吸血鬼を殺したい
1
館の主は私を食堂のテーブルに導くと、やたらと豪奢な椅子に腰掛けさせた。それから、背中から透明の羽を生やしたメイドたちを呼び、地下倉庫からワインを持ってこさせる。グラス二杯にどんよりとした色のワインを注がせると、一つを自分の前に、もう一つを私の前に置かせた。
「あなた、正解よ」
口の端をつり上げて、館の主は楽しげに笑う。
一方、私は頭の痛みに顔をしかめる。
この館はどこもかしこも真っ赤に染まっている。屋根や外壁から、内装の壁紙に絨毯、調度品の一つ一つまでもが赤色だ。メイドが手からぶら下げているジョウロまで真っ赤だったときには、さすがに「こいつはどうかしている」と思わずにはいられなかった。
そして、目の前に出されたワインすらも赤い。
けれども、それらを軽くしのぐ本当の紅色が私の目の前にある。
椅子に座っている小さな館の主は、切れ長の目で私のことをしげしげと眺める。紅色の瞳は血の色が透けているかのようであり、蝋燭の炎しか光源のない薄暗闇で、猫の目のごとくギラギラと輝いていた。
少し息苦しく、襟のホックを一つはずす。今着ている――着させられているのは、いわゆるチャイナドレスと呼ばれているたぐいのものだ。シャワーを借りた際に、一緒に貸し与えられた着替えである。館の主はチャイナ服を着せられた私を見ると、「さすが東洋人」と一人で納得していた。
「正解……ですか?」
「そう、正解。この紅魔館を頼って大正解。山道を下った先には神社があって、そこには巫女がいるのだけれど……あれはダメね。情け容赦どころか慈悲もないとの大不評。あなたが助けを求めたところで、門前払いをされるのが関の山だわ。無事にたどり着ける保証もないし」
館の主は揺らしていたワインにようやく口を付けた。
見た目は本当に幼いのに、なぜだか酒を飲む姿が似合っている。似合っていると言うより、板に付いているという感じだろうか。小さな体躯。作り物のような青い髪。ふわふわとした人形のような服。口から覗く鋭い牙。
レミリア・スカーレット。
紅魔館の主にして、外界からの異邦人である私に救いの手をさしのべた人。
そんな彼女を見ていると、私は体の震えが止まらない。彼女の死角で自らの太股をつねり、どうにか痛みで自分の体を従えているが、いつ耐えられなくなるか分からない。
元の世界からずっと携えている獲物が、いささか重みを増してきたように感じられる。
館の主はニヤニヤしながら、ようやく私の名前を尋ねた。
「で、あなたの名前は?」
私は小さく息を吸い込んでから答えた。
「……十六夜咲夜」
2
いい名前ね、とレミリアはうなずく。
不思議と言語は通じているようだが、彼女には日本語のニュアンスや響きを理解できているのだろうか。先ほど話した魔女を名乗る少女とも言葉が通じていて、私が名前を名乗ると、館の主と同じように「いい名前ね」とつぶやいていた。
「パチュリーが説明したとおり、ここはあなたがいた世界とは別の場所よ。それは何となく理解できたかしら?」
「……はい」
さっきの魔女から一通りのレクチャーを受けていたので、私はどうにか状況を受け入れられた。私のような異邦人を迎えるのも初めてではないらしく、魔女の説明は分かりやすく、慣れているようだった。
ここでは私の世界でオカルトとして扱われていたものが息づいている。
妖精も、魔女も、悪魔も、
「ふむ」
吸血鬼でさえも。
「理解が早いのは感心だが、それにしても落ち着きすぎてはいないかい?」
私は身震いした。
一方、館の主は小首をかしげる。
「ふつうは取り乱すものだ。狂ってしまうのもおもしろくないが、あまりに落ち着き払っているのも興が冷める。……パチュリーは魔法を見せてはくれなかったのかい?」
「見せてくれました。火を出したり、水を出したり、閉ざされた図書館なのに風を吹かせたり……」
「それを体験しておいて、その調子か。へぇ、よほど神経が太いと見える。……一つ余興をしようか」
館の主は勝手に納得して、妖精メイドに包丁を一本持ってこさせた。彼女は包丁を手に取ると、まるで大根でも切るみたいに、自分の左手首をざくりと切断してしまった。
血は吹き出さなかった。
