「うー、まだかなぁー……」
冬の日の朝。湖のほとりで一人、ぼーっと空を眺めるあたい。
二日酔いのうえに寝不足の頭に冷たい風がナイフのように突き刺さる。
いつものように私が考え付き、有言実行の信念の元、春告精が現れたその日から三日間ぶっ通しで行われた、超・花見大会のせいだった。
ミスチーやルーミアたちは、今頃自宅で大いびきだろう。なんせここ数日間殆んど寝てない。誰も入院せずに済んだのは、正直あたいも奇跡だと思う。それがまだ一昨日のできごとだ。
そんなわけで、すっかり弱ってしまった鼻からは、さらさらの水が次から次へと溢れ出してくる。このまま行けば、あたいの鼻が幻想郷の滝百選に指定される日もそう遠くは無いわね。
ティッシュで顔を拭って顔を上げると、紅魔館の前では、中国が寒そうな格好で、不思議な踊りを始めていた。この寒い日に、氷の妖怪でもないの朝っぱらから元気なやつね、きっとマゾに違いないわ。
まあ、こんな所で一時間近く待ちぼうけをくらいながらも、諦めずに待ってるあたいが言えた義理じゃないかもしれないけど。
「……遅いわ」
たしか、約束は九時だった筈だ。彼女に限って万が一ということも無いと思うが、さすがにそろそろ心配になってきた。……ひょっとして、すっぽかすつもりじゃないわよね。
慌てて探しに飛び立とうかとも考えたが、止めた。不安になっているのを見透かされるのは、あたいのプライドが許さない。何たって記念すべき初デートよ、初デート。今日ぐらいは、格好つけたいもの。
それでもやはり少しばかり不安で羽をぱたぱたさせていると、ゆっくりと森の向こうから飛んでくる、その姿を発見した。
やれやれ、やっと来たわ。
「おーい! レティー!」
大きく手を振りながら、彼女の元へと飛んでいく。中国がこっちをチラリと見たが、高揚したあたいの気持ちは、そんなことで怯みやしない。
「遅かったじゃない。何かあったの?」
レティはいつもの白い服で、首には水色のチェックのマフラーを巻いていた。その姿に、あたいはうれしくなった。そのマフラーは、あたいが選んであげたやつだったから。
「ごめなさい、ちょっと野暮用があってね」
白い息を吐き出す私に向かってそれだけ言うと、湖のほとりへと降りていく……って、ちょっと待った。
「ちょ、ちょっと、レティ。何で降りるのよ。これから人里に行くんでしょ?」
レティはこちらを振り返ると、
「あなたが湖に集合って言ったんじゃない。ここはどう見ても森の上よ」
黒白みたいなことを言うわね、この雪女は。
だけど、引き止める気は起きなかった。私はレティに向かって笑いかけると、後ろに続いて湖へと降り始める。
まったく、何をやっているんだか。
湖まで降り、一度顔を見合わせた後、今度は連れ立って再び空へ。その間会話は特になし。もし誰か見ていたら、相当変な二人組に見えたことだろう。
ちらほら話しながら森を抜けていく。人里が見えてくると、次第に人影も見え始める。
この辺で今日の予定を確認しておこうと思い、私は少しはっきりと口を開いた。
「レティ、今日何も食べて来てないわよね?」
ええ、と小さく頷いた。それで十分だ。
「よし、じゃあまず昼食ね!おいしいところに連れてってあげる。……あ、心配しなくても大丈夫よ!巫女に前もって頼んどいたんだから。何も悪戯しなければ、今日は大丈夫」
瞬きを一つ。ちょっと嬉しそうだった。
「で、お昼を食べたら劇よ!森の人形遣いがちょうど今日やるらしいから、見に行ってあげるの!おもしろいかはわからないけど、つまらなくても途中で帰ったりしないでよ?」
「そんなこと、しないわよ」
「そうよね。それなら安心よ。で、劇が終わったら、その辺ぶらぶらして、そうねぇ、寺子屋にでも行こうかしら、レティの好きそうな本がいっぱいあるわよ。で、夕方になったら、今度は晩御飯。中国……紅魔館の門番が料理を作ってくれるって言ってから、それでいいわよね?」
なにやら妖精達の間では、あの中国の作る料理は絶品だそうだ。いわく4000年の歴史だとかなんとか。
