結界。ここは博麗の結界の中。
八雲紫はその中で、憂うべき事態に遭遇した。
久しぶりね、ここのスキマに入った者は。
嬉しいような、少し怖いような、そんな雑多な感情が紫の中を駆け巡る。
「紫様、どうされましたか?」
「藍、私はしばらくここを空けるわ。しっかりと管理して頂戴」
「はい」
後ろにいる八雲藍に後を任せると、紫はスキマの中へと自ら落ちていった。
今回は拾い上げてあげる。感謝しなさい。
紫はにやりと笑って、スキマの中を落下していく。
深く深く、世界のスキマに嵌った者のために。
人間である魔理沙がにとりのところへ遊びに来た。その時、にとりは新しい機械の設計図は考えていた。
にとりの家は様々な小道具であふれかえっている。鉄鋼類、図面を書き起こすための紙や鉛筆、工具、熱電源など、探せばきりがないほどだ。二階にはたくさんの本と寝室がある。
「よお、遊びに来たぜ」
朗らかな顔で魔理沙はにとりに話しかける。にとりも久しぶりに会う人間に自然と笑顔になった。
「魔理沙か。どうした?」
「今度はどんな物作っているんだ?」
「空飛ぶ箒」
「は?」
魔理沙は意をつかれた猫のような顔をした。にとりは説明するように喋る。
「勝手に空を飛んでくれる、素晴らしい機械を造っている。まあ、サイズは箒どころではなくなるがね」
「そんなの、自分で飛べばいいじゃん」
「飛べない者はどうする? それにこの機械は二人以上を運ぶために造っているんだ」
「ああ……そういう考え方もあるのか。私には必要ないな」
そう言って魔理沙はにとりの工房をじろりと一瞥した。魔理沙は物がひしめき合っている所へ来ると、何か面白い物は無いかと目で物色する癖があった。
にとりはそんな魔理沙の姿に溜息をついた。魔理沙は好奇心旺盛で努力家だから、人間にしては高度な魔法を習得し、様々な知識を得ようとする。どちらも研究者として必要で、何よりも大切な心だ。そのためにとりは魔理沙を少しだけ特別視していたのだ。人間である魔理沙は我々妖怪とは違う視点、技術を与えてくれるのではないか。そんな期待をしていた。
だが、現実はそううまくは行かない。魔理沙はにとりが思っている以上に頑固で、お世辞にも視野が広いとは言えなかった。
自力で飛ぶ事が当たり前だからこそ、この機械を考える事に意義が出来るのだ。
「魔理沙、物事を一つの見方で捉えていては成長できなくなるぞ」
「私は成長しなくていいんだぜ。成長すると、生きている時間が減ってしまう」
またそんな屁理屈をとにとりは言いたかったが、それを言葉にするのも面倒くさくなってやめた。魔理沙がそう思っているのなら仕方がない。今は自分の研究の事だけを考えればいい。
「まあいいや。あまり好き勝手触って壊さないでくれよ」
にとりがそう念を押すと、ああ、という生返事が返ってくる。魔理沙は二階へ移動したようだった。二階には壊れるようなものは無いと安心したにとりは再び図面と向き合って手を動かす。
しばらくして魔理沙が降りてくる。手ぶらの所を見ると、収穫は無かったようである。
「気は済んだかい?」
にとりが声を掛けると、魔理沙はそうでもないさ、と言って近くにある椅子に腰かける。にとりは先ほど煎れたお茶を、空のコップに入れて魔理沙に差し出した。
「河童特製のお茶。要るかい?」
「遠慮なく貰うぜ」
魔理沙はにとりから貰ったお茶を一気に飲み干した。喉が渇いていたのならば言ってくれても良かったのにと、にとりは思った。たぶん魔理沙が遠慮したのだろう。普段は図々しい様に見えて、変な所で気を使うのも魔理沙のくせだった。
「ありがとう。美味しかったぜ、このきゅうり味のお茶」
「そうか。それは良かった」
「にとりはいろんな機械を造っているんだな」
「そりゃあ、好きだからね。自然とその量も多くなっていくさ。魔理沙もやってみると良い、機械は楽しいよ」
魔理沙は少しだけ悲しそうに笑って断った。その表情は冬になる前に葉を散らす木々のように寂しいものだった。
「私は寿命が短いからな。魔法だけで一生を費やしてしまう」
にとりはその言葉を聞いて、申し訳ない気持ちになった。普段は意識しないが魔理沙は人間なのだ。妖怪と違い寿命がとても短い。
「そうか……残念だ」
「長寿の魔法でも覚えたら話は別だけどな」
「長寿ねえ……」
にとりは考える。そもそも、長寿とは一体何年くらい生きた事を言うのか、わからない。100年か200年か。それとも、もっと長いのか。
「そういえば、長寿の魔法ってどういう仕組みなんだ? 魔法で身体を劣化させないようにするのか?」
「私も詳しくは知らないけど、多分そうなんじゃないか。しわが増えない事はつまり若いってことだからな」
にとりはそこで違和感を覚えた。皺を増やさないだけでは普通の魔法、例えば変身魔法や擬態の魔法でも可能だ。ではなぜ、それらの魔法で寿命は延びないのか。そもそも、身体が老いる、とは一体どういう事なのか。
にとりはドキドキした。
様々な疑問が芋づるのように引っ張り出され、そのたびに間欠泉のように絶えず温かな水が噴き出る様に、にとりの胸には熱い物がこみ上げてくる。頭の中では目の前の霧が晴れ、道が無限に分かれていくような景色が見えてくるようだった。
にとりは次第に気分が高揚してきだした。この感じ、この胸の高鳴り、新たな疑問と発見。それを見つけた時の気持ちの高ぶりだった。
にとりはこの胸の高鳴りのために研究をしていたといっても過言ではなかった。技術者や研究者ならば誰もがこの胸の高鳴りのために、来る日も来る日も、頭を抱え暗い部屋に引きこもり、時には命を賭けてまで開発に没頭するのだ。
次の研究はこれにしようと、にとりは確信した。
「ありがとう、魔理沙。私も目指す事にするよ、その長寿の話」
魔理沙は顔に思いっきり疑問符を浮かべ、にとりを見つめた。
「……何言ってるんだ?」
もう少し丁寧な聞き方は無いのか、と心にカチンときたが、確かに先ほどの会話をぶつ切りにしてしまった自分も悪いと思いもう一度説明する。
「つまりだな、皮膚に皺ができるメカニズムを調べて、それをやめさせれば一生老いる事は無くなるだろう?」
「ああ、そうかもしれないな」
にとりは自分の背の倍はあろうかという本棚の一番下から、古い本を抜き出して魔理沙に見せた。
「この本は生物の構造について簡単に書かれた本だ。これによると、生物と言うのは目に見えない細胞と言う物から出来ているらしい」
「その話、胡散臭いな」
魔理沙が顔をしかめてそう言った。しかしにとりはお構いなしに話を続ける。
「あるいはそうかもしれん。けどな、機械に使う鉄や土も元は一個の原子から出来ている。私たちが見ている物と言うのは常に最小単位があるんだ。生物にとってその最小単位が細胞である。そう考えれば、それほどおかしな話でもないだろう?」
「ああ、そう」
魔理沙は目をそらし、靴を履きなおし始めた。この時点で魔理沙は完全ににとりを厄介な奴だと判断したのだろう。
しかしにとりだってこのまま魔理沙を手放すわけにはいかない。
魔理沙の人脈を大いに利用してやる。にとりの目がいっそう鋭く光る
「この細胞とやらをどうにかすれば不老不死も夢じゃない……よし魔理沙、出かけるぞ」
「おっとにとり、私はこれから用事があってだな……」
いそいそと玄関に手をかける魔理沙に、にとりは近くに置いてあった『伸びーるアーム』を手にとって、魔理沙に向けて発射した。
空気の抜けたようなポンっという音がすると同時に、巨大な手が魔理沙を覆う。魔理沙はぎょっとして逃げ出したが、アームの方が先に魔理沙の背中を捉えていた。
「ああ? 何だ、これ……」
アームには強力な糊が付いていた。
「逃がさないよ」
そのままにとりは巻き戻しスイッチを押す。物を蹴散らし、派手な音を立てて白いアームと魔理沙が帰ってくる。
「つあっ……てっとっ……」
魔理沙はアームを下敷きにしてにとりの足元にごろんと仰向けになった。
「……ちょっと強引すぎないか?」
アームの粘着テープでべたべたになった魔理沙が恨むようにそう言った。しかしにとりは全く気にしない。
「さあ、出かけよう!」
「出かけるってどこに?」
「色々さ」
にとりはとりあえず糊でべとべとの魔理沙のために、お風呂を用意しなくちゃ、と考えた。
「何で私が付き合わされるんだ?」
「いいじゃないか。長寿の魔法を知るきっかけになるかもしれないよ。物事は前向きに捉えなくちゃあね」
あきれ顔の魔理沙と先ほどから満面の笑顔のにとり。この光景を見た誰もがこう思うだろう。
魔理沙、ご愁傷様だ、と。
「強引すぎるぜ」
多分、魔理沙の口から十回は飛び出たであろう、強引という単語が、またもにとりの耳を刺激した。
だがにとりは気にしない。気にしないのがにとりなのだ。
「今に始まった事じゃないさ。そう言われているのは馴れている。それに魔理沙、お前だって似たようなものじゃないか」
「私は最初に一言断って、借りている」
「またまたそんな冗談を。借りながら断っているだろう?」
そんな事を言い合いながら、魔理沙とにとりは目的の場所へと着いた。
魔法の森の入り口。お世辞にも人間が入りやすいとは言えない立地に香霖堂はある。
これは期待できないかもしれない。
にとりは何となくそう思った。
「いらっしゃい」
中に入ると森近霖之助が店主らしい挨拶をしてきた。
「久しぶりだな、香霖」
魔理沙がそう言うと、霖之助は愛想よく返事をする。
「元気にしていたかい? 魔理沙。それと、そちらのお客さんは、一体何をお探しで?」
客相手だとそれなりの対応をしてくれる、という魔理沙の証言は本当だな、とにとりは思った。魔理沙の呆れた様子を見ると、普段はこう優しく待遇はされていないのだろう。
「外の世界の本を探している。出来れば学術書のようなものが欲しいんだが……」
「本と一口に言ってもたくさんの本があるからね。どんなジャンルの本だい?」
「生物学の類だ」
「生物学? 生物について記述のある本ならたくさんあるが、生物学となると……」
そう言いながら霖之助は店の奥に入っていく。しばらくして何冊かの本を手にして店頭に現れた。
「これは売り物じゃあないんだけどね。貴重な外の世界の試料だから、大切に扱ってくれ」
霖之助が持ち出してきたのは辞書ほどの厚さがある本で、厳重に封がしてあった。
「随分とにとりを信用しているんだな」
魔理沙がすねたように口をとがらせた。しかし、店主は何食わぬ顔で反論する。
「魔理沙が勝手に物をいじる癖があるからね」
にとりはそんな二人を気にせずに話を続ける。
「持ち出しがダメなら、私はここで読ましてもらうけど……いいかい? 霖之助さん?」
「ああ、僕の業務の邪魔にならなければ、何時間でも」
霖之助はそう言って、さらに机といすを運んできた。まあつまりは自分の目の届く範囲で読め、という事らしい。
「これが客に対する態度とは思えないぜ」
魔理沙は心底呆れたようにそう呟いた。本当の商売人なら、いつ売れるかも分らぬ本を、高値で売りさばくいい機会だと捉えるだろう。
そこが霖之助らしいといえば、それまでだが。
しかしこれが客に対する正しい仕打ちかどうかは、今のにとりには関係が無かった。ただそこに資料があるなら何が何でも手に入れる。そんな強情さもまた研究者には必要なのだ。
にとりは用意された椅子にこしかけ、本の中身を確認する。ところどころに破れたページや消えかかった文字などがあり非常に見難いものだったが、読めなくはなかった。
その間、魔理沙近くの椅子に腰かけ、適当にとった本を読んでいた。霖之助も静かな二人を見て満足そうに店の片づけをしている。
これは人が入らないわけだ。まあ、今はどうでもいいけどね。
にとりはそんな事を思いながらページを進める。
「ふうむ……細胞を確認するためには顕微鏡というものが必要らしい。霖之助さん、その顕微鏡、とやらはある?」
呼ばれた霖之助が顔をあげる。
「どのような用途に使うんだい?」
「目に見えない物を見るための道具」
「ああ、これの事かい?」
そう言ってまたも店の奥に進んで見た事の無い道具を持ってきた。
あるのか。すごいな。感心感心。
にとりはそんな事を思いながら道具を観察する。手渡された道具は錆びついてどうにも使い物にならなそうな物だった。
「これどうやって使うんだよ?」
本から顔をあげ、魔理沙が尋ねる。
「それは……考えれば分かる」
霖之助は言葉に詰まった。確かにこんなものは、関係の無い者にとっては無用の長物かもしれない。しかし、知っている者にとっては非常に心躍る道具だ。
「これはねえ、望遠鏡とよく似ているな。ただレンズの種類が違うのかな。うん、これだけあれば何とかなりそうだ」
錆びた塊を見つめながら、にとりだけは嬉しそうにスケッチをとっている。実に馴れた手つきだ。
その様子をじいっと見ていた霖之助が何かを思いついたように、にとりに話しかける。
「にとり、と言ったかな? これ、持っていくかい? 僕にはこれを有効活用出来そうもないしね」
思いもかけない言葉に、にとりは思わず霖之助の方を向く。その目には、客に対する優しさとある種の期待が見てとれた。
ははん、なるほどな。にとりは霖之助の狙いをすばやく読み取る。
「本当? ありがとう霖之助さん。あんたのお店には面白い道具がいっぱいあると、ちゃんと皆に宣伝しておくよ」
「ああ、それは実に助かるな」
笑顔で会話する二人。しかし実際は言葉よりも目と目で多くの会話をしている。その光景は商談が成立した時の顔だった。
そんな光景を横目に後ろの方で魔理沙が本を開きながらぽそりと呟いた。
「とんだ出来レースだ。茶番も良い所だな」
「ところで、なぜそんなものを?」
「不老不死、とまではいかないまでも、長寿の仕組みを知るための準備段階」
にとりは人に物事を説明する事がすこしばかり苦手である。この時も霖之助の顔にはにとりの言葉を理解しようと、頭をフル回転させているようだった。
「ああ、つまり人間と妖怪には寿命の差がある。その理由を知ろうというわけさ。で、色々調べた結果、生物を形作る最小単位の細胞にその秘密があるんじゃないか、と思ってね」
「なるほど……」
霖之助は意味深そうに呟いた。しかしそれ以上は何も言わなかった。
「まあその道具がガラクタにならないで良かったよ。大切に扱ってくれ」
「当り前さ。それで霖之助さん、ひとつ頼みがあるんだが」
「なんだい?」
「また研究が進んだ時には、是非協力して欲しい」
「僕に出来る範囲で、都合がよければ、ね」
急に無愛想になった霖之助を見て、にとりの頭の中をさっと黒い物が通る。
ああそうですか。興味がないと。でもあんたは半人半妖の最高のサンプルだから手放さないよ。
いけないとは思いつつも、そんな考えが浮かぶ。
ダメだダメだ、そんな事を考えているから皆から怖いといわれるんだ。
思い直して頭の中を空っぽにした。
「にとり、用事はすんだ?」
「ああ、魔理沙。ありがとう。この店は実にいい店だったよ」
お世辞でも何でもなく、にとりにとってこの店の存在は大きかった。道具と資料の調達が同時に済んだのだ。
「じゃあ、また今度。研究が済んだらまた魔理沙を呼ぶから。その時はよろしくね」
それだけを言って、にとりは夕日の中を帰って行った。
「香霖にしては珍しく、何も語らなかったな」
「君たちが僕の話を豆粒ほどしか聞いていないからね」
「それはいつもの事だろう?」
「それにね、彼女……にとりは何か勘違いをしている」
「はあ……」
「幻想郷は科学を捨てたんだ。彼女の行っている行為は、この幻想郷を否定している事と一緒だよ」
「ふうん……」
そう言いながら魔理沙はちらりと霖之助を見ると、霖之助が今まで見たこともないような厳しい表情をしていた。思わず魔理沙は息をのんでしまった。
「なあ、魔理沙。君がにとりの事を友人と思っているなら、にとりの側にいてあげなさい。もしかしたら、彼女は取り返しのつかない事になってしまうかもしれない」
「な……なんでだよ?」
震える声で魔理沙は霖之助に尋ねる。そうして珍しく魔理沙は霖之助の話を最初から最後まで聞いて、暗くなる空と共に息をごくりと飲んだのだった。
まだまだやる事は山積みだ。にとりのドキドキは止まらない。
この気持ち、小さい頃の懐かしい記憶。そうだ、あれに似ている。皆で秘密の基地を造る時の気持ち。この世界はにとりの知らない事だらけだ。
「さあ、次は大本命だね」
香霖堂で貰った顕微鏡を眺めながら、にとりは幸せそうに眠りに落ちた。
次の日の朝、にとりは早速目的地に出かけようと準備をしていた。
「おおい、にとりはいるかい!」
何だこんな時間に。しかも図ったような時間に来たな。
にとりがさっとカーテンを開けると、そこには魔理沙の姿があった。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとその長寿の話が気になってな。私も参加してもいいかい?」
ほう、これは珍しい。てっきりにとりは魔理沙は興味がない物だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
いやしかし、嬉しい誤算だ。仲間がいるという事は、研究だって二倍も三倍も速く進むから。
にとりは思わず顔がにやついてしまう。むう、こんな顔は情けなくて魔理沙に見せられないぞ。
「あがるぜ」
「ああ、待って。顔だけ洗わせてくれ」
洗面台に行って、水を出す。きゅうっと良い音を鳴らして蛇口から水が出る。にとりは顔の筋肉を引き締めるかのように、冷たい水で何回も顔を洗った。
「おまたせ。魔理沙、ご飯は食べたかい?」
「まだだな」
「何なら食べていくかい? 私もまだなんだ」
「にとりがそう言うなら、遠慮なく」
魔理沙がそう言うと、にとりは台所で朝食の準備を始めた。
「なあ、にとり。この研究の最終目標って何だ?」
「うん? そうだなあ……」
言われてにとりは、この研究に明確なビジョンが無い事に気がついた。
確かにこの研究の目的は妖怪の長寿の秘密を探る事。でも、それだけだった。
「最終目標、か。そう言えば決めていなかったな。私は純粋に興味本位でやってるから……」
「そうか。それならそれでいいんだ」
そう言うと魔理沙は呆気なくその話題から身を引いた。
何だ。魔理沙は何を言いたかったんだ?
