1
採点の手を休め、カレンダーに目をやる。終わった日は斜線を引いてあるから、今日は十二月二四日ということになる。
はあ、と大きなため息が出た。クリスマスまであと一日という事実が、ただでさえ憂鬱な私、岡崎夢美の気分をさらに重くさせる。最近ちゆりとなんとなく距離が離れているのはクリスマスのせいだ。いや、正確には私のせいだ。だから、早くクリスマスを越えて欲しいと願っても、それは逃避行動でしかない。
私だって何も手を打たなかったわけではない。ちゆりにはちゃんと謝ったし、それ以降は普通に接してきた。
それでも、ちゆりは変わってしまったのだ。活発だったちゆりは少しずつ沈んでいってしまったのだ。あのクリスマスを境に。
もう一度ため息を吐き、力を抜いて背もたれに身を委ねる。分かってはいる。私のやったことは最低だ。この時期になってちゆりが私を煙たがるのも無理は無い。
私はどうすればいい。今年、私はこの問いを、数え切れないほど自分に投げかけてきた。そして、何度悩んでも結果が出ない悩みだったとしても、私は目を瞑って、あのクリスマスを思い出してしまうのだ――
2
今年と同じように仕事の山に忙殺されていた、去年の十二月。前に勤めていた大学を追い出され、今の大に来て間もない日、まだダンボールが山積みになっている部屋のドアが、突然乱暴に開かれた。一体何事だ。ドアが開け放たれたところにはちゆりが突っ立っている。ちゆりは私が渋い顔をしているのも気にせず、つかつかと私の机に近づいてきて、
「クリスマスパーティーしようぜ!」
と言い放った。
とりあえずちゆりのこめかみをはたく。ちゆりの頭が横方向に吹っ飛び、壁にぶつかる寸前で止まった。
「いきなり何するんだよ!」
「いきなり乱暴にドアを開けるんじゃないの。他の教授に睨まれるわよ」
ちゆりは殴られたところを痛そうに抑えているが、私の知ったことではない。とりあえず最優先で取り付けた給湯器から熱湯をカップに注ぎ、ストロベリーティーを作る。ああ、いい香り。
しばらく余韻に浸って・・・ああそうだ、用件。
「で、クリスマスパーティーがどうしたって?」
「だーかーらー、クリスマスパーティーしようぜー、ご主人様の家で」
「なんで私の家なのよ」
「私の家は引越ししたばっかでぐちゃぐちゃなんだよ」
やれやれ、と心の中でため息を吐く。ちゆりが何かを言い出す時はたいていろくな事がない。関わらない方がいい。
しかしちょっと待て、と心の中で反駁する。別に変な実験や新たな発明をする訳じゃないし、今回は大丈夫かもしれない。ちゆりと二人っきりでクリスマスパーティーか。一体どんな事になるのだろう。
*
「夢美」
ちゆりの顔が、吐息が絡まる距離まで近付いている。私の背はベッドに付いていて、ちゆりに押し倒されている状態だ。右手をちゆりの手と絡めているが、ちゆりに見惚れている私には力を入れる事はとうてい無理だった。
ちゆりは返事をしない私に業を煮やし、もう一度聞いてくる。
「夢美、なあ、いいだろ?」
今度は耳元で囁かれた。甘い吐息が耳にかかり、全身が快感に震える。
一瞬、全てを許してしまいそうになるが、そう簡単に任せるわけにはいかない。相手は私の助手なのだ。上司を押し倒す部下がいてはいけない。自分にそう言い聞かせ、反論する。
「だ、駄目よ、女同士で、そんなこと……」
心の中ではたくさんの言葉を連ねていても、この言葉が、私には限界だった。ちゆりはそんな私を見て妖しい笑みを浮かべる。その程度か、といったような笑みを。
「正直になった方がいいぜ……本当はヤりたくてしょうがないんだろ?」
ちゆりの指が腹部をなぞり、私の体がビクンと跳ねる。
もう、任せてしまっていいかな――
半分は諦め、もう半分は期待して、ちゆりの首に腕を回す。ちゆりがまたにやりと笑う。ああ、そんな笑顔も素敵に見えてしまうなんて。
ちゆりはすぐ真顔に戻り、両手を顔に添えてくる。もう後戻りはできないようだ。私はそこで目を瞑る。
「夢美――」
ちゆりの声がすぐそこまで迫り、そして――
*
「おーい、ご主人様」
はっと我に返った。今のは夢か。はたまた妄想か。どちらにしてもなんてことを考えているんだ私は。破廉恥すぎるだろう。
自分のかあーっと頬が熱くなっていくき、ちゆりは不思議そうな目でこちらを覗き込んでくる。ああもう、そんなに見つめないで。
「どうしたんだご主人様、そんなに顔を紅くして」
「な、なんでもないわ!」
しまった、声が裏返ってしまった。よけい怪しいじゃないか。
ちゆりは一瞬疑うような視線をこちらに向けたが、すぐ元の顔に戻る。
「なーなー、やろうぜークリスマスパーティー」
