Coolier - 新生・東方創想話

モルフェウスはようやく醒めた

2009/12/16 20:44:59
最終更新
サイズ
37.21KB
ページ数
1
閲覧数
2660
評価数
7/33
POINT
1830
Rate
10.91

分類タグ

 八意永琳が、蓬莱山輝夜の容貌を初めて目にした瞬間に感じたのは、腹の裏側を無理矢理に掻き毟られ、食道を巨大な百足が這い上るかのような、ただならぬ“吐き気”であった。
 その、美しいものに相対した時に本来ならば感じるべくもないものを、彼女は終わらぬ生涯、忘れ得ぬという確信がある――。

――――――

 暗く鈍い色の鉄を丸めたような雨雲は既に遥かな遠方に去り、迷いの竹林周辺は、ほんの数時間より以前の雨模様と同じ空であるとは、到底思えないほどに澄み渡っていた。
 地にも樹木にも、むろん入った人間の正常を撹乱する無数の竹群にも雫と湿りがその名残を未だ留め、歩く者のあらば自らの身を飛散させて、相手の感覚に冷たさを証する。剥き出しの首や顔を冷やす彼らの存在が誰かに顧みられる事など元より滅多にある事ではないが、それでもなお赤色と橙色の混じった黄昏の光は、束の間、玉石の如くに消え行く透明な珠を照らし出すのであった。
 その内の一つが、ツ――――と、竹の葉の先端より落ちかかっていた。
 落ちまい落ちまい……としているように、ふらふらと緑色の崖にしがみつく小さなものは、しかし、
長く時間をかける事も無く重力の手に囚われた。
 けれども地に叩きつけられた彼が『何か』になれる事などあるはずもなく、また『何か』を目指すほどの感慨を抱く権利も有しない。何故ならば、ただの滴だからであった。いわば彼は、水滴としての職責を全うしたに過ぎなかったのである。
 しかしながら、竹林を貫く道なき道を歩む八意永琳の爪先へ落下した滴は、少なくとも一人の女の認識の中にこそ留まる可能性を見出したと言えるだろう。
 数え切れぬ破片に我と我が身の未来を仮託した小英雄は、銀色の髪の合間より覗く永琳の瞳に覗かれた。魅入られないばかりに砕け散る透明な珠に視線を合わせた永琳は、何か、はッと啓くような目覚めを受けた様な気がしていた。
 そして空気に混じり始めた夕暮れの匂いが肌を刺した事に気が付いて、彼女は、うとうととしかけていた意識が引き戻されたことを知った。これではいけない……とばかりに頬をつねり、目的地である竹林と山道の間を目指す。
 まったく、歩きながら眠りかけるとは。
 一時は『月の頭脳』ともてはやされた事もある自分らしからぬ失敗だ、と、永琳は誰にも見られていないのを幸い、苦笑を漏らす。これから、あの白髪の少女との殺し合いに出向いた主君・蓬莱山輝夜を迎えに行かねばならないというのに、自分が道端で眠りこけていてはどうしようもないではないか…………。

 ――『永夜異変』が博麗の巫女らの手によって終結してからというもの、月からの追手を怖れて彼女らが隠れ住む必要は無くなった。お陰で輝夜も千年来の宿縁に引きずられるまま、白髪の少女――藤原妹紅との殺し合いに思う存分出向いている。あくまで幻想郷という土地での戦いであるから、かのスペルカードルールに則った決闘ではあるけれど、互いに不死である彼女らの戦いは、少々、度を越していた。何せ、たとえ肉体の全てが破壊されても魂そのものがあらゆる変化を拒絶するため、髪の毛一本からでも完全な再生が可能。負傷と死に伴う痛み苦しみは常人同然ながら、自らの意思にさえ反して発動する再生能力は、二人の中から『身体を大事にする』という観念を根こそぎ取り払っているらしい。
それこそ『決闘』だとか『殺し合い』といった表現では生ぬるいと感じるほど、彼女らの戦いは互いを殺戮し尽くす狂った遊戯である。
 四肢が折れ飛び内臓が引きずり出され、脳味噌が消し炭と化してもなお、彼女らは生に基づく意識を抱く限り、歪んだ表情で涙を流し続ける。それが痛みに震える故か、それともこれ以上無い悦楽を嬉しいと思っているのか。あるいはその両方なのか。
 永琳には、はかり知れないものがあった。
「まったく……蓬莱の禁薬の力が衣服まで再生してくれなかったとしたら、きっと今ごろは、幾ら着物を仕立てても追いつかなかったでしょうね」
 はあ、と、ため息をつき、出そうになるあくびを噛み殺して彼女は歩き続けた。
 昨晩は、古い本草学の文献を一晩かけて読み明かしたので、睡眠が足りていないのだろう。
 いくら病に耐性を持つ蓬莱人とはいえ、寝不足はさすがに辛いものがある。
『あらゆる薬を作る程度の能力』があるのだから今さら古い文献を漁ったところで意味は無いのであるが、しばらく前に屋敷の倉庫を整理した際、七、八百年ほど前に手に入れたものが偶然にも出てきたので、あまりの懐かしさについ手に取ったのだ。当時は月からの追手を恐れるあまり、永琳も輝夜も永遠亭周辺に隠れ住まう日々が延々と続いた。ために退屈を持て余し、地上の文物に対する物珍しさも手伝って、書物という書物を手に入る限り蒐集したものだ。動機自体は暇潰しだったものの……とはいえそれなりに面白く、ある程度、地上人たちの思考と文化を理解するのには役立った。
 サ……ワ――ッと微細な風が吹き渡り、いっとき、大小様々の竹群が、まるで哄笑でもしているように葉を揺らした。刃の先端に似た形は、幾千の兵士が一人の女を取り巻いて監視している様のようであった。
 この道を通るたび――――。
 八意永琳は、流罪を赦免されて月への帰還を許可された輝夜と再会した晩のことを、思い出さずにはおれない。
 あの晩、地上から見上げる月は、美しかった。全ての人々をあまねく見つめる巨人の瞳。否、きっとそれは、戮せられた巨人の瞳に細緻な加工を施して、夜に掲げた悪趣味なオブジェだったのかもしれない。――むろん、それは嘘である。月は宇宙に浮かぶ天体で、地球の衛星であるのを彼女は当然の事として記憶している。そして数億という年月が過ぎ去る前、自分自身、月に移り住み、彼の地に都を造るのに尽力したという事実も。
 長きに渡って書物から吸収した地上の知識を見つめるのは、自らの記憶を書物に書き記して後から読み返すのにも似ていると彼女は思った。一年、また一年と永劫の生を重ねるごとに、自分自身が一冊の分厚い史書にでもなったような錯覚がするのである。飽かず生き続けるという行為を、もう億に手が届くだけの年月、繰り返してきた彼女のこと。その八意永琳という膨大な歴史を紐解いて、読みとおすのは、あるいは容易い事かもしれない。
 しかし、それを完全な形で行い得るのは“著者”である永琳自身と――蓬莱山輝夜だけだ。
 二人以外の者がそこに記された事実を確認できたとして、永琳が何を思い、何を背負っていたのかまでを知る由は無い。
 千年前の、滑稽な晩。
 輝夜との再会は、彼女の全てを狂わせた。
 仮に反逆が狂気とするならば、彼女はまさに狂気だったに違いない。けれど、彼女の認識したものの中にあっては所属と帰属こそが狂気の沙汰。二人の倫理は、他に並ぶもののない正当であった。
 その選択をあえて決断させるほど、蒼い月光を取り込んだ輝夜の顔は『おぞましかった』。
 だからこそ、彼女は月からの離反を決意したのである。
 己の知り得る世界の全てに反逆し、主君と共にこの世の最果てに到達する日のために――――。

