Coolier - 新生・東方創想話

Yours (前編)

2009/12/18 01:32:28
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 広大な庭園に響き渡る音。
 重く、そしてどこか高い響きは、硬い木と木とがぶつかり合う音だ。剣の修練を積んだ者ならば、それが木刀を打ち合わせている音だとすぐに気がつく。
 桜の季節はとうに過ぎ去り、幻想郷でも随一と名高い桜の名所であるこの庭園も、鮮やかな緑に包まれていた。
 時刻は既に丑の辰刻に差し掛かっているが、不思議と庭内は明るい。手入れの行き届いた広大な庭園の至るところには灯籠の明かりが灯されているが、夜空に浮かぶ月の照らす光と、鮮やかな木々の緑が不思議な調和によってもたらされる青白い光で満たされているのだ。
 だが、まったく人気の無い庭園はどこか寂しげなたたずまいを思わせる。生命の息吹を感じさせる色濃い新緑が、本来は生ある者と無縁のこの場所にそぐわないという気にさせてしまう。だとすると、この燐光のような光は月が照らしているだけではないのかもしれない。
 そして、ここ白玉楼の庭園に木刀を交える音が響いているのだから、この庭園を預かる庭師にして剣士──魂魄妖夢が誰かと戦っているというのは、確認するまでもない事だろう。
 だが、妖夢と相対しているのは、意外としか言えない人物だった。
 均整の取れた体躯ながら、まだ幼さの残る顔立ち。ウェーブのかかった桜色の髪が美しい。妖夢の主にして、白玉楼を統べる亡霊の姫・西行寺幽々子その人だったのである。
 そして、さらに意外なのはその格好だ。普段は死装束には程遠い、華やかな服でいることが多い幽々子だったが、今日の彼女は白筒袖に紺袴という、まるで戦装束のような出で立ちだった。
 頭に付けている、トレードマークとも言うべき天冠を模した帽子はそのままだったが、その姿で刀を構える幽々子は、妖夢に負けず劣らず凛々しさを感じさせる。そこまで発育が良いというわけではないのに、わざわざ胸当てをつけているのは、妖夢への当て付けのような気がしないでもないが。

「ふう……」
 手にしていた木刀を降ろして息を整えると、妖夢はにっこりと笑う。額には少し汗が浮かんでいたが、相手は幽々子なのだから本気を出したわけではないし、そこまで激しく動き回ったわけでもない。どちらかというと興奮していたせいだろう。
 今日は妖夢にとって予想外の事ばかりが起きている。まず、幽々子から剣の相手をしろと命じられたのだが、これは予想外どころか想像を絶する大事件だ。
 だが、妖夢も庭師の仕事に慣れてしまってすっかり忘れていたのだが、彼女はもともと幽々子の剣術指南役として仕えているのである。それだけでも凄い出来事なのに、幽々子は部屋の飾りに成り下がっていた愛刀を持ち出して来たばかりか、わざわざ着替えて妖夢の前に現れたのだ。
 もっとも、稽古に真剣を使うわけにもいかず、妖夢が手にしているのも幽々子の字で『楼観剣』と書かれた木刀である。
 久方ぶりに剣術指南役という本来の職務に復帰できた上、幽々子が真面目に剣の練習をする気になったというだけでも信じられない事だ。だが、さらにとどめとばかりに信じられなかったのは、暫く打ち合った幽々子が予想以上に腕を上げていたことだった。
 妖夢は感涙にむせぶ程、嬉しくて仕方がない。剣を交えている時ですら、思わず笑みがこぼれる程に。ここ最近では味わったことがないくらい充実した日だ。
「驚きましたよ、幽々子様。──随分と、腕を上げられたのですね」
 屈託の無い笑顔でそう言った妖夢だったが、幽々子の表情は冴えない。というより、むしろ冷笑しているようにすら受け取れる。
「……私が、剣の腕を上げた──ですって?」
 冷ややかな視線に、妖夢は少し驚いたような表情を覗かせる。
 いつもの幽々子ではない──。
「いったい、いつ私が剣の練習なんかしているというの。もし、私が強くなったと感じたなら──」
 そこで言葉を区切り、幽々子は改めて妖夢を見据える。
 背筋に走る悪寒。思わず後退りしてしまいそうな、異様な気配。生ある者を死へと誘う魔性の光を宿した瞳に、妖夢の半身が竦み上がる。
 そして、幽々子はゆっくりと口を開いて、こう告げた。

「──妖夢、あなたが弱くなったんじゃないの?」





 夜。

 妖夢は自室でまんじりともせずに、正座して何事かを思案していた。もちろん、昼間に幽々子の剣の相手をしたことと、彼女から浴びせられた言葉についてである。
 夕食の時には、もう幽々子はいつもと変わらない様子に戻っており、
「たくさん運動したからお腹が空いたわ~」
 と言ったきり、昼間の出来事については何も話さなかった。そのせいもあって、幽々子の真意がどこにあるのか分からない。

 畳の上には、二振りの剣が置かれていた。
「──私は、弱くなったのだろうか……」
 誰ともなく漏れ出でる呟き。
 障子戸が月の光を受けて白く輝き、微かに梟の鳴き声が聞こえてくる。だが、妖夢の問いに答えを与えてくれる者はいない。
 また、迷っているのか。
 妖夢は瞼を閉じると、春先の戦いを思い起こした。桜の花びらが雪のように舞う白玉楼階段で、咲夜と戦った日のことである。
 敗北だった。
 咲夜は驚くべき手練れではあったが、妖夢とて幼い頃から慣れ親しんだ二刀を手に飽くなき修練を積んでおり、技量の面では引けは取らないはずだった。戦場はよく見知った庭の一部も同然の階段であり、妖夢のほうは上段にいるという地の利に加え、長身の咲夜との体躯の差は得物で相殺されている。それにも関わらず敗れた。
 それは妖夢自身が「西行妖を咲かせるために春を集める」という幽々子の命令に疑問を抱いていたからだと、彼女は思っている。己の迷いが剣に表れ、精神的な面で咲夜に及ばなかったことが敗因だと。
 そして今、弱くなったのかと自問することそのものが、即ち迷っていることの表れではなかろうか。
 おもむろに白楼剣を手に取り、無言で抜き払う妖夢。
 この小太刀は、人の迷いを断ち切ることができると言われている。
 それが何を意味しているものなのか、妖夢の剣の師である魂魄家の先代・魂魄妖忌は何も教えてはくれなかった。また、彼女自身もはっきりとは理解してはいない。それでも、この冴え渡る刃を見つめていると、いつも不思議と心の霧が晴れていくような気がするのだ。
 だが、その瞳に驚きの感情が浮かび、次いで彼女は眉をひそめる。最早、身体の一部と言っても差し支えのない程、幼い頃より慣れ親しんだ愛剣だ。故に、妖夢はその刃のほんの僅かな異変に気が付いた。

