0 発端
地霊殿の改装工事が行われることになった。建築当初からずぅっと何の手入れも行っていなかったため、だいぶ老朽化が進んでいたのだ。地獄の閻魔様の一人、四季映姫・ヤマザナドゥは、これをすべて主である古明地さとりの怠慢によるものだと決めつけ、途中でのティーブレイクタイムを除いて合計八時間にも及ぶ説教を行った。正直さとりはかなりヘコんで、あとでこいしに三時間くらいなでなでしてもらわなければ立ち直れなかったのだが、この地霊殿老朽化の責任を哀れな覚り妖怪一人に負わせるのにはなかなか無理があった。広すぎだからである。
そういうわけで、旧地獄跡のパワーバランスを保つために残ることを命じられた火焔猫燐と霊烏路空を除き、数十匹にも及ぶペットとその飼い主であるさとり、妹のこいしはいきなり路頭に迷うことになった。こいしはそう聞いても明るく笑い、「そんなの、野宿すればいいんだよ」と言ったのだが、いつも地霊殿に引きこもり寂しいながらもそれなりに優雅な生活を送っているさとりには、野宿をするなど想像したくもないことであった。
当然、住む家は必要である。
そこでさとりは四季映姫に泣きついてみた。いくら私とはいえ鬼ではない、怠慢という愚昧な罪を犯した貴女にも償いの機会は与えましょう、これから閻魔寮に来て給仕として働かせてやっても良いと、もう少しで懐柔できるかも、というところでこいしが無意識のままに映姫のスカートに頭を突っ込んでいるのが発覚したため、その話はお流れになった。
「黒でも白でもない色だった。閻魔様なのになぁ」としきりに悔しがるこいし。さとりは「悪いことしたお仕置きです。めっ」と言って妹のほっぺをうにうにと抓って感触を楽しみ、ついでに彼女は何色を履いていたのか聞き出してから、はてさてマジでどうしようと思案に暮れた。とりあえず、ペットたちは街のペット屋さんに預ければいい。それぐらいの権力はまだ残っている。こいしはたぶんどこかにふらふらと行ってしまうだろうから心配いらないとして、問題は自分である。
地底では嫌われ者として通っているさとりである(別に嬉しくはない)。泊めてくれと頼んだってまともに聞いてくれる物好きな輩などたぶんいないだろう。彼らはさとりの能力を充分知りすぎているが故に、彼女が近づくことすらダカツのごとく嫌うかもしれない。
ならば、さとりのことをあまり知らない連中なら、どうか?
そう考えて、さとりは太陽輝く地上に出ていくことにした。
妖怪の山の木々が鮮やかに色付き、空の息吹が爽やかに地を駆け巡る季節のことである。
1 家政婦さとり ~1st job~
イチョウ並木に挟まれた長い階段を上り終え、さとりはふぅと溜息をついた。疲れた足に、固い石畳の感触はあまりありがたくない。なんとも不親切な設計の神社だと悪態の一つも落としたくなるが、これからのことを考えて暗い気持ちをぐっと抑える。
秋の空気は朗らかに澄んでいる。これから寒い冬が来るという緊張感が微かに漂いつつも、それでもまだどこかのんびりとした雰囲気が感じられて、その中で紅葉が幾枚もひらりひらりと地面に降り積もっていく。さとりは一旦深呼吸をしたが、すぐに咳きこんでしまったのでやめた。あまり丈夫な体ではないのだ。それでも、そこかしこに溢れる秋の香りが感じられたのは、いい気分転換になった。
「さて、巫女は………っと」
とくに探すでもなく、おしみなく陽光の降り注ぐ境内で、のんびりと黄色い落ち葉を刷く霊夢の姿が見つかった。今日はそれなりに機嫌がよろしいようで、滅多に聞けないと評判のふんふん鼻歌を惜しげもなく披露していた。
さとりは試しに霊夢の心を読んでみる。
(ん~、今日は暖かいわねぇ。昨日は寒かったなぁ。熱燗でもないとやってらんないわよ、まったく。あ、そういえば紫からもらった外の世界のお饅頭があるんだっけ。そろそろおやつの時間だし、お茶でも入れて休憩しよっかなぁ。にしても落ち葉多いなぁ。ん? 足音?)
