上等な赤い絨毯を、さらに鮮やかな紅で汚し、招かれざる客の私は一人、這い蹲って死にかけていた。
壁に備え付けられた燭台は、狭い室内の闇を払いきれず、孤独な敗者の背中だけを、煌々と照らしている。
視界の端に映った窓に気がつき、頭が自動的に計算を始める。夜明けにはまだ二時間。星の光がいくつか。月は無い。
後一歩で、その窓から脱出できるかもしれない。あるいは落ちて死ぬのかもしれないが、どちらにせよ、試す力は残っていないので無意味な問いだった。
一秒、一分。小部屋の中央でうつ伏せのまま、じっと時が過ぎるのを感じる。
思考とは別に、鈍い鼓動も静かに時を告げていた。すでに限界をとうに通り越しているはずなのに、まだ動いているのは奇怪である。
それでももう一度、『能力』を使えば、なけなしの体力は一瞬にして干上がり、みずぼらしい死体が部屋に残されることには、疑いはなかった。
が、今の私にとって、どちらが正答なのだろう。
弱々しいため息に、絨毯の埃がわずかに動いた。
小さな部屋だ。窓が一つあるだけの殺風景な内装だが、照明があるということは、利用されているということ。
つまり、ここに隠れていても、夜明けまでには見つかってしまうだろうし、捕まって拷問を受けるよりは、潔くくたばった方が賢明だとは思う。
それなのに、生き延びる可能性を模索し続けているのは、ハンターとしての習性なのか、ろくな名前ももらわなかった小娘の意地なのか、単なる生者の本能か。どれだろうと、結果が伴わなければ、大差は無い。
結果。結果について言うなら、最悪だった。
侵入が発覚した一つのミス、直後の判断がその傷口を広げ、確保していたはずの退路は、表の番兵によって迅速に塞がれてしまった。捨て身の強行突破もむなしく、追いつめられた手負いの鼠は、敵の館の深奥で、あろうことか命まで落としかけている。
わざわざ新月の晩を選んだというのにこのザマだ。いきがっていても所詮、能力に任せて生きていた自分は、妖怪という存在を甘くみていた上、危機に対して経験不足だったのだろう。
獲物の顔を見ることなく逝くとは、何とも無様だった。
紅魔館、というらしい。組織の末端である自分にその名が知らされたのは、一週間前のことだった。
欧州を移動し続けるこの館は、二十年間リストから姿を消していたのだが、先月、神隠しに遭った仲間により新たな場所が発覚し、組織に最も信頼されていた私に依頼が回ってきたのである。
標的は吸血鬼にしてはまだ若い。だというのに、かなりの血筋を持つ大物だという。
手早く仕事を終えて帰れば、次の任務までパンにありつける。それどころか、成功の暁には、春まで休暇を与えることを、神父様は約束してくれた。
冬は仕事が辛くて大変なため、この報酬は正直ありがたかった。勇み足の原因は、たぶんそれ。
慣れた仕事だと思っていたのだが、失敗する時なんて、案外こんな風にあっけないものなのかもしれない。
簡単な仕事は簡単に。難しい仕事も簡単に。依頼を受け、速やかに狩り、全て忘れる。一年がその繰り返し。
シンプルな人生。鋼で作られたゼンマイのように、色気のない生涯だった。
回想し、そう意識したのが、よりによって今とは皮肉なことだ。
誰にも話さなかったが、小さい頃、教会で教わった幸せの意味を、密かに探し続けていたのに。
次の世界までお預けということになる。
天国でも地獄でもなく、もしまた人に生まれ変わったら、どんな人生を送ろうか。
私の頭は、苦痛をやわらげるためなのか、子供じみた空想へと向かっていた。
例えば、白い家に住もう。大きすぎるとお掃除が大変だから、一戸建ての小さな家にしよう。
もしくは広くても、メイドを二人ほど雇えばいいかもしれない。片方は有能で完全、片方は気配り上手で瀟洒なメイドだ。
二人は姉妹で、我が儘も言わず働いてくれて、明るい日差しが大好きな健康的なメイド。
そんな家に遊びに来るのは、あまり本を読む機会のなかった私でも話が通じる、気さくで活発な友人がいい。
もちろん門番なんて論外。貧しい子供の盗人――幼かった私のような子に対しても、常に扉を開いておきたい。
場所は教会の近くがいい。日曜日でなくても、毎日主のために祈る時間を設けたい。
クリスマスにはパーティーを開く。粉雪の舞う晩に家族で集まり、温かい食事とワインを囲んで……。
笑いがこみ上げてきた。涙が出るほど笑える。
そんな未来を、神様は与えてくれるだろうか。
本当はどんな形でもいい。
今度こそ、幸せって何か、知りたかったから。
気配が近づいてくるのを感じ、物思いにふけっていた私の意識が、ハンターのそれに戻った。