 妖夢以外の者では気付くことなどできないだろうが、月明かりを映す白楼剣の輝きには、本当に僅かながら翳りが生じていたのである。


 妖夢が白楼剣を見つめていたのは、ほんの僅かの時間に過ぎなかった。
 障子戸の外、庭に誰かの気配を察し、急に顔を上げる妖夢。幽々子の居室がある奥院に近い場所だけに、楼を闊歩している幽霊たちも流石にここまでは入ってはこないはず。だが、彼女は”誰だ”とは問わなかった。人間の身には異様な気配、幽霊の身には慣れ親しんだ気配──妖気の類である。
 それも、並大抵の妖気ではない。それ程の強大な妖気を持つ者であれば、それを容易に隠すこともできようが、その様子がないところを見ると見知った者に間違いない。
 障子戸を開けると、月明かりに照らされ、静寂に包まれた庭園の真ん中に人影がたたずんでいた。何の気配も物音も立てず、不意に忽然とそこに現れたように。そして、その表現はおそらく間違ってはいないだろう。
 それを見るなり、妖夢は急に泣き出しそうな表情を垣間見せる。
 心を覆う暗雲に、どこかに逃げ出したい気持ち。自分を見失いそうで、誰かに慰めて貰いたい、そんな衝動が堰を切ったように溢れ出す。
 偶然では到底片付かない。それが運命という言葉でも、表現し切れるようにも思えない。何か想像もつかないような大きな力が働いて、この時、この場所での邂逅が果たされたのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった──今、彼女が最も会わなければならない、最も会いたいと思った人物が、まさにそこに立っていたのだから。
 長く見事な金色の髪に、夜の薄闇のような紫の豪奢なドレス。
 その妖気が生み出す幻影のようにも思える、妖艶な美貌。
「──紫様……」
 妖夢が半ば呆然とその名を呼ぶと、
「──今晩は、良い夜ね……妖夢」
 と、八雲紫は薄く笑いを浮かべてそれに応えた。


「……驚きました、紫様にお会いするために出向こうかと思った矢先のことです。天に、私の願いが通じたのかと。……それとも、紫様は私の心が読めるのでしょうか」
 縁側に腰を下ろした紫の傍に正座した妖夢は、無理に笑顔を作りながら素直な心情を語った。
「大袈裟ね、たまたま夜の散歩の途中で立ち寄ったまでよ。──それより、私に用向きとは、晩酌にでも付き合わせるつもりだったのかしら?」
 そう言ってころころと笑った紫だったが、神妙な面持ちで黙ったままの妖夢に気が付くと、それ以上の冗談は口にしなかった。
 妖夢に向き直ると、紫も少し真面目な表情になる。
 二人とも無言のまま、幾許かの時間が過ぎてゆく。話したいことはいろいろとあったはずなのに、心の準備ができていないのか、なぜか妖夢は話を切り出すことができなかった。
「……妖忌は──元気かしら。ここを出て行って、もう幾つ季節が巡ったか分からないわ」
 不意に、月を見上げてそう呟く紫に、妖夢ははっとして顔を上げる。ゆっくりと、もう一度妖夢の顔を見て微笑む紫。
 妖夢は僅かに視線を逸らした。やはり、紫は相手の心まで読むことができるのでは、と考える。白楼剣の刃の翳りを目にした時、紫に会いたいと思った。それは本当だ。だが──紫は、本当は妖夢の師匠である妖忌に会いたいのではないか、と問い掛けているように思える。
「あなたは、妖忌にそっくりよ。生真面目で、頑固で……そして素直で、一途な人だった」
 もう一度、月を見上げてそう呟く紫は、遠い日を思い出すように目を細めた。
「それに、強かった。本当に、強い人だったわ。──今、どうしているのかしらね」
 妖夢は下を向いてうな垂れる。
 そう、妖忌は恐ろしく強かった。妖忌に直接の教えを受けた最後の弟子でもある妖夢は、国士無双とまで謳われたほどの妖忌の人智を超越した強さを知っている。咲夜がいかに手練れだったとしても、妖忌の天衣無縫の剣捌きの前には及ぶべくもないと、間違いなく断言することができる。
 そして、紫は妖夢と比較してそう言っているように、妖夢には思えてならなかった。敬愛する唯一の師である妖忌は、後事を妖夢に託すと何処かへと旅立ち、以来一度も戻っていない。
 妖夢は、妖忌に今一度教えを請いたいと思う反面、恨めしく思ったことも多々ある。比較の対象にするほうが無理と言わざるを得ないほど、彼女は剣の腕においても、人間としても未熟なのだ。

 それに──託されたものが、あまりにも大きすぎた。

「……私は、お師匠様のように強くありません。それに──まだ己に迷っています」
 ようやっと、そう口を開いた妖夢。そっくりだと評されたことが苦痛に感じる。
 急に妖忌の話を切り出した事といい、この妖怪の前ではどう取り繕っても無駄なのだろう。ここで出会ったことが運命の悪戯などではなく、もし必然だとしたら、自分の求める答えを紫はもう持っているのかもしれないと、妖夢は単刀直入に尋ねる事に決めた。
「紫様、教えて下さい。この二つの剣は、妖怪の刀工が鍛えたと聞きました。紫様なら、どこで誰が作ったのかご存知なのではありませんか」
 身を乗り出して、食って掛かるように問い掛ける妖夢。
「……それを聞いてどうするの。もう一度、その剣を鍛えてもらうつもりなのかしら?」
 その言葉に、妖夢は怯えたように肩を竦める。
「い、いえ!わ、私は……刀工とは、剣を鍛える時に己の魂をその内に封じると聞き、もしこの剣を作った方に会えば、何か得る物があるのではと……」
 狼狽する妖夢を見て、紫はほんの少しの間だけ目を閉じる。それを開いた時、そこに浮かんでいたのは憐憫の情をたたえた笑みと、それとは裏腹に嘲笑するような眼差しだった。
 妖夢は思わず顔を背けてしまう。そしてうつむくと、スカートの裾を掴んで肩を震わせる。その膝の上に涙が零れ落ちた。
「──わ……私は……っ!」
 嗚咽を漏らしながら、そこで言葉を失う妖夢。それ以上言っても、紫の前では嘘にしかならない。
 心の底を覗かれたような衝撃と、己の未熟から逃避していることを責められているようで、妖夢は叱られた子供のようにただ泣きじゃくった。