代わりに切断面から飛び出してきたのは、血の色をしたコウモリの群れだった。スプレーを撒くような勢いで、コウモリは部屋の天井に広がっていく。羽音とキリキリとした鳴き声で、あっと言う間に食堂はうるさくなってしまう。
コウモリたちはしばらく天井を飛び回ると、帰巣本能を呼び覚まされたように、手首の切断面へ戻っていった。最後の一匹が収まると、館の主は手首をそっと切断面に添えた。すると、何事もなかったかのように手首はくっついてしまった。
ごくり、と私は生唾を飲んだ。
心臓が高鳴っている。たまらず胸に手を置いて、その高鳴りを鎮めようと試みる。
「その反応……私の技に驚いているというわけではなさそうだ。むしろ、既視感を覚えているような……」
伸びた爪の先で、館の主はワイングラスをはじいた。
「さては、吸血鬼と会ったことがあるね?」
私は思わずうなずく。
身震いが止まらない不審な有様で、上手な嘘をつける自信がなかった。
「吸血鬼を殺したことがあります」
始めにそう言って、私は幻想郷へ来るまでの経緯を話し始めた。
3
幼い頃から、私は刃物に夢中だった(あるいは、刃物が私に魅入っていた)。
母の話によれば、幼い私を台所で一人にしておくと、必ず包丁に手を伸ばそうとしたらしい。そのため私が幼かった頃は、わざわざ包丁を使うたびに食器棚の一番高いところへ隠していたという。
幼稚園児になってハサミを持つようになると、私はまず同級生の髪を切った。そして、大いに怒られた。そのことがきっかけとなり、私は自分と刃物の間に距離を置くようになったのだけれど、私はますます刃物の魅力にとりつかれていった。
小学校も中学年になると、刃物を使った犯罪が世の中にたくあんあることを知り始めた。その頃から、私は刃物を人間の軟らかい肉に突き刺してみたいという衝動に駆られるようになった。だが、犯行に及べばどうなるかは分かっていたから、私はその気持ちをじっと我慢していた。調理実習すらも休んだ。
大学生になって一人暮らしを始めると、私と刃物、一人と一存在だけの時間が増えた。授業を終えてアパートに帰宅すると、一も二もなく、すぐさま刃物と戯れた。服やCDを買うお金は、あっと言う間にギラギラとした刃物に変わっていった。
出刃包丁から無骨なサバイバルナイフ、いかにも胡散臭そうな退魔剣など、その収集は多岐にわたった。
大学には一年も通うことなく、私は引きこもりになった。なにしろ、道行く人が誰でも攻撃対象に見えてしまうのである。彼、彼女らは動くだけのサンドバックだ。だったら刺さずにはいられない。
結果、私はついに人殺しに走った。人を刺すのは豆腐を刺すように手応えがない……などと言われているけれども、そのような安っぽい脳内補完では我慢などできない。夜な夜な町に繰り出しては、老若男女を問わず、次々と刺し殺した。
私が人を刺したことで、集めた刃物たちはより貪欲に血を求めだした――ように見えた。私は駆り立てられるように、ただひたすらに人を殺していった。しだいに、持ち手が手のひらに吸い付くようになり、私と刃物の境界線は曖昧になっていた。
だが、私は常におびえていた。大胆な犯行をする殺人鬼でありながらも、実際は小心者で、いつ逮捕されるか、いつ自分が犯人だと周囲に知られるか怖かった。私はますます外界との接触を拒み、ただひたすらに孤立していた。その際のストレスで、髪の毛の色はマンガみたいに白くなっていった。
そして、新聞で『白髪の殺人鬼!』などと騒がれるようになった頃、私は吸血鬼と出会ったのである。
4
深夜、集合住宅のそばで一仕事を終えた直後のことである。私が若い女性の死体を見下ろしていると、急に月明かりが陰った。
今日は快晴で雲一つないはずだ。
そう不思議に思って振り返ると、人の大きさをした何かが、バサバサと羽ばたいて宙に浮いていた。瞳は黄色に輝いていて、時折ぱちぱちと瞬きをしながら、なにも言わずにただ私のことを見つめている。
私はそのとき、何の躊躇もなく、ありとあらゆる思考の手順を飛ばして、そいつを刺し殺してみたくなった。刃物で人を刺すのはとても興味深い。では、異形のものに刃物を突き立てると、いったいどんな気持ちになるのだろうか?
