吸い込まれる。
ひゅうひゅうと風と一緒に、身体が流されていく。
「うおーーーう」
小悪魔の叫び声はぷっちり途切れ、図書館から消えていった。
ずてん。
そして気づいたら彼女は落下していた。それでお尻をぶつけた。
「痛い、すんすん」
嘘無きしてみたが反応する者はいない。
小悪魔はよっこらと立ち上がり、埃を払った。
辺りを見回す。
だだっ広い洋館。そういう感じ。
(紅魔館?)と思ったが、敷いてある絨毯は茶色だった。紅魔館ではなさそうだ。
「どこでしょう、ここは。いやまあ見当ついてるけど」
さっきまで小悪魔は何をしていたか。
そう、図書館で蔵書の整理をしていた。
本が床に落ちていたから拾った。
うっかりそれを開いた。
本に吸い込まれた。いまここ。
「呪いの本だー!」
小悪魔は頭を抱えた。
流石は魔女の図書館。ヤバイ本だって置いてある!
「いやはや、パチュリー様の下で働いていたら退屈しませんねえ。……ん」
小悪魔は首を回して振り向く。
誰かが階段を降りてきていた。
「来客とは久しぶりですね。ようこそー」
そう言って、ぱたぱたと手を振ってくる誰か。
見たことの無い少女だ。
年は10を過ぎていないように見える。
だが、目立つのはその顔だった。
表情が無い。
というか、喋っても口が動かないし、目には光が無い。
その上、その顔はペンキを塗りたくったように真っ白なのだ。
石膏像。少女の容貌は、まさにそういう感じだった。
「のっぺらぼうさんでしょうか」
「いえ、私はのっぺらぼうではありません」
「そうですか、失礼しました」
とりあえず情報がひとつ増えた。
目の前の女の子はのっぺらぼうでは無いらしい。
「あ、名乗るのを忘れておりました。わたくし、小悪魔といいます」
「これはこれは。私は…あ、名前無いんですよ。ごめんなさいね」
「こあ。そうですか」
少女は名無しらしい。
「ええと…立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
「あ、はい」
食堂に通された。
小悪魔が椅子に座ると、少女はどこからかお盆に皿を載せて運んできた。
「あら、パンケーキ」
「はい、パンケーキ。あとミルクです」
そう言って少女は湯気の上がるパンケーキの載った皿を、小悪魔の前に差し出した。
ミルクをカップにとぽとぽ注ぎ、それも置いてくれる。
「さて、小悪魔さん」
と、少女が切り出した。
「ほぁい」
「あ、頷くだけでいいですよ。お口に合いました?」
こくこく。
パンケーキを頬張りながら小悪魔は首を縦に振った。
「ええとですね。小悪魔さんはあまり混乱しておられない様ですが…」
こくこく。
「ここは実は、絵本の中の世界なんです。……ここにはたまに、外から誰か入ってくることがあります」
こくり。
「それで、私は多分、絵本の登場人物なんです。確認のしようがないから多分ですが、間違いないと思います」
ミルクをきゅっと飲み、小悪魔は「ええ」と相槌をうった。
少女は話を続ける。
「小悪魔さんは、明日になればおそらく、絵本の外に出られると思います」
「あら、そうなんですか?」
「ええ。今まで何人か、この屋敷に人が来ましたが…皆さん、明日の朝になれば外へ出られましたから」
「はあ」
小悪魔は首をひねった。
呪いの本とかそういう類の物は、人を閉じ込めて帰さないのが定説だと思っていた。
「ああ、それとですね。これは要らぬ話かもしれませんが、」
「?」
「私の日常……この絵本の登場人物たる私……の、日常はループしているんです」
「ループ?」
「ええ。つまり、朝起きて、パンケーキを食べ、ミルクを飲み、窓の外を眺めて昼を過ごし、パンケーキを食べ、ミルクを飲んで、夜になると寝ます」
「パンケーキしか無いんですか、食べ物」
「どうやら、そうなんです。…とにかくそれが、毎日。同じようにずっと」
「……それはそれは」
「ああ、同情とかは不要ですよ。そういう風に過ごすのが私の役目なんですから」
少女はそう言って肩をすくめた。
「ただ、」
と少女は呟く。
「この絵本、面白いんですかね?パンケーキ食べてるだけなんですよ、私。そういう役割なんです」
「……さあ、私には分かりかねますが」
「小悪魔さん。外に出たら、この絵本を読んでみてくれません?面白いかどうか、判断してください」
「ええ、まあ」
ちょっと失礼。
そう言って少女は、小悪魔が食べ終わった食器をお盆に載せ、運んでいった。
すぐに戻ってきて、彼女は小悪魔に尋ねる。
「あ、そういえば小悪魔さん」
「はい?」
「貴方、睡眠は必要なクチかしら?人間みたいに」
「あ、や、寝ようと思えば眠れますが、別に必要って訳ではないです」
「そうですか。あのですね、この屋敷、わりと広いので、寝るなら空いてる部屋を使ってください」
「ああ、どうもどうも」
「私はそろそろ寝る時間なの。だから失礼しますね」
そう言って少女は一礼し、部屋を出て行った。
小悪魔は一人残って、ぽりぽり頭を掻いた。
何だ、今の状況は?