 不意に、紫の手が妖夢の肩に置かれる。涙に濡れた顔を上げると、穏やかな表情の紫が妖夢を見下ろしていた。
「……私が出会った時、妖忌はその剣をもう持っていたの。だから、私はその剣を誰が鍛えたのかまでは知らないわ」
 その言葉が妖夢の心中を察しての優しい嘘なのか、それとも真実なのかを知る術はない。それだけ言って立ち上がると、庭園へと降りる紫。そして、妖夢に背を向けたまま、独白するように続けた。
「妖忌は強かったわ。……そして誰よりも、幽々子を大切にしていた。──だから強かった」
 まるで恋人を想うような口調だった。錯覚なのかもしれないが、少なくとも妖夢にはそう聞こえた。
 そのまま庭園の真ん中まで歩いて行き、紫が軽く手を上げると、空中に真っ黒い亀裂のようなものが生じる。その淵に手を掛けると、彼女はもう一度振り向く。
「……何を迷うの。妖夢、あなたの道は、妖忌が指し示してくれたはずよ」
 空中に生じた亀裂が音もなく消える。それと同時に、紫の姿も来た時と同様に忽然と消え去り、もうどこにもなかった。
 誰もいなくなった場所で、泣き腫らした顔の妖夢はただじっと月を見上げ、そこにたたずんでいた。
 もう朔に近い有明月。その白く細い姿は暗い夜空に溶けていきそうで、どこか寂しそうに輝いている。

 紫の最後の言葉だけが、妖夢の耳にいつまでも残っていた。





 白玉楼へと続く長い階段の両脇に立ち並ぶ桜の木々を風が揺らし、葉桜の茂る枝の隙間から太陽の光が射し込む。
 その下に座り込んでいた妖夢は、朝から数えて何十回目かの溜息をついた。
 昨晩、泣いた上に、夜明け近くになってからようやく少し微睡んだだけとあって、目が赤い。それを幽々子に見られたくなかったので、朝早くから妖夢は白玉楼を出てこんな所で考え事の続きをしていたのである。
「幽々子様、怒ってるかな……」
 幽々子が自分で朝食の準備をするとは到底思えない。やはり何か作ってくれば良かったかな、と考えるのがいかにも妖夢らしいと言えば妖夢らしい。だが、今日はどうにも幽々子と話す気分にはなれず、妖夢はまた溜息をついた。
 後で叱られれば済む事だ、夕食をその分だけ豪華にすれば元通りになる。幽々子のことだから、調理無しで食べられる物を適当に見繕っているだろう。
 そう考えながらもう一度溜息をついたその時、妖夢は階段を登ってくる人影があることに気が付いた。
「あれは……」
 白玉楼階段を登って来る者は、そうそう多くはいない。そして、その大半はもう肉体を失っている者だ。だが、登って来る人影の足取りはしっかりしており、とても幽霊には見えない。いや、それどころか以前に会ったことがある。
 春先の記憶が蘇る。
 奇しくも、丁度この場所で──満開の桜の花の下で出会った人物だ。
 銀色の髪を白いヘッドドレスで飾り、その一部を編んで緑のリボンで結んでいる。そして、藍と白のエプロンドレス──メイド服。そんな格好で境界を越え、ここを訪れる者は幻想郷広しと言えど一人しかいない。
「……咲夜さん──」
「お久しぶりね、妖夢。お花見の時にお邪魔して以来かしら」
 そう笑いかける来訪者──咲夜は、まるで無邪気な子供のように妖夢の目に映った。見たところ一人で来たようで、彼女の主であるレミリアの姿は見当たらない。
「今日はどうしたんです、幽々子様に用事でも?」
 少なくとも、妖夢にはわざわざ冥界にまで咲夜が一人で出向いてくる理由が思い付かない。となると、彼女の主人に用事ということだろうか。どちらにしても、見当がつかないという点に変わりはない。

 だが、咲夜は不敵な笑いを浮かべてそれに応えた。
 その手に、いつの間にか握られている二本の銀のナイフ。

 本能的に、妖夢も傍に置いていた楼観剣を手に取って立ち上がる。胸騒ぎのような、嫌な感覚が妖夢に襲い来る。それが何処から生まれたのかは、妖夢はやはり本能的に理解はしていた。
 剣の柄に手を掛けたまま、韜晦だとは分かっていつつも、咲夜に問い質す。
「……どういうつもり」
 口調が強張り、さらに要点が省略されていたが、それだけで質問としては事足りるはず。何故なら、不敵に笑いを浮かべる咲夜の周囲には、殺気としか表現できない空気が漂っていたからである。
「……あの戦いは、いい戦いだったわ──。願わくば、ああいう戦いをまたやりたいものね」
 言って、ナイフの切っ先を妖夢へと向け、目を細めて薄く笑う咲夜。
「な……!──私は、今あなたと戦う理由が無い!」
「……理由が無くては戦えない。いかにも、この世界で生まれ育った者の言い草ね」
 咲夜の右手が翻り、銀の光が煌く。
 抜き払い様、居合の要領で楼観剣を振るい、空中でそれを叩き落す妖夢。同時に、鞘が石畳の上に落ちて乾いた音を響かせる。
「戦いとはいつも不条理なもの!──外の世界ではそれが常だったわ!」
 侮蔑のこもった吐き捨てるような叫び声と共に、段を蹴って咲夜の身体が躍る。その右手には、あの時──白玉楼階段で相見えた時と同じように、たった今投げたはずが、いつの間にかまたナイフが握られていた。


