「古明地さとりを抹殺しなさい」
回廊の向こう側からとげとげしい声が聞こえた。
小悪魔のあるじ、パチュリー・ノーレッジのものである。
いま小悪魔は本の整理をしていた。聞こえてきた内容は物騒なものだったが、小悪魔は特におどろくもこともなく、最後に残った一冊を本棚におさめて、パチュリーのもとへと近寄った。
数十メートルの距離をつめると、パチュリーは据えた目で小悪魔を睨むように見ていた。
息は荒く、顔は毛細血管が開ききって、真っ赤に染まっている。うめぼしのような無様で愛くるしい顔だと小悪魔は思った。そういえば、顔つきもうめぼしのような渋面である。いつものぼんやりとした顔つきとは真逆の、険しい顔。それはそれで趣き深いものである。
小悪魔はクスっと笑いたくなるのをこらえた。
それから、視線を落としてみると、こぶしは力をこめて握りしめられており、わなわなと震えているのがわかった。
見て取れる感情は、怒りとも憎悪とも羞恥ともつかない。しかし、明らかに負の感情だ。
感情に乏しいパチュリーの負の感情は、希少価値が高い。言ってみれば、ほとんど食べることができない外の世界で作られたふんわりメロンパンのようなものか。
――ああ、イイ。その表情、すごくイイ。
小悪魔は、パチュリーのダークサイドの感情に、ゾクゾクする快楽を感じていた。
とてもキモチイイ感覚。
いつもは冷静なパチュリーが、こうやって感情をあらわにすることが、小悪魔は悪魔として嬉しい。感情のままに、気の向くままに、相対的快楽主義であるのが悪魔の心性である。わかりやすく言えば、すべてがどうでもよくて気持ちよければそれで良いというのが基本形である。
もちろん、小悪魔にとってパチュリーは別格である。他人の不幸も主人の不幸も自分の不幸さえ蜜の味とはいえ、悪魔的な欲望を抑えて、壊さないように気をつけているつもりだ。
「パチュリー様。よく聞こえなかったので、もう一度ご命令をお聞かせ願いますか」
「私に復唱させる気?」
「古明地さとりを抹殺しろ、と聞こえたのですが」
「聞こえてるじゃない」
「聞こえてます。が、問題はそういうことではないでしょう」
パチュリーの怒りを微風のごとくかわして、小悪魔はゆったりとした笑いを浮かべた。
「あなたは私の命令を遂行する。それが契約よ」
「まあ、その通り。ですが契約の条項によれば、パチュリー様の御身を守護するというのも内容になっておりますよね。その守護条項に反するかもしれませんので、ご命令の内容をうかがおうと思ったまでです。つまり――、さとり様は現在のところレミリア様のご客人として招かれているわけですよね。そのご客人を害するとなると、さすがにレミリア様がお怒りになられるのではないですか」
「ふん。レミィの怒りなんてどうでもいいわ。それよりも事は重大なのよ」
「どのようにでしょうか?」
「説明するのは面倒ね……」
パチュリーは大きな溜息をついた。
小悪魔はそんなパチュリーの様子も、愛くるしいみのむしのように思ってしまう。みのむしがひっぺがされて、全裸状態でのたうちまわっているような愛おしさである。
それになんだか、説明するのがただ億劫なだけではなく、なにかしら言いがたい理由があるようにも思った。パチュリーの心情の機微を理解することにかけては、小悪魔は能力の大部分を割いている。
だから、小悪魔は慇懃に口を開くことにした。
「どうか、この小悪魔にも理解が及ぶようにご説明くださいませ」
「うるさいわね。わざわざ仰々しいのよ。あなたは」
パチュリーは中段の本をとるために用意してある椅子にこしかけた。
いつもの豪奢な椅子とは勝手が違うようだが、わざわざ書斎に戻るのも面倒くさかったらしい。
そのまま話し始める。
「古明地さとりは、覚りという種族よ」
「存じておりますよ。心が読めるそうですね。不気味です。ひひ……」
「本当に、不気味よ。レミィが呼ぶことを知っていたら、私は動く大図書館になっていたわ」
「つまり、どこかに逃避したかったというわけですね」
パチュリーはじっと小悪魔を睨む。
「そうよ。できればさとりとは会いたくなかったわ。あるいは――、もう少し精神的な防御を図ることができたかもしれない。しかし、レミィが私になんの相談もなくあいつを招き入れたため、私は何の防御策もとれなかった。だから、こんな事態に陥っているのよ」
「こんな事態とは?」
「秘密」パチュリーは悔しそうに呟いた。「秘密がバレたわ」
「パチュリー様の恥ずかしい秘密がバレたというわけですか」
「そうよ。いちいち誰かに説明するように言わなくてよろしい」
「そうやって噛み砕くことが私のような非才には必要なのですよ。まぁ、だいたいわかりました。さとり様はパチュリー様の人には言えないような恥ずかしい秘密を知った恐れがある。だから、彼女を消して口封じしてしまおうというわけですね」
「言いにくいことをズケズケと言うわね。でも、その通りよ。廊下であいつとすれちがったとき、私はとっさにヤバイと思ったわ。けれど、そのときはもう遅かった。心は隠そうとすればするほど、逆に明るみにでてしまうもの。あいつは私を少し見下すような、汚らしいものでも見るような目で見ていた。あの視線が許せない。だから消しなさい」
「ですが、パチュリー様」
「口ごたえする気?」
「いいえ。そんなつもりは一切ございませんが、抹殺すると言ったところで、ここ幻想郷は幽霊やら亡霊やらもグダグダ歩きまわる世界ですよ。たとえ殺したところで口を封じることができると思いませんが。それに、さとり様は心が読めるそこそこ強い妖怪です。わたしなんぞがいくらがんばったところで、さとり様を抹殺することなんて叶うはずもありません。パチュリー様も十分に私の実力はご存知のはずでしょうに」
「ふん。それぐらい知ってるわ。私もそれぐらい考えたの。だから抹殺しろというのは、一種の比喩表現よ。本当に殺せといっているわけではない。私の秘密に関する記憶を消去してほしいと言っているのよ」
「記憶の消去ですか?」
「そうよ。記憶とはそもそも物理的に取り除くことはできないわ。脳という魂の座にまんべんなく定着しているから、取り除けたと思ってもひょんなことから思い出したりする。全部取り除いてしまったら人格自体が崩壊するのは考えるまでもなく明らかなことね。これでは、地下のやつらも黙っていないでしょう。しかし、情報に対する接触方法を喪失することがある。日常的に私たちも経験している。それが忘却という状態よ。情報にアクセスすることが叶わなくなる状態のことを忘れたと呼称するわけよ。だから、私はこんなものをつくったわ」
パチュリーは洋服の胸のあたりから、なにやら白い錠剤のようなものを取り出した。
小指の爪よりも小さな、白い扁平状のものだ。
「なんですか、それ」
「記憶に関するアクセスを拒絶する薬。わかりやすく言えば、忘却の薬よ」
「それを、さとり様に飲ませろとおっしゃるわけですね」
「そうよ。あなたにもそれぐらいできるでしょう」
「できるんでしょうかねぇ……。なにしろ、相手は心が読める化け物ですよ。私の害意をすぐさま読み取ってしまうと思いますが」
「それは考えなさいよ。なんとかしてみせなさい」
「パチュリー様がご自分でなさればいいじゃないですか。私よりもずっと知恵に長けてらっしゃるのに」
「いやよ! もう二度とあいつの前には出たくないの。裸にひんむかれている気分だったわ。そしてあのじっとりとした地下の腐った空気をまとった目。あの目が耐えられないのよ」
「かわいいなぁ……」
「黙りなさい。小悪魔」
「黙ってたら、パチュリー様との楽しい漫談ライフができないじゃないですか」
「ふんっ。いいからあなたは魔女の命令どおりに動けばいいの。拒否はできないはずよね」
「ええ、そりゃそうですとも。魔女と小悪魔の契約は絶対厳守です。ただ、そうですね。少し質問させてもらってよろしいですか」
「なによ」
「まず、その薬の効用ですが、いったいどういうふうに忘れるんですかね。つまり、忘れるといっても程度があるじゃないですか。時間指定されているんですかね。例えば何日の○○時の出来事を忘れるというふうに」
「時間ではないわ。記憶はいくつかのエピソードが連関している。時間で指定しても、エピソードどうしの連関から思い出されてしまう危険が高いでしょう。それに、例えばの話。ある一日の記憶が消えるとしたら、その一日だけ空虚になってしまって、露骨におかしいことになるわね。記憶が一日だけまるで思い出せないとなるとさすがにいぶかしむでしょうよ」
「なるほど。時間ではない、と」
「そうよ。特定のエピソードに関するアクセスを禁じるの」
「エピソードといわれても、けっこう抽象的ですね。パチュリー様の秘密を知ったことも一つのエピソードになるんですか」
「そのとおり。ある程度は抽象的でいいのよ。エピソード記憶は、イメージの連関で構成されているから、そのイメージを形成するのを阻止するの」
「うーん。よくわからないですねぇ」
「わからなくてけっこう。使い方は簡単よ。まず飲ませる前に、このタブレットに念を送る。場面をイメージするのよ。今回で言えば、さとりが私に出会って、秘密を知ったシーンをイメージするの。そうすると秘密に対するアクセスができなくなるわ。私と出会ったことはうすぼんやりと覚えているけれども、秘密に関するエピソードが欠落した状態を作り出す。大方の場合、記憶は矛盾がないように補填しようとするから、たいしたことのない平凡な記憶にすりかわることが多いでしょう」