にとりは少し不思議に思ったが、それはいつもの魔理沙の事だと思い気にも留めなかった。
「そういえば、今日はどこへ行くつもりなんだ?」
「今日は研究の大本命へ取材に行くのさ」
「大本命?」
「永遠亭だよ」
そう言ってにとりは楽しそうにコンロに火をかけた。
「ここが迷いの竹林か。確かに迷いそうだ」
暗く沈んだ空気が漂う迷いの竹林を魔理沙とにとりは進んでいく。二人の先には道案内を頼まれた藤原妹紅が、竹やぶを押しのけながらどんどんと歩いて行く。
「にとりは竹林に入るのは初めて?」
「残念ながら生まれてこの方、病気らしい病気に罹った事がなくてね。切り傷や擦り傷程度なら、数え切れないほど刻んできたが」
魔理沙は何となくわかったような顔をして、そりゃあ大変だなあ、と一言呟いただけだった。
今日の魔理沙は何かおかしい。何が、と言われれば答え辛い所だが、あえて言葉にするなら、にとりに対する関心が薄いとも言えた。
話題を振っておきながら、にとりの答えにはまるで興味がないかのようにふるまう魔理沙。それが演技なのか魔理沙の素の反応なのかをにとりは判断できなかった。
一体何があったのだろうか。
「ほら着いたよ。帰る時はこいつらに頼みなさい」
妹紅に話しかけられて、にとりはふっと顔をあげた。今までの静かで殺伐とした竹林は姿を消し、目の前には時間を忘れたかのように建っている立派で古めいた屋敷があった。
「ここが永遠亭か。立派なお屋敷だ」
「だが、こいつらは一癖も二癖もある厄介ものばかりだぜ」
にとりは魔理沙だって人の事は言えないのでは、と思ったが口には出さなかった。
今、大事な事はそれではない。
「ありがとう」
にとりは妹紅に礼を言うと、別にいいよ、と乾いた砂のようなそっけない返事が返ってくる。そうして妹紅はそのまま、竹林の中へと帰って行った。
「竹林の案内人は随分と乾いているな」
「あいつは火を使うからな。濡れてると火がつきにくいだろ?」
「そういう事を言っているんじゃないんだけど……」
にとりには何となく、妹紅には大きな闇があるように思えるのだ。見かけに反して、生きる事に執着しないような態度、話し方。妹紅が旧地獄よりも深く暗い物によって形作られているように、にとりは感じられた。
彼女たちは一体何を隠しているのか。
魔理沙も、妹紅と名乗った少女も。
にとりには分からない。
「行こうぜ、にとり」
魔理沙の声で、思考から現実へと頭を切り替える。
「ああ」
今はただ、興味のある事だけを。
「あら? 魔理沙さんと、そちらは……」
「河城にとり、と言う者だ」
玄関を開けて出迎えてくれたのは、頭に耳をつけた妖怪だった。にとりは初め、この辺りに住む妖怪ウサギかと思ったが、格好や立振る舞いが明らかに妖怪ウサギのそれではなかった事に違和感を覚えた。
「鈴仙優曇華院イナバと言います。普段はレイセンと呼ばれています」
魔理沙がにとりの後ろから顔を出す。
「よう、久しぶりだな」
魔理沙が挨拶するのを、レイセンはさらりと無視をして話を始めた。
「どなたか病気になられましたか? それとも怪我を?」
レイセンがそう言ってから、ここが医療施設だった事をにとりは思いだした。永遠亭は妖怪の間でも噂になるほど、医療技術に名がある所だ。
「いや、今日は個人的な取材をしたいと思って……」
取材、という単語にレイセンは片方の眉をピクリと吊り上げる。あまり良い反応ではない事が何となく理解できた。
「取材……少し待って」
そう言うと、レイセンは屋敷の奥へと消えて行った。数分後、レイセンの代わりに現れたのは、八意永琳だった。
「おまたせしました。八意永琳と申します」
「河城にとりです。今日は少し聞きたい事があるのだけど……構わないかい?」
「内容によりけりですが……一体何を聞きたいと?」
永琳は少し警戒しているように言葉を選んで喋っていた。それを見たにとりは回りくどい事をしない方が良いと判断した。
「永琳さん、あなたは医者だ。だから単刀直入に聞こう。私は人の老いについて研究をしている。そのための知識が欲しい」
「知識……」
「具体的に言うと、細胞に関する知識を」
しばしの沈黙。
「……奥で話をしましょうか」
永琳はそう言うと、静かに背中を向き屋敷の奥へ消えて行った。にとりと魔理沙も遅れまいと急いで靴を脱ぎ永琳の後を追う。
案内された部屋は永琳の診察所だった。
「どうぞ、腰かけてください」
「ああ、ありがとう」
「さて、最初からお願いしますね」
永琳は鋭い目つきでにとりと魔理沙を睨んだ。ただならぬ様子ににとりは少し驚いた。
一体彼女は何を考えているのだろうか。
「にとりさんは長寿の仕組みを知りたい、と……」
「ええ。そして人が老いることには細胞というものが関係しているらしい。だから永琳さん、あなたなら何かを知っているんじゃないかと思って」
「知らないわ」
即答。
「え?」
「私は何も知らないの。私は薬を作ったり、傷や怪我を治す事は出来ても、細胞とやらに関する知識は何もない」
「そうか……」
残念そうに返事をするにとりに対し、永琳が言葉を続ける。
「質問があるの。にとりさん、あなたは老いる仕組みを知って、一体何をしようと言うの?」
「これは純粋な興味からやっている。今考えている事は、この技術を用いて人間や妖怪の寿命を延ばすことだ」
魔理沙に同じ事を尋ねられた時に、にとりは一応自分なりの答えを考えておいた。それを聞いた永琳は後ろにいる魔理沙をちらりと目を向け、またすぐににとりに話しかける。
「それは魔理沙が望んだ事? それとも他の人間?」
「他人は一切関係ない。魔理沙は好意で私の手伝いをしている」
「永遠の命を手に入れたい、と言う事かしらね」
永琳は全く表情を変えずに、淡々と質問をする。
「生み出せるかどうかは知らない。もっともっと研究が進めば、或いは可能かもしれない。だけどそこは私の分野ではないし、そもそも私はそんな事には興味がない。そのシステムに興味があるだけだ」
「そう……」
永琳は少しだけじっとにとりの目を見ていた。まるでにとりの心の中を探っているような目つきだった。
「とにかく、私に手伝い出来る事は限られているわ」
「そうか……残念だ」
言葉ではそう言いながらも、にとりは永琳の只ならぬ様子に少しばかり戸惑っていた。
確かにこの技術は永琳の医療技術とかぶる事があるかもしれない。
しかし、永琳は儲けを度外視した医療の提供を行っているとも聞いていた。だから、にとりがそうした技術を手に入れても、この永遠亭が金銭の問題に執着するともにとりには思えなかった。
「永琳さん、さっきから怖い顔をしていますが、あなたは一体何を考えているんです?」
こらえきれず、にとりは永琳に尋ねてみる。すると永琳からは意外な答えが返ってきた。
「私が心配している事は、あなたの頭の事ですよ」
「なに?」
先ほどとは全く異なり呆れる様な表情をして、永琳は溜め息をついた。
「そんな細胞だなんていう、訳の分からない物を追いかけて、意味の無い研究に熱をあげているあなたの心と身体が心配です」
永琳の身も蓋もない口調に、にとりは水道管が詰まったかのようにぐうっと怒りがこみ上げてくるのを感じた。しかし、それを抑えて冷静に永琳の言葉を分析する。
永琳は何を私に伝えたいのだろうか。
聡明な彼女の事だ。その横暴とも取れる言葉には裏側があるはずだ。
考えろ。ここで繋がりを断つわけにはいかない。
にとりは知っていた。永琳が不死の薬を飲んでいる事を、魔理沙から聞いていたのだ。
だとすれば、その仕組みを知る事は大きな進歩につながる。
そのために。
冷静に。冷たい水を頭から浴びたように、頭の奥から冷えていく。
心配だと言った。つまり、この研究をやめろと言っているのだろうか。
なぜ。誰かに迷惑がかかるからなのだろうか。
では一体誰に。
分からない。本当に彼女たちの考えている事は分からない。
「何か言いたい事でもありますか?」
「永琳さん、あなたの意見はよくわかりました。しかし、私は一度興味を持つと最後まで自分を止められないんだ。心配してくれているのはありがたいが、ね」
「そうですか。とにかく私は注意しました。あなたは今すぐにこの研究から降りるべきです、とね」
そして二回目の沈黙。今度は長かった。にとりの後ろで魔理沙がじいっと事の顛末を見守っていた。
魔理沙が珍しく、何も言わなかった事ににとりは少しだけ関心を引かれた。
「……ご忠告、ありがとうございます。あまり長居をしてもご迷惑がかかるので、失礼します」
にとりは丁寧にお辞儀をして、診察室から出ていった。魔理沙は何も言わずににとりの後をついて行く。
永遠亭を出ると、帰り道を案内するための兎が並んでいた。にとり達に気付くとすぐに走りだし、こちらへ来いと手招きをしている。
「……にとり、怒っているのか?」
竹林を進む途中で、恐る恐るという感じで魔理沙はにとりに話しかける。
「ううん、怒るというよりは困惑している、と言った方がいいかもしれないな。まさかあんな断り方をされるとは思いもしなかった」
苦笑いをするにとり。それに魔理沙がすぐに答えた。
「やっぱりさ、永琳があんな変な怒り方をするって事は、この研究はやめた方がいいかもしれないぜ」
「なんだ、魔理沙まで。そんなに私の事が心配かい? それは別にいいんだけど、具体的な話が見えてこないんだ。理由もなく、禁止にされても困るんだよねえ」
「……それもそうだな。いやなに、私はにとりがそれでいいなら別にいいんだ」
「おいおい、魔理沙。魔理沙は私に研究を続けてほしいのか、止めてほしいのかどっちなんだい?」
にこりと笑いながらにとりは魔理沙に尋ねると、魔理沙もにやりと笑っていた。
「私はにとりが元気ならそれでいいんだ。何かあったらすぐに連絡してくれよ」
その笑顔は乾いたものだった。にとりは、不意に妹紅の事を思い出した。
何かを隠している奴の笑顔は、なぜどこか乾いて見えるのだろうか。
にとりはふとそんな事を考えた。
永遠亭を出た後、にとりはすぐに顕微鏡の開発に着手した。顕微鏡は原形があったおかげですぐに完成し、にとりはお手製のガラス板を用いて微細な世界へと足を踏み入れた。
香霖堂から貰った生物学なる本も大いににとりの役にたった。たぶんにとりが一人で行うと100年かかる情報が、その本には詰まっていた。道具や試薬を作るのは河童の技術でどうにでもなる。にとりはまさに破竹の勢いで次々と機材の開発を進めて行った。
その間、魔理沙は毎日訪ねてきてはにとりの様子をうかがっていた。体調は悪くないか、何か困った事は無いか、悩みは無いか。まるでにとりが病気にかかった時のように一日一回、必ず朝に魔理沙は訪れた。
「なんで、魔理沙は毎日私の所に来るんだい?」
気になってそう尋ねた事もある。
「にとりの研究がどれだけ進んだかなと思って。それだけ」
素っ気なく魔理沙は答えたが、いささか過保護すぎる気もした。
前までの魔理沙なら、ふらっと現れて適当な事を言ってそのまま帰るだろう。
今はどうだろうか。にとりの研究に興味があるというよりは、むしろにとりに気があるようだった。
なぜ、私なのか。
ううん、わからん。
「ふあっ……っと」
にとりが眠そうに顕微鏡から顔をあげると、辺りはもうすっかりと暗くなっていた。
この家で研究を続けるのは、少し無理かもしれないとにとりは最近思い始めていた。にとりの家は様々な道具があるが、部屋には物が溢れすぎて細かい作業をするのにはあまり向いていない。
山の中腹にある、自分の研究所へ引っ越そうか。研究所ならこの研究にぴったりの装備が出来るはずだ。
にとりはそう思いながら、ベッドに横になる。
暗い夜の中から響き渡る美しい虫の音を聞きながら、にとりは瞼を閉じる。
そうして、あの永遠亭での一件を、蒸し返すように思いだした。
何をしようと、私の勝手じゃないか。
永琳の黒い瞳の先には、にとりの何が映っていたのか。そんな事を思いながら、にとりは毎晩眠りに就くのだった。
それからさらに幾日かが経った。にとりは予定していた通り、研究所には順調に機材や薬品をそろえ、水も食糧もエネルギーも十分に詰め込んだ。
「魔理沙、私は明日から研究所に住む事にした。だからしばらくは会えないだろう」
魔理沙がにとりお手製の椅子に腰かけて、お茶を飲む。それがいつもの朝の風景になっていた。そんな中で、お茶を飲んでいた魔理沙はへえっと驚いた顔をしてにとりを見つめていた。
「いつのまに準備をしていたんだ?」
「ふふ、このにとりにかかれば建物一件ぐらいの建設など造作もない」
「私の家も建て直してほしいぜ」
魔理沙は右手にカップを持ったまま、軽く冗談を言う。
「友達のよしみだ。中を好き勝手にさせてくれるなら、いいよ」
にとりが満月の晩に魅せる、怪しげな笑顔を浮かべると魔理沙は困ったように笑った。
「やっぱりやめとくぜ。にとりの中は、怖すぎる」
「そうか、実に残念だ」
そうして魔理沙はふと思い出したようににとりに尋ねる。
「なあ、にとり、その研究所ってどこにあるんだ?」
「残念ながら、それは教えられないな」
「なんで? いいじゃん、別に」
「私の開発の最先端があそこにはあるからな。魔理沙と言えど、私の最新の技術は教えられないよ」
「でも……」
「大丈夫さ。一か月したらこの家に帰ってくる。向こうには一カ月分のエネルギーしか蓄えていないから」
不安そうに見つめる魔理沙に、にとりはにこりと笑った。
生い茂る木々を抜けると、急にぽっかりと空間があいて、神社より一回りほど小さい建物がある。灰色の壁で作られた、四角い建物。効率性だけを重視したデザインは、あまりおしゃれとも言えなかったが、にとりにとってはこの研究所は別荘のようなものだった。衣服や燃料、保存食も大量にある。人一人が半年は暮らせるほどのエネルギーと食糧がこの研究所には積み込まれていた。
眩しい太陽に照らされた建物を見上げ、にとりは高鳴る胸の鼓動を抑えきれなかった。
「いよいよだな」
しばらくは中の掃除と片付けに追われていたが、もう三日もすると全部が終わった。
四日目に、にとりは本格的に研究に身を乗り出す。
まずは植物で細胞の培養や顕微鏡などの道具の使い方を一通り研究した。ぶっつけ本番では失敗する事は目に見えていたからだ。
そして次の日。いよいよ、動物の、自分の細胞の番が来た。
にとりは綿棒を用いて、口の粘膜から自分の細胞をとりだした。当然、細胞培養の準備も出来ている。
さあ、一体何が見えるのだろうか。
人間と妖怪を分け隔て、その生命力の差を生みだす物は一体何なのか。
にとりはそっと顕微鏡の中を覗く。白く明るい光が目を照らす。
右手でくるくるとネジを回し、左手で細胞が乗せられたガラスを動かす。
要領よく、しかし視界に映る物体を一つも見逃さぬよう注視する。
だが、そこには何もない。
ただ光に照らされ、真っ白になったレンズとそこに横たわり死んだように漂う埃が見えるだけだ。
「……どこにいった? 私の細胞は……」
にとりは光を調節したり、ガラス板をくるくる回して確認したが全く異常は見られなかった。
「これはおかしいな……」
ぶつぶつと独り言を言いながら、にとりは次々とガラス板を顕微鏡で観察した。だが、そのどれもが何も映らなかったのだ。
どういう事だ。今までに見えるのは、植物から採った組織だけだ。動物の細胞は、まるで迷彩をつけているかのように全く見えない。
にとりはしばらく天井を向いて、そっと目を閉じた。
私の方法が間違っていたのだろうか。
だとしたらどこで?