 戦闘は一瞬で蹴りがついた。
 呆然と、虚空を見つめる妖夢。
 その後ろに、片方のナイフを彼女の首筋に当て、もう片方は振り上げたままの姿勢の咲夜がいた。
 激しく動き回ったわけでもないのに、妖夢の頬を汗が流れ落ちる。
 そのまま、咲夜が両手を動かせば、妖夢は延髄と頚動脈を一度に断たれて、半分しかない命を本当に失ってしまう。
「──不甲斐ないわね、動きに精彩を欠いている。あの時とは別人のよう」
 興醒めしたように咲夜がそう言うと、妖夢は観念したかのように構えたままになっていた楼観剣をゆっくりと下ろした。それを見て、咲夜もナイフを離す。
 呆気ないほど簡単に背後を取られた。
 咲夜が、瞬間的に自分の居場所を空間ごと変えることができる──少なくとも、妖夢自身はそう思っている──ことは分かっていた。実戦経験に乏しいのは認めざるを得ないが、それでも直前の挙動からある程度の予測は妖夢にもできるはずだったし、妖夢もそれだけの修行を積んでいる。
 それが全く対応できなかったのだ。
 一方、二刀ならばこれほど容易く背後は取れなかったはずだと咲夜は思った。接近戦に陥れば、流石の咲夜もまともにやり合って簡単に勝てるとは考えていない。咲夜自身、妖夢は自分と互角に渡り合える使い手だと認めている。本気でその命を奪いに行くとすれば、腕の一本くらいは覚悟しなければならないだろう。相討ちという結末もあり得る話だ。
 得物が刃渡りの短いナイフということから、咲夜は必然的に戦い方そのものが変則的にならざるを得ないが、変則的という点で考えれば妖夢とて同じようなものと言える。だが、二刀流は邪道とも言われているが、妖夢にとっては二刀こそが正道のはずだ。それに、咲夜の能力にも薄々気付いているだろうし、双剣を振るわねば勝てないことも分かっているはずなのに、彼女は腰の白楼剣を最後まで抜こうともしなかったのである。
「……どうしたっていうのよ、らしくないわね」
 何気ない咲夜の一言だったが、今の妖夢には心に深く突き刺さるような言葉だった。
 殺気を浴びた時の嫌な感覚とは、恐怖を感じて恐れおののいたに他ならない。
 最初から、彼女は既に負けていたのだ。

 うつむいたまま、肩を震わせる妖夢。

 そして──。

「……う、く……ぐすっ……」
 堪え切れなくなったように、目許を手の甲で覆いながら妖夢は低く嗚咽を漏らす。
「え?……あ、ちょっと、妖夢?!ど、どうしたの?!」
 予想外の彼女のリアクションに、ナイフをしまって腕組みをし、睨むような視線を送っていた咲夜も流石に慌てた。
「……う……うえぇ……うわああぁぁん!!」
 まともな返答は返ってこない。代わりに、妖夢は涙をぽろぽろと零しながら、大声で泣き始めたのだった。
 人目をはばかることなく──といっても、他に誰かいるはずがない。そのせいもあって、咲夜も何か後ろめたいものを感じたのか珍しく狼狽の色を露にする。
「ちょ、ちょっと!……あ、あの、私のせい?──あ、妖夢、妖夢ってば!ごめん!ごめんね、ね?」
 妖夢の肩を抱き、まるで小さい子をあやすかのように頭を撫でると、彼女は咲夜にしがみつくようにその胸に顔を埋め、更に泣き続ける。
 咲夜は困ったような顔のまま、しばらくの間、胸に抱いた少女の髪を無言で撫で続けていた。


「はあ……なるほどねぇ……」
 咲夜は妖夢と一緒に並んで石段に座り込み、昨日の出来事を聞いていた。先ほどは本気に近い殺気を送ったはずが、一転してこんな情景に移っているのはなんとも滑稽ではあったが、幻想郷では別に珍しくも無いことなので咲夜はあまり気にしていない。
 やっと落ち着きを取り戻した妖夢だったが、まだ僅かに鼻を啜っている。さらに、昨晩に続いてまた泣いてしまったので、酷い顔になってしまっていた。いつもの凛々しい表情が台無しである。
「……私、駄目なんです。幽々子様にも、いつも頼りないって言われるし……」
 うつむいたまま、そう呟く妖夢を見て咲夜は頭を掻く。
「はあ……妖夢ってば、幽々子と違って案外繊細なのね……」
 それでよく、あのお気楽脳天気な幽々子の従者が務まるものだと、妙なところで感心してしまう咲夜。もっとも、幽々子と比べれば誰だって繊細と言えるかもしれないのだが。
 何か気の利いた言葉を掛けて元気を出してもらおうとも思ったが、この様子から察するとかなり重症のように思えた。奈落の底に穴でも掘っていそうな勢いだ。下手に何か言うと、妖夢は更にネガティブな思考に陥ってしまいそうで、咲夜も迂闊に話し掛けることができずにいる。
「……さて、どうしたものかしらね……」
 小声で呟くようにそう言うと、少し考え込む咲夜。落ち込んでいるところに追い打ちをかける形になってしまった後ろめたさに加え、元来世話焼きで面倒見の良い彼女のこと、このまま放って置く訳にも行かない。
 それに、泣いている妖夢を見たら、どうしても何とか元気付けてあげたいという気になってしまったのだ。
 しばらくあってから、咲夜は急に名案を思いついたとばかりに上気した顔で唐突な提案をする。
「ああ、そうだ……。もし、少しここを離れたいと思っているのなら、よかったらウチに来ないかしら?」
「えっ?……それって、ひょっとして紅魔館ですか?」
 意外な申し出に、妖夢も驚く。
「ええ、あなたはまだ招待したことがなかったわ。──少し幽々子と距離を置いて、自分を見つめ直す事も時には必要なんじゃなくて?」
 もっともらしく聞こえる言い分に、妖夢も少し考え込む素振りを見せる。咲夜が一瞬だけ、何か底知れない悪意を感じさせる笑いを垣間見せたが妖夢はそれには気がつかなかった。
「それに、当館のメイドは皆、お嬢様に心からお仕えするいい子達よ。──同じ従者の身であるあなたなら、きっと何か感じ入るものがあると思うわ」
 妖夢の両肩を掴み、微笑を浮かべてそう提案する咲夜。それを聞いて妖夢の心も揺らぐ。幽々子に会いたい気分ではないのは確かだ。

 自分が咲夜の前に敗れたのは、精神的に及ばなかったからだと、もう一度妖夢はぼんやりと考える。
 同じ従者の身で、主の為に春を取り返しに来た咲夜と、やはり主の為に春を集めていたはずの妖夢。
 技量面では十分に渡り合えるという自信はあったのに、負けた理由は妖夢自身に迷いがあったからだ。咲夜の言うように、同じように誰かに仕えている誰かから、何か学ぶものがあるのかもしれない──。

