雪が降る。
時期尚早のそれは炎のような色を輝かせて、同じ色の雲からひらひらと舞い落ちる。
そして雲を支える木々の根を、地衣の類の上を、あるいはそれらの台となっている山の土までも覆うように積もっていった。
この融けない雪を降らす雲の中で、一柱の小さな神が舞い踊っていた。
一挙手のたびに木々の緑が赤く染まり、一投足のたびに落葉が降る――それを余韻に、神は枝から枝へと飛び移る。
そして再び、奉納の舞を捧げる巫女のように、一心不乱にその身を躍らせ続けた。
「……きれい」
「ああ。全く、見事なものだね」
この見る者の瞳に焼きつく舞台と、心を焦がす舞踊とを鑑賞していた者達が、その感動を言葉に出して分かち合った。
「でも……なんだか寂しそうな踊りですね」
「ふむ、祭りの雰囲気を考えると確かに似つかわしくないね。橙、お前が見せ方を工夫してあげなさい」
「はいっ、藍様」
二言三言交わしてから、狐色をその身に纏う女性と暖色をその名に含む童女は再び紅葉の神に魅入られていった。
~ 幻惑ティアオイエツォン ~
秋の深まる妖怪の山。
凍てつく山颪が頂から麓までを駆け抜けるこの時節に、木々はいよいよ燃え上がらんばかりに染まり、その色付いた落葉が川を流れる。
それを横目に捉えつつ、豊穣の神――秋穣子は川原で石を組み立て、即席のカマドを作っていた。
築き上げた後、薪や落ち葉を燃料にして火をくべつつ、持参した鉄鍋に新米と澄んだ山水を混ぜ、それをカマドの蓋とする。
「ご飯の方はこれでよし、っと。今日のお昼はカニ雑炊。後は姉さんの獲ってくるモクズガニ待ちね」
一仕事終わったところで穣子は現状を確認するように呟く。
それから神徳の顕現に出かけていった姉の成果を確かめるために川へ向かった。
川原の、食材を冷やしているところで穣子はしゃがみ込み、上流より流れ着いた一枚の赤い落ち葉を拾い上げる。
そして葉柄をつまんで秋晴れの青空へ向けてかざし、くるくると回して色彩や形をじっくりと吟味する。
「……うん、上々。乾神へのプレゼントとしても遜色ないわね。姉さん、今年も調子がいいみたい。
それにしても……いい天気だわ。やはりこういう日は木々に囲われて食事を取るよりも、日向に出てきた方がいいわよねぇ」
立ち上がって大きく身体を伸ばし、穏やかな秋の日差しを総身に受け止める。
しばらく青空を見つめてから、ふと、穣子は乾神――八坂神奈子が最近言っていたことを思い出していた。
「麓に温泉ができたことは知っているでしょう? 今はまさしく山中の秘湯といった体だけど、ゆくゆくは傍に小さな宿をこしらえようと思っているの。
その候補地を麓の方に詳しいお二人さんで探してくれないかしら? そう、なるべく紅葉の映えるところがいいわねぇ。
あとは人里からも行けるよう道を整備してやれば、おのずと人間達からの信仰も集まりそうだしね、色んなところにさ。
……ああ、大丈夫。天狗達には話をつけてあるのよ。なに、八ある山坂の中、人専用の道が一つくらいあってもいいと思わない?」
そう、気さくに笑いながら話しかけてきた姿が、今でも穣子の脳裏に克明に浮かんでくる。
近年妖怪の山に現われたばかりの神奈子は、しかしあっという間に住人達の信仰を一手に集めることに成功している。
それだけに留まらず、人間の里にもその神徳を及ぼし、信仰を得ようと画策しているらしかった。
実際、そのために自分達のような土着の神々と足並みを揃えようとする姿勢は、多少呆れる部分はありつつも実に巧みな手腕だ、と穣子は思っていた。
元からいた者に反感を抱かせず、しかし強引に巻き込むような形で融和する手法――それでも出会ってから今に至るまで、神奈子とは良好な縁を築けている。
その一つの形が、姉が贈る紅葉の髪飾りである。
青い風の中を泳ぐモミジの葉が目に映り、穣子は意識を過去から引き戻した――そして下流の方から響いてきた音に奪われる。
改めてそちらへ向くと、さらに赤色と桜色の光が目に飛び込んできた。
「何かしら? 弾幕のように見えたけど、妖精か何かが暴れているのかな」
訝しく思いつつ、穣子は素肌を曝した足を下流へと向けて踏み出した。
「急げ! こっちだ」「水音だ、ありがてぇ。この森さえ抜けりゃぁ」「一気に川に飛び込む、それでもう追っては来れんだろ!」
叱咤と、駆け足の音が閑静な森の中でこだまを響かせる。
騒音の元となっているのは三人の男。いずれも焦燥に駆られるままに必死で足と舌を回していた。
周囲の枝で服を引っ掛け、張り出した木の根に足を取られそうになりながらも、一心不乱に森の外へ出ようとしている。
「長ぁ! あの妖獣の嬢ちゃんは一体何が狙いなんでやしょうねぇ!?」
「おそらくはこいつだろう。だが、できれば渡したかぁねえな……む、川が見えたぞ。あと少しだ」
「っ!? やばい、なんかデカいのが来ますよ!」
やっとの思いで森を抜け川原の前まで至ったところで、男のうちの一人が警句を発した。
「天符『天仙鳴動』」
森の奥から届けられた童女の声音が、しかし男達の心胆を寒からしめる。
宣言の意味するところに最初に気付いた者が、残り二人にその脅威を伝えた。
「横っ飛びに倒れ伏せろ!」
叫び、自身もその言葉どおりの行動をとる。
男達三人のいた空間には今や誰もいなくなり、そこを轟音響かせる何者かが突風のように駆け抜けていった。
「ひょお! 博麗の神サマサマだぁ……っ!?」
「まだだ! 立てぃ!」
無事を喜ぶ男の身体を傍にいた初老の男が引き上げ、更にどこかへ飛び込もうとする。
しかしそれもむなしく、二人の男はいつの間にか迫っていた赤い弾幕に飲まれようとしていた。
「うわお助」
「霊撃・森羅!」
着弾の直前、割って入ったもう一人の男が叫びと共に一枚の札をかざす。
すると札を中心に桜色の衝撃波が生まれ、飛来する弾幕全てを打ち払っていった。
事なきを得た二人が恐る恐る顔を上げる中、川の手前にいつしか一人の童女が立ち、気だるそうに乱れた髪を整えていた。
「ちぇー。こっちの弱点、完全に知れ渡っちゃってるなぁ。おまけに霊撃札持ちだなんて、里の人間も随分と手を焼かせるようになったんだね」
据わった目を向けてくる童女は見た目こそ小柄だが、いくつか大きな特徴があった。
「まいっか、少しは歯ごたえがないとね。狩りには困難がないと腕が鈍って良くない、って藍様も言ってたし。
さぁおじさん達、まだまだいくよー。それとも怪我しないうちに降参して、その美味しそうな何かを渡す?」
挑発するように喋りながら男達に向ける逆手には、人ではありえないほどに長く鋭い爪が備わっていた。
それだけでなく、頭に目をやればそこには大きな猫の耳殻、腰周りに目をやれば二又に分かれた長い尾――
つまり、この童女は人間と猫のキメラのような姿をしていた。
化け猫娘は長い八重歯を覗かせながら舌なめずりをしてみせる。それを前にして、男達は顔を見合わせる。
「ど、どうしやしょう、長? 川の前に立たれちまいましたよ」
不安そうに意向を伺う男には答えず、初老の男は腕の中の風呂敷包みを抱え直してから化け猫娘に答えた。
「八雲様んとこの橙ちゃんよ! すまんがこれは大事な捧げ物でな。こいつばかりは渡せんのよ。
他に欲しいもんがあるなら渡すから、それで見逃してはくれんか?」
「おじさん、私を知っているの? ……ああ、そっか。人里の偉い人なんだっけ。うん、たしか最近藍様に挨拶してたよね。
うーん、ちょっと気が引けるけど、でも駄目。それをくれるまでは見逃してあげないんだから」
「……そうかい。仕方がねぇな」
初老の男――人里の長は顔を伏せて化け猫娘――橙から目をそらす。しかしすぐに顔を上げ、懐から札を取り出した。
自分達の長が覚悟を決めたのを見て、残り二人も同じように札を構えた。
その中で、腰の引けた男が震える声でぼやく。
「うぅ、俺、里であの子に挨拶されたことあんだよなぁ。元気で真面目そうな子だと思ってたのに」
「『時と場所が違えば、その者の立ち位置もまた変わる』、上白沢先生も言ってただろ。
妖怪は里ん中じゃ俺らに寛容だが、外じゃ容赦ない……あの子は妖怪として真面目ってことだ。
それよりもしっかり構えろ。そんなんじゃ自分が霊撃に吹っ飛ばされるぞ」
「ああくそっ、霊撃ってのはすげぇ力が抜けるんだよなぁ……先生や藤原の姉さんはなんだってあんな涼しい顔して使えるんだか」
「ぼやくな、来るぞ! やることは変わらん。なんとかあの子をかわして川に逃げ込むだけだ」
里長達の向かい側で橙がわずかに腰を低くする。先の疾駆を予期させるその動作に、三人の緊張はいよいよ増していった。
「待ちなさい、そこの妖怪!」
突如として水を差してきた何者かの怒号に、橙は思わずたたらを踏む。
声は上空から響いてきたと当たりをつけ、威嚇の含みも込めてそちらを睨み上げた。
視界に入ってきたのは、自分と同じように赤い色彩の服を着ている少女だった。
「あんた、誰よ……いやちょっと待って、見覚えがあるよ。たしか麓に住んでる……」
「み、穣子様!」
少女の名前を思い出そうとしている橙よりも早く、相対していた里長がそれを叫ぶ。
合点がいった橙は、新たに闖入してきた穣子を見上げながら気だるそうに話しかけた。
「そうそう、そんな名前だったっけ。で、なんか用? 八百万の秋の神様」
自分の正体を知っても眉一つ動かさない橙に、穣子は苦虫を噛み潰したような顔になる。
しかし気を取り直し、里長達の無事に注意を払いつつ、穣子はできるだけ強い語調で話を続ける。
「あんた、橙だったかしら? 山を根城にしている化け猫よね。
で、妖怪としての本分を果たそうとしているところで悪いんだけど、手を退いてくれないかしら?
この人達は私にとって大切な存在なのよ。傷一つとしてつけないでほしいの」
「やだよ。里に大人しく篭もっているんなら私だって何もしないのに、のこのこと縄張りに入ってきたんだもん。
妖怪は人を襲うもの、これは幻想郷の……えっと、不文律のはずだよ」
「……ええそうね。そういう意味じゃ、彼等は軽率だったと言わざるを得ないわね。それは認めるわ。
でもその不文律を持ち出すのなら、人の信仰によって支えられている神が人を助けることもまた正当な権利よね?」
「うん、分かってるよ。で、分かってるよね? こういう揉め事の時に私達がやることといえば一つ」
そう言って橙は片足をゆっくりと上げていった。膝小僧が顔につきそうになるくらいまで掲げられ、そこで足の動きが止まる。
穣子はその靴裏に視線を向け、そこに一枚のスペルカードが貼られているのを認め、不敵に笑い返した。
額にかすかに浮かんだ汗は隠せた、そう密かに思いながら挑むような声で応じる。
「ええ、受けて立つわよ。それにしても、すでに発動済みだったのね。そのスペルカードは何て名前なのかしら?」
「天符『天仙鳴動』っていうんだ。効果はまぁ……見てのお楽しみ。さぁ、どういうカードを切るの? 神様は」
足を下ろす橙を見下ろしながら、穣子はスペルカードを三枚取り出し、それらを重ねて全てに小さく穴を開けた。
それから首のチョーカーをほどき、開けたカードの穴に通してから、即席の首飾りを作るように端同士を結びなおす。
最終的に、三枚のスペルカードは穣子の胸の前でゆらゆらと揺れるペンデュラムとなった。
即席の小さな手芸を終えて、穣子は橙に尋ねる。
「それで、あんたは何が目的でこの人達を襲っていたのかしら? まさか命とは言わないわよね? この人達は里の人間だもの」
「まぁね。欲しかったのは人間達の、寿命が縮むほどの恐怖心と、そこのおじさんが持ってる……それ、なんなの?」
「……秋の神様達に献上する、葡萄酒だ」
唐突に振られた橙の質問に里長が答える。それを聞いて橙は頭上の耳をぴくぴくさせた。
「やった、大当たり! 藍様にあげればきっと喜んでくれるよ」
一方穣子は里長の答えを受けて思案顔になる。だがそれも束の間、すぐに橙に提案を発した。
「そう。ならこういうのはどうかしら? あんたが私に勝ったら、私が直々にワインを作ってあげるわ。
豊穣神がその神徳を余すところなく注いだお酒、また格別のものになるはずよ。だからその人達は見逃してあげて」
「えっ……いいの? そんなこと言って。俄然やる気が湧いてきたんだけどー」
「ふん、大した自信だこと。言っておくけど狩りの相手が人間から神様に変わったのよ?」
「だから面白くなったんじゃん。高いリスクとそれに見合うだけのリターン、妖怪の幻想郷ライフはこう刺激的じゃないとね!
条件はそれでいいよ。あんまりおじさん達をいじめるのもカッコ悪いなぁって思ってたし」
交渉に乗ってきた橙を前に、穣子は心の中で安堵した。
しかしすぐに気持ちを引き締めると、まずは里長達の安全を確保しようとする。
「貴方達、離れていなさい。流れ弾が来ないくらい遠くにね」
「へ、へい!」「穣子様……気ぃつけて下さいよ」「ご武運を」
言われ、里長達は穣子と橙を交互に見つつ、森の方へ後ずさっていった。
「さぁ、いくわよ! 秋符『秋の空と乙女の心』」
カード名の宣言と同時に穣子は両腕を左右に開き、流線型の弾幕列を空を覆うように展開した。
弾幕列は下に向けて矢のように降下していく。その多くは橙に狙いをつけていた。
橙はそれを冷静に見つめ、自分に一番早く到達しそうなものから軽く飛び退いた。
「逃がさない、移り気の空にせいぜい振り回されなさい!」
その橙の動きの直後、穣子が胸元のカードを弾き、ひらりと翻らせた。
「っわ!?」
するとそれまで真っ直ぐ飛んでいた弾幕列の幾つかが軌道を大きく曲げ、橙の行く先を塞ぐように収束していく。
大きくステップを踏んで回避する橙――その元いた場所に数列の弾幕が突き刺さっていった。
危機を脱した橙の隙をしかし穣子は逃さず、立て続けに胸元のカードを躍らせる。
カードが翻るたび、上空を占めている弾幕列がその軌道を変え、橙を狙い穿たんとする。
「へぇっ! 面倒だねっ、この秋雨はあんたの気持ち一つで風向きが変わっちゃうのか……でも、その雨雲はあんまり広くないみたいだね!」
穣子の弾幕に翻弄されつつも橙は軽やかな身のこなしで回避し続け、そしてわずかな隙を見出して一気に掻い潜って走り抜けた。
そのまま穣子のすぐ下を通過しようとする。
「速っ!? この」
接近してきた橙に向けて、穣子は直接狙い撃つように大型の球弾幕を放つ。
「遅いよっ」
「くっ、待ちなさっ!?」
しかし橙はさらに加速することで狙撃をも潜り抜け、弾幕の範囲外である穣子の後方に向けて遁走した。
穣子は慌てて追いかけようとするも、橙の駆け足が跳ね上げる赤い弾幕に阻まれてしまう。
「これが『天仙鳴動』とやらなの……でもこの程度の弾速なら!」
穣子は豪語し、上空に舞い上がる橙の弾幕を一つ一つ回避しながらその背中に迫っていく。
そんな折、走っていた橙が唐突に振り返り、足を持ち上げ地面に強く打ちつけた。
「お返しっ!」
この震脚を合図に、蹴り上げられ上空を漂っていた赤い弾幕がその色を失い、本来の形である川原の石礫に戻る。
妖術の解除によって推進力を失ったそれらは、重力に引かれて空から地面に落下していった――その間にいる穣子に襲いかかりながら。
「なっ、石を蹴り上げてたの!?」
唐突に軌道を変えられた石の雨に降られたため、穣子は泡を食って回避に専念する。その過程で、穣子は少し地上へ追いやられてしまう。
それでも石の雨が降り止むまで弾幕を避けきり、すぐさま両腕を開いて反撃の弾幕を展開した。
「やるね! でも次はどうかな~?」
だが弾幕が地上に届くよりも早く、橙が再びの疾走を始める。
穣子は胸元のカードを揺らし、橙の行く手を阻むように軌道を調整するも、スピードに圧倒的なまでの差があるためにどうしても捕らえきれない。
そして駆け去った橙の舞い上げた弾幕が、地上に引きずられた穣子に襲い掛かる。そして震脚と同時に降る石礫がさらに地上へ引きずり下ろす――
満足な反撃もままならず、次第に穣子は追い詰められていった。
穣子が徐々に高度を落としていくたびに、森に避難していた男達も次第に肩を落としていく。
「ああ、穣子様が負けちまう……くそぅ、せめて霊撃で隙を作れりゃ」
「馬鹿野郎、この決闘は他人が横槍を入れることは許されてないんだぞ。第一、俺らが出て行って何とかできるもんじゃなくなってる」
「で、でもよ……」
ついには里長以外の二人が穣子の劣勢を前にして言い争いを始めた。
だが、それを嗜めるように里長が怒声を上げる。
「静かにしろぃ! 俺達がここで喚いたところで何の得にもなりゃしねえよ。
それよりもだ、俺達が奉ずる者が神様だってぇんなら、やることは一つだろうが」
「長、一体どうすりゃいいんでしょう? 俺もこのまま指くわえて見ているだけなんて耐えられないですよ!」
一喝を受けて向き直った二人に向けて、里長は静かに告げた。
「信じるんだよ。神様ってのは俺達の信じる心を汲み取って力を得るもんなんだ。
だから、祈るぞ! 穣子様が勝つことをよ」
そして里長は遠く空に浮く穣子に向けて、姿勢を整えて二拝二拍一拝の作法を丁寧に行った。
二人も慌ててそれに倣う。
「穣子様……せめてご無事で」
参拝を行う男達と、その先の穣子を見つめながら、里長は改めて両手を合わせて硬く目を閉じた。
「ありがと、少し元気出たわ」
石礫の降りしきる川原の上空で、穣子は密かに感謝を口にする。
自分を信仰する人間達の方を確認する余裕はなかったが、体力のわずかな癒えによってそれを理解できていた。
しかし同時に、劣勢がその程度では覆らないことも自覚していた。
「強いわね、あの子。このままじゃ勝てる見込みがないわ……一つ、決定的な策はあるけど!?」
こちらに向けて走ってくる橙の姿を認め、その動きを目で追う。すでに何度目の疾走になるか覚えていないが、その足並みは一向に乱れる様子がない。
橙の通るであろうルートを予想して狙撃弾を釣瓶撃つも、橙は速度を落とさずジグザグに走り抜けて回避していく。
「やっぱり、速すぎて逃げられる可能性が大きいわ。だから、奇跡が欲しいところね……
仕方ない。一か八か、賭けてみるわよ!」
穣子は舞い上がってきた弾幕を抜けて山の頂側に向かい、そして人間達が自分に向けてやったように、二拝二拍一拝の作法を行った。
「我が盟友、乾神・八坂神奈子よ。一度だけ、貴女の神徳を私にもたらして」
「余所見してていいのかなっ? それ!」
この大きな隙を逃さず、橙は震脚を叩きつけ、石の雨を降らせた。
急落する頭上からの弾幕を穣子はなりふり構わず避け続け、しかしついには地面に足をつけてしまう。
「さあ地上に迷い落ちたが最後、もう二度と空には上がれないよっ!」
地面にて、なおも降りしきる弾幕を避ける穣子に向けて、橙が再び突撃を始める。
今度は自らが手を下そうと考え、脚だけでなく腕にも力を溜めていく。
一方、橙の足音を聴いて振り向いた穣子は帽子の葡萄飾りから一粒をむしり取る。
その最中、一陣の突風が橙に向けて吹き荒れた。
「っ! この向かい風がさっきのお祈りの成果? でもこの程度で私は止められないよっ」
気迫の篭もった叫びを上げると同時に、橙は右腕を大きく振りかぶる。
一方の穣子は両手で拍手(かしわで)を打ち、手の中の葡萄を挟み潰した。
紫の果汁の代わりに四散したのは、その見た目からは想像もつかないような香りだった。それが風に乗って飛び、橙の鼻に侵入する。
「ふにゃ!?」
まさに大地を蹴って飛び掛らんとしていた橙だったが、向かい風に混じった香りを吸い込んだ瞬間、全身から力を失ってしまった。
軸足を崩され、前につんのめって盛大に転倒してしまう。
それでもなお、すぐさま顔を上げた橙だったが、その視線の直前には穣子が手をかざして立っていた。
「豊穣の神が醸し作り変えたマタタビの芳香、存分に酔いしれていただけたかしら?」
「……うぅ、力が入らない。やっぱり弱点が知れ渡っているのは辛いよぉ」
飛び退くにも払いのけるにも使えない身体を嘆きながら、橙は再び地面に突っ伏した。
ふらつく頭を抱えながら、橙はなんとか上半身だけを起こし、地面にあぐらをかいた状態で座り込む。
「ちぇっ、負けちゃったか。悔しいなぁ……あそこまで追い詰めておいて、まさか逆転されちゃうなんて。
油断したかなぁ。魔物は有頂天の頭一つ下に潜む、藍様の言うとおりだよ」
「まぁ、私としては信仰心が篭もったお酒を取られたくなかったから、割と必死で戦ったんだけどね。
再戦はいつでも受けるわよ……認めたくないけど、あんたなら容易く私からワインを勝ち取れるでしょうね……」
「え? 最後の方が良く聞こえなかったんだけど……まぁいいか。
それで、私のペナルティはなんだっけ?」
「ん、最初にも言ったけど、今日のところはこの人達には手を出さないこと。それでいいわ」
「……それだけでいいの?」
身構えていた橙としては、穣子の突きつけた要求の軽さに拍子抜けしてしまう。
だが、思わず頬を緩めたのを見咎められてしまったのか、穣子の目が据わってきた。
「あら、物足りない? じゃあ、そうね……」
「わ、わ! 今のなし――」
「紅葉を見たらその美しさを愛でてくれないかしら? それも、できるだけ多くの誰かと一緒に、ね」
「――って、な、なーんだ、そんなことなら毎年やってるよ。ま、まぁ秋の神様じきじきにお願いされたんだから、今年は念を入れてやろっかな~」
追加された項目も大したものではなかったために軽口を叩いてしまうが、橙は同じ失敗はしまいと言葉をなんとか取り繕った。
その橙と目線を合わせるように、穣子が膝を折ってしゃがみ込み、橙の手を両手で持ち上げた。
びっくりしてその目を覗き込んだ橙だが、そこに浮かんでいた真摯な光に気圧され、思わず口元を引き締める。
「そう、お願いね」
「……う、うん!」
ふらふらと立ち去っていった橙からさらに離れるように、穣子と里長達は川の上流に移動した。
そこには火の消えたカマドと、生煮えの米が残されていた。
「まったくもう! いくらなんでも無茶しすぎよ、里長。神前への供物なら私が里に出かけた時に受け取っているでしょう」
穣子は再びカマドに火を入れつつ、自身の感情にも火を灯した。
昂ぶった血潮が穣子の纏っている香水に変化を与える。具体的には、収穫したてのサツマイモの香りが焼き芋のそれへと変わった。
「いや、面目ねぇです。いつもがそんなんですんで、たまにゃ俺から社に参拝でもしようかと思いまして……」
焦げたような匂いに怒りの程を感じさせられ、里長はしどろもどろになりながら弁解する。
「呆れた。いくつになってもその無鉄砲さだけは変わらないのね。もう若くないんだから、いい加減落ち着いたらどうなの?」
「そ、それとですね……久々に静葉様のご尊顔を拝めりゃあと思いまして。もう何年もご無沙汰ですからね。
こうやって若い連中と一緒に参拝すりゃ、ちっとは静葉様のことを知る人間も増えるってもんですし」
「……確かにそうね」
里長の言葉に思うところがあったのか、穣子は口元に手を当ててから他の二人に目をやる。
その二人は静葉という単語を聞いた直後に眉根を寄せていた。おそらく、それに関わる記憶を何とか探り出そうとしているように見える。
無理もない、と穣子は軽く溜息を吐いた。静葉の姿を見たことがある者は人里でもほんの一握りしかいないことも思い出す。
それを考えると里長の無茶を責められない、とさえ思ってしまった。
鍋が泡を噴く音だけが響き続ける川原に、そよ風が通り過ぎる。同時に、風に煽られた森が色様々の落葉を零す。
しかし、この落葉はそよ風に吹かれたにしては不自然なくらい多かった。
思わず目を釘付けられた男達の前で、落葉がつむじ風にでも巻かれたかのように渦を作る。
「な、なんじゃこりゃ!? まさか新手の妖怪でもっ」
「心配ないわ。おかえり、静葉姉さん」
「え、これが?」
「そう。最近は天狗の真似でもしてみたくなったのか、こういう演出をするようになったのよ。これは『紅葉扇風』の模倣ね」
呟く穣子の前で、次第に落葉のヴェールがほどけていく。
つむじ風の中心に立っていたのは、モミジを使って織り成したかのような服を纏う神――秋静葉だった。
その閉じられていた目蓋がゆっくりと開く。それと同時に左手に持っていた黄色い扇子が、音もなく数枚のイチョウの落ち葉に変わる。
目蓋が完全に開ききるのに合わせて静葉は口を大きくほころばせ、右手に持っていた網状の袋を掲げつつ左手でハサミの形を作ってみせた。
「うわぁ、大漁ね。早速このモクズガニも茹でましょうか……そうそう、ついさっき人里から葡萄酒が届けられたのよ、姉さん」
カニの袋を受け取り、川で冷やしておいた野菜の傍に置きながら、穣子は静葉の視線を里長達の方へ向けた。
目が真っ先に静葉と合ったためか、里長がまず深々と頭を下げる。
「どうも、お久しぶりで。ここ数年は満足に挨拶にも伺えっ!?」
再び里長が頭を上げるよりも早く、いつの間にか駆け寄っていた静葉がその両手を握り、頭と一緒に引き上げた。
戸惑う里長に構わず、静葉は両手をぶんぶんと上下させて微笑みかける。
それから硬いてのひらの上に人差し指を走らせ、一文字ずつ平仮名を書いていった。里長はそれを正確に感じ取り、ゆっくりと読み上げる。
「『うわぁ、ほんとうにひさしぶりねぇ。あなたがここにくるなんて、5ねんぶりかしら?』
……ああ、もうそんなに経ちますかねぇ。相変わらずお元気そうで安心しましたよ。長らくの無沙汰、どうかご寛恕願います」
「長、この方が静葉様なんですかい? 穣子様の姉ちゃんだっていう」
「それと、もしかして……」
里長の後ろから男達が疑問を口にする。その二人に向けて、静葉はスカートの裾を両手で軽く摘み上げ、寸毫膝を折って会釈した。
里長も振り返り、静葉の仕草に見とれている二人に答えてやる。
「ああ、この方こそが紅葉の秋の神、秋静葉様だ。名前くらいは聞いたことがあるだろ?