レティはさっきよりも大きく頷いた。どうやらこの計画でOKみたい。
こっちから誘った手前、もうちょっといろんな所に連れていってあげたかったけど、いかんせん考えるのは、その、あまり得意じゃない。むしろ、よくここまでの舞台を用意できたもんだと我ながら感心だ。
一昨日の帰り道にレティの電撃告白を聞いて、二人っきりだったのをいい事についつい誘ってしまったわけだけど。まったく、お酒の勢いってのは恐ろしい。そんな恥ずかしいことを、よく自分ができたものだ。
もうそこそこ長いこと生きてると思うけど、なるほど、これがお酒の怖さかと納得していると、いつの間にか人里に着いていた。
レティが私をじっと見つめてくる。わかってるわよ、そんなに急かさないでも、道くらいはちゃんと覚えてるんだから。
「こっちよ」
普段あまり来ることのない人里だけど、焦ってしまうことはなかった。
隣から聞こえてくる足音に合わせて、できるだけゆっくりと歩くのは、結構楽しかった。
「おいしかった?」
「……なかなかね」
「それはよかったわ」
まあ、あの食べっぷりを見れば一目瞭然なんだけどね。隣で悠々と歩く白い雪だるまみたいな彼女は、巫女さながらの獰猛さで2人前のハンバーグを完食した。あんなあっついの食べて、溶けないのかしら。
「じゃあ、次は劇ね!多分、そろそろ始まるはずなんだけど」
何となく辺りを見回すと、里の子供が少しずつ集まっている場所がある。
「あそこみたいね」
レティが呟いた。私も返事をして、レティに続いて歩き出す。
「どんなお話なのかしらねぇ」
とても楽しそうな顔だ。つられて、あたいもうれしくなるのがわかった。
さすがに人間の子供達に混じって近くで見ることはできないので、少し遠めから眺めることにする。
人形劇にしては大き目の舞台で、まだ垂れ幕がかかっている。けっこうな人だかりができていて、周りからは小さな話し声や、ひっそりとした笑い声が聞こえている。
レティはまだ何も始まってない舞台を見ながら、時折思い出したかのように飲み物を口に近づける。真っ赤な垂れ幕を見つめながら、何を考えているんだろうか。
「今日やるのは、絵本が元になったやつらしいわよ」
あたいの声に反応して、時計の短針のようにゆっくりと首を回す。
「あそこにタイトルが出てるけど、レティ、読んだことある?」
「うーん、ないわ」
「じゃあ、ストーリーは知らないのね?」
「ええ」
「良かった。最後どうなるか知ってたら、やっぱりあんま面白くないもんね」
なんだかんだ、一番大事なのはオチだもの。実際、そんなお話はよくあるし。だけど、レティは首を横に振って、言った。
「うん。でも、それでも、きっとおもしろいわ」
静かな、だけど笑いかけるように柔らかな目。
幕がゆっくりと開いていく。私は何も言わなかった。
劇の内容は、割と有りがちな物だったと思う。少年と人形が友達になって、最後には別れなければならない、そんな話だ。だけど、決して悪くは無い。
人形遣いもなかなかやるものじゃないかと、ちょっと見直した。
幕が再び閉まる頃、不覚にもあたいの目は潤んでいた。横からそっとハンカチが差し出された。
「レティ……」
「使って」
ああ、その表情。泣いてる自分が少し恥ずかしくなっちゃうじゃない。
「いい歳して、みっともないわね、あたい」
照れ隠しにそれだけ言って、ハンカチを受け取った。柑橘系の匂いがする、柔らかいハンカチだった。
授業も終わった静かな寺子屋で、並んで座って本を読む。今あたいたちは、世界で一番クールでクレバーな二人組みだ。さらにその片方は、世界で一番スリーピーでもあるんだけどね。
徹夜続きだったあたいは、ダンベルみたいな重さの瞼を、気力で何とか持ち上げていた。
何せ初デートだ。途中で寝ようものなら、ミスチーだったらぷりぷり怒るだろうし、だいちゃんは悲しそうに笑うだろう。普段なら笑ってくれるレティだって、今度ばかりはさすがに許してくれないかもしれない。