「……分かりました。少し、お邪魔させてもらいます」
 真摯な眼差しで正面から言われると、どうしても妖夢は断ることができないのだった。
「そう、良かった!それなら、私は幽々子にちょっと話をしてくるわ。待っててね!」
 言うが早いか、咲夜は階段を駆け上がって行く。
「ああ、待って下さい!」
「ん?何かしら?」
 呼び止めた妖夢だったが、一瞬言葉に詰まる。そして、たっぷり一呼吸置いてから躊躇いがちにやっと切り出した。
「その──どうして、私と戦ったんですか。そのためにここに来たんですか?」
 その問い掛けに、咲夜は人差し指を顎に当てて僅かに小首を傾げ、意地悪そうな笑みで答えた。
「んー……ストレス発散のため?妖夢くらい強い子じゃないと、私の相手にならないから」
 それだけ言い残すと、今度こそ咲夜は階段を駆け上がって行ってしまった。

「すごい自信……。それに、私のこと買い被り過ぎですよ」
 咲夜の後姿を見やり、朝から数えて何十回目かの溜息を軽くつくと、朝から一度も見せなかった笑みが、ほんの少しだけ妖夢の顔に浮かぶ。
 咲夜の言葉は冗談のようにしか思えないが、おそらく本当なのだろう。その根拠はないが、なぜかそんな気がする。
 それだけの為にあの殺気。
 まったく、食えない人だと、妖夢は心の内で思った。





 低く垂れ込めた雲は今にも降り出してきそうな予感を誘うが、空気は乾いており、雨の匂いはしない。雲の上で輝く太陽の姿を想像させてくれる程よい明るさが、緑の中にたたずむ紅い洋館を包み込んでいた。
 こういう花曇の日は、紅魔館は何となく楽しげな雰囲気に満ちている。館の主──レミリア・スカーレットの機嫌がいいからだ。
 ヴァンパイアであるレミリアは太陽の光に弱く、さらに雨にも弱い。よって、いちいち傘を持ち出さずとも外出ができる、こういう中途半端で曖昧な天気こそが彼女にとっての”良い天気”なのである。
 側近のメイド達──特にメイド長・十六夜咲夜にとってはありがたい。そんな日のレミリアは、いつものような我侭を言わないばかりか、時に周囲の者に気を遣ってくれる場面に遭遇することもあるのだ。
 折りしも、今日は朔。
 月が欠けていくにつれて、力の源として月の恩恵を受けるレミリアは、やや情緒不安定になりがちである。情緒不安定というよりは、逆に情緒が安定するという見方のほうが自然と言えるかもしれない。
 なにしろ、いつもの傲岸不遜ぶりは鳴りを潜め、居丈高な態度も丸くなって、極端な表現をすると見た目相応の子供っぽくなるのだ。レミリア本人にはそういう自覚は無いようだが、強すぎる月の光がかえって精神的な高揚をもたらし、いつものお嬢様然とした態度を形成しているようにも思われる。
 さらに、そこへレミリアの友人である博麗霊夢と霧雨魔理沙の二人が揃って訪ねて来たとなれば、今日この日は館に住まう誰にとっても最良の日となることはもう間違いない。まるで遠い昔から約束されていたように。
 陽が射さないと洗濯物が乾きにくいことが、メイド達にとっては唯一の不満ではあったが。


 レミリアの上機嫌ぶりは気味が悪いほどだった。
「……なぁ、何かいいことでもあったのか?」
 意味もなくえへえへと笑うレミリアの、反対側のソファーに座っていた魔理沙が戸惑いがちにそう尋ねる。戸惑っているというよりかは、かなり引いているのだが。
「え?──ううん、べつに……」
 それだけ言うと、二人を眺めながら曖昧な笑みを浮かべたり、含み笑いを繰り返したりと、かなり挙動不審のレミリア。
 魔理沙は隣に座っていた霊夢を横目でちらっと見たが、霊夢は苦笑でそれに答えるに留まった。放って置きなさいよ、と目配せすると、先程メイドが持ってきてくれたクッキーを口に放り込む。
 気にするなと言われても、差し向かいでじっと見られていると落ち着かない。
 少し甘めのコーヒーに口をつけると、思わずレミリアと目が合ってしまい、魔理沙は慌てて視線を逸らす。暫く間を置いてから、そっとレミリアを見てみると、やはり陶然とした瞳で二人を眺めていた。
 悪魔という種族の特質なのか、普段のレミリアは人間を寄せ付けないある種の超然とした雰囲気というか、独特の空気を身にまとっている。言い換えると、それがいかにも”お嬢様”としての彼女らしさとも言えるのだが、今日はまったくそれが感じられない。
 どう見てもおかしい。
「……な、なあ、今日は咲夜の奴はどうしたんだ」
 形容し難い雰囲気を何とかしようと、そう口にした魔理沙。何か用事があって訪ねて来た訳ではなく、ただぶらっと立ち寄っただけという点がさらに魔理沙の心中を気まずいものにしている。
 いっぽうの霊夢はというと、いつも通りのマイペースで平常運転中だ。大雑把な性格であるところは霊夢と互角のはずなのに、こういう時に限って気の利いた話題や話の種が即座に出てこないのが、魔理沙の不思議な所である。
 だが、丁度いいタイミングでと言うべきなのか、噂をすれば何とやらである。応接間のドアがノックされると、開いたドアから姿を現し、一礼したのは当の十六夜咲夜だった。
「あら、霊夢、魔理沙も一緒にいたのね。それは好都合──じゃなくて、丁度よかったわ」
 意味深な笑いを浮かべると、ドアの外に向かって頷く咲夜。何か、小声で怒ったような慌てたような声が聞こえる。
「……何言ってるの、ここまで来たなら観念なさい。──聞いてない?ついさっき言ったじゃないの」
 どうやら、ドアの外にもう一人誰かいるらしい。
「ほら、入りなさいって」
 咲夜に腕を引っ張られるようにして、ドアの影から姿を見せた顔と目が合うと、魔理沙は思わずコーヒーカップを取り落としそうになり、霊夢はクッキーをかじったまま凍りついたように動きを止めた。流石のレミリアも、驚きで目を丸くしている。
 首筋辺りで綺麗に揃えられた銀色の髪に、線が細いながらも端正なその顔は、憶えがあるどころか三人ともよく見知った顔だ。
 だが、その頭にあるのは見慣れた黒のカチューシャではなく白のヘッドドレス。凛然としたあの表情はまったく影を潜めており、恥ずかしそうに頬を薄く桜色に染め、瞳を潤ませて咲夜に助けを求めるかのような視線を向けるその顔は、今にも泣き出してしまいそうで、とてもじゃないが同一人物とは思えない。
 そして、その姿は一体どうしたことだろう。
 割合にシンプルな紺と白のエプロンドレス、胸元には黒のリボンタイ。紐が長く、背中でリボンのような結び方をする白のエプロンは、両肩に白い大きなギャザーがあしらわれているのが特徴的だ。どこからどう見ても見紛うはずのない、この紅魔館で働いている者の事実上の制服──メイド服である。隣の咲夜と比すると、明らかにスカート丈が短いあたりには作為的なものが感じられた。
 そして彼女の腰と背中には、どう考えても不釣合いながら、それでいてまったく違和感を感じさせること無く、最初からそれもこの館の制服の一部であるかのように二本の刀が吊られていた。
 背中の辺りには、雲のようにふわふわとして、半透明で丸くて尻尾がついているような感じの、人の頭ほどの白っぽい物体が寄り添うように浮かんでいる。それだけが、そのメイドが霊夢と魔理沙の知っている人物と同じ人物であることを証明していた。