どうやらちゆりは気にしていないようだった。よかったよかった。
にしても、そんなに顔を近づけて頼み込まれると、断りようがない。
「ええ、そうね。やりましょう」
ちゆりはやったぜ! と飛び跳ねているが、私はさきほど見た夢の事しか頭になかった。あの幻が現実になることを、少しだけ期待していたのだ。
3
光陰矢のごとし。その年のクリスマス当日はすぐにやってきた。私は遅くまで仕事に追われていたが、ちゆりは「先に行って飾り付けしてるぜ」と書置き帰ってしまった。どちらかというと私はちゆりと一緒にいる時間の方が大事なのに。おかげであまり仕事に精が入らなかった。
仕事が終わり、ストロベリーティーで一息つく。時計は九時を回っている。大きく伸びをしてからちゆりにメールを送り、徒歩十五分のマンションまで歩いていく。
去年も、今年と同じようなイルミネーションが街を覆っていた。いつも隣で歩いている相棒は今日はいない。その事に、大きな溜息が出る。白い息が少し上昇して消えた。
――今日くらい、一緒にいる時間が多くてもいいじゃない
ちゆりの姿が脳裏に浮かぶ。機械をいじっているちゆり。講義しているちゆり。話しているちゆり。そして、私を押し倒している時の――
頬が紅くなり、首を横に振る。あれは夢だ。そう、夢なのだ。何を期待しているんだ・・・。
足が自然と速くなる。早くちゆりに会おう。そうすれば、この胸のもやもやした期待も払拭できるはずだ。
自室の前に着き、チャイムを鳴らす。鍵はちゆりに預けてある。奥からはーい、という声が聞こえた。数秒後、がちゃり、とドアが開く。ドアの隙間から見えるのはもちろんちゆりだ。
「お疲れさん。遅かったな」
「あなたが早すぎるのよ。教授が残業してるのに助教授が残らないなんて前代未聞だわ」
「十九歳の教授と十六歳の助教授も前代未聞だからなんら問題ないぜ」
「屁理屈はいいの。・・・って、あら」
奥のリビングに目をやると、部屋がデコレートされているのが分かる。私も女の子だから、少しそわそわしてしまう。
「随分と派手にしてくれたみたいね」
「私はいつも派手だぜ。さあさ、ご主人様早く早く。帰りにあわせて料理を作ったんだ」
言われるがままにコートを脱ぎ、ちゆりに続く。リビングはいつもの殺風景な一室ではなく、壁にはモール、脇にはクリスマスツリー、テーブルには蝋燭とチキンの照り焼きらしきもの、ケーキ、ワインが誂えられた、クリスマスムード溢れる装いとなっていた。ちゆりがこれ全部を一人で調達したとなると、感嘆の声が漏れる。
「すごい……」
「だろ? 私に任せて正解ってこった。じゃあこれ持って座って」
ちゆりはそういうと、クラッカーを押し付けて席に座った。素早く蝋燭に点火し、リビングの明かりを消す。光源はクリスマスツリーと蝋燭のみになり、雰囲気がさらにクリスマスと呼ぶにふさわしくなった。
ちゆりは席に座り、今か今かとクラッカーをスタンバイさせている。私も席に座り、クラッカーを構える。
「それじゃ、せーのでいくぞ。せーの」
ちゆりの掛け声に合わせて大きく息を吸い、
「「メリークリスマス!」」
クラッカーを鳴らした。
ちゆりの作った料理はどれも美味しかった。一人暮らししているから当然と言えば当然のことなのだが。
とにかく、ちゆりの料理を食べ、クリスマスケーキを頬張り、話に花を咲かせていた。
その時気づくべきだった。ワインを飲みすぎていることに。
「ご主人様、ちょっと飲みすぎじゃないのか?」
「そぉ? わらひはらいじょーぶよ」
「……今日はもう寝た方がいいぜ」
私は完全に悪酔いしていたが、ちゆりはまったく酔っていない。そもそも未成年だからワインを飲んでいないのだ。
ちゆりはやれやれ、と腰を上げて、私の後ろに回り込む。
「らいじょーぶらっていってるれひょー」
「全然大丈夫じゃないぜ。明日も講義なんだからもう寝とけ」
「うー」
いつもならちゆりに何か暴力的なことをしているところだが、アルコールのおかげで力があまり入らない。ここは従うとしよう。
ちゆりに肩を借り、寝室まで歩いていく。
よいしょ、と掛け声を上げて、ちゆりが私をベッドに横たえる。
駄目だ。眠い。もう今日は限界かもしれない。
ちゆりはそんな私の様子を見かねて、やれやれとため息を吐く。
「明日は来れそうか?」
「らいじょーぶ……」
「ま、なんとかなるか」
ちゆりはそういうと突然、私に覆いかぶさるように一気に顔を近づけてきた。私は気が動転する暇も無く、体は何も反応できない。ちゆりはそのまま耳元に口を近づけて囁いた。
「おやすみ、夢美」
体に電流が走った。同時に、先日見た白昼夢がフラッシュバックする。
――夢美、なあ、いいだろ?