「よく他人のイメージで、記憶情報に対してアクセス禁止状態にできますね。さとり様にとってパチュリー様は他人です。パチュリー様はさとり様の心象を知りえないのにどうして、特定の記憶を消去……というか、アクセス禁止できるんです?」
「あまり特定していないの。そこはわりとおおざっぱに近似のイメージをアクセス禁止にするの。この場合、私とさとりが不幸にも邂逅したのがイメージを助けているけれども、もしも出会わなくても、私が念じたイメージと近しいイメージが封印されるわ。たとえば私の羞恥心や恐れがさとりには見えたでしょう。そのイメージを私は想像するの、そしてその想像とほとんど一致するような記憶が封印されるわけ」
「ああ、なるほど……。この薬は想像を封じるわけですね」
「そうね。本質的にはそうかもしれない」
「忘れるというより、発想を許さないわけです。これは思想信条の自由を害する、きわめて悪質な行為ですよ。パチュリー様」
「そうね。けれど、私は私を見下す発想自体を許さない。私に対するどんな下卑な想像も許さないわ」
「ふむ。つまり私がパチュリー様のことを想像しながら、真夜中にちょっと人には言えないことをしていることも許さないというわけですか」
「何してんのよ?」
「ご想像にお任せします」
小悪魔は含み笑いをこぼした。そうしたほうがパチュリーは気にしてくれるだろうという計算だ。
「やめなさい。小悪魔」
「やめろとおっしゃられましても、こればかりは私が本質的に淫乱なのでしょうがないところだと思われますが」
「いいからやめなさい。禁止。絶対禁止」
パチュリーは腕を交差させてバッテンをつくった。
「まあ、そのことはおいておきましょうよ。目下のところは、さとり様にどのように対処するかのほうが大事でしょう」
小悪魔の言葉にも一理あると思ったのか、パチュリーはプイと横を向いた。
ときどき拗ねるような態度をとるのが、これまたかわいらしいと感じる小悪魔である。
「あいつが帰るのがたぶんディナーのあとぐらいよ。それまでになんとかしなければならない」
「しかたないですねぇ。なんとかしてみせましょう。ああ、それともうひとつ確認を」
「なによ?」
「パチュリー様のご命令の内容を厳密に特定化しておきます。要するに、パチュリー様はご自身の秘密を誰にも知られることのないようにしろと、そう仰せになっているのですね」
「秘密とは、秘密の内容だけではないわ。秘密の存在もよ」
「私は秘密の内容が何かは存じませんが、秘密があること自体は知ってしまったわけですが、どうすればよいので?」
「すべてうまくいったあとに、あなたもタブレットを飲みなさい」
「私に一部死ねとおっしゃるわけですね」
「そういう表現がいいなら肯定してやるわ。私のために死になさい」
「パチュリー様の秘密をバラすことは、契約条項上できませんけど、それでも死ねとおっしゃるわけですね」
「念のためよ。それに誰かが知っているということ自体が許しがたい事実なのよ」
「しかたありませんね。パチュリー様のためにがんばっても、全部忘れてしまうわけですか」
「そうよ。残念ながらね」
「残念というか、これは、さすがにやる意味あんのかなーって思っちゃいますよ。私の益になるところがないですから」
「契約は絶対」
「もちろんやりますよ。ですけど、渋々やるとなるとモチベーションはダダ下がりです。あまり期待できません」
「いいわ。すべてがうまくいったあかつきには、後ろから抱きついて耳をはみはみしてあげる」
「ひゃっほおぉぉぉぉぉぉぉ!」
小悪魔は大歓喜。
未来に向けて投資するのも悪くないことである。
もしかすると、パチュリーは口ではああ言っておきながら、実際にはそうしないかもしれない。
すべてがうまくいったあかつき、ということは、小悪魔もタブレットを飲み、秘密が完璧に隠蔽されたときのことを言っているのだろう。
そうすると、小悪魔がタブレットを飲んだあとは報酬についても忘れているだろうから、何もしなければわからないのだ。その意を含んでパチュリーは発言したに違いない。小悪魔もその程度のことは気づいている。
しかし、小悪魔は芯からパチュリーを妄信しており、そういうふうに自らを洗脳しているといってもよく、パチュリーの言葉を疑うことは意図的にしない。
したがって、喜び勇んで計画を練ることにしたのだった。
とはいえ――である。
思うに覚りの能力とはどの程度のものなのか。あるいは有効範囲はどこまでなのかと、いろいろと謎が多い。
ある程度距離が開けば覚りの能力が発揮しえないことは確からしい。
地下世界と地上ぐらいの距離が開いていたら、さすがのさとりも心を見ることはできない。
心を見る?
それが正しい表現なのかは判断がつかないところだ。もしかすると、さとりは心を電波のように拾っているのかもしれないし、聞いているのかもしれない。感覚的な意味で『見ている』のであれば遮蔽があればなんとかなりそうであるが、そういうふうに判断してしまうのは早計である。
あるいは、他の誰かが近くにいえば、遠くにいる者は心を読みにくいということがあるのだろうか。
心を同時に読める人数の限界は、さとりの分解能に依存しているだろう。ここ紅魔館は妖精メイドの数が多く、それらの者たちがノイズにならないだろうか。
もちろん最悪の場合は、すでに小悪魔の意図がバレていることも考えられた。
「うーん。難しいですね……」
『なにがよ』
渡された水晶玉から、パチュリーの声が聞こえた。
パチュリーは紅魔館の図書館の最も奥まったところに引きこもり、そこから通信機能のある水晶玉を通じて話しかけている。
咲夜に頼み、空間を引き延ばして、地下と地上との距離程度には開けてもらった。咲夜には魔法の実験かなにかだと伝えてあるらしい。
最悪、いままでの会話はバレていたとしても、これから先、パチュリーの心がさとりに知れることはない。
また、この通信は契約によって精神的なつながりのあるパチュリーと小悪魔ならではのものであり、プロトコルの関係上、さとりに通信が漏れ出ることはまずないといってよいだろう。
ただ、小悪魔としてはきわめて不利な状況にいるように思えた。
なにしろ――
「我々の先ほどの会話がまるっとお見通しだったら、いまさらどんな策を練ってもバレバレじゃないですか」
『そんなのなんとかしなさいよ』
「丸投げされても困ります」
『私がするのはあなたの監督だけよ。もしも私とあなたが話しあって何か決めたらその瞬間にバレてしまうかもしれないじゃない』
「事件は図書館で起きてるんじゃない、現場で起きているんだと言いたいところです」
『あなたには期待しているわ、小悪魔。あとで足ツボマッサージしてあげる』
「わたくしにすべてお任せください、パチュリー様」
現金なものである。
実際、小悪魔のモチベーションはなかなか高い。
あのいつもはノッタリしているパチュリーが時折妙に積極的になることがあり、耳はみはみはその極北になりえるものであろう。
『なにか計画はあるのかしら』
「計画というかひとつの思いつきですね。先ほどパチュリー様にもう一つタブレットをいただきましたよね」
手のひらのなかにタブレットは二つ、ちょこんと存在感をしめしている。
『そうね。それがどうしたの』
「ひとつは秘密に関する記憶を消去するために使うとして、もう一つは私自身に使ってみようかと思っているのですよ」
『ふうん。それで?』
「思うに忘れるということは意識しないということですから、さとり様であっても忘れていることは知りようがありません。心を読むということの限界として明らかになっていることは無意識については読むことができないということがありますから、私が何かについて忘れてしまえば、そのことをさとり様は知りようがないわけです」
『無意識は読めない。あいつには無意識を操るこいしという名前の妹がいたわね。そう考えると確かにそのとおりだわ。覚りが読めるのは意識に立ち上ってくることだけよ』
「そうすると、このタブレットは一種のジョーカーになりえるわけです」
『で、具体的にはどうするのよ』
「いろいろと考えたのですよね。一番良いのは、紅魔館での食事に――もっと言えば、ワインの中に混ぜてしまうことです。このタブレットは水溶性で、無味無臭。それでも効力は消失しない、でしたよね」
『そうよ。もともと毒物なんて無味無臭でようやく合格点が取れるわけだから、証拠が残るのは及第点以下。私がそんな出来損ないをつくるわけないでしょう』
「さすがは私が敬愛してやまないパチュリー様です」
『おべんちゃらはどうでもいいの。あいつになんとかして薬を飲ませることができれば、なんだっていいわ』
「最も簡単なのは、私が薬をワインに混ぜて、それから、薬を夕食に混ぜたことを忘れることでしょうね」
『それはそうでしょうよ。けど、もし、夕食に毒をもったことがばれていたら、もうどうしようもなくなるわね』
「そのとおり。そこが問題なのですよね。特定の問題に対処するときはなんらかの保険をかけておいたほうがいいわけです。夕食に毒を混ぜる方法はバレていたら、さとり様は地下へと帰ってしまう可能性が高く、そうなってしまえば、パチュリー様の秘密を秘匿することは難しいといえるでしょうね」