それと、だな。静葉様は喋ることができねぇんだ。身振り手振りなんかを使うことで、穣子様とはツーカーの仲みてぇだがな。
他にも初対面の奴とかにゃ、てのひらの上に文字を空書き(そらがき)して言いたいことを伝えたりするんだ。
……ほれ、ボサっとしてないでお前らも挨拶せんか」
背中を平手で叩かれ、慌てて男達は同時に頭を下げた。
対して鷹揚に頷く静葉はふと、片方の男の服がところどころ破れているのを見つけ、近付いてその肩にてのひらを当てる。
そしてその行為に目を白黒させている男をよそに、静葉は目を閉じた。
すると静葉の袖の先がゆっくりとほどけ、たくさんのモミジの葉に変じた。それらは男の服に向かって飛び、傷を一枚一枚覆っていく。
「こ、これは?」
「姉さんにはね、草木の繊維を操る力があるのよ。それを落葉に使ったり、服を織り成したりしているの。
さっきも扇子がイチョウの葉に変わってたでしょう?」
遠くから穣子が、揃った食材を調理する片手間に解説してやる。
その間にも服の修繕は進み、最終的には黒一色だった男の着物に、鮮やかなモミジの紅が飾られていった。
片目をつむってみせた静葉を見て、男はようやく夢から覚めたかのように口を動かす。
「……ははっ、こりゃ果報者の家宝ものってやつですよ! ありがとうございました!」
「ああ畜生っ! 俺も派手に立ち回っときゃよかったぜ」
「ぷっ、あははは!」
はしゃぐ男と嘆く男を見て、穣子が吹きだした。傍の静葉も口元に手を当てて肩を揺らしている。
いきなり笑い出した神二柱を目にして、唖然とするより他ない二人を無視し、穣子は里長に悪戯っぽい流し目を送った。
「本当に、人間はあまり変わらないものなのね。昔の誰かさんを見ているようだわ」
「……うぉっほん!」
里長はそれに、苦々しそうな咳払いで応じるのみだった。
「――以上でさ。屋台はこのイチョウ並木に沿って並べていきます。後、神事のための広場ですが……」
静葉が主菜を獲得し穣子が調理したカニ雑炊を食べ終わった後、里長は穣子と共に今年の収穫祭の計画を練っていた。
「ふうん。この位置、博麗神社へ向かう道に近いのかしら。たしか……紅葉する木々に囲まれていたわよね」
「はい。ま、ここらの木が紅葉するのは妖怪の山より遅いんですがね。
里の真ん中からは離れてるっつっても、人いきれや喧騒なんかは充分届きますんで、静葉様の神徳も及びにくいんでしょう」
「……ええ。前にも教えたとおり、姉さんの神徳の顕現に必要なのは、閑静なる佇まいと寒冷なる空気。
でも昼間の里にはその正反対の要素が溢れていて紅葉には不都合。だから、姉さんは深夜の闇の中で里に神徳を及ぼすしかないの」
「……何度聞いても歯がゆい話ですなぁ。神楽舞う静葉様が木々に彩りを施す姿はこの上なく美しいってぇのに、里じゃそれを拝めねぇ。
かと言って夜に盛大にかがり火を焚いたところで、その熱気がやはり邪魔になっちまうし」
「色々と難しいのよ、姉さんへの信仰を人里で集めるのは。信仰心は、神徳を実感してもらえなければ芽生えにくいものだから」
一度会話を区切った穣子と里長は、川の対岸でささやかな踊りと、それによって現われる紅葉を披露している静葉に目を向けた。
話に参加していない男達二人と同様、美しくも儚げなそれをしばし見つめる。
「俺が生きている間に、果たしてどんだけの連中にこの見事さを伝えられることやら……」
「まぁ私達だって何もしていないわけではないわ。もうしばらくしたら一つの計画が実行に移されそうなのよ。
あ……でも、その計画も山の中だから、やっぱり細々と信仰を得ることには変わりないけどね」
「ほう。ま、何であれ期待していますよ」
里長の言葉の切れとちょうど時を同じくして、舞を終えた静葉が川を飛び越えてきた。
そして拍手で迎える男達の間を通り抜けて穣子の前に立つと、誇らしげな笑みを浮かべて胸を張った。
姉の示したちょっと子供っぽく見える仕草に、穣子は力の抜けた笑みで応じる。
「はいはい、相変わらず優雅ですこと。終わった後にわざわざ見せつけるような態度を取るところ以外は、ね。
本当に誰かに対して誇ってみせるには、目立たないように流し目でもくれてやればいいのよ。寂しがり屋の姉さんには難しいかもしれないけど」
妹の示した軽くあしらうような態度に、静葉は頬を膨らませ、両のてのひらの形を目まぐるしく変化させた。
この抗議の手話を完璧に読み取りながらも応じず、代わりに穣子は里長から受け取った葡萄酒の瓶をつきつける。
「まぁそう興奮しないで。それよりも喉渇いたでしょ? せっかく里長達が危険を冒してまで持ってきてくれたんだし、飲みましょうよ」
それから穣子は持参していたバスケットから栓抜きとグラスを出した。そして拍手を一打ちしてから、瓶を開封して葡萄酒をグラスに注ぎ入れる。
グラスを赤紫色に染めた甘露は、普通では考えられないような複雑で洗練された芳香を川原一帯に解き放った。
抗議のために詰め寄っていた静葉は、妹の神徳が醸し出した空気を吸い込み、その甘く酔わすような雰囲気に飲み込まれてしまった。
大人しくグラスを受け取り、葡萄酒を香りとともに口に含む。
「はい、貴方達もどうぞ。ここまでわざわざ届けに来てくれた報酬よ」
「こりゃどうも……お? 作りたてのはずなのに、何年も寝かせたみてぇに芳しいですな」
穣子は静葉に次いで、里長達にもグラスを渡していく。
先程までは紅葉に見とれていた人間達が次々と妹の香りに囚われていく、しかも自分も含めて――そのことに気付いた静葉は密かに渋い顔を作る。
グラスを傾け終えたところでその表情を見てしまった男の一人が、慌ててわざとらしい感嘆の声を上げた。
「い、いやぁー、里じゃめったにお目にかかれねぇ風景の中で飲む酒ってのは、格別にうめぇですな。
俺、ナマで葉っぱの色が変わるところなんて初めて見ました。
なんつーか……そう、奇術! 前にウチに買い物に来た、紅魔館の女中さんの手妻を思い出しましたよ。
これ程きれいなもんなら、是非とも里でも……おお、そうか! 今度の収穫祭の時に静葉様が踊ってくれりゃ……って、あれ?」
場を取り繕うはずだった男の一言は、しかし静葉の表情を更に翳らせてしまう。
里長がそれにいち早く反応し、咳払いと共に男の言葉を軽くたしなめる。
「……ま、気持ちは分かるが、ありがたみが薄れるだろ? 大体ここと里とじゃ木の数が違いすぎて、思った程のことにはならんかもしれんし」
「そ、そっかもしれねぇですね。すんません」
事情は分からないがこの話題は続けてはいけないと感じ、男は膝に手を付き腰ごと頭を下げる。
その男の手を横合いから穣子が掴み、引き上げて顔をまじまじと見つめた。
「それ、いい考えかもしれないわね。検討の価値はあると思うわ」
「え、は?」
「早速話を持ちかけてみないと……人間達よ、ここまでの足労、大儀でした。これより貴方達の帰還を安んずるために、私が案内を務めましょう。
じゃ、姉さん。ちょっと人里まで出かけてくるね。夜には戻るから」
「み、穣子様?」
「さ、行くわよ。もう収穫祭まであまり時間がないんだから」
有無を言わさず歩き出した穣子に遅れまいと、静葉への挨拶もそこそこに里長達が後を追う。
独り唖然とした表情でそれらを見送っていた静葉だったが、やがて眉根を寄せ頬を膨らませ、足元の石を力無く蹴った。
石は川原の砂利を二、三度打ち鳴らしただけで、すぐに黙ってしまった。
夕暮れ時の、人間の里。
秋の陽は釣瓶落とし――その沈む速さにつられるように、人々は家路に急いでいる。
そんな中、暖簾を片付けようとしていた商店のうちの一つに、滑り込むように一人の客が訪れた。
「や、いいかい?」
「……おおっ、こりゃ八雲様。はいはいっと。お得意様とあっちゃあ吝かじゃありませんよ。いつものやつですか?」
その客は人間と九尾の狐のキメラのような姿をしている妖怪だったが、店主は全く動揺を見せず、それどころか商い用以上の笑みをもって迎えた。
「ああ……やれやれ、今日も仕事に手間取ってしまった。これからご主人様が冬篭りする時期なんでね、徐々に忙しくなってきたんだ」
「ははは、確かに八雲様はこの時期によくいらっしゃいますなぁ。賢者様のために買出しですか、お疲れ様です……
はいよっ、お待たせしました。油揚げ十二枚です」
「おおう、いつもすまないなぁ。お代はこれで。じゃ、店仕舞いのところを失礼した」
「毎度! 八雲様のためならウチの戸は盆暮れ正月、いつでも開いておりますよ」
最後まで愛想を崩さない店主に手を振って、妖狐――八雲藍は馴染みの豆腐屋を後にする。
「あら、やっぱりこちらだったのね」
好物を片手に足取り軽く歩いていたところで、藍は横合いから声をかけられた。
振り向くと、この季節に人里でよく見かける顔があった。
秋の収穫祭に特別ゲストとして呼ばれるため、里に足繁く通う存在――
「やあ、どちらかと思えば……そういえばもう晩秋の頃だったな。ご機嫌麗しいようで、人里に近しい土着の豊穣神・秋穣子」
「貴女は見た感じ、ちょっとお疲れのようね。高名な豊穣神・稲荷にゆかりのある妖狐、八雲藍」
両者、まずは言葉で挨拶し、それから二人とも口の広い両袖を合わせて頭を垂れた。
再び持ち上げた顔に苦味を走らせ、それでも藍は笑って答えを返す。
「まぁもう冬も間近だしね。貴女達の見せ場が終わり次第、私にとって一番忙しい季節が始まるんだ。何しろ主に代わって東奔西走、だからねぇ」
「あら、どんよりした気分で無人社に篭もりきりの私達よりも、よっぽど健康的で充実した生活だと思うけど?」
「ははは、自分が寒さに強い性質で良かったとは思っているよ。
さて、出会い頭の言葉からすると、私に何かご用かな?」
世間話もそこそこに、藍は用件を伺う。すると穣子は佇まいを整え、真剣な表情で藍を見上げる。
軽く目を見張る藍に向けて、穣子は丁寧な口調で話を切り出した。
「その忙しそうな貴女にこれ以上の労苦を強いるのは少し気が引けますが……収穫祭の時に一つ頼みたいことがあるのです」
「む、人の営みか……『楽しい宴』の準備は嫌いではないけど、妖怪の私がそれに関わるというのは些か躊躇われるね」
「で、でも妖怪が人為を成すことだって、無いわけではないでしょう? そう、例えば……式神」
難色を示した藍の顔を見て、穣子は軽く動揺しながらも藍に関わる単語を出して説得を続ける。
しかし藍は再びの苦笑いで答えた。
「うーん、惜しい。残念ながら私を式神として使役しているのは妖怪なんだよ。私はその方にこき使われている代わりに絶大な力を授かっている。
確かに四六時中拘束されているわけではないが……さて、今貴女は人間のために私を使役、とは言いすぎだけど、何かをやらせようとしている。
ではその見返りは何だろう? 私が少しの間でも妖怪の主を忘れるくらいの何かを、果たして貴女は与えてくれるのかな?」
そして穣子に試すような視線を向ける。
対する穣子はわずかにひるむ気配を見せかけたが、それでも目をそらさず堂々と対価を告げ、丁寧に腰を折った。
「そうですね……勿論報酬もなしに働いてもらおうだなんて思ってはいません。
私が貴女に差し出すものは、秋の味覚を包み込んだ手料理、称して『狐殺油揚地獄(きつねごろしあぶらあげじごく)』
里の人間達が育て上げた作物を厳選し、豊穣神である私が彩りを加えた満漢全席をご用意しましょう。
ですからどうか、人間達のために貴女のお力を貸して下さいますよう」
衣擦れの音がはっきりと二人の間で響いた。
穣子が何かと思ってよく確認すると、藍の背後で九尾がわさわさと揺れているのが見えた。
自分の尻尾を軽く手で叩きながら、藍は先程からの苦笑いのまま、観念したような声を出した。
「……おおう、まいったなぁ。確かにそれは致命的なまでに魅力的だ。よろしい、引き受けた。
いや、まぁ……意地の悪いことをしてすまなかったね。なんだかんだで私も里とは浅からぬ縁があるし、収穫祭も楽しみにしている。
人妖入り乱れて相騒げる饗宴に、一役買うのもまた一興……と、個人的には思っているんだがね」
藍は苦笑いをばつの悪いものに変え、後頭部を掻いた。
しかし穣子は首を横に振って、理解を示すような笑顔で答える。
「でも貴女は妖怪。それも代名詞とも言える八雲の姓を冠する者。
それが安易に妖怪の本分を忘れて人に尽くすようでは示しがつかない、というところかしら?」
「まぁ、大事なことなのよ。人妖の境界を保つということはね。
妖怪が人間の里に遊興目的で入ったり、逆に人間が悪魔の屋敷にお呼ばれしたりする昨今であるとしても、だ。
それで、私は何をすればいいのかな? あまり目立つ役割でなければありがたいのだけれども」
「ええ、むしろ貴女の技だと分からないようにしてほしいところね。貴女には終始、あるものの正体を化かして人間を欺いてもらいたいから」
「ほう……嬉しいね。化け狐としての妖異を成すことが依頼とは。詳しく聞こうじゃないか――」
帽子の中の耳をぴくぴくさせながら、藍は穣子の話を聞くために傍に寄って行った。
契約を交わし、穣子と別れてから、藍は空を飛び始める。向かったのは妖怪の山の中腹あたり。
木々の生い茂る中に着地し、何かを探すように辺りを見回す。そして二本の木に目を留めてはその間を通り抜ける、その行程を何度も繰り返す。
すると何組目の木の間を通り抜けた時だっただろうか、突然森が消えて視界が開け、小さな村の風景が藍の目に映った。
この廃村にはただ古く簡素な建物が並ぶだけで、人影は全く見当たらない。その代わり、ある動物が我が物顔で席巻していた。
「にゃ~」「……くぁ」「んぁーおぅ」「ふーっ!」
「……はぁ、あいつったら、なーにが『統制の取れた猫の使い魔軍団を作ってみせます!』よ。どう見ても野良猫の集まりじゃないの」
この村の至るところを埋め尽くしているのは、寝転がったり、喧嘩したり、毛づくろいしたりしている猫だった。
猫達は藍が傍を通っても、全く緊張感を抱かず自分の行動を優先している。
野生というものが完全に死んでしまっているその光景に、藍は深く溜息をついた。
「侵入者!? もー、あんた達もぐうたらしてないで教えに来なさいよ!」
と、その時藍の耳が聞き覚えのある声を捉えた。
声の主が未だ遠くにあると気付いた藍は悪戯っぽく笑み、頭に一枚の木の葉を置いてから右てのひらを頭上に掲げ、左てのひらを地面に向ける。
すると藍の足元から急に煙が湧き上がり、その姿を完全に隠してしまった。
この煙は長くは続かず、すぐに晴れていく。だがそこに藍の姿はなく、代わりに一本の小さな木が残されていた。
「しょ、っと! そこのお前、侵入者はどこに行ったか知らない?」
藍が消えたすぐ後に、屋根の上から化け猫娘――橙が飛び降りてきた。そして近くの猫に詰問する。
訊かれた猫は顔をあげるのも気だるそうで、尻尾で木のある位置を指した。
「って、ただの木じゃ……ん~? でも、こんなところに生えてたっけ?」
訝しく思いながら橙は木の傍まで寄る。そしてくまなく調べようとして手を触れた。
途端、幹が激しく振動を始め、枝葉がこすれ合ってざわめきを響かせた。
「うわ! なにこいつ、まさか新種の妖怪なのっ?」
驚いて大きく後方に飛び退く橙。そうしている間にも目を離さず窺っていると、今度は葉が徐々に赤または黄色くなっていった。
そして振動に合わせて落葉がひらひらと舞い始める。
しばらくその変化に思考が追いついていかなかった橙だが、ふと昼間のことを思い出す。
「……あ、そうだ! 紅葉を見たら愛でろって言われてたっけ。えっと、何をすればいいのかな? きれいだね、とか?」
橙のとっさの言葉を受けて、舞い散る紅葉が一瞬でエノコログサの穂に変化した。
途端、それまで全くこの闖入者に気を払っていなかった猫達が一斉に飛びかかる。
橙もつられかけたが、あまりにも不可解な現象だったために罠を疑い、顔を俯けてなんとか踏みとどまった。
「ふむ、流石に引っかからなかったか。そんじょそこらの猫よりは冷静のようだね」
「え? あっ、藍様!」
聞き覚えのある声に橙が顔を上げると、つい先程までは不審な木が立っていた位置に敬愛する主人の姿を認めた。
間髪いれず、橙は湧き上がる感情のまま飛びついた。
「お久しぶりです、藍さまっ!」
「ああ、相変わらず元気そうで何よりだよ。っと橙、ちょっとだけ手を離して」
力いっぱい抱きついてくる橙を軽くたしなめ、藍は片腕を自由にしてから指を弾いた。
すると周りで猫をじゃらしていたエノコログサの穂が木の葉の屑に変わる。
結果、じゃれついていた猫達が豆鉄砲を喰らったような顔になる。
橙もそれと同じ心境に至ったが、やがて一つの答えを見つけ、藍に確認を取った。
「あれ? さっきまでのって、藍様の変化術だったのですか?」
「ああ。ここの皆には悪いけど、ちょっと実験台になってもらったよ。
変化自体は大したことがないけど、広範囲を長期間、そんな仕事をもらったんでね。念のため練習しておこうと思ったんだ」
「変化術のお仕事、ですか?」
「うん。秋穣子、って神様を知っているかな?」
その名を聞いた瞬間、橙は再び目を丸くする。
「は、い」
「彼女は人里で行われる収穫祭において、神事を担当する神様なんだ。
ただ、今年はどうも一風変わった趣向を凝らしたいらしい。その協力者として私に仕事が回ってきたんだ」
「あの、そのお仕事がどういう内容なのか、訊いてもいいですか?」
「え? ああ、ええとだな――」
突然の質問を意外に思いながらも、藍はつい先程人里であった出来事を伝える。
全て聞き終えた橙は、藍を見上げて叫びながら答えた。
「藍様! そのお仕事、私に任せてくれませんか?」
思いの外真剣な目で見つめられたため、藍は気圧されてしまう。
「なっ! どうしたんだい、橙?」
「実は今日の昼間に……その、色々あって秋の神様と弾幕ごっこをやって、負けちゃったんです。
それでその時に、紅葉の美しさを愛でてほしいって言われました」
「そういえばさっきもそんなことを言っていたね……ふむ、だからこそ、か」
「本当なら藍様が頼まれたお仕事は私がやるべきことかもしれないのに、なんだか藍様に私の責任を肩代わりしてもらってるみたいで……
だから、お願いします!」
勢いよく頭を下げる橙。
ようやく橙の態度に合点がいった藍は、そのこわばった頭をいとおしげに撫でてやった。
「やれやれ、別にそんなことを気にしなくてもいいのに……そうだね、じゃあ一緒にやろうか」
「でも藍様、今の時期からすごく忙しくなるのに……」
「ああ、だから橙が手伝いを申し出てくれて、本当に助かるよ。おかげで私は楽をしながらご馳走を受け取れるわけだしね。
身も心も癒されて、これからの忙しさにも立ち向かえそうだよ」
まだ思いつめた顔をしている橙に向けて、藍は茶目っ気を含むウィンクを送った。
その甲斐があったのか、橙は頬を少し緩ませ、しかしすぐに引き締めると威勢良く答えた。
「はいっ、頑張ります!」
翌朝――
次第に寝覚めの悪くなった朝陽が妖怪の山を照らし出す頃、穣子は住居である無人社から顔を出した。
丸太で組み立てられた、校倉造りともログハウスとも見える社の前で、両腕を空に向けて大きく伸びをする。
それからすぐに目をこすりながら歩き出した。
「姉さんってば……どこに行っちゃったんだろう? 昨日も私が戻ってきた時にはもう寝ちゃってたし。
せっかくいいことを教えてあげようと思ったのになぁ」
朝一番に見つけた、もぬけの空だった二段ベッドの上段を思い出し、穣子は軽く溜息を吐く。
しかし弱気を払うように顔を上げ、帽子の葡萄飾りから一粒もぎ取ると、拍手一つで挟み潰した。
そして合掌の間から広がる芳香を胸いっぱいに吸い込んだ。
「んっ、起き抜けには薄荷の香りが一番ね。目が冴えてくるわ」
眠気も振り払い、しばらく森の中を進んでいると、やがて木の上に見覚えのある背中を見つけた。
「姉さん!」
弾む声で枝に腰掛けている静葉に呼びかけ、ついでに足取りも弾ませる。
しかしそうやって近付いているにも関わらず、静葉は変わらず背中を向けたままだった。
不審に思い、穣子はもう一度叫ぶ。
「姉さんってば! もしかして寝ているの? 危ないわよ、そんなところで……っ!?」
ようやく振り向いた静葉は、しかし冬の間に見せるような暗く沈んだ顔をしていた。その冷え切った眼差しで見下ろされ、穣子は言葉を途中で切る。
黙っているうちに、静葉が木から飛び降りてきた。そして穣子の前で両手を複雑に動かし、最後に人差し指をある方向へ突き出した。
『何よ、私に用なんて何もないでしょ? さっさと人里で収穫祭の相談でもしてくれば? 急いでるんでしょ』
「……って、ちょ、ちょっと待ってよ。そのことで姉さんに話があるのよ。あのね、収穫祭で姉さんの信仰も集める方法を思いついたの」
笑みを含めた穣子の言葉に、しかし静葉は冷たい笑顔を作って首を横に振った。そしててのひらを激しく踊り狂わせる。
『私から人間達の関心を奪って、しかも早々に山から立ち去らせておいて、よくもそんなことが言えたものね』
「……ち、違う。あれはそんなつもりじゃ……その思いつきを早く実行したかったから急いでいたの。本当よ!」
『思いつきって、何よ! 一方的に優越感に浸れる手段かしら? そうよ、だから収穫祭に私を誘っているのね。
里で何もできない私に高慢な流し目をよこして……楽しそうな賑わいの中に私を独り置き去りにして……』
「……勝手な思い違いをしないでよ! 私は、収穫祭の時に人間から得られる信仰を、姉さんと分かち合えたらっていつも思ってるんだから!」
それぞれ口と手で表される言の葉が姉妹の間を激しく行き交う。
次第に感情を昂ぶらせていく穣子は、しかし静葉の次の言動で冷や水を浴びせかけられた。
『分かち合うですって? じゃあ、どうして昨日私を置いていったのよ!