ベッドの上。私を押し倒すちゆり。甘い囁き。そして唇が重なりそうになって――
脳裏に映像が浮かんだまま、目の前の映像を認識する。ちゆりの体がベッドから離れていくところだった。
もうお別れなの? 私はこんな終わり方を望んでいたの?
いや、違う。私は、私は……!
「ちゆりっ!!」
「!? うわっ!」
ちゆりの手を思い切り引く。ちゆりは体ごと捻られ、私と向き合う。ちゆりの目は驚きに満ちていたが、そんなことに構いはしなかった。
そのまま、ちゆりの唇を奪った。
4
ストロベリーティーの香りがする。意識が現在に戻ってきたらしい。そういえばさっき淹れていたんだっけ。私はストロベリーティーを啜りながら、気持ちを落ち着ける。外から演劇サークル独特の発声練習が聞こえてくる。あえいうえおあお。かけきくけこかこ。
あの後、目を見開いたちゆりとしばらく見つめあう事数秒。ちゆりの顔はみるみるうちに紅くなり、一目散に私の部屋から出ていった。私がその直後に猛烈な後悔に襲われたのは言うまでも無い。
がちゃり、とドアの開く音がした。七時四十分。ちゆりがやってくる時間だ。
「おはよう、ちゆり」
「おはようだぜ」
いつもならここでちゆりが話を持ち出してくるところだが、やはり今日はそれがない。私が口を開けばいい話なのだが、先ほどまで去年のクリスマスの事を思い出していたとなると気が引けてしまう。
いつもの朝とは違う、気まずい空気だ。カサカサ、と書類を整理する音がいやに耳につく。
そのまま五分が経った。とりあえずストロベリーティーでも淹れて場を和ませよう。そう思って席を立とうとしたその時、意外なことにちゆりの方から口を開いてきた。
「なあ、ご主人様」
「な、何かしら?」
驚きで体が跳ねてしまった。先ほどまで緊張状態が続いていたせいもあっただろうが。
ちゆりは一呼吸おいてから次の言葉を放った。
「今年も、クリスマスパーティーしようぜ」
……え? 何だって?
今、ちゆりは何と言った? 「クリスマスパーティーをしようぜ」? まさか。ちゆりがそんな事を言うはずがない。きっと聞き違いだ。そうに違いない。確かめてみよう。
「……ちゆり、もう一度言ってもらえるかしら?」
「だからぁ~……」
ちゆりがとても言いたくなさそうな声で、言葉を搾り出す。大丈夫、今度は聞き逃さないから。
「クリスマスパーティー、しようぜ?」
あまり信じたくないようだが、どうやら私の耳は故障していないようだった。
ふらつきそうになるのをなんとか踏ん張る。
「ちゆり、いいの? 去年」
「大丈夫」
私の言葉を遮った。かなり強い語気で。
「大丈夫だぜ。私は去年とは一味違うんだ」
すごい剣幕だった。何かを決意したらしい。その決意がどんなものかは分からないが、今はちゆりの言葉に従うしかなさそうだ。
「そ、そうなの」
「ああ。私は料理の方を調達するから、ご主人様はケーキを頼む」
「分かったわ」
「それじゃ、私はちょっと助教授室の方に用事があるから失礼するぜ」
そう言うと、ちゆりは颯爽と教授室から出て行った。
5
昼休み。ちゆりは教授室に現れなかった。ケータイが震えたので確認をすると、『ごめん 仕事が忙しくてそっちに行けない』とメールが来ていた。
私はここまで相棒に嫌われてしまったか、と少し自己嫌悪してしまう。まあ、そんな事を考えても仕方ない。私とちゆりは切っても切れない仲なのだ。いずれ時間が、絡まった糸を解いてくれるだろう。
そんなことを期待しつつ、私は単身ケーキ店『アリス』に乗り込んでいた。最近知った、なかなかお洒落な店だ。カウンター兼ショーケースの中にはケーキが所狭しと並んでいる。私はそのカウンターの前に立つ。カチューシャをした店員さん――私は密かに『カチューシャさん』と読んでいる――がいらっしゃいませ、と言い、私はそのままレジの前に佇む。
さて、どんなケーキを買ったものか。まずはカチューシャさんに聞いてみるか。
「何かお勧めのケーキはあるかしら?」
「そうですね、この凍らせて美味しいオレンジケーキなんてどうでしょう?」
「凍らせるの? ケーキを?」
「はい」
ケーキを凍らせるとは、なかなか斬新な発想だ。十月に飲んだフルーツジュースといい、この店は新規の客を引き寄せるテクニックを熟知しているらしい。