――――――  

「どうしたの、永琳。私の顔に何かついているのかしら」
「は、いえ……少し、考え事をしていましたもので」
 窓を透過する地球の光が少女の顔を蒼く染めている。
 遥か頭部と背中を覆う長大な黒髪は、まるでその部分だけが営々たる時の流れから取り残されたように、ぴたりと姿を留めていた。額で切り揃えられた髪の毛から覗く眼は、一見してその貴い血筋に裏付けられた静謐を物語っているようであったが、その実、よくよく覗き込めば猫よりもなお気紛れな好奇の心で爛々と満たしているのがよく解る。
 彼女が着込む単衣も、部屋に取り揃えられた各種の調度も――およそ月で手に入る材料の中では他に並ぶものの無いと言えるほど希少性の高い……いわば最高級品である。一般の庶民なれば、百年かかっても手に入れる事など絶対にできないと断言もできようが、そもそもこの『世界』では、統治者にして特権階級である王侯・貴族を除けば全ての市民が例外なく平等である。誰も覚えていない過去の時代に、古今東西すべての人々が願っていたであろう、あらゆる格差の是正は実現された。
 襤褸をまとって寒さに震える者、飢えて霞すら食めぬ者、雨さえ逃れられぬ屋根を持たぬ者。
 それらは全て、月の歴史書の末端に僅か記された過去の遺物だ。
 遥か昔に離れた故郷――地球なる蒼い珠を眼下にすること数万里。かつて辿った暗黒の道行きは、太陽よりもなお明るい理性の光に照らされた今となっては、何の恐怖も喚起し得ない。そうして金色の大地に降り立った人々は長い時を経て、産まれ、殖えていった。彼らが創り上げたのは、人の持つ数多ある願望のうち、そのひとつを最も完全に近い形態で具現化した文明である。
 誰からも敬われ人民にあまねく富をもたらす完璧な統治機構。
 不可能という事象を消滅の一歩手前まで追いやるほどに発達したテクノロジー。
 何より、幸福が何であるかに対して十全の理解を見出した市民たちの顔、顔、顔。
 いま存在する全てのものが、月というユートピアのシステムそのものだった。
 人類史上、ついに叡智の結実として創生された楽園には、しかし、あまりに不釣り合いな人も存在していたのだけれど。
 少女――蓬莱山輝夜もまた、そうした“不釣り合いな人”の一人であった。
 長きに渡って月を支配してきた一族……その当代の王の娘、つまりは姫である彼女の首元に突き刺さった光は、幾重にも束ねられた多重の刃といった光景として、八意永琳には感得された。
「教育係のあなたがそんな風にボーッとしてたら、教わる方は何をすれば良いものやら」
 輝夜が、大きく息を吐いた。
 ふふッ、と、彼女は笑う。それが単に永琳の失敗を可笑しむものだとは、どうしても思われない。
 首が僅か傾き――永琳の眼には、斬首された美姫の頭部が転がり落ちていくような情景を見つめているような気がしてしまう。しかし、彼女の空想の中で輝夜は血を流さないのだ。俗に断頭台で首を落とされた者は未だ少しだけ意識が残っているという話があるが、彼女の空想に死した輝夜はそれとも違っていた。断面には赤黒い肉がある。断裂した骨の白さも垣間見える。しかし、まるで干された肉か、あるいはざらついた砂礫のように輝夜の頭部は何にもならぬ。人は死ねば器物だが、輝夜は始めから器物の様相を呈している。つまり、死んではいないが生きてもいない。
 八意永琳が、蓬莱山輝夜の父である月の王から姫の教育係を命じられてより幾星霜。
 しかし、その間、毎日のように輝夜と話をしていても、永琳にはこの少女が解せなかった。
 蓬莱山輝夜は、絶世の美女だ。それは、周知の事実である。おそらく月に住まう全ての民衆――賢愚も邪正も老若も男女も、それを知らぬ者とてはあるはずが無かろう。輝夜が居る所、全ての時は停止する。『時間』において連環的な構造が認められるとしたら、それはすべからく輝夜一人のためにある。全て時の経過は車輪が如く回転を続け、留まるところを知らないのだ。現在時を支配するのは輝夜、未来に指を触れる権利があるのも輝夜なら、ただ凡俗な人々にとっては過去だけが彼らのものになる。輝夜が触れた瞬間こそ現在は生まれ未来への運動を約束される。過去を見つめるとは、輝夜が通り抜けた跡を崇拝するにも等しいものであった。
「それにしても、考え事とはね。永琳は薬師なのでしょう? 何か新しい効能を持った薬でも思いついたのかしら」
 目蓋を細めて輝夜は訊いた。言葉にこそ出さないながら、その瞳は退屈を雄弁に象徴する色を明確に帯びている。この少女は、いつも“こう”だ。決して頭が悪い訳ではないし、むしろ賢い方であろう。しかし勉強そのものは好かないらしい。むしろ、筆を手にして紙と睨めっこするよりも他者との対話を好む傾向にあるらしかった。今日も今日とてその通りで、輝夜の顔を視界に収めたまま呆けていた永琳への質問は、襲い来る退屈を打破する格好の口実となったのである。
「確かに私は薬師でもあります。けれど、月の技術はもう十分過ぎるほど発展していますからね。これ以上の飛躍は、全体性への貢献と言うよりも私個人の趣味になってしまいますよ」
 永琳は、失敗を指摘された事もあってか、苦笑して少しだけ俯いた。輝夜は、そんな永琳の表情を覗き込むようにして窺い、何か意外の感に打たれたとでもいった風に呟く。
「ふう、ん。“月の頭脳”なんて皆が呼ぶものだから、どれくらいスゴい人なのかと思っていたのだけれど――案外、普通なのね?」
「姫様は、何か勘違いをされているようですが……この永琳とて人間です。時に錯誤や失敗に陥る事もあります」
「そっか。まあ、言われてみれば確かにその通りだわ。“天才”という眼鏡を通して見てしまいがちですものね、あなたのこと」
 済まなかった――と。
 そこまでは、輝夜は口へ出さなかった。立場が上である自分の方から謝罪するのが気恥しかったからか。それとも何か別の理由があったのか。顔を上げた永琳は、途切れかかった“考え事”の続きを再会しようとした。しかし、なおも輝夜の瞳は永琳の顔を覗き込もうと試みている。頬がふるふると微動している。すッと細められた両眼は、珠を切り裂く様である。触れれば、壊れそうな。そして、実際、そうなのかもしれない。輝夜は一振りの刃だ。光を放つ美しさと、触れたものを例外なく断裂させずにはおかない危うさの併存が輝夜なのである。
 自らが感ずる危うさを、全き外界にこそ適用すべき要素であると主張しないばかりに、輝夜は問う。
「永琳にとって、この“世界”は生きるに値すると思う?」
 小首さえ傾げながら、輝夜は笑んでいた。永琳は呆れる。ここまで来ると、もう完全に勉強を放棄したと同義だからである。しかし、この不可思議な少女との対話を楽しむだけの余地が彼女にもあるのは、また事実であるのだ。
 しかし、何という大仰な質問。そんな事を考えるのは余程の賢人か馬鹿者だけだ。少なくとも月世界にあっては。誰もかれもが『この世界に属するという事実』について、これ以上が無いというほどに満足している。だから、自身の境遇に疑問を持つ必要も無いのである。それなのに、輝夜は。やはり、不思議な少女であった。
「私は、値すると、思いたいですね」
「いやに口を濁すじゃないの」
