『私が大きなお屋敷に招かれたのは、綺麗な満月の夜でした』
◇ ◇ ◇
まるい、まあるいお月様がゆらりゆらり。ゆらゆらと滲んでいる。
「藤原様……お願いです。どうか」
「わかってるわよ」
私は彼女たちの名前を知らない。知る必要なんてなかったから。それを知ってか知らずか、彼女たちもまた、私の名前を呼んではくれなかった。襖を開けて静かに中に入る。和で統一された室内。障子は彼女の意向で開け放たれ、月の光が満ち満ちている。身体に障るだろうに、それでもまだ、彼女は月への想いを捨てきれずに居たのだ。
自慢だったはずの長く艶やかな髪は、すっかり色が落ちてしまい、私と同じ、白色に染まっている。柔らかな銀色の月明かりに、黒よりも鮮やかに輝いていた。
「や。久しぶりね、妹紅」
「久しぶり。……よりによって、私を呼ぶなんてね」
「貴女だから、呼んだのよ。妹紅」
おそらく幻想郷でただ一人、未だに私のことを名前で呼んでくれている相手、蓬莱山輝夜。しわがれた声で、あの頃の面影を確かに残して……。あの頃と変わらない態度で私に言った。
「驚いた? 風の噂には聞いていたでしょう。蓬莱山輝夜は蓬莱人をやめた。蓬莱人をやめて……人間として幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」
枯れ木のように細い体を震わせて、クツクツと笑う。
「悪くないわよ、この気分は。……悪くないわ」
輝夜は嬉しそうに言う。歳を取るっていう当たり前のことを、私たち蓬莱人は捨ててしまったのだ。蓬莱山輝夜は永い、永い年月の末に、ようやくそれを取り戻せた。満月を掴むように、細い腕をゆっくりと伸ばす。
「人間として生き、蓬莱山輝夜として死ねる。こんな素晴らしいことってないわ。ねぇ、妹紅。貴女は、あの頃とはもう違うのかしら。人を笑って見送れるようになったのかしら?」
「……バカ、当たり前だろ」
「もう私には、貴女の顔が良く見えないけれど、泣いてない?」
「そんなこと……そんなこと、あるもんか」
精一杯の虚勢を張る。自分でも声が震えているって分かる。これ以上言葉を紡ぐと、涙が溢れてしまいそうだったから。ごまかすように輝夜の身体を抱きしめた。
「うん」
貧相な身体は、驚くほど冷たかった。
◇ ◇ ◇
「蓬莱人の魂って、何処へ行くのかしら……」
「お前はもう人間なんだから、人間と同じように彼岸へ行けるんじゃないか」
「そうかな。普通の人間と同じように転生できるとは思わないけれど。……でもね。なんとなくだけど、遠い未来で、また会えそうな気がするわ」
きっと四季映姫なら、公正な審判を下してくれるはずだ。輝夜の言うように、遠い未来に廻り巡って転生しないとも限らない。妖怪さえも姿を消した、遠い、遠い未来に――。
「そしたらさ、また会って頂戴ね、妹紅」
「……ああ」
「人として死ねるのは幸せなことよ。心を残して死ねるのは素敵なことよ。妹紅、私は……蓬莱山輝夜は確かに生きていたのよね、幻想郷に。ねぇ、妹紅。もっと笑顔を良く見せてよ、ちょっと暗くて、見えないわ。あれ……。ああ……そっか。残念だわ。もう少しだけ、時間があったと思ったのに、なぁ」
ひゅう、と大きく輝夜の喉がなる。
「バカ……。お前、少しは自分の心配くらい、しろよ」
「あら、私に心配なんて無いわよ。心残りは、貴女と永琳のこと。淋しくないかしら、悲しくないかしら」
「私はっ!」
輝夜は私の返事を待たずに、
「そう……良かった」
と言うと、大きな深い吐息を満月に昇らせた。
「私は、ほら! 私は笑ったぞ! だからさ、ハハハ。お前も、お前も笑えよ。笑ってくれよう!」
それは昔々のお話。小さな子供が目をキラキラ輝かせて聞くような御伽噺。
月のお姫さまは地上へと舞い戻り、幸せに暮らしましたとさ。
「輝夜姫」
蓬莱山輝夜は、幸せに暮らしましたとさ。
◇ ◇ ◇
「藤原様、何処へ?」
去ろうとするのに気がついたのか、彼女たち……輝夜の娘たちの一人が私に声をかけた。
「人間ではないものが数を減らしていく幻想郷。私にもまだ、できることがあるかもしれません」
私は振り返ることなく、哀しみに暮れるお屋敷を後にした。
零れ落ちてゆく幻想たちを幻想郷へ繋ぎ止める、なんていうと何処かの誰かみたいだけど。
私にできること、歴史を刻むこと。生きた証を私の魂に刻むこと。物語の幕引きを、見届けてあげること。
ありがとう。
貴女が居たから、私はここまで来れた。
貴女が居たから、私は生きて来れたんだ。
貴女の居ない世界はちょっぴり張り合いが無くて寂しいけれど。私は行くよ。
貴女の愛した幻想郷を。私たちの愛した幻想郷を、見届けるために。
-終-
何があって輝夜が蓬莱人をやめたのか、どうやってやめることができたのか。
妄想が止まりません。良いお話でした。
過去編がほしくなりますね
輝夜に何がそう思わせたのか、彼女が月明かりに何を想ったのか、
永久を操ることを捨てて、美しき月の姫はーー
本気でウルっときました。