと、こまち……」
二人とも、真っ赤な顔で、最高の笑顔で笑った。二人とも、暖かい涙に濡れていた。
小町の両手が、映姫の頬に触れた。
「あ、こまち……ん……」
二つの独りの夜は、同じ月の下で、ひとつの夜になった。
すると彼女は顔に疑問の色を浮かべた。
「四季さま、顔赤いですよ?ひょっとして熱でもあるんじゃないですか」
あたいは適当に休んでますけど四季さまは真面目だから、と彼女は続けた。
どう返答したものかと思っていると、彼女がこちらに歩み寄ってきた。それだけで心臓が大きく跳ねる。
すっ、と彼女の手が伸ばされた。白い手が私の額に触れた。心臓が破裂しそうだ。きっと顔からは湯気が出ているだろう。
「ううん、熱はないみたいですね。働きすぎじゃないですか?四季さま」
そう言うと、彼女はいたずらっぽく笑った。
「そ、そんなことは……」
言葉を返さなくては、と口を開いたがそれ以上声は出なかった。たまらず俯いてしまう。
「四季さま?」
彼女の声が聞こえた。「本当に大丈夫ですか」心配そうな声色だ。
こんな風になっているのはあなたのせいです。好きです。大好きです。抱きしめてください。そんなことを言いたかった。
だけど私の口は素直な言葉を紡いではくれなかった。
「こ、こまちっ、ゆ、有罪ですっ!」
そんな言葉を紡いでしまった。やってしまった。泣きそうだ。
はえ?と彼女の口から可愛らしい疑問の声が漏れた。きょとんとしている。
「し、四季さま?あたい、有罪ですか」
目の奥が熱い。泣いてしまいそうだ。目に涙が溜まってきた。
毛布にくるまって、枕を抱きしめて彼女を想う夜を何度過ごしただろう。この気持ちを伝えて、彼女に愛されたいと何度願っただろう。そしてその度、同性を好きになっている自分に嫌気がさし、そんな自分を彼女が慰めてくれる光景を想像して自分を慰めた。
そんな不毛な日々を続けるのが辛くなり、この気持ちを伝えたいと何度思ったことだろう。
だが、彼女に拒絶されたらと思うとどうしても言えなかった。上司と部下という関係はまだいいとしても、同性なのだ。彼女に気持ち悪がられたらと思うだけで、怖くなる。
だから、伝えられない。
「……有罪、です……」
蚊の鳴くような声で言って、たまらず彼女に背を向けて走り出す。彼女の声が聞こえたが、立ち止まることは出来ない。したくない。振り向いたら泣いているのを見られてしまうからだ。彼女の上司として――小野塚小町の上司、四季映姫として、そんな姿を見られるわけにはいかなかった。
「四季さま!」
彼女の声にも振り向かず走り続けた。頭の中は自己嫌悪でいっぱいだ。急にわめいて逃げ出して、嫌われただろうか、とそんな不安と後悔がぐるぐると巡る。
気付いたとき、私は自宅に到着していた。いつのまにか、飛んでいたらしい。
すでに仕事は終わっていたから、帰っても問題はない。彼女と――小町と一緒にいたくて、仕事が終わってからも立ち話をしていたのだった。
虫の良すぎる話とは分かっていたが、小町が追いかけてきてくれていないか、と後ろを振り返った。
夜が、残酷に口を開けているだけだった。
「小町……」
か細い声は、すぐに闇に喰われて消えた。
あたいこと小野塚小町は仕事を精力的にこなすタイプではない。とりあえず最低限の線まで仕事をしたら、あとは適当に、サボりながら仕事を終える。
だが今日は、それに輪をかけて三途の渡し舟を漕ぐ手に力が入らない。もっとも、後ろに死人を乗せてもいないので進む必要すらない。あたいの距離を操る能力を用いて、川幅は無限に近いものになっている。
昨晩四季さまを泣かせてしまったことが、頭を支配していた。
「はあ……」
四季さまがぼろぼろ泣いていたわけではない。俯いていて涙声だったのだ。だがそれだけの条件が揃えば、いくらあたいでも泣かせてしまったと分かる。
その後すぐに四季さまは駆け出してしまった。追いかけようと思ったが、何をどう釈明していいものかも分からないうえ、泣かせた自分に慰めの言葉をかける権利があるとも思えず、結局足を動かすことは出来なかった。