「認識など、所詮は主観ですから。それに、生きるに値するかどうかという疑問は、死に至るまで明確な答えが出せるとは思えません。一秒先に歩みを進めれば、その先に未だ知らなかった事実が提示されるかもしれない。それによってこの世界をどう解釈するか。変転しないという確信はありませんよ。ですから、死に取り込まれて目蓋を閉じるその瞬間にこそ、ようやく人は世界に意義を見出すのでしょう。……結論を出すべく思考錯誤を繰り返すための期間としては、少なくとも」
「なるほど、ね」
 それがお前の見解か、とでも言いたげに、輝夜は息を吐いた。肯定でも否定でもなく、ただ何の意味も宿っている様子はない。宙空に這った視線が輝夜自身に還った時、彼女はようやく何かを言い出そうとしている様子であった。実に気だるげに頬を動かす姿は、言葉を覚えたばかりの赤子を容易に連想させる。
「世界にはね――――元から定められた意味なんて、ありはしないのよ」
 彼女は、永琳を見はしなかった。むろん、還ったはずの視線も輝夜自身を見てはいなかった。何も見てはいない。見てはいないという事を見ているのかもしれない。蓬莱山輝夜が何を思っているのか、八意永林には窺い知れない。しかし、言葉は聞き届けなければならないと思った。永林の中で、何かの歯車が回った様な感覚がある。それは、『合致』であり『一致』である。いま空間を共有している永琳と、何かを語る輝夜。前者は、後者に動かされ始める。
「もちろん、人間にだって意味は無いわ。どこかで“誰か”が苦悩するの。自分の生きる意味とは? でも、それって馬ッ鹿みたい! 始めから意味を与えられた存在なんてある訳が無いのに、考えに考え抜いて無駄に時間を浪費する。そんな人たちが気付きもしない、世界の“真理”はたったひとつ。この世界には“真理なんて存在しないのが真理”だという事」
 一息に言い切ると、輝夜はからからと笑った。単衣の袖で口元を隠すようにしていたが、腕が顎を覆うよりも早くに口の端が引き攣り、笑い声の発されるのはそれよりももっと先だったのだ。それほどにおかしなことを言ったように永林にはどうしても思えないのだが、しかし、その連続的な笑いは嘲りにも似つかわしくない楽しげなものだ。
 数分とせずに輝夜は荒い息の下に正気を取り戻し始める。目には涙さえ浮かべるその表情、まるで本当に狂気の世界から帰って来たようだった。
 ――否。
 それは至高の狂喜であった。自分の考えが揺るがないということを、確信したが故の喜びだった。
「しかし、姫様。与えられた幸福を全的に肯定するのなら、確かにそれは一個の真実です」
「与えられた幸福……かあ。それって、“誰”に?」
「喩えるなら、“神”に」
 それは、決して口から出まかせの放言というのでもなかったが――『神』という言葉を殊更に強調してしまったのが可笑しかったらしく、輝夜はまた笑い転げた。腹を抱えると、胴体を“く”の字に曲げて、深刻に折れ曲がった小さな身体からは淑やかさという要素からは有りうべくもない、大笑いが絞り出される。
「ねえ、永琳。本当は、神様なんて居ないのかもしれない、と、ときどき思うわ。大勢の人たちが絶対と信じてる“全てのもの”の中にこそ、ふつう神様と呼ばれるものに似た何かがあって――つまり、私たちの世界が考えている神様っていうのは、たくさんの同じ考えの総体を、至高の存在と解釈しようとしているだけなのよ。人間は、自分が創ったまやかしに仕えているのに等しい。そうして、それこそが世界と人間に大いなる意義を与えると思って懸命に跪いているのかもしれないって」
 大いなる意義――それが、いわば生きるに値するこの世界の意義なのだろうか? 輝夜の解釈するところの神の正体が、本当にそんな虚偽に近いものだとするならば。今度は笑いもしないで、輝夜は続けた。もはや誰に聞かれても聞かれずとも構わない様子だった。ほとんど独り言のように、熱の籠った口調を振りかざしている。
「神様が人間の運命を決めているのなら……人間は神様の加護を受けて生かされているという事になるわよね。でも、もし神様が架空の存在と考えるなら、人間は自分自身の加護を受けて生きている事になる。自分自身の運命を、自分自身の手で選択できるのよ」
 やけに醒めているな。
 そう思う永琳も、語る輝夜も、冴え冴えと差し込む光を視る。
 地球。宇宙。星々。太陽。無限にして無間の暗闇。つまりは宇宙だった。
 輝夜はもう笑わなかった。そうして、ただ何かを断定するように言った。縋るような響きで、訴える様な様子で――。
「人間が神様をその手で“殺した”時、それは同時に、人間自身が“神様に成る”時だわ」
 自分の手を、いつの間にか握りしめているという事実に永琳は気が付いた。あまり強く握り締め、爪が皮膚に食い込むのではないかとも思われた。汗が滲んでいた。連動するように視界が揺らいでいる気がする。それは酩酊に近いものであった。文字通り、酒など遥かに凌ぐ輝夜の言葉は月の頭脳の中枢を酔わすのだ。
 目の前に居る少女は、『神』の死について口にしている。それが文字通りに神秘性を帯びたものとして解釈されるべきなのかどうか、直ぐとは判じかねるものがあった。けれども、握り締められた神への殺意を飄々とうそぶくその姿に、永琳は吐き気を覚えた。初めて蓬莱山輝夜の容貌に“惹き付けられた”頃と、全く同じ、腹の内側を掻き毟られるような甘すぎる吐き気を。
「ねえ。……地上って、どんな所なのかしらね」
 もう、言いたいことは無くなってしまったのであろうか。
 永琳から顔を逸らして窓の向こう側、少女は燦然と照り映える地球を見つめる。
 その言葉は、もしかしたら、自分に対して発されたものではないのではないか。そんな朧な危惧の下にある永琳の眼に映ったのは、確かに輝夜の横顔であった。太陽に照らされて放たれる海の光を受けて、姫の顔はやはり蒼く染まっていた。
 地上とは、どんな所なのか。
 永琳は答えなかった。
 退屈を口にするのとは違った響きがあった、ように思う。言うなれば、それは反動的である。いま自分が立つ場所で何かを行うのではなく、どこか遠くを見たいという反動である。埋もれるべきものが表出し、そして自己を肯定せんとする観念が、空気の中に脱した虚しい言を響かせていた。輝夜の眼は泣いているように見えた。彼女は何かを信じているが、それがために何をも信じられないのかもしれない。永琳自身はそう思ったのだけれど、眼前の輝夜に対してそれを伝えるだけの勇気が無い。輝夜の存在は、永琳の認識の外に置かれているのに近いのだろう。月の頭脳をもってしても捉える事の叶わぬ埒外の相手が、物理的にはすぐ手の届く範囲で何かを信じている。それは一目で滑稽だが、数度、見返すたびごとにグロテスクな甘美さを増していくようであった。観念上の理想において、届かない事だけが理想と言うなら、永琳にとっては輝夜こそが最も理想的な惨劇美である。
 善意ある醜さと悪意ある美しさなら、永琳は躊躇することなく後者を選ぶ。全てが美し過ぎるのだから、輝夜もまた特別に美しい。しかしながら、地上への憧れめいた溜息を漏らす輝夜の――何と怖ろしげな自嘲だったことだろう? 