 冗談として笑い飛ばすには出来が悪い。
 あまりにも似合い過ぎているからだ。
 それが本気だったら、なおのことたちが悪い。
 一体、どこの誰が彼女にこんな格好をさせているのかは一目瞭然である。

 メイド服姿の少女の肩をぽんぽんと叩き、咲夜が顔を寄せて何事かを囁く。その途端、少女は一瞬だけ咲夜を睨んだが、すぐに目を伏せるとそのままうつむいてしまう。
 咲夜は、目を点にして言葉を失っている霊夢と魔理沙とレミリアの三人に向き直ると、唇の片端を吊り上げるように笑いを浮かべる。そして、壮大な悪戯が大成功した子供のように、さも面白おかしくてたまらないといった表情で、最後の仕上げの一言を言い放った。

「紹介するわ──うちの新人メイドの妖夢よ」

『えええええっっっ??!!』
 異口同音に叫ぶ霊夢と魔理沙。それとは対照的に、きょとんとしたままのレミリア。
 予想通りの反応に、咲夜は悪戯っぽい笑いを浮かべたまま満足げにうんうんと頷く。
「ち、違いますよ!わ、私は臨時のメイドなんです!」
 額に汗でも浮かべそうな勢いでそう力説してから、妖夢は図らずもその格好が遊びではないことを自ら宣言したことに気が付く。
「こ、これはその……あの……」
 こういう時に咄嗟の言い訳を口にできないのは、彼女の生真面目さ故に仕方がない。だが、それもまた咲夜の計算通りだったなど、生真面目に加えて素直すぎる妖夢は気付くことはできなかった。
 唖然としたままの霊夢と魔理沙、そしてレミリア。
 これが妖夢なのか?とでも言わんばかりの表情だ。
「……あのなぁ、何かの──」
 悪い冗談だぜ、と言いかけた魔理沙よりも先に、率直で忌憚のない意見を口にしたのは霊夢だった。
「よく似合ってるじゃない、妖夢。」
 弾かれたように顔を上げ、もう泣き出す寸前の妖夢。タイミングもさることながら、どういう捉え方をしても馬鹿にされているとしか思えない言い草ではあった。ところが、言い返そうにも、今日もマイペース一直線で悪意も他意も感じられない霊夢の笑顔に封殺されてしまう。だいたい、似合ってると褒められて何を言い返すというのだろう。
 咲夜はといえば、我が意を得たりとばかりに顔を綻ばせる。
「でしょう?妖夢ってば、子供っぽいのにスタイルいいから、様になるわよね~」
 その一言が、既に妖夢の弁解を封殺したに等しい。経緯がどうあれど、自ら望んでそんな格好をしているわけではないことは容易に察しがつくが、咲夜の謀略だとしたら妖夢にとっては圧倒的に分が悪い。微妙に抜けている所もあるが、時間を止めてしまうという彼女の秘めたる能力を引き合いに出すまでもなく、咲夜はなかなかの食わせ者なのである。
 さらに言うと、幽冥楼閣に住まう亡霊姫──西行寺幽々子が一枚噛んでいるのはほぼ間違いないだろう。
 紅魔館のメイドとは、即ちレミリアの従者。幽々子の従者である妖夢が、一時とはいえ別の者に仕えるなど、幽々子自身が何らかの形で関わっていなければ妖夢がそれを受け入れるとは思えない。ただの芝居なのか、あるいは幽々子が無理矢理やらせたのか、はたまた何かの罰ゲームなのかは別にして、妖夢は存外にプライドが高いし何より幽々子の従者であることに誇りを持っている。
 仮に咲夜と幽々子が手を組んで妖夢を陥れたのだとすれば、奇跡が起こっても妖夢に勝ち目は無さそうだ。幽々子がこの場にいたら、扇子で口許を隠しながら高笑いしていただろう。惚けているというのなら咲夜と幽々子はいい勝負のように思えるが、こと悪知恵にかけても互角と言って過言ではない。
 まして、咲夜は長かった昨冬を終わらせるため、西行妖を巡って妖夢と幽々子をそれぞれ相手に一騎打ちを演じ、これを正面から下したほどの使い手だ。文字通り一騎当千の手練れであり、並みの妖怪では到底相手にならない人間離れした強さの持ち主なのである。幻想郷にあって名高い紅い悪魔の側近中の側近、紅魔館のメイド長という肩書きは伊達ではない。もっとも、それ故に咲夜は対等に渡り合った妖夢の力量と才覚を高く評価しているのだが──。
 いくら何でも相手が悪すぎる。