考えろ。考えろ。
そっと目を開けて、急いで資料に目を通す。過去の実験、データ、その考察。あらゆる資料に目を通した。何回も読んだ資料の紙はくたびれて黒ずんでいる。それでも、見落としが無いかをにとりはチェックする。
そうしているうちにすっかりと夜が明け、空には陽が昇っていた。
空を飛ぶ鳥の鳴き声が恨めしい。
こんなにも清々しくない朝は初めてだ、とにとりは思う。
まとめた資料の山に目配せをして、にとりは深い溜め息をついた。
次の日からもにとりは顕微鏡と格闘する日が続いた。顕微鏡の機能向上、細胞の染色方法、細胞の採取部位の変更。
にとりが考えられるあらゆる事象を変えても、結果は変わらなかった。
まるでそこには元から何も無かったかのように、細胞はその姿をにとりに見せてはくれなかった。
全く進展がなく、ただただ徒労に終わる時間ばかりが過ぎていく。それに比例してにとりの精神は削り取られて行った。
何度目かになるか分からない実験の、これまた数えるのも億劫になるほどのデータの山を整理しながら、まるで鰹節を削るみたいに精神が削られていくようだとにとりは思った。
もう本体の方は少ししか残っていないのではないか。
いっそこの削りかすを煮詰めて出汁をとり、味噌汁にして飲み干したい。
むしろそれでもいいんじゃないか?
そこまで考えて、はあっとため息一つく。
そんな事で、この研究を諦め切れるのか。
それはない。河童の川流れぐらいあり得ない話だぞ。
頭を横に振り、再び試験管と顕微鏡に目をやった。
もうここまできたら引き返せない。
一体ここまでにとりを突き動かす物は何なのか、にとり自身も分からなかった。負けず嫌いの精神なのか、研究者としてのプライドなのか。
もう分からん。
一息つこうと、にとりはビーカーに水を入れて、ガスバーナーで水を沸かす。その間にお茶のパックをとりだしそのビーカーにつけ、簡易のお茶を作る。本日何度目かになるか分からない、熱いお茶の時間。研究の合間に飲むこのお茶は、今となってはにとりの大事な日課となっていた。娯楽が無い施設の中では、寝る食うという生きるための欲求が最大の楽しみとなる事を、にとりは体で実感していた。
それにしてもビーカーで飲むお茶と言うのは、あまり気持ちがよくないな。今度来るときはマイカップを用意しよう。
そんな事を思いながら、レポートにひと言書き添える。
今日も進展なし、と。
レポートにそう書き終えて、にとりはふらふらと研究室を出て行った。
ふと外を見るとオレンジ色の西日が廊下を照らしている。その太陽の色は今のにとりにとって、あまり美しい物だとは思えなかった。
「ふあ……」
また朝がやってきた。しかし、身体は昨日のけだるさを残したままだった。
気力の限界なのか、最近にとりは昼ごろまで寝てしまう癖がついた。決して夜更かしをしているわけではないのだが、なぜか身体が睡眠時間を長く欲するようになっていた。精神的な疲れなのだろう、機械の開発に詰まった時にもたまに見られた兆候だった。
ここまでひどいのは初めてだな、とにとりは思った。
ベッドから起き上がり、熱いお茶を入れる。それを見つめながらにとりは、食糧や水も切れてきたからここらでいったん切りあげるか、と考えた。疲れた身体と心ではこれ以上の進展は難しいだろうと考えたのだ。
そうして、にとりは久しぶりに研究所の外へ出た。外は雲ひとつない快晴で、気分転換の散歩にはぴったりだった。
にとりはゆっくりと身体を伸ばした。久しぶりに見た日の光が目の奥を刺激する。辺りはすっかり秋めいていた。この研究所へ入ったのは夏の終わりで、その時はまだ青々としていた木々の葉が、少しずつ赤色に染まりだしている。
河童の里へ帰ろうか。にとりはそう思い、足早に里へと向かった。
「ああ、久しぶり。にとり」
河童の同僚が声をかける。にとりはそれに愛想よく返事をした。
「研究は進んでいるかい?」
同僚がそう聞くと、にとりは少しだけ苦笑いをして、顔の前で手を横に振る。
「いや、さっぱりだ」
「そうか……にとりの研究は難しいからなあ。私も手伝い気持ちは山々なんだが」
「いや、いいんだ。研究は好きな事じゃないと続けられない。興味が沸いたら、また手伝いに来てよ」
「それもそうだな。じゃあ、またな」
そう言って、同僚は帰って行った。
しかしにとりには分かっていた。派手好きな妖怪は、派手な研究しかしないという事も。今にとりが研究している、細胞など誰も興味を持たないであろう。そういった点でにとりは他の河童達とは少し違った感性の持ち主だとも言える。
にとりは自分の家に帰った。家の中はしんとしており、にとりが住む以前よりも古ぼけて見えた。
「お帰り、にとり」
呼ばれると、そこには魔理沙がいた。顔は笑っていたが、毎日にとりの帰りを待っていた、という表情だ。
「心配をかけた。魔理沙は元気だったかい?」
「おかげ様で。で、研究の方はどうだった?」
「さっぱりだよ。」
にとりはお手上げだと言わんばかりに両手をあげた。それを見た魔理沙はそりゃ残念だと豪快に笑い飛ばす。
少しあざといぐらいに。
「ま、私は寿命なんかこれっぽっちも気にした事は無いけどな」
「ふうん……ま、私はこれからもこの研究は続けるけどな。あと少しで何かが見えてきそうなんだ」
嬉しそうににとりがそう言うと、魔理沙の表情が急に曇りだした。
「まだ、続けるつもりか?」
それはにとりが今まで聞いた事の無い、魔理沙の本気の忠告だった。
「……」
にとりは驚いた。反対される事は少しだけ覚悟していたが、ここまで凄みをかけられるとは思ってもいなかった。
「どうしたんだ? 魔理沙」
「にとり、はっきり言うぞ。その研究はやめた方がいい」
「なぜ? 理由を聞きたい」
「お前は信じないかもしれない。けれど、私の勘がこれ以上この案件に関わると良くないと言っているんだ。それは香霖だってそう思っている」
「驚いた。あの道具屋の店主も反対していたのか」
「香霖は言っていた。この実験は妖怪が妖怪たらしめる存在の力を失わせると。にとりが見ようとしている細胞なんてものは無いんだよ。だから」
魔理沙の言葉を遮って、にとりは叫んだ。
「細胞が無いだって? 笑わせないでほしいな、魔理沙。じゃあ私たちは一体何で出来ているんだ? 鉄か、粘土か、それとも藁か。いずれにしても、存在の力なんて言う、訳の分からない物で出来ているはずがないだろう」
「何で分からないんだ!! 普通に考えれば分かる事だろう? ここは幻想郷だぞ!!」
「普通って何だ? 最小単位が無い事が普通ならば、私たちは普通、存在しない事になるぞ。幻想郷だろうと何だろうと、私はこの研究をやめるつもりは無い。仮に私がその存在の力とやらで作られているのなら、それを生み出している物を見つけるまでだ。見えない物など、何も無い。ありもしない力など、私は信用しないぞ」
にとりが澄ましたようにそう言うと、魔理沙は八卦炉をにとりに向けた。その表情は怒っているような、心配しているような、泣いているような、そんなたくさんの感情が入り混じった物になっていた。
じっとにとりを睨む魔理沙。にとりも負けじと睨みつける。
長い沈黙。魔理沙の荒い息が聞こえてくる。
にとりは自分の心臓が高鳴っているのを感じていた。
だが全く爽快感などなく。
一つ心臓が打つたびに、疲労がたまる。
ああ、何でこうなってしまったのだろうか。
分からない。
もう、本当に分からない。
魔理沙がそっと腕を下ろし、唾を吐き捨てる様に叫んだ。
「人の忠告を無視して……ああ、分かったよ。どうなってもしらないからな。にとり、その先は私はもうついていけない。さよならだ」
それだけ言って、魔理沙は飛んで行った。
にとりは椅子にどんと腰掛ける。そのまま、長いため息がこぼれた。
「ばかに疲れた……」
それだけ言って、ずっと俯いたまま動けなかった。
しばらく家でゆっくりと過ごしたにとりは、再び大量の水と食料をかついで研究所に戻ってきた。
魔理沙の事が少しばかり頭に残っていたが、気にしない事に徹した。
「あと少しなんだ。これで、もう終わりだ」
すこしだけ充血した目でぎろりと研究所を睨む。
決着をつけてやる。
にとりは静かな闘志に燃えていた。
それからさらに数日。
にとりは未だに自分の細胞を観察できずにいた。
昼になって、にとりはそろそろお昼ご飯にしようと思った。透過光を利用したタンパク検出器にガラス板を突っ込む。
そこでふとにとりは思いついた。
もしも魔理沙の言うように細胞なんてものが無いのなら、私の細胞を塗りつけたガラス板からタンパクなど検出されない事になる。
そんなバカなことは無いと今まで踏んでいたが、ガラス板に塗りつける事で、細胞が壊れている可能性はある。
にとりはしばらく考えて、物は試しだと思い、自分の細胞を塗りつけたガラス板を検出器に突っ込んだ。
まあ、これで0と出たら、魔理沙の言い分を信じていいかもね。
そんな事を思いながら、機械にスイッチを入れる。重たい音をあげて、機械が唸りだす。その間に、熱いお茶の一杯を飲もうと、にとりは部屋を後にした。
一時間ばかり経った後、にとりは記録用紙に目を通す。
「あれ?」
機械は0を示していた。これはつまり、ガラスには何も付着していない、という証拠に他ならなかった。
だが、ガラス板にははっきりと、細胞を塗りつけたはずだった。
機械は壊れていない。
確かに細胞も塗りつけた。それがこの短時間で無くなるはずもない。
ではなぜ、数値は0なのか。
0とは何も無い事だ。つまり、ガラス板に細胞は無いということなのか。
それはおかしい。あり得ない。
物体が突然消えるなど、考えられない。
化学反応か。いや、タンパクは変性する事はあっても、消失するなど考えられない。
じゃあなぜ。
にとりはその場で固まった。動けなかった、というべきだった。
その後、光の波長を変えても、ガラス板を何枚も変えても、結果は変わらなかった。
0の意味するもの。それは、そこに何も無いという事。
信じられない結果だった。
つまり私と言う生き物は、細胞などではなく、現実にありもしない物体で作られている、ということなのか。
それはいくらなんでも横暴ではないか、と思う。髪の毛を炎に晒せば焦げが生じる。そこには確かに『髪の毛』という物質があり、それは細胞から出来ているはずだ。
細胞が無いなど、考えられない。仮に無かったとしても、じゃあ、この目に見えている自分の体は一体何からできている。
鉄でもアルミでも、硫黄や窒素でも何でもいい。とにかく、無いとはどういう事なのか。
「違うぞ。ここにあるはずだ。みえていないだけだ」
にとりはそう言いながら、嫌な想像をしてしまった自分を頭の中から取り払う。
机の上にある資料を片っ端から投げ捨て、息も整わぬうちに部屋から出る。寝室にたどり着き、乱暴にお茶をコップに注ぐと、それを一気に飲み干した。
悪い夢を見ているようだった。ぐったりと椅子に腰かけ、真っ白な天井を見つめる。
これは何かの間違いだろうか。
にとりはあらゆる可能性を考える。
だが目の前の事実はにとりの科学的な思考を遮ってしまう。
都合のつかない真実は光を当てても影すら残さず消えていく。
どこかの電球が切れたのか、部屋の明かりがちらちらと瞬いていた。
にとりの気分もこの電球のように揺れ動いたままだった。
しばらくにとりはこの矛盾と戦っていた。しかし、戦果は全く上がらない。砂絵を描いている時のように、描いた絵が次々と流されて行く。にとりは次第に妄想に苛まれていった。
魔理沙の言葉が、にとりの心を締め付ける。
私は認めない。私は私の細胞からできているのだ。
決して、訳の分からない力で出来ているはずがないのだ。
そうでなければ、この河城にとりは一体何者なんだ?