何も教えられずに、私は貴女の手の上で踊らされるだけ、貴女に餌付けされるだけなの?』
「……っ! ご、ごめん。私もあの時は他に気が回らなくて……」
『馬鹿にしないで! 私がどれだけちっぽけな神であろうと、誰かに信仰を恵んでもらうなんて御免だわ!』
狂想曲の指揮を終えるかのように両腕を振り、それから静葉は踵を返して森の中へ飛び込んで行った。
「姉さん? 待ってっ痛!」
後を追いかけようとした穣子だったが、むき出しのつま先を木の根に引っ掛けてしまい、盛大に転倒する。
前に突っ伏した姿勢でなんとか顔を上げた頃には、揺れる木の枝が落ち葉を零している様子しか見られなかった。
つま先をさすりながら、穣子は息を吸い込む。
香水を全身に及ばせるために露わにしている足首からは、炭のような臭いが立ち上っていた。
「……もうっ、どうして私はこんなに頭に血が昇りやすいのよ!」
激しやすい自分の気性に怒りをぶつけ、それゆえに自己嫌悪をいっそう深める。
静葉が去っていった方を呆然と見つめながら、穣子は姉がどうして怒ったのかを考えていた。
群衆の前ではその神徳を発揮できず、そのために信仰と力が少ないとはいえ、静葉は神として姉として、気高く振舞おうと心がけている。
しかしその一方で、この上なく寂しがり屋でもある。
それは、神徳の顕現には周囲の物寂しさだけでは不充分で、自らの心も閑静と寂寥で満たされていなくてはならないためだった。
そんな姉の傍にいつも寄り添っていようと思っていた。ただ、決して哀れむことなく対等の関係であろうと気を払っていた、つもりだった。
「……私は、何を見誤ったの? 姉さんの寂しさの深さ? それとも誇り?
……わかんない、独りじゃ、何も……答えて、姉さん……」
知らず、穣子は膝を抱え込んでうずくまる。そして孤独であることの辛苦を――姉がいつも背負っているものの重さを痛いほどにかみ締めた。
「……あー! 見つけたよ、って何やってんの?」
「え?」
ふと、森の中から急に呼びかけられ、穣子は顔を上げる。
そこには昨日出会った二人の妖怪、藍と橙がいた。
「八雲さんと、あんたまで……どうしてここに?」
「昨日橙から色々と聞いてね。この子にも手伝ってもらうべきかな、と判断したの。
貴女、言ったんだろう? 『誰かと一緒に紅葉を愛でてほしい』と。今日はそのために来たのさ。
精巧な偽物を作って人の目を欺くためには、本物の美しさを事細かに鑑賞し、その記憶を頭に刻まなくてはならないからね」
藍の返答に目を一度瞬かせてから、穣子は橙を見つめる。対する橙は眉を吊り上げて不敵に笑っていた。
思いもよらなかった解釈を聞いて、穣子はかすかに微笑む。
「そう、だったの。でも……その企画は中止になってしまいそうよ」
しかしその微笑を自嘲に変え、穣子は二人を見回した。
「どうして? 何かあったの?」
「……ついさっきね――」
目を丸くして訊いてくる橙に、穣子は先程の言い争いを伝える。
「――ということなの。主演があそこまで気分を害してしまったから、もう無理だと思うわ。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」
「何よそれ、そんな簡単に諦めるの?」
「……私だって諦めたくはないわ! これが成功すれば、姉さんは確実に大規模な信仰を集めることができるもの。
同時に人間達は紅葉の美しさを誰がもたらしているのか、生涯心に刻み付け、そして語り継いでいくことでしょう。
……でも、私が考えたことが余計なお節介だと言われたりしたら、それを考えると……自信がなくなってきたの」
消え入りそうな言葉を残し、穣子は再び顔を俯けた。
先程から黙っていた藍がそれを見て励まそうとする。しかしそれよりも早く、橙が声を荒げて叱咤した。
「ああもう! しっかりしなよ、あんたはそんな諦めやすい奴じゃなかったでしょ?
大体まだ計画のことを話してもいないじゃない……わかった、あんたが何もしないっていうんなら、私が代わりに言ってくる!」
「……え?」
「ついさっき、って言ったよね。お姉さんはどっちに向かったの?」
「え、あ、姉さんなら川原の方へ」
「そっか。それなら川に沿って探せば見つけやすいかな。ま、この辺は私にとっては庭みたいなもんだし、ひとっ走りで見つけられるでしょ」
言うや、橙はまず藍に目配せし、藍が頷くのを確認してから身体を川の方に向けた。
そして駆け出そうとしたところで、穣子の声が届く。
「待って! 貴女、どうしてそこまでしてくれるの?」
「……そもそもあんたの計画じゃ、お姉さんがいないと全然始まんないんでしょ?
このままじゃあ、私はあんたに言われたことを果たせないし、藍様もご馳走にありつけないもん」
一瞬口ごもってから理由を言い残し、橙は森の中へ走っていった。
その背が見えなくなるまで呆気に取られていた穣子だったが、傍に残っている藍に問いかけるような視線を送る。
藍も穣子と目を合わせ、頬をかきながら笑いかけた。
「……あー、恥ずかしながらそういうことで。まぁここは一つ、あいつを信じてやってくれないかな?」
森の中、道の体を成していない獣道を、橙は昨日と同じように駆け抜けていく。
走りながら、橙は先程の穣子の姿を思い浮かべていた。
昨日自分と一戦交えた時はしぶとく攻撃を耐え凌ぎ、最後まで勝利を諦めなかったのに、今日は見違えるように弱々しい――
それが、諦めの悪さを美徳とする橙には許せなかった。
春雪異変の時に人間と二度矛を交えたように、また野良猫達に足蹴にされながらもなんとか懐柔しようとしているように――
穣子にも簡単に諦めてほしくはないと思った。
考え事をしながら川原に出た瞬間、すぐに目的の赤い背中を見つけることができた。見やすいことに、静葉は白い砂利の上に膝を抱えて座り込んでいた。
その様子を見て、橙は先程見つけた穣子を思い出す。心の内は見えないが、悲しそうな雰囲気はそっくりだと思った。
橙は静葉の方へゆっくりと近付いていく。その一歩のたびに、静葉はいっそう力を込めて膝を抱きしめていった。
「あんたが、秋静葉? 初めまして……かな、私は橙って言うの」
橙の一言で、静葉は急に顔を上げる。その顔には驚愕と、ほんの少しの落胆の色が見えた。
「あれ、お目当ての人じゃなくて残念だった? ま、私はそいつの代理で来たんだけどね」
からかうような橙の口ぶりに、静葉は頬を紅潮させて両手を目まぐるしく動かす。
穣子がいれば読み取れたであろう否定の手話は、しかし橙には照れ隠しの仕草にしか見えなかった。
混乱している静葉に、橙はなだめるような声色で続ける。
「さ、それは置いといて……私が今日あんた達の所に来たのは、あんたの妹に一つの大きなお仕事を頼まれたからなの。
それは、人里で私達が木々に色を塗っていく中であんたが踊る、いわば芸術のこ、コラボレーション……とかそういうやつ!
で、そのイベントを成功させるために、私と藍様はあんたの神徳――紅葉を見てじっくり研究しようって思ったわけ。
ま、ついでにお酒でも飲んで楽しんでいくつもりだけどね」
静葉は初め、橙が何を言っているのかをよく理解できないでいた。
ただ一つ気になる点を見つけたため、橙の手をとり、そのてのひらに空書きする。
橙は最初この行動に驚いたが、これが静葉の意思伝達方法だと悟り、てのひらから伝わる感触を注意深く解読する。
「『きぎにいろをぬるって、どうやって?』
……ああ、そうは言っても絵の具とかじゃなくて変化術を使うの。一種の目くらましっていうのかな。
でも見かけだけなら本物そっくりにすることができるんだ」
橙の言葉を受けて、静葉は頭の中であるイメージを思い浮かべる。
活動写真――そこで上映されていた非想天則のゆったりとした動き。
夏の終わりに河童が流していたその映像は、現実のリプレイとはいえ充分にその迫力を伝えていた。
今、橙は紅葉を鑑賞して、幻術を使うことでそれを自分の踊りに合わせて再現しようと言っている。
それは自分が普段山でやっていることを昼間の人里で忠実に再現し、本物と変わらない神徳を人間に見せることに繋がる。
静葉はようやく、穣子の思いつきの中身を理解した。
肩の力が抜けたと思しき静葉を見て、橙は続く言葉に真摯さを込める。
「私達にこの仕事を頼むとき、あんたの妹、熱心だったよ。
藍様にはご馳走を用意するって頭を下げてたし、弾幕ごっこで私に勝ったのはあいつの方なのに、やたら丁寧に頼まれたし。
ああ、よっぽど紅葉が好きなのかなぁって思った」
静葉に握られている橙の手がいっそう強く締めつけられる。
「だからさ、置いてけぼり食らったのが気に入らなかったとは思うけど、せめてあいつが何を考えてたかぐらいは聞い……て?」
橙の言葉の途中で、静葉は口元に人差し指を当てて首を横に振った。そして橙から手を離し、ゆっくりと無人社の方に歩き出す。
その直前にてのひらに書き残された『ありがとう』の文字を握り締め、橙は笑顔でその後に続いた。
無人社に戻ってきた静葉と橙は、真っ先に穣子の姿を見つけた。
エプロンを両手で固く握り締めている妹の前で、静葉は立ち止まる。
やや目をそらした穣子だったが、腕を組んで眉を釣り上がらせている橙を見つけ、再び姉の方に視線を戻した。
「……わ、私は秋の果実が纏う香りこそが一番魅力的だと思ってるから、それをいつも自慢の種にしてきたわ。
でもね、姉さんの紅葉もそれに負けないくらい素敵だと思ってはいたの。それをもっと多くの者達に理解してほしいと常に願ってきたわ。
けど、信仰の少ない神霊に巫女はいない。だから私達は無理を押して肉体を作り、自ら神徳の顕現と布教を行う必要があった」
互いに見つめ合いながら、穣子は必死に言葉を紡ぎ、静葉はそれを黙って受け取る。
「私はその、姉さんの神徳を常に間近で見続けてきた一番の信者だもの。だから、その美しさを広める方法をいつも考えてきたわ。
それにね、姉さんは私の作ったご飯を美味しそうに食べ続けてくれた、一番の信者だったから……いつも姉さんの力になりたいと思って……た?」
穣子の言葉の終わりを待たずして、静葉は駆け寄ってその頬を両手で支え、そして額に自分のそれを軽く打ちつけた。
同時に頬の上に、人差し指で文字を書いていく。
「姉さ……ん。うん、ごめん。もう姉さんを放っておいて勝手に話を進めたりなんかしないから」
『ぜったいよ? こんごもひとりでかかえこんだりなんかしたら、ゆるさないんだから』
静かに抱き合う姉妹をよそに、藍は橙の元に寄り、ねぎらいの言葉をかける。
「ご苦労さん、橙。よくやったね」
「えへへ、これで私達も一緒にお仕事ができますよね」
「ああ、そうだな。とはいえ、まずは里の人間達よりも一足先に紅葉狩りと洒落込もうじゃないか」
そして二人並んで歩き、こちらに振り向いた秋姉妹の方へ近付いていった。
人間の里の収穫祭当日――
この日は一部の人間達を除いた全ての者が仕事を休み、里全体で行われる祭りに出かけていた。
また、一部の人間達――出店を構えている商人・職人達も、交互に休憩を取りながら賑わいの中を通り抜けていく。
一方、仕事に囚われることのない妖怪達や妖精達も、人間の作り出したこの祭りの中を自由気ままに闊歩していた。
もっとも度の過ぎた狼藉を行った者は、人妖問わず罰せられるという一定の秩序も働いている。
そんな中、人でも妖でもない者が愉快そうに声を上げた。
「うーん。やはり里は活気があっていいわねぇ。妖怪の山は木気と水気が多めだから、こうも賑やかにはならないのよね」
「だからいつも言ってるじゃんか。私がやりやすいように土気と金気も高めろって。火気はまぁ、最近強くなってきたけどさ」
乾神・八坂神奈子の感慨に坤神・洩矢諏訪子が文句をつける。
そんな二柱の後ろで、もう一柱の神がほのかな笑い声を上げた。
「まぁまぁ、あまり山の麓が賑わうのも考えもの。特に、人間が私の領域に近付くのはどうしても歓迎できませんから」
それを受けて神奈子が振り返り、安心させるための言葉をかける。
「もちろん、道は危険なところを避けるよう整備はするわよ。
それよりも……上手くいっているみたいじゃない、鍵山雛?」
「ええ。貴女達に教えて頂いたおかげで厄を本体で保持しながら、分霊を宿したこの身体で人里に来ることができるようになりました。
でも……正直いつも行うには確実に霊力が足りないわね。こうして歩くだけで精一杯。貴女達との力の差を痛感させられるわ」
「まぁでもこういうハレの日くらいしか人里に用事なんてないでしょ? なら普段はそういう機会を精一杯楽しめるように力を溜めておくといいよ」
一歩一歩ぎこちなく足を進める厄神・鍵山雛を気遣いながら、諏訪子が気楽な言葉をかける。
ちょうどその傍を妖怪と人間の集団が駆け抜けていった。
「さぁさ行こうか盟友。今日は私達に人間の祭りの楽しみ方を教えてくれるんでしょ?」
「あ、ちょ、待って下さい! まだお二人への挨拶が」
「うふふ、貴女について回れば人間の祭りで楽しそうなところ……言いかえればスクープになりそうなところに近づけそうですね」
「文さん……こんな時くらい新聞のことは忘れましょうよ」
自分の巫女が妖怪に巻き込まれていく様子を笑顔で見送りながら、神奈子はふと思い出したように空を見上げた。
快晴の青空に浮かぶ太陽の位置から、神奈子は今の時間を見極める。
「そういえば、そろそろ収穫祭の神事が始まる頃じゃないかしら?」
「おおっと、もうそんな時間なんだ。さて、盟友達の晴れ舞台だ。今年はどんな感じなのか、楽しみだねぇ」
「ええ、参りましょう。豊かさと実りを司る、金気の儀式に」
三柱、それぞれ宿す力を異にする神々は、自分に向けられていない祭りの中を、それでも楽しそうに歩いていった。
人里のもっとも東の境にある出口。ここからは博麗神社に繋がる獣道が木々に隠されながら伸びている。
その手前は建物が殆どない広場になっているため、人を集めて何かを行うのにちょうど良い空間となっていた。
今、この広場には中央に釜を載せた祭壇が、木々を背にして築かれてる。
そこに向けて人々の注視が集まるように、祭壇の周辺には長大なゴザがいくつか敷かれていた。
集った観衆の視線の先には、正装した里長と、祭壇の前に並び立つ童女と少女の姿がある。
童女は長く人里の歴史に精通してきた家系の当主、稗田阿求。少女は神獣ハクタクを半分その身に宿す、上白沢慧音。
この二人の見守る中を、里長が三角山型のお産霊(むすび)を三宝折敷に載せて運ぶ。
目的の場所である、祭壇上の釜――その前に立っている穣子のところまで至ると、里長は膝を付いて三宝を掲げた。
穣子はそこからお産霊一つを両手で掴み、ゆっくりと口まで運んだ。小さなそれは程なくして、全てが穣子の中に収められる。
「大儀。人の業にてよくぞここまで練り上げました。私は今ここに、行く年の実りを労い、来る年の実りを誓いましょう」
穣子の賞賛を受けて里長はかしこまり、それから自らも一つ、腹に収める。
それを見届けてから穣子は両腕を高く掲げ、観衆に向けて高らかに告げた。
「五穀の実の栄えを成すと言えど、五穀の苗を健やかに育む力を持たぬ私から、せめてもの心づくしを振る舞いましょう。
人間達よ、来る年への糧として、存分にお上がりなさい」
そして穣子は振り返ると、釜に向けて拍手を一つ打つ。
すると中で揺らいでいた芋粥から、えもいわれぬほど甘く香ばしい匂いが生まれ、広場全体に行き渡った。
再び観衆に向き直った穣子は、両袖を揃えて軽く一礼し、神事に一時の終止符を打った。
「お疲れさん、二人とも……ああ、ありがと、慧音」
広場の隅から神事を見ていた少女――藤原妹紅が、芋粥の椀を持ってきた上白沢慧音と稗田阿求を労った。
「うん。といっても私はただの飾りだけどね。むしろハクタクの中にある、やんごとなき方々との縁が重要なんだ」
「ああ、やっぱりこれって新嘗祭が原型なんだねぇ。しかしまぁ色々混ざってて、なんだかよく分からなくなってるな。
幻想郷は全てを受け入れる、ってことなのかね」
かつて原型を垣間見たことのある妹紅は苦笑する。
それを聞いていた阿求も苦笑を浮かべながら、先代達がつけてきた記録を参考にして答えた。
「ええまぁ、年を重ねるごとに少しずつ混ざっていった感じ、らしいですよ。でも私の代になってからはまだ変化がありませんけどね。
この芋粥の味も香りも……相変わらず素晴らしいものです」
「ああ。でも不思議だな。里の誰が真似ようとしても……この香りも味も出せないんだ。一体どんな技を使っているのやら」
芋粥をすくって深呼吸する阿求と慧音に向けて、妹紅が呟くように切り出す。
「これは薬屋から聞いた話だけどね、『発酵の能力は神の力』らしいよ。
あの神様は果実を熟れさせることに長けていて、普通じゃ考えられない風味を醸し出しているんじゃないかな」
「へぇ、なるほど! そういえば漬物は香の物、つまり神の物とも言いますしね。
参考になりましたよ。次の幻想郷縁起は神様についての頁を充実させるとしましょうか」
好奇心が満たされた阿求が意気込むのとは対照的に、最初に疑問を発した慧音は寂しそうな目を妹紅に向けた。
「ああ……妹紅、お前が今まで舶来の酒しか飲まなかったのはそういう……」
「……ま、最近はどうでも良くなってきたけどね。日本酒の中にもあいつ以外が醸した物があるみたいだし。鬼の酒とかね」
「おや、なんでしょう? 里長が何かを呼びかけていますよ。神事はこれで終わりのはずですが……今年はまだ何かあるのかな?」
場の空気を変えるように、また自身の興味の向くままに、阿求が呟く。
つられて妹紅と慧音も首を動かし、祭壇に目を向けた。
阿求の言葉どおり、そこには里長と穣子が立っていて、大音声を上げて人々の関心を引いていた。
「みんな、そのままで聞いてくれ! 今年はもう一つ、神事っつぅか、余興をやるんだ。これは穣子様が考え、準備を整えて下すったことだ」
衆の視線と期待感を集めた里長は、穣子に後事を託す。
「神事の時の繰り返しとなりますが……人間達よ、よくぞ前年の天候不順を乗り越え、今年を豊作に導きました。
貴方達の労苦の結実をこの季節に祝えることができて、私は誇りに思います。そして来年の秋も再びこの光景を見られるよう期待しています。
さて、そのために一つ、この度の収穫で疲れてしまった大地と貴方達の心に、糧を与える儀式を執り行いましょう。
貴方達が収穫後の田に火を放って土地を肥やすように、山もまた木々に火を灯し、その火の粉が土地に潤いをもたらすのです。
その火付け役を今年は特別に招いています。それは私の姉にして紅葉の神、秋静葉。
寂しさと終焉の象徴がもたらす山焼きの風景を、里で最も木々の多いこの場所でご覧に入れましょう」
穣子は長々と口上を述べて、祭壇から退いた。
それと同時に、祭壇の背に最も近い木から、一部の葉が一斉に落葉した。
そのむき出しになった枝の上で、両手でスカートの裾を摘み上げて会釈していたのは、穣子と同じ金色の髪を風に流し、秋の暖色を身に纏った静葉だった。
観衆がどよめく中、静葉は目を開いてスカートから手を離し、ゆっくりと両腕を上に運んで踊り始める――
空に掲げた両腕のうちの片方を折り曲げ、顔の前でてのひらをくるくると翻らせながら、横に大きく開く。
それから木の葉をざわめかせながら枝の上を軽やかに歩み、手近なところにあったカエデの葉に、握手するように手を沿わせた。
途端、その緑の葉が赤く色付く。点火された赤色はそのまま他の葉に燃え移っていった。
静葉はそれを見届けてからつま先を支点に身体を一回転、別のカエデの葉に手を伸ばした。
今度は人々の歓声の口火が切られる。
一方の静葉は色付いたカエデから手を離すと、別れを告げるようにてのひらを振る。
するとその木に茂っていた紅葉が、ゆっくりと地面に向けて舞い落ち始めた。
「合図だ。橙、お前が見て工夫を凝らした、もっとも美しい幻想を披露してやりなさい」
人里の外にある茂みの中、あらかじめ打ち合わせをしていた藍が静葉からの便りを見て、橙に指示を送る。
「さぁいくよっ、今からやるのは寂しさなんかとは一切無縁の、派手できれいな一大スペクタクル!」
橙の宣言と同時に静葉はスカートの裾を軽く摘み上げ、枝を蹴って別の木の茂みに飛び移った。
すると、飛び移ったところを起点に赤色の花火が弾けた。
円状に広がるそれは侵略すること火のごとく、他の木々も巻き込んで延焼させていく。
上がる火の手の中で一度スカートを翻らせてから、再び静葉が枝を蹴る。より高みを目指して飛び移り、飛び上がる――足跡に赤い花火の散華を残して。
そして燃え盛る炎の頂に足を降ろしたところで、両腕を横に大きく開き、その場でゆっくりと回転し始めた。
静葉が回るたびに、その下方で赤く色付いた火の粉がそよ風に乗って舞い散っていく。
落葉狂う光景の中、それに魅せられていた誰かが硬いてのひらを唐突に打ち鳴らした。
それはすぐに観衆の間に伝播し、やがて八百万の拍手となって広場の空気を響かせる。
人々の傍らにあった穣子は視線を動かして里長を探し、見つけ出すとウィンクしてみせた。
そう、今においては音を立てぬよう遠慮する必要はない、この信仰の形を存分に披露してやればよい――穣子は満足そうに笑った。