不思議体験そのものだけれど、女の子はいい人だし、パンケーキは美味しいし。
あの子の言葉を信じるなら、明日の朝になれば外に出られるらしいし。
「嘘ついてるようには見えないんですよねえ、あの娘さん」
小悪魔は、一応悪魔のはしくれである。
嘘とか騙しとか、そういったものの気配には聡い。
彼女は自分の感覚には自信があった。
「うーん。まあ、よく分からないけど歩き回ってみようかな?」
食堂を出て、館の中を調べながら歩いてみる。
ごく普通、としか言いようが無い。
地下への隠し通路ー、とか、クロゼットを開ければ白骨がー、とか、そういう不穏な気配はまったく無いのだ。
玄関の戸を開けて、屋敷の外を見てみる。
降り注ぐ月明かり、葉の落ちた木々、広い庭。
こちらも、少々手入れの行き届いていない感はあれどごくごく普通。
「むむむ」
何と言うか。
呪いの本に取り込まれた!やばい!
みたいな感じが全然しない。
拍子抜けしてしまいそうだった。
「あーもー、何かよく分かりません」
小悪魔は首を振って唸った。
ギイ
「こあ?」
庭の先、門扉。
そこから音がしたので見てみると、誰か居る。
また、絵本の登場人物でしょうか。
小悪魔はじっと、誰かの方を見つめた。
「ただいま……おや、可愛らしいお嬢さん。外から来なすった方ですかな?」
門を開けて庭に入ってきたのは、初老の男性だった。
石膏像のようだった少女とは違い、彼はきちんと表情を持っていた。
小悪魔は多少戸惑いつつ答える。
「あ、はい。…外っていうのはつまり、ここでは本の外ってことですよね?」
「そう。察しがいいね、お嬢さん」
男性はそう言って微笑んだ。
「あの、貴方は?」
小悪魔はそう訊いてみた。
「私か。私はそうだな、名前は無い。ないが、私は父親なんだ」
「父親?」
「ああ、そうだ。遠いところから旅を続けてきて、今ようやっと、家まで帰ってきた父親」
「……それは役目、なんですか」
「そうそう、それだ。それが私の役目なんだ」
男性は小悪魔が立っている玄関の前まで歩いてきて、石段に腰掛けた。
「朝になればまた、私は旅の途中に戻ってしまうんだがな。夜までかかって、ようやっと家に帰り着くんだ」
「ループしてるんですね」
「そう、ループだ。朝、船を降りて馬車に乗り、荷物のいくらかは売り払って、ここまで歩いてくる。時刻はそこで夜になっている。そんな毎日だ」
「あの、」
小悪魔は男性の前にしゃがんで問う。
「この屋敷の中に、女の子が一人で暮らしているようなんですが」
「ああ」
男性は頷いた。
「それが私の娘だ。長いこと会っていない。なんせ、私はずっと家を空けていたからね」
「じゃあ、どうして貴方はここに座っているんですか?家に入って、彼女に会ってはどうです」
男性は首を振る。それがね、と、彼は言った。
「どうも変なのだよ。私はここから先へ、進めた試しがないんだ」
「…?」
「つまりだね、この絵本はどうも、ここで終わっているんじゃないかと、私は思っているんだ」
「終わっている」
「うむ。娘の待つ家に、父親である私が帰ってくる。家の前まで帰り着き、そこでおしまい。多分、そうなのだよ」
もうすぐ一日が終わる。つまり私は、また旅の途中に戻る。
男性はそう言った。
これは絵本の最後のページ。
そして、また1ページ目に戻る。
登場人物たちは、ずっと同じ役目を果たし続けている。
そういうことなのだろうか。
「ねえお嬢さん。外に出たら、この絵本を読んでみてくれないか。私はひたすら旅をするだけで、娘とはついに会わない。それは、物語として面白いんだろうかね?」
そればかり気になってしょうがないのさ、と、男性は薄く微笑んだ。
ここは紅魔館の地下、大図書館。
「小悪魔ー」
飲んでいたお茶が無くなったので、パチュリーは使い魔を呼んだ。
が、小悪魔は一向に現れない。
「…居ないのかしら。ま、いいわ。咲夜ー」
「お呼びですか、パチュリー様」