この世界は、幻想で。
河城にとりは誰かが作り上げた人形で。
幻想郷と言う小さな鳥かごの中で生かされて。
「はっ……!」
ベッドから飛び起きる。眠りについてからまだ一時間も経っていなかった。
なぜか、自分が人形だという夢を最近見る。
「くそう……一体何なんだ……」
自分が何で出来ているかもわからずに。
生きていく事など出来はしない。
河城にとりはここにいるぞ。
「河城にとりはここにいるぞ」
暗く暗く暗く。
無音無音無音。
目に映るは幻想か。それとも、他人の造り物の世界か。
こんな夜には夢から覚めてもいらぬ想像をしてしまう。
まさか、私たちは、幻なのか。人間以外は、誰かの見ている夢? しかし、この河城にとりは確かに存在する。
存在。本当なのか。
それは誰が決めた。神か、他人か、自分か?
自分が幻ならば、他人なのか。
分からない。自分の事が分からない。
そんな事は、あるはずがないのだ。
だが、にとりの最も頼りにしていた科学はそれを証明してしまった。
「くう……」
思わずえずく。だが、食事をとっていなかったため、何も出てこなかった。
ただただ気分が悪いだけだ。
来る日も来る日も、にとりは血眼になって細胞を探しまわった。ある時は必要以上の肉をそぎ落とし、またある時は全身の血をぎりぎりまで抜いて。
だが、目に見えなくなった途端にそれらの物質はにとりの視界から消えて行った。
血で真っ赤になったガラス板は、顕微鏡を通しても透明なままだ。
なぜだ。なぜ消えてしまう。
私の消えた細胞たちは、どこに行くのか。
いやだいやだいやだ。
部屋は無造作に散らばった紙と、ガラス板、それに造っては壊していった機械の山で汚れていた。
次第ににとりはやつれていった。もう、実験する事さえ億劫になり、食事も喉を通らなくなっていった。
「誰か、私の細胞を返してくれ……」
あちこちに切り傷がある。至る所に血のシミがある。キレイな研究室は、その片りんすらも残していない。
一体私の細胞を盗む奴は誰なんだ。
にとりはよくわからない被害妄想に囚われていた。
何かに気がついては、辺りを見回す。しかし研究室には誰もいない。
地獄のような毎日。
音もない。空気も薄い。皮膚の感覚はマヒし、目は何物をも映してはいなかった。
そんな日々が続いたある日、とうとうにとりに限界が来た。
暗く沈んだ先に、一筋の光が見える。鋭く、禍々しいその光はにとりを強烈に引きつける。
そうか。わからなければ、試せばいい。
この世界が幻と言うのなら、幻である証拠を見せればいい。
幻の世界で死んでも、現実の私は死なない。
光に手を伸ばすと、意外に早く手に取れた。
手にずっしりとくる重み。
今までにない、絶望と高揚。
そうだ、私が何者なのかは、こうすればいいんだ。
外部に対する感覚は、もはや微塵も働いていなかった。虚ろなにとりの両目は、抽象的な世界しか映していない。
手に取った光を、にとりはそっと顔に近づけ、そして
「うわ……」
にとりは壊れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
同時にカランと手に持ったナイフが落ちた。それはもう光を失い、ただの物体と化していた。
赤く黒光りする液体がにとりからじわりと流れ出る。
「ほら、見ろ。幻なんかじゃなかった。さあ、この実験結果を、紙に纏めないといけない。魔理沙、ほら早く。早くメモをしてくれ」
誰もいない部屋に響き渡ったにとりの声は、赤く塗られた床に吸い取られ反響することなく消えて行った。
にとりが目を覚ますと、歪んだ世界がそこにはあった。赤黒い歪んだ縞模様で構成された、何も無い世界。一目で幻想郷のどこにも存在しない、奇妙な世界だとにとりは直感で理解した。理由は分からなかった。
「それでいいのよ。理由なんて、只の後付け」
声が聞こえて、にとりは辺りを見回した。だが、少なくともにとりの視界には何者も映っていない。
「誰だい?」
「ここはどこだと思う?」
「私の言葉は届かないらしいね」
「だいたい、あなたが考えている事と同じよ」
「……」
にとりは目をつむり、身体の力を抜いてじっとしていた。すると、縞模様の中からぽっかりとガマ口のような穴があいた。
「賢いわね、あなた。でも、今回はその賢さが仇となったわ」
黒いガマ口の中から出てきたのは、胡散臭い妖怪ナンバーワンの異名を持つ、八雲紫だった。にとりは目をゆっくりと開き、噂の大妖怪をしかと目に焼き付けた。
「初めまして。紫さん。それで、私がどうしたって?」
「にとり、と言ったかしら? あなたがここまでこれたのも、何かの縁ね」
「来れた? 私はてっきり紫さんに連れてこられたかと思いましたけど」
「あなたは自分でこの世界に来たのよ。もう少し嬉しそうにしたらどうなの」
嬉しそうにだなんて到底無理だ、とにとりは思った。
「なあ、教えてくれないか。私たちは何者なんだ? 妖怪ってのは、所詮だれかの空想でしかないのか?」
「それを知ってあなたはどうするの?」
「いや……」
「この幻想郷では、自分を疑う事がそのまま死につながるのよ。覚えておきなさい」
笑って答える紫。にとりはその表情から紫の意図を汲み取ろうと考えた。
自分を疑う事。
ここに自分がいるという感覚。
バカらしい、とにとりは呆れた。
「不都合な事は全部闇に葬り去られたわけか」
「いいえ。幻想郷での不都合な事は外の世界の都合のいい事に変えられているだけ。その逆もまたしかりよ。それが科学の世界と魔法の世界の関係」
「ふうん……科学を捨てた、幻想郷の真髄を見れた気がしたよ。はっきり言えば、あまり気持ちの良い物じゃなかったけどね」
「にとり、あなたは鋭い目を持っている。物事を冷静に分析できる客観性もある。ただ、今回の事はあなたには荷が重すぎた。それだけの事よ」
「河童は色々な道具を造っている。それは科学じゃないのかい?」
「河童達の道具はあくまで技術。技術は科学を利用し、科学とは大雑把にいえば原理を見つける学問よ。つまりこの幻想郷は原理そのものを否定し、結果のみに目を向けさせた世界とも言える。だから、よくわからないけれど空が飛べる。理由は知らないけれど、幽霊が見える。原理を見つけると、そうした結果の世界を見失う。そうして出来た世界が外の世界だということよ」
「つまり幻想郷は原理が無く不安定だってこと?」
「それを補うために、言葉の力が物を言うの。思いこみで幻想郷は造られている。外の世界も幻想郷も、どちらも目に見えない物で形作られているが、その意味は大きく違うというわけ」
「なるほどねえ……まあつまり、妖怪は何も考えず、目の前の祭りに一生懸命になればいいってことかな」
「それもまた、一つの真理ね」
にとりは何だか可笑しくなってきた。この異世界で、自分は一体何を話しているのだろうと。
「実体を持つ人間は楽でいいわね」
紫が笑ってそう言った。その言葉はにとりの胸にある種の波を起たせ、それは全身をくまなく駆け巡った。
それが答えなのか。
「どうやら、私ではこの世界を理解できないらしい。だから、存在の力が消えうせてしまっている。それなのに、あんたは大したものだ。それを理解したうえで、なお自分の中にその理論を組み込んだ。そりゃあ、強いはずだ。この幻想郷で何が起ころうとも、あんただけは自分を見失わずに済むだろう。あんたが大妖怪で、たった一人しかいない理由がわかったよ。誰もあんたのスペックに追いつけないんだ。存在の力からなる妖怪を、超えたんだ。お前はもう妖怪じゃない。私たちとは全く違う次元にいる、神にも等しい存在だな」
にとりは何かを悟ったように虫の抜け殻のように乾いた声で呟いた。
「急におしゃべりになって、一体どうしたの。苦しいなら、もうお帰り。ここはあなたのいるべき世界ではない」
紫がそう言うと、にとりは意識と身体が分離されるような感覚に陥った。どうやら、この異世界から抜け出してもらえるらしい。
その前に、にとりには紫に確認したい事を聞いてみた。
「紫さん。私は千年かけて、あなたになれるでしょうか?」
数字に意味は無い。それは『いつか』という抽象的な概念の中にある、具体的な物だった。
「いいえ。千年では無理よ」
微笑を浮かべ、紫はそっと手を伸ばす。にとりは次第におぼろげになる意識に、抵抗せずに身体を預けた。
再び目を覚ますと、今度は茶色い天井が見えた。木目が見える所を見ると木製の天井なのだろう。この見慣れた色彩はにとりの胸に安堵をもたらした。
帰ってきたのだ。あの部屋から。
記憶も消してくれたらよかったのに。あのスキマ妖怪め。
「目が覚めましたか?」
呼ばれて横を見ると、そこには永琳が立っている。声を出そうとしたが、喉を空気が抜けるだけで、声にならなかった。
「無理をしないでください。あなた、自分で喉を切り裂いたから喉が潰れてしまったのよ。もうじき私の薬で声が出る様になるけれど、それまでは我慢して頂戴」
永琳は綿のように優しい声でそう言った。にとりは上半身を起こし、近くに置いてあった白い紙と鉛筆を手に取った。きっとこうなるだろうと予想して永琳が置いたのだろう、とにとりは勝手に想像した。
『あなたは、私が自分に疑問を抱き、そしてこうなる事を予想した?』
真っ白な紙に黒い線が走る。にとりが永琳に紙を手渡すと、永琳は苦笑しながら何となく、と言った。
「私だって長い間生きていますから。そんな疑問を抱くことだってありますよ。でもね、私は怖くなって、途中で放棄したわ。自分で言うのもなんだけど、このまま走ると、自分がどうなるかが分かってしまった。その点では、あなたよりも賢かった」
あっけらかんとした口調で話す永琳を見ると、その思い出は随分昔の事を話しているように、にとりには感じられた。
『気付いてしまった私はどうすりゃいいんだ』
「どうしようもないわ。それを背負って、生きていくしかない。この世界はよくわからない事だらけよねえ。だからこそ、幻想郷と言われるのかしら」
永琳は窓の外を見て、独り言のように呟いた。同じようににとりも窓の外を見る。透き通るような晴天に、暇を持て余し無気力に漂っている白い雲が見えた。
ここが私のいる幻想郷。
夢か真か、この空に漂う雲のように儚く脆い世界。
けれど私は生きている。ここにいる。
参ったなあ、とにとりは声にならない独りごとを吐いた。
こんこんとノックの音がした。にとりがうなずくと、永琳がいいですよと声をかける。
現れたのは魔理沙だった。
「にとり……」
「……」
そんな顔するなよ、とにとりが言いたくなるほど、魔理沙は泣きそうな表情をしていた。にとりは永琳に目で合図する。
「では、何かあったら呼んでください」
永琳は突っ立っている魔理沙の横を通り、部屋から出て行った。にとりが手招きをして魔理沙を呼び寄せる。
「喉は、その……大丈夫なのか?」
にとりはにこりと笑って、白い紙にさらさらと文字を書く。
『数日で治るそうだ。なに、魔理沙のせいじゃない。私が悪かった。魔理沙の忠告も聞かず、自分勝手に研究をしてしまった結果だ』
「にとり……私は……」
『ごめん。魔理沙。心配掛けた』
そこまで書いて、にとりは瞳からこぼれる涙を抑えきれなかった。
友人に心配をかけてしまった。
以前、にとりは永琳に忠告をされた時に、誰に迷惑がかかるのだろうと考えた。
そうだ、あのときから私はおかしかったのだ。
魔理沙の事を全く考えていなかった。
にとりが傷つく事で、悲しむ人がいる事を初めて気づいた。
愚かな。何と愚かなことだ。
「おいおい、にとり……」
戸惑う魔理沙に、にとりは涙をいっぱいに溜めて笑いかけた。
大丈夫だよ、魔理沙。
その気持ちが伝わる様に、精一杯笑顔を作った。
風が吹いたのか、窓のカーテンが少しだけ揺れて、にとりの肌を風が触れて行った。
にとりが地霊の核の技術について知ったのは偶然だった。
そしてこれはおもしろいと、にとりは魔理沙に地霊殿に向かわせたのだ。
だって鬼が怖い。
単純な理由だが、地震よりも怖い存在だ。だから魔理沙をけし掛けて、核の技術を手に入れようとした。
では一体核の技術で何をしようとしていたのか。
にとりの頭の中には、ある構想があった。
核の力は、それはもう想像もできないほどのエネルギーがある。
これを使って、空間に歪みを生じさせ、向こう側へ乗り込もうと思っていたのだ。
懲りない、と言えばそれまでかもしれない。しかし、にとりには是非、世界の真理を知りたという欲求があった。
紫は言った。思いこみで幻想郷は作られる。
それならば、この幻想郷は誰かに造られている、と強く思う事でそれを現実にする事も可能なのではないか。
妖怪は祭り好きだ。この世紀の大実験は、お祭り騒ぎを起こすには十分じゃないか。
にとりはそう考えていた。
「これでよし……ちゃんと撮れているかな?」
にとりは最近ビデオカメラなるものを開発した。連続画像、いわゆる動画を記録する機械だ。
これを魔理沙に持たせて、地霊殿の中を見ようというのだ。まだまだ試作段階で、到底使い物にはならなかったが。
にとりはカメラの画面から、挑発的に笑いながらこう言った。
「いつか必ず、そっち側へ行くから、首を洗って待っていろよ」
たぶん、そのメッセージは届いているだろう。
八雲紫はその中で、憂うべき事態に遭遇した。
久しぶりね、ここのスキマに入った者は。
嬉しいような、少し怖いような、そんな雑多な感情が紫の中を駆け巡る。
「紫様、どうされましたか?」
「藍、私はしばらくここを空けるわ。しっかりと管理して頂戴」
「はい」
後ろにいる八雲藍に後を任せると、紫はスキマの中へと自ら落ちていった。
今回は拾い上げてあげる。感謝しなさい。
紫はにやりと笑って、スキマの中を落下していく。
深く深く、世界のスキマに嵌った者のために。
人間である魔理沙がにとりのところへ遊びに来た。その時、にとりは新しい機械の設計図は考えていた。
にとりの家は様々な小道具であふれかえっている。鉄鋼類、図面を書き起こすための紙や鉛筆、工具、熱電源など、探せばきりがないほどだ。二階にはたくさんの本と寝室がある。
「よお、遊びに来たぜ」
朗らかな顔で魔理沙はにとりに話しかける。にとりも久しぶりに会う人間に自然と笑顔になった。
「魔理沙か。どうした?」
「今度はどんな物作っているんだ?」
「空飛ぶ箒」
「は?」
魔理沙は意をつかれた猫のような顔をした。にとりは説明するように喋る。
「勝手に空を飛んでくれる、素晴らしい機械を造っている。まあ、サイズは箒どころではなくなるがね」
「そんなの、自分で飛べばいいじゃん」
「飛べない者はどうする? それにこの機械は二人以上を運ぶために造っているんだ」
「ああ……そういう考え方もあるのか。私には必要ないな」
そう言って魔理沙はにとりの工房をじろりと一瞥した。魔理沙は物がひしめき合っている所へ来ると、何か面白い物は無いかと目で物色する癖があった。
にとりはそんな魔理沙の姿に溜息をついた。魔理沙は好奇心旺盛で努力家だから、人間にしては高度な魔法を習得し、様々な知識を得ようとする。どちらも研究者として必要で、何よりも大切な心だ。そのためにとりは魔理沙を少しだけ特別視していたのだ。人間である魔理沙は我々妖怪とは違う視点、技術を与えてくれるのではないか。そんな期待をしていた。
だが、現実はそううまくは行かない。魔理沙はにとりが思っている以上に頑固で、お世辞にも視野が広いとは言えなかった。
自力で飛ぶ事が当たり前だからこそ、この機械を考える事に意義が出来るのだ。
「魔理沙、物事を一つの見方で捉えていては成長できなくなるぞ」
「私は成長しなくていいんだぜ。成長すると、生きている時間が減ってしまう」