そこで霊夢は顔を上げた。
さとりは少し居ずまいを正し、慣れもしない友好的な笑顔を作ろうとする。
(うわ、面倒臭い奴が来たなぁ)
…………。
いや、うん、これくらいは慣れている。
さとりは表情を変えないようにつとめ、ゆっくりと霊夢の方へ近付いて行く。
霊夢はその間に箒の柄のてっぺんに両手を重ね、さらにその上に顎を乗せて、にやりと笑った。
「なにやら、面倒臭い奴が来たわねぇ」(こいつ、結構からかいがいが在りそうなのよね。ちょっといじってみるか)
「……思ったことをそのまま口に出さなくとも。それと弄らなくても結構です。そういうのは妹だけで間に合ってますので」
「思ったのと正反対のことを平気で口にする奴よりも、マシじゃない?」(主に紫とかね)
「まぁ、いくらかは。それとあの方には『反対』という概念すら私たちと同じか怪しいと思いますよ」
「あの方って?」(ん~? ……あ、紫か)
「その方です」
「ふむ。やっぱりあんた、面倒臭い奴には違いないよ」(まぁなかなか新鮮で面白いけどね)
「きっとそのうち嫌になると思いますよ」
「それで、何の用?」(どうにも会話が噛みあわないなぁ)
「ええ、それが、ですね……」
ここからが肝心である。出来るなら改装工事が終わるまで神社に住まわせてほしいのだが、それをどのように伝えれば霊夢の承諾を取り付けられるだろう。これまでの経験から、霊夢はそれほどさとりに「嫌い」という感情を抱いてはないようだった(面倒臭い、とは口にしているものの)。でももしこんなことを頼めば、一気に霊夢の感情がマイナス方向へ傾いてしまうことも考えられる。そういうことは、もう充分に味わっているのだ。
もしそうなった場合を考えると、さとりの胃はキリキリと痛んだ。
とはいえ、何か言わなければ始まらない。
さとりは思い切って、すべて率直に打ち明けてみることにした。なんの衒いも媚びもなく、これこれこういうことがあって困っている、何かと不都合もあるだろうけれど、もし構わないのならば助けてほしい、滞在中の家事ならば全て任せてもらって良いと、精一杯の敬意と誠意を込めてお願いした。
ここを逃したらもう行くあてはない、ということは伏せておいた。
霊夢はじっとさとりを見つめ、考えている。
その時霊夢が考えたことの断片を、さとりはキャッチすることができた。
(食客を抱える余裕はあるかな・今萃香はどっかをほっつき歩いているから部屋は余ってる・でも・さとりは地底の嫌われ者・心を読まれる・何も隠し事はできない・こう考えていることも読まれているの?・これ以上妖怪がうちの神社に出入りしていることが知られたら・評判が・またお賽銭が・さとりさとり・どうする)
いつの間にか、さとりは緊張して額に汗をかいている。
この一瞬、誰かにものを頼み、その返事を待つ緊迫の時間が、一番怖い。
相手の自分に対する印象と評価が、その逡巡の間に一気に雪崩れ込んでくるからだ。
そしてほとんどの場合、さとりに対する否定的な判決とともに、頼みは却下される。
地霊殿にいれば、周りがペットばかりなので、こういうストレスにはまったく触れずに済んだ。
でも、改装工事の間は、あの居心地の良い我が家には帰れない。
可愛いペットたちも、お燐も、空も、こいしも、ここにはいない。
自分一人でなんとかするしかないのだ。
さとりが固まっているのを見て、霊夢は不意に緩やかな微笑みをこぼした。
「いいよ」
「えっ?」
「泊めてあげるって言ってるの。部屋案内するから。荷物はそれだけでいいの?」
「え、ええ。ええと」
「ほらほら、もたもたしないの。あ、お茶淹れてくれる? 棚の中にお饅頭の箱入ってると思うから、それ開けてね。お夕飯は、まぁ、あとで一緒に考えましょ」
「本当によろしいのですか?」
「うん」
短く答えると、霊夢はさっさと背を向けて歩き出した。
さとりは慌てて追いかけながら、霊夢の心を読んだ。
(ふふふ。なんだか面倒なことになりそうね!)
