その本には、達筆な字で『さとり』と書かれていた。
ご存知、古明地さとりのことである。彼女は真面目一辺倒の閻魔に見こまれただけあって、彼女自身もかなり真面目な性格をしている。ときどき他者の心を読み、からかったりして、人間で言うところの食事にあたる行為をすることもあるが、それは覚り妖怪として真面目な証である。
そんな生真面目な彼女は自分の持ち物に必ず名前を書く。ひとつひとつの持ち物に。黒の毛筆できっちりと。
ただ、その本はもともとはさとりのものではなかった。
比喩的な表現をすれば、先生が生徒が持っていた漫画を一時没収するような形で保管していたのである。その生徒が卒業――いわゆる冥界入りを果たし、その後に輪廻転生をしてしまったので、本の所有者がいなくなり、しかたなくさとりが本の所有者とあいなったのである。
さとりはこの本にも例外なく名前を書いた。そして、本棚の奥深くにしまわれていた。
そのまま誰の目にも触れないまま風化するはずだった。
しかし、その本を普段からフラフラしているこいしが持ち出した。こいしは無意識的に行動することがあるから、どうしてそうしたのかはわからないが、結局、持ち出された本は外出先のどこかで放置され、どこぞとも知れない場所に消えうせてしまったのである。さとりは既に本の存在自体を忘れてしまっていたので、地霊殿では本が消えたことさえ感知されないままだった。
これが、以下のような事件の発端となったのである。
今は誰も知るよしはない。
ぬえは命蓮寺の新参者である。言うなれば寺組一年生である。まだ仏の道に入ったばかりなので落ち着きが足りないとよく言われる。
足が痺れるのだから仕方ない。一時間も正座していると、確実に足取りがぬえ的スネークマンショーになってしまう。特に気に食わないのはムラサに腹を抱えて笑われるところだ。あれは確実にプギャーの構えだった。沈めてやりたい。
そんなわけで、とりあえず聖の説法もそこそこに寺を抜け出してぶらぶらと飛行していた。
そこで突然ティンと来た。
妖怪特有の感覚を人語化するのは難しいが、ひらめきに近いものと思えばよい。
「ぬえっ!? あれなんだろう」
さすがは正体不明の妖怪というべきか、正体不明の物体を感知する能力に長けていたのである。
それは見た目なんの変哲もない本だった。
緑の映える草むらの上に、薄汚れた本が無造作に置かれている。いや、これはもう捨てられているといったほうが正しいだろう。
その本は先に述べたさとりの本であったのが、現在そのことを知っている者は誰ひとりとしていない。
ぬえは近くでその本を手にとってみた。
茶色く変色していた。おそらく三百年以上の月日が経っていると思わせるような色合いだ。
年月を経た本のもつ独特のにおいがしてくる。
「この枯れた匂いは線香に似ているかも?」
ぬえはつぶさに本を見てみる。すると、本の表題部のような場所には『さとり』と書かれてあるのに気づいた。
「さとりの書ということになるのかな?」
もちろん、地底出身のぬえは、同じく地底に住んでいるさとりのことも少しは考えたのだが、その本の表面はそれ以外には何も字らしきものは書かれていなかったし、そもそも地上にさとりの本があるわけもないと考えて、その本はそういう名前の本に違いないと勘違いした。
次に中身を見てみると、茶色く変色してしまっていて、ところどころは虫にも喰われているせいか、ほとんど判別できない筆の跡であるが、どうやら人間が二人一組になってなにやらいろんな型を作っているらしい。ずいぶんと時代がかった絵柄のせいで、ほとんど人間の形には見えないが、昔はこういう絵ばっかりだったなぁと、ぬえはしみじみ思い出す。現代のやたら目が巨大な少女の絵とは違い、切れ長の瞳のどことなくいかめしい感じがする絵柄だった。
さらに、ページの上部には仰々しい字で技名と思わしき名称が書かれてあった。
「も、もしかして何かの技の秘伝の書!?」
正体不明なものに対する好奇心は人一倍強いぬえである。
その本がなにを表しているのかは判然としないところがあったが、はっきりしないところが逆に興味を惹く。ぬえはその場に腰をおろして、一ページ一ページを詳細に見ていくことにした。
「あ、いいぜ~。超いいぜ~。これいいぜ~」
ぬえはノリノリである。
意味はさっぱり理解不能であるが、その理解不能さが気持ちよい。正体不明妖怪のよくわからない感覚である。
特になんとなくご利益がありそうなのは――、
――座禅ころがし(ざぜんころがし)
座禅は言うまでもない。足が痺れるあの行為のことだろう。なにやら座禅を組んだままの姿勢で横になっていてこれでは足が痺れないような気がするのだが、もしかすると足が痺れないという新技なのかもしれない。なんという画期的な……!