カチューシャさんがそのまま続ける。
「本当はうち特製のアイスケーキをお勧めしたいんですけど、数が少ないので今日は売り切れなんです」
アイスケーキまでやっているのか、この店は。店の奥をよく見ると、アイスケーキのポスターが張ってある。見た目はそんなに普通のケーキと変わっていないが、コーヒー色だった。
「売り切れなら仕方ないわね。オレンジケーキの方を二つお願いするわ」
「かしこまりました」
ショーケースの右端にある、断面がオレンジ色のケーキが二切れ箱に入れられ、封をされた。再び対面するのはクリスマスである。
「ありがとうございました」
カチューシャさんの声に送られ、店を後にする。この店に来る時、いつもいたはずの相棒がいないことに、ため息が出た。
6
十二月二十五日。昔の人々は自分の師匠が忙しさのあまり走る様子から十二月を『師走』と呼んだそうだ。いいネーミングセンスである。まったくもってその通りだ。教授である私も十二月になると多忙のと疲れのあまり何度もため息が漏れる。そう、それがたとえ授業中でも。
「北海道などの寒い地域では、夏より冬の方がアイスクリームが売れる。これが何故か分かるかしら?」
講堂全体は静まり返ったままだ。誰も答える生徒はいないのかと思ったら、最前列で眠っている宇佐見蓮子が突然がばっと顔を上げ、半目で答え始めた。
「寒い地域だと、暖房が効いた屋内と寒い屋外との気温差が激しく、人は屋内を暑く感じて、アイスを食べたくなります。要するにアイスの売り上げが伸びます。」
「……まあそんなところよ」
やはり答えてきたか。
確かに生徒には答えて欲しかったが、その生徒が宇佐見蓮子となれば話は別だ。いつも最前列で寝ているくせに質問を投げかけると正確に答えてくる。厄介極まりない。私としてはそんな生徒に答えられてもあまり嬉しくないのだ。
私が口をへの字にしていると、宇佐見はまた顔を突っ伏して寝息を立て始めた。ため息を吐くまいと思っていたが、盛大に漏れてしまった。ああ、もう。何度も寝るなと言っているのに。どうやらこの少女は天才教授岡崎夢美と天才助教授北白河ちゆりを未だによく分かっていないらしい。
「ちゆり、アレをお願い」
「いつものやつか、わかったぜ」
そう言うとちゆりは講堂の端にあるパイプ椅子を持ってきた。どこにでもある普通のパイプ椅子である。ちゆりは宇佐見の前で仁王立ちし、パイプ椅子をゆっくりと掲げる。周りからうわあ、とかまたか、などと聞こえるが耳を貸す様子は一切ない。
そして、宇佐見の頭めがけてパイプ椅子を一気に振り下ろした。講堂に響き渡る音はどう考えてもドラマで人が殺される時の音と同じだが、宇佐見は毎日衝撃を与える内にこのくらいの威力じゃないと目が覚めないようになってしまったのだ。一体どんな体の構造をしているのやら。
ちゆりがパイプ椅子を宇佐見から離すと、宇佐見はゆっくりと顔を上げ、言った。
「パイプ椅子は痛い……」
「自業自得よ。講義中くらいちゃんと起きなさい」
「は~い……」
たんこぶを気にする宇佐見を尻目に、講義を再開した。
7
講義が終わり、生徒がどやどやと席を立っていく。私は質問に来る生徒の対応をし、ちゆりは黒板を消す。いつもの流れだ。なんとなくうれしい。
質問に来る生徒たちがはけても、講堂の中の生徒たちは沢山残っている。特に次の時間に講義がない生徒はだらだらしている。こういう時間を有効に活用できるかが大学生活をエンジョイするコツなのに。
そんな生徒達を眺めていると、後ろの方に見慣れない生徒が混じっていた。あの長い金髪は見覚えがある。マエリベリーさんだ。なぜ文系――だったと思う――の彼女がここにいるんだろうか。
マエリベリーさんは私と目を合わせるとにこりと笑い、音も無く立ち上がってこちらに向かってきた。こちらに着くまでに、ちゆりのかたを指でつんつんつつく。ちゆりは何事かと振り向き、すぐそこまで迫ったマエリベリーさんを見て納得したような顔をした。
「こんにちは、岡崎教授、北白河助教授」
「こんにちは、マエリベリーさん」
「おはようだぜ」
「どうしたの、モグリなんて。憧れの彼女の様子でも観察しに来たの?」
「ち、違います!」
ちゆりがくくっと笑う。いつもなら殴っているところだが、今日は殴りたくない。