とは言え、昨日は殆ど眠れなかったし、これ以上小さな文字を見ていると確実に私の意識はおさらばしてしまう。暖かい室内の空気が、今日ばっかりは恨めしい。
さて、どうしたものかしら。いっそ氷を自分の頭の上に落としてみようか。
「寝た方がいいわ」
自分の頭を仮にパーとして、氷のグーと比べてみたらどっちが勝つんだろうなどと考えていると、本から顔を上げてレティは言った。
「あなた、ここ数日ほとんど寝てないでしょう?」
本に夢中だと思ってたのに、目ざといわ。
「いやいや、全然眠くなんかないわよ!」
「いつものあなたなら、こんなとこに来たらすぐに眠ってたじゃない。無理しないでいいわよ」
レティはあたいの強がりを聞かずに、自分のマフラーを折りたたんで、小さな枕を作った。
……そうよね。デートだからって、変に片意地張る事もないわよね。
さっき食べたハンバーグみたいに丸くなったマフラーに、そっと頬を乗せる。暖かくて気持ちがいい。これならすぐにでも眠れそうだ。
目を閉じて息を深く吸いながら、眠気に任せて、あたいは思い切って言ってみた。
「レティ、一つお願いがあるんだけど」
「……なにかしら」
「手を、握っててくれたらなー、なんて」
ああ、でもそう言えば、片手じゃ本が読みづらいだろうな。
それでも、戸惑うように絡まった冷たくて小さな指先を握りこんで、あたいは沈むような眠りへと落ちていった。
ゆっくりと肩を揺さぶられて、瞼を上げる。
「もう、夕方よ」
囁くような声だ。これが目覚ましなら、あたいは確実に二度寝する。
それでも根性でマフラーから顔を上げ、凝った首を回す。
ふと、握り合った手が汗ばんでいるのに気付いた。レティの冷たかった指先は、あたいの体温で温まってしまったらしい。
何となく気恥ずかしくなって、慌てて指を解く。
「ご、ごめん、レティ。本、あんまり読めなかったんじゃないの?」
机の上に置かれた本は、あんまりめくられていないように見えた。
「全然、かまわないわよ」
それだけ言うと、本を戻すために席を立つ。
あたいはその後姿を目で追いながら、こっそりとあくびをした。少しだけ、視界が滲んでいた。
寺子屋から出ると、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。こんな時間まで眠りこけてるなんて、とんでもなく勿体無いことをしてしまった。
「よし、晩御飯にしましょ!なんでも、本場ちゅうごくしせんなんとか料理だとか言ってたわ!」
眠った時間を挽回しようと意気込むあたいの裾を、レティがそっと引っ張った。
「んー、夕食はいいわ」
「……お腹、減ってないの?」
それとも、やっぱり怒ってしまったのだろうか。まあ、そりゃそうよね。あたいだって遊んでる途中に寝られたら、きっと怒る。
こんな時って、どうしたらいいの? あー、くそう。そんなのあたいにはわかんないよ。
その時、あたいはきっと自分でもおかしいくらいの困り顔になっていただろう。だけどレティは、少し緊張したような目で真っ直ぐにあたいを見つめて、
「そうねぇ、私が作ろうかと思うんだけど」
射抜く視線は、まるで決闘状を叩きつけるガンマンだ。
「……レティ、料理作れるの?」
よく食べているようなイメージはあるけれど、何かを作って貰った記憶はない。
「さっき、本を読んだもの」
なるほど。
その後、里をふらふらと散歩しながら、レティが料理の候補をいくつか言ってきた。何を作るかあたいに選んで欲しかったらしい。
といっても、何だか普通に家でよく食べるようなメニューばっかりだったので、かえって困ってしまう。
「レティは、何か食べたいものないの?」
「あなたに任せるわ」
あたいだってレティに任せたいんだけど……。
散々悩んだ挙句、あたいが頼んだのはカレーだった。と言っても、最近はやってる「れとると」ってやつじゃない。ばっちり手作りの奴だ。
レティは「そんなんでいいの?」とでも言いた気に、こっちを窺うような目をしていたが、結局いつものように頷いた。