人々の拍手を聴きながら静葉はうっすらと微笑み、それから両腕を自らの身体を抱くように縮めた。
そして回転をゆっくりと止めていき、完全に静止したところで身体を傾ける。
静葉は身体を重力に預け、まるで一枚の落葉のように木から身を踊らせていった。
観衆の悲鳴と紅葉の茂みに包まれながらも、静葉は笑顔のまま風を切り裂いていく。その途中で密かに神徳を発現させた。
静葉の姿が再び人々の前に現われた時、悲鳴は感嘆に変化した。
音もなく無事に着地してみせた静葉は、いつの間にか真紅の和服を身に纏い、片手にモミジの葉のような扇子を持っていた。
そして何の傷もないことを見せるように、両腕を開いてくるくると回り始める。
再び始まる人々の拍手の中、静葉は唐突に扇子をある方向に突きつけた。
「姉さ……ん? こ、これってまさか!」
静葉の顔に稚気の含みを見出した穣子は、姉の示した方向に何か力が膨れ上がるのを感じた。
そこにはすでに葉が黄色くなっていたイチョウの木があり、その一部が滝のように落葉を始める。
この不自然な落葉が治まったところには、大きなイチョウの葉を何枚も重ねて巻いたような服を着た、もう一つの静葉の姿があった。
「ぶ、分霊ですって!」
穣子は大きく目を見開く。
同じように驚いている、イチョウの傍に建てられた屋台の店主を尻目に、新たに生まれた分霊の静葉は片手を里の外に向けた。
その先の藍が、苦笑しながら橙に言う。
「……やれやれ、どうやら依頼主は私とのダンスを所望らしい。というわけで橙、本体の方は任せたよ。
私はあの分霊が顕現させる神徳の方を担当してくるから」
「あ、はい。頑張って下さいね、藍様」
「ああ……と、その前に」
藍は懐からスキルカードを一枚取り出すと、橙の後ろに展開させた。
現われたのは、紫色のガラスで作られたような眼球だった。
「藍様、それは?」
「魔眼『ラプラスの魔』、という名の式神の一部分らしい。本来は紫様の物なのだがね、設置だけなら私にもできるんだ。
実は今日の人里の至るところに置いているんだが……ま、一種のお守りさ。それよりも橙も頑張りなさい」
「はい、任せて下さい!」
元気の良い返事を受け取ってから、藍は茂みを蹴って飛び立っていった。
茂みを出る前に自らに姿隠しの術を施してから、藍は静葉の前に至ると両袖を合わせて膝を曲げた。
「せっかくのお誘いなれど、姿を現すことをしない我が身をどうか許していただきたい。
我々が妖術を使うときには木の葉を触媒とする必要があるのでね。それを誰かに見咎められるとまず……い!?」
弁解の言葉を静葉は無視し、藍の帽子の上に服の袖からイチョウの葉をはらはらと落とした。そして悪戯っぽくウィンクしてみせる。
それを見て藍は観念したように笑い、術を解いて姿を現した。
「イリュージョン!?」と誰かが呟くのをよそに、藍は差し出された静葉の手を取る。
「なるほど……こうまで落ち葉の飛び交う中にあっては、帽子の上の一枚など森の中の木、ということね。
ではしばし、お手を拝借するとしよう」
そして藍は静葉の手を引き、イチョウの並木道の真ん中までエスコートする。
それから二人向かいあって、片手同士は繋ぎ、もう片方の手は互いの背中に回した。
余興の始まる気配を察して、道を埋めていた人妖達は一斉に木々の脇や屋台の陰に退いていった。
疾駆の足音が軽やかに開幕を告げる。
二人は足取りを弾ませて並木道の端すれすれを、時に互いの身体の位置を入れ替えながら駆け抜けていく。
ある程度進んだところでUターンして反対側の端をかすめ、それからくるくると回りながら道の中央に向かった。
歯切れよく足踏みを鳴らす一方、静葉は繋いでいる手を頭上に掲げる。それを合図と捉え、藍はこの辺りのイチョウの葉を黄色く染めていった。
変化術のための木の葉は掲げられた静葉の袖から帽子の上に零れ落ちてくるため、術は滞りなく進行していく。
ある程度術を施した藍は、今度は先程とは鏡対象の軌道を描くようにステップを踏む。
二人はこれを繰り返しながらイチョウの並木道を踊り抜け、順に木の葉の色を変えていった。
「広場で上がった紅蓮の炎が、イチョウ並木をこんがり狐色に焼き上げる、というところかな?」
「お、上手いですね。それなら、俺達はせいぜい美味そうな狐色にクレェプを焼き上げましょうか!」
外来人を師に迎えた菓子職人は、二人を見送った後で黒い鉄板に白い円を描き、調味料を取り出すためにしゃがみ込む。
カエデ蜜の壷を探すその黒服の肩口には、赤いモミジが飾られていた。
「ええい、こんな時にソバなんぞ焼いてられっか! 今度こそ俺はちゃんと静葉様を信仰するんだ。食いたい奴は勝手に作りやがれ!」
「馬っ鹿、それどころか箸も皿も持ってる余裕すらねぇっての!」
「ホントよねぇ……あら、そろそろ通りかかるわよ」
焼きソバの屋台にいた客と店主が、並んで手を打ち鳴らし口笛を吹き、二人のフォックストロットを称える。
「これは……幻想郷で社交ダンスが流行る予感!」
「んー? なんだいそりゃ、盟友」
「気になりますねー。我々も社会を作っている以上、必要になってくるものなのでしょうか?」
「是非とも教えて下さい、風祝様!」
「わわ、そう言われても私はやったことがないんですってば」
山から遊びに来た人妖達が、二人のダンスを肴に会話を弾ませる。
人々の歓声を後に残しながら、二人はやがてイチョウ並木の終わりに至る。そこまで木々を幻で染め上げてから、藍は踊りの仕上げに入った。
先程までの軽快なステップとはうって変わって、二人は優雅な足運びで道の中央に向かう。
そして藍は前傾し静葉は背を反らし、その体勢を保持して互いに目を閉じることで、ダンスに終止符を打った。
周囲の音が強まる中、先に目を開けた静葉は藍の頬に手を伸ばし、その上に人差し指を走らせる。
『ありがとう。とってもじょうずだったわ』
そして藍に微笑みかけてから、その姿を無数のイチョウの葉に変え、その場に崩れ落ちていった。
藍はそれを見届けた後、畏まって一礼してから、周囲に向けておどけてみせた。
「やあやあ、神様に化かされてしまうとは、私も焼きが回ったかな?」
それを聞いて、一度は静まりかけた人々が今度は笑声を湧かせた。
藍と静葉の分霊が踊りを終える少し前――
地に降り立った静葉の本体は、幹の間を潜り抜けるように踊り回っていた。
片手の扇子を払い、長く伸びた袖を振るう――その度に一部がほどけて宙にモミジ型の火種を撒き散らす。
吹き上がる炎を形作るそれらは、いまだ緑の木々を下から焚き上げるように赤く染めていく。
こうして灯したかがり火が削れた袖を扇子を繕うように、その上に火の粉を積もらせる。
静葉の踊りと橙の変化術によって、広場の木々は次々と燃やし尽くされていった。
紅葉の真の立役者である橙は、しかし大きく肩で息をしていた。
藍の抜けた今、分かち合っていた負担を独り支えなければならなくなった橙は、茂みの中で両足を開き、必死で精神を集中させている。
静葉の踊りがゆるやかなものになったとはいえ、橙にとってはそれについていくのも困難だった。
「て、『天仙鳴動』とは桁が違いすぎるよ……あれ基準で考えていたのが甘かった、のかな。
でも、負けるもんか……でも……」
眉間に流れる汗を拭いながら、橙は口に出しかけた弱音を噛み殺す。
その直後に、突然背後から声が届けられた。
(いまだ紅葉していない木々の占める面積は残り五メートル四方分。貴女の術のペースでいけば、あと三十秒間繰り返していけばいいわ。
だからもう少し頑張りなさい、橙)
「ゆ……かり様!?」
よく知っているはずのその声は、しかしめったに聴いたことがないくらい優しい響きだったため、橙は最初誰の物か分からなかった。
(いいから貴女は集中なさい。すぐに目の前に行くわ)
声を響かせながら回り込むように現われたのは、先程藍が置いていった紫色の眼球だった。
「ら、ラプラス、のま?」
(ええそうよ。この式は私の耳目とそれから口を遠くまで及ぼすためのものなの。
本当はのんびりと収穫祭全体を眺めていようと思っていたんだけどね。貴女達が面白そうなことをしてたから、つい口出ししちゃったわ)
「――」
(ああ、つらいでしょうから何も答えなくていいわ。それにしても、藍も酷いわねぇ。可愛い式をほったらかして、自分は神様とダンスに夢中だなんて。
でも、藍も少し考え方を変えたのかしら。昔だったら過保護なくらい貴女の傍を離れずにいて、こんなことは絶対にしなかったのに。
まぁこれを傍に置いていったあたり、まだまだ心配性は抜けきっていないみたいだけど)
「――!」
紫に言われて、橙は久しぶりに会ってからの藍の行動を思い出す。
静葉を説得するときに何も言わずに送り出した、変化術の演出を全て自分に考えさせた、そして静葉の本体を自分一人に託していった――
これら放任の態度を、しかし橙は嬉しく思った。
(さぁ紅葉の宴もたけなわ、この場が貴女色に染まるその光景と……
信じる心によって力を得るのは何も神様だけではないということを見せてちょうだいな、私達の可愛い式神さま)
それを告げると、紫色の眼球は橙を励ますように、その周囲をくるくると回り始めた。
さらに他にも藍が設置していたのか、もう三つの眼球がその旋回に参加していく。
その中心にいる橙は先程の苦悶の表情が嘘だったかのように、晴れやかな顔で変化術を行使していった。
藍様も、そして紫様も、私を信頼してくれている。なら、その期待を裏切るような無様な姿は絶対に見せられない――
橙は不思議と背中が熱くなってくるのを感じた。そして傍の木の葉をむしり取って術を使い、覚えた熱気をいまだ緑の木々へと伝えていく。
赤い火の手の勢いが再び回復する中、静葉の足が最後の木の前まで運ばれる。
その幹の周りに沿いながら、静葉はまず扇子を叩きつけ、続いて袖を一つずつ打ちつけていった。
触れると同時に舞い上がったモミジの葉は、その色を移すかのように、木に茂っている緑の葉を下から順に焚き上げていく。
そして静葉の姿が観衆の前から幹の後ろに隠される。
次に現われた時には元の服に戻り、さらに茂みの上に飛び移っていた。
次第に燃え上がっていく茂みの中を、静葉は両手を広げて旋回しながら登っていく。
そして頂上に至った静葉はゆるやかに身体を一度翻らせると、姿を現したときと同様、スカートを持ち上げて膝を軽く折った。
火の爆ぜる音が遅れて鳴り始める。
ぱちぱち、ぱちぱちと――次第にそれは大きくなり、混ざり合い、広場の空気を割らんとするように爆発した。
人間が示す信仰の一つ形を耳にしながら、橙は茂みの中にその身体を横たえていた。
呼吸はいまだ荒く、心臓も信じられないくらい早鐘を打っている。しかし、頭の中は達成感で満たされていた。
傍には戻ってきた藍と、移動してきた紫の姿がある。
「ご苦労様、橙。貴女と一緒に、貴女の色を愛でることができて、本当に良かったわ。
それにしても、誰かさんが教えてくれなかったせいで、折角の晴れ舞台を見逃すところだったわねぇ。危ない危ない」
「いやまぁ、直前まで黙っておいた方が楽しみが増すものかと愚考しまして。
ラプラスの魔さえ設置しておけば、見逃すということはまずありえないでしょうから。して……いかがでしたか?」
「ええ、満足のいく余興でしたわ。橙も着々と力を付けてきているみたいねぇ。
何より最後まで成し遂げようとする意志が素晴らしかったわ。途中で抜け出した誰かさんとは大違い」
「……なんとも、ご無体なお言葉で」
紫のからかうような言葉に、藍は渋い表情を作る。
それを見て、橙は藍を擁護するために上半身を持ち上げた。
「で、でも私は別に気にしてないですよ! 最後まで諦めなかったのは、藍様が私一人に任せてくれたお蔭ですし。
ああ、初めて信頼されたんだなって思えましたから」
「橙……」
「うふふっ……大丈夫よ、橙。藍の意図したことぐらい、ちゃんと分かっているから。むしろ藍の子離れを喜ぶべきなのかしらね」
橙の必死な言葉を聞いて、藍と紫は温かい目を向けてきた。それら視線を掴み取るように、橙も笑みを浮かべててのひらを握り締める。
主達の信頼、それこそが最大の報酬――そう橙は思う。
だから、遠くで響いているあの人間達の信仰は全て、報酬をくれるきっかけを作ってくれた神様達が受け取ればいい、とも思った。
「八百万の言の葉でも足りぬほどの感謝を、貴女達に捧げます」
だが、橙に向けてさらなる報酬が追加される。
顔を上げると、そこにはエプロンを両手で持ち上げる穣子と、その上に身体を横たえている静葉の姿があった。
精根尽き果てたという様子ながらも、静葉はしっかりと橙と藍を見据えた状態で、穣子ともども頭を下げる。
「このような有様で伺う無礼、どうかご寛恕を。そして……妖怪の賢者殿には、無断で式をお借りしたことをお詫びします」
「いやは、そうかたく構える必要はないというのに。貴女とは対等な立場で契約を結んだ間柄なのだからね」
「私も……信じられないかもしれないけど、これでも式の私事には干渉しない主義なのよ。
これは藍や橙が貴女達と合意の上で臨んだことでしょう? なら、私がとやかく言う気はないわね。
それに今年の収穫祭は予想外の出来事が見れて、久々に楽しめましたわ。また来年の趣向も期待しておりますわよ、秋の神様。
……さて、私はお邪魔かもしれないので、これで失礼しますね」
返答を告げるや、紫は宙にスキマを開くと、その中に身体を滑り込ませていった。
それを横目で見送りつつ、藍は両袖を合わせて秋姉妹と対峙する。その後ろで慌てて橙も立ち上がった。
「私達の施した変化術は少なくとも数週間は保たれていると思ってくれればいい。だからまぁ、本物の神徳はゆっくり進めても大丈夫だよ」
「……そう、ありがとう。では、こちらは早いうちに報酬をご用意いたしますね。詳しい期日については、またいずれ。
あっ、それから橙、貴女も一緒に来てくれないかしら?」
「えっ? でもあんたが約束したのは藍様だけでしょ。わ、私は別にいいよ」
「何を言っているのよ。今回の最大の功労者をないがしろにするなんてできないわ。
それに貴女にも私の神徳の素晴らしさを知ってほしいもの。姉さんのだけじゃなく」
「うっ、あんたの神徳は正直トラウマ……いや、確かにマタタビは好きな匂いだけどさぁ」
「では橙の分もお願いできるかな。二人一緒に紅葉舞い咲く山の中で、思う存分宴席に酔いしれさせてもらうとしよう」
橙はまだ何かを言いかけたが、藍に微笑みかけられたために口をつぐんだ。
と、静葉を抱いた穣子が橙の傍に寄ってくる。そして静葉は頭から一つ、髪飾りを外して橙に見せた。
それは九つの指を備えた橙色のカエデの葉だった。
「これ……私に?」
頷き、それから静葉は藍にも同じ物を渡す。そして穣子がその意味するところを代弁した。
「姉さんからの友誼の証です。どうぞお納め下さい」
「ふむ、かたじけない。おおう、私達にはぴったりの形と色だな」
藍は葉柄を摘んでくるくると回し、満足そうに目を見張った。
一方の橙はしばらく沈黙していたが、おもむろに静葉の手を取るとその上に指を走らせ、同時にそれを読み上げた。
「『ありがとう。だいじにする』」
対する静葉の答えは、花のようにほころんだ満面の笑顔だった。
それを見届けた藍は一つ頷くと、佇まいを改めて深々とお辞儀した。
「さて、それでは我々もこれで失礼するとしよう。お役目も無事果たし終えたし、後はゆっくりと屋台でも巡るとするよ。
ま、予定外に目立ってしまったから……人間に化けてやり過ごそうかしら。
それと貴女達はそろそろ広場に顔を出した方がいいだろう。崇めるべき主役の到来を人々も恋しがっている頃だろうし」
「またね、秋静葉。
それから……次は負けないよっ、秋穣子!」
橙も手を振ると、藍と並んで茂みの外へ歩いていった。
「私達も行こっか、姉さん」
二人の姿を見送ってから、穣子は腕の中の静葉に呼びかける。すぐに静葉は首肯を返した。
それを確認してから穣子は弾むような足取りで広場へ向かう。その途中で目を閉じ、心中である期待を膨らませていく。
さあ、いよいよこの収穫祭で姉さんと一緒に信仰を分かち合える時が来たわ――
と、突然頬に人差し指を深く突きつけられた。
反射的に腕の中を見下ろすと、静葉が口元を悪戯っぽく歪ませ、勝ち誇ったような流し目をよこしている。
「……はいはい、ええそうね。確かに今から向けられる信仰の量を考えると、今年は姉さんの圧勝よね!」
頬が膨らみ、足取りが地団太を踏んでいるかのように荒くなる。
そして、この試みを始めた当初から姉さんに負けるのか、と考えて穣子は軽く肩を落とした。
その肩に静葉は両腕を回して抱きつき、労うように慰めるように、ぽんぽんとてのひらを弾ませた。
時期尚早のそれは炎のような色を輝かせて、同じ色の雲からひらひらと舞い落ちる。
そして雲を支える木々の根を、地衣の類の上を、あるいはそれらの台となっている山の土までも覆うように積もっていった。
この融けない雪を降らす雲の中で、一柱の小さな神が舞い踊っていた。
一挙手のたびに木々の緑が赤く染まり、一投足のたびに落葉が降る――それを余韻に、神は枝から枝へと飛び移る。
そして再び、奉納の舞を捧げる巫女のように、一心不乱にその身を躍らせ続けた。
「……きれい」
「ああ。全く、見事なものだね」
この見る者の瞳に焼きつく舞台と、心を焦がす舞踊とを鑑賞していた者達が、その感動を言葉に出して分かち合った。
「でも……なんだか寂しそうな踊りですね」
「ふむ、祭りの雰囲気を考えると確かに似つかわしくないね。橙、お前が見せ方を工夫してあげなさい」
「はいっ、藍様」
二言三言交わしてから、狐色をその身に纏う女性と暖色をその名に含む童女は再び紅葉の神に魅入られていった。
~ 幻惑ティアオイエツォン ~
秋の深まる妖怪の山。
凍てつく山颪が頂から麓までを駆け抜けるこの時節に、木々はいよいよ燃え上がらんばかりに染まり、その色付いた落葉が川を流れる。
それを横目に捉えつつ、豊穣の神――秋穣子は川原で石を組み立て、即席のカマドを作っていた。
築き上げた後、薪や落ち葉を燃料にして火をくべつつ、持参した鉄鍋に新米と澄んだ山水を混ぜ、それをカマドの蓋とする。
「ご飯の方はこれでよし、っと。今日のお昼はカニ雑炊。後は姉さんの獲ってくるモクズガニ待ちね」
一仕事終わったところで穣子は現状を確認するように呟く。
それから神徳の顕現に出かけていった姉の成果を確かめるために川へ向かった。
川原の、食材を冷やしているところで穣子はしゃがみ込み、上流より流れ着いた一枚の赤い落ち葉を拾い上げる。
そして葉柄をつまんで秋晴れの青空へ向けてかざし、くるくると回して色彩や形をじっくりと吟味する。
「……うん、上々。乾神へのプレゼントとしても遜色ないわね。姉さん、今年も調子がいいみたい。
それにしても……いい天気だわ。やはりこういう日は木々に囲われて食事を取るよりも、日向に出てきた方がいいわよねぇ」
立ち上がって大きく身体を伸ばし、穏やかな秋の日差しを総身に受け止める。
しばらく青空を見つめてから、ふと、穣子は乾神――八坂神奈子が最近言っていたことを思い出していた。
「麓に温泉ができたことは知っているでしょう? 今はまさしく山中の秘湯といった体だけど、ゆくゆくは傍に小さな宿をこしらえようと思っているの。
その候補地を麓の方に詳しいお二人さんで探してくれないかしら? そう、なるべく紅葉の映えるところがいいわねぇ。
あとは人里からも行けるよう道を整備してやれば、おのずと人間達からの信仰も集まりそうだしね、色んなところにさ。
……ああ、大丈夫。天狗達には話をつけてあるのよ。なに、八ある山坂の中、人専用の道が一つくらいあってもいいと思わない?」
そう、気さくに笑いながら話しかけてきた姿が、今でも穣子の脳裏に克明に浮かんでくる。
近年妖怪の山に現われたばかりの神奈子は、しかしあっという間に住人達の信仰を一手に集めることに成功している。
それだけに留まらず、人間の里にもその神徳を及ぼし、信仰を得ようと画策しているらしかった。
実際、そのために自分達のような土着の神々と足並みを揃えようとする姿勢は、多少呆れる部分はありつつも実に巧みな手腕だ、と穣子は思っていた。
元からいた者に反感を抱かせず、しかし強引に巻き込むような形で融和する手法――それでも出会ってから今に至るまで、神奈子とは良好な縁を築けている。
その一つの形が、姉が贈る紅葉の髪飾りである。
青い風の中を泳ぐモミジの葉が目に映り、穣子は意識を過去から引き戻した――そして下流の方から響いてきた音に奪われる。
改めてそちらへ向くと、さらに赤色と桜色の光が目に飛び込んできた。
「何かしら? 弾幕のように見えたけど、妖精か何かが暴れているのかな」
訝しく思いつつ、穣子は素肌を曝した足を下流へと向けて踏み出した。
「急げ! こっちだ」「水音だ、ありがてぇ。この森さえ抜けりゃぁ」「一気に川に飛び込む、それでもう追っては来れんだろ!」
叱咤と、駆け足の音が閑静な森の中でこだまを響かせる。
騒音の元となっているのは三人の男。いずれも焦燥に駆られるままに必死で足と舌を回していた。
周囲の枝で服を引っ掛け、張り出した木の根に足を取られそうになりながらも、一心不乱に森の外へ出ようとしている。