マエリベリーさんは一瞬ちゆりの方を見たが、もう、と言ってこちらに向き直る。
「今日は聞きたい事があってきたんです」
「それはどうもありがとう。何かしら」
マエリベリーさんは私の言葉を聴くと、なぜか笑みを浮かべた。ただし、目は笑っていない。私もちゆりも、その笑みに何か、恐ろしいものを感じていたと思う。
その恐怖の正体がつかめないまま、マエリベリーさんは口を開く。
「幻想郷って、どんなところなんですか?」
背筋が凍った。体中から冷汗が出てくる。思考も停止した。ただ、目の前の少女の笑顔だけが認識される。
「蓮子にちょっとヒントをあげようと思っているんです。せっかくだから幻想郷を見た外来人さんの意見が参考になるかなと思って」
「おい」
ちゆりが私と彼女の間に入って、やっと頭が働いた。音が洪水のように耳に流れてくる。危ない。彼女の勢いに飲まれるところだった。
ちゆりが警戒心をむき出しにして、続ける。
「なんで『幻想郷』の名前を知ってる? その名前は学会にも公表していないはずだぜ」
「あら、そうだったかしら」
何者だ、この少女は。最初に感じた印象と、今の迫力とがあまりにもかけ離れている。今の彼女は、今まで会ったどの学者よりも博識に見え、今まで見たどの兵器よりも危険に感じる。
「ま、今日のところは吃驚させすぎちゃったみたいだから、お暇させていただくわ」
そう言って、彼女は背を向ける。立ち去る気だ。逃がすものか。
「待ちなさい!」
私は叫んでいた。騒がしかった講堂が一気に静まり返る。彼女は足をぴたりと止め、振り返った。
「学者さんに言っておくことが二つ。一つは、今はあまり来て欲しくないってこと。もう一つは、今以外ならいつでも歓迎ってことですわ」
そして彼女は、講堂の半分の視線を集めて講堂を後にした。
残りの半分は、もちろん私達に注がれている。
10
「一体何だったのかしら、あの子は」
「さあな。関わらない方が無難だと思うぜ」
結局、彼女が何を言っているのかよく分からなかった。だから、仕方なくこうしてちゆりと二人して帰路に着いているわけだ。
結果論としてちゆりとの話をする発端になってくれたからいいものの、私達の中のマエリベリー・ハーンは、恋する乙女から正体不明の女性に格下げされてしまった。複雑な気分である。
「ところでご主人様、どんなケーキを買ったんだ?」
「『凍らせてもおいしいオレンジケーキ』よ。昨日買ってきたの」
「変わったケーキだな。ところで昨日買ったのになんで今持ってるんだ?」
「昨日持って帰るのを忘れただけよ」
「なるほど」
これだ。この他愛の無い会話こそ、私の求めていたものだ。ありがとうマエリベリーさん。
終わらない仕事や生徒に対する文句を言い合っていると、すぐ私のマンションに着いた。部屋のオートロックを外し、部屋に入る。去年のような装飾は、もちろん施されていない。
「じゃあ、料理の方を準備させてもらうぜ」
「ええ、お願い」
がさがさと音を立てるスーパーの袋を置き、食材を取り出す。牛肉、人参、じゃがいも、りんご。どうやらビーフシチューらしい。
「期待してるわよ」
「ああ」
やっぱり返事をしてくれると、うれしい。
ちゆりの料理は絶品だった。ビーフシチューにもすりりんごは王道らしく、仕上げに入った生クリームもコクを引き立てていて、口の中に広がる味の洪水に舌はご満悦だった。
私は満面の笑みを顔から離せずにいた。ちゆりが作ってくれたという事実がそうさせるのだから致し方ない。
「おいしかったわ、ちゆり」
「照れるぜ」
そう言って、ちゆりは笑顔で頭を掻く。照れている姿も可愛い。
「さあ、次はご主人様の番だぜ。おいしいケーキを食べさせてくれ」
「はいはい」
私は立ち上がり、冷凍庫からケーキが入った箱を取り出す。ちなみにちゆりが手作りなのに私がケーキ屋で買ったものなのは、私が料理下手だからだ。なんとも情けない話だが、できないものはできないのだ。
箱をテーブルの中央に置き、シールを剥がして開ける。
「さあ、これが『凍らせてもおいしいオレンジケーキ』よ!」
ついつい誇らしげに言ったが、後悔はしていない。ちゆりは身を乗り出して確認している。笑顔になると思ったら、その顔ははてなマークが付属するものになった。なぜそんな顔をするの。何か変なことがあったの?