  生きるに値するだけの価値が、果たして月世界にあるというべきか?

 ――生存を全うする事は可能だろうが、少なくとも永林には、存在を留め続けるほどの価値があるとは、どうしても思えなかった。拭い去れない違和の感が、そもそも自分の観念から発されたものではないかという仮定を彼女は怖れた。輝夜の前には何もかもが狂うのである。
 斬り落とした輝夜の頭部を拾い上げ、断面に舌を這わせてみたいと、ふと考えた。
 醜悪さとの同一化こそが自らの望みであるのかもしれないという事実には、あえて目をつぶらなければならなかった。
 輝夜の問い掛けこそは、永琳の抱いていた『考え事』と、同じものであったから。

――――――

 彼女の眼前には、人の介入によるものよりもなお、遥かに人造的な彩りを見せる竹群があった。
 今は居なくなってしまった神々の土地。地上に産まれ落ちた救世主の泣き声と共に、悲嘆に暮れて現世を立ち去った旧い支配者の土地。そこに残れる、戦の女神を祀っていたという朽ちた壮麗さの神殿と、それを支える柱を思い出させる林立だった。
 土地の名は、確か、希臘とかいう名前であった。
 色も形も大きさも、かつて彼女が文献で目にした希臘の建築物とは明らか過ぎるほど違っている。けれど、永劫の時を生きる選択を為した彼女にとって、かつて滅びた物とこれから滅びるであろう物に、いったいどんな差異があるというのであろうか。
 喪われた神は、喪われた人の歓びよりもなお悲劇だ。
 しかし、人間の観念の中にだけ有る『永遠』が消えてなくなるのは、むしろ笑劇だ。
 朽ちぬ魂の前ではあらゆる有限がひとつになる。それは、世界の果てに位置する唯一の『滅び』を形作っているに違いない。
 突き詰めた天然自然の美観は、誰か、悪意ある人の手によって創られたのではないかと錯覚してしまいそうなほどに『おぞましい』。彼女が、地上に回帰して後に考えた事だった。それはあまりに漠然とし過ぎていて、思想と呼ぶには薄弱であった。けれど確信はある。かつて蓬莱山輝夜と初めて対面した時に感じたあの吐き気の正体は、その美しさに受け止めきれない悪意が見出せたからだ。
 極まった美とは、醜と二律背反である。醜さが美しさの中で息切れを起こすが如く忌避されるように、行き過ぎた美もまた集団という凡庸さの中では得体の知れぬ異形に他ならない。
 輝夜は、月にあっての異形だった。
 美し過ぎるが故に、おぞましかった。
 月の人間は死を恐れぬ。
 死なぬというのではない。死ぬ機会が極端に少ないのである。
 元より地上の生物とは桁違いに長い寿命に加え、栄えに栄えたテクノロジーは限りなく安全で、なおかつ完全に近い共同体を造り出した。誰もが飢えず、誰もが富み、誰もが幸福だった。
 しかし、『それだけ』だ。
 長すぎる寿命は精神を摩滅させる。摩滅した精神しか持たない人々は、摩滅した幸福にしか浴しないという現実に気付かなかった。全的な幸福は個人の幸福であり、総体の意思は個体の意思だ。工場で機械にかけて造られる画一の製品のように、彼らは皆、一様に同じ顔をしていたのだ。
 誰かが扇動したのでなく、誰かが求めたのでもない。
 全てが、一つだった。
 始点だけがあり、終点が訪れるはずの無い、月世界は――『楽園』だった。
 だからこそ、輝夜は恐るべきものでなければならない。
 世界に覆い被さった虚構を払いのけるために、林檎を食べよと唆す蛇の役目を背負わねばならなかった。
 そして、林檎を受け取って口にしたのは、八意永琳ただ一人。