「長ぁ! あの妖獣の嬢ちゃんは一体何が狙いなんでやしょうねぇ!?」
「おそらくはこいつだろう。だが、できれば渡したかぁねえな……む、川が見えたぞ。あと少しだ」
「っ!? やばい、なんかデカいのが来ますよ!」
やっとの思いで森を抜け川原の前まで至ったところで、男のうちの一人が警句を発した。
「天符『天仙鳴動』」
森の奥から届けられた童女の声音が、しかし男達の心胆を寒からしめる。
宣言の意味するところに最初に気付いた者が、残り二人にその脅威を伝えた。
「横っ飛びに倒れ伏せろ!」
叫び、自身もその言葉どおりの行動をとる。
男達三人のいた空間には今や誰もいなくなり、そこを轟音響かせる何者かが突風のように駆け抜けていった。
「ひょお! 博麗の神サマサマだぁ……っ!?」
「まだだ! 立てぃ!」
無事を喜ぶ男の身体を傍にいた初老の男が引き上げ、更にどこかへ飛び込もうとする。
しかしそれもむなしく、二人の男はいつの間にか迫っていた赤い弾幕に飲まれようとしていた。
「うわお助」
「霊撃・森羅!」
着弾の直前、割って入ったもう一人の男が叫びと共に一枚の札をかざす。
すると札を中心に桜色の衝撃波が生まれ、飛来する弾幕全てを打ち払っていった。
事なきを得た二人が恐る恐る顔を上げる中、川の手前にいつしか一人の童女が立ち、気だるそうに乱れた髪を整えていた。
「ちぇー。こっちの弱点、完全に知れ渡っちゃってるなぁ。おまけに霊撃札持ちだなんて、里の人間も随分と手を焼かせるようになったんだね」
据わった目を向けてくる童女は見た目こそ小柄だが、いくつか大きな特徴があった。
「まいっか、少しは歯ごたえがないとね。狩りには困難がないと腕が鈍って良くない、って藍様も言ってたし。
さぁおじさん達、まだまだいくよー。それとも怪我しないうちに降参して、その美味しそうな何かを渡す?」
挑発するように喋りながら男達に向ける逆手には、人ではありえないほどに長く鋭い爪が備わっていた。
それだけでなく、頭に目をやればそこには大きな猫の耳殻、腰周りに目をやれば二又に分かれた長い尾――
つまり、この童女は人間と猫のキメラのような姿をしていた。
化け猫娘は長い八重歯を覗かせながら舌なめずりをしてみせる。それを前にして、男達は顔を見合わせる。
「ど、どうしやしょう、長? 川の前に立たれちまいましたよ」
不安そうに意向を伺う男には答えず、初老の男は腕の中の風呂敷包みを抱え直してから化け猫娘に答えた。
「八雲様んとこの橙ちゃんよ! すまんがこれは大事な捧げ物でな。こいつばかりは渡せんのよ。
他に欲しいもんがあるなら渡すから、それで見逃してはくれんか?」
「おじさん、私を知っているの? ……ああ、そっか。人里の偉い人なんだっけ。うん、たしか最近藍様に挨拶してたよね。
うーん、ちょっと気が引けるけど、でも駄目。それをくれるまでは見逃してあげないんだから」
「……そうかい。仕方がねぇな」
初老の男――人里の長は顔を伏せて化け猫娘――橙から目をそらす。しかしすぐに顔を上げ、懐から札を取り出した。
自分達の長が覚悟を決めたのを見て、残り二人も同じように札を構えた。
その中で、腰の引けた男が震える声でぼやく。
「うぅ、俺、里であの子に挨拶されたことあんだよなぁ。元気で真面目そうな子だと思ってたのに」
「『時と場所が違えば、その者の立ち位置もまた変わる』、上白沢先生も言ってただろ。
妖怪は里ん中じゃ俺らに寛容だが、外じゃ容赦ない……あの子は妖怪として真面目ってことだ。
それよりもしっかり構えろ。そんなんじゃ自分が霊撃に吹っ飛ばされるぞ」
「ああくそっ、霊撃ってのはすげぇ力が抜けるんだよなぁ……先生や藤原の姉さんはなんだってあんな涼しい顔して使えるんだか」
「ぼやくな、来るぞ! やることは変わらん。なんとかあの子をかわして川に逃げ込むだけだ」
里長達の向かい側で橙がわずかに腰を低くする。先の疾駆を予期させるその動作に、三人の緊張はいよいよ増していった。
「待ちなさい、そこの妖怪!」
突如として水を差してきた何者かの怒号に、橙は思わずたたらを踏む。
声は上空から響いてきたと当たりをつけ、威嚇の含みも込めてそちらを睨み上げた。
視界に入ってきたのは、自分と同じように赤い色彩の服を着ている少女だった。
「あんた、誰よ……いやちょっと待って、見覚えがあるよ。たしか麓に住んでる……」
「み、穣子様!」
少女の名前を思い出そうとしている橙よりも早く、相対していた里長がそれを叫ぶ。
合点がいった橙は、新たに闖入してきた穣子を見上げながら気だるそうに話しかけた。
「そうそう、そんな名前だったっけ。で、なんか用? 八百万の秋の神様」
自分の正体を知っても眉一つ動かさない橙に、穣子は苦虫を噛み潰したような顔になる。
しかし気を取り直し、里長達の無事に注意を払いつつ、穣子はできるだけ強い語調で話を続ける。
「あんた、橙だったかしら? 山を根城にしている化け猫よね。
で、妖怪としての本分を果たそうとしているところで悪いんだけど、手を退いてくれないかしら?
この人達は私にとって大切な存在なのよ。傷一つとしてつけないでほしいの」
「やだよ。里に大人しく篭もっているんなら私だって何もしないのに、のこのこと縄張りに入ってきたんだもん。
妖怪は人を襲うもの、これは幻想郷の……えっと、不文律のはずだよ」
「……ええそうね。そういう意味じゃ、彼等は軽率だったと言わざるを得ないわね。それは認めるわ。
でもその不文律を持ち出すのなら、人の信仰によって支えられている神が人を助けることもまた正当な権利よね?」
「うん、分かってるよ。で、分かってるよね? こういう揉め事の時に私達がやることといえば一つ」
そう言って橙は片足をゆっくりと上げていった。膝小僧が顔につきそうになるくらいまで掲げられ、そこで足の動きが止まる。
穣子はその靴裏に視線を向け、そこに一枚のスペルカードが貼られているのを認め、不敵に笑い返した。
額にかすかに浮かんだ汗は隠せた、そう密かに思いながら挑むような声で応じる。
「ええ、受けて立つわよ。それにしても、すでに発動済みだったのね。そのスペルカードは何て名前なのかしら?」
「天符『天仙鳴動』っていうんだ。効果はまぁ……見てのお楽しみ。さぁ、どういうカードを切るの? 神様は」
足を下ろす橙を見下ろしながら、穣子はスペルカードを三枚取り出し、それらを重ねて全てに小さく穴を開けた。
それから首のチョーカーをほどき、開けたカードの穴に通してから、即席の首飾りを作るように端同士を結びなおす。
最終的に、三枚のスペルカードは穣子の胸の前でゆらゆらと揺れるペンデュラムとなった。
即席の小さな手芸を終えて、穣子は橙に尋ねる。
「それで、あんたは何が目的でこの人達を襲っていたのかしら? まさか命とは言わないわよね? この人達は里の人間だもの」
「まぁね。欲しかったのは人間達の、寿命が縮むほどの恐怖心と、そこのおじさんが持ってる……それ、なんなの?」
「……秋の神様達に献上する、葡萄酒だ」
唐突に振られた橙の質問に里長が答える。それを聞いて橙は頭上の耳をぴくぴくさせた。
「やった、大当たり! 藍様にあげればきっと喜んでくれるよ」
一方穣子は里長の答えを受けて思案顔になる。だがそれも束の間、すぐに橙に提案を発した。
「そう。ならこういうのはどうかしら? あんたが私に勝ったら、私が直々にワインを作ってあげるわ。
豊穣神がその神徳を余すところなく注いだお酒、また格別のものになるはずよ。だからその人達は見逃してあげて」
「えっ……いいの? そんなこと言って。俄然やる気が湧いてきたんだけどー」
「ふん、大した自信だこと。言っておくけど狩りの相手が人間から神様に変わったのよ?」
「だから面白くなったんじゃん。高いリスクとそれに見合うだけのリターン、妖怪の幻想郷ライフはこう刺激的じゃないとね!
条件はそれでいいよ。あんまりおじさん達をいじめるのもカッコ悪いなぁって思ってたし」
交渉に乗ってきた橙を前に、穣子は心の中で安堵した。
しかしすぐに気持ちを引き締めると、まずは里長達の安全を確保しようとする。
「貴方達、離れていなさい。流れ弾が来ないくらい遠くにね」
「へ、へい!」「穣子様……気ぃつけて下さいよ」「ご武運を」
言われ、里長達は穣子と橙を交互に見つつ、森の方へ後ずさっていった。
「さぁ、いくわよ! 秋符『秋の空と乙女の心』」
カード名の宣言と同時に穣子は両腕を左右に開き、流線型の弾幕列を空を覆うように展開した。
弾幕列は下に向けて矢のように降下していく。その多くは橙に狙いをつけていた。
橙はそれを冷静に見つめ、自分に一番早く到達しそうなものから軽く飛び退いた。
「逃がさない、移り気の空にせいぜい振り回されなさい!」
その橙の動きの直後、穣子が胸元のカードを弾き、ひらりと翻らせた。
「っわ!?」
するとそれまで真っ直ぐ飛んでいた弾幕列の幾つかが軌道を大きく曲げ、橙の行く先を塞ぐように収束していく。
大きくステップを踏んで回避する橙――その元いた場所に数列の弾幕が突き刺さっていった。
危機を脱した橙の隙をしかし穣子は逃さず、立て続けに胸元のカードを躍らせる。
カードが翻るたび、上空を占めている弾幕列がその軌道を変え、橙を狙い穿たんとする。
「へぇっ! 面倒だねっ、この秋雨はあんたの気持ち一つで風向きが変わっちゃうのか……でも、その雨雲はあんまり広くないみたいだね!」
穣子の弾幕に翻弄されつつも橙は軽やかな身のこなしで回避し続け、そしてわずかな隙を見出して一気に掻い潜って走り抜けた。
そのまま穣子のすぐ下を通過しようとする。
「速っ!? この」
接近してきた橙に向けて、穣子は直接狙い撃つように大型の球弾幕を放つ。
「遅いよっ」
「くっ、待ちなさっ!?」
しかし橙はさらに加速することで狙撃をも潜り抜け、弾幕の範囲外である穣子の後方に向けて遁走した。
穣子は慌てて追いかけようとするも、橙の駆け足が跳ね上げる赤い弾幕に阻まれてしまう。
「これが『天仙鳴動』とやらなの……でもこの程度の弾速なら!」
穣子は豪語し、上空に舞い上がる橙の弾幕を一つ一つ回避しながらその背中に迫っていく。
そんな折、走っていた橙が唐突に振り返り、足を持ち上げ地面に強く打ちつけた。
「お返しっ!」
この震脚を合図に、蹴り上げられ上空を漂っていた赤い弾幕がその色を失い、本来の形である川原の石礫に戻る。
妖術の解除によって推進力を失ったそれらは、重力に引かれて空から地面に落下していった――その間にいる穣子に襲いかかりながら。
「なっ、石を蹴り上げてたの!?」
唐突に軌道を変えられた石の雨に降られたため、穣子は泡を食って回避に専念する。その過程で、穣子は少し地上へ追いやられてしまう。
それでも石の雨が降り止むまで弾幕を避けきり、すぐさま両腕を開いて反撃の弾幕を展開した。
「やるね! でも次はどうかな~?」
だが弾幕が地上に届くよりも早く、橙が再びの疾走を始める。
穣子は胸元のカードを揺らし、橙の行く手を阻むように軌道を調整するも、スピードに圧倒的なまでの差があるためにどうしても捕らえきれない。
そして駆け去った橙の舞い上げた弾幕が、地上に引きずられた穣子に襲い掛かる。そして震脚と同時に降る石礫がさらに地上へ引きずり下ろす――
満足な反撃もままならず、次第に穣子は追い詰められていった。
穣子が徐々に高度を落としていくたびに、森に避難していた男達も次第に肩を落としていく。
「ああ、穣子様が負けちまう……くそぅ、せめて霊撃で隙を作れりゃ」
「馬鹿野郎、この決闘は他人が横槍を入れることは許されてないんだぞ。第一、俺らが出て行って何とかできるもんじゃなくなってる」
「で、でもよ……」
ついには里長以外の二人が穣子の劣勢を前にして言い争いを始めた。
だが、それを嗜めるように里長が怒声を上げる。
「静かにしろぃ! 俺達がここで喚いたところで何の得にもなりゃしねえよ。
それよりもだ、俺達が奉ずる者が神様だってぇんなら、やることは一つだろうが」
「長、一体どうすりゃいいんでしょう? 俺もこのまま指くわえて見ているだけなんて耐えられないですよ!」
一喝を受けて向き直った二人に向けて、里長は静かに告げた。
「信じるんだよ。神様ってのは俺達の信じる心を汲み取って力を得るもんなんだ。
だから、祈るぞ! 穣子様が勝つことをよ」
そして里長は遠く空に浮く穣子に向けて、姿勢を整えて二拝二拍一拝の作法を丁寧に行った。
二人も慌ててそれに倣う。
「穣子様……せめてご無事で」
参拝を行う男達と、その先の穣子を見つめながら、里長は改めて両手を合わせて硬く目を閉じた。
「ありがと、少し元気出たわ」
石礫の降りしきる川原の上空で、穣子は密かに感謝を口にする。
自分を信仰する人間達の方を確認する余裕はなかったが、体力のわずかな癒えによってそれを理解できていた。
しかし同時に、劣勢がその程度では覆らないことも自覚していた。
「強いわね、あの子。このままじゃ勝てる見込みがないわ……一つ、決定的な策はあるけど!?」
こちらに向けて走ってくる橙の姿を認め、その動きを目で追う。すでに何度目の疾走になるか覚えていないが、その足並みは一向に乱れる様子がない。
橙の通るであろうルートを予想して狙撃弾を釣瓶撃つも、橙は速度を落とさずジグザグに走り抜けて回避していく。
「やっぱり、速すぎて逃げられる可能性が大きいわ。だから、奇跡が欲しいところね……
仕方ない。一か八か、賭けてみるわよ!」
穣子は舞い上がってきた弾幕を抜けて山の頂側に向かい、そして人間達が自分に向けてやったように、二拝二拍一拝の作法を行った。
「我が盟友、乾神・八坂神奈子よ。一度だけ、貴女の神徳を私にもたらして」
「余所見してていいのかなっ? それ!」
この大きな隙を逃さず、橙は震脚を叩きつけ、石の雨を降らせた。
急落する頭上からの弾幕を穣子はなりふり構わず避け続け、しかしついには地面に足をつけてしまう。
「さあ地上に迷い落ちたが最後、もう二度と空には上がれないよっ!」
地面にて、なおも降りしきる弾幕を避ける穣子に向けて、橙が再び突撃を始める。
今度は自らが手を下そうと考え、脚だけでなく腕にも力を溜めていく。
一方、橙の足音を聴いて振り向いた穣子は帽子の葡萄飾りから一粒をむしり取る。
その最中、一陣の突風が橙に向けて吹き荒れた。
「っ! この向かい風がさっきのお祈りの成果? でもこの程度で私は止められないよっ」
気迫の篭もった叫びを上げると同時に、橙は右腕を大きく振りかぶる。
一方の穣子は両手で拍手(かしわで)を打ち、手の中の葡萄を挟み潰した。
紫の果汁の代わりに四散したのは、その見た目からは想像もつかないような香りだった。それが風に乗って飛び、橙の鼻に侵入する。
「ふにゃ!?」
まさに大地を蹴って飛び掛らんとしていた橙だったが、向かい風に混じった香りを吸い込んだ瞬間、全身から力を失ってしまった。
軸足を崩され、前につんのめって盛大に転倒してしまう。
それでもなお、すぐさま顔を上げた橙だったが、その視線の直前には穣子が手をかざして立っていた。
「豊穣の神が醸し作り変えたマタタビの芳香、存分に酔いしれていただけたかしら?」
「……うぅ、力が入らない。やっぱり弱点が知れ渡っているのは辛いよぉ」
飛び退くにも払いのけるにも使えない身体を嘆きながら、橙は再び地面に突っ伏した。
ふらつく頭を抱えながら、橙はなんとか上半身だけを起こし、地面にあぐらをかいた状態で座り込む。
「ちぇっ、負けちゃったか。悔しいなぁ……あそこまで追い詰めておいて、まさか逆転されちゃうなんて。
油断したかなぁ。魔物は有頂天の頭一つ下に潜む、藍様の言うとおりだよ」
「まぁ、私としては信仰心が篭もったお酒を取られたくなかったから、割と必死で戦ったんだけどね。
再戦はいつでも受けるわよ……認めたくないけど、あんたなら容易く私からワインを勝ち取れるでしょうね……」
「え? 最後の方が良く聞こえなかったんだけど……まぁいいか。
それで、私のペナルティはなんだっけ?」
「ん、最初にも言ったけど、今日のところはこの人達には手を出さないこと。それでいいわ」
「……それだけでいいの?」
身構えていた橙としては、穣子の突きつけた要求の軽さに拍子抜けしてしまう。
だが、思わず頬を緩めたのを見咎められてしまったのか、穣子の目が据わってきた。
「あら、物足りない? じゃあ、そうね……」
「わ、わ! 今のなし――」
「紅葉を見たらその美しさを愛でてくれないかしら? それも、できるだけ多くの誰かと一緒に、ね」
「――って、な、なーんだ、そんなことなら毎年やってるよ。ま、まぁ秋の神様じきじきにお願いされたんだから、今年は念を入れてやろっかな~」
追加された項目も大したものではなかったために軽口を叩いてしまうが、橙は同じ失敗はしまいと言葉をなんとか取り繕った。
その橙と目線を合わせるように、穣子が膝を折ってしゃがみ込み、橙の手を両手で持ち上げた。
びっくりしてその目を覗き込んだ橙だが、そこに浮かんでいた真摯な光に気圧され、思わず口元を引き締める。
「そう、お願いね」
「……う、うん!」
ふらふらと立ち去っていった橙からさらに離れるように、穣子と里長達は川の上流に移動した。
そこには火の消えたカマドと、生煮えの米が残されていた。
「まったくもう! いくらなんでも無茶しすぎよ、里長。神前への供物なら私が里に出かけた時に受け取っているでしょう」
穣子は再びカマドに火を入れつつ、自身の感情にも火を灯した。
昂ぶった血潮が穣子の纏っている香水に変化を与える。具体的には、収穫したてのサツマイモの香りが焼き芋のそれへと変わった。
「いや、面目ねぇです。いつもがそんなんですんで、たまにゃ俺から社に参拝でもしようかと思いまして……」
焦げたような匂いに怒りの程を感じさせられ、里長はしどろもどろになりながら弁解する。
「呆れた。いくつになってもその無鉄砲さだけは変わらないのね。もう若くないんだから、いい加減落ち着いたらどうなの?」
「そ、それとですね……久々に静葉様のご尊顔を拝めりゃあと思いまして。もう何年もご無沙汰ですからね。
こうやって若い連中と一緒に参拝すりゃ、ちっとは静葉様のことを知る人間も増えるってもんですし」
「……確かにそうね」
里長の言葉に思うところがあったのか、穣子は口元に手を当ててから他の二人に目をやる。
その二人は静葉という単語を聞いた直後に眉根を寄せていた。おそらく、それに関わる記憶を何とか探り出そうとしているように見える。
無理もない、と穣子は軽く溜息を吐いた。静葉の姿を見たことがある者は人里でもほんの一握りしかいないことも思い出す。
それを考えると里長の無茶を責められない、とさえ思ってしまった。
鍋が泡を噴く音だけが響き続ける川原に、そよ風が通り過ぎる。同時に、風に煽られた森が色様々の落葉を零す。
しかし、この落葉はそよ風に吹かれたにしては不自然なくらい多かった。
思わず目を釘付けられた男達の前で、落葉がつむじ風にでも巻かれたかのように渦を作る。
「な、なんじゃこりゃ!? まさか新手の妖怪でもっ」
「心配ないわ。おかえり、静葉姉さん」
「え、これが?」
「そう。最近は天狗の真似でもしてみたくなったのか、こういう演出をするようになったのよ。これは『紅葉扇風』の模倣ね」
呟く穣子の前で、次第に落葉のヴェールがほどけていく。
つむじ風の中心に立っていたのは、モミジを使って織り成したかのような服を纏う神――秋静葉だった。
その閉じられていた目蓋がゆっくりと開く。それと同時に左手に持っていた黄色い扇子が、音もなく数枚のイチョウの落ち葉に変わる。
目蓋が完全に開ききるのに合わせて静葉は口を大きくほころばせ、右手に持っていた網状の袋を掲げつつ左手でハサミの形を作ってみせた。
「うわぁ、大漁ね。早速このモクズガニも茹でましょうか……そうそう、ついさっき人里から葡萄酒が届けられたのよ、姉さん」
カニの袋を受け取り、川で冷やしておいた野菜の傍に置きながら、穣子は静葉の視線を里長達の方へ向けた。
目が真っ先に静葉と合ったためか、里長がまず深々と頭を下げる。
「どうも、お久しぶりで。ここ数年は満足に挨拶にも伺えっ!?」
再び里長が頭を上げるよりも早く、いつの間にか駆け寄っていた静葉がその両手を握り、頭と一緒に引き上げた。
戸惑う里長に構わず、静葉は両手をぶんぶんと上下させて微笑みかける。
それから硬いてのひらの上に人差し指を走らせ、一文字ずつ平仮名を書いていった。里長はそれを正確に感じ取り、ゆっくりと読み上げる。
「『うわぁ、ほんとうにひさしぶりねぇ。あなたがここにくるなんて、5ねんぶりかしら?』
……ああ、もうそんなに経ちますかねぇ。相変わらずお元気そうで安心しましたよ。長らくの無沙汰、どうかご寛恕願います」
「長、この方が静葉様なんですかい? 穣子様の姉ちゃんだっていう」
「それと、もしかして……」
里長の後ろから男達が疑問を口にする。その二人に向けて、静葉はスカートの裾を両手で軽く摘み上げ、寸毫膝を折って会釈した。
里長も振り返り、静葉の仕草に見とれている二人に答えてやる。
「ああ、この方こそが紅葉の秋の神、秋静葉様だ。名前くらいは聞いたことがあるだろ?