「お茶を頂戴」
「かしこまりました」
小悪魔が本の外に出てきたのは、丁度パチュリーが、淹れさせた紅茶に口を付けたくらいのタイミングだった。
「……本当に、出られましたね」
独り言を呟いて、小悪魔は首を振った。
あれから男性と話しているうちに朝になり、気づけば彼女はもと居た図書館に戻ってきていたのだった。
床に落ちている、あの絵本。
手にとって、もう一度開いてみた。
今度は中に吸い込まれることもなく、普通に読むことができた。
入れるのは、一人一回限りなのかもしれない。
ぱら、ぱら。
めくって見る。
どうもこの絵本、印刷されたものではないようだ。手描きだった。
少女がベッドで寝ている。起きる。
寝巻きを着替えて、歩いて食堂に入り、一人でテーブルに着く。
パンケーキをナイフで切る絵が描かれている。
そして、本の中で小悪魔が見たのと同じように、少女の顔は真っ白だった。
のっぺらぼうのようだった。
彼女以外の部分は綺麗に色塗りがされているのに、少女の表情だけが真っ白なのだった。
次々、捲ってみる。
小悪魔が会った男性が居た。
彼はきちんと描きこまれている。
ただ黙々と、けれど着々と、娘の待つ家へ向かって歩く姿が描写されている。
それから、夜になる。
男性は門を通り、玄関の前で立ち止まる。
…そして、ページを捲ると、次のページがあった。
あったのだった。
「あら、小悪魔、居たの?」
「あ、パチュリー様。ええと、ちょっと出かけてまして。今帰りました」
「そう。まあいいわ。……ところであんた、何やってるの?」
「あ、これですか?ちょっと絵を描こうと思いまして」
なぜ、あの本はまるで呪いの本のように誰かを吸い込むのか。
そして、なぜ閉じ込めるわけでもなく、ただ本の中身を通過させるのか。
「きっとあれは……なんでしょう、絵本自体が何かの妖怪なんですね、多分」
力の弱い、絵本の妖怪。
外に向かって喋ることもできないし、ヒトガタに化けることもできない。
それでも言いたい事があるから、あんなしち面倒くさいことをやっているのだろう。
おそらく、あの絵本の作者は、途中で描くのをやめたのだ。
いちばん表現したい何かがあったのに、それを描くのがいちばん難しくて、だからきっと、やめてしまったのだ。
「この絵本、面白いんですかね?」
「面白いんだろうかね?」
お互いに会ったことの無い、父と娘の言葉が思い出された。
「面白いかどうかは分かりません」
小悪魔は呟く。
「ただ、私は図書館で働く者です。作者さんには悪いですが、こういうのは我慢ならないですね」
絵本の、最後のページ。
そこには男性の背中と…それと、彼に抱きつく少女が描かれていた。
ただし、少女の顔はやはり、真っ白だった。
この絵本を描いた誰か。
おそらくかれは、少女の笑顔を、とびきりの笑顔を描きたかったに違いなかった。
でも、それがどうしても描けなかった。
あるいはそれは、こだわりと言ってもいいし、妥協はどうしてもできなかったのだろう。
「でも、」と、小悪魔は思う。
父と娘がずっと会えないのはきっと、娘の存在自体が、作品の中で不安定だからに違いなかった。
現実に生きる人間が、幻と遭遇することは決して出来ないのと同じように。
だから小悪魔は絵筆を持つ。
可能な限り、生きているように、飛び切り眩しい少女の表情を、彼女は描こうと思ったのだ。
「無粋な真似ですけども、ね。未完成とはいえ、他者の作品に私なんぞが手を加えようってのは」
小悪魔は手を止め、白い少女を見つめる。
「でも、私は悪魔ですからね。それが悪と知っていても、やりたいようにやっちゃう生き物なんですよ」
小悪魔の手が動いた。
まっしろだった少女の目に、ちょこんと綺麗な青が乗った。
いい意味で予想外でした
タイトルと響いていい感じだね。
ところでこのタイトルは何かの言葉掛けなのか?
≫16
いや、最後の行のそのままなんじゃぁないの?