またそんな屁理屈をとにとりは言いたかったが、それを言葉にするのも面倒くさくなってやめた。魔理沙がそう思っているのなら仕方がない。今は自分の研究の事だけを考えればいい。
「まあいいや。あまり好き勝手触って壊さないでくれよ」
にとりがそう念を押すと、ああ、という生返事が返ってくる。魔理沙は二階へ移動したようだった。二階には壊れるようなものは無いと安心したにとりは再び図面と向き合って手を動かす。
しばらくして魔理沙が降りてくる。手ぶらの所を見ると、収穫は無かったようである。
「気は済んだかい?」
にとりが声を掛けると、魔理沙はそうでもないさ、と言って近くにある椅子に腰かける。にとりは先ほど煎れたお茶を、空のコップに入れて魔理沙に差し出した。
「河童特製のお茶。要るかい?」
「遠慮なく貰うぜ」
魔理沙はにとりから貰ったお茶を一気に飲み干した。喉が渇いていたのならば言ってくれても良かったのにと、にとりは思った。たぶん魔理沙が遠慮したのだろう。普段は図々しい様に見えて、変な所で気を使うのも魔理沙のくせだった。
「ありがとう。美味しかったぜ、このきゅうり味のお茶」
「そうか。それは良かった」
「にとりはいろんな機械を造っているんだな」
「そりゃあ、好きだからね。自然とその量も多くなっていくさ。魔理沙もやってみると良い、機械は楽しいよ」
魔理沙は少しだけ悲しそうに笑って断った。その表情は冬になる前に葉を散らす木々のように寂しいものだった。
「私は寿命が短いからな。魔法だけで一生を費やしてしまう」
にとりはその言葉を聞いて、申し訳ない気持ちになった。普段は意識しないが魔理沙は人間なのだ。妖怪と違い寿命がとても短い。
「そうか……残念だ」
「長寿の魔法でも覚えたら話は別だけどな」
「長寿ねえ……」
にとりは考える。そもそも、長寿とは一体何年くらい生きた事を言うのか、わからない。100年か200年か。それとも、もっと長いのか。
「そういえば、長寿の魔法ってどういう仕組みなんだ? 魔法で身体を劣化させないようにするのか?」
「私も詳しくは知らないけど、多分そうなんじゃないか。しわが増えない事はつまり若いってことだからな」
にとりはそこで違和感を覚えた。皺を増やさないだけでは普通の魔法、例えば変身魔法や擬態の魔法でも可能だ。ではなぜ、それらの魔法で寿命は延びないのか。そもそも、身体が老いる、とは一体どういう事なのか。
にとりはドキドキした。
様々な疑問が芋づるのように引っ張り出され、そのたびに間欠泉のように絶えず温かな水が噴き出る様に、にとりの胸には熱い物がこみ上げてくる。頭の中では目の前の霧が晴れ、道が無限に分かれていくような景色が見えてくるようだった。
にとりは次第に気分が高揚してきだした。この感じ、この胸の高鳴り、新たな疑問と発見。それを見つけた時の気持ちの高ぶりだった。
にとりはこの胸の高鳴りのために研究をしていたといっても過言ではなかった。技術者や研究者ならば誰もがこの胸の高鳴りのために、来る日も来る日も、頭を抱え暗い部屋に引きこもり、時には命を賭けてまで開発に没頭するのだ。
次の研究はこれにしようと、にとりは確信した。
「ありがとう、魔理沙。私も目指す事にするよ、その長寿の話」
魔理沙は顔に思いっきり疑問符を浮かべ、にとりを見つめた。
「……何言ってるんだ?」
もう少し丁寧な聞き方は無いのか、と心にカチンときたが、確かに先ほどの会話をぶつ切りにしてしまった自分も悪いと思いもう一度説明する。
「つまりだな、皮膚に皺ができるメカニズムを調べて、それをやめさせれば一生老いる事は無くなるだろう?」
「ああ、そうかもしれないな」
にとりは自分の背の倍はあろうかという本棚の一番下から、古い本を抜き出して魔理沙に見せた。
「この本は生物の構造について簡単に書かれた本だ。これによると、生物と言うのは目に見えない細胞と言う物から出来ているらしい」
「その話、胡散臭いな」
魔理沙が顔をしかめてそう言った。しかしにとりはお構いなしに話を続ける。
「あるいはそうかもしれん。けどな、機械に使う鉄や土も元は一個の原子から出来ている。私たちが見ている物と言うのは常に最小単位があるんだ。生物にとってその最小単位が細胞である。そう考えれば、それほどおかしな話でもないだろう?」
「ああ、そう」
魔理沙は目をそらし、靴を履きなおし始めた。この時点で魔理沙は完全ににとりを厄介な奴だと判断したのだろう。
しかしにとりだってこのまま魔理沙を手放すわけにはいかない。
魔理沙の人脈を大いに利用してやる。にとりの目がいっそう鋭く光る
「この細胞とやらをどうにかすれば不老不死も夢じゃない……よし魔理沙、出かけるぞ」
「おっとにとり、私はこれから用事があってだな……」
いそいそと玄関に手をかける魔理沙に、にとりは近くに置いてあった『伸びーるアーム』を手にとって、魔理沙に向けて発射した。
空気の抜けたようなポンっという音がすると同時に、巨大な手が魔理沙を覆う。魔理沙はぎょっとして逃げ出したが、アームの方が先に魔理沙の背中を捉えていた。
「ああ? 何だ、これ……」
アームには強力な糊が付いていた。
「逃がさないよ」
そのままにとりは巻き戻しスイッチを押す。物を蹴散らし、派手な音を立てて白いアームと魔理沙が帰ってくる。
「つあっ……てっとっ……」
魔理沙はアームを下敷きにしてにとりの足元にごろんと仰向けになった。
「……ちょっと強引すぎないか?」
アームの粘着テープでべたべたになった魔理沙が恨むようにそう言った。しかしにとりは全く気にしない。
「さあ、出かけよう!」
「出かけるってどこに?」
「色々さ」
にとりはとりあえず糊でべとべとの魔理沙のために、お風呂を用意しなくちゃ、と考えた。
「何で私が付き合わされるんだ?」
「いいじゃないか。長寿の魔法を知るきっかけになるかもしれないよ。物事は前向きに捉えなくちゃあね」
あきれ顔の魔理沙と先ほどから満面の笑顔のにとり。この光景を見た誰もがこう思うだろう。
魔理沙、ご愁傷様だ、と。
「強引すぎるぜ」
多分、魔理沙の口から十回は飛び出たであろう、強引という単語が、またもにとりの耳を刺激した。
だがにとりは気にしない。気にしないのがにとりなのだ。
「今に始まった事じゃないさ。そう言われているのは馴れている。それに魔理沙、お前だって似たようなものじゃないか」
「私は最初に一言断って、借りている」
「またまたそんな冗談を。借りながら断っているだろう?」
そんな事を言い合いながら、魔理沙とにとりは目的の場所へと着いた。
魔法の森の入り口。お世辞にも人間が入りやすいとは言えない立地に香霖堂はある。
これは期待できないかもしれない。
にとりは何となくそう思った。
「いらっしゃい」
中に入ると森近霖之助が店主らしい挨拶をしてきた。
「久しぶりだな、香霖」
魔理沙がそう言うと、霖之助は愛想よく返事をする。
「元気にしていたかい? 魔理沙。それと、そちらのお客さんは、一体何をお探しで?」
客相手だとそれなりの対応をしてくれる、という魔理沙の証言は本当だな、とにとりは思った。魔理沙の呆れた様子を見ると、普段はこう優しく待遇はされていないのだろう。
「外の世界の本を探している。出来れば学術書のようなものが欲しいんだが……」
「本と一口に言ってもたくさんの本があるからね。どんなジャンルの本だい?」
「生物学の類だ」
「生物学? 生物について記述のある本ならたくさんあるが、生物学となると……」
そう言いながら霖之助は店の奥に入っていく。しばらくして何冊かの本を手にして店頭に現れた。
「これは売り物じゃあないんだけどね。貴重な外の世界の試料だから、大切に扱ってくれ」
霖之助が持ち出してきたのは辞書ほどの厚さがある本で、厳重に封がしてあった。
「随分とにとりを信用しているんだな」
魔理沙がすねたように口をとがらせた。しかし、店主は何食わぬ顔で反論する。
「魔理沙が勝手に物をいじる癖があるからね」
にとりはそんな二人を気にせずに話を続ける。
「持ち出しがダメなら、私はここで読ましてもらうけど……いいかい? 霖之助さん?」
「ああ、僕の業務の邪魔にならなければ、何時間でも」
霖之助はそう言って、さらに机といすを運んできた。まあつまりは自分の目の届く範囲で読め、という事らしい。
「これが客に対する態度とは思えないぜ」
魔理沙は心底呆れたようにそう呟いた。本当の商売人なら、いつ売れるかも分らぬ本を、高値で売りさばくいい機会だと捉えるだろう。
そこが霖之助らしいといえば、それまでだが。
しかしこれが客に対する正しい仕打ちかどうかは、今のにとりには関係が無かった。ただそこに資料があるなら何が何でも手に入れる。そんな強情さもまた研究者には必要なのだ。
にとりは用意された椅子にこしかけ、本の中身を確認する。ところどころに破れたページや消えかかった文字などがあり非常に見難いものだったが、読めなくはなかった。
その間、魔理沙近くの椅子に腰かけ、適当にとった本を読んでいた。霖之助も静かな二人を見て満足そうに店の片づけをしている。
これは人が入らないわけだ。まあ、今はどうでもいいけどね。
にとりはそんな事を思いながらページを進める。
「ふうむ……細胞を確認するためには顕微鏡というものが必要らしい。霖之助さん、その顕微鏡、とやらはある?」
呼ばれた霖之助が顔をあげる。
「どのような用途に使うんだい?」
「目に見えない物を見るための道具」
「ああ、これの事かい?」
そう言ってまたも店の奥に進んで見た事の無い道具を持ってきた。
あるのか。すごいな。感心感心。
にとりはそんな事を思いながら道具を観察する。手渡された道具は錆びついてどうにも使い物にならなそうな物だった。
「これどうやって使うんだよ?」
本から顔をあげ、魔理沙が尋ねる。
「それは……考えれば分かる」
霖之助は言葉に詰まった。確かにこんなものは、関係の無い者にとっては無用の長物かもしれない。しかし、知っている者にとっては非常に心躍る道具だ。
「これはねえ、望遠鏡とよく似ているな。ただレンズの種類が違うのかな。うん、これだけあれば何とかなりそうだ」
錆びた塊を見つめながら、にとりだけは嬉しそうにスケッチをとっている。実に馴れた手つきだ。
その様子をじいっと見ていた霖之助が何かを思いついたように、にとりに話しかける。
「にとり、と言ったかな? これ、持っていくかい? 僕にはこれを有効活用出来そうもないしね」
思いもかけない言葉に、にとりは思わず霖之助の方を向く。その目には、客に対する優しさとある種の期待が見てとれた。
ははん、なるほどな。にとりは霖之助の狙いをすばやく読み取る。
「本当? ありがとう霖之助さん。あんたのお店には面白い道具がいっぱいあると、ちゃんと皆に宣伝しておくよ」
「ああ、それは実に助かるな」
笑顔で会話する二人。しかし実際は言葉よりも目と目で多くの会話をしている。その光景は商談が成立した時の顔だった。
そんな光景を横目に後ろの方で魔理沙が本を開きながらぽそりと呟いた。
「とんだ出来レースだ。茶番も良い所だな」
「ところで、なぜそんなものを?」
「不老不死、とまではいかないまでも、長寿の仕組みを知るための準備段階」
にとりは人に物事を説明する事がすこしばかり苦手である。この時も霖之助の顔にはにとりの言葉を理解しようと、頭をフル回転させているようだった。
「ああ、つまり人間と妖怪には寿命の差がある。その理由を知ろうというわけさ。で、色々調べた結果、生物を形作る最小単位の細胞にその秘密があるんじゃないか、と思ってね」
「なるほど……」
霖之助は意味深そうに呟いた。しかしそれ以上は何も言わなかった。
「まあその道具がガラクタにならないで良かったよ。大切に扱ってくれ」
「当り前さ。それで霖之助さん、ひとつ頼みがあるんだが」
「なんだい?」
「また研究が進んだ時には、是非協力して欲しい」
「僕に出来る範囲で、都合がよければ、ね」
急に無愛想になった霖之助を見て、にとりの頭の中をさっと黒い物が通る。
ああそうですか。興味がないと。でもあんたは半人半妖の最高のサンプルだから手放さないよ。
いけないとは思いつつも、そんな考えが浮かぶ。
ダメだダメだ、そんな事を考えているから皆から怖いといわれるんだ。
思い直して頭の中を空っぽにした。
「にとり、用事はすんだ?」
「ああ、魔理沙。ありがとう。この店は実にいい店だったよ」
お世辞でも何でもなく、にとりにとってこの店の存在は大きかった。道具と資料の調達が同時に済んだのだ。
「じゃあ、また今度。研究が済んだらまた魔理沙を呼ぶから。その時はよろしくね」
それだけを言って、にとりは夕日の中を帰って行った。
「香霖にしては珍しく、何も語らなかったな」
「君たちが僕の話を豆粒ほどしか聞いていないからね」
「それはいつもの事だろう?」
「それにね、彼女……にとりは何か勘違いをしている」
「はあ……」
「幻想郷は科学を捨てたんだ。彼女の行っている行為は、この幻想郷を否定している事と一緒だよ」
「ふうん……」
そう言いながら魔理沙はちらりと霖之助を見ると、霖之助が今まで見たこともないような厳しい表情をしていた。思わず魔理沙は息をのんでしまった。
「なあ、魔理沙。君がにとりの事を友人と思っているなら、にとりの側にいてあげなさい。もしかしたら、彼女は取り返しのつかない事になってしまうかもしれない」
「な……なんでだよ?」
震える声で魔理沙は霖之助に尋ねる。そうして珍しく魔理沙は霖之助の話を最初から最後まで聞いて、暗くなる空と共に息をごくりと飲んだのだった。
まだまだやる事は山積みだ。にとりのドキドキは止まらない。
この気持ち、小さい頃の懐かしい記憶。そうだ、あれに似ている。皆で秘密の基地を造る時の気持ち。この世界はにとりの知らない事だらけだ。
「さあ、次は大本命だね」
香霖堂で貰った顕微鏡を眺めながら、にとりは幸せそうに眠りに落ちた。
次の日の朝、にとりは早速目的地に出かけようと準備をしていた。
「おおい、にとりはいるかい!」
何だこんな時間に。しかも図ったような時間に来たな。
にとりがさっとカーテンを開けると、そこには魔理沙の姿があった。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとその長寿の話が気になってな。私も参加してもいいかい?」
ほう、これは珍しい。てっきりにとりは魔理沙は興味がない物だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
いやしかし、嬉しい誤算だ。仲間がいるという事は、研究だって二倍も三倍も速く進むから。
にとりは思わず顔がにやついてしまう。むう、こんな顔は情けなくて魔理沙に見せられないぞ。
「あがるぜ」
「ああ、待って。顔だけ洗わせてくれ」
洗面台に行って、水を出す。きゅうっと良い音を鳴らして蛇口から水が出る。にとりは顔の筋肉を引き締めるかのように、冷たい水で何回も顔を洗った。
「おまたせ。魔理沙、ご飯は食べたかい?」
「まだだな」
「何なら食べていくかい? 私もまだなんだ」
「にとりがそう言うなら、遠慮なく」
魔理沙がそう言うと、にとりは台所で朝食の準備を始めた。
「なあ、にとり。この研究の最終目標って何だ?」
「うん? そうだなあ……」
言われてにとりは、この研究に明確なビジョンが無い事に気がついた。
確かにこの研究の目的は妖怪の長寿の秘密を探る事。でも、それだけだった。
「最終目標、か。そう言えば決めていなかったな。私は純粋に興味本位でやってるから……」
「そうか。それならそれでいいんだ」
そう言うと魔理沙は呆気なくその話題から身を引いた。
何だ。魔理沙は何を言いたかったんだ?