ちゆりがその表情のまま言う。
「これ、どう見てもコーヒーケーキにしか見えないぜ?」
「え」
「ほら、見てみろよ」
言われて、覗き込んでみる。中には、コーヒー色のケーキ――『アリス』で見た、あのアイスケーキ――に摩り替わっていた。
11
「何を調べているの?」
「生徒の時間割」
「……? ふーん」
ちゆりの携帯から視線を戻し、目の前の問題に思考を切り替える。
全く、面倒なことになったものだ。今からこのケーキの安全性を確認しなければならない。
状況を整理しよう。
私がケーキを買って来たのがイヴの昼。それから今日の朝まで教授室を留守にし、講義の合間以外に、教授室には誰もいなかった。
つまり、冷凍庫に入っていたケーキを摩り替えることができたのは、イヴの昼から今日の夜までのほぼ全ての時間帯ということになる。
「いかんせん犯行可能時間の範囲が広すぎるわね」
「ご主人様、大事なものを忘れてるぜ」
「何よ?」
「ケーキの箱に張ってあるシール」
ああ、なるほど。封をしてあったあのシールには、購入した日時が記載してあったはずだ。
一度冷凍庫にしまった箱を取り出し、シールを見てみる。買われた日は十二月二五日の十時三分。『アリス』の開店時間だ。
「今日の朝十時。ということは、犯人さんはこのアイスケーキが目当てだったのかしら?」
「すぐ売り切れるって言ってたな。その線でいいと思うぜ」
「問題はここから先ね」
誰が、なぜ摩り替えたのか。正直なところ、見当がつかない。
犯行時刻が今日のうちの何時かとはいえ範囲が広すぎるし、摩り替える人と理由が思いつかない。毒を盛るのならオレンジケーキを用意するだろうし。
手詰まりだ。
「……」
「どうした? 早くも行き詰ったか?」
「ええ、どうにも材料が足りないわね」
「材料ならあるぜ」
「あるの?」
目が丸くなった。
「ご主人様、今日はいつもと違うことがあっただろ?」
「いつもと違うこと……クリスマスパーティー?」
「違う違う」
ちゆりは大きく首を振った。何か他に変わったことがあっただろうか。
「講義の後に、思いっきり変わったことがあっただろ?」
「……ああ」
そういえば、そんなこともあった。割と気に留めておかなければならないことのはずなのに、そういうものに限って頭から抜けるのは速いものだ。
「マエリベリーさんが話しかけてきたわね。それと関係があるの?」
「大ありだぜ」
ちゆりは大きく息を吸って続ける。
「よく考えてみろ、いつも一緒の秘封倶楽部が、なぜあの時は一緒にいなかったんだ? 片割れのメリーさんはあんなに目立つ金髪だっていうのに、なぜ宇佐見は気付かなかった? 講堂に二百人くらい入るといっても、あの中からメリーさんを見つけるのはたやすいはずだぜ」
ふむ。確かにちゆりの言う通りだ。それにしても今日はちゆりが冴えている。今日は私の出る幕はないかもしれない。
「つまり?」
「宇佐見はメリーさんが講堂にいるのを知っていた。その上で話しかける必要がなかったのさ」
「なるほどね。でもどこでケーキの摩り替えと関係するの?」
「ケーキを摩り替えたのが宇佐見だったとしたら、関係するぜ」
またあの娘か。いい加減私を煩わせるのをやめてほしい。
「これは推測だが、宇佐見は多分こう考えた。クリスマスはやっぱりあの店のアイスケーキで飾りたい。でもあの店のアイスケーキはすぐ売り切れてしまう。最悪な事に当日はまだ講義がある。どうすればいいだろう。
宇佐見は悩んだ。ケーキを取るか、講義を取るか。サボるって手もあっただろうが、ほとんどの授業で寝ている宇佐見が、サボったりして点数の低下を助長する訳にはいかない。それに講義を受けている間にケーキが溶けてしまう。常識的に考えればケーキは諦めるべきだった。でも宇佐見は両方取ることにしたんだ」
ちゆりはそこまで言い終えると、ストロベリーティーをぐいっと飲んだ。豪快だ。
「さっき生徒の時間割を調べたんだが、予想通り、宇佐見は一限の講義がなかった。つまりアイスケーキを買うことができたんだ。さて、アイスケーキを買った宇佐見は、今度はご主人様の講義が終わるまでケーキを保管しなければならない。さて、どうしたと思う?」
いきなり振るな。まあ確かにここまで来れば次に起こることは予想できるからいいが。