レティの家に向かう前に、里の八百屋で材料を買い集めていく。料理ってのは、買う時も楽しいものだ。レティもいつもと変わらない表情に見えたけど、野菜を選ぶ白くて細い手は、何となく生き生きしてるように見えた。
私が少し厠に行っている間に、レティは材料費を自分で全て出していたので、代わりに荷物を奪ってあげた。地味にけっこう重いわね、野菜って。
「おじゃましまーす!」
なんどか来たことのある、レティの部屋。といっても、ここにいるのは一年で数ヶ月だけ、つまり冬の間だけなんだけどね。
上着を脱いでからキッチンに向かい、すぐにカレーを作ることにする。
レティは一人で作りたかったようだが、あたいは一緒に作った方が楽しいじゃない、なんて言いながら無理矢理手伝っていた。
「レティ。皮はもう少しっかりむいた方がいいかな?」
「ゆせん……って、何?」
「リンゴも、せっかくだから三玉くらい入れちゃう?」
「ハチミツは、カップ一杯くらいかな」
どこぞのメイドも真っ青のダイナミックさでお届けするあたいの一時間クッキングには、さすがにレティも呆れたような顔をしていたけど、それでも何とかカレーを作り上げることができた。
一抹の不安を大切な宝物のように胸の奥にそっと閉まって釘を打ちつけながら、炊き立てのご飯にルーを盛りつける。
大盛りの皿を小さなテーブルに運ぶあたいの後を追うように、レティが急須と湯のみを持ってきた。
どうでもいいけど、カレーに緑茶ってのはどうなのよ。わよーせっちゅーってやつなのかしら。
「……じゃ、食べましょう!」
少し悩んだが、緑茶については何も言わない事にした。
「「いただきます」」
揃って手を合わせた後、水彩のように色の薄いカレーを口に運ぶ。
……うん?これは、
「凄く美味いじゃない!」
あたいがたまに作るのとは比べ物にならない。さすがレティ、食いしん坊はやっぱり料理上手なんだろうか。あたいが茶々をいれたあの料理工程と出来上がりのこの差は何かおかしい気もするけど、それは言わないでおこう。
本人も割と満足しているらしく、スプーンを動かす速度が尋常ではなかった。それがおかしくって、あたいは思わず、ちょっと笑った。
結局あたいたちは、鍋と炊飯器を空にするまで食べ続けた。胃袋が若干心配だったが、成長期なので、多分問題ないだろう。
洗い物をしたりゴミを出したりと、諸々の雑用を片付け、ようやく部屋で寛げるようになった頃には、既に
夜中になっていた。楽しい時間っていうのは、あっという間に過ぎるものなんだと、改めて思う。
「レティ、今日は楽しかった?」
楽しんでいたのは自分だけでは無いだろうか、と不安になったあたいは、テーブルの向かいに腰を下ろしているレティに尋ねた。
「ええ、とっても」
珍しくきっぱりと言い放つ。
「……そう」
レティはあんまり嘘をつかないから、信用してもいいだろう。
「なら、良かった」
本当に良かった。
レティは黒っぽい瞳をあたいに向けたまま、ただ黙って座っている。
その姿が、寂しそうに見えて堪らない。
「レティ」
「なあに?」
「そっちに行ってもいい?」
「……ええ」
じゃあ、お言葉に甘えるとしよう。一度立ち上がってテーブルを迂回し、レティの隣に腰を下ろす。
そのまま二人とも身じろぎ一つせず、黙って窓の外を眺めていた。
昼間なら見えるであろう森も、今は少しも見えない。だけど、そんな暗闇が、なぜかとても綺麗に見えた。
少し躊躇しながら、時間を確かめる。……もうそろそろかな。
あたいはレティの方に向き直る。
「レティ。何か、無い?」
さっきからずっと言いたい事がぐるぐると頭の中を回っていたが、口から出たのは、意味の分からない言葉の羅列だった。しょうがないじゃない。これでもいっぱいいっぱいなのよ。
しかしレティには、それで十分伝わったらしい。ツーカーの仲って奴よ、多分。
「寝室の戸棚の上に、今朝作ったケーキが入っているわ。みんなに渡してあげて」
……レティ、ケーキも作れたの?