と、理由を並べてみるものの、それは建前であることも理解していた。足を動かせなかったのはただ、泣かせたうえに追いかけて、四季さまに嫌われたら、とそう考えてしまったからだ。
四季さまのことを好きになってしまったのはいつからだろう、と考えた。
最初は、上司と部下という関係だった。もちろん今もそうだが、あたいはいつからか、自分より頭一つ分も背の低い少女に惹かれていた。
どこからどう見ても年端もいかない少女なのに閻魔をしていたり、病むをえず自殺した人を地獄に送った日の暮れに独りで泣いていたり、胸があまり大きくないことをからかうと顔を真っ赤にして怒ったり、からかった後で嘘です四季さまは素敵です可愛いですと言うと恥ずかしそうにこちらを睨みつけてきたりする、そんな彼女に惹かれていた。
彼女と喋るだけで幸せだった。ただ一緒にいるだけで心が安らいだ。大好きですと告白して抱きしめたかった。
そんな彼女を、泣かせてしまった。
「……しかも、どの言葉が失言だったのかさえ分からないと来たもんだ。四季さま……」
あるいは彼女に触れたいあまり、彼女の額に触ったりしたのが、気味悪がられたのだろうか。四季さま、ともう一度名を呼んだ。
「許してください……嫌いにならないで」
涙がこみ上げてくるのを感じ、頭をぶんぶんと振って涙をどこかへ押し込めようとした。だが、涙はせり上がってくる。
四季さまを泣かせて自分も泣いて、許して欲しいなどと言うのは虫が良すぎる。人を傷つければ、それ以上の痛みを感じなければならなくなるのが道理だ。
だから、この胸の痛みは、罰だ。
それは分かっている。分かっているのだ。罰は受けなければいけない。
それでも涙は止まらなかった。目を開けていられなくなり、身体から力も抜け、船の上に座り込んだ。両手で涙を拭う。
世界で一人ぼっちになった気分だ、と泣きながら思った。もちろんこの無限の川幅は死神である私の能力が生み出した幻想だから、他人からは見えない。つまり他人はこの世界にいないのだが、この孤独はもっと根本的な、心の拠り所を失って、冷たい刃に身を切られるような、そんな孤独だった。
「許して四季さま……ごめんなさい……」
泣き疲れて空を見ると、薄く赤みがかっていた。もう夕暮れだ。日課である、昼休みの昼寝も忘れていた。
死神の仕事は基本的に夜が来たら終わりとなる。閻魔の仕事は、それから若干遅れて終わりとなる。
仕事の時間が終わったら、すぐに閻魔たちのいる建物の入り口に行って、四季さまが出てくるのを待とう。謝るべきことも分からないが、謝って謝って、今まで通りに接してもらおう。
今まで通りでいい。多くは望まない。彼女に触れようなどと思わないから、だから許して欲しい。胸の中の四季さまに言う。
「四季さま……えいき……」
船の上で横になる。紅い空に目を細めた。目尻から一筋、涙が伝った。
そして、意識が途絶えた。
小町のことを気にしながら仕事をしていたため、昼休みになるまでに途方もなく長い時間がかかったように感じた。
私は逃げ出して、家に戻り、言いようのない寂しさに枕を抱きしめながら泣いて、いつの間にか眠った。睡眠は閻魔に必要ないが、それでもやはり泣くと疲れるのだなと思った。そして、兎にも角にも仕事に来た。そうすれば小町に会えるのだ。
昼休みにすることは、もう決めてある。
急いで、三途の川へ向かった。
「小町?そういや朝に見たきり見てませんねェ。よほど業の深い人を乗せたか、どっかでまた……閻魔様に言っちゃまずいかな、まあサボってんでしょう」
「……そう、ですか。顔色はどうでしたか、見てませんか」
「ああそうそう顔色悪かったよ。意気消沈としてるっていうかな、いつも奴はへらへらしてるから、驚いたよ」
三途の川の此岸側にいた、隆々たる体躯の男死神に小町を見なかったかと聞いたら、そんな風に返された。礼を言うと、男は口許に笑みを浮かべながら渡し船に向かって行ってしまった。
昼休みになったら、小町に会って、昨日のことを謝るつもりだった。小町がどんな反応をするにせよ、謝らなければならないと思った。
だが、昼休みに小町が寝ている、とある木の下に彼女はいなかった。タイミングが悪かったのか、と彼岸の船着場に行ったが、そこにも彼女はおらず此岸に来たら、朝から見ていない、と言われた。