『保険ね。あなたらしいわ』
「いえいえ。ごく普通のリスクマネージメントですよ。パチュリー様」
『なにか考えがあるのならもう私は何も言わないわ。どうせあなたが何かを考えているとしてもバレてるのかもしれないし、あるいは私に話すことで心のありようが定まり、読み取られやすくなってしまうのかもしれない』
「私としてはパチュリー様の愛くるしい喘息交じりの声をもっと聞いておきたいのですがね。そう――ですね。具体的な策はあることにはありますとだけ答えておきましょう。そしてこの策につきましてはとりあえずのところ思考を読まれてもおそらく大丈夫です」
『思考が読まれても大丈夫ってのは頼もしいわね。あなた程度の力量でそんなことが可能なのかしら……』
「それは撞着めいてますよ。私に任せておいて私の力量に疑問を持っていては始まりません」
『持ってる道具でなんとかするのが魔女の本質』
「道具扱いされちゃった」
『なにをいまさら。あなたは私の便利な道具よ』
「便利! これは嬉しいお言葉です」
『ふぅ……、まあいいわ。あなたぐらいしか使える道具がないのが哀しいところだけれど、一応は期待しているわ』
「おまかせくださいませ」
水晶玉から通信が切れた。
パチュリーにまかせておいてくださいと答えたものの、覚り妖怪に勝つ方法は限られているのも確かだった。
例えば――小悪魔が強ければ、『右ストレートでぶっ飛ばす』方式で勝つことも可能だったかもしれない。文字通りの意味で、相手が思考を読み取るよりも早くぶっ飛ばし、無理やり忘却の薬を飲ませてしまおうというわけだ。しかし、小悪魔のパワーでは、弱い弱いといわれているさとりにも勝てる道理はないだろう。
他方で、他人にコントロールさせる、遠隔方式というのが考えられる。
しかし、小悪魔は式とは違い使い魔である。使い魔は契約によって拘束されてはいるが、独立した主体であるからこそ契約を結ぶことが可能である。したがって、遠隔操作を受けるには複雑な術式が必要になり、時間が足りない。仮にそれをおこなったところで、パチュリーの経験からいっても小悪魔を直接操作したことはないから、うまくいくかどうかも不安といったところであろう。この方法も取りえない。
思考するという呪縛から逃れようがない以上、最も簡便で、かつ最も可能性が高い方法はいったいなんなのだろう。
小悪魔は独り言のようにポツリと言う。
「説得、ですかね」
古明地さとりは客間で優雅にお茶を飲んでいた。
テーブルの真向かいには、紅魔館の主、レミリアが『咲夜の作るプリンはおいしいよぉ、うー』と思いながら「今日の紅茶はダージリンね。いい香りだわ」などと言っている。
その程度の思考は読もうと思うまでもなく見て取れるものであったが、特に気にしてはいない。
さとりにとって、心を読み、その心の内容をしゃべって動揺させるというのは一種の食事にあたり、精神的にも肉体的にも必要なことなのであるが、客人として呼ばれたからには、失礼にあたることのないようにしようという配慮ぐらいはもちあわせている。
「お世話になったわね。レミリア」と、さとりは言った。
「なに、たいしたことじゃない。フランがおまえの妹と仲良くさせてもらっている。姉どうしが親交を深めても悪くはない」
レミリアの言葉には嘘はない。
最近のことである。
さとりの妹こいしは無意識に行動する根無し草。
そんなこいしがフラフラと、ここ、紅魔館に入りこみ、偶然フランドールと友達になったのだ。こいしは心の一部を閉ざしている、ちょっぴり自閉症気味な女の子。
そんなこいしが友達を持つということが、こいしの傷ついた心にとってどれほど有益なことか計り知れなかった。
こいしの姉として、さとりは一度挨拶しておく必要があると思ったのである。
紅魔館の主、レミリアは子どものような性格をしていたが、心にあまり裏表がないようだ。心を自然と読んでしまう覚りに、不快の念を抱いてもいない。
いや――正確には、心を読まれているということが支配されていると感じているところもあり、ほんのわずかイラっとしている部分もあるにはあるのだが、大部分は妹が仲良くさせてもらっているという点で、好意を抱いているらしい。心はある一点において支配されるということはない。動的な色合いのようなもので、一瞬のうちに移り変わっていく。
ポツリポツリと負の感情が見えたところで、感情の多数派が正の感情なら、総体的には正の感情であると評価しなければならない。
それがさとりの、人とのつきあい方だ。
もう一つ、さとりのなかで不文律としてのルールがある。
それは
――たとえ他者が自分に対して負の感情を抱いていたとしても、実際に何かをされるまでは、こちらも何もしないこと。
動的な心象風景において、ほんの一瞬、殺意を抱くということは往々にしてよくあることなのだ。それにいちいち付き合うのもバカらしいし、多くの場合は、自分の中で処理している。覚り妖怪の精神は、そういった一瞬のうちに移ろう感情に常に曝露していると言える。曝露。まさに被爆の領域。心の最も弱い部分を常にさらし続けているようなもの。他の妖怪には知りようもない、さとりの最も脆い弱点。それが心を読むことなのだ。
本当は他人の家で寝るというのも、恐ろしく精神的に疲弊することだったりするのであるが、客人として招かれている以上、慌てふためいたりはしない。
「こいしが少し羨ましいところね」
こいしの姿は見えない。
おそらくは、フランドールと遊んでいるのだろう。
「すいません……、少しよろしいですか」
振り向くと、小柄な姿が見えた。紅い髪にこうもり羽がつきだしている。
にこやかな笑顔。
そして心の中は昏く、そして奇妙なことに澄み切っていた。
なんといえばいいか。闇を純粋に濾過したような感覚である。普通、相手方に対して悪意を抱くときは、悪意のもととなる感情が必要になるものである。たとえば、それは憎悪であったり怒りであったりするわけであるが、彼女の場合は違った。純粋にそれそのものを目的としているようだ。
こんな生物に会ったのは初めてである。
さとりは身構えつつ、表層の心から、相手がどんな行動をしようとしているか探る。
少なくとも――害されることはないらしい。
それどころか実力もほとんど皆無に等しい。さとりであっても、無理やりになんとかできてしまう程度である。
さとりは、内心でほっとする。
しかし、安心できるような存在でもない。気が休まらないようにしているのは――彼女自身もわかっていてやっているのだ。
「さとり様。私と一勝負していただけませんか」
少女は丁寧な物腰で一礼した。
小悪魔はさとりを個室へと案内した。
害する意思はまったくといっていいほど抱いていないから、さとりも普通に部屋の中に歩みを進めた。
丸い小さなラウンドテーブルがあり、さとりと小悪魔は真向かいに座る。
距離的には手を伸ばせば届く程度の小さなテーブルである。もともとは紅茶を置くためのものだ。
さとりの物腰はさすが地底の大物だけあって落ち着いていた。
けれど警戒しているようなのは、わずかな視線の動きから小悪魔にもわかった。
ややあって水晶玉のスイッチが入る気配がした。どうやらパチュリーが行く末を見守るために監視を再開したらしい。
「何かお飲み物はいりますか」
「毒を盛ろうという気はないようですね」
「ええ、そうですね。さとり様に心を読まれてしまっては、そんなことは不可能でしょう」
「ただ、他の人間に間接的にそうさせることも不可能ではないと思っていますか――、いや、それも無理ですね。間接的に誰かを使うというあなたの意図が見えてしまうわけですから」
「ええ、だから飲み物に毒をいれようという気はありませんですよ」
「しかし忘れ薬をあなたが服用することで間接的に誰かに頼むということも可能だと、ちらりと思いましたね。ですが、その場合パチュリーさんの『秘密』が外部に漏れる可能性が高まるからできないとお考えなわけですね」
「そうですね。一瞬の思考でも読み取れてしまいますか」
「思考には思っているよりも流れはありません。夜空に咲く花火のように一瞬でぽつりぽつりと想念が浮かび上がってくるのが常態です。論理的な思考、数学的な思考のほうが稀であり、例外的な思考なんですよ。私の能力は一瞬の思考を捉えることに長けているわけです」
「さすが、心の専門家でございますね」
「専門家ですか。うまい建前ですね」
「建前は大事でしょう。特にさとり様のように地位が高いお方の場合は」
「そうですね。けれど、私は自分の本然にさほど嘘をつかないように生きてきましたよ」
「テレパスってやっぱり自省心が強そうですものね。自分の心が明確にわかってしまうわけですから、なんといえばいいか、恥を知っている方であると思っておりますよ」
「そうですね。自らの心の在り様をひとよりは明確に掴めるでしょうからね。けれど、自分の心はあまりわからないものですよ。自分の姿を見るには姿見が必要でしょう。心も同じなのです」
「鏡が必要ですか」
「ええ、そうです。そして鏡とは往々にして他者の瞳である場合が多いでしょう」
「ところで私の勝負の件なんですが、お受けしていただけますか」
「あなたが勝負に勝てば、私はこの忘却の薬を飲まなければならないというわけですか」