反射的にナイフを取り出そうとして、指が動かないことを告げてくる。
計算を巡らす。まだ体は、戦闘などできる状態ではない。
万に一つ自分の体力が戻るまで、息を潜め続けるのが最も安全だが、その唯一の選択を踏みにじるかのように、気配はまっすぐこちらに向かっていた。
羽音だ。ぱたぱたと羽ばたく音が、近づいている。
教会の絵にあった天使だろうか。しびれを切らした死神かもしれない。最も現実的な思考と、経験で鍛えた嗅覚は、その正体を敵と判断した。
だが妙だ。この屋敷の兵は、あんな音を立てなかった。私を追う時も、もっと騒がしかったし、足音も大きかった。
なのに廊下を移動するその存在からは、追う者に似つかわしくない、余裕と稚気が感じられた。
ドアが開く音がした。
なけなしの体力を、気力で振り絞って、私は横転した。
本当であれば、うつぶせのまま、切り札を懐に忍ばせ、近づくのを待つのが常道だった。
ただ、せめてもの一太刀を浴びせようとしても、失敗する可能性の方が高い、手負いの選択ともいえる。
それに見つかるにしても、敵の顔を見ずに殺されるのでは、死ぬに死ねない。せめてその顔を拝んで、不敵に笑ってやろうと思った。
もしかしたら、心の片隅で本当に天使に期待していたのかもしれない。
そして、私の願いは予想外の形で適った。
視界に逆さまに立っていたのは、十に満たない少女だった。
一瞬のシルエットは、想像通りの神の遣いに思えた。
でも、背中にあるはずの鳥の翼は、蝙蝠の羽だった。
闇にぼんやりと浮かんでいたのは、赤く毒々しい瞳だった。
蝋燭の光に映えるのは、月下の雪のように青白い肌だった。
すぐ側まで来て感じたのは、人を超越した雰囲気だった。
ハンターでなくてもわかる。彼女こそが標的の、吸血鬼だ。
しかし私は、危険な事だと承知の上で、彼女の両の瞳を見つめていた。
生きた吸血鬼を正面から眺める機会は、これまでなかった。一呼吸以上、目を合わせる機会も。
なんて美しい生き物だろう。
肩にかかる青い髪も、ほっそりした小さな手も、白いドレスで隠せない一つ一つの造形が、それだけで一個の芸術品のようだ。
特に血色の眼には、見る物を引きつけて止まない、蠱惑的な魔力が宿っている。
同じ時を動いていることを、同じ空間に存在することを疑いたくなるほどの美貌は、さらに異質な美を内に含んでいた。
人を食らう存在、危険という香り。過去に多くの人間が、そうと知りながら手を伸ばし、その身を糧に捧げてきた。
私は今初めて、彼らと同じ場所にいて、同じ感情を抱いていた。
吸血鬼の少女はしゃがんで、小首をかしげ、こちらに手を伸ばしてきた。
鑑賞の時間が終わり、心の内で祈りを捧げ、目を閉じる。
これでおしまい。さらば私の人生。最後にいいものを拝ませてくれて、ありがとうございますマリア様。
「うー?☆」
近づいてきた手は、心臓に突き立てられることも、喉を掻き切ることもしなかった。
血に汚れた私の頬を、小さな指でつついていた。
次に呼吸を塞ごうと、鼻の上に手が移動する。
と思いきや、軽くつまんだけだった。
手をかざし、目玉をえぐるとは。
と震えたが、額に手を当てて熱を測っているらしかった。
髪を乱暴に引っ張って、別室に連れて行くのか。
と思ったのに、どうやら自分の髪の色と比べているだけなようだった。
……殺すなら早く殺してほしい。
私は薄目で彼女の行動を観察しながら、ぴくぴくと眉を震わせていた。
気づいているのかいないのか、少女は私の頭をまたいで、体の方に移動する。
あ、吸血鬼も白いドロワーズを履くんだ。
死にゆく私の頭に、新たな知識が加えられる。
はたしてあの世に、これを自慢する相手がいるかどうか。
しかしながら、出立の時間は、いつまでたってもこなかった。
どうやら見た目通り幼い彼女は、私を侵入者ではなく、遊び道具か何かだと思っているらしい。
新月には吸血鬼の力が落ちると知っていたけど、彼女もその影響を受けているのだろうか……。
舌が動けば、話術で何とかこの場を切り抜けられるのだろうが、今の状態では彼女の行動を床から静観する他はない。
けれども、ほんの少し、望みが出てきたかも。
と、思った矢先だった。
ぼふっ。
……!? ……!! ……!!
「…………っぁ」
言葉にならない呻きが、私の喉から漏れた。
激痛で口から魂が飛び出し、そのまま昇天するかと思った。いや、絶対に昇天してほしかった。
信じられない。
あろうことか彼女は、傷ついた私の腹に乗っかったのだ! 血まみれな姿を、おかしいとも思わずに!