――反り観音(そりかんのん)
マウントポジションをとっているにも関わらず、あえてこぶしを振り上げない慈愛のポーズなのかもしれない。そこが観音的なところなのか。
――宝船(たからぶね)
関節技の一種のようにも見えるが、名前がゴージャスなので気に入った。
――達磨返し(だるまかえし)
達磨といえばどこかの偉いお坊さんだったはず。図解によれば何か紐で縛られているようにも見えるけれど、もしかして妖怪を調伏しているのかもしれない。ぶるぶる。
仏壇返し(ぶつだんがえし)
――仏壇といえば、星が座ってるところだよね。人間の一方がすごく不安定な格好をしているみたいだけど、これはもしかすると仏といってもけっこう不安定な地位に置かれていることのメタファーなのかもしれない?!
なんとも興味深い本である。
「こんなところでなにしてんのさ?」
「ん?」
あぐらをかいて草むらに腰を下ろしている、そしてなにやら本を読んでいるというのがそんなに珍しいとでも言うのだろうか。
背後から声をかけられた。
振り向くと、青い髪をした生意気そうな妖精がいた。
「誰あんた?」
「あたい? あたいはチルノ。幻想郷最強の生物なんだから」
「ふぅん。よかったね」
所詮は妖精である。力が強いといってもたかが知れている。そもそもEXキャラであるぬえのほうが断然強いに決まっているという自信もあって、ぬえはチルノには興味がなかった。なんだか馬鹿そうだし。
「おい、あたいを無視するな」
「邪魔だからあっち行ってよ。今、私はこの本を読んでるんだからさ」
「なにそれ」
「見てわかんない? さとりの書だよ」
ぬえは本の端を両手で持ち、本のタイトルをチルノに見せつけた。
「さとりの書? さとりって何よ?」
「さとりとは仏教用語における最強の……えーっと、状態みたいな?」
「最強!? それ読んだら最強になれるの?」
チルノが瞳を輝かせた。最強を目指しているチルノにとって、最強になれる本は喉から手がでるほど欲しいものである。
「おまえには理解できないよ」
「読んでみないとわからないじゃない。ちょっと貸してよ」
「ダメ。これ拾ったのは私」
「あたいがその本を読んだからって、あたいが損するわけじゃないじゃん!」
「あ? ん? まあそれはそうだけど、っていうかそれ意味わかんないよ!」
「本見せろー」
「うざいあっち行け」
押し問答だった。
べつに弾幕ごっこをしてもいいが、ボロい本が手元にある状態で戦いたくはない。万が一本が破損してしまっては元も子もないのである。
「どったの。チルノちゃん?」
やいのやいのしていたら、今度は鳥の妖怪が来た。
地底にいる馬鹿鴉といい勝負しそうな知恵の薄そうな顔である。
「あ、みすちー。聞いてよ。こいつがあたいに本を貸してくれないんだよ」
「ていうか、それってチルノちゃんが普通に悪いんじゃ……」
知恵が薄そうと思ってごめんなさい。意外に常識に囚われている鳥でした。ぬえは心の中で謝っておく。
それにしてもうざいのはこの青いのだ。
「ちらって見せるだけでいいって言ってるのに」
「あぁん、もう。五分だけだからね」
「朝方の五分はおうおうにして十分、二十分と伸びるのであった」
「おまえが言うな」
とりあえずは、ぬえが広げた本の横からチルノとみすちーが覗きこむような形におさまった。
意味がわからなくてすぐに興味が失せてしまったチルノと違い、意外にも視線に熱いものが宿りはじめたのは、みすちーのほうであった。
「むむむ。これは……」
「どったのよ?」とチルノが聞く。
「これはもしかすると鳥の拷問方法なのかもしれないわ。なんという悪書!」
「はぁ?」
みすちーが長い爪で指し示していく。
「ほら見て。こことかこことか」
――鶴の羽返し(つるのはねかえし)
羽交い絞めにされていた。
――鶯の谷渡り(うぐいすのたにわたり)
なめまわされていた。
――鴨の入首(かものいりくび)
首という言葉から連想するに、これは首を絞めることを表している。
――雁が首(かりがくび)
同じく。
――〆込み千鳥(しめこみちどり)
ついにしめる言い出しましたよ旦那!