――――――

 輝夜に対して吐き気を感ずるなら、月人が皆が皆、同じような笑みを浮かべて生きている様子を無口に無言に見下ろすのは、すなわち歯を食いしばって嫌悪を飲み込むのに近い。
 『彼ら』はひとつの神を奉じているらしいと、永琳の慧眼は過たず見抜く。その神とはすなわち『彼ら』自身だ。『彼ら』自身が造り出した総体なのだ。その閉じたコミュニティのうちにこそ信じる神は具現化され、信じられる神の恩恵は還元される。信仰が不確実な空想に現実を与え、来臨する軌跡こそさらに信仰を強化する。月における街という街、都市という都市、人という人。全てが神の一部であり、画一化した規範である。逸脱は背信であり、背徳であり、邪悪なのである。
 都市にそびえて天を切り裂く塔は、すなわち巨大な牢獄だ。観念に捕え、観念を支えるためにある。
 なるほど――――確かに、輝夜の言う事は一面の真実かもしれなかった。
 信仰の吸収によってその命脈を保つのが神と呼ばれる存在なら、誰にも忘れられた神は、人間に溶け込む事も出来ず、まして怪物と恐れられもせず、ただ過去の遺物として消滅していくしかない。人間は生の終結ゆえに歴史を後代に伝える。妖怪は長命ゆえに自身の記憶をよすがとする事も出来る。しかし、神にはそのどちらもできない。ただ“信じられる事だけ”が彼らを彼らとして固定せしめているのであれば、まやかしがまやかしであり続けるためには、空虚さの向こうに超越性を見出し、それを自らを超えた者と確信する人間たちに支えられていなければならない。
 月こそは、神だった。
 疑うべくもない、神だった。
 この抽象を具象に変えるのは人々の認識である。無数の認識が共有され、基底となって神を形作る。
「なんて、無様なのだろう!」
 『彼ら』は気付きもしないのだ。自分たちを縛っているのが自分たち自身であるという事に。喜んで足枷の下に歩み寄り、笑いながら拘束を受けているという事に。
 蓬莱山輝夜は神には成れない。気が付いてしまった八意永琳もまた、神には成れない。
 いや、始めから、永琳自身が神への同化を拒否していたのかもしれなかった。この見せかけの理想郷に対する幾許かの反逆の念を抱いてさえいなければ、そもそも輝夜の言に理性を揺さぶられるという事など有り得べくもない。帰属する者としての使命と、自己を自己たらしめる脱却の願望とが相克を演じる段階など、いつの間にか過ぎ去ろうとしていた。
「――――私にとって、“世界”は生きるに値しない。何もかもが虚ろな痴れ事なのだ。機構の手によって無尽蔵に与えられる幸福も、全体のためにひとつを磨り潰すだけの長過ぎる平穏も」
 疑念は確信に変わりつつある。目に映る全ての色が褪せたのではなく、自らの手で拭い去ろうとしていた。混合された美麗の極致は、手を触れて壊したくなってしまうこともあるものだ。
 少なくとも、月で生き続ける限りは。

――――――
 
 濛々たる竹林の影が、その度合いを、もうだいぶ薄めてきた。
 あと数分も歩けば、輝夜と妹紅がスペルカードルールに名を借りた殺し合いに興じる現場に到着するだろう。
 彼女らの言う殺し合いは『遊戯』であり、すなわち『友誼』だと永琳は思う。
 前者にとって、後者は千年も前に求婚を退けた男の忘れ形見であるに過ぎない。いわば妹紅が輝夜に逆恨みをしている。しかし、妹紅が輝夜に執着する理由はそれで説明できるが、では反対に輝夜が律義にも妹紅との殺し合いに応じている理由とは何なのであろうか。もはや、それこそが蓬莱山輝夜の終わりなき生涯に十全の意義を与えるためのものであったに違いないのであろう。本当に輝夜が妹紅を嫌っていれば、いちいち手を変え品を変え戦いに赴くはずが無い。
 つまり、そういう事なのだ。
 輝夜は妹紅を『好いている』。
 妹紅が輝夜を憎むように、輝夜もまた妹紅を宿敵として心に留めているのである。
 千切れ飛ぶ肉体こそが二人の交歓であり、自分より先に死に逝く相手を嘲笑する声こそすなわち睦言だ。そこに永琳が入り込む余地はない。いや、入ろうとしてはならない。何故なら、それが輝夜の望んだものだから。妹紅と刹那、契り合い混濁する死の夢こそが、輝夜が到達した世界より見出した意味であったろうから。
「――――姫様は、私との約束をお忘れになったのだろうか?」
 そんなはずは無い、と思いたかった。
 月に巣食う意義なき平穏からの脱却を望めばこそ、蓬莱山輝夜と八意永琳は結びついた。それはありきたりの友情や恋情よりも、肉親よりも強固で緊密な絆であったはずだ。あの白髪の少女ごときに割って入られる筋合いなど無いのだと叫びたかった。
 しかし、輝夜があくまで妹紅と関わり続けるのを望むのなら、永琳は強いて引き下がらねばならぬ。屈辱に耐えて。歯を食いしばって。血の涙を流して。
「姫様。蓬莱山輝夜。あなたが忘れても、私は決して忘れないでしょう。八意永琳の命はあなたのためにある。二人の足跡がこの世の果てに証を刻み、世界が最期を見出す時まで」 
 しかし、それでも誓う事だけは何よりも自由に解き放たれているはずだ。
 かつて出会った輝夜の姿が吐き気を伴う美しさだったことと同じに、その放縦さに忠誠を誓う価値は有り過ぎるほどに有る。八意永琳は、蓬莱山輝夜のためだけに、生きている。