にとりは少し不思議に思ったが、それはいつもの魔理沙の事だと思い気にも留めなかった。
「そういえば、今日はどこへ行くつもりなんだ?」
「今日は研究の大本命へ取材に行くのさ」
「大本命?」
「永遠亭だよ」
そう言ってにとりは楽しそうにコンロに火をかけた。
「ここが迷いの竹林か。確かに迷いそうだ」
暗く沈んだ空気が漂う迷いの竹林を魔理沙とにとりは進んでいく。二人の先には道案内を頼まれた藤原妹紅が、竹やぶを押しのけながらどんどんと歩いて行く。
「にとりは竹林に入るのは初めて?」
「残念ながら生まれてこの方、病気らしい病気に罹った事がなくてね。切り傷や擦り傷程度なら、数え切れないほど刻んできたが」
魔理沙は何となくわかったような顔をして、そりゃあ大変だなあ、と一言呟いただけだった。
今日の魔理沙は何かおかしい。何が、と言われれば答え辛い所だが、あえて言葉にするなら、にとりに対する関心が薄いとも言えた。
話題を振っておきながら、にとりの答えにはまるで興味がないかのようにふるまう魔理沙。それが演技なのか魔理沙の素の反応なのかをにとりは判断できなかった。
一体何があったのだろうか。
「ほら着いたよ。帰る時はこいつらに頼みなさい」
妹紅に話しかけられて、にとりはふっと顔をあげた。今までの静かで殺伐とした竹林は姿を消し、目の前には時間を忘れたかのように建っている立派で古めいた屋敷があった。
「ここが永遠亭か。立派なお屋敷だ」
「だが、こいつらは一癖も二癖もある厄介ものばかりだぜ」
にとりは魔理沙だって人の事は言えないのでは、と思ったが口には出さなかった。
今、大事な事はそれではない。
「ありがとう」
にとりは妹紅に礼を言うと、別にいいよ、と乾いた砂のようなそっけない返事が返ってくる。そうして妹紅はそのまま、竹林の中へと帰って行った。
「竹林の案内人は随分と乾いているな」
「あいつは火を使うからな。濡れてると火がつきにくいだろ?」
「そういう事を言っているんじゃないんだけど……」
にとりには何となく、妹紅には大きな闇があるように思えるのだ。見かけに反して、生きる事に執着しないような態度、話し方。妹紅が旧地獄よりも深く暗い物によって形作られているように、にとりは感じられた。
彼女たちは一体何を隠しているのか。
魔理沙も、妹紅と名乗った少女も。
にとりには分からない。
「行こうぜ、にとり」
魔理沙の声で、思考から現実へと頭を切り替える。
「ああ」
今はただ、興味のある事だけを。
「あら? 魔理沙さんと、そちらは……」
「河城にとり、と言う者だ」
玄関を開けて出迎えてくれたのは、頭に耳をつけた妖怪だった。にとりは初め、この辺りに住む妖怪ウサギかと思ったが、格好や立振る舞いが明らかに妖怪ウサギのそれではなかった事に違和感を覚えた。
「鈴仙優曇華院イナバと言います。普段はレイセンと呼ばれています」
魔理沙がにとりの後ろから顔を出す。
「よう、久しぶりだな」
魔理沙が挨拶するのを、レイセンはさらりと無視をして話を始めた。
「どなたか病気になられましたか? それとも怪我を?」
レイセンがそう言ってから、ここが医療施設だった事をにとりは思いだした。永遠亭は妖怪の間でも噂になるほど、医療技術に名がある所だ。
「いや、今日は個人的な取材をしたいと思って……」
取材、という単語にレイセンは片方の眉をピクリと吊り上げる。あまり良い反応ではない事が何となく理解できた。
「取材……少し待って」
そう言うと、レイセンは屋敷の奥へと消えて行った。数分後、レイセンの代わりに現れたのは、八意永琳だった。
「おまたせしました。八意永琳と申します」
「河城にとりです。今日は少し聞きたい事があるのだけど……構わないかい?」
「内容によりけりですが……一体何を聞きたいと?」
永琳は少し警戒しているように言葉を選んで喋っていた。それを見たにとりは回りくどい事をしない方が良いと判断した。
「永琳さん、あなたは医者だ。だから単刀直入に聞こう。私は人の老いについて研究をしている。そのための知識が欲しい」
「知識……」
「具体的に言うと、細胞に関する知識を」
しばしの沈黙。
「……奥で話をしましょうか」
永琳はそう言うと、静かに背中を向き屋敷の奥へ消えて行った。にとりと魔理沙も遅れまいと急いで靴を脱ぎ永琳の後を追う。
案内された部屋は永琳の診察所だった。
「どうぞ、腰かけてください」
「ああ、ありがとう」
「さて、最初からお願いしますね」
永琳は鋭い目つきでにとりと魔理沙を睨んだ。ただならぬ様子ににとりは少し驚いた。
一体彼女は何を考えているのだろうか。
「にとりさんは長寿の仕組みを知りたい、と……」
「ええ。そして人が老いることには細胞というものが関係しているらしい。だから永琳さん、あなたなら何かを知っているんじゃないかと思って」
「知らないわ」
即答。
「え?」
「私は何も知らないの。私は薬を作ったり、傷や怪我を治す事は出来ても、細胞とやらに関する知識は何もない」
「そうか……」
残念そうに返事をするにとりに対し、永琳が言葉を続ける。
「質問があるの。にとりさん、あなたは老いる仕組みを知って、一体何をしようと言うの?」
「これは純粋な興味からやっている。今考えている事は、この技術を用いて人間や妖怪の寿命を延ばすことだ」
魔理沙に同じ事を尋ねられた時に、にとりは一応自分なりの答えを考えておいた。それを聞いた永琳は後ろにいる魔理沙をちらりと目を向け、またすぐににとりに話しかける。
「それは魔理沙が望んだ事? それとも他の人間?」
「他人は一切関係ない。魔理沙は好意で私の手伝いをしている」
「永遠の命を手に入れたい、と言う事かしらね」
永琳は全く表情を変えずに、淡々と質問をする。
「生み出せるかどうかは知らない。もっともっと研究が進めば、或いは可能かもしれない。だけどそこは私の分野ではないし、そもそも私はそんな事には興味がない。そのシステムに興味があるだけだ」
「そう……」
永琳は少しだけじっとにとりの目を見ていた。まるでにとりの心の中を探っているような目つきだった。
「とにかく、私に手伝い出来る事は限られているわ」
「そうか……残念だ」
言葉ではそう言いながらも、にとりは永琳の只ならぬ様子に少しばかり戸惑っていた。
確かにこの技術は永琳の医療技術とかぶる事があるかもしれない。
しかし、永琳は儲けを度外視した医療の提供を行っているとも聞いていた。だから、にとりがそうした技術を手に入れても、この永遠亭が金銭の問題に執着するともにとりには思えなかった。
「永琳さん、さっきから怖い顔をしていますが、あなたは一体何を考えているんです?」
こらえきれず、にとりは永琳に尋ねてみる。すると永琳からは意外な答えが返ってきた。
「私が心配している事は、あなたの頭の事ですよ」
「なに?」
先ほどとは全く異なり呆れる様な表情をして、永琳は溜め息をついた。
「そんな細胞だなんていう、訳の分からない物を追いかけて、意味の無い研究に熱をあげているあなたの心と身体が心配です」
永琳の身も蓋もない口調に、にとりは水道管が詰まったかのようにぐうっと怒りがこみ上げてくるのを感じた。しかし、それを抑えて冷静に永琳の言葉を分析する。
永琳は何を私に伝えたいのだろうか。
聡明な彼女の事だ。その横暴とも取れる言葉には裏側があるはずだ。
考えろ。ここで繋がりを断つわけにはいかない。
にとりは知っていた。永琳が不死の薬を飲んでいる事を、魔理沙から聞いていたのだ。
だとすれば、その仕組みを知る事は大きな進歩につながる。
そのために。
冷静に。冷たい水を頭から浴びたように、頭の奥から冷えていく。
心配だと言った。つまり、この研究をやめろと言っているのだろうか。
なぜ。誰かに迷惑がかかるからなのだろうか。
では一体誰に。
分からない。本当に彼女たちの考えている事は分からない。
「何か言いたい事でもありますか?」
「永琳さん、あなたの意見はよくわかりました。しかし、私は一度興味を持つと最後まで自分を止められないんだ。心配してくれているのはありがたいが、ね」
「そうですか。とにかく私は注意しました。あなたは今すぐにこの研究から降りるべきです、とね」
そして二回目の沈黙。今度は長かった。にとりの後ろで魔理沙がじいっと事の顛末を見守っていた。
魔理沙が珍しく、何も言わなかった事ににとりは少しだけ関心を引かれた。
「……ご忠告、ありがとうございます。あまり長居をしてもご迷惑がかかるので、失礼します」
にとりは丁寧にお辞儀をして、診察室から出ていった。魔理沙は何も言わずににとりの後をついて行く。
永遠亭を出ると、帰り道を案内するための兎が並んでいた。にとり達に気付くとすぐに走りだし、こちらへ来いと手招きをしている。
「……にとり、怒っているのか?」
竹林を進む途中で、恐る恐るという感じで魔理沙はにとりに話しかける。
「ううん、怒るというよりは困惑している、と言った方がいいかもしれないな。まさかあんな断り方をされるとは思いもしなかった」
苦笑いをするにとり。それに魔理沙がすぐに答えた。
「やっぱりさ、永琳があんな変な怒り方をするって事は、この研究はやめた方がいいかもしれないぜ」
「なんだ、魔理沙まで。そんなに私の事が心配かい? それは別にいいんだけど、具体的な話が見えてこないんだ。理由もなく、禁止にされても困るんだよねえ」
「……それもそうだな。いやなに、私はにとりがそれでいいなら別にいいんだ」
「おいおい、魔理沙。魔理沙は私に研究を続けてほしいのか、止めてほしいのかどっちなんだい?」
にこりと笑いながらにとりは魔理沙に尋ねると、魔理沙もにやりと笑っていた。
「私はにとりが元気ならそれでいいんだ。何かあったらすぐに連絡してくれよ」
その笑顔は乾いたものだった。にとりは、不意に妹紅の事を思い出した。
何かを隠している奴の笑顔は、なぜどこか乾いて見えるのだろうか。
にとりはふとそんな事を考えた。
永遠亭を出た後、にとりはすぐに顕微鏡の開発に着手した。顕微鏡は原形があったおかげですぐに完成し、にとりはお手製のガラス板を用いて微細な世界へと足を踏み入れた。
香霖堂から貰った生物学なる本も大いににとりの役にたった。たぶんにとりが一人で行うと100年かかる情報が、その本には詰まっていた。道具や試薬を作るのは河童の技術でどうにでもなる。にとりはまさに破竹の勢いで次々と機材の開発を進めて行った。
その間、魔理沙は毎日訪ねてきてはにとりの様子をうかがっていた。体調は悪くないか、何か困った事は無いか、悩みは無いか。まるでにとりが病気にかかった時のように一日一回、必ず朝に魔理沙は訪れた。
「なんで、魔理沙は毎日私の所に来るんだい?」
気になってそう尋ねた事もある。
「にとりの研究がどれだけ進んだかなと思って。それだけ」
素っ気なく魔理沙は答えたが、いささか過保護すぎる気もした。
前までの魔理沙なら、ふらっと現れて適当な事を言ってそのまま帰るだろう。
今はどうだろうか。にとりの研究に興味があるというよりは、むしろにとりに気があるようだった。
なぜ、私なのか。
ううん、わからん。
「ふあっ……っと」
にとりが眠そうに顕微鏡から顔をあげると、辺りはもうすっかりと暗くなっていた。
この家で研究を続けるのは、少し無理かもしれないとにとりは最近思い始めていた。にとりの家は様々な道具があるが、部屋には物が溢れすぎて細かい作業をするのにはあまり向いていない。
山の中腹にある、自分の研究所へ引っ越そうか。研究所ならこの研究にぴったりの装備が出来るはずだ。
にとりはそう思いながら、ベッドに横になる。
暗い夜の中から響き渡る美しい虫の音を聞きながら、にとりは瞼を閉じる。
そうして、あの永遠亭での一件を、蒸し返すように思いだした。
何をしようと、私の勝手じゃないか。
永琳の黒い瞳の先には、にとりの何が映っていたのか。そんな事を思いながら、にとりは毎晩眠りに就くのだった。
それからさらに幾日かが経った。にとりは予定していた通り、研究所には順調に機材や薬品をそろえ、水も食糧もエネルギーも十分に詰め込んだ。
「魔理沙、私は明日から研究所に住む事にした。だからしばらくは会えないだろう」
魔理沙がにとりお手製の椅子に腰かけて、お茶を飲む。それがいつもの朝の風景になっていた。そんな中で、お茶を飲んでいた魔理沙はへえっと驚いた顔をしてにとりを見つめていた。
「いつのまに準備をしていたんだ?」
「ふふ、このにとりにかかれば建物一件ぐらいの建設など造作もない」
「私の家も建て直してほしいぜ」
魔理沙は右手にカップを持ったまま、軽く冗談を言う。
「友達のよしみだ。中を好き勝手にさせてくれるなら、いいよ」
にとりが満月の晩に魅せる、怪しげな笑顔を浮かべると魔理沙は困ったように笑った。
「やっぱりやめとくぜ。にとりの中は、怖すぎる」
「そうか、実に残念だ」
そうして魔理沙はふと思い出したようににとりに尋ねる。
「なあ、にとり、その研究所ってどこにあるんだ?」
「残念ながら、それは教えられないな」
「なんで? いいじゃん、別に」
「私の開発の最先端があそこにはあるからな。魔理沙と言えど、私の最新の技術は教えられないよ」
「でも……」
「大丈夫さ。一か月したらこの家に帰ってくる。向こうには一カ月分のエネルギーしか蓄えていないから」
不安そうに見つめる魔理沙に、にとりはにこりと笑った。
生い茂る木々を抜けると、急にぽっかりと空間があいて、神社より一回りほど小さい建物がある。灰色の壁で作られた、四角い建物。効率性だけを重視したデザインは、あまりおしゃれとも言えなかったが、にとりにとってはこの研究所は別荘のようなものだった。衣服や燃料、保存食も大量にある。人一人が半年は暮らせるほどのエネルギーと食糧がこの研究所には積み込まれていた。
眩しい太陽に照らされた建物を見上げ、にとりは高鳴る胸の鼓動を抑えきれなかった。
「いよいよだな」
しばらくは中の掃除と片付けに追われていたが、もう三日もすると全部が終わった。
四日目に、にとりは本格的に研究に身を乗り出す。
まずは植物で細胞の培養や顕微鏡などの道具の使い方を一通り研究した。ぶっつけ本番では失敗する事は目に見えていたからだ。
そして次の日。いよいよ、動物の、自分の細胞の番が来た。
にとりは綿棒を用いて、口の粘膜から自分の細胞をとりだした。当然、細胞培養の準備も出来ている。
さあ、一体何が見えるのだろうか。
人間と妖怪を分け隔て、その生命力の差を生みだす物は一体何なのか。
にとりはそっと顕微鏡の中を覗く。白く明るい光が目を照らす。
右手でくるくるとネジを回し、左手で細胞が乗せられたガラスを動かす。
要領よく、しかし視界に映る物体を一つも見逃さぬよう注視する。
だが、そこには何もない。
ただ光に照らされ、真っ白になったレンズとそこに横たわり死んだように漂う埃が見えるだけだ。
「……どこにいった? 私の細胞は……」
にとりは光を調節したり、ガラス板をくるくる回して確認したが全く異常は見られなかった。
「これはおかしいな……」
ぶつぶつと独り言を言いながら、にとりは次々とガラス板を顕微鏡で観察した。だが、そのどれもが何も映らなかったのだ。
どういう事だ。今までに見えるのは、植物から採った組織だけだ。動物の細胞は、まるで迷彩をつけているかのように全く見えない。
にとりはしばらく天井を向いて、そっと目を閉じた。
私の方法が間違っていたのだろうか。
だとしたらどこで?