「そう……、そういう勝負になりますね」
小悪魔は少女らしくニコっと笑った。もちろん、さとりにはどんな想いを抱いているか筒抜けだろう。
さとりは嫌な顔ひとつせず、
「私がその勝負を受けるメリットが無いですね。たとえ記憶の一部分を失うにすぎないといっても、やはりあまりいい気分はしません」
「ですよねー。というか、私が一番危惧していたのは――」
「私を勝負に引き込めるかどうかですか」
「ええ、そのとおりです。さとり様と私とはさほど利害が対立するわけでもなく、言ってみれば無関係なわけですからね。そうすると、あえて勝負なんかしないでもよい関係とも言えるわけです」
水晶玉がなんだか熱くなった気がした。パチュリーが焦っているのかもしれない。
「それに対するあなたの『建前』は、紅魔館との親交を深める、ですか。理由になっているようないないような微妙さですね」
「ですが、さとり様がここにいるということは――」
「ええ、確かにこいしがお世話になっている以上、私もみなさんと仲良くやっていきたいと思っておりますよ」さとりはニヤっと笑った。「いいですよ。あなたと勝負しましょう」
「ありがとうございます、さとり様」
「しかし、あなたの思惑に完全に乗るわけではありませんよ。賭けとは互いに何かしらの不利益を伴うリスクを負う必要があるわけです。あなたは……、いえ、あなたがたは一体何を賭けてくださるのでしょうね」
「さとり様の望みはなんですか? 私は小さくてもきちんとした悪魔ですから、願いを言ってくれさえすれば叶えますよ」
「フフン。無駄な装飾が好きなお方ですね。あなたの思考では、そういうふうに目の前にわかりやすいトラップを置くことで、うまい具合に隙をつくれないかとお考えのようですが、そういう条件付きの思考もあらかた読み取れますから」
「言葉というものにはもう少し玄妙な部分があるんですよ。覚り妖怪どうしの会話とは違うというわけです。とんでもない方向へ話が膨らむような、そういう生物めいたところがあるんです。それこそが私の武器であり、さとり様に勝利する唯一の方法でしょうね」
「私の上司には、舌をぬいちゃう怖い閻魔様が控えているわけですから、ゆめゆめお気をつけください」
「ああ、そうでしたね。ひひ」
小悪魔は笑いを崩さない。小悪魔の心が今どのような状態かは、さとりしか知りえない。建前上は礼節と淑女然とした振る舞いである。小悪魔は悪魔で、悪魔は階級社会のなかで生きているので、礼儀正しさには定評がある。
「ところで、私の望みでしたね」さとりは、ハァと小さく溜息をつきそれから壁にかかった時計を見る。「では、もし私が勝てば、紅美鈴さんの時間を少しだけいただけませんかね」
「えっと、話が見えないのですが」
「美鈴さんは私が見たかぎりではとても優しいお方です。あの方にお守をしていだければ私としても安心ということですよ」
「確かに、わが紅魔館が誇る狂気の妹様と、地霊殿の殺害大好き少女が揃えば、何が起こるかわからない恐ろしさはありますからね。さとり様のご懸念もいかほどばかりかと心中痛みいります。しかし、私にはその権限はありませんので、パチュリー様を通じて、間接的にレミリア様に伝えるかたちになりますが、それでもよろしいのですね」
「ええかまいませんよ」
さとりは面倒くさそうに両の目を閉じた。第三の目は開け放たれたままであったが。
おそらく、さとりは地霊殿の主として、物質的な欲望はさほど無いのだろう。さとりの欲望にあたることといえば、ほとんど唯一、ペットとたったひとりの妹の幸せのようだった。さとりが家族想いであることは、ここ紅魔館にわざわざ足を運んだことからも、簡単に想定できることである。
もしも、さとりが提案してくれなければ、この勝負を成立させるために小悪魔はある程度苦労することになっただろうが、さとりが提案してくれたことで、スムーズに勝負に移行することができた。
「あなたが五秒ごとに、こいしを使って何かできないかと不穏な思考をしていなければ、私も安心してゲームに集中できるのですがね」
「思考を止めるときは、寝るときか死ぬときだけって決めてますんで」
チコチコと時計の音がする。
壁にかかっている時計が、時をゆっくりと刻んでいる音だった。
小悪魔はちらりと壁に視線をやり、まだもう少し時間があることを確認する。さとりが帰る時間はだいたい夕食を食べた後ぐらいになるだろう。今、夕方の四時程度であった。時間はあまり残されていないし、一発勝負になる。
小悪魔は懐から、トランプを取り出した。
「そのゲームは、非常に私にとって有利になりますよ。はっきり言えば、あなたに分があるのはジャンケンぐらいなものです」
小悪魔はニヤニヤとした笑いをこぼした。
「確かに」
「しかし、それでは私が納得しない場合がある――ですか」
「ええ、土壇場でごねられても困りますんでね」
「つまり、あなたは私の覚り妖怪としての誇りも賭けの対象にしていらっしゃるわけですか」
「さすが、さとり様。話が早くて助かります」
「しかし、私が負けるとは限らないわけですよね。あなたはそれでもこの勝負をやろうと言うのですか。そちらのほうがあなたにとっては不都合なのでは? 言ってみれば、この勝負に乗ろうというのは一種の酔狂です。いざとなれば私はこいしに出入りを禁止して、この紅魔館との関係を断つという道も残されているのですよ」
「勝負に乗ってくださったんでしょう?」
小悪魔は張りつけたような笑顔を崩さない。
さとりも負けてはいない。同じように不敵な笑みを浮かべたままである。
外部的に客観視できる状況は仲が良い少女たちの談話に過ぎないが、小悪魔の心の中では、さとりの心象に対する攻撃がおこなわれているのだろうし、さとりも小悪魔の心象を見抜いて逆撃をくわえようとしているのだろう。図書館の奥まったところにいるパチュリーは気が気でないはずだ。
「パチュリーさんが、焦っているのを想像して楽しんでいますね」
「わかりますか。心が読めないからこそできる遊びですよ」
「確かにそうですね。心が読める覚り妖怪にとっては他人の心を想像する余地がほとんどありません。しかし、私には心の読めない存在がいますからね」
「こいし様のことですね」
「ええそうです」
「考えてみればおかしな話ですよね。覚り妖怪がもっとも心を寄せているのが心の読めない相手なんて、皮肉めいています。まるで悪魔のような関係ですよ」
「妹はそれほど大事な存在だということです。あなたにもいるでしょう。大事な存在が」
「もちろん、パチュリー様は私にとって大事なお方ですよ。もちろん血はつながっておりませんが、契約の拘束力以上の意味であの方をお護りしたいと考えています」
さとりはじっと小悪魔を視界にいれている。
小悪魔は、こぁこぁと余裕の表情。
さとりが口を開いた。
「それで茶番のようなこのゲームをする価値がある、と」
「まあそういうわけです。言ってみれば、このゲームはおのおのの大事な人を賭けているといってもいいわけですよ。もちろん負けたところでさとり様が失うのは記憶だけですし、私が失うものはそもそもありません。しかし、観念的にはかなり重要なわけですよ。だからこのゲームには価値がある。そうではありませんか?」
「ゲームの裏側では、互いに大事な人がチップになっていると考えるわけですね。悪魔的な思考が徐々にですが私にも飲み込めてきたようです」
「それは重畳。では、ただ少しばかりのごゆうぎとして、このゲームにおつきあいください」
「それで、なんのゲームをするのです? トランプといえばいろいろと遊べるでしょうけれど、場合によってはあなたに不利になるものもあるでしょう」
「ポーカーなんてどうでしょう。さとり様の心を読む能力をそこそこ使えて、さらに私が勝てる要素も少しは残されていますからね。ごぞんじですよね。ポーカー。トランプといえば、最も有名なゲームはポーカーですから」
「もちろん知っています……、それで何回勝負にするんです」
ポーカーは、チップを賭けの対象にする勝負である。チップとはいわゆる手付であり、もしもゲームを降りるなら、手付として支払ったチップの分だけの損害で済む。つまり自分の手札が負けそうであれば、自由にゲームを降りることができるところに妙味がある。逆を言えば、ポーカーとは何回かの勝負を重ねて、その総合的な成績で勝負を決めるゲームだといえるので、一回ぽっきりの勝負だと、そもそもポーカーの面白さを失わせてしまうことになるのである。
「時間から言えば、10回ほどですかね。チップはお互いに100から始めることにします。勝負が終わった段階で持ち金が多いか、あるいは相手の持ち金を完全に奪ったほうが勝ちです」
「親は?」
「親は私。それぐらい許していただいてもいいでしょう。もちろんイカサマもしますけれど、さとり様が私のイカサマを看破した場合には、その旨をおっしゃってくだされば、その回においては手札の強弱に関わらず、さとり様の勝ちということでけっこうです」
「イカサマするんですね」
「普通に運勝負にしてもおもしろくないでしょう」
「そうでしたね。この勝負では、覚り妖怪としての存在意義もチップの対象になるんでしたか……。なんとも危うい。あなたの思考が私には理解できませんよ」
「私を理解しようなんて思わないことです」