体がふわりと軽くなるのを感じながら、私は血塗れのナイフを手に吸血鬼へ襲いかかった。人としてあるまじき跳躍力で、私は目標との距離を一瞬にして縮めていた。
――否、跳躍ではない。
そのとき、私はすでに飛んでいたのだった。
吸血鬼は体を霧にして、私の攻撃を容易に回避した。それからの私は、まるで子供の扱いであしらわれる。吸血鬼は霧になり、コウモリになり、時には狼になって私を攻撃してきた。ひっそりと眠るベッドタウンの夜空で、私と吸血鬼は何度も交差した。
そうして、ついに決着をつける瞬間がやってきた。
私が求めたのは圧倒的な速度だった。突いた先から霧になるあいつを殺すには、あいつが霧になるよりも早くナイフを突き刺すしかない。空を飛ぶだけではダメなのだ。もっともっと、決定的にとどめを刺せる力が――
吸血鬼の動きが止まった。
私は一瞬の隙を逃さず、そいつの胸に銀製のナイフを突き立てる。
このとき、私は時間が止まっていることに気づく。
なぜならば、強い突風で舞い上がった木の葉が、空中でぴたりと制止していたからだ。
落下する吸血鬼を追って、私は集合住宅の屋上に降り立った。吸血鬼は息も絶え絶えだったが、どうやら私との戦い(あるいは奴にとってはダンスだったのかもしれない)に満足しているようで、口から血をこぼしながらも笑顔だった。
だが、私が最後を看取ってやろうとしたら、そいつは急に哀れむような顔をした。空を飛び、時間を止め、吸血鬼に打ち勝った私にそいつは同情しているらしい。
吸血鬼はつぶやいた。
「可哀想に……。私のようなあぶれものと出会ってしまうだなんて、よほど、君はいろいろな人から忘れられてしまったんだね……」
そして、吸血鬼は目を閉じる。
途端、私は見知らぬ場所にいる自分に気づいた。
見知らぬ森の中に一人。
湖の対岸に、誰かが住んでいるらしき真紅の館があった。
5
「――まさか、そっちの世界に同胞が残っているとは思わなかった」
まず、館の主はそのことに驚いた。
「我が同胞に普通の人間が出会うことは、万が一にもあり得ないことだろう……。忘れ去られた存在は、幻想郷に誘われるのが世界の理。だが、考えようによっては忘れ去られようとしている者同士が合間見えるのは当然のことか……」
彼女は一人納得し、うなずく。
「それで、ついに対等にわかりあえる奴と出会ったというのに、そいつを殺してしまったわけだから……あなたがこちらの世界へ来るのも不思議ではないわ」
ワインを飲んで一息つく館の主。
私は額に汗を浮かべ、彼女の涼しげな顔を見る。
いよいよ体の震えが激しくなってきた。特に右手だ。ナイフに手が伸びようとしている。
吸血鬼を殺したとき、私は表現しようのない達成感に満たされていた。ナイフでやつの胸を突き、薄くて鋭い刃が血肉に埋もれたとき、私は自分の心すらも温かいものに包まれたような気がしたのである。
でも、胸をナイフで突けば生物は息絶える。
達成感の後には喪失感しか残らない。
目の前にいる……幼く紅い吸血鬼の胸に、銀色の刃を沈めてみたい。
たとえ、死による喪失が待ちかまえているとしても、今があまりにも苦しすぎる。
「……殺してみるかい?」
館の主はいたずらに笑う。
「たまに命を狙われないと、気持ちを若々しく保てないんだ」
つばを飲み込む。
誘われるがままに、私はそっとナイフに手を伸ばす。
私には時間を止める力がある。
それで殺せないはずが――
「――失礼」
ふいに耳元で誰かの声がした。
館の主ではない。
振り返ろうとしたら、何者かに首元をガッと掴まれた。力強い握り方で、その気になれば窒息しどころか首の骨も折ってしまいそうだった。
だらんと垂れる赤い髪。執事の格好をしているが、顔立ち、体型は明らかに女性である。
執事の格好をした何者かは、続けて私の耳元でささやいた。
「何かしようとすれば、気の高まりで分かります。あなた、今、超能力のようなものを使おうとしましたね?」
心臓がフルスピードで動いている。
考えていることを簡単に見抜かれた。そして、抵抗する間もなく阻止された。……いや、そもそもこいつはどこに隠れていた? まるで瞬間移動でもしたかのように、気が付いたら首を掴まれていた。
顔色から思考を見透かされたらしく、執事の女は先回りをして言う。
「気配ぐらい断てなくては、なかなかやっていけない職場ですから」
「――美鈴」
館の主に名前を呼ばれ、執事の女がようやく手を離す。