「……可愛いじゃない」
 唐突に呟いたレミリアに、皆の視線が一斉に集中する。
「レ、レミリアさん?!」
 妖夢が慌てると、
「……臨時とはいえ、当館のメイドならばそのような敬称は許さないわ。”お嬢様”か、”レミリア様”とお呼びなさい」
 と、咲夜が告げた。その顔には茶化すような笑いが浮かんでいたが、口調は落ち着いており、当然ながら反論は許さないという響きが含まれている。
「……レ、レミリア様」
 妖夢がお嬢様と呼ぶべきは幽々子のみ。もとより選択の余地などありはしない。控えめな妖夢の言葉に、レミリアは珍しいものを見たような驚きの表情を僅かに浮かべ、少しの間を置いた後に目を細めると、
「もう一回言って」
 とぶっきらぼうに言った。
「……レミリア様。」
 やや躊躇しながらもう一度妖夢が言うと、レミリアは僅かに小首を傾げて感嘆したとも呆れたとも取れない表情を浮かべる。
「咲夜、妖夢はあなたと一緒に私付きにしなさい。──これは命令よ」
「仰せのままに。──彼女の周囲の者からは、妖夢は何でもできると伺いましたので。当然、腕も立ちますから、お嬢様の直属と致します」
 レミリアの命令は唐突な物言いだったが、ここまで周到な演出をされてはそう言わない方がむしろ無粋である。それに、咲夜は最初からそのつもりだったのだろう。
 その答えに満足したのか、レミリアは含み笑いを漏らしながら、ソファーに置かれていたクッションをぎゅっと抱きしめたり、ぼかぼか殴ったりと意味不明な行動を取る。
「……なんだかなぁ」
 頭を掻きながら、そうぼやく魔理沙。面白そうなことは確かなのだが、どうやらあまり深入りしないほうが賢明だろうと考える。
「ところで、どう?魔理沙。よく似合ってると思わない?」
 唐突な咲夜の言葉に魔理沙がそちらへ顔を向けると、やや顎を引いて上目遣いで見つめる妖夢と思いっきり目が合ってしまった。思わず視線を逸らし、今度はちらっと横目でメイド服姿の妖夢を見やる魔理沙。
 白玉楼階段で相目見えた時の、冴え冴えとした雰囲気は微塵も無い。妖夢は助けを求めてすがり付くように、まるで哀願するような眼差しだった。寄り添う彼女の半身までもが、肩口から頼み込むように覗いている。
 肩を落としてうな垂れていた妖夢は少し憐れに感じたが、そんな目で見られると魔理沙にとってはどうにも気まずい。これがアリスだったら、軽口や皮肉などが自然と出て来ようものだが、相手が妖夢とあっていつもと勝手が違い、魔理沙は即答できずに黙ってしまう。
 一体どんな言葉でフォローすればいいのか、皆目見当がつかない。けなせばいいのかというと、それも魔理沙にはできなかった。

 妖夢は悪い奴ではない、と魔理沙は思う。
 いやむしろ、いい奴だ。友達だとも思っている。以前は敵対したこともあったが、そのすぐ後に花見のために白玉楼まで出向いた時は、笑顔で迎えてくれた。
 幽々子の為に健気に、ひたむきに尽くし、自らを磨くために努力を惜しまず、またそれを隠そうとしない妖夢には、魔理沙は憧憬の念すら抱いている。
 高潔で禁欲的、献身的。
 そんな、自分が持っていない物を持ち合わせている者に抱くコンプレックス。素直になれない自分に、時折よぎる自己嫌悪。

 逡巡の後、ちょっと顔を背け、鼻の頭を掻く魔理沙。流石に面と向かって言うには気恥ずかしい。かといって冗談を言う気にもなれず、魔理沙は素直な印象を述べた。
「……ああ、よく似合ってる。可愛いと思う」
 そう言われた直後に一瞬で耳まで真っ赤になる妖夢。
 その目は魔理沙を激しく非難する色を帯びており、魔理沙自身もそれに気がついていたが、彼女はあさっての方向を向いて気恥ずかしさを誤魔化すことにした。
 妖夢の半身はといえば、右往左往という表現がぴったりくるように空中でふるふると首──かどうかは分からないが、それ以外表現する術が無い──を振っている。困惑と動揺と羞恥とがない交ぜになった表情で、もごもごと口を動かして何か言いかけた妖夢だったが、結局言葉を選び出すことができず、頬を赤く染めたまま下を向いてしまった。

 表現の難しい複雑な心境で、横目でそれを眺めていた魔理沙はふと思い当たる。脳裏によぎる、幽々子の悪戯な笑みと、先程のレミリアの反応。それが何なのか理解することができたような気がする。いつも生真面目な妖夢は、普段がしっかりしている分だけ、気弱なところを見せると相手の加虐心を煽り立てて仕方が無いのだ。
 要するに──逃げ惑う小動物と同じく、つい虐めてしまいたくなる衝動を与えずにはおかないのである。





 霊夢と魔理沙の姿が森の木々の向こうに消えると、ぎこちなく手を振って見送っていた妖夢は、眉根を結んで隣にいた咲夜を睨み付けた。
「ひ、酷いじゃないですか!霊夢と魔理沙に会わせるなんて、聞いていませんよ!」
 肩を震わせながら、咲夜に食ってかかる妖夢。咲夜は軽く首を傾げると、腕組みをしてふふんと鼻で笑うように見返した。
「何が酷いのよ。当館によくお越しになるお客様に、新人のメイドを紹介しただけじゃないの。それに、よく似合ってる、可愛いって褒められたじゃない」
 思い出したのか、また妖夢は困ったように顔を赤くしてしまう。見世物──もしくは晒し者──にされただけのようにしか思えなかったが、正論を吐かれるとそれに反論できないのが妖夢の致命的な弱点だ。たとえ、それが詭弁であったとしても。
「そ、そんなこと……。」
 拗ねたようにそう言うと、身体ごと咲夜から正反対の方向を向く妖夢。だが、勢いよく振り向いたせいでスカートの裾が翻り、慌ててそれを押さえる。
「あ、それより……こんな、あの……。せ、制服はいいのですが……。そ、その……な、なんかヘンな感じなんですよ」
 スカートの裾の辺りを掴んで言いよどむ妖夢に、
「下着が合わないの?でも残念ね、それも制服の一部なのよ」
 と、咲夜はしれっと答える。わざとそう口にしたことが見え見えだ。
「……なっ……!!」
「あのね、そういう見えない場所のお洒落に気を使ってこそ、本物の女性ってものよ?」
 急に真顔に戻ると、人差し指を向けてそう言い放つ。大勢の年頃の女の子の只中にあって、それを統率する立場にある咲夜は、なかなかどうして相手の口を封じる術をよく心得ている。妖夢のようなストイックな子に対してどのように言い含めれば最も効果的なのか、そのタイミングも十分に経験済みだし、もちろん実証済みだ。
 今、妖夢は身近な少女のことを思い浮かべているはず。真っ先に出てくるのは、まず間違いなく妖夢の主である幽々子だろうが、幽々子がお洒落好きなのは咲夜も承知している。和洋折衷というか、例えば和服に洋物のアクセサリー等、ある意味ごちゃ混ぜになったチョイスでも鮮やかに着こなす程の抜群のセンスがあり、咲夜も舌を巻く程だ。
 他に妖夢の身近な少女というと、プリズムリバー三姉妹がいる。長女のルナサはエレガントでシックな装いを好むが、次女のメルランと三女のリリカはとにかくゴージャスで派手な格好が好みだ。違いはあれど、三人ともお洒落好きであるという点については間違いない。性格にやや難ありでも、一流のエンターテイナーらしいと言えよう。
 さらに、白玉楼をよく訪れる者を比較対象に挙げるとすれば、紫、藍、橙がいるが──それより妖夢自身はどう考えているのだろうか。
 葛藤を抱いているかのような難しい表情でうつむいていた妖夢は、薄笑いを浮かべてそれを眺めていた咲夜の視線に気が付いて顔を上げた。
「ま、待って下さい!私はメイドとしてお手伝いに来た訳ではなく──」
「お嬢様はノリノリだったけど、今更そんなことを言うとお嬢様もさぞがっかりするでしょうね」
 喉元を押さえつけられたかのように二の句が継げない妖夢。微妙に話を逸らそうとした事が、反論できない彼女の心中を如実に表している。どんなに強がっても、幽々子の保護者を気取っていても、妖夢は様々な意味でまだまだ子供なのだ。
「本当、素直でお人好しなのねぇ……」
 咲夜はそう小声で呟きながら苦笑すると、溜息をひとつつく。
「まあ、気に入らないなら別に脱いでも構わないわよ。裸で仕事したいの?」
 茶化すように言うと、途端に妖夢が真っ赤になる。
「な……なな、な、何を言ってるんです!そんなことできるわけがないじゃないですか!」
 そう怒鳴った妖夢は、その次の瞬間には硬直するように肩を震わせた。