「人の心が読めたとしても、それでその人を理解したと考えるのは早計。認識と理解との隔たりはなお深いといったところですか」
「だからこそゲームの楽しさが生まれるのでしょう。悪魔とのゲームは、基本的には心理的で知的なゲームということになることが多いのですよ」
「一応私はアウェーでゲームするわけですから、ルール一覧については書面を交付してくださいませんか」
「おやおや、ずいぶんと乗り気になっておいでのようですね」
小悪魔は指をパチンとならす、すると空間から巻物状の薄汚れた紙が一枚出現した。
そこには以下のように書かれてある。
小悪魔(以下、甲とする)と古明地さとり(以下、乙とする)は、ポーカーをおこなう。
勝負回数は10回。最初の持ち金は100チップである。
甲および乙の勝利条件は勝負を10回行った後にチップを多く持っているか、10回までに相手のチップをすべて失わせることである。なお、10回目の勝負のときに同数のチップを両者が有している場合、甲の勝利とする。
アンティ(参加費)は5チップとする。アンティはベットとは異なる枠に置かれる。
甲は自分と乙に対して、五枚の手札を裏側にして配る。
次に、甲はベット(賭け)する。ベットは1チップ以上20チップ以下の範囲で必ず行う。
甲のベットの後に乙はコール(甲と同一金額を賭ける)かレイズ(賭け金をつりあげる)する。例えば甲が3枚ベットした場合は、乙は場に3枚出した後に、0チップから20チップの範囲内で賭金を場に出せる。
次に、甲はカードを交換する機会が与えられる。交換しなくてもよいし、五枚全部を交換してもよい。
甲のカード交換の後に乙がカード交換する。交換しなくてもよいし、五枚全部を交換してもよい。
再び、甲にベットする機会が与えられる。その際にまず以前の乙の賭けた金額を場に出して、その後1枚以上20枚以下の範囲でベットする。
再び、甲のベットの後に乙はコール(甲と同一金額を賭ける)かレイズ(賭け金をつりあげる)する。
甲が手札の公開を宣言したのちに甲および乙は互いに手札を公開し、役が強いほうが場にあるチップを得る。
同一の役の場合は、甲が勝ったこととする。
甲は任意の時点において、イカサマをすることができるが、乙が甲のイカサマを明らかにした場合には、手札の如何に関わらず乙が場のチップを取得する。なおイカサマを明らかにするのは、甲がイカサマをした時点から10分以内におこなわなければならない。
甲と乙は手札を公開する前なら、任意のときにフォルドできる。ただしフォルドした時点までに賭けたチップは戻ってこない。また合計で四回目以降のフォルドには違約金が発生し10チップを別途支払うことになる。
ワイルドカードは使わない。
手札の役については、別紙目録参照。
さとりは別紙目録とされている二枚目の紙を見た。ワンペアツーペアうんぬんと書かれてあるが特におかしなところはない。
「イカサマを明らかにするという点をもっと厳密にしておいたほうが良いですね」
「そうですね。どういったイカサマをしたかをさとり様がおっしゃるのです。例えば自分の手札が有利になるように、上から配布するのではなくて二枚目のカードを抜き取って自分に配るというセカンドディールなる技巧がありますけれど、そういったことを私がした場合には、そうしたとおっしゃってくだされば、それでけっこうですよ」
「私がでっちあげる可能性もあるでしょう。やったやってないの水掛け論になりそうですね」
「さとり様。この勝負の真の目的をお忘れですか。このゲームの裏側にあるチップは互いの大事な存在なのですよ。だから、さとり様は覚り妖怪として、自らが覚る以外の手段ではイカサマを明らかにしないと、私は信じております。互いにある程度の信頼関係がなければ、ゲームは成り立たないものなのですからね」
「信頼ですか。ここまで心にも思ってないことをすがすがしく言えるひとを初めて見ましたよ」
「悪魔ですから」
ねっとりした視線である。さとりのほうも同じく流し目のような粘性の強い視線を返す。
案外、波長が合うところがあるのかもしれない。
「しかし、ずいぶんとあなたのほうが有利なように設定していますね」
さとりはルール表を確認しながら発言する。くるくるに巻かれた紙を、両の手で引っ張って一項目ずつつぶさに見ている。小悪魔の心理を読んで既に知っているはずであるが、いちおう紙の裏側も読んでいる。何も書いていない。さすがは地底の管理者だけはあって、契約関係に疎漏は無い。小悪魔としても契約の遵守は絶対といった性格である。
「これぐらいでちょうど良いのではないですかね。なにしろあなたは私の手札を私の目を通じて見ることができるわけですからね。私が私をだますことができない限り、あるいはさとり様の運がものすごく悲惨でない限りは、さとり様のほうがずっと有利ですよ」
「まあいいでしょう。必勝することが良いとされる戦争とは違い、ゲームでは負ける可能性もおもしろさのひとつでしょうから。あなたの提案にのりましょう」
「器量が違いますね。では、早速始めますか……」
小悪魔とさとりは五枚ずつチップをテーブルの端に置いた。
それから小悪魔は所定のルールにしたがって、トランプをシャッフルし、五枚ずつ配った。
さとりと小悪魔は各々手札を確認する。
「なるほどあなたの役はツーペアですか」
さとりは一瞬で、小悪魔の心に斬りこんだ。まずさとりとしては、小悪魔が手札を見た瞬間に小悪魔の手はわかったはずである。
そして小悪魔がここでいくらベットするか否かは、さとりとの手札の強弱による。カード交換前であるから、まだ確定しているわけではないが――しかし、ツーペアの状態であれば、ここからフルハウスになる可能性もある。あるいは三枚カードを捨てて、スリーカードやフォーオブアカインドを狙ってみるか。
「思ったよりも――、このゲームおもしろいですね。私のカードがさとり様には筒抜けなわけですが、しかし、さとり様は私の賭け金を吊り上げたほうがよいわけです。つまりさとり様としては、自分のカードが弱いように見せたほうがよいということになりますね。逆に自分のカードが弱く私のカードが強いなら、私をゲームから降りさせたほうがよいわけです。この基本戦略にしたがって、今回のさとり様の行動を考えると、ふむ、どういうことなのか……」
小悪魔は沈思黙考する。
「たいしたことではないです。私が思考を読み取って、トランプの絵札を完全に当てることができるのかをあなたに知っておいてもらいたかっただけですよ。これはハンデというやつです」
「なるほど。じゃあもうひとつハンデをください。自由意思でかまわないのですが、今回、さとり様の役はなんですか」
「嘘をついても良いのですよね?」
「ええ、かまいませんよ。でも私ってけっこう嘘を見破るのは得意なほうですけれど」
「ブタです」
「役なし?」
「ええそうですよ」
「では、5チップベットします」
「コール」
小悪魔は手札を一枚交換する。来たのはペアになってるカードとは関係なく、ツーペアのままだ。
次にさとりが五枚のカードすべてを捨てた。小悪魔が五枚カードを配る。
さとりの表情にはまったくと言っていいほど揺らぎがない。冷然として、それでいて生暖かな地底の視線である。
「小悪魔さん。いくらベットしますか」
「さとり様の役をうかがいたいのですが」
「ブタのままでした。今回は負けそうですね」
「まあいいでしょう。では10チップほどベットします」
「では、私ももう一度コール」
「手札公開しますね」
「そんなに早く決めてしまって良いのですか」
「第一印象ってけっこうあたってることが多いと思うんですよね。さとり様は重要な地位についていらっしゃいますから、自分の言動を翻すことを本能的に避けようとなさるのではないかと思ったのですよ」
「私が重要な地位についているかはともかくとして、重役にある者はむしろ嘘をつくことが仕事であるという一面もあるのでは?」
「そうですね。でも、今回はオープンでかまいません。緒戦はさとり様の心理を分析するほうが重要ですから」
手札が公開された。
小悪魔はツーペア。さとりはブタ。
これにより、小悪魔は125チップ、さとりは75チップになった。
「なるほどこういう感じなのですね」
さとりはポーカーに限らず賭け事をしたことがない。なにしろ覚り妖怪として知れ渡っているから、誰も賭けにのってくれないのだ。しかし、ポーカーなら、心が読めようが読めまいが、駆け引きは存在するらしい。例えば、相手の手札が強いときに、なんとかゲームから降ろしたいとなるし、相手の手札が弱くてもそのまま金額を吊り上げたいから、心理的作戦が要求される。小悪魔としてもさとりのほうの嘘を見破る必要がある。自分が勝つのか負けるのか、さとりの表情、発言、仕草から読み取らなければならない。
さとりは少しだけ頭を傾けて、納得の表情になる。
「しかし、守勢で行けば、私のほうがおそらくずいぶんと有利でしょうね。例えば、あなたのカードがストレートなりフラッシュなりだった場合、最初からゲームを降りることを選択することで損害を少なくできます。逆に私の手札が確実に強いとき、つまり二度目の私のベットのときに最大の20チップベットすれば、私が勝つ可能性はかなり高まります」
「さすがに20ベットしたら、フォルドしますよ」