それと、だな。静葉様は喋ることができねぇんだ。身振り手振りなんかを使うことで、穣子様とはツーカーの仲みてぇだがな。
他にも初対面の奴とかにゃ、てのひらの上に文字を空書き(そらがき)して言いたいことを伝えたりするんだ。
……ほれ、ボサっとしてないでお前らも挨拶せんか」
背中を平手で叩かれ、慌てて男達は同時に頭を下げた。
対して鷹揚に頷く静葉はふと、片方の男の服がところどころ破れているのを見つけ、近付いてその肩にてのひらを当てる。
そしてその行為に目を白黒させている男をよそに、静葉は目を閉じた。
すると静葉の袖の先がゆっくりとほどけ、たくさんのモミジの葉に変じた。それらは男の服に向かって飛び、傷を一枚一枚覆っていく。
「こ、これは?」
「姉さんにはね、草木の繊維を操る力があるのよ。それを落葉に使ったり、服を織り成したりしているの。
さっきも扇子がイチョウの葉に変わってたでしょう?」
遠くから穣子が、揃った食材を調理する片手間に解説してやる。
その間にも服の修繕は進み、最終的には黒一色だった男の着物に、鮮やかなモミジの紅が飾られていった。
片目をつむってみせた静葉を見て、男はようやく夢から覚めたかのように口を動かす。
「……ははっ、こりゃ果報者の家宝ものってやつですよ! ありがとうございました!」
「ああ畜生っ! 俺も派手に立ち回っときゃよかったぜ」
「ぷっ、あははは!」
はしゃぐ男と嘆く男を見て、穣子が吹きだした。傍の静葉も口元に手を当てて肩を揺らしている。
いきなり笑い出した神二柱を目にして、唖然とするより他ない二人を無視し、穣子は里長に悪戯っぽい流し目を送った。
「本当に、人間はあまり変わらないものなのね。昔の誰かさんを見ているようだわ」
「……うぉっほん!」
里長はそれに、苦々しそうな咳払いで応じるのみだった。
「――以上でさ。屋台はこのイチョウ並木に沿って並べていきます。後、神事のための広場ですが……」
静葉が主菜を獲得し穣子が調理したカニ雑炊を食べ終わった後、里長は穣子と共に今年の収穫祭の計画を練っていた。
「ふうん。この位置、博麗神社へ向かう道に近いのかしら。たしか……紅葉する木々に囲まれていたわよね」
「はい。ま、ここらの木が紅葉するのは妖怪の山より遅いんですがね。
里の真ん中からは離れてるっつっても、人いきれや喧騒なんかは充分届きますんで、静葉様の神徳も及びにくいんでしょう」
「……ええ。前にも教えたとおり、姉さんの神徳の顕現に必要なのは、閑静なる佇まいと寒冷なる空気。
でも昼間の里にはその正反対の要素が溢れていて紅葉には不都合。だから、姉さんは深夜の闇の中で里に神徳を及ぼすしかないの」
「……何度聞いても歯がゆい話ですなぁ。神楽舞う静葉様が木々に彩りを施す姿はこの上なく美しいってぇのに、里じゃそれを拝めねぇ。
かと言って夜に盛大にかがり火を焚いたところで、その熱気がやはり邪魔になっちまうし」
「色々と難しいのよ、姉さんへの信仰を人里で集めるのは。信仰心は、神徳を実感してもらえなければ芽生えにくいものだから」
一度会話を区切った穣子と里長は、川の対岸でささやかな踊りと、それによって現われる紅葉を披露している静葉に目を向けた。
話に参加していない男達二人と同様、美しくも儚げなそれをしばし見つめる。
「俺が生きている間に、果たしてどんだけの連中にこの見事さを伝えられることやら……」
「まぁ私達だって何もしていないわけではないわ。もうしばらくしたら一つの計画が実行に移されそうなのよ。
あ……でも、その計画も山の中だから、やっぱり細々と信仰を得ることには変わりないけどね」
「ほう。ま、何であれ期待していますよ」
里長の言葉の切れとちょうど時を同じくして、舞を終えた静葉が川を飛び越えてきた。
そして拍手で迎える男達の間を通り抜けて穣子の前に立つと、誇らしげな笑みを浮かべて胸を張った。
姉の示したちょっと子供っぽく見える仕草に、穣子は力の抜けた笑みで応じる。
「はいはい、相変わらず優雅ですこと。終わった後にわざわざ見せつけるような態度を取るところ以外は、ね。
本当に誰かに対して誇ってみせるには、目立たないように流し目でもくれてやればいいのよ。寂しがり屋の姉さんには難しいかもしれないけど」
妹の示した軽くあしらうような態度に、静葉は頬を膨らませ、両のてのひらの形を目まぐるしく変化させた。
この抗議の手話を完璧に読み取りながらも応じず、代わりに穣子は里長から受け取った葡萄酒の瓶をつきつける。
「まぁそう興奮しないで。それよりも喉渇いたでしょ? せっかく里長達が危険を冒してまで持ってきてくれたんだし、飲みましょうよ」
それから穣子は持参していたバスケットから栓抜きとグラスを出した。そして拍手を一打ちしてから、瓶を開封して葡萄酒をグラスに注ぎ入れる。
グラスを赤紫色に染めた甘露は、普通では考えられないような複雑で洗練された芳香を川原一帯に解き放った。
抗議のために詰め寄っていた静葉は、妹の神徳が醸し出した空気を吸い込み、その甘く酔わすような雰囲気に飲み込まれてしまった。
大人しくグラスを受け取り、葡萄酒を香りとともに口に含む。
「はい、貴方達もどうぞ。ここまでわざわざ届けに来てくれた報酬よ」
「こりゃどうも……お? 作りたてのはずなのに、何年も寝かせたみてぇに芳しいですな」
穣子は静葉に次いで、里長達にもグラスを渡していく。
先程までは紅葉に見とれていた人間達が次々と妹の香りに囚われていく、しかも自分も含めて――そのことに気付いた静葉は密かに渋い顔を作る。
グラスを傾け終えたところでその表情を見てしまった男の一人が、慌ててわざとらしい感嘆の声を上げた。
「い、いやぁー、里じゃめったにお目にかかれねぇ風景の中で飲む酒ってのは、格別にうめぇですな。
俺、ナマで葉っぱの色が変わるところなんて初めて見ました。
なんつーか……そう、奇術! 前にウチに買い物に来た、紅魔館の女中さんの手妻を思い出しましたよ。
これ程きれいなもんなら、是非とも里でも……おお、そうか! 今度の収穫祭の時に静葉様が踊ってくれりゃ……って、あれ?」
場を取り繕うはずだった男の一言は、しかし静葉の表情を更に翳らせてしまう。
里長がそれにいち早く反応し、咳払いと共に男の言葉を軽くたしなめる。
「……ま、気持ちは分かるが、ありがたみが薄れるだろ? 大体ここと里とじゃ木の数が違いすぎて、思った程のことにはならんかもしれんし」
「そ、そっかもしれねぇですね。すんません」
事情は分からないがこの話題は続けてはいけないと感じ、男は膝に手を付き腰ごと頭を下げる。
その男の手を横合いから穣子が掴み、引き上げて顔をまじまじと見つめた。
「それ、いい考えかもしれないわね。検討の価値はあると思うわ」
「え、は?」
「早速話を持ちかけてみないと……人間達よ、ここまでの足労、大儀でした。これより貴方達の帰還を安んずるために、私が案内を務めましょう。
じゃ、姉さん。ちょっと人里まで出かけてくるね。夜には戻るから」
「み、穣子様?」
「さ、行くわよ。もう収穫祭まであまり時間がないんだから」
有無を言わさず歩き出した穣子に遅れまいと、静葉への挨拶もそこそこに里長達が後を追う。
独り唖然とした表情でそれらを見送っていた静葉だったが、やがて眉根を寄せ頬を膨らませ、足元の石を力無く蹴った。
石は川原の砂利を二、三度打ち鳴らしただけで、すぐに黙ってしまった。
夕暮れ時の、人間の里。
秋の陽は釣瓶落とし――その沈む速さにつられるように、人々は家路に急いでいる。
そんな中、暖簾を片付けようとしていた商店のうちの一つに、滑り込むように一人の客が訪れた。
「や、いいかい?」
「……おおっ、こりゃ八雲様。はいはいっと。お得意様とあっちゃあ吝かじゃありませんよ。いつものやつですか?」
その客は人間と九尾の狐のキメラのような姿をしている妖怪だったが、店主は全く動揺を見せず、それどころか商い用以上の笑みをもって迎えた。
「ああ……やれやれ、今日も仕事に手間取ってしまった。これからご主人様が冬篭りする時期なんでね、徐々に忙しくなってきたんだ」
「ははは、確かに八雲様はこの時期によくいらっしゃいますなぁ。賢者様のために買出しですか、お疲れ様です……
はいよっ、お待たせしました。油揚げ十二枚です」
「おおう、いつもすまないなぁ。お代はこれで。じゃ、店仕舞いのところを失礼した」
「毎度! 八雲様のためならウチの戸は盆暮れ正月、いつでも開いておりますよ」
最後まで愛想を崩さない店主に手を振って、妖狐――八雲藍は馴染みの豆腐屋を後にする。
「あら、やっぱりこちらだったのね」
好物を片手に足取り軽く歩いていたところで、藍は横合いから声をかけられた。
振り向くと、この季節に人里でよく見かける顔があった。
秋の収穫祭に特別ゲストとして呼ばれるため、里に足繁く通う存在――
「やあ、どちらかと思えば……そういえばもう晩秋の頃だったな。ご機嫌麗しいようで、人里に近しい土着の豊穣神・秋穣子」
「貴女は見た感じ、ちょっとお疲れのようね。高名な豊穣神・稲荷にゆかりのある妖狐、八雲藍」
両者、まずは言葉で挨拶し、それから二人とも口の広い両袖を合わせて頭を垂れた。
再び持ち上げた顔に苦味を走らせ、それでも藍は笑って答えを返す。
「まぁもう冬も間近だしね。貴女達の見せ場が終わり次第、私にとって一番忙しい季節が始まるんだ。何しろ主に代わって東奔西走、だからねぇ」
「あら、どんよりした気分で無人社に篭もりきりの私達よりも、よっぽど健康的で充実した生活だと思うけど?」
「ははは、自分が寒さに強い性質で良かったとは思っているよ。
さて、出会い頭の言葉からすると、私に何かご用かな?」
世間話もそこそこに、藍は用件を伺う。すると穣子は佇まいを整え、真剣な表情で藍を見上げる。
軽く目を見張る藍に向けて、穣子は丁寧な口調で話を切り出した。
「その忙しそうな貴女にこれ以上の労苦を強いるのは少し気が引けますが……収穫祭の時に一つ頼みたいことがあるのです」
「む、人の営みか……『楽しい宴』の準備は嫌いではないけど、妖怪の私がそれに関わるというのは些か躊躇われるね」
「で、でも妖怪が人為を成すことだって、無いわけではないでしょう? そう、例えば……式神」
難色を示した藍の顔を見て、穣子は軽く動揺しながらも藍に関わる単語を出して説得を続ける。
しかし藍は再びの苦笑いで答えた。
「うーん、惜しい。残念ながら私を式神として使役しているのは妖怪なんだよ。私はその方にこき使われている代わりに絶大な力を授かっている。
確かに四六時中拘束されているわけではないが……さて、今貴女は人間のために私を使役、とは言いすぎだけど、何かをやらせようとしている。
ではその見返りは何だろう? 私が少しの間でも妖怪の主を忘れるくらいの何かを、果たして貴女は与えてくれるのかな?」
そして穣子に試すような視線を向ける。
対する穣子はわずかにひるむ気配を見せかけたが、それでも目をそらさず堂々と対価を告げ、丁寧に腰を折った。
「そうですね……勿論報酬もなしに働いてもらおうだなんて思ってはいません。
私が貴女に差し出すものは、秋の味覚を包み込んだ手料理、称して『狐殺油揚地獄(きつねごろしあぶらあげじごく)』
里の人間達が育て上げた作物を厳選し、豊穣神である私が彩りを加えた満漢全席をご用意しましょう。
ですからどうか、人間達のために貴女のお力を貸して下さいますよう」
衣擦れの音がはっきりと二人の間で響いた。
穣子が何かと思ってよく確認すると、藍の背後で九尾がわさわさと揺れているのが見えた。
自分の尻尾を軽く手で叩きながら、藍は先程からの苦笑いのまま、観念したような声を出した。
「……おおう、まいったなぁ。確かにそれは致命的なまでに魅力的だ。よろしい、引き受けた。
いや、まぁ……意地の悪いことをしてすまなかったね。なんだかんだで私も里とは浅からぬ縁があるし、収穫祭も楽しみにしている。
人妖入り乱れて相騒げる饗宴に、一役買うのもまた一興……と、個人的には思っているんだがね」
藍は苦笑いをばつの悪いものに変え、後頭部を掻いた。
しかし穣子は首を横に振って、理解を示すような笑顔で答える。
「でも貴女は妖怪。それも代名詞とも言える八雲の姓を冠する者。
それが安易に妖怪の本分を忘れて人に尽くすようでは示しがつかない、というところかしら?」
「まぁ、大事なことなのよ。人妖の境界を保つということはね。
妖怪が人間の里に遊興目的で入ったり、逆に人間が悪魔の屋敷にお呼ばれしたりする昨今であるとしても、だ。
それで、私は何をすればいいのかな? あまり目立つ役割でなければありがたいのだけれども」
「ええ、むしろ貴女の技だと分からないようにしてほしいところね。貴女には終始、あるものの正体を化かして人間を欺いてもらいたいから」
「ほう……嬉しいね。化け狐としての妖異を成すことが依頼とは。詳しく聞こうじゃないか――」
帽子の中の耳をぴくぴくさせながら、藍は穣子の話を聞くために傍に寄って行った。
契約を交わし、穣子と別れてから、藍は空を飛び始める。向かったのは妖怪の山の中腹あたり。
木々の生い茂る中に着地し、何かを探すように辺りを見回す。そして二本の木に目を留めてはその間を通り抜ける、その行程を何度も繰り返す。
すると何組目の木の間を通り抜けた時だっただろうか、突然森が消えて視界が開け、小さな村の風景が藍の目に映った。
この廃村にはただ古く簡素な建物が並ぶだけで、人影は全く見当たらない。その代わり、ある動物が我が物顔で席巻していた。
「にゃ~」「……くぁ」「んぁーおぅ」「ふーっ!」
「……はぁ、あいつったら、なーにが『統制の取れた猫の使い魔軍団を作ってみせます!』よ。どう見ても野良猫の集まりじゃないの」
この村の至るところを埋め尽くしているのは、寝転がったり、喧嘩したり、毛づくろいしたりしている猫だった。
猫達は藍が傍を通っても、全く緊張感を抱かず自分の行動を優先している。
野生というものが完全に死んでしまっているその光景に、藍は深く溜息をついた。
「侵入者!? もー、あんた達もぐうたらしてないで教えに来なさいよ!」
と、その時藍の耳が聞き覚えのある声を捉えた。
声の主が未だ遠くにあると気付いた藍は悪戯っぽく笑み、頭に一枚の木の葉を置いてから右てのひらを頭上に掲げ、左てのひらを地面に向ける。
すると藍の足元から急に煙が湧き上がり、その姿を完全に隠してしまった。
この煙は長くは続かず、すぐに晴れていく。だがそこに藍の姿はなく、代わりに一本の小さな木が残されていた。
「しょ、っと! そこのお前、侵入者はどこに行ったか知らない?」
藍が消えたすぐ後に、屋根の上から化け猫娘――橙が飛び降りてきた。そして近くの猫に詰問する。
訊かれた猫は顔をあげるのも気だるそうで、尻尾で木のある位置を指した。
「って、ただの木じゃ……ん~? でも、こんなところに生えてたっけ?」
訝しく思いながら橙は木の傍まで寄る。そしてくまなく調べようとして手を触れた。
途端、幹が激しく振動を始め、枝葉がこすれ合ってざわめきを響かせた。
「うわ! なにこいつ、まさか新種の妖怪なのっ?」
驚いて大きく後方に飛び退く橙。そうしている間にも目を離さず窺っていると、今度は葉が徐々に赤または黄色くなっていった。
そして振動に合わせて落葉がひらひらと舞い始める。
しばらくその変化に思考が追いついていかなかった橙だが、ふと昼間のことを思い出す。
「……あ、そうだ! 紅葉を見たら愛でろって言われてたっけ。えっと、何をすればいいのかな? きれいだね、とか?」
橙のとっさの言葉を受けて、舞い散る紅葉が一瞬でエノコログサの穂に変化した。
途端、それまで全くこの闖入者に気を払っていなかった猫達が一斉に飛びかかる。
橙もつられかけたが、あまりにも不可解な現象だったために罠を疑い、顔を俯けてなんとか踏みとどまった。
「ふむ、流石に引っかからなかったか。そんじょそこらの猫よりは冷静のようだね」
「え? あっ、藍様!」
聞き覚えのある声に橙が顔を上げると、つい先程までは不審な木が立っていた位置に敬愛する主人の姿を認めた。
間髪いれず、橙は湧き上がる感情のまま飛びついた。
「お久しぶりです、藍さまっ!」
「ああ、相変わらず元気そうで何よりだよ。っと橙、ちょっとだけ手を離して」
力いっぱい抱きついてくる橙を軽くたしなめ、藍は片腕を自由にしてから指を弾いた。
すると周りで猫をじゃらしていたエノコログサの穂が木の葉の屑に変わる。
結果、じゃれついていた猫達が豆鉄砲を喰らったような顔になる。
橙もそれと同じ心境に至ったが、やがて一つの答えを見つけ、藍に確認を取った。
「あれ? さっきまでのって、藍様の変化術だったのですか?」
「ああ。ここの皆には悪いけど、ちょっと実験台になってもらったよ。
変化自体は大したことがないけど、広範囲を長期間、そんな仕事をもらったんでね。念のため練習しておこうと思ったんだ」
「変化術のお仕事、ですか?」
「うん。秋穣子、って神様を知っているかな?」
その名を聞いた瞬間、橙は再び目を丸くする。
「は、い」
「彼女は人里で行われる収穫祭において、神事を担当する神様なんだ。
ただ、今年はどうも一風変わった趣向を凝らしたいらしい。その協力者として私に仕事が回ってきたんだ」
「あの、そのお仕事がどういう内容なのか、訊いてもいいですか?」
「え? ああ、ええとだな――」
突然の質問を意外に思いながらも、藍はつい先程人里であった出来事を伝える。
全て聞き終えた橙は、藍を見上げて叫びながら答えた。
「藍様! そのお仕事、私に任せてくれませんか?」
思いの外真剣な目で見つめられたため、藍は気圧されてしまう。
「なっ! どうしたんだい、橙?」
「実は今日の昼間に……その、色々あって秋の神様と弾幕ごっこをやって、負けちゃったんです。
それでその時に、紅葉の美しさを愛でてほしいって言われました」
「そういえばさっきもそんなことを言っていたね……ふむ、だからこそ、か」
「本当なら藍様が頼まれたお仕事は私がやるべきことかもしれないのに、なんだか藍様に私の責任を肩代わりしてもらってるみたいで……
だから、お願いします!」
勢いよく頭を下げる橙。
ようやく橙の態度に合点がいった藍は、そのこわばった頭をいとおしげに撫でてやった。
「やれやれ、別にそんなことを気にしなくてもいいのに……そうだね、じゃあ一緒にやろうか」
「でも藍様、今の時期からすごく忙しくなるのに……」
「ああ、だから橙が手伝いを申し出てくれて、本当に助かるよ。おかげで私は楽をしながらご馳走を受け取れるわけだしね。
身も心も癒されて、これからの忙しさにも立ち向かえそうだよ」
まだ思いつめた顔をしている橙に向けて、藍は茶目っ気を含むウィンクを送った。
その甲斐があったのか、橙は頬を少し緩ませ、しかしすぐに引き締めると威勢良く答えた。
「はいっ、頑張ります!」
翌朝――
次第に寝覚めの悪くなった朝陽が妖怪の山を照らし出す頃、穣子は住居である無人社から顔を出した。
丸太で組み立てられた、校倉造りともログハウスとも見える社の前で、両腕を空に向けて大きく伸びをする。
それからすぐに目をこすりながら歩き出した。
「姉さんってば……どこに行っちゃったんだろう? 昨日も私が戻ってきた時にはもう寝ちゃってたし。
せっかくいいことを教えてあげようと思ったのになぁ」
朝一番に見つけた、もぬけの空だった二段ベッドの上段を思い出し、穣子は軽く溜息を吐く。
しかし弱気を払うように顔を上げ、帽子の葡萄飾りから一粒もぎ取ると、拍手一つで挟み潰した。
そして合掌の間から広がる芳香を胸いっぱいに吸い込んだ。
「んっ、起き抜けには薄荷の香りが一番ね。目が冴えてくるわ」
眠気も振り払い、しばらく森の中を進んでいると、やがて木の上に見覚えのある背中を見つけた。
「姉さん!」
弾む声で枝に腰掛けている静葉に呼びかけ、ついでに足取りも弾ませる。
しかしそうやって近付いているにも関わらず、静葉は変わらず背中を向けたままだった。
不審に思い、穣子はもう一度叫ぶ。
「姉さんってば! もしかして寝ているの? 危ないわよ、そんなところで……っ!?」
ようやく振り向いた静葉は、しかし冬の間に見せるような暗く沈んだ顔をしていた。その冷え切った眼差しで見下ろされ、穣子は言葉を途中で切る。
黙っているうちに、静葉が木から飛び降りてきた。そして穣子の前で両手を複雑に動かし、最後に人差し指をある方向へ突き出した。
『何よ、私に用なんて何もないでしょ? さっさと人里で収穫祭の相談でもしてくれば? 急いでるんでしょ』
「……って、ちょ、ちょっと待ってよ。そのことで姉さんに話があるのよ。あのね、収穫祭で姉さんの信仰も集める方法を思いついたの」
笑みを含めた穣子の言葉に、しかし静葉は冷たい笑顔を作って首を横に振った。そしててのひらを激しく踊り狂わせる。
『私から人間達の関心を奪って、しかも早々に山から立ち去らせておいて、よくもそんなことが言えたものね』
「……ち、違う。あれはそんなつもりじゃ……その思いつきを早く実行したかったから急いでいたの。本当よ!」
『思いつきって、何よ! 一方的に優越感に浸れる手段かしら? そうよ、だから収穫祭に私を誘っているのね。
里で何もできない私に高慢な流し目をよこして……楽しそうな賑わいの中に私を独り置き去りにして……』
「……勝手な思い違いをしないでよ! 私は、収穫祭の時に人間から得られる信仰を、姉さんと分かち合えたらっていつも思ってるんだから!」
それぞれ口と手で表される言の葉が姉妹の間を激しく行き交う。
次第に感情を昂ぶらせていく穣子は、しかし静葉の次の言動で冷や水を浴びせかけられた。
『分かち合うですって? じゃあ、どうして昨日私を置いていったのよ!