これはどういうことなのだ。胸の奥がざわざわと鳴り始める。不安の黒い雲が心を覆っていく。
昼にはいつも小町はあの木の下にいる。そこに私は出かけていって、小町と喋って、昼休みを過ごす。このうえなく幸福な時間だ。
そこに、彼女がいない。
不安の黒雲が胸を覆いつくした。小町はどこにいるのだろう、まさかこのまま二度と会えないなんてことになったら、私はどうなってしまうだろう。拒絶されるのが怖くて逃げ出して、それで終わりなんて、とても耐えられない、そう感じる。
いてもたってもいられなくなり、小町を探した。必死に探した。彼女の同僚にも当たってみたが、大半は彼女を見かけてさえおらず、見かけていてもそれ以上は何もなかった。
川を飛び回ったが、すぐに無駄だと理解した。川の長さは乗る人間の罪の重さで変わる。つまりこの川、今私が見ている川は、実際に死神たちの渡る川ではないのだ。彼等はその能力で距離を操る。距離を操るということはつまり、少しだけ、川という狭い範囲において別の世界を創り、その世界の広さを川幅としてそこを通ることなのだ。だからもし小町が今、川を渡っているのだとしても私にはそれを見つけられない。
どうすればいいか分からず立ち尽くしているうちに休みは終わり、仕事をせねばならなくなった。私は死者たちを裁きながら、小町はただ、罪の深い人間を乗せただけなのだ、だから到着が遅れているだけなのだと自分に言い聞かせた。これほど仕事の時間を長く感じたことはなかった。
それでも時は流れ、仕事が終わった。急いで走る。小町はよく、私のことを一人で夜歩かせたら心配とか何とか言って、迎えに来てくれる。それはたまらなく嬉しいことだったが、今まで恥ずかしくてお礼を言ったり自分から明日も迎えに来てくださいなんて言ったことはなかった。
だがもし小町が今迎えに来てくれていたら、まず昨日のことを謝って、それで迎えに来てくれたことに心からお礼を言おうと私は決めた。死ぬほど恥ずかしいだろうが、小町には、恥ずかしいところや弱いところを見せたって構わない。
そうすれば、小町も私のことを愛してくれるだろうか。
「お願い、迎えに来ていてください、小町……」
小さく呟きながら、外に出た。
そこには、誰もいなかった。
「……なんであたいはこんなに馬鹿なんだ」
目を開いたとき、空は真っ黒だった。輝く月が暗黒の隙間に光っている。
あたいは寝てしまったのだ。
泣き疲れて、倒れこんで、そのまま寝てしまったのだ。よほど寝ていたらしく、月の位置を見るに真夜中も真夜中、丑の刻、そのぐらいの時間だ。
「四季さまのこと、迎えに、行くつもりだったのに」
また涙が出てきた。また泣き疲れて寝てしまって、そのまま永遠に起きれなくなればいい、と自虐した。四季さまを傷つけて、謝ろうと薄っぺらな決意をして、間抜けに寝てしまった自分を本気で殺したかった。そして哀しかった。四季さまの笑顔のためなら何でも出来るつもりだったのが、そうではなかったと自ら証明してしまったことが哀しかった。このうえなく哀しかった。
「しき、さま、ごめんなさい、しきさま……っ」
泣きながら謝っても、その声を聞くのは闇だけだ。誰の返答があるわけもない。
それでも、そうせずにはいられなかった。無意味でも、そうせずには、本当に哀しさと罪悪感で押し潰されそうだった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、月を見上げてもう一度名前を呼んだ。愛しき人の、片想いする人の名前だ。今いる世界は、自分で作り出した無限の道、牢獄だ。だが私が操れるのは距離だけ、川幅だけだ。月、空、星、そういったあまりに大きな、偉大なものは世界に複製できないのだ。
だから、月に願えば、語りかければ、もしかしたら四季さまに伝わるかもしれないと思った。本物の世界に、四季さまのいる世界に、月を通して届くかもしれない。
「えいきさま……」
「小町!」
ありえないことだが、四季さまの声が聞こえた。とうとう幻聴まで聞いてしまった。この独りの世界、独りの夜に、他人の声はありえない。