「最近、練習してたのよ」
あ、もしかして今日の為だったり。
「上手くできた?」
レティは、なぜかあたいを誉めるみたいに頷いた。
「割とね」
そっか。レティがそう言うんなら、きっと美味しいんだろうな。でもあたいは馬鹿だから、ひょっとしたら皆に渡すのを忘れちゃうかもしれないわ。
「大丈夫よ」
そうかな?
「そうよ。信頼してるわ」
そこまで言われちゃ、忘れるわけにはいかない。心の奥に刻み付けておくことにする。
下手な冗談を聞いて、レティは笑うように目尻を下げた。
それを見て、今更のようにあたいは気付いた。
ああ、もう本当に、時間になってしまった。
「泣かないで」
レティの、撫でるように優しい声。
「泣いてなんか、無いわ」
「嘘つき」
指先でそっと、あたいの頬を拭った。
「湖のほとりでも泣いていたし、お昼の時も、人形劇でも、寺子屋でも泣いてたわ。八百屋で厠に行ってた時も、昨日だって一晩中泣いてたんでしょう?」
レティが一昨日いきなり、「私は、多分明後日にはいなくなる」なんて言い出すからじゃない、馬鹿。
「……見てたの?レティ」
レティは、からかうような色を目に浮かべる。
「あなたのことなんて、何でもわかるわ」
あたいは肩を竦めてそれに答えた。やっぱり、レティにはまだまだかなわない。
そのまましばらく見つめ合う。整った白い顔に、少し悲しそうな表情。少し動けば、唇が触れ合う距離だった。
だけど、どちらも動かないあたいは代わりに、頭に浮かんだ事を、そのまま口にすることにした。
「ルーミアってさ、最高に馬鹿だけど、最高に面白い奴なのよ。一緒にいたら目が悪くなりそうだけど、それ以上に楽しいから、多分あたいは、まだまだあいつと一緒にいると思う」
「うん」
「だいちゃんは最高に可愛くてさ、それに正直な話けっこう危なっかしいところがあるから、目を離せないんだ。それでも、あたいのことを考えてくれて、一緒にいてくれる、やさしいやつなんだ」
「うん」
「巫女や白黒なんかは理屈っぽいし、手放しに信用できないタイプね、しかもたまにムカつくし。だけど、絶対いい奴だと思う。それぐらいは分かるんだ」
「うん」
何を言ってるのかもわからなくなりそうだったけど、勢いに任せてあたいは続けた。
「レティは結構無愛想なくせに、だけど頼りになって、食いしん坊で、そんなところがおかしくて。最高よ。皆レティが大好きなの。知ってる? ルーミアも、だいちゃんも、みすちーも、あの巫女や黒白だってそうよ。」
本当はただ、あたいの声を覚えておいて欲しかっただけだ。
「まあ、レティの事を一番好きなのは、多分あたいだけどね」
こればっかりは、胸を張って言える。
「……そう」
一瞬伏せられた目は、少し照れているようだった。
ほら見ろ、可愛いじゃないか。そんなところも、あたいは大好きなんだ。
なのに、どうしていなくなっちゃうの?