――――――

「姫様――あなたは何故、私に“あのこと”を問うたのですか」
「あのこと?」
「生きるに値するか、否か……と、いうことを」
 相手の言葉を聞くか聞かぬかのうちに、輝夜は頭を振り立てた。まるで犬か猫が戯れに身体を震わせているように、ぶるぶると激しい物であった。視界に入ったその姿から、どうやら相手が笑っているらしいという事を思うまで、永琳の認識が追いつくのには、ややあった。
 輝夜は笑う。部屋も笑う。高級な丁度も笑う。かつて輝夜と問答した空間そのものだって、もちろん笑う。あるいは記憶も――? いま二人が居るのは、紛れもなく『世界は生きるに値するか否か』について対話した場所なのだ。
 やはり、彼女は笑うのだな、と、思う。
 どうやら、輝夜という少女はひどく“諦めて”いるのである。彼女にとって月での平穏は毒に等しい。肌を通して魂の芯まで染み渡るような、あまりに効果的な毒なのだ。しかし、その毒を毒と気付いているという点で、輝夜はあらゆる月人とは違う。甘い甘い毒に舌を浸してしまった時、人はそれに逃れられぬ依存を負わねばならぬ。自ら骨の髄までも侵されることに快楽を見出さねばならぬ。私にとって、それは嫌なことか、と、いう疑問が永琳に兆した。輝夜との対話は、あるいは月以上の猛毒……いや、それはむしろ媚薬だ。はじめて蓬莱山輝夜に相対した瞬間より、八意永琳はその悪意ある美貌という媚薬を飲み込んでいたに違いない。あの吐き気とは、彼女の精神が喚起した儚い防御反応だったのである。
 震える全身が徐々に静まり、今度は両手で顔を覆う輝夜。
 単衣の袖から覗く腕、手首、指先。その全てが蝋石のようで、しかも蝋石よりも遥かに輝いている。仄見える頬の形は、いま二人が立っている金色の月か、あるいは蒼い地球の姿であろうか。あらゆる比喩を吸収する美しさの下で、少女の唇が蠢いた。独立した小生命が如くに動く舌は、いつか誰かの舌をも嘗めまわすのであろう。細工物のように並んだ歯列は、愛しい者の唇を優しく噛むことも果たしてあるかもしれない。徐々に強く、それでいて徐々に緩慢に。何かに怯えながら、輝夜の告白は始まった。
「…………私、ね。死ぬのが怖いのよ。生き物だから、人間だから。きっと死ぬ事について思い悩む時が来るとずっと思っていた。でも誰に聞いても死は怖くないというの。父様でさえ、そう言うのよ。皆、それを語る時、道端に無い石ころを想像の中から引っ張り出そうとするみたいに、上の空って顔」
 笑っていたのではなかった。
 蓬莱山輝夜は、ただ泣いていた。眼に映った頬は、つい先ほどまでの柔らかげなものとは似ても似つかない岩石めいた硬さを獲得しているようにさえ思われた。その上を幾つもの涙が浸食していく。見た目には単なる小さな滴でしかありえないはずのそれは、永琳にとっては地形を削り取る大河も同じ。輝夜の涙は、慟哭の涙だった。受容を忌避するが故に受容を拒絶された者の、慟哭だった。
「何もかもが嘘みたい。皆の目は言うわ。私が狂人だって。抱かなくてもいい妄想を抱く馬鹿者だって。私に言わせればおかしいのは皆の方なのに、“互いに結び付いてたった一つ”であり続ける事だけが唯一の価値だと思い込んでいて、死ぬという未来は取り除かれたも同じだと言いたげで――永琳、前に言った事、あなたなら覚えてくれているわよね?」
 袖で涙を拭いはしても、声まで嗚咽に満たされてはいない。
 むしろ歓喜である。溜めこんでいたものを一気に解き放ったとでも言いたげに、やはり輝夜は笑むだけであった。いつかのように意義を求める“誰か”を嘲笑する笑みを。
 ああ……! と、永琳はようやくにして合点が行く。トクトクと拍動が増すのが解った。冷静さを維持しようとしても、この真実に接せざる者が傍から言っているのと同じくらいに意味の無い試みであった。
 蓬莱山輝夜が嘲っていたのは、つまり、蓬莱山輝夜そのものであった。
 果てしの無い自嘲の下に、彼女は身を置いていた。
 そうすることでしか、汚穢じみた美貌を持つ彼女の狂気は、輝夜自身、納得のいくものではなかったのであろうから。月の『正気』からすれば、明らかなる『狂気』を抱いていたに違いなかったのであろうから――――。 
「この世界には本当の真実なんて始めから存在しないってこと。もしかしたら、彼らは既に彼らに必要な真実を見つけているのかもしれない。“たった一つ”という、神様に似た何かに仕えるという真実を」
 もはや、笑んでも慟哭してもいなかった。あるのは、ただ、真摯な絶望だけだった。
 いま立てる“世界”への絶望。
 虚妄に満たされた幸福への絶望。
 見せかけだけの真実を疑わざる思考への絶望。
 絶望する事だけが、二人を繋ぎ止めようとしていた。
 能面のような……と言うにはあまりに起伏に富む感情を内包し、輝夜は訴える。もう、お前より他に私を解ってくれる者は居ない。お前が欲しい。“私のものになってくれ!” 
「だからね、永琳。今度は、私たちが彼らとは違う真実を探しに行きたい。月から出て、何もかもがバラバラの荒れ地に二人で立つの。この世界が無くなっても、最後まで全てを嗤い続ける事ができるような真実のために。あなた、どんな薬を作ることだってできるのでしょう? だから、お願い。私の願いを叶えて欲しい。私と一緒に――」

 ――――不老不死になって欲しい。

 神を殺すとは、そういうことなのだ。
 それが、月世界を本当に支配する存在なのかどうかは不明瞭としか言えぬ。しかし、人々が自分たちの創り上げたものを奉ずる様子は、まさしく神に相対して畏怖と畏敬を抱くのと同じことだ。居るのかどうかも解らないものを絶対と信じる様子まで、含めて。
 みな死を恐れない。
 みな全体に同化する事を最高の幸福と信じ、同一の幸福に属する事を普遍で絶対の価値と信じている。それこそ『神』に対するそれが如くに。総体の意思こそが、彼らの求める神である。総体の価値に背く事は、背信であり背徳である。死を恐れない事もまた総体であるなら、死を恐れて不死を願うのもまた背徳である。
 不死の獲得こそ、蓬莱山輝夜の手に握られた、神を殺すための刃だ。
 迷う余地などどこにあろう?
 事ここに及んで全体への帰属など、それこそが馬鹿げている。愛しい狂気と一つになれるのならば、自分自身もまた狂人の烙印を押されても構わない。肚は、決まった。
「ならば今このときより、私の主君は月の王ではない。蓬莱山輝夜、あなたこそが、八意永林の主君です」
 