痛みは蛇のように内蔵をのたうち回り、体の中で暴れ狂う。だが苦しみから逃れることができず、私は顔がゆがむのを覚えた。
彼女はさらに、私の上で小さく跳ね出した。
ぽよん、ぐはぁ、ぽよん、ひぎぃ。
恐怖のドロワーズアタックだ。これで死んだらハンターとして最悪の死に方だ。
聖書にだって裁き方は載ってないだろうし、イエス様にも同情されることだろう。
『主よ、私は幼女のお尻で、とどめををさされました』。
審判の際、上手く説明できる自信が無かった私は、文字通り必死で意識をつなぎ止めた。
やがて彼女は跳ねるのに飽きたのか、私にまたがったまま、ずりずりと前に移動し、大きな紅玉のような瞳で、私の顔をのぞき込んで言った。
「……あなたはだぁれ? でぃお・ぶらんどー?」
違う。私に名前なんて無い。あるのは組織から与えられた番号と、暗号名のみ。
だがそんなことはどうだっていい。
もはや私に、彼女の美に対する畏敬など欠片も残っていなかった。
慈悲もなくいたぶる吸血鬼に対し、憎しみが溢れかえっていた。
「あ……く……ま……」
白濁する視界に向かって、精一杯吐き捨てる。
ところが、このお嬢ちゃんときたら。
「……さくや!」
「…………」
「あなた、さくやっていうのね!」
見えないナイフで、その髪に隠れた耳をほじくってやりたかった。
違ぇよこんガキゃあ!
どう聞いたら『悪魔』が『さくや』になるんだよ!
そして私じゃなくて、あんたのことだよ! 脳みそ足りてんのか!
痛みによる怒りと罵りを、視線に託して貫こうとするが、悪魔は退散するどころか、体の上に寝そべってきた。
胸の真ん中に頬杖をつき、幸せでいっぱいな笑みを浮かべて、
「さーくや☆」
満足そうに、私をそう呼んだ。
とろけるようなその表情は、天使よりも無邪気な、悪魔の笑顔だった。
それからもう、彼女は跳ねたり、乱暴に揺すったりしなかった。
しばらくこちらを眺め、やがて瞼を静かに閉じ、首がかくんと落ちて、ついには私の体をゆりかごにして眠ってしまった。
床から天井を見上げながら、私はぼんやりと考えた。
(さくや、か……)
声にならない、けど自然に出た呟きだった。
もう一度、口の中で唱えてみる。それに唱和するように、胸の間の少女は寝息を立てた。
ようやく動いた血まみれの手は、眠れる吸血鬼の頭をそっと撫でるだけで終わり、ぱたりと脇に落ちる。
(もう、それでいいや)
意識が闇へと飲み込まれる中、最後に私は、その名を受け入れた。
その夜から私は、ずっと幸せ。
『いざよいサクヤ』
歌:れみりゃ・すかーれっと
サクヤ♪ サクヤ♪ サクヤ♪ サクヤ♪
(間奏)
夜明けに こっそり 隠れて廊下を散歩
扉を 開けたら 死にかけの少女
こちらを見つめてた 素敵なメイド、誕生
いざよい サクヤ サクヤ サクヤ サクヤ
紅魔館に 近頃住んでる
いざよい サクヤ サクヤ サクヤ サクヤ
子供の時にだけ わたしに訪れる
不思議な 出会い
だからこそ、なんか良い感じに力が抜けてしまって
すごく、よかったです。
あなたはだぁれ?でぃお・ぶらんどー? には吹かざるを得ませんでしたが(笑)
新月の夜で本当によかった
>あ、吸血鬼も白いドロワーズを履くんだ。
異星人でも白いブリーフを穿きますものね
タグでシリアスなのかギャグなのか本気で迷ったw
『主よ、私は幼女のお尻で~』や歌とか色々と面白かったです。
しかし死を覚悟した後の咲夜の空想は泣けました。
PNSさんの、しっかり地に足のついた人物の内面描写が大好きです。
想像力が逞しくていらっしゃるなあ。
良い過去話でした。
しかし、まさか名前ネタをト●ロに絡めてくるとは、新しい。
さっくり読めて楽しめました。
解ります。
どういう話の展開だwww
タグでギャグかと思ったら冒頭でシリアスなのかと思いきやほのぼのだった!
面白かったです!うー☆
咲夜さんの境遇の凄惨さとおぜうさまの幼女っぷりのギャップが凄いw
幻想郷ってどこと無く捨てられっ子が身を寄せ合ってるようなところがあると思います。
そういう点で共感しました。
最後に替え歌を持ってくるところがパロディー物の見本みたいでした
ヨーロッパの方だから間違えたんだ。うん、きっとそうだw
れみりゃの台詞が坂本●夏で聞こえました。
まさかのジブ○wwwww
それでも幸せそうなのは良かった良かった