その心に溢れているのは、読み取っているさとりまでわくわくしてきそうな、未来への期待だった。
……これが博麗の巫女か、とさとりは思った。
そういえば地霊殿へと異変解決に乗り込んできた時も、外見では怒っているような素振りを見せながら、その心はやはり、「楽しみだ」という期待に満ち溢れていた。
口では面倒面倒といいつつも、そういうのを積極的に楽しめてしまうのが霊夢なのかもしれない。
こういう前向きな精神を持てればなと、少しうらやましく思った。
「……ありがとうございます」
さとりの口から、自然とその言葉が零れ落ちた。
「ま、存分に働いてもらうわよ。あと、そのうち色んな奴が来るかもしれないけど、気にせずにね」(そういえばそろそろ誰かが来そうな気もするな)
「わかりました。では、そのどなたかの分も淹れておきましょう。お茶は二人分ですね」
「何言ってるの?」(……ああ、なかなか後ろ向きね)
「は?」
霊夢がなぜそんなことを言うのか、そしてそんなことを思うのかわからずに、さとりはきょとんとした。
霊夢は振り向き、呆れた顔でさとりを見る。
「お茶は三人分。貴女も飲むのよ。一緒にね」(鈍いというかなんというか、こいしが弄りたくなるのもわかる気がする)
生まれてこの方、家族や地霊殿の住民以外に、一緒にお茶を飲もうと誰かに勧められたことなど、数えるほどしかないさとりであった。
3 懐古
霊夢の指示に従って、さとりはまず部屋に荷物を置いた。トランクを開き、細々としたもの(髪留めや櫛など)を棚の上に並べ、ついでに持ってきた写真をスタンドに入れて立てかけておく。さとりとこいし、お燐に空、その他大勢のペットが写っている写真だ。全員が地霊殿にそろうのは、まだ先のことになるだろう。軽く溜息をつくと、おやつの用意をするために部屋を出た。
台所に行き、火を熾してお茶を入れ、お皿に盛ったお饅頭やおせんべいと共にお盆に乗せる。地霊殿にいると、大抵お菓子やお茶は洋風のものなので、少し新鮮だった。
霊夢が縁側に腰かけて待っていた。さとりはお盆を床に置き、それを挟んで霊夢の横に座る。
「お疲れさん」(ちょっと多いかな、お菓子)
「はい。次からはもっと少なくします」
「……んー」(言っといたほうがいいかな)
「なんですか?」
(なんとなく言いにくいことだから、口に出さないことにするけど)
「え」
さとりはきょとんとして霊夢を見た。彼女は、目をつむってお茶を一口すすり、ぷはあと息を吐きだした。だいぶ傾いた陽光の中で、猫のように気持よく目を細めている。なんだろう?
(そのね、人と話している時、相手の心の中身に反応しないほうがいいわ。私は気にならないけどね。絶対気にする奴もいるでしょう)
さとりは少し、虚を突かれた気持ちになった。
(相手の心を読んでしまっても、それを気取らせないように何気なく行動すること。そうしたらまぁ、無暗に嫌われることもなくなるんじゃないかな。あんたの能力を知ってるやつには、もうしょうがないけどさ)
霊夢の心は陽だまりの中にあってとてもおだやかで、さとりに対する敵意や優越感といったものは少しも透けてこず、ただこいしの持つ無意識のような暖かさがそこにあった。
「……癖なのかもしれません」
(ま、癖ならね。意識しないうちはダメだけど、意識したなら直せるようになるでしょう。あー、それにしても、口に出さなくても伝えられるのって楽でいいなぁ。私が相手の時はその能力、バンバン使っていいかも)
「……二人きりの時ならいいですが、他の人がいる時は口に出してください。そうじゃないと、独り言と間違われて、その」
「ん? なぁに?」(おやぁ?)