――――――

 日は山の天辺を遥か越えて沈もうとしていた。
 黄に塗られつくした天地の情景は、いま再び到来する夜の手によって闇に沈み始めていた。けれど、その中にあってなおひときわ明々と爆ぜる輝きは、やはり戦いのもたらした火焔に他ならないであろう。
 暗さのせいで朧気ではあったが、刹那的な煌きの中に照らされたのは、確かに粉砕された輝夜の胴体が弾け飛ぶという見慣れた光景であった。それほど間を置かずに肉と脂肪が焼け焦げる匂いが辺りを満たし始め、千切れた単衣が赤色に包まれながら捻じれていくのが見えてくる。
 ……どうやら、今回の勝負は輝夜の負けらしい。
 匂いのひときわ強くなる方へと足を進めると、まるで巨大な鋤か鍬で掘り返しでもしたように大地が抉れて散乱していた。表面を覆うさらさらとした土は木っ端微塵になっており、その下に隠れていた硬い土がよく見える。さらに抉れた地面は真っ黒に焼け焦げてぷすぷすと白煙さえ立ち昇らせているではないか。おそらくは、高熱の爆炎に焦がされたのだろう。
「よ――――おッ! 遅かったじゃないか、永琳」
 抜けて出てきた竹林を背に、さて我が主はどこに“飛び散っている”かと視線を巡らす永林の元に、足下から突如として声がかけられた。咳き込みながらも無理矢理の快活さを擦り込んだような、少年とも思われる若々しい声。しかし、線の細さを残した様子は、やはりそれが少女のものだと知れる。永琳は突拍子の無い声に驚き、直ぐさま自分の足下に目を落とした。……木の根元に、暗がりに喰われながら、少女の上半身が横たわっている。白かったはずの髪の毛もシャツも、今や血と脂で真っ赤に染まりかつて存在したであろう下半身はどこにすっ飛んで行ったものか、ギザギザと不揃いな胴体の断面からは、大小様々の肉色をした紐状・縄状の臓物が零れ落ちていた。
 間違いなく、藤原妹紅であった。
 はァ――と、ため息をつきながら、
「あなた……そんなにぐちゃぐちゃになっている所をあの半獣が見たら、あまりの事にショック死してしまうかもしれないわよ?」
 と、永琳は妹紅へ言った。
「大丈夫、大丈夫。慧音はあれで結構、図太い神経をしてるんだ。でないと、悪い妖怪やなんかから人間を守るなんてできっこないさ」
 薄紅色の汁を垂れ流す空っぽの眼窩を微笑に歪ませて、妹紅はかッかと笑った。下半身が吹き飛ぶ事など、膝を擦りむいたのと大して変わらないんだとでも言いたげだった。
「それはそうかもしれないけれど。まあ――今回の勝負は姫様の負け、ね」
「おっ。それは嬉しいな。まさか、八意永琳みずからが判定を下してくれるとはね」
「目の前で自分の主がバラバラにされる光景を見て、勝利を確信するほど耄碌してはいないわ。それに、どのみち、あなたもそこまで肉体が損壊していたら、さすがに苦痛でしょう。そろそろ意識が遠くなってきたのではないかしら?」
「――――ああ……実はね。喋るのも……キツい。そろそろ、私は“一回…………死んでおく”。じゃあ、な。輝夜にも……よろ、し………………」
 そこまで言いかけて、妹紅は、顔に笑みを張り付けたまま絶命した。
 首がガクリと垂れ、枯れた花のように生気が消え去っていくのが見えた。が、これは所詮かりそめの死に過ぎない。程なくして魂に刻まれた再生のプログラムが発動し、ついさっきまで血みどろだったとは思えないくらい完全な復活を見せるだろう。
「さて。私の姫様は、どこに居るのかしらね」
 永琳から、誰に見せるでもないおどけるような独り言が漏れた。
 妹紅との会話に思いのほか時間がかかり、既に夕暮れから夜と呼ばねばならないような時間帯へと移行してしまっているようであった。つるべ落としなのは何も秋の日だけではあるまい。空を見遣れば月さえ未だその姿を薄らとしか見せてはいないものの、星明かりの矢が如く地を刺す様子は、それだけで大小無数の灯明が据え付けられたような有様である。
 鼻さえひくつかせるように顔を巡らし、薬師は小動物めいたすばしっこい足取りでもって妹紅の元を離れていく。なおも馥郁たる焼けた血と肉と土の匂いが感覚を撫で、彼女は、いつか抱いた感慨を思い出していた。空想の中で、輝夜の頭部は斬り落とされた。それが詮無いものであると、その時は意識の向こうへと押し流してしまった。けれど、今は違う。こうして輝夜と共に不死となった今となっては……。
 ――星々が不揃いな照明を投げかける所、妹紅の爆炎によってすり鉢状に抉り取られた地面は、あたかも古い時代の劇場の形だ。
 その中心部、最も窪みが深まる場所に、輝夜は、『有った』。
 急速な衝撃に跳ね飛ばされ、切断というより力任せに千切られたとでも言った方が正確なその断面は、熱と炎でわずか焼け焦げている。かろうじて中心部分は薄桃色の美しい装飾と真白な軸を残してはいたけれど、祈念した通りの静寂を伴うものではなかった。それでもやはり見つけただけ幸いとばかり、永琳はすり鉢を下る。一歩、二歩、三歩。進むたびごとに足の裏が焼けた地面を踏み砕き、ここではないどこかに落ちているような感じがしていた。
 それほど時間をかけずに、彼女は目当ての物に手を伸ばす。しゃがみ込んで、それから両手で、しっかりと抱き上げた。両の瞳は、赤子の眠るように閉じられていた。夢の神に囚われて、きっとその住まいに留め置かれているに違いない。かつて存在を否定した神であっても、幻想郷では信じられる限り真実であり続ける。けれど、それでさえ人々の祈りの中から発し得るしかないのだ。神でさえも絶対を奪われている。ガラス越しの存在を本当かどうかと考えるのは、いつだって人間の意識のもの。しかし、ガラスを自ら破ろうとする者は少ない。肉が裂け、血を流すのが怖いから。
 いつの間にか、自分の顔の高さまで持ち上げたのは――切断された輝夜の首。
 長い黒髪が垂れ、地面にも着きそうになっている。ひとしきり星明かりに見つめると、永琳はひしとそれを胸元に抱きしめた。血に塗れてはいても、やはり輝夜は輝夜だった。彼女が子供の頃からもう何度と、永林の胸に顔を埋める事があった。それが再生が始まるまで束の間の器物と化した今、往時とは違う理由で永林の瞳を潤ませていた。
 それは、あからさまな欲求だった。
 友情か、恋情か。それともただの好奇心か。
 ……違うのだ。きっと、それは、どこまでも忠誠に違いない。 
 今この場の、死の夢に没入する輝夜をその腕で抱きしめる様な、忠誠なのだ。
 極めて冷静に、永琳は――――輝夜の断面に唇を触れた。柔らかい肉の襞に舌が触れ、白い歯が鉄錆の味を切り裂いて骨に突き当たった。流れ出る赤い筋が顎と喉に引かれた。ころころと、まるで口中で珠を転がし遊ぶみたいに、永琳の頬は蠢く。
 そうして彼女は、愛しい主君の“ひとかけら”を、喉を震わして飲み下した。

――――――

『この世界は、そのままでは、たえられない代物だ。だからおれには月が要る、あるいは幸福、あるいは不死、常軌を逸しているかもしれないが、この世のものではない、なにかが必要なんだ。』

(蓬莱山輝夜こそは、カリギュラ以上のカリギュラであると、八意永琳は本当に信じていた)
(皇帝は死に際に叫んだ。“おれはまだ生きている!”)
(では、輝夜は何を叫ぶのだろうか)
(あるいは、何も叫ばないのか。幾度となく塗りつけられる死の中で)