「教授室に入って、冷凍庫にケーキをおいた」
「ご名答。宇佐見はケーキを買って、そのまま教授室に直行。厚かましくも冷凍庫を無断で使用してその場を去り、何食わぬ顔、というか寝顔でご主人様の講義を受ける。だが、講義が終わればいいってもんじゃない。ご主人様が教授室に戻るまでに冷凍庫に向かい、ケーキを回収しなければならない。
そこで、メリーさんだ。宇佐見はあらかじめ事情を説明して、メリーさんに私たちの時間稼ぎをしてもらったんだ。多少のタイムラグがあればケーキの回収は可能だからな。後は何食わぬ顔をして教授室に入ってケーキを回収、その足でメリーさんと合流してクリスマスパーティーってわけだ」
ちゆりは一気に説明して少し疲れたらしい。近くにあるティーバッグをカップに入れ、給湯器から湯を注いだ。
「どうだ? これなら無理のない説明だと思うぜ」
「うん、よく分かったわ。今すぐ確認してみましょう」
「そこから先は任せるぜ」
携帯電話を取り出し、大学に電話を繋ぎ、宇佐見の電話番号を聞きだす。その番号にコールすると、数回のコールで相手が出た。
「はい宇佐見です」
「もしもし? あなたの大学の岡崎だけれど」
「……は!?」
電話越しになにやらやかましい音がした。具体的に言うと、食器が割れない程度に落ちる程度の音だ。どうしたの蓮子、とマエリベリーさんの声も聞こえた。
「あら、驚いた?」
「そりゃあ、驚きますよ。まさか電話番号を調べてくるなんて」
「それほど食べ物の恨みは恐ろしいのよ」
「あ、バレました?」
だめだ。宇佐見の症状が悪化している。全く悪びれる様子が無い。頭を強く叩きすぎたか。
「まあ、今回はアイスケーキを食べられなかったあなたに同情して見逃してあげるわ」
「ははー、ありがとうございます」
「断りを入れれば冷蔵庫の使用許可を出すから、今度からは申請するように」
「はーい」
全く。大学の教授は中学・高校と違って人格的な成長を促すことができないから困る。
さて、宇佐見に繋いだついでに、聞かなければならないことがある。マエリベリーさんが言っていたことだ。
「それと、マエリベリーさんに代わってもらえるかしら」
「メリーにですか? ちょっと待ってください」
一旦声が遠ざかる。
メリー、代わってだって。岡崎教授。
え、私? どうして?
さあ。まあ硬い事言わずにさ。
「もしもし……」
「……マエリベリーさん?」
どうも私の声が怯えている。恐怖心はまだ消えていないらしかった。声に気持ちが出る癖を直したほうがいいだろう。
「……はい」
「ええっとね、今日言ってたことはどういうことなのか、教えてもらえるかしら?」
「今日、ですか」
ここで、声が途切れた。溜めているのか。随分心臓に悪いことをしてくれる。気付けばちゆりも隣に座って電話に耳を傾けている。
二人とも緊張していた。だから返ってきた答えには、拍子抜けしてしまった。
「すみません、覚えてないんです」
「……はい?」
「実は私、時々記憶が抜けていることがあるんです。しかもその間はなんだか訳の分からないことを言っているみたいで、自分でもちょっと怖いんです」
「そう、だったの」
「ええ。今日も岡崎教授に話しかけてからの記憶が無くて……私、やっぱり変なことを言ってましたか?」
どうやら嘘ではないようだ。これが嘘でマエリベリーさんが演劇サークルに入っていたら、私は間違いなくその劇を見に行く。
「いや、覚えてないようならいいのよ。それじゃ、もう切るから」
「はい」
電話を切る。前言を撤回しよう。余計謎が深まった。まあ、こちらの謎はマエリベリーさんの病気か何かのようだし、手を出す必要はないだろう。
「認めたわ」
「よっし。じゃああのケーキは安全だな。とっとと食べようぜ」
ちゆりがすっくと立ち上がり、ケーキを取りに行こうとする。いい笑顔だ。その姿はまるで富士山の頂上に到達した登山家のようだった。
でもね、ちゆり。
「私はね、ちゆりがやったことも包み隠さず言って欲しかったわ」
ちゆりの笑顔が、一瞬歪んだ。
12
「……何の事だぜ?」
どうやらちゆりも声に感情が出てしまうタイプらしい。一緒に直すよう誘ってみるか。
「おかしいのよ、あなたが言った通りに事が進むと」