「あなた、今日でメイドの仕事はおしまい。明日から門番になりなさい」
主人に言われ、美鈴という女執事はニヤリとした。端から聞けば明らかな降格であるはずなのに、むしろ「待っていました」と言わんばかりの態度である。
肩を回し、いかにも疲れたことをアピールする女執事。
そんな彼女を見て、私はようやく彼女が東洋人……おそらく中国系の顔であることに気づく(ならば、私が今着ている服は彼女のものなのか)。
「いやぁ、よかった。こんな堅苦しい格好であくせく働くよりも、のんびり本を読んだり、花を眺めたり、昼寝をして暮らしたいと前々から思っていたところです。……それで、代わりのメイドは?」
「この子にするわ」
館の主が私のことを指さす。
素で驚く。
私が反論しようとすると、先手を打って彼女がまくし立てた。
「里に下りても、異邦人に仕事はないわよ? だったら、ここに住み込みで働くのが一番妥当だと思うけれど。それに、あなたのような新参者は狙われやすいの。野党にも、森の獣にも、それから人喰い妖怪にも。そこの美鈴並に強いやつなんて、幻想郷にはごろごろといるわ。人里まで無事にたどり着けられるとは思わないけれど。それに――」
テーブルに身を乗り出し、館の主は赤ワインをあおった。
「ここにいる間なら、私をいつ殺しにかかってもいいわ。美鈴にも、パチュリーにも、小悪魔にも、妖精たちにも手出しはさせない。寝込みを襲おうが、毒を盛ろうが、人質を取ろうがあなたの自由。ただし、メイドの仕事はしっかりとしてもらうからね」
口を挟む暇もない。
ただ、私は思っていた。
刃物を吸血鬼の肉体に突き刺すことは、今の私にとって、生きることと何も変わらない。だから、彼女の言葉は「ここであなたは生きていいのよ」という風に聞こえるのである。
私は即決し、首を縦に振った。
その瞬間、時間を止める程度の能力を発動する。
モノクロになったここは私の世界。咲夜の世界。
椅子から立ち上がり、抜いたナイフを様々な角度から吸血鬼に投げつける。手を離れたナイフは運動エネルギーを持ったまま空中に固定されている。鼻先一寸に満たない位置。これで吸血鬼は篭の鳥。
停止時間は十秒程度。
すぐさま愛用のナイフたちは吸血鬼に向かって飛んでいった。
だが、ナイフの向かう先に吸血鬼の姿はなく、なぜだか私は後ろから押し倒される。
真っ赤な絨毯へうつ伏せに倒れると、少し遅れて柔らかな衝撃が背中にふわり。どうやら、上から腰掛けられたらしい。どうにか状態をよじって確認すると、そこにはナイフに囲まれていたはずの吸血鬼の姿があった。
こいつ、一体全体何をした……。
コウモリ? 霧?
いや、そんなレベルの芸当ではない。
時間を止める能力すら超越する、全く持って未知の能力。
館の主は私の頭をなでる。その手つきは優しく、自分を殺しにかかった相手に対する扱いには到底思えない。だが、もしかしたら、これが器の違いというやつなのか……。
「十六夜咲夜、今からあなたは紅魔館のメイドよ。犬のように忠実に、馬車馬のように働くの。まずは床に散らばったナイフを片づけ、からになったグラスを厨房へ下げてもらえるかしら?」
無邪気に吸血鬼は笑う。
心に首輪をはめられて、私はワンと鳴くしかなかった。
余
この紅魔館に二人の侵入者が現れたらしい。一人は巫女で、一人は魔女。元から美鈴はまじめに戦うつもりなどないようで、あっさりと二人は門番を通過。魔女はパチュリーさまと戦っていると、妖精メイドから報告が入っている。
レミリアお嬢様の寝室前で、私は来るべき侵入者を待ちかまえる。
すると大げさなお札を手に持った巫女が、一直線に廊下をすっ飛んできた。赤と白のめでたい二色。彼女は私の前にストンと降りると、
「退いてくれる?」
単刀直入に言った。
語尾は疑問だけれども、明らかな命令に聞こえる。
退かないのならば倒してでも通るまで……と。
そんな強引な巫女に言ってやれる文句は決まっている。
「もちろん退きませんわ」
ナイフを構え、私は正義の味方と対峙した。
「お嬢様が倒されてしまったら、私の生きる楽しみがなくなってしまいますもの!」
(おわり)
さて、俺も幻想入り試してみるか…
…だめだ、先に冥界入りしちまうな OTL
公式で咲夜さんの名付け親がレミリアですよ?
何かと違和感を感じたのは、やはり上述の公式設定との食い違いせいでしょうか
でも十分に面白い作品でした!