何も教えられずに、私は貴女の手の上で踊らされるだけ、貴女に餌付けされるだけなの?』
「……っ! ご、ごめん。私もあの時は他に気が回らなくて……」
『馬鹿にしないで! 私がどれだけちっぽけな神であろうと、誰かに信仰を恵んでもらうなんて御免だわ!』
狂想曲の指揮を終えるかのように両腕を振り、それから静葉は踵を返して森の中へ飛び込んで行った。
「姉さん? 待ってっ痛!」
後を追いかけようとした穣子だったが、むき出しのつま先を木の根に引っ掛けてしまい、盛大に転倒する。
前に突っ伏した姿勢でなんとか顔を上げた頃には、揺れる木の枝が落ち葉を零している様子しか見られなかった。
つま先をさすりながら、穣子は息を吸い込む。
香水を全身に及ばせるために露わにしている足首からは、炭のような臭いが立ち上っていた。
「……もうっ、どうして私はこんなに頭に血が昇りやすいのよ!」
激しやすい自分の気性に怒りをぶつけ、それゆえに自己嫌悪をいっそう深める。
静葉が去っていった方を呆然と見つめながら、穣子は姉がどうして怒ったのかを考えていた。
群衆の前ではその神徳を発揮できず、そのために信仰と力が少ないとはいえ、静葉は神として姉として、気高く振舞おうと心がけている。
しかしその一方で、この上なく寂しがり屋でもある。
それは、神徳の顕現には周囲の物寂しさだけでは不充分で、自らの心も閑静と寂寥で満たされていなくてはならないためだった。
そんな姉の傍にいつも寄り添っていようと思っていた。ただ、決して哀れむことなく対等の関係であろうと気を払っていた、つもりだった。
「……私は、何を見誤ったの? 姉さんの寂しさの深さ? それとも誇り?
……わかんない、独りじゃ、何も……答えて、姉さん……」
知らず、穣子は膝を抱え込んでうずくまる。そして孤独であることの辛苦を――姉がいつも背負っているものの重さを痛いほどにかみ締めた。
「……あー! 見つけたよ、って何やってんの?」
「え?」
ふと、森の中から急に呼びかけられ、穣子は顔を上げる。
そこには昨日出会った二人の妖怪、藍と橙がいた。
「八雲さんと、あんたまで……どうしてここに?」
「昨日橙から色々と聞いてね。この子にも手伝ってもらうべきかな、と判断したの。
貴女、言ったんだろう? 『誰かと一緒に紅葉を愛でてほしい』と。今日はそのために来たのさ。
精巧な偽物を作って人の目を欺くためには、本物の美しさを事細かに鑑賞し、その記憶を頭に刻まなくてはならないからね」
藍の返答に目を一度瞬かせてから、穣子は橙を見つめる。対する橙は眉を吊り上げて不敵に笑っていた。
思いもよらなかった解釈を聞いて、穣子はかすかに微笑む。
「そう、だったの。でも……その企画は中止になってしまいそうよ」
しかしその微笑を自嘲に変え、穣子は二人を見回した。
「どうして? 何かあったの?」
「……ついさっきね――」
目を丸くして訊いてくる橙に、穣子は先程の言い争いを伝える。
「――ということなの。主演があそこまで気分を害してしまったから、もう無理だと思うわ。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」
「何よそれ、そんな簡単に諦めるの?」
「……私だって諦めたくはないわ! これが成功すれば、姉さんは確実に大規模な信仰を集めることができるもの。
同時に人間達は紅葉の美しさを誰がもたらしているのか、生涯心に刻み付け、そして語り継いでいくことでしょう。
……でも、私が考えたことが余計なお節介だと言われたりしたら、それを考えると……自信がなくなってきたの」
消え入りそうな言葉を残し、穣子は再び顔を俯けた。
先程から黙っていた藍がそれを見て励まそうとする。しかしそれよりも早く、橙が声を荒げて叱咤した。
「ああもう! しっかりしなよ、あんたはそんな諦めやすい奴じゃなかったでしょ?
大体まだ計画のことを話してもいないじゃない……わかった、あんたが何もしないっていうんなら、私が代わりに言ってくる!」
「……え?」
「ついさっき、って言ったよね。お姉さんはどっちに向かったの?」
「え、あ、姉さんなら川原の方へ」
「そっか。それなら川に沿って探せば見つけやすいかな。ま、この辺は私にとっては庭みたいなもんだし、ひとっ走りで見つけられるでしょ」
言うや、橙はまず藍に目配せし、藍が頷くのを確認してから身体を川の方に向けた。
そして駆け出そうとしたところで、穣子の声が届く。
「待って! 貴女、どうしてそこまでしてくれるの?」
「……そもそもあんたの計画じゃ、お姉さんがいないと全然始まんないんでしょ?
このままじゃあ、私はあんたに言われたことを果たせないし、藍様もご馳走にありつけないもん」
一瞬口ごもってから理由を言い残し、橙は森の中へ走っていった。
その背が見えなくなるまで呆気に取られていた穣子だったが、傍に残っている藍に問いかけるような視線を送る。
藍も穣子と目を合わせ、頬をかきながら笑いかけた。
「……あー、恥ずかしながらそういうことで。まぁここは一つ、あいつを信じてやってくれないかな?」
森の中、道の体を成していない獣道を、橙は昨日と同じように駆け抜けていく。
走りながら、橙は先程の穣子の姿を思い浮かべていた。
昨日自分と一戦交えた時はしぶとく攻撃を耐え凌ぎ、最後まで勝利を諦めなかったのに、今日は見違えるように弱々しい――
それが、諦めの悪さを美徳とする橙には許せなかった。
春雪異変の時に人間と二度矛を交えたように、また野良猫達に足蹴にされながらもなんとか懐柔しようとしているように――
穣子にも簡単に諦めてほしくはないと思った。
考え事をしながら川原に出た瞬間、すぐに目的の赤い背中を見つけることができた。見やすいことに、静葉は白い砂利の上に膝を抱えて座り込んでいた。
その様子を見て、橙は先程見つけた穣子を思い出す。心の内は見えないが、悲しそうな雰囲気はそっくりだと思った。
橙は静葉の方へゆっくりと近付いていく。その一歩のたびに、静葉はいっそう力を込めて膝を抱きしめていった。
「あんたが、秋静葉? 初めまして……かな、私は橙って言うの」
橙の一言で、静葉は急に顔を上げる。その顔には驚愕と、ほんの少しの落胆の色が見えた。
「あれ、お目当ての人じゃなくて残念だった? ま、私はそいつの代理で来たんだけどね」
からかうような橙の口ぶりに、静葉は頬を紅潮させて両手を目まぐるしく動かす。
穣子がいれば読み取れたであろう否定の手話は、しかし橙には照れ隠しの仕草にしか見えなかった。
混乱している静葉に、橙はなだめるような声色で続ける。
「さ、それは置いといて……私が今日あんた達の所に来たのは、あんたの妹に一つの大きなお仕事を頼まれたからなの。
それは、人里で私達が木々に色を塗っていく中であんたが踊る、いわば芸術のこ、コラボレーション……とかそういうやつ!
で、そのイベントを成功させるために、私と藍様はあんたの神徳――紅葉を見てじっくり研究しようって思ったわけ。
ま、ついでにお酒でも飲んで楽しんでいくつもりだけどね」
静葉は初め、橙が何を言っているのかをよく理解できないでいた。
ただ一つ気になる点を見つけたため、橙の手をとり、そのてのひらに空書きする。
橙は最初この行動に驚いたが、これが静葉の意思伝達方法だと悟り、てのひらから伝わる感触を注意深く解読する。
「『きぎにいろをぬるって、どうやって?』
……ああ、そうは言っても絵の具とかじゃなくて変化術を使うの。一種の目くらましっていうのかな。
でも見かけだけなら本物そっくりにすることができるんだ」
橙の言葉を受けて、静葉は頭の中であるイメージを思い浮かべる。
活動写真――そこで上映されていた非想天則のゆったりとした動き。
夏の終わりに河童が流していたその映像は、現実のリプレイとはいえ充分にその迫力を伝えていた。
今、橙は紅葉を鑑賞して、幻術を使うことでそれを自分の踊りに合わせて再現しようと言っている。
それは自分が普段山でやっていることを昼間の人里で忠実に再現し、本物と変わらない神徳を人間に見せることに繋がる。
静葉はようやく、穣子の思いつきの中身を理解した。
肩の力が抜けたと思しき静葉を見て、橙は続く言葉に真摯さを込める。
「私達にこの仕事を頼むとき、あんたの妹、熱心だったよ。
藍様にはご馳走を用意するって頭を下げてたし、弾幕ごっこで私に勝ったのはあいつの方なのに、やたら丁寧に頼まれたし。
ああ、よっぽど紅葉が好きなのかなぁって思った」
静葉に握られている橙の手がいっそう強く締めつけられる。
「だからさ、置いてけぼり食らったのが気に入らなかったとは思うけど、せめてあいつが何を考えてたかぐらいは聞い……て?」
橙の言葉の途中で、静葉は口元に人差し指を当てて首を横に振った。そして橙から手を離し、ゆっくりと無人社の方に歩き出す。
その直前にてのひらに書き残された『ありがとう』の文字を握り締め、橙は笑顔でその後に続いた。
無人社に戻ってきた静葉と橙は、真っ先に穣子の姿を見つけた。
エプロンを両手で固く握り締めている妹の前で、静葉は立ち止まる。
やや目をそらした穣子だったが、腕を組んで眉を釣り上がらせている橙を見つけ、再び姉の方に視線を戻した。
「……わ、私は秋の果実が纏う香りこそが一番魅力的だと思ってるから、それをいつも自慢の種にしてきたわ。
でもね、姉さんの紅葉もそれに負けないくらい素敵だと思ってはいたの。それをもっと多くの者達に理解してほしいと常に願ってきたわ。
けど、信仰の少ない神霊に巫女はいない。だから私達は無理を押して肉体を作り、自ら神徳の顕現と布教を行う必要があった」
互いに見つめ合いながら、穣子は必死に言葉を紡ぎ、静葉はそれを黙って受け取る。
「私はその、姉さんの神徳を常に間近で見続けてきた一番の信者だもの。だから、その美しさを広める方法をいつも考えてきたわ。
それにね、姉さんは私の作ったご飯を美味しそうに食べ続けてくれた、一番の信者だったから……いつも姉さんの力になりたいと思って……た?」
穣子の言葉の終わりを待たずして、静葉は駆け寄ってその頬を両手で支え、そして額に自分のそれを軽く打ちつけた。
同時に頬の上に、人差し指で文字を書いていく。
「姉さ……ん。うん、ごめん。もう姉さんを放っておいて勝手に話を進めたりなんかしないから」
『ぜったいよ? こんごもひとりでかかえこんだりなんかしたら、ゆるさないんだから』
静かに抱き合う姉妹をよそに、藍は橙の元に寄り、ねぎらいの言葉をかける。
「ご苦労さん、橙。よくやったね」
「えへへ、これで私達も一緒にお仕事ができますよね」
「ああ、そうだな。とはいえ、まずは里の人間達よりも一足先に紅葉狩りと洒落込もうじゃないか」
そして二人並んで歩き、こちらに振り向いた秋姉妹の方へ近付いていった。
人間の里の収穫祭当日――
この日は一部の人間達を除いた全ての者が仕事を休み、里全体で行われる祭りに出かけていた。
また、一部の人間達――出店を構えている商人・職人達も、交互に休憩を取りながら賑わいの中を通り抜けていく。
一方、仕事に囚われることのない妖怪達や妖精達も、人間の作り出したこの祭りの中を自由気ままに闊歩していた。
もっとも度の過ぎた狼藉を行った者は、人妖問わず罰せられるという一定の秩序も働いている。
そんな中、人でも妖でもない者が愉快そうに声を上げた。
「うーん。やはり里は活気があっていいわねぇ。妖怪の山は木気と水気が多めだから、こうも賑やかにはならないのよね」
「だからいつも言ってるじゃんか。私がやりやすいように土気と金気も高めろって。火気はまぁ、最近強くなってきたけどさ」
乾神・八坂神奈子の感慨に坤神・洩矢諏訪子が文句をつける。
そんな二柱の後ろで、もう一柱の神がほのかな笑い声を上げた。
「まぁまぁ、あまり山の麓が賑わうのも考えもの。特に、人間が私の領域に近付くのはどうしても歓迎できませんから」
それを受けて神奈子が振り返り、安心させるための言葉をかける。
「もちろん、道は危険なところを避けるよう整備はするわよ。
それよりも……上手くいっているみたいじゃない、鍵山雛?」
「ええ。貴女達に教えて頂いたおかげで厄を本体で保持しながら、分霊を宿したこの身体で人里に来ることができるようになりました。
でも……正直いつも行うには確実に霊力が足りないわね。こうして歩くだけで精一杯。貴女達との力の差を痛感させられるわ」
「まぁでもこういうハレの日くらいしか人里に用事なんてないでしょ? なら普段はそういう機会を精一杯楽しめるように力を溜めておくといいよ」
一歩一歩ぎこちなく足を進める厄神・鍵山雛を気遣いながら、諏訪子が気楽な言葉をかける。
ちょうどその傍を妖怪と人間の集団が駆け抜けていった。
「さぁさ行こうか盟友。今日は私達に人間の祭りの楽しみ方を教えてくれるんでしょ?」
「あ、ちょ、待って下さい! まだお二人への挨拶が」
「うふふ、貴女について回れば人間の祭りで楽しそうなところ……言いかえればスクープになりそうなところに近づけそうですね」
「文さん……こんな時くらい新聞のことは忘れましょうよ」
自分の巫女が妖怪に巻き込まれていく様子を笑顔で見送りながら、神奈子はふと思い出したように空を見上げた。
快晴の青空に浮かぶ太陽の位置から、神奈子は今の時間を見極める。
「そういえば、そろそろ収穫祭の神事が始まる頃じゃないかしら?」
「おおっと、もうそんな時間なんだ。さて、盟友達の晴れ舞台だ。今年はどんな感じなのか、楽しみだねぇ」
「ええ、参りましょう。豊かさと実りを司る、金気の儀式に」
三柱、それぞれ宿す力を異にする神々は、自分に向けられていない祭りの中を、それでも楽しそうに歩いていった。
人里のもっとも東の境にある出口。ここからは博麗神社に繋がる獣道が木々に隠されながら伸びている。
その手前は建物が殆どない広場になっているため、人を集めて何かを行うのにちょうど良い空間となっていた。
今、この広場には中央に釜を載せた祭壇が、木々を背にして築かれてる。
そこに向けて人々の注視が集まるように、祭壇の周辺には長大なゴザがいくつか敷かれていた。
集った観衆の視線の先には、正装した里長と、祭壇の前に並び立つ童女と少女の姿がある。
童女は長く人里の歴史に精通してきた家系の当主、稗田阿求。少女は神獣ハクタクを半分その身に宿す、上白沢慧音。
この二人の見守る中を、里長が三角山型のお産霊(むすび)を三宝折敷に載せて運ぶ。
目的の場所である、祭壇上の釜――その前に立っている穣子のところまで至ると、里長は膝を付いて三宝を掲げた。
穣子はそこからお産霊一つを両手で掴み、ゆっくりと口まで運んだ。小さなそれは程なくして、全てが穣子の中に収められる。
「大儀。人の業にてよくぞここまで練り上げました。私は今ここに、行く年の実りを労い、来る年の実りを誓いましょう」
穣子の賞賛を受けて里長はかしこまり、それから自らも一つ、腹に収める。
それを見届けてから穣子は両腕を高く掲げ、観衆に向けて高らかに告げた。
「五穀の実の栄えを成すと言えど、五穀の苗を健やかに育む力を持たぬ私から、せめてもの心づくしを振る舞いましょう。
人間達よ、来る年への糧として、存分にお上がりなさい」
そして穣子は振り返ると、釜に向けて拍手を一つ打つ。
すると中で揺らいでいた芋粥から、えもいわれぬほど甘く香ばしい匂いが生まれ、広場全体に行き渡った。
再び観衆に向き直った穣子は、両袖を揃えて軽く一礼し、神事に一時の終止符を打った。
「お疲れさん、二人とも……ああ、ありがと、慧音」
広場の隅から神事を見ていた少女――藤原妹紅が、芋粥の椀を持ってきた上白沢慧音と稗田阿求を労った。
「うん。といっても私はただの飾りだけどね。むしろハクタクの中にある、やんごとなき方々との縁が重要なんだ」
「ああ、やっぱりこれって新嘗祭が原型なんだねぇ。しかしまぁ色々混ざってて、なんだかよく分からなくなってるな。
幻想郷は全てを受け入れる、ってことなのかね」
かつて原型を垣間見たことのある妹紅は苦笑する。
それを聞いていた阿求も苦笑を浮かべながら、先代達がつけてきた記録を参考にして答えた。
「ええまぁ、年を重ねるごとに少しずつ混ざっていった感じ、らしいですよ。でも私の代になってからはまだ変化がありませんけどね。
この芋粥の味も香りも……相変わらず素晴らしいものです」
「ああ。でも不思議だな。里の誰が真似ようとしても……この香りも味も出せないんだ。一体どんな技を使っているのやら」
芋粥をすくって深呼吸する阿求と慧音に向けて、妹紅が呟くように切り出す。
「これは薬屋から聞いた話だけどね、『発酵の能力は神の力』らしいよ。
あの神様は果実を熟れさせることに長けていて、普通じゃ考えられない風味を醸し出しているんじゃないかな」
「へぇ、なるほど! そういえば漬物は香の物、つまり神の物とも言いますしね。
参考になりましたよ。次の幻想郷縁起は神様についての頁を充実させるとしましょうか」
好奇心が満たされた阿求が意気込むのとは対照的に、最初に疑問を発した慧音は寂しそうな目を妹紅に向けた。
「ああ……妹紅、お前が今まで舶来の酒しか飲まなかったのはそういう……」
「……ま、最近はどうでも良くなってきたけどね。日本酒の中にもあいつ以外が醸した物があるみたいだし。鬼の酒とかね」
「おや、なんでしょう? 里長が何かを呼びかけていますよ。神事はこれで終わりのはずですが……今年はまだ何かあるのかな?」
場の空気を変えるように、また自身の興味の向くままに、阿求が呟く。
つられて妹紅と慧音も首を動かし、祭壇に目を向けた。
阿求の言葉どおり、そこには里長と穣子が立っていて、大音声を上げて人々の関心を引いていた。
「みんな、そのままで聞いてくれ! 今年はもう一つ、神事っつぅか、余興をやるんだ。これは穣子様が考え、準備を整えて下すったことだ」
衆の視線と期待感を集めた里長は、穣子に後事を託す。
「神事の時の繰り返しとなりますが……人間達よ、よくぞ前年の天候不順を乗り越え、今年を豊作に導きました。
貴方達の労苦の結実をこの季節に祝えることができて、私は誇りに思います。そして来年の秋も再びこの光景を見られるよう期待しています。
さて、そのために一つ、この度の収穫で疲れてしまった大地と貴方達の心に、糧を与える儀式を執り行いましょう。
貴方達が収穫後の田に火を放って土地を肥やすように、山もまた木々に火を灯し、その火の粉が土地に潤いをもたらすのです。
その火付け役を今年は特別に招いています。それは私の姉にして紅葉の神、秋静葉。
寂しさと終焉の象徴がもたらす山焼きの風景を、里で最も木々の多いこの場所でご覧に入れましょう」
穣子は長々と口上を述べて、祭壇から退いた。
それと同時に、祭壇の背に最も近い木から、一部の葉が一斉に落葉した。
そのむき出しになった枝の上で、両手でスカートの裾を摘み上げて会釈していたのは、穣子と同じ金色の髪を風に流し、秋の暖色を身に纏った静葉だった。
観衆がどよめく中、静葉は目を開いてスカートから手を離し、ゆっくりと両腕を上に運んで踊り始める――
空に掲げた両腕のうちの片方を折り曲げ、顔の前でてのひらをくるくると翻らせながら、横に大きく開く。