「そうか? どこもおかしくないとは思うが」
「いいえ。一点だけ、腑に落ちないところがあるわ」
「ほー、面白い。聞こうじゃないか」
ちゆり、あなたはやっぱり変わってしまったのね。
相棒との距離を、こんなところで感じるとは思わなかった。せっかく元に戻れたと思ったのに。
「さっきのちゆりの説明だと、どうしてもおかしいところがあるの。まあちゆりなら分かっていると思うけど、ちゃんと聞いてくれるとうれしいわ」
ちゆりは隣で真剣な表情をして聞いている。心配する必要はないらしい。
「まず、宇佐見がケーキを買って教授室まで直行してきたこと。それまではいいとしましょう。でもここからが変なの。宇佐見は、冷凍庫を開けたときに私が買ったケーキを確認しているはずなのよ。自分が買ったケーキと同じ箱が冷凍庫に入っていれば、それは驚くだろうけど、だからこそ取り出す時のために入れた場所をよく覚えておくと思うの。私の箱が右に入っていたら、宇佐見の箱は左、といったようにね」
ちゆりは黙って耳を傾けている。ここまでに違う部分はないようだ。
「でも、宇佐見は間違えた。記憶がおぼろげなら、それこそ張ってあるシールを確認するといった手段があったはず。宇佐見はそれをしなかった。なぜなら冷凍庫のどこに箱を入れたかよく覚えていたから。ところが実際には箱が入れ替わっていた。何者かが右側の箱と左側の箱を入れ替えたのよ。でないと宇佐見は間違えようが無い」
ふう、と一息置く。この台詞は、ちゃんと言わなければならない。
「ちゆり。あなたでしょう。右側の箱と左側の箱を入れ替えたのは」
お互いの間に、沈黙が流れる。嫌な間だ。やがてちゆりがやれやれ、と首を振った。
「参ったよ。その通りだぜ。1限は担当してる講義がなかったから、教授室でストロベリーティーをもらおうと思ってな。そしたら、宇佐見が教授室から出てきたんだ。何をしたんだろうと思って色々ひっくり返したら、二つの箱を見つけたってわけだ」
「……ねえ、ちゆり」
また声の質が変わってしまう。自分で表現するのも億劫だが、糾弾するようだった。
「どうして、嘘なんて吐いたの?」
私は、ちゆりを凝視していた。ちゆりの方はまったく悪びれた様子がない。
「ご主人様、もしかして去年のこと気にしてるだろ」
図星だ。
「……ええ、去年のあれから、ちゆりが変わってしまったのかと思って……」
「やっぱりな」
ここ数週間は、そのことで頭が一杯だったわ、あなたに煙たがられているんじゃないかと思って夜も眠れなかったのよ、とは口が裂けても言えない。
「そんなに気を病まなくてもいいんだぜ。ご主人様はちゃんと謝ったじゃないか。それに、ご主人様も私くらいの歳には劇的に変わっただろ? 今回嘘を吐いたのはご主人様を試そうと思っから。私が変わったのは年齢によるもの。だぜ」
なんだ。
私が思っていたことは、ただの杞憂だったのだ。
去年のことを、ちゆりはもう気にしていなかったのだ。無理矢理唇を奪わなくても、ちゆりは今のように変わっていったのだ。
今まで緊張していた力が、一気に抜けた。
「さあさ、アイスケーキが安全だって分かったことだし、とっとと食べようぜ」
「いや、待って」
そうだ。まだ一つだけ確認していないことがある。
「どうして、二つの箱を入れ替えたの?」
「ああ、張ってあるシールを見て、宇佐見がアイスケーキを持ってきたことがわかったからな。普通のケーキよりアイスケーキのほうがいいと思ったんだ」
「……なぜ?」
「言っただろ、去年とは一味違うって」
答えになっていない。
返事にどう返したものか悩んでいると、ちゆりはやれやれ、と肩を竦めた。そしてこちらに向き直る。
「今夜は二人で、熱くなるからさ」
ちゆりはそう言って、私の唇を奪った。
ああ、確かに一味違うわ。
ちゅっちゅ
(蓮子が、マエリベリーだと発音し辛くてメリーと呼ぶようになった訳で
私の舌もご満悦ですっ。
ちゆりがメリーのことをメリーって呼んでいるのは、ただ蓮子が『メリー』って呼んでいるのを聞いたからなんですね。
そういえば本文中に入ってませんねえ・・・;次回に説明を入れるようにします。
ちゆり男前すぎるちゅっちゅ
乙女な教授にかっこいいちゆりにムネキュン
次の作品も楽しみにしております頑張って下さい