――――――

 八意永琳にとって生の意義とは、全てが崩壊した時にこそ見出されるのかもしれなかった。
 崩れ落ちた天と、万象を飲み込んで陥没した大地。千々に砕けて降り注ぐ金色の月。
 遥か妄念にも似た空想の果てに、蓬莱山輝夜が佇んでいる。その表情は、ただ眼前に残れる全てを嘲り笑っていた。世界の崩落を導いた愚かな女を愛し、また軽蔑するための笑みなのだ。
 嘲られることにこそ、永琳の全てがあると言っても良い。
 そうだ、自分は――。
 八意永琳はこの真実無き世界を粉々に打ち砕き、それを、死したる者たちの血に塗れた手で主君に捧げ、そして――――。
「全てが無くなって、何かもが滅びて……それでもなお、残骸の中で嗤い続ける貴女が見たい」
 その時まで、彼女は眠り続ける。
 消えかかかった夢の神という幻影の膝元に抱かれて、朧気な幸福に溺れ続ける。
 八意永琳が蓬莱山輝夜のために真の目覚めを見出した時、滅亡という真理が同時に覚醒するのかもししれない。その時こそ、世界には意味が見出される。ただ一つ、滅びるという意味が。
 居もしない神が創り出され、仮初めの偉大さに突き動かされた言葉が何もかもを凌辱する。
「モルフェウスはようやく醒めた」――――と。

――――――

 ねえ。永琳。今のあなたって、何だか凄く、凄く美しいの。
 よく磨かれた珠のように? それとも、私たちがかつて住んでいた、あの月のように?
 ……ううん。きっとどれも違うのだわ。
 今の永琳は、そう、まるで……。


 ――――吐き気をもよおすくらいに、美しい。
どうも。こうずです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

今回のSSは、輝夜が蓬莱人になるまでの過程を想像≒妄想しつつ、永琳の病んだ忠誠心を描いてみた、つもりです。

月の世界に関して触れた箇所が幾つかありますが、「人間の幸福、かくあるべし」という絶対の規範=住人の総体的意思の別名としての神に支配された、ある種のディストピア的世界を意識して描写してみました。輝夜が感じていたという“退屈”を、自分なりに解釈した結果であります。それにしては酷く朧気だとは思いますが……精進。

なお、作中の『この世界は、そのままでは、たえられない代物だ……』以降の部分は、アルベール・カミュ「カリギュラ」(岩切正一郎訳:ハヤカワ演劇文庫)からの引用である事を、付記しておきます。

……それにしても、二作続いて殺伐とした話を書いたので疲れました。
次は、もっと平穏な内容を目指したい思います。


よろしければ、評価・感想等を、よろしくお願いしますです。
こうず
http://twitter.com/kouzu
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1210簡易評価
5.無評価名前が無い程度の能力削除
これはいいヤンデレ。
永琳の欺瞞は、それが故に彼女を従者たらしめているのだろうけれど…
永遠の生の中で、互いは永遠に交わらないだろうことが見えてしまう。
それを可能にするほど、彼女は天才だろうので。これは私見ですが。

よいえーてるでした。



誤字をば。

>>八意永林の主君→八意永琳の主君
7.100名前が無い程度の能力削除
おっとフリーレスになってた
採点忘れ。
9.70名前が無い程度の能力削除
ほう、これはまた、なかなか斬新。
あと、やっぱり読み辛いですかねぇ。
11.90名前が無い程度の能力削除
最後の台詞にやられた
12.90名前が無い程度の能力削除
頭の弱い私が一度読んで、これは良いシリアス、と思った。
二度読んで頭を抱えた。三度目は……また今度読みに来ます。ちょっと疲れたし。
何度かでてくる「林」の誤字?がもったいない。
これさえなければ作品にもっと没入させられると思う。
15.無評価こうず削除
>5.
ありがとうございます。
面白いと言っていただけるのはやはり嬉しいです。

>6.
不死身である以上、仮に心中なんかもできないわけで、だから永琳に束の間、融け合う機会を与えてみたらどうかな……なんて考えました。

>10.
やっぱり、ネット小説は行間を開けるなりした方が良いんでしょうか?
前回はそうしたんですが……模索中です。

>12.
ありがとうございます。
咄嗟に思いついて挿入した甲斐がありました。

>13.
輝夜の語っている「神」観は、かつて流行った実在の思想をモデルにしたものでした。もっとも、上手く作中に取り込めているかは判りませんが……。
誤字の指摘、ありがとうざいます。今後は推敲をもっと厳に行っていきたいです。
24.90コチドリ削除
私はこの素晴らしくも糞ったれな世界を冗談抜きで愛していますので、
その礎ともいえる知恵の樹の実を食したエヴァさんと、それを唆した蛇さんには大変感謝しています。
かつてのエデンや月の都、いやはやぞっとしませんねぇ。穢れ最高!

ただ、作者様のエヴァは知恵の樹の実どころか生命の樹の実も自分で作り出しちゃったし、
主が望めば神も世界も殺しそうでかなりデンジャラス、最後はサロメみたいな行動してるし。なにとぞ穏便にね。

作品についてはそうですね、文体は文句なしに好きといえます。しっかりと咀嚼するに足るクオリティかと。
永琳先生や姫様の描写も、凡人には理解できないオーラがビンビン出ててグッドだ。
ですが、私個人が定義するエンターテインメント、その成分がちょっと物足りない気がします。
思考も大事だけど体を動かすことも忘れずにね、って感じでしょうか。

好き勝手言いましたが、美しい文章による美しい物語を読むのはやっぱり快感ですね。
ありがとうございました。
25.無評価コチドリ削除
美しい文章には瑕が似合わないと思うので

>顔を上げた永琳は、途切れかかった“考え事”の続きを再会しようとした→続きを再開
>輝夜は笑う。部屋も笑う。高級な丁度も笑う→高級な調度
>滅亡という真理が同時に覚醒するのかもししれない→するのかもしれない
30.90保冷剤削除
輝夜がどーして謀反を企てたのかって部分、結構大事だと思うのだけどこのままではいかんとも理由なき反抗に見えてしまって仕方がない。ハーモニーしちゃってる共同体の中で育ちながら、どこから死を恐れる価値観を拾ってきたのだろうか、と。
読み解くに、生まれ持ってしまった美しさに由来していたのでしょうか。永琳の感受性が捉えた異物感・違和感は読み始めてすぐ読者の顔面にパンチをくれると同時に、物語の動機付けにもなっていたののか。
輝夜が美しいのは彼女のゴーストがそうだったからなのか、あるいは生まれ持った身体がゴーストを引っ張って成長したのか、いずれにせよ輝夜の反抗の理由を考えてゆくと、誰しも持つ「だって嫌だから」っていう不条理にぶつかってしまいそうです。だとしても万人に反旗を翻してでも志を追うってのはなかなか出来ないことで、あるいは姫だからこそヤッチマッタのかなあ、と考えると、輝夜って存在は月の社会が必然的に生み出したものなのかもしれませんね。良作です。
33.90名前が無い程度の能力削除
面白かったけど、脳をフル稼働させて読む必要があった。凄く疲れた……。
何故かはわかりませんが、ポーの小説を連想しました。詩的表現の部分に似た印象を抱いたのかもしれません。
何にせよ、面白かったです。