霊夢が目をあけてにやにや笑いながら、さとりを見る。
「その」
「ほらほら、口に出さないと伝わらないよ?」(次にあんたは「その……恥ずかしいので」という)
「その……恥ずかしいので……はっ」
「やっぱりあんた、弄りがいがあるわねぇ」(なんだかこいしがうらやましくなってきたぞっと)
さとりはコホンと咳ばらいをして、お茶に手を伸ばした。
霊夢にならい、ズズズと音を立てて口に含んでみる。まだ熱かったので、ゆっくりと。
ほのぼのとした苦みが味覚を満たす。
晴れ渡った春の日に、陽の光に心がとかされて原っぱでのんびり横になっている、そんな緑に包まれたような気分に浸る。
地霊殿で飲む紅茶の味とは全然違う。
もちろん悪くない。悪くないけれど、今は自分の家から離れてしまっているということがよりはっきりと自覚できて、さとりは少し寂しくなってしまった。
燐はどうしているのか。空は、こいしは、可愛いペットたちは、みんな元気だろうか。
燐の悪戯っぽい笑いが目に浮かぶ。彼女が猫になっている時、膝の上に乗せてその艶やかな毛並みを撫でていると、寝ている時のような安らかな気分になるのを思い出す。空がちょっと間の抜けたことを言って、燐がそれにからから笑いながら突っ込んでいるのが、瞼の裏のスクリーンに再生される。鮮やかに。寒い冬の日、さとりがなんとなくココアを淹れると、必ずと言っていいほどタイミングよくこいしが現れる。リビングの暖房をわざと切り、二人でマグカップを両手で包み込んで暖まりながら、「寒いねぇ」「そうですね」とか言い合ってココアをふぅふぅ冷ましながら飲む。そんな無意味な戯れも、今では少し遠くなっている。
溜息を、霊夢に聞こえないように小さくもらす。
緑色の水面が微かに揺れる。
「まっ、そのうち帰れるようになるでしょ。単なる改装工事で、建て替えとかじゃないんだからね」(湿っぽくなるのはやめてよね)
霊夢の心を細かく読むと、どうやらさとりの思っていることが、ほとんど勘によって当てられてしまっていることがわかった。
勘、というか、その場の空気を読む能力に秀でているのかもしれない。幻想郷に何か異変が起きている時には、きっと彼女は大気に含まれているある種の緊張感を読み取って、その感覚に従いながら行動するのだろう。
少し見習うべきなのかもしれないな、とさとりは、横目で霊夢を見ながら思う。
この前向きの積極さ、そして自分の力を弁えて行動するところなど、まさに自分に欠けていることではないか。
これまでは、そういうことに関して改善する必要はないと思っていた。能力を余すことなく使い、他人を嫌な気分にしても我関せず、地霊殿に引きこもっていれば何があっても安泰だと。
しかし、いざ地霊殿を追いだされて、自分一人でなんとかしなければならない状況に陥ったとあっては、そんなことも言ってられない。
家もないほどの貧困か、あるいは多少は世間に妥協したうえで上手に渡り歩いていくか。その二択。
さとりの望むのは後者である。さすがに妹のような生き方は自分には出来ない。
もっとも、自分一人で切り抜けるといって、結局は居候させてもらわなければならないから、どこまでも他人任せと言えるのだけれど。
そんなことを気にしていられる状況でもないのだ。
「……そうですね。そうなることを、望みます」
ありがとうとは言わなかった。
そうすると、確実に湿っぽくなるはずだから。
そして、成長しようという決意とともに、さとりは湯呑をぐいっと傾けた。
多少不本意ではあるけれど、やるしかない。
「あ、あはふっ」
ちなみにまだお茶は冷めていなかったので、舌を火傷したわけだが。
非常に不安である。
4 宴会にて
夜になると、なし崩し的に宴会が始まった。