 豹変。
 その言葉でしか表現できない程、咲夜の態度が急変していた。たった今、妖夢をからかっていた笑顔は一瞬の間に消え失せており、代わりに目の前には、階段で出会ったときと同じような冷笑を浮かべる咲夜の姿があった。

「……私はできるわ。お嬢様が裸になれと命じれば、すぐに脱ぐわよ。お嬢様に仕えている証がこの服だと思っているのなら、それはとんだ認識違いね。」
 さも当然のようにそう言い放つと、妖夢に背を向ける咲夜。その言葉に嘘や偽りは微塵も感じられない。もっとも、メイド服は屋敷の秩序と規律の為というほかに、主従の関係であることを妖夢のような第三者に分からせる為という意味合いも持っていると彼女は考えているので、殊更に重視しないまでも軽視しているわけではないのだが。
「あなたは、誰かの命を守っているつもりで、それは逆にその人に命を預けているのだということを知らない。──いえ、あなたは誰かに命を預けるという感覚を知らないのよ。」
 肩越しに振り返り、妖夢の姿を見やった咲夜の瞳には、嘲るような、それでいて何か憐れむような色が浮かんでいた。妖夢は押し黙ったまま下を向いてうな垂れる。幽々子と紫に言われた言葉が思い出され、彼女はまた泣き出しそうになるのをこらえた。
 よく分からない。
 泣きそうな表情の中に、何か悔しそうな感情が見え隠れしていた。よく分からないという事それ自体が、咲夜の言葉が核心を突いていることを物語っている。
 幽々子の為に命を捧げる覚悟はできているつもりだ。西行寺家に仕える魂魄家の一員として、それは当然のように妖夢は思っていた。それに、既に現世では絶えて久しい西行寺家の最後の当主に仕えているのは、単にその臣下の家に生まれついたからというのが理由の全てではない。
 それだけが理由ではないはずなのだが──妖夢は咲夜の言葉に何も言い返すことができなかった。
「……あなたに、教えたいことがあるのよ」
 急に、咲夜は声のトーンを落とすと、背を向けて館へと歩き始める。垣間見えた横顔には、ついさっき見せたような冷淡な表情はもうない。
 慌ててその後を追う妖夢。
「教えたいこと……って、なんでしょうか」
 意味深な咲夜の言葉を問い質すが、彼女は僅かに顔を妖夢から完全に見えない角度まで逸らし、再び振り返った時にはもう悪戯っぽい笑顔を浮かべるいつもの咲夜に戻っていた。
「まあ、そのことは後でゆっくり話すことにしましょうか。それより、形だけじゃなくてあなたには本当にメイドになってもらうんだからね。当館は本当に人手不足だから期待しているわ」
 だが、先程見せた咲夜の冷笑が脳裏に焼き付いていた妖夢には、その笑顔がどこか作り物のような気がしてならなかった。

(つづく)
「東方七星剣」の同志の皆さんと、何よりも、亡き天馬流星さんにこの話を捧げます。

そして、本当に申し訳ありませんでした。
「東方七星剣」で足りなかった一本がこのSSです。
草稿段階のものとは少し改稿していますが、4年前に書いたものですので、その後の公式の設定などとは相違があるかもしれません。
ご容赦ください。

ただ、今もたくさんの方々が東方を好きでいてくれて、本当に嬉しく思います。
MUI
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コメント



0.670簡易評価
1.60名前が無い程度の能力削除
なにやら訳有りの様ですが、ちと読み辛い。
内容としては面白いです。
3.100名前が無い程度の能力削除
こういうシリアスな話は個人的にすごく好きです。
妖夢が咲夜さんからなにを教えられるのか
これからどうなっていくのかとても楽しみです。
4.100名前が無い程度の能力削除
ストーリーの展開がスローぺースなので情景を浮かべながらよむことができました
情景や雰囲気の描写がすばらしいです。

そして
天馬流星氏のご冥福をお祈りするとともに、
七星剣の完成をお待ちしております。
5.80名前が無い程度の能力削除
七星剣も数年前の話か~。最近の創想話では彼らの姿を見れないのは寂しい限りです。

待ってました。続きも待ってます。
10.100名前が無い程度の能力削除
話を明るく持ち上げといて、ストンと落とすのがいいですね。
これからどうなることやら。続きに期待させてください。
予断ですが、七星剣が四年前だと知って愕然としました。
時の流れは早いなあ……!
14.100名前が無い程度の能力削除
再び貴方の小説が読めて嬉しいです。
丁寧で細かい描写と展開の面白さ。
後編も楽しみにしています。