それから木の葉をざわめかせながら枝の上を軽やかに歩み、手近なところにあったカエデの葉に、握手するように手を沿わせた。
途端、その緑の葉が赤く色付く。点火された赤色はそのまま他の葉に燃え移っていった。
静葉はそれを見届けてからつま先を支点に身体を一回転、別のカエデの葉に手を伸ばした。
今度は人々の歓声の口火が切られる。
一方の静葉は色付いたカエデから手を離すと、別れを告げるようにてのひらを振る。
するとその木に茂っていた紅葉が、ゆっくりと地面に向けて舞い落ち始めた。
「合図だ。橙、お前が見て工夫を凝らした、もっとも美しい幻想を披露してやりなさい」
人里の外にある茂みの中、あらかじめ打ち合わせをしていた藍が静葉からの便りを見て、橙に指示を送る。
「さぁいくよっ、今からやるのは寂しさなんかとは一切無縁の、派手できれいな一大スペクタクル!」
橙の宣言と同時に静葉はスカートの裾を軽く摘み上げ、枝を蹴って別の木の茂みに飛び移った。
すると、飛び移ったところを起点に赤色の花火が弾けた。
円状に広がるそれは侵略すること火のごとく、他の木々も巻き込んで延焼させていく。
上がる火の手の中で一度スカートを翻らせてから、再び静葉が枝を蹴る。より高みを目指して飛び移り、飛び上がる――足跡に赤い花火の散華を残して。
そして燃え盛る炎の頂に足を降ろしたところで、両腕を横に大きく開き、その場でゆっくりと回転し始めた。
静葉が回るたびに、その下方で赤く色付いた火の粉がそよ風に乗って舞い散っていく。
落葉狂う光景の中、それに魅せられていた誰かが硬いてのひらを唐突に打ち鳴らした。
それはすぐに観衆の間に伝播し、やがて八百万の拍手となって広場の空気を響かせる。
人々の傍らにあった穣子は視線を動かして里長を探し、見つけ出すとウィンクしてみせた。
そう、今においては音を立てぬよう遠慮する必要はない、この信仰の形を存分に披露してやればよい――穣子は満足そうに笑った。
人々の拍手を聴きながら静葉はうっすらと微笑み、それから両腕を自らの身体を抱くように縮めた。
そして回転をゆっくりと止めていき、完全に静止したところで身体を傾ける。
静葉は身体を重力に預け、まるで一枚の落葉のように木から身を踊らせていった。
観衆の悲鳴と紅葉の茂みに包まれながらも、静葉は笑顔のまま風を切り裂いていく。その途中で密かに神徳を発現させた。
静葉の姿が再び人々の前に現われた時、悲鳴は感嘆に変化した。
音もなく無事に着地してみせた静葉は、いつの間にか真紅の和服を身に纏い、片手にモミジの葉のような扇子を持っていた。
そして何の傷もないことを見せるように、両腕を開いてくるくると回り始める。
再び始まる人々の拍手の中、静葉は唐突に扇子をある方向に突きつけた。
「姉さ……ん? こ、これってまさか!」
静葉の顔に稚気の含みを見出した穣子は、姉の示した方向に何か力が膨れ上がるのを感じた。
そこにはすでに葉が黄色くなっていたイチョウの木があり、その一部が滝のように落葉を始める。
この不自然な落葉が治まったところには、大きなイチョウの葉を何枚も重ねて巻いたような服を着た、もう一つの静葉の姿があった。
「ぶ、分霊ですって!」
穣子は大きく目を見開く。
同じように驚いている、イチョウの傍に建てられた屋台の店主を尻目に、新たに生まれた分霊の静葉は片手を里の外に向けた。
その先の藍が、苦笑しながら橙に言う。
「……やれやれ、どうやら依頼主は私とのダンスを所望らしい。というわけで橙、本体の方は任せたよ。
私はあの分霊が顕現させる神徳の方を担当してくるから」
「あ、はい。頑張って下さいね、藍様」
「ああ……と、その前に」
藍は懐からスキルカードを一枚取り出すと、橙の後ろに展開させた。
現われたのは、紫色のガラスで作られたような眼球だった。
「藍様、それは?」
「魔眼『ラプラスの魔』、という名の式神の一部分らしい。本来は紫様の物なのだがね、設置だけなら私にもできるんだ。
実は今日の人里の至るところに置いているんだが……ま、一種のお守りさ。それよりも橙も頑張りなさい」
「はい、任せて下さい!」
元気の良い返事を受け取ってから、藍は茂みを蹴って飛び立っていった。
茂みを出る前に自らに姿隠しの術を施してから、藍は静葉の前に至ると両袖を合わせて膝を曲げた。
「せっかくのお誘いなれど、姿を現すことをしない我が身をどうか許していただきたい。
我々が妖術を使うときには木の葉を触媒とする必要があるのでね。それを誰かに見咎められるとまず……い!?」
弁解の言葉を静葉は無視し、藍の帽子の上に服の袖からイチョウの葉をはらはらと落とした。そして悪戯っぽくウィンクしてみせる。
それを見て藍は観念したように笑い、術を解いて姿を現した。
「イリュージョン!?」と誰かが呟くのをよそに、藍は差し出された静葉の手を取る。
「なるほど……こうまで落ち葉の飛び交う中にあっては、帽子の上の一枚など森の中の木、ということね。
ではしばし、お手を拝借するとしよう」
そして藍は静葉の手を引き、イチョウの並木道の真ん中までエスコートする。
それから二人向かいあって、片手同士は繋ぎ、もう片方の手は互いの背中に回した。
余興の始まる気配を察して、道を埋めていた人妖達は一斉に木々の脇や屋台の陰に退いていった。
疾駆の足音が軽やかに開幕を告げる。
二人は足取りを弾ませて並木道の端すれすれを、時に互いの身体の位置を入れ替えながら駆け抜けていく。
ある程度進んだところでUターンして反対側の端をかすめ、それからくるくると回りながら道の中央に向かった。
歯切れよく足踏みを鳴らす一方、静葉は繋いでいる手を頭上に掲げる。それを合図と捉え、藍はこの辺りのイチョウの葉を黄色く染めていった。
変化術のための木の葉は掲げられた静葉の袖から帽子の上に零れ落ちてくるため、術は滞りなく進行していく。
ある程度術を施した藍は、今度は先程とは鏡対象の軌道を描くようにステップを踏む。
二人はこれを繰り返しながらイチョウの並木道を踊り抜け、順に木の葉の色を変えていった。
「広場で上がった紅蓮の炎が、イチョウ並木をこんがり狐色に焼き上げる、というところかな?」
「お、上手いですね。それなら、俺達はせいぜい美味そうな狐色にクレェプを焼き上げましょうか!」
外来人を師に迎えた菓子職人は、二人を見送った後で黒い鉄板に白い円を描き、調味料を取り出すためにしゃがみ込む。
カエデ蜜の壷を探すその黒服の肩口には、赤いモミジが飾られていた。
「ええい、こんな時にソバなんぞ焼いてられっか! 今度こそ俺はちゃんと静葉様を信仰するんだ。食いたい奴は勝手に作りやがれ!」
「馬っ鹿、それどころか箸も皿も持ってる余裕すらねぇっての!」
「ホントよねぇ……あら、そろそろ通りかかるわよ」
焼きソバの屋台にいた客と店主が、並んで手を打ち鳴らし口笛を吹き、二人のフォックストロットを称える。
「これは……幻想郷で社交ダンスが流行る予感!」
「んー? なんだいそりゃ、盟友」
「気になりますねー。我々も社会を作っている以上、必要になってくるものなのでしょうか?」
「是非とも教えて下さい、風祝様!」
「わわ、そう言われても私はやったことがないんですってば」
山から遊びに来た人妖達が、二人のダンスを肴に会話を弾ませる。
人々の歓声を後に残しながら、二人はやがてイチョウ並木の終わりに至る。そこまで木々を幻で染め上げてから、藍は踊りの仕上げに入った。
先程までの軽快なステップとはうって変わって、二人は優雅な足運びで道の中央に向かう。
そして藍は前傾し静葉は背を反らし、その体勢を保持して互いに目を閉じることで、ダンスに終止符を打った。
周囲の音が強まる中、先に目を開けた静葉は藍の頬に手を伸ばし、その上に人差し指を走らせる。
『ありがとう。とってもじょうずだったわ』
そして藍に微笑みかけてから、その姿を無数のイチョウの葉に変え、その場に崩れ落ちていった。
藍はそれを見届けた後、畏まって一礼してから、周囲に向けておどけてみせた。
「やあやあ、神様に化かされてしまうとは、私も焼きが回ったかな?」
それを聞いて、一度は静まりかけた人々が今度は笑声を湧かせた。
藍と静葉の分霊が踊りを終える少し前――
地に降り立った静葉の本体は、幹の間を潜り抜けるように踊り回っていた。
片手の扇子を払い、長く伸びた袖を振るう――その度に一部がほどけて宙にモミジ型の火種を撒き散らす。
吹き上がる炎を形作るそれらは、いまだ緑の木々を下から焚き上げるように赤く染めていく。
こうして灯したかがり火が削れた袖を扇子を繕うように、その上に火の粉を積もらせる。
静葉の踊りと橙の変化術によって、広場の木々は次々と燃やし尽くされていった。
紅葉の真の立役者である橙は、しかし大きく肩で息をしていた。
藍の抜けた今、分かち合っていた負担を独り支えなければならなくなった橙は、茂みの中で両足を開き、必死で精神を集中させている。
静葉の踊りがゆるやかなものになったとはいえ、橙にとってはそれについていくのも困難だった。
「て、『天仙鳴動』とは桁が違いすぎるよ……あれ基準で考えていたのが甘かった、のかな。
でも、負けるもんか……でも……」
眉間に流れる汗を拭いながら、橙は口に出しかけた弱音を噛み殺す。
その直後に、突然背後から声が届けられた。
(いまだ紅葉していない木々の占める面積は残り五メートル四方分。貴女の術のペースでいけば、あと三十秒間繰り返していけばいいわ。
だからもう少し頑張りなさい、橙)
「ゆ……かり様!?」
よく知っているはずのその声は、しかしめったに聴いたことがないくらい優しい響きだったため、橙は最初誰の物か分からなかった。
(いいから貴女は集中なさい。すぐに目の前に行くわ)
声を響かせながら回り込むように現われたのは、先程藍が置いていった紫色の眼球だった。
「ら、ラプラス、のま?」
(ええそうよ。この式は私の耳目とそれから口を遠くまで及ぼすためのものなの。
本当はのんびりと収穫祭全体を眺めていようと思っていたんだけどね。貴女達が面白そうなことをしてたから、つい口出ししちゃったわ)
「――」
(ああ、つらいでしょうから何も答えなくていいわ。それにしても、藍も酷いわねぇ。可愛い式をほったらかして、自分は神様とダンスに夢中だなんて。
でも、藍も少し考え方を変えたのかしら。昔だったら過保護なくらい貴女の傍を離れずにいて、こんなことは絶対にしなかったのに。
まぁこれを傍に置いていったあたり、まだまだ心配性は抜けきっていないみたいだけど)
「――!」
紫に言われて、橙は久しぶりに会ってからの藍の行動を思い出す。
静葉を説得するときに何も言わずに送り出した、変化術の演出を全て自分に考えさせた、そして静葉の本体を自分一人に託していった――
これら放任の態度を、しかし橙は嬉しく思った。
(さぁ紅葉の宴もたけなわ、この場が貴女色に染まるその光景と……
信じる心によって力を得るのは何も神様だけではないということを見せてちょうだいな、私達の可愛い式神さま)
それを告げると、紫色の眼球は橙を励ますように、その周囲をくるくると回り始めた。
さらに他にも藍が設置していたのか、もう三つの眼球がその旋回に参加していく。
その中心にいる橙は先程の苦悶の表情が嘘だったかのように、晴れやかな顔で変化術を行使していった。
藍様も、そして紫様も、私を信頼してくれている。なら、その期待を裏切るような無様な姿は絶対に見せられない――
橙は不思議と背中が熱くなってくるのを感じた。そして傍の木の葉をむしり取って術を使い、覚えた熱気をいまだ緑の木々へと伝えていく。
赤い火の手の勢いが再び回復する中、静葉の足が最後の木の前まで運ばれる。
その幹の周りに沿いながら、静葉はまず扇子を叩きつけ、続いて袖を一つずつ打ちつけていった。
触れると同時に舞い上がったモミジの葉は、その色を移すかのように、木に茂っている緑の葉を下から順に焚き上げていく。
そして静葉の姿が観衆の前から幹の後ろに隠される。
次に現われた時には元の服に戻り、さらに茂みの上に飛び移っていた。
次第に燃え上がっていく茂みの中を、静葉は両手を広げて旋回しながら登っていく。
そして頂上に至った静葉はゆるやかに身体を一度翻らせると、姿を現したときと同様、スカートを持ち上げて膝を軽く折った。
火の爆ぜる音が遅れて鳴り始める。
ぱちぱち、ぱちぱちと――次第にそれは大きくなり、混ざり合い、広場の空気を割らんとするように爆発した。
人間が示す信仰の一つ形を耳にしながら、橙は茂みの中にその身体を横たえていた。
呼吸はいまだ荒く、心臓も信じられないくらい早鐘を打っている。しかし、頭の中は達成感で満たされていた。
傍には戻ってきた藍と、移動してきた紫の姿がある。
「ご苦労様、橙。貴女と一緒に、貴女の色を愛でることができて、本当に良かったわ。
それにしても、誰かさんが教えてくれなかったせいで、折角の晴れ舞台を見逃すところだったわねぇ。危ない危ない」
「いやまぁ、直前まで黙っておいた方が楽しみが増すものかと愚考しまして。
ラプラスの魔さえ設置しておけば、見逃すということはまずありえないでしょうから。して……いかがでしたか?」
「ええ、満足のいく余興でしたわ。橙も着々と力を付けてきているみたいねぇ。
何より最後まで成し遂げようとする意志が素晴らしかったわ。途中で抜け出した誰かさんとは大違い」
「……なんとも、ご無体なお言葉で」
紫のからかうような言葉に、藍は渋い表情を作る。
それを見て、橙は藍を擁護するために上半身を持ち上げた。
「で、でも私は別に気にしてないですよ! 最後まで諦めなかったのは、藍様が私一人に任せてくれたお蔭ですし。
ああ、初めて信頼されたんだなって思えましたから」
「橙……」
「うふふっ……大丈夫よ、橙。藍の意図したことぐらい、ちゃんと分かっているから。むしろ藍の子離れを喜ぶべきなのかしらね」
橙の必死な言葉を聞いて、藍と紫は温かい目を向けてきた。それら視線を掴み取るように、橙も笑みを浮かべててのひらを握り締める。
主達の信頼、それこそが最大の報酬――そう橙は思う。
だから、遠くで響いているあの人間達の信仰は全て、報酬をくれるきっかけを作ってくれた神様達が受け取ればいい、とも思った。
「八百万の言の葉でも足りぬほどの感謝を、貴女達に捧げます」
だが、橙に向けてさらなる報酬が追加される。
顔を上げると、そこにはエプロンを両手で持ち上げる穣子と、その上に身体を横たえている静葉の姿があった。
精根尽き果てたという様子ながらも、静葉はしっかりと橙と藍を見据えた状態で、穣子ともども頭を下げる。
「このような有様で伺う無礼、どうかご寛恕を。そして……妖怪の賢者殿には、無断で式をお借りしたことをお詫びします」
「いやは、そうかたく構える必要はないというのに。貴女とは対等な立場で契約を結んだ間柄なのだからね」
「私も……信じられないかもしれないけど、これでも式の私事には干渉しない主義なのよ。
これは藍や橙が貴女達と合意の上で臨んだことでしょう? なら、私がとやかく言う気はないわね。
それに今年の収穫祭は予想外の出来事が見れて、久々に楽しめましたわ。また来年の趣向も期待しておりますわよ、秋の神様。
……さて、私はお邪魔かもしれないので、これで失礼しますね」
返答を告げるや、紫は宙にスキマを開くと、その中に身体を滑り込ませていった。
それを横目で見送りつつ、藍は両袖を合わせて秋姉妹と対峙する。その後ろで慌てて橙も立ち上がった。
「私達の施した変化術は少なくとも数週間は保たれていると思ってくれればいい。だからまぁ、本物の神徳はゆっくり進めても大丈夫だよ」
「……そう、ありがとう。では、こちらは早いうちに報酬をご用意いたしますね。詳しい期日については、またいずれ。
あっ、それから橙、貴女も一緒に来てくれないかしら?」
「えっ? でもあんたが約束したのは藍様だけでしょ。わ、私は別にいいよ」
「何を言っているのよ。今回の最大の功労者をないがしろにするなんてできないわ。
それに貴女にも私の神徳の素晴らしさを知ってほしいもの。姉さんのだけじゃなく」
「うっ、あんたの神徳は正直トラウマ……いや、確かにマタタビは好きな匂いだけどさぁ」
「では橙の分もお願いできるかな。二人一緒に紅葉舞い咲く山の中で、思う存分宴席に酔いしれさせてもらうとしよう」
橙はまだ何かを言いかけたが、藍に微笑みかけられたために口をつぐんだ。
と、静葉を抱いた穣子が橙の傍に寄ってくる。そして静葉は頭から一つ、髪飾りを外して橙に見せた。
それは九つの指を備えた橙色のカエデの葉だった。
「これ……私に?」
頷き、それから静葉は藍にも同じ物を渡す。そして穣子がその意味するところを代弁した。
「姉さんからの友誼の証です。どうぞお納め下さい」
「ふむ、かたじけない。おおう、私達にはぴったりの形と色だな」
藍は葉柄を摘んでくるくると回し、満足そうに目を見張った。
一方の橙はしばらく沈黙していたが、おもむろに静葉の手を取るとその上に指を走らせ、同時にそれを読み上げた。
「『ありがとう。だいじにする』」
対する静葉の答えは、花のようにほころんだ満面の笑顔だった。
それを見届けた藍は一つ頷くと、佇まいを改めて深々とお辞儀した。
「さて、それでは我々もこれで失礼するとしよう。お役目も無事果たし終えたし、後はゆっくりと屋台でも巡るとするよ。
ま、予定外に目立ってしまったから……人間に化けてやり過ごそうかしら。
それと貴女達はそろそろ広場に顔を出した方がいいだろう。崇めるべき主役の到来を人々も恋しがっている頃だろうし」
「またね、秋静葉。
それから……次は負けないよっ、秋穣子!」
橙も手を振ると、藍と並んで茂みの外へ歩いていった。
「私達も行こっか、姉さん」
二人の姿を見送ってから、穣子は腕の中の静葉に呼びかける。すぐに静葉は首肯を返した。
それを確認してから穣子は弾むような足取りで広場へ向かう。その途中で目を閉じ、心中である期待を膨らませていく。
さあ、いよいよこの収穫祭で姉さんと一緒に信仰を分かち合える時が来たわ――
と、突然頬に人差し指を深く突きつけられた。
反射的に腕の中を見下ろすと、静葉が口元を悪戯っぽく歪ませ、勝ち誇ったような流し目をよこしている。
「……はいはい、ええそうね。確かに今から向けられる信仰の量を考えると、今年は姉さんの圧勝よね!」
頬が膨らみ、足取りが地団太を踏んでいるかのように荒くなる。
そして、この試みを始めた当初から姉さんに負けるのか、と考えて穣子は軽く肩を落とした。
その肩に静葉は両腕を回して抱きつき、労うように慰めるように、ぽんぽんとてのひらを弾ませた。
ほとんどのキャラが俺の原作のイメージともピッタリで、すらすら読めました!
面白かったです。
しかも、落ち葉+花火(弾幕)+舞、とは風流の極み。
キャストも落ち葉ゆかりの橙と静葉がメインで新鮮。
特に静葉のキャラ付けは今までになかった可愛らしさがあり、作者の技量には深く頭が下がる思いがした。
各キャラや妖怪・人間の距離感、描かれた世界観など全てが自分の好みでした。
この世界での次回作を是非お願いいたします!!
静葉姉さんにもっと日の光を!!
静葉様の踊りは、まるで目に浮かぶような立体感がありました。
秋姉妹の晴れ舞台の高揚感の演出も逸品で、お見事でした。