他にも巣篭もり(すごもり)椋鳥(むくどり)など鳥の名称を付した技名が多かった。
そういえば見ようによっては、技をかけられている方の人間はなにやら苦しげな表情をしているようにも見える。
「これは人間に見立てた鳥を拷問する様々な方法を図解入りで説明した本に違いないわ。ああなんとおぞましい」
みすちーはその場で頭をかかえてよろめいた。
「即刻、その本を処分しなさい」
「なんで? この本は私のものだって言ってるじゃん」
「すべての鳥の代表として、お願いしているのよ」
チルノは既に興味が無いのかどうでもいいという感じではあったが、逆にみすちーはものすごい勢いで迫ってきていた。
再び同じようにやいのやいのやっていると、今度は白髪の少女がその場に降り立った。
「スペルカードルール以外の決闘は禁止されていますよ」澄んだ声がぬえたちの耳に届く。「私は冥界の白玉楼におつかえしている魂魄妖夢というものです」
「あ、関係ないでしょ」
「しかし、妖精と小鳥をいじめているように見えましたので……」
「そんな弱い者いじめみたいな真似するわけないじゃん!」
ぬえ憤慨。
「弱いって言うな。あたい最強だもん!」
チルノもつられて憤慨。
「おまえを鳥目にしてやろうか!」
みすちーも混乱していた。
「ともかく――、スペルカードルールがあるんですから、スペルカードで……」
「そんなことやってたら、この本が壊れちゃうから」
「本?」
「そう、本」
さとりの書である。
「ちょっと失礼」
踏みこみの速さに定評のある妖夢である。ぬえは一瞬で本を奪われていた。
「ふむむ。こ、これは!?」
またかと思いつつも、ぬえはいちおう聞いてみる。
「なにかさとりでも開けたの?」
「この本に書かれているのは、もしや剣術の極意なのでは!?」
――燕返し(つばめがえし)
この技の名前を知らない者はいないでしょう。一の太刀と同時にニの太刀を浴びせるという神技とも言ってもよい剣技です。心技体すべてが揃い、そして荒れ狂う木の葉のなかで一枚を見澄まして貫くような集中力が無ければ、体得することはできないという……。こんな、秘伝ともいえるようなものが図解されているとは……。
――菊一文字(きくいちもんじ)
これも言うまでもなく、名刀中の名刀です。もしかすると刀を作り出す過程についても書かれた本なのかもしれません。だとすると、この書の学術的な価値は計り知れないものになるかもしれません。
「欲しい……」
妖夢は呆然とした様子で、ぽつりと呟いた。
慌ててぬえは本を奪い返した。あのままだとどうなるのかわからない。
「な、なにするんです。いきなり」
「私の本をとろうとするからー」
「ちょっと永久に貸してもらおうかと思っただけです!」
「いつかの人間と同じようなこと言ってるよ。こいつ」
もうあとは面倒なので、どうなったか概略だけを述べよう。
その後、パルスィがやってきて言うには
――首引き恋慕 (くびひきれんぼ)
――浮き橋(うきばし)
――志がらみ(しがらみ)
妬まし技の解説本に違いないとのことであったし、
橙が言うには
――卍崩し(まんじくずし)
藍さまのスペルカード!
これを読んだら私にも藍さまと同じスペルが使えるようになるかもしれない。殺してでも奪い取る……。
とのことであった。
てゐもやってきた。
――窓の月(まどのつき)
月といえば永遠亭というわけのわからない主張によって、場はさらにカオスになっていく。
奥手なキスメもこっそりと空からあらわれて、
――釣瓶落とし(つるべおとし)
これ私と目語する。キスメにしてはありえないほどの猛烈なアピールである。
さぼりの天才、小野塚小町は
――抱き地蔵(だきじぞう)
地蔵といえば閻魔様の化身。閻魔様といえば、あたいの上司。抱っこ映姫様。
ふ……ふふ。あははははははッ。
この本で妄想できる。これで勝つると妙に興奮気味なご様子。このころになるともはや群がる妖怪が多すぎて意味不明な状況である。
必然的にバトルロワイアルになった。
「はぁ……はぁ……な、なんとか勝った。私がんばったよね」
ぬえは足をひきずり、かつてないほどグダグダな感じで、ようやく命蓮寺にたどり着いていた。
あの地獄絵図はもしかするとまかりまちがえば幻想郷が崩壊する危機だったのかもしれない。幸いというべきか、やはりEXキャラのぬえのほうが実力としては上だったようで、(最後の妖夢とか小町は危なかったが)、なんとか勝利を収めることができた。
「ただいまー」
「お帰りなさい。あらあら、ずいぶんぼろぼろねぇ」
聖はぬえが勝手にでていったことに怒りもせず、尊容に値する仏の笑みを浮かべている。
ぬえはほっとした。
それで、なんとなく申し訳ない気分になって、とっさに手にもっていた本を差し出した。
「こ、これ」
「ん。どうしたの?」
「なんか、読めばさとりが開けるっぽいから、聖にあげる!」
ぬえはなぜか顔が熱くなるのを感じた。人に物をあげたことなどついぞ無かった。自分がしていることが、もしかするとものすごく恥ずかしいことなんじゃないかと思えてくる。
不安。焦燥。喜んでくれるのかわからなくて、そんな正体不明な感情が始めて怖いと思った。
ぬえは沈黙のまま上目遣い。
聖は「ん?」と不思議そうな顔になり、その本を受け取った。
そのままぱらぱらと本をめくり、ふんふんと頷く。
「じゃあ、うちの仏様にお供えしましょうね」
それから聖は何も言わずにぬえの頭を撫でた。それで、ようやくぬえも本当に安心することができたのだった。
我が家のご本尊様がお供えものとして差し出されたさとりの書を見てぶっ倒れたのは、それから三分後のこと。
あれやこれやそれをため込んだ秘密基地はいまはどうなってるだろう。
詳しくないのでよく分からない。
ぜひともぬえと聖とで実践してほしいwww
幻想の少女たちは、永遠の少女でもあるのだなあ。
しかし星さんはおいしいポジションだなあw
パルスィとこまっちゃんはわざとだろw