だが久しぶりの、四季さまの声だ。綺麗な声。鈴を転がすような声。
その鈴のような音色に引き込まれ、身をゆだねるように、あたいは世界を分解していく。世界が引き絞られ歪み崩れ再構成される。無限が縮まり有限になり、幻想は現実になっていく。引き戻されていく。月だけが揺るがない。
完全に、世界が戻った。
「小町っ!どこ、こまち!私はここです!返事してっ!」
涙声の、鈴の音が聞こえた。違う、聞いたことが、以前一度だけある。
泣いている、四季さまの声だ。
何時間経ったか分からないが私は小町の名をまだ呼んでいた。叫んでいた。暗い川の上で泣きながら絶叫していた。他人から見れば奇行も甚だしいだろう。
だがそれでも絶対に止めるつもりはなかった。小町がひょっこり現れるまでは続けるつもりだ。ここに、川面のどこかにいるはずだ。
もう、独りの夜はいやだ。冷たい夜はいやだ。小町に一度も会わないで眠るなんて、そんなことをしたら、孤独の刃に引き裂かれてしまう。
「小町、小町――っ!返事してっ!」
いつのまにか私は泣いていた。涙の理由に心当たりがありすぎて、どんな理由で溢れる涙なのか分からない。
「こまち、こまち、返事してください!」
涙声で叫ぶ。月に届けとばかりに叫んだ。
「小町っ!どこ、こまち!私はここですっ!返事してっ!」
ふと、川面を見やった。理由はない。何かを感じたかどうかはよく分からない。
「ただいま帰りました、四季さま」
「小町……!」
そこには彼女がいた。
泣き顔の小野塚小町がいた。
「本当に、本当に心配したんですよっ!ばか小町!ばか!」
「ご、ごめんなさい四季さま……」
二人乗りの渡し船の上で、映姫は小町に抱きついて泣いていた。泣きながら小町をばかばかと非難したり見つかってよかったと泣きながら喜んだりと忙しい。
小町は幸せそうな表情を浮かべながら、映姫の頭を撫でた。映姫がいつも被っている帽子は今はない。あの帽子は閻魔としての仕事をするときのものだ。つまり今の映姫は、閻魔「四季映姫・ヤマザナドゥ」ではなくただの「四季映姫」だ。
「ごめんなさい、四季さま」
心から小町は謝った。全てをひっくるめて謝った。その度に涙が出そうだったが、何とかこらえていた。
「謝らなくて……いいです」
小町の胸に埋もれ、目を腫らした映姫が言う。小町はその言葉をどう受け止めればいいか分からないでいた。頭を撫でているほうが困惑していて、抱きついているほうが主導権を握っている。
「だから、小町」
「はい……」
「いなくならないで……ください」
え、と小町は間抜けな声を上げた。「それは、どういう」
「そのままの意味です。ずっと一緒にいてください。小町がいないと寂しい、寂しいから、だから、一緒にいて、小町、ずっと一緒に、いて……」
言い切る前に、顔を真っ赤にした映姫はまた小町の胸に顔を埋めた。小町も、映姫に負けず劣らず顔を真っ赤にしていた。
「……小町、心臓、どきどきしてます、ね」
「そ、りゃあ、こんなこと言われ、たら」
「私も、どきどき、してます……ずっと、小町といるだけで」
「し、しき、さま」
二人とも、これまでにないほどどきどきしていた。映姫は小町に対して、小町は映姫に対してだ。これまで遠く離れていた、決して触れられなかったそれぞれの身体に、そして心に、お互いが触れている。
「こまち……」胸に埋もれたままで、真っ赤な顔の映姫が言った。枕ではない本物の小町を抱きしめて、小町の体温を感じながら。
「しき、さま」小町は船の縁に寄りかかって、胸に埋もれている映姫を抱きしめて言った。映姫の体温を感じながら。
映姫は顔を上げ、小町の顔を見つめる。小町も、映姫を見つめた。
「大好きです、こまち……」
「……大好きです、え、えいき……さま」
「……ありがと、こまち……」
二人とも、真っ赤な顔で、最高の笑顔で笑った。二人とも、暖かい涙に濡れていた。
小町の両手が、映姫の頬に触れた。
「あ、こまち……ん……」
二つの独りの夜は、同じ月の下で、ひとつの夜になった。
でももうちょっと山あり谷あり欲しかったかなで90で
見てるこっちが恥ずかしくなる、しかしこの感情は決して悪いものではない!
あぁ、ゾクゾクする。