考えろ。考えろ。
そっと目を開けて、急いで資料に目を通す。過去の実験、データ、その考察。あらゆる資料に目を通した。何回も読んだ資料の紙はくたびれて黒ずんでいる。それでも、見落としが無いかをにとりはチェックする。
そうしているうちにすっかりと夜が明け、空には陽が昇っていた。
空を飛ぶ鳥の鳴き声が恨めしい。
こんなにも清々しくない朝は初めてだ、とにとりは思う。
まとめた資料の山に目配せをして、にとりは深い溜め息をついた。
次の日からもにとりは顕微鏡と格闘する日が続いた。顕微鏡の機能向上、細胞の染色方法、細胞の採取部位の変更。
にとりが考えられるあらゆる事象を変えても、結果は変わらなかった。
まるでそこには元から何も無かったかのように、細胞はその姿をにとりに見せてはくれなかった。
全く進展がなく、ただただ徒労に終わる時間ばかりが過ぎていく。それに比例してにとりの精神は削り取られて行った。
何度目かになるか分からない実験の、これまた数えるのも億劫になるほどのデータの山を整理しながら、まるで鰹節を削るみたいに精神が削られていくようだとにとりは思った。
もう本体の方は少ししか残っていないのではないか。
いっそこの削りかすを煮詰めて出汁をとり、味噌汁にして飲み干したい。
むしろそれでもいいんじゃないか?
そこまで考えて、はあっとため息一つく。
そんな事で、この研究を諦め切れるのか。
それはない。河童の川流れぐらいあり得ない話だぞ。
頭を横に振り、再び試験管と顕微鏡に目をやった。
もうここまできたら引き返せない。
一体ここまでにとりを突き動かす物は何なのか、にとり自身も分からなかった。負けず嫌いの精神なのか、研究者としてのプライドなのか。
もう分からん。
一息つこうと、にとりはビーカーに水を入れて、ガスバーナーで水を沸かす。その間にお茶のパックをとりだしそのビーカーにつけ、簡易のお茶を作る。本日何度目かになるか分からない、熱いお茶の時間。研究の合間に飲むこのお茶は、今となってはにとりの大事な日課となっていた。娯楽が無い施設の中では、寝る食うという生きるための欲求が最大の楽しみとなる事を、にとりは体で実感していた。
それにしてもビーカーで飲むお茶と言うのは、あまり気持ちがよくないな。今度来るときはマイカップを用意しよう。
そんな事を思いながら、レポートにひと言書き添える。
今日も進展なし、と。
レポートにそう書き終えて、にとりはふらふらと研究室を出て行った。
ふと外を見るとオレンジ色の西日が廊下を照らしている。その太陽の色は今のにとりにとって、あまり美しい物だとは思えなかった。
「ふあ……」
また朝がやってきた。しかし、身体は昨日のけだるさを残したままだった。
気力の限界なのか、最近にとりは昼ごろまで寝てしまう癖がついた。決して夜更かしをしているわけではないのだが、なぜか身体が睡眠時間を長く欲するようになっていた。精神的な疲れなのだろう、機械の開発に詰まった時にもたまに見られた兆候だった。
ここまでひどいのは初めてだな、とにとりは思った。
ベッドから起き上がり、熱いお茶を入れる。それを見つめながらにとりは、食糧や水も切れてきたからここらでいったん切りあげるか、と考えた。疲れた身体と心ではこれ以上の進展は難しいだろうと考えたのだ。
そうして、にとりは久しぶりに研究所の外へ出た。外は雲ひとつない快晴で、気分転換の散歩にはぴったりだった。
にとりはゆっくりと身体を伸ばした。久しぶりに見た日の光が目の奥を刺激する。辺りはすっかり秋めいていた。この研究所へ入ったのは夏の終わりで、その時はまだ青々としていた木々の葉が、少しずつ赤色に染まりだしている。
河童の里へ帰ろうか。にとりはそう思い、足早に里へと向かった。
「ああ、久しぶり。にとり」
河童の同僚が声をかける。にとりはそれに愛想よく返事をした。
「研究は進んでいるかい?」
同僚がそう聞くと、にとりは少しだけ苦笑いをして、顔の前で手を横に振る。
「いや、さっぱりだ」
「そうか……にとりの研究は難しいからなあ。私も手伝い気持ちは山々なんだが」
「いや、いいんだ。研究は好きな事じゃないと続けられない。興味が沸いたら、また手伝いに来てよ」
「それもそうだな。じゃあ、またな」
そう言って、同僚は帰って行った。
しかしにとりには分かっていた。派手好きな妖怪は、派手な研究しかしないという事も。今にとりが研究している、細胞など誰も興味を持たないであろう。そういった点でにとりは他の河童達とは少し違った感性の持ち主だとも言える。
にとりは自分の家に帰った。家の中はしんとしており、にとりが住む以前よりも古ぼけて見えた。
「お帰り、にとり」
呼ばれると、そこには魔理沙がいた。顔は笑っていたが、毎日にとりの帰りを待っていた、という表情だ。
「心配をかけた。魔理沙は元気だったかい?」
「おかげ様で。で、研究の方はどうだった?」
「さっぱりだよ。」
にとりはお手上げだと言わんばかりに両手をあげた。それを見た魔理沙はそりゃ残念だと豪快に笑い飛ばす。
少しあざといぐらいに。
「ま、私は寿命なんかこれっぽっちも気にした事は無いけどな」
「ふうん……ま、私はこれからもこの研究は続けるけどな。あと少しで何かが見えてきそうなんだ」
嬉しそうににとりがそう言うと、魔理沙の表情が急に曇りだした。
「まだ、続けるつもりか?」
それはにとりが今まで聞いた事の無い、魔理沙の本気の忠告だった。
「……」
にとりは驚いた。反対される事は少しだけ覚悟していたが、ここまで凄みをかけられるとは思ってもいなかった。
「どうしたんだ? 魔理沙」
「にとり、はっきり言うぞ。その研究はやめた方がいい」
「なぜ? 理由を聞きたい」
「お前は信じないかもしれない。けれど、私の勘がこれ以上この案件に関わると良くないと言っているんだ。それは香霖だってそう思っている」
「驚いた。あの道具屋の店主も反対していたのか」
「香霖は言っていた。この実験は妖怪が妖怪たらしめる存在の力を失わせると。にとりが見ようとしている細胞なんてものは無いんだよ。だから」
魔理沙の言葉を遮って、にとりは叫んだ。
「細胞が無いだって? 笑わせないでほしいな、魔理沙。じゃあ私たちは一体何で出来ているんだ? 鉄か、粘土か、それとも藁か。いずれにしても、存在の力なんて言う、訳の分からない物で出来ているはずがないだろう」
「何で分からないんだ!! 普通に考えれば分かる事だろう? ここは幻想郷だぞ!!」
「普通って何だ? 最小単位が無い事が普通ならば、私たちは普通、存在しない事になるぞ。幻想郷だろうと何だろうと、私はこの研究をやめるつもりは無い。仮に私がその存在の力とやらで作られているのなら、それを生み出している物を見つけるまでだ。見えない物など、何も無い。ありもしない力など、私は信用しないぞ」
にとりが澄ましたようにそう言うと、魔理沙は八卦炉をにとりに向けた。その表情は怒っているような、心配しているような、泣いているような、そんなたくさんの感情が入り混じった物になっていた。
じっとにとりを睨む魔理沙。にとりも負けじと睨みつける。
長い沈黙。魔理沙の荒い息が聞こえてくる。
にとりは自分の心臓が高鳴っているのを感じていた。
だが全く爽快感などなく。
一つ心臓が打つたびに、疲労がたまる。
ああ、何でこうなってしまったのだろうか。
分からない。
もう、本当に分からない。
魔理沙がそっと腕を下ろし、唾を吐き捨てる様に叫んだ。
「人の忠告を無視して……ああ、分かったよ。どうなってもしらないからな。にとり、その先は私はもうついていけない。さよならだ」
それだけ言って、魔理沙は飛んで行った。
にとりは椅子にどんと腰掛ける。そのまま、長いため息がこぼれた。
「ばかに疲れた……」
それだけ言って、ずっと俯いたまま動けなかった。
しばらく家でゆっくりと過ごしたにとりは、再び大量の水と食料をかついで研究所に戻ってきた。
魔理沙の事が少しばかり頭に残っていたが、気にしない事に徹した。
「あと少しなんだ。これで、もう終わりだ」
すこしだけ充血した目でぎろりと研究所を睨む。
決着をつけてやる。
にとりは静かな闘志に燃えていた。
それからさらに数日。
にとりは未だに自分の細胞を観察できずにいた。
昼になって、にとりはそろそろお昼ご飯にしようと思った。透過光を利用したタンパク検出器にガラス板を突っ込む。
そこでふとにとりは思いついた。
もしも魔理沙の言うように細胞なんてものが無いのなら、私の細胞を塗りつけたガラス板からタンパクなど検出されない事になる。
そんなバカなことは無いと今まで踏んでいたが、ガラス板に塗りつける事で、細胞が壊れている可能性はある。
にとりはしばらく考えて、物は試しだと思い、自分の細胞を塗りつけたガラス板を検出器に突っ込んだ。
まあ、これで0と出たら、魔理沙の言い分を信じていいかもね。
そんな事を思いながら、機械にスイッチを入れる。重たい音をあげて、機械が唸りだす。その間に、熱いお茶の一杯を飲もうと、にとりは部屋を後にした。
一時間ばかり経った後、にとりは記録用紙に目を通す。
「あれ?」
機械は0を示していた。これはつまり、ガラスには何も付着していない、という証拠に他ならなかった。
だが、ガラス板にははっきりと、細胞を塗りつけたはずだった。
機械は壊れていない。
確かに細胞も塗りつけた。それがこの短時間で無くなるはずもない。
ではなぜ、数値は0なのか。
0とは何も無い事だ。つまり、ガラス板に細胞は無いということなのか。
それはおかしい。あり得ない。
物体が突然消えるなど、考えられない。
化学反応か。いや、タンパクは変性する事はあっても、消失するなど考えられない。
じゃあなぜ。
にとりはその場で固まった。動けなかった、というべきだった。
その後、光の波長を変えても、ガラス板を何枚も変えても、結果は変わらなかった。
0の意味するもの。それは、そこに何も無いという事。
信じられない結果だった。
つまり私と言う生き物は、細胞などではなく、現実にありもしない物体で作られている、ということなのか。
それはいくらなんでも横暴ではないか、と思う。髪の毛を炎に晒せば焦げが生じる。そこには確かに『髪の毛』という物質があり、それは細胞から出来ているはずだ。
細胞が無いなど、考えられない。仮に無かったとしても、じゃあ、この目に見えている自分の体は一体何からできている。
鉄でもアルミでも、硫黄や窒素でも何でもいい。とにかく、無いとはどういう事なのか。
「違うぞ。ここにあるはずだ。みえていないだけだ」
にとりはそう言いながら、嫌な想像をしてしまった自分を頭の中から取り払う。
机の上にある資料を片っ端から投げ捨て、息も整わぬうちに部屋から出る。寝室にたどり着き、乱暴にお茶をコップに注ぐと、それを一気に飲み干した。
悪い夢を見ているようだった。ぐったりと椅子に腰かけ、真っ白な天井を見つめる。
これは何かの間違いだろうか。
にとりはあらゆる可能性を考える。
だが目の前の事実はにとりの科学的な思考を遮ってしまう。
都合のつかない真実は光を当てても影すら残さず消えていく。
どこかの電球が切れたのか、部屋の明かりがちらちらと瞬いていた。
にとりの気分もこの電球のように揺れ動いたままだった。
しばらくにとりはこの矛盾と戦っていた。しかし、戦果は全く上がらない。砂絵を描いている時のように、描いた絵が次々と流されて行く。にとりは次第に妄想に苛まれていった。
魔理沙の言葉が、にとりの心を締め付ける。
私は認めない。私は私の細胞からできているのだ。
決して、訳の分からない力で出来ているはずがないのだ。
そうでなければ、この河城にとりは一体何者なんだ?