「ああ、そうなりますか。つまり私がベットするというのはハッタリの可能性があるというふうに勘違いされる場合もあるということですね」
「ええ。そうですよ。観察されているのは私もですが、さとり様も同じなのです。条件としては、ほとんど変わらないのですよ」
「うまい具合にできているものですね」
「けれど私のほうが有利だと思いますよ」
その理由はわざわざ口に出して言わない。さとりも今は沈黙を保つのみだった。
第2回目のゲーム。
小悪魔が配る。確認するとワンペアだった。なかなか好調な滑り出し。
「さとり様はいかがでしたか?」
「今回は、沈黙を貫いてみようかと思います」
「そうですか。では、今回も5チップベットします」
「では、私はレイズして20チップベット」
「これは大きく出ましたね」
手札について、さとりをだますのはほぼ不可能に近いので、小悪魔は当然のように三枚手札を捨てた。運が悪かったらしく、今回はワンペアのままだった。
「さて、何枚交換しますか?」
「では二枚いただきます」
さとりは二枚のカードを捨てた。小悪魔が二枚のカードを配る。さとりはのっそりとした動きでカードを受け取った。
その所作には、澱むところがないが、それでいて鈍器のような反応の鈍さだ。さとりのポーカーフェイスは生得的なものなのか、小悪魔にはわからないが、少なくとも弱くはない。
小悪魔はじっとさとりを観察している。
果たして、さとりの役はどうなのか。
そう思考していることも、さとりには筒抜けなのであるが。
「小悪魔さん。どうしますか?」
「難しいですね。さとり様は一度目のベットでいきなり20チップも吊り上げました。この時点では、さとり様の手札が相当強かったとも考えられますが……、私のほうは最初からワンペアだったわけです。ワンペアからツーペア、スリーカードになる可能性もないではない。同じ役であれば私のほうが勝つルールですから、それなりの勝算があったと考えるのが筋といったところでしょうか。しかし、どうせなら二回目のベットのときに手札が確定してからのほうが安心感がありますよね」
「考えても無駄ですよ。あなたのフォルドを誘っているのかもしれないじゃないですか」
「その可能性は常にありますね。さとり様が大きく勝ちたい場合、むしろベットの数は少なめのほうが私を引っ掛けることはできる。裏をかいて逆にチップの数を増やしたとも考えることができる。ふむむん」
「そういう門答をすることで、私を観察しようとしていますね」
「なぜなら、さとり様は心を読むことは慣れていても……」
「心を読まれることには慣れてない、ですか。確かにそうですね。ですが私と違い、あなたのは単なる観察です。いわば思いつき、勘違いの類に過ぎない」
「けれど、私が正しいと思えば正しいんですよ。私の中ではね。それにもうひとつ。さとり様は心を読むという能力がおありになるということから、心を誘導するという術をほとんど知らないのではないでしょうか。なにしろ心というものは豆腐のように柔らかいものです。大事に扱わなければ壊れてしまう。さとり様は心が見えるがゆえに、それを固いものだと勘違いしがちなのではないかと、そう考えているのですよ」
「あなたがそう考えているのはわかりますが、しかし心はその人の個人的な領域です」
「変えようという気がない、ですか?」
小悪魔は、わざとらしくさとりの口調を真似た。
心を読んでいるわけではないのは当然であるが、小悪魔の口調はまさにそういう行為そのものであった。むしろ、心をそうであると決めつけて、そうであれと誘導する呪いがこめられた言葉である。さすがにさとりは表情を硬くする。
対照的に小悪魔は朗らかに笑った。
「確かに心を読む程度の能力では、心を操れるかどうかわかりませんよね。その謙虚さはさとり様の美徳かと思います。だからこそ閻魔様も信頼を寄せられているのでしょう。けれど私は操ってみせるつもりです。ただの言葉でね」
「攻撃する意思が見えるなら避けるのも簡単です」
「操るとは攻撃ではありません。相手に考えさせることなんですよ。おわかりでしょう。さとり様」
「ええ。わかっていますよ……。私の中に嫌悪感が生じることも計算済みというわけですね。なんの意図があるかと思えば、ずいぶん遠回りな」さとりはそこで言葉を切った。「では小悪魔さん、続きを早くお願いします」
「さらに20チップレイズ」
「フォルドします。しかし、あなたの思考はずいぶんと突発的ですね。瞬間の計算力はすさまじいですが、あまり先を考えていない」
「考えてばかりで何もしないよりはマシでしょう?」
「そうですね……」
さとりは顔を伏せた。
こいしが第三の目を閉ざすまで、何もしてこなかったのはさとりだった。小悪魔はさとりが傷つくのを意図してはいないようだったが、しかし、少しはそうなる可能性も考えて放たれた言葉のようだ。その微妙な兼ね合いをなんと表せばいいかさとりにはわからない。慢性的な悪意というべきものだろうか。そこには、やはりパチュリーを泣かせたことに対するどうしようもない黒い気持ちがあったりするのだが、まあなんといおうが言葉なんぞでは心を表現することはできないと思っているのがさとりの心境である。
「さて――これで、第2回目のゲームは終了です」
さとりは、参加費の5枚と最初に小悪魔がベットした5枚分と、さとりがベットした20枚を失った。
これにより、小悪魔は合計155チップ、さとりは45チップとなった。
「そろそろ終わりそうですよ。さとり様」
「そうですね。しかし、私にも運が向いてくる頃でしょう」
小悪魔は手札を配る。今回はブタだった。当然、さとりには見えている。
さとりはニヤニヤと笑っている。
「どうしました。さとり様」
「いい手札がきましたので笑っているのです」
「本当に?」
「ええ。本当です」
「嘘くさいですねぇ。さとり様は生涯どれほどの嘘をついてきましたか?」
「十三回。私は嘘をそれほどつきません」
「それこそ嘘っぽいですが……、しかしさとり様のように心が見えると、自分が嘘をついているかどうかがダイレクトにわかってしまうものなのかもしれませんね。まあいいです。では、今回は20チップベットしてみます」
「おもしろいものですね。そうやって全存在を投棄するというのが悪魔的な信条なのですか」
「悪魔は自分の存在をさほど重視しませんのでね。すべてが等価的に無意味だという信条といいますか。それにさとり様が嘘をついているという状況も想像しましたら、なかなかにおもしろいと思いましたので、そうしたいと思ったのですよ」
「さらに20ベットです」
さとりはここで全額を出したことになる。
「そういえば、これで小悪魔さんが二回目にベットしても私はこれ以上賭けられないので無意味になるわけですが、二回目のベットはどうするんです?」
「私がベットしても無意味ですから、二回目はベットしないことにしますよ。さて、では手札を交換しますかね」
小悪魔は自分の手札を交換した。
どうせ見ても見なくてもさとりは全額賭けてしまった以上、さとりがフォルドすることはない。
ということは、小悪魔の手札が強ければ、小悪魔はそのままゲームを続行するのがよく、手札が無意味だと思うならフォルドするだけのことだ。
えいやッ! とばかりに、小悪魔が手札をめくる。手札を変えてもやはりブタのままだった。
「ふぅむ……これはこれは」
「残念でしたね。これで決定です」
「しかしさとり様がブタであれば、私の勝ちなわけです」
「一回目の状況で、私がブタであれば、せめて二枚か三枚ぐらいは交換してみせるでしょう。あまりにも勝利条件が狭すぎることになりますね」
「しかし、ここでさとり様がブタであるにも関わらず私をブラフでひっかけることができるなら、流れが変わります。私と心の強さを競っているわけですか」
「勝つときに勝とうとしているだけですよ」
確かにそう考えるのが最も自然である。
しかし、自然すぎることが不自然でもあり――
「考えるのが面倒くさくなってきましたねぇ。いいでしょう。では勝負しましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。かまいませんよ。弱気になればさとり様の能力に飲み込まれそうですからね。たとえ今回負けてもそれは勇退というものです」
「負けは負けですよ」
「いいじゃないですか。それで気持ちよければ」
「理解できませんね」
「オープンです」
さとりはスリーカードだった。
これにより、さとりは45枚獲得し90枚となり息を吹き返した。
他方で小悪魔は逆に45枚失い110枚になり押し戻された形になる。
「さとり様の嘘をついている現場を是非見たかったんですがね」
軽い口調で小悪魔が笑いをこぼす。
小悪魔はたいしてショックを受けていない。自分で言ったとおり、このゲームは心理戦であるから一戦における負けは次の勝利へと繋がっている。そう信じている部分がある。
「なによりこのゲームをおもしろくしたい――ですか。賭けているのに楽しむのはずいぶんと難しいことだと思うのですが」
さとりは物憂げに言った。
小悪魔の思考は見ているだけで疲れるのか、少し溜息もついた。
「そんなに面倒くさそうにしないでくださいよ。ゲームなんて究極的には楽しむためにあるんですよ。生きるも死ぬもゲームなんです」