「また、泣いてるわ」
しょうがないじゃない。勝手に出てくるんだもん。
レティは再びあたいの頬を拭って、立ち上がった。ああ、本当に行ってしまうんだ。
こっちを振り向いて、少し申し訳なさそうな顔をした。そしてすぐに、最高の冗談を思いついたような瞳で、冷たく見せようとする表情で呟いた。
「いい歳して、みっともないわよ」
ああ、まったくだ。
あたいはこれ以上泣き顔を見られたくなくて、精一杯笑顔を作った。
「私も、大好き」
最後に聞こえた言葉が、一瞬耳で響いて、すぐに消えた。
一人きりになったあたいは、寝室の扉を開けて、白い箱を見つけた。
中を見てみると、チョコレートケーキがたくさん入っていた。
これだけあれば、少なくともあたいの知り合いみんない配ることができそうだ。落とさないように注意しながら、ゆっくりと胸に抱え込む。
最後に戸締りを確認し、テーブルの上に残された鍵を拾い上げ、電気を消して玄関に向かった。
部屋の中をもう一度だけ振り返ってから、ドアを閉めてしっかりと鍵をかけた。その鍵はどうしようか迷ったけど、あたいが貰っておく事にした。
彼女がこの部屋に戻ってきた時、鍵が無いことに気付いたら、真っ先にあたいのところに来るに違いないもの。
そんなことを考えてニヤつきながら、鍵をしっかりと握りこんだ。決して無くさないように、何度も何度もその存在を確認する。
なんだか鍵に慰められているようで、自分でも少し呆れた。でも、少しほっとした。
初春の夜道は、まだ雪こそ残っているものの、真冬の凍ってしまいそうな寒さはもうなかった。
一歩足を動かすたびに、胸が少しづつ熱くなっていくのを感じた。明日から、少し広い風景を見ることになる。ポケットに穴が開いてるみたい。
それでも、胸に抱いた白い箱の事だけは忘れるわけにはいかない。約束したんだもの。
あたいは、心の中で繰り返し呟き続ける。
みんなに渡す。みんなに渡す。みんなに渡す。みんなが誰かなんてわからない。だけどみんなに渡す。どんな味なのかもわからない。だけどみんなに渡す。明日から、どんな顔をして過ごせばいいのかも分からない。分からないよ、レティ。だけど絶対、みんなに渡すからね。
寂いのか悲しいのか。それすらもよく分からなくて、とにかく泣きそうだった。
だけど、我慢する。なんたって、あたいは最強なんだもの、いい年して、みっともないもんね。
気を抜いたら叫びだしてしまいそうな自分を誤魔化すように、あたいは下手糞な鼻歌を歌い始めた。昼間見た人形劇の、最後に流れた曲だ。
あの劇、結構おもしろかったよね。レティもそう思うでしょ?
その前に食べたハンバーグだっておいしかった。ま、レティの作ったカレーほどじゃないけどね。
湖のほとりは静かだったし、人里の賑やかさも楽しかった。寺子屋は暖かかったし、八百屋は果物の匂いがして、レティの部屋は、とても居心地がよかった。
ねぇ、最高の一日だったよね?
目を閉じれば聞こえてくる小さな足音に別れを告げて、乾いた空気の中へ、ゆっくりと浮かび上がった。
鍵をしっかり握りしめながら。
ケーキを大事に抱え込みながら。
二人で聞いたメロディーを、一人で口ずさみながら。
終
しかし氷精が寒がるのには違和感を覚えてしまいました。
誤字報告
>4000千年
おてんば恋娘の名に恥じぬ、乙女っぷりじゃあございませんか。
すてきです。
えにぐまさん、いつから作中にいたんですか!
でも全体的な雰囲気がしっとりとしていてすきです。
誤字報告
>地味にけっこう思いわね、野菜って。
今を生きる氷精にとって、少しの別れも今生のものとなるような、そんな切なさが素敵でした
この一言で十分
レティ好きにはたまらん一作だ……