この世界は、幻想で。
河城にとりは誰かが作り上げた人形で。
幻想郷と言う小さな鳥かごの中で生かされて。
「はっ……!」
ベッドから飛び起きる。眠りについてからまだ一時間も経っていなかった。
なぜか、自分が人形だという夢を最近見る。
「くそう……一体何なんだ……」
自分が何で出来ているかもわからずに。
生きていく事など出来はしない。
河城にとりはここにいるぞ。
「河城にとりはここにいるぞ」
暗く暗く暗く。
無音無音無音。
目に映るは幻想か。それとも、他人の造り物の世界か。
こんな夜には夢から覚めてもいらぬ想像をしてしまう。
まさか、私たちは、幻なのか。人間以外は、誰かの見ている夢? しかし、この河城にとりは確かに存在する。
存在。本当なのか。
それは誰が決めた。神か、他人か、自分か?
自分が幻ならば、他人なのか。
分からない。自分の事が分からない。
そんな事は、あるはずがないのだ。
だが、にとりの最も頼りにしていた科学はそれを証明してしまった。
「くう……」
思わずえずく。だが、食事をとっていなかったため、何も出てこなかった。
ただただ気分が悪いだけだ。
来る日も来る日も、にとりは血眼になって細胞を探しまわった。ある時は必要以上の肉をそぎ落とし、またある時は全身の血をぎりぎりまで抜いて。
だが、目に見えなくなった途端にそれらの物質はにとりの視界から消えて行った。
血で真っ赤になったガラス板は、顕微鏡を通しても透明なままだ。
なぜだ。なぜ消えてしまう。
私の消えた細胞たちは、どこに行くのか。
いやだいやだいやだ。
部屋は無造作に散らばった紙と、ガラス板、それに造っては壊していった機械の山で汚れていた。
次第ににとりはやつれていった。もう、実験する事さえ億劫になり、食事も喉を通らなくなっていった。
「誰か、私の細胞を返してくれ……」
あちこちに切り傷がある。至る所に血のシミがある。キレイな研究室は、その片りんすらも残していない。
一体私の細胞を盗む奴は誰なんだ。
にとりはよくわからない被害妄想に囚われていた。
何かに気がついては、辺りを見回す。しかし研究室には誰もいない。
地獄のような毎日。
音もない。空気も薄い。皮膚の感覚はマヒし、目は何物をも映してはいなかった。
そんな日々が続いたある日、とうとうにとりに限界が来た。
暗く沈んだ先に、一筋の光が見える。鋭く、禍々しいその光はにとりを強烈に引きつける。
そうか。わからなければ、試せばいい。
この世界が幻と言うのなら、幻である証拠を見せればいい。
幻の世界で死んでも、現実の私は死なない。
光に手を伸ばすと、意外に早く手に取れた。
手にずっしりとくる重み。
今までにない、絶望と高揚。
そうだ、私が何者なのかは、こうすればいいんだ。
外部に対する感覚は、もはや微塵も働いていなかった。虚ろなにとりの両目は、抽象的な世界しか映していない。
手に取った光を、にとりはそっと顔に近づけ、そして
「うわ……」
にとりは壊れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
同時にカランと手に持ったナイフが落ちた。それはもう光を失い、ただの物体と化していた。
赤く黒光りする液体がにとりからじわりと流れ出る。
「ほら、見ろ。幻なんかじゃなかった。さあ、この実験結果を、紙に纏めないといけない。魔理沙、ほら早く。早くメモをしてくれ」
誰もいない部屋に響き渡ったにとりの声は、赤く塗られた床に吸い取られ反響することなく消えて行った。
にとりが目を覚ますと、歪んだ世界がそこにはあった。赤黒い歪んだ縞模様で構成された、何も無い世界。一目で幻想郷のどこにも存在しない、奇妙な世界だとにとりは直感で理解した。理由は分からなかった。
「それでいいのよ。理由なんて、只の後付け」
声が聞こえて、にとりは辺りを見回した。だが、少なくともにとりの視界には何者も映っていない。
「誰だい?」
「ここはどこだと思う?」
「私の言葉は届かないらしいね」
「だいたい、あなたが考えている事と同じよ」
「……」
にとりは目をつむり、身体の力を抜いてじっとしていた。すると、縞模様の中からぽっかりとガマ口のような穴があいた。
「賢いわね、あなた。でも、今回はその賢さが仇となったわ」
黒いガマ口の中から出てきたのは、胡散臭い妖怪ナンバーワンの異名を持つ、八雲紫だった。にとりは目をゆっくりと開き、噂の大妖怪をしかと目に焼き付けた。
「初めまして。紫さん。それで、私がどうしたって?」
「にとり、と言ったかしら? あなたがここまでこれたのも、何かの縁ね」
「来れた? 私はてっきり紫さんに連れてこられたかと思いましたけど」
「あなたは自分でこの世界に来たのよ。もう少し嬉しそうにしたらどうなの」
嬉しそうにだなんて到底無理だ、とにとりは思った。
「なあ、教えてくれないか。私たちは何者なんだ? 妖怪ってのは、所詮だれかの空想でしかないのか?」
「それを知ってあなたはどうするの?」
「いや……」
「この幻想郷では、自分を疑う事がそのまま死につながるのよ。覚えておきなさい」
笑って答える紫。にとりはその表情から紫の意図を汲み取ろうと考えた。
自分を疑う事。
ここに自分がいるという感覚。
バカらしい、とにとりは呆れた。
「不都合な事は全部闇に葬り去られたわけか」
「いいえ。幻想郷での不都合な事は外の世界の都合のいい事に変えられているだけ。その逆もまたしかりよ。それが科学の世界と魔法の世界の関係」
「ふうん……科学を捨てた、幻想郷の真髄を見れた気がしたよ。はっきり言えば、あまり気持ちの良い物じゃなかったけどね」
「にとり、あなたは鋭い目を持っている。物事を冷静に分析できる客観性もある。ただ、今回の事はあなたには荷が重すぎた。それだけの事よ」
「河童は色々な道具を造っている。それは科学じゃないのかい?」
「河童達の道具はあくまで技術。技術は科学を利用し、科学とは大雑把にいえば原理を見つける学問よ。つまりこの幻想郷は原理そのものを否定し、結果のみに目を向けさせた世界とも言える。だから、よくわからないけれど空が飛べる。理由は知らないけれど、幽霊が見える。原理を見つけると、そうした結果の世界を見失う。そうして出来た世界が外の世界だということよ」
「つまり幻想郷は原理が無く不安定だってこと?」
「それを補うために、言葉の力が物を言うの。思いこみで幻想郷は造られている。外の世界も幻想郷も、どちらも目に見えない物で形作られているが、その意味は大きく違うというわけ」
「なるほどねえ……まあつまり、妖怪は何も考えず、目の前の祭りに一生懸命になればいいってことかな」
「それもまた、一つの真理ね」
にとりは何だか可笑しくなってきた。この異世界で、自分は一体何を話しているのだろうと。
「実体を持つ人間は楽でいいわね」
紫が笑ってそう言った。その言葉はにとりの胸にある種の波を起たせ、それは全身をくまなく駆け巡った。
それが答えなのか。
「どうやら、私ではこの世界を理解できないらしい。だから、存在の力が消えうせてしまっている。それなのに、あんたは大したものだ。それを理解したうえで、なお自分の中にその理論を組み込んだ。そりゃあ、強いはずだ。この幻想郷で何が起ころうとも、あんただけは自分を見失わずに済むだろう。あんたが大妖怪で、たった一人しかいない理由がわかったよ。誰もあんたのスペックに追いつけないんだ。存在の力からなる妖怪を、超えたんだ。お前はもう妖怪じゃない。私たちとは全く違う次元にいる、神にも等しい存在だな」
にとりは何かを悟ったように虫の抜け殻のように乾いた声で呟いた。
「急におしゃべりになって、一体どうしたの。苦しいなら、もうお帰り。ここはあなたのいるべき世界ではない」
紫がそう言うと、にとりは意識と身体が分離されるような感覚に陥った。どうやら、この異世界から抜け出してもらえるらしい。
その前に、にとりには紫に確認したい事を聞いてみた。
「紫さん。私は千年かけて、あなたになれるでしょうか?」
数字に意味は無い。それは『いつか』という抽象的な概念の中にある、具体的な物だった。
「いいえ。千年では無理よ」
微笑を浮かべ、紫はそっと手を伸ばす。にとりは次第におぼろげになる意識に、抵抗せずに身体を預けた。
再び目を覚ますと、今度は茶色い天井が見えた。木目が見える所を見ると木製の天井なのだろう。この見慣れた色彩はにとりの胸に安堵をもたらした。
帰ってきたのだ。あの部屋から。
記憶も消してくれたらよかったのに。あのスキマ妖怪め。
「目が覚めましたか?」
呼ばれて横を見ると、そこには永琳が立っている。声を出そうとしたが、喉を空気が抜けるだけで、声にならなかった。
「無理をしないでください。あなた、自分で喉を切り裂いたから喉が潰れてしまったのよ。もうじき私の薬で声が出る様になるけれど、それまでは我慢して頂戴」
永琳は綿のように優しい声でそう言った。にとりは上半身を起こし、近くに置いてあった白い紙と鉛筆を手に取った。きっとこうなるだろうと予想して永琳が置いたのだろう、とにとりは勝手に想像した。
『あなたは、私が自分に疑問を抱き、そしてこうなる事を予想した?』
真っ白な紙に黒い線が走る。にとりが永琳に紙を手渡すと、永琳は苦笑しながら何となく、と言った。
「私だって長い間生きていますから。そんな疑問を抱くことだってありますよ。でもね、私は怖くなって、途中で放棄したわ。自分で言うのもなんだけど、このまま走ると、自分がどうなるかが分かってしまった。その点では、あなたよりも賢かった」
あっけらかんとした口調で話す永琳を見ると、その思い出は随分昔の事を話しているように、にとりには感じられた。
『気付いてしまった私はどうすりゃいいんだ』
「どうしようもないわ。それを背負って、生きていくしかない。この世界はよくわからない事だらけよねえ。だからこそ、幻想郷と言われるのかしら」
永琳は窓の外を見て、独り言のように呟いた。同じようににとりも窓の外を見る。透き通るような晴天に、暇を持て余し無気力に漂っている白い雲が見えた。
ここが私のいる幻想郷。
夢か真か、この空に漂う雲のように儚く脆い世界。
けれど私は生きている。ここにいる。
参ったなあ、とにとりは声にならない独りごとを吐いた。
こんこんとノックの音がした。にとりがうなずくと、永琳がいいですよと声をかける。
現れたのは魔理沙だった。
「にとり……」
「……」
そんな顔するなよ、とにとりが言いたくなるほど、魔理沙は泣きそうな表情をしていた。にとりは永琳に目で合図する。
「では、何かあったら呼んでください」
永琳は突っ立っている魔理沙の横を通り、部屋から出て行った。にとりが手招きをして魔理沙を呼び寄せる。
「喉は、その……大丈夫なのか?」
にとりはにこりと笑って、白い紙にさらさらと文字を書く。
『数日で治るそうだ。なに、魔理沙のせいじゃない。私が悪かった。魔理沙の忠告も聞かず、自分勝手に研究をしてしまった結果だ』
「にとり……私は……」
『ごめん。魔理沙。心配掛けた』
そこまで書いて、にとりは瞳からこぼれる涙を抑えきれなかった。
友人に心配をかけてしまった。
以前、にとりは永琳に忠告をされた時に、誰に迷惑がかかるのだろうと考えた。
そうだ、あのときから私はおかしかったのだ。
魔理沙の事を全く考えていなかった。
にとりが傷つく事で、悲しむ人がいる事を初めて気づいた。
愚かな。何と愚かなことだ。
「おいおい、にとり……」
戸惑う魔理沙に、にとりは涙をいっぱいに溜めて笑いかけた。
大丈夫だよ、魔理沙。
その気持ちが伝わる様に、精一杯笑顔を作った。
風が吹いたのか、窓のカーテンが少しだけ揺れて、にとりの肌を風が触れて行った。
にとりが地霊の核の技術について知ったのは偶然だった。
そしてこれはおもしろいと、にとりは魔理沙に地霊殿に向かわせたのだ。
だって鬼が怖い。
単純な理由だが、地震よりも怖い存在だ。だから魔理沙をけし掛けて、核の技術を手に入れようとした。
では一体核の技術で何をしようとしていたのか。
にとりの頭の中には、ある構想があった。
核の力は、それはもう想像もできないほどのエネルギーがある。
これを使って、空間に歪みを生じさせ、向こう側へ乗り込もうと思っていたのだ。
懲りない、と言えばそれまでかもしれない。しかし、にとりには是非、世界の真理を知りたという欲求があった。
紫は言った。思いこみで幻想郷は作られる。
それならば、この幻想郷は誰かに造られている、と強く思う事でそれを現実にする事も可能なのではないか。
妖怪は祭り好きだ。この世紀の大実験は、お祭り騒ぎを起こすには十分じゃないか。
にとりはそう考えていた。
「これでよし……ちゃんと撮れているかな?」
にとりは最近ビデオカメラなるものを開発した。連続画像、いわゆる動画を記録する機械だ。
これを魔理沙に持たせて、地霊殿の中を見ようというのだ。まだまだ試作段階で、到底使い物にはならなかったが。
にとりはカメラの画面から、挑発的に笑いながらこう言った。
「いつか必ず、そっち側へ行くから、首を洗って待っていろよ」
たぶん、そのメッセージは届いているだろう。
現実にはない自身を、現実から見ようとして
最後には自分を否定してしまった。
逆に、幻想を想う人間もまた そうなのかもしれませんね。
ところでこの文章を通して見たとき少し違和感があったのですが
おそらく口調がにとりらしくないのかなーと思いました
凄く素晴らしい話でした。
これからも素晴らしい作品をお願いします(・ω・)/
差し置いても非常に面白い話だった。
虚構が存在している理由とは何か。深いですね。
なんとなくFF10を思い出しました。
物理的に分析して、人間が人間で、私が私である理由なんて見つからない。
妖怪は、そんなある意味で不思議な人間の精神の上に築かれる存在者でしょう。
大変に高次の、不思議で、そして儚い存在。
顕微鏡を使ってにとりの絶望と狂気を表現する作者様のアイデアには感服です。
凄く自分好みの題材でした。
文章全体から漂う、なんともいえない
暗い感じがいいですね。
もっとこういうオカルティックな作風のSSが増えると
いいなあ。
幻想は科学に映らない。
でも幻想に生きる河童は、科学に自らの存在の証明を求めた。
それが信ずる道だったから。
酷な話ですね。
いつか科学すら幻想になる時が来るのか。
それとも……。
非常に良い作品でした。
妖怪の非常に不安定な要素を感じられ良かったです。
ただ作品の雰囲気とは別に所々で景色を当てはめただけという部分があった気がします。
面白かったですよー。
こういう作品もっと評価されてもいいきがするんだけどな!
彼女たちが幸せに生活できることを願ってます。
面白かったです!
淡々と進む話のなかに、どこか昏くて、ざわざわと
不安にさせるトーンがあって……
素晴らしかったです。
紫は凄いな・・・。