「その価値観は受け入れにくいものですね……」
「弾幕ごっこだって、ゲームじゃないですか」
「ええ、だからあのときはすぐに負けてあげたんです」
「このゲームではどうなんですか?」
「言葉の輪郭が揺らいでますね。あなたは何をもって負けると言っているのですか? どちらでも良いというような曖昧な真意のまま言葉を口に出しているでしょう」
「そうですね。ある程度は言葉の流れに身を任せることもありますよ。文脈は結構重要です」
第4、第5、第6ゲームは小悪魔がジリジリとチップを増やしていき、結果として小悪魔115枚、さとり85枚となっていた。
「ふむ。やはり同一の役で小悪魔さんが勝つというルールはかなり不利なようですね」
「そりゃそうですよ。さとり様は役として私より弱い場合、基本フォルドしていく方向にしかないわけです。勝てる場合にはそのままゲームを続行しなければならないわけですが、続行するときには私がオープンの判断をするわけですから、ブラフでもない限り私は基本的にはフォルドをしていくほうがよろしい。それにどうやら、さとり様はどうもあまり人を騙すのがうまくないみたいです。もしかすると閻魔様となにやら契約をしていらっしゃるのですか。嘘をついてはいけないといったような類の」
「そういうわけではないですよ。例えばそうですね」さとりはわずかに周りを見渡す。「小悪魔さん。あなたの髪は白いですね」
「なるほど嘘をつけるということを実証しましたか」
「嘘をつくことぐらいたいしたことではありません。しかし、わざわざそんなこと……確認するほどのことでもないでしょう」
「小悪魔は小心者なのですよ」
「あなたの小心は、私にとっては大胆の意味に相当するようです」
「では続きをやりましょうか。そろそろ時間も少なくなってきたようですし」
「ええ、おゆはんの時間ですね」
小悪魔とさとりはアンティをテーブルの端に置いた。
そこで――、
「さとり様」
「ああ、そうですか」
さとりはチラっと小悪魔のほうへ視線を這わせた。小悪魔が何を思っているのかはすぐに察したのである。
小悪魔はあっさりと宣言した。
「フォルドします」
「本当に茶番ですね。この後、第8、第9も同じようにフォルドするつもりですか」
「逃げ切りでもよかったんですけどね。この際ですから、さとり様といま一度遊んでみたくなったんですよ」
「あなたには私の心は読めないでしょうに。あなたがチップを稼いできたのはあくまでルールの有利さによるんですよ。仮に同一役のときにカードの強さで競うルールである場合、私のほうがもっと有利だったでしょう」
「変わりませんよ。その場合も私がさとり様の心を読んで、身の振り方を決めるわけですからね」
「さとり妖怪に、心を覚ることで勝てると思っているのなら、それは思いあがりというものです」
さとりの視線に、怒りの感情は灯っていない。
ただ昏い地の底を臭わせるような、静かな気迫が感じられる。ひんやりと冷たい視線。
小悪魔はさとりが言ったように、第8、第9ゲームもすぐにフォルドした。これにより、小悪魔とさとりのチップの数は100と100のイーブンになった。
「さて、同数のチップになってしまいましたので、最後のゲームはいくら賭けようが無意味です。特別ルールとしてオールベットということにしてみませんか?」
「いいでしょう。装飾で何かが変わるわけでもありませんしね」
小悪魔とさとりはすべてのチップを場の中央に置いた。
たいしたことはない。そもそものルールでは10回目の勝負が終わった時点でチップの枚数が多いほうが勝ちなのである。全額賭けようが1枚賭けようがほとんど無意味だ。
したがって、このことはまったく異なる次元のことを指し示していると言ってもよかった。
「小悪魔さんのイカサマがついに見れるようですね」
「ふふ。まあそういうことです」
「どのような虚偽、偽装、虚飾が見れるか。その点だけが楽しみですね。見破るのはたいしたことではありません。できばえの素晴らしさだけが興味を惹きます」
「いいえ。さとり様は絶対に私の嘘を見破れませんよ」
「その自信だけはたいしたものです」
「では、カードを配ります」
小悪魔さとり小悪魔さとり小悪魔さとり小悪魔さとり小悪魔さとり。
配って、配って、配って、配って、配った。
配って、配って、配って、配って、配った。
さとりは小悪魔の手元を見ていない。サードアイが睨みつけているのは、小悪魔の心のなかである。
やがて――、
配り終えて、
さとりは自分のカードを見てみる。
「もう交換も不要です。ストレートですよ」
フォルドがありえないので、さとりは素直に口に出す。そして手札を表にした。
「しかし驚きましたよ。私の手札をブタにするというのなら――多少はわかりますがね。無意識的にカードを選別できる可能性もあるわけです。けれど、このストレートは少しギラギラとしすぎていますね。ダイヤとか宝石をごてごてと飾りつけた少女のように不恰好です」
「そのほうがおもしろいと思いまして、そうしただけのことですよ」
小悪魔は少女らしく微笑んだ。田舎娘のように無垢そのものな笑みである。さとりはもはや溜息もつかずに、ことのなりゆきを見守った。小悪魔が手札を一枚ずつ返していく。
やがて明らかになる役。
「ロイヤルストレートフラッシュ」
最高役。その確率は約60万分の1。当然ながら偶然そうなることも数字上はありえると言えるが、この場合は、はっきりと小悪魔の意思が見て取れた。
「さて、さとり様。10分以内に私のイカサマを見破ってください」
「ああ、そういうルールでしたね……」
それから3分後。
さとりは諦めたように頭をふり、静かに負けを宣言した。
「小悪魔よくやったわ」
パチュリーは興奮したように、椅子ごとぴょんぴょん跳ねていた。
非常にシュールな光景だったが、よほど嬉しかったのだろう。
さとりはパチュリーの水晶玉の前で、きっちりワインに溶かした忘れ薬を飲み干し、その場でフラフラと横になった。
ワインだったのがよくなかったのか、少し酔い疲れたさとりは、おゆはんも食べずにこいしに連れられて地霊殿に帰っていったというわけである。
これでひとまずパチュリーの秘密は護られたことになる。
パチュリーと小悪魔はいま少しばかり遅くなってしまったディナー中。
パチュリーの御許しが出たので小悪魔もご相伴。
「はい、パチュリー様。乾杯です」
「ええ」
ティン♪
と音を響かせてワイングラスを重ねる小悪魔。
「しかし――、最後のイカサマはどうやったのよ?」
「まあたいしたことはないのですがね……、ルール表にもありますとおり、イカサマは明らかにされなければならないわけです」
「そうね。確かにそう書いてあるわ」
「私はある種の魔法演算を用いて、あのトランプを10回目の勝負のときに規定のとおり並べるようにしたのです」
「魔法? そんなの魔法でしたといえばいいだけのこと……」
「いえ、確かにそうなのですがね。言ってみればピタゴラスイッチ方式なんですよ。わかりますか?」
「ん?」
「その魔法はある種のブラックボックス化された専門用語をともかくやたらめったらと使い、しかも、無意味なほどに膨大な数の魔法式により構成されていると言えば理解できますでしょうか」
「まだいまいちよくわからないわね」
「例えばこんな感じです。火の魔法を使えば周りの酸素が減る。空間要素魔法を使えば酸素が減ったことを感知できる。それがスイッチとなって次の魔法が発動する。というふうに連続性を持たせるわけです。そういった因果の流れを長くすることで――説明に時間を割かせるというわけなんですよね。さとり様って結構説明下手なところがあるようですし」
「しかしそれでよく納得できたわね。あなたが言うとおり緻密に説明すると時間がかかるとしても、魔法によってそうなるように仕組んだというのならそう言えばいいだけのことじゃない」
「ん。まあ自分でも長くなりすぎてしまって、どうやってそうなったか忘れてしまったわけなんですよね。だから確かに魔法なのかもしれませんけれど、具体的な説明ができないのです」
「ふうん。なんだか妙な感じもするけれど、まあいいわ。あいつが納得して忘れ薬を飲んだというのなら、それ以外はさほど重要なことじゃない。ゲームなんて所詮はゲーム。目的が達成されれば誰にも忘れ去られるだけのこと」
「そのとおりですね」
小悪魔はスクっと立ち上がる。足元がフラフラしていた。あまりお酒には強くないらしい。
「さすがに今日は疲れてしまいましたよ。パチュリー様、先におやすみをいただいてもよろしいですか」
「お耳はみはみはいいの?」
「それはまた別の機会にでも……」
「ええそうね。好きなときに申請しなさい。あなたにはその権利があるのだからね」
パチュリーはいつものように無表情のまま小悪魔に下がるように命じた。
小悪魔はその様子に、少しだけ優しい笑みを浮かべて自室に帰っていった。
さて、すべてが終わった。
パチュリーはひとりワイングラスを傾けて、椅子に体重を預けて本を読んでいる。懸念していた『秘密』は護られ、もはや憂慮すべき事柄は何ひとつない。
そして最後のひとり。
小悪魔については、先ほどワイングラスの中に忘れ薬を混ぜた。今ごろは自室で緩やかに記憶への接近方法を喪失していることだろう。
ただ、小悪魔の労にはねぎらってやろう。
お耳はみはみぐらいはしてやろう。
それぐらいのことはしてやるつもりだ。小悪魔は何が何だかわからないだろうが、因果関係なんてどうでもいい。
それにしても身体が少し熱い。
本を読む手をとめて、そのまま目を閉じる。
ワインを飲みすぎたのがよくなかったのか。
それとも――、
一瞬、思考を飛ばし、それから小悪魔の顔を思い浮かべた。
もしかすると……。
そうか。
……。
しかし、そのままパチュリーはすやすやと寝息を立てて眠りに落ちた。
地底では、ステンドグラスの光を反射して、キラキラとした輝く光がさとりの顔に落ちている。
さとりは、巨大なホールのような部屋の中央にある、これまた小柄な身体とは不釣合いな椅子に座っていた。
今ごろ、小悪魔の薬を飲んで、パチュリーは記憶を失った頃だろうか。
さとりは思考する。
おそらくはそうなっただろう。
あの小悪魔の思考はごく単純で、それでいて恐ろしいものだった。
小悪魔がパチュリーからもらったタブレットは二つ。
それをどのように使うかが今回の鍵である。
秘密を覚えているのは、小悪魔。さとり。そして忘れてはならないのはパチュリー本人だ。
パチュリーの『秘密』は、つまるところ本人の思考によって、そう位置づけられているものである。よって、パチュリー本人の『秘密』に対する記憶がなくなれば、その『秘密』はもはや『秘密』ではない。あるいは、小悪魔は先のパチュリーとの会話では、『秘密』の存在を記憶している者はすべて排除するということだった。だから当然本人であるパチュリーもその対象に含まれていたのだ。
「あのポーカーも、所詮は見た目が派手なだけのトリックに過ぎないのですからね……」
長大な魔法式を連結させるためには、やはり膨大な時間がかかる。
あれだけ時間がない状況下では、そこまでする時間はなかった。
つまり、小悪魔がやったことは簡単である。ただカードの裏側の微細な特徴からカードの内容を掴み、ごく単純なシャッフルの技術で自分の手札を手繰り寄せた。もちろん幻術系の魔法による補助もあったようだが、場合によっては人里の人間でも可能なトリックである。
そんな簡単なトリックを見せておいて、内心で、騙されて欲しいとさとりに頼んだのである。
「それにしても、風邪薬とワインはいっしょに飲むものじゃありませんね」
あのゲームは単なる茶番に過ぎず、パチュリーの記憶を奪うための前座に過ぎない。
さとりとしても、パチュリーに無意識的なレベルで非難されるよりは忘れてもらったほうが気が楽だったので、小悪魔の手に乗ったのである。
「けれど――、結局、最後にはこうなるわけですね」
背後には、こいしが立っていた。
「なんとも迂遠です。そうであるならば、最初から私に忘れ薬を飲ませればよいものを……。まあ小悪魔さんの計算では、小悪魔さん自身の説得では忘れ薬を飲んでくれるかわからない。だからそうするよりはもっと確実な方法をとるということなのでしょうけれど。結局、残りのひとつは私に使われるのですね」
「お姉ちゃん」
こいしは天使のような笑顔を浮かべて、椅子の背後からさとりの肩に手を置いた。
「言われなくてもわかっていますよ。小悪魔さんに頼まれごとでもされたのでしょう」
「あれー。どうしてわかるの。私の心は読めないはずなのに」
「文脈ですよ」
「じゃあ、話は早いよね。ほらこれ飲んで?」
こいしが差し出してきたのは小悪魔の心象のなかにあったタブレットと同一の形をしていた。
成分まではわからないが、十中八九忘れ薬に違いなかった。
やはり記憶を消去しておくにこしたことはない、というのが小悪魔の思考なのだろう。
「こいしは私にこれを飲めと言うのですね。これは私の想像を一部封じ、私の心を一部殺す薬なんですよ」
「単なる忘れ薬なんでしょ?」
「まあそうですけれども……」
「じゃあ飲んで♪」
「無邪気な子ですね、あなたは。なぜ私にそれを飲ませたいのですか」
「だって……」こいしはぞっとするような笑いを浮かべた。「お姉ちゃんの心のなかに私以外の誰かの秘密があるなんて嫌なの」
こいしはさとりとほとんど身体を密着させている。
それで、こいしの閉じられたサードアイがさとりのそれとくっつきそうになった。
「お姉ちゃん。覚えてる?」
「なにをですか」
「私ね。ずっと小さい頃ね。お姉ちゃんの第三の目が欲しかったんだよ?」
「取り外しは不可能ですが……」
「私にとっては、対象aの代替物――つまりは、部分対象だったわけ」
「あなたの言葉は少しばかりわかりにくいですね。つまり、母親に与えられたぬいぐるみを抱っこする幼児の気分だったと言いたいのですか?」
「そーだね。だいたいそんな感じだよ」
「私のサードアイはぬいぐるみみたいなものですか」
「そーだよ」
こいしは、少し屈みこんで、さとりのサードアイにそっと口づけた。さとりにはこいしの心象はただの真っ暗な大海にしか見えない。だから、そのキスは不意に暗闇で手をつかまれたような感覚に似ていた。さとりはこいしに本能的な恐怖を感じる。しかし、その恐怖を理性で取り繕う。それが正常人の義務なのだから。
「私がその薬を飲むのはよいとしても。あなた自身はどうなるのです? 小悪魔さんはあなたに『秘密』の存在がバレたことも許しておかないでしょう?」
「たいしたことじゃないよ。そんなこと」
こいしは相変わらず余裕の笑みだ。
何を考えているかわからない。
正しく――そのとおり。
何を考えているか、さとりにはまったく読めない。
「だって――、私は常時、自分の心を殺しているようなものなんだもの。そんなちっぽけな秘密に関する記憶なんて、すぐに無意識の大海に沈めてやるわ」
「小悪魔さんの価値観では、あなたはどうやら人間としてカウントされていないということになりませんか。この場合の人間という概念は妖怪も含む心を持つ存在のことを言うそうですが」
「そりゃそうだよ。狂人は人間扱いされない。法律にだってちゃんと書いているじゃない。刑法39条にきちんと書いてあるんだよ。狂人がヒトコロしても罰せられませんって。あははは、あははははは。だからお姉ちゃん。私はお姉ちゃんを殺してもいいし、私自身も殺していいんだよ」
結局、さとりは選択することになる。
忘れ薬を飲むことは、こいしの傷ついた心を慰謝するために必要な行為である。他者のどうでもよい『秘密』と、愛する妹の懇願。
どちらを選択すべきか考えるまでもなかった。
ただそうなると、結局あのゲームで得をしたことになるのは一体誰なのだろうか。
パチュリーだろうか。
しかし、パチュリーの秘密は結局パチュリーだけのものであり、始めからさとりは暴露するつもりはなかった。ただ自分の『秘密』に振り回されただけとも言える。心の負担が無くなったというのなら、よかったですねという心境である。こいしもどうやらさとりを部分対象として手に入れたような気分――言ってみれば恋人と抱き合うような幸福感に包まれているらしく、さとりの意識が朦朧としてきているのを、金魚鉢を眺めるような視線で楽しんでいる。小悪魔はパチュリーの秘密を護ったことに対する自己満足があるだろう。なんともヒロイックなことだが、小悪魔はパチュリーから恩寵を得られない。けれどもそれでもなおパチュリーを守護することに重心を置いたらしい。悪魔らしからぬ心持ち。
では自分はどうか。
さとりは自問自答する。
朦朧とする意識のなかで、少しだけ考えたのは――
明日の朝、こいしより早く目覚めたら、彼女の閉じられたサードアイに優しく口づけてあげよう。
そんな思考パターンを、自分の中に思い描けたことなのかもしれなかった。
小悪魔が計画的すぎるwww
こあパチェもちゅっちゅ。
二回目の勝負で155枚から45枚失い105枚になってます。
ところで全然関係ないけど「パチュリー様との楽しい漫談ライフ」で漫談ライフのこんにゃくばったっけ♪って頭に鳴り響いた。
あれ…俺がいる
騙す相手に関して完璧に騙された。
地霊殿組は本当に好きです
小さな小さな賢将や月の頭脳にひけをとらなさそうです
今回は思考の駆け引きの面白さを堪能させていただいた。
ゲームのトリックを暴こうとする行為自体が既に誤りとは完全にだまされたぜ。
いや、しかし丁寧な文章です。
ポーカーを知らない俺でも楽しめました。
>右ストレートでぶっ飛ばす
幽遊白書ですかwww
あとこれは重箱の隅をつつくような指摘なのですが、自閉症というのはあくまで先天性の脳機能障害であり、
心が傷ついたり心を閉ざしているということを指すものではありません。
とくに深い意味があるわけではないのでしょうが、少し気になってしまいましたので指摘させていただきました。
一体、どうやって飲ませるのだろうと考えていたが、
結局、さとりに飲ませることも達成するとは、、、
初めて、小悪魔が悪魔らしいと思ってしまった。
小悪魔の計算高さは、マジパネェッす。
非常に読みやすく、また巧妙に組まれていて読んでいて、
引き込まれてしまいました。面白いお話をありがとう。
最後にこいしを使う小悪魔の頭脳戦に打ち抜かれました。
あと、ポーカー知らなくても駆け引きが楽しめる展開は良かったです。
なんだか星新一を思い出した
何故かカ○ジの「ざわ…ざわ…」が聞こえてきてしまった。
後、さり気なくレミリアのカリスマが崩壊しとるwww