夕方に、霊夢の勘の通りドタバタと客が襲来した。紅魔館から色々とものをかっぱらってきた魔理沙が収穫物を自慢しに来て、さとりの事情をきくと「じゃあ私も今日はお泊りするぜ!」と宣言し着替えを取りにいったん魔法の森へと帰って行った。その間に射命丸文が落ち葉を吹き散らしながら格好よく参上し、是非曲直庁の横暴を摘発すると称してさとりから取材を始めた(さとりは、それだけはやめておいたほうがいいと忠告しようと思ったが、なんだか面白いことになりそうなのでやめておいた)。
太陽が沈むと、闇夜と共に紅い吸血鬼とその従者がおみやげのワインを片手にやってきて、尊大な態度で一緒に遊ぶよう要求した。その後も、騒ぎの匂いを嗅ぎつけた萃香が壺一杯の日本酒を届けてきたり、薬の代金を徴収しに来た鈴仙をみんながあの手この手で酔っ払わせて強制参加させたり(「らめれす、おっしょー様に叱られちゃいますよぅ~」という叫び祈りは当然のごとく却下された)、いつの間にかスキマ妖怪が混ざっていたりで場は混沌と化した。そうなるともう収拾がつかなくなり、霊夢はしょうがないなと重い腰を上げ、さとりは早速彼女を手伝ってお料理に励んだのである。
この頃夜はめっきり冷え込んできた。窓から暗い外をちらりと見て、こんな寒空の下に放り出されなくてよかったとつくづく思いながら、さとりは野菜を刻んでぐつぐつ煮えるお湯の中に入れた。
寒い夜、大勢が集まってわいわい騒ぎながら箸でつつくものといえば、もちろんお鍋である。
霊夢は嬉々として兎肉を入れようとしたが、さすがにさとりは鈴仙のことが不憫になって、豚肉を入れるよう提案した。ちなみに鳥肉が使えなかったのは、台所の入口で文が同族に対する横暴を阻止せんという使命感に燃え上がりながら、さとりと霊夢の動向に目を光らせていたからである。
かくてお鍋はぐつぐつと良い匂いを上げて完成し、二人はそれを居間に運んだ。
宴会の席はすっかり出来あがっていて、陽気な笑い声とお酒のむせかえるような匂いに満ちていた。
「おぉっ、きたきたー! 冬場といえばやっぱり鍋だぜ!」
「魔理沙ぁ、呑み比べするかい?」と、萃香。
「霊夢ー、こっちこっちー」と、レミリア。
「お嬢様、どうか前掛けを。お召し物が汚れますわ」咲夜が柔らかくたしなめる。
「ふぁ……はやく帰らないと……また怒られる……三日間くらい寝込むことになっちゃうよぅ……」
鈴仙が真っ赤な顔で外に逃れようとする。
「大丈夫だよ! もう怒られるの確定だから!」
因幡てゐが数匹の兎と一緒にいつの間にか紛れ込んでいる。
「あうぅ~」
鈴仙が床に突っ伏してむせび泣き始めた。泣き上戸らしい。
「楽しいわねぇ、幽々子も呼んでこようかしら」
「紫さん、それだけはやめた方がいいです」
お酒に強い文が冷静に紫をストップする。
「あら、そうかしら」
「神社ごと食いつぶされたいんですか。霊夢さんが泣きますよ」
「もう呼んじゃったのだけれど」
「おま」
開いた隙間から幽々子がふよふよと現れ、妖夢がどさっと床に落とされる。
「こんばんは~」
「ひゃっ!? ……もう、紫さま、いきなり隙間開かないでくださいよ……」
「妖夢さぁん~」
「わ、鈴仙さんどうしたんですか。泣いてますよ」
「んー、ちょっとね。鈴仙には憂うべき未来が待ってるのよ」
てゐがしたり顔でうなずき、杯を傾ける。
「はぁ、大変ですね。いったいどこの誰のせいですか?」
「主にここにいる奴らの―――」
「妖夢、こっちに来て一緒に呑みましょう。幽々子も」
「あ、はい」
様々な言葉が、返答を待つことなく無遠慮に投げ捨てられる。
さとりは少し頭痛を覚えた。お酒によって引き起こされる心の中の渦をダイレクトに受け取ってしまうから、呑んでいないにも関わらず酔っ払ったような気分になってしまう。なるべく他人の心を読まないように努め、自分を出来る限り押し殺しながら、さとりは霊夢のことを観察した。
この騒ぎの中にあっても、霊夢の心にはあまり乱れがなかった。お酒をすいすい呑んでいるにも関わらず、だ。彼女は特に意識していないようなのに、この場にいる全ての者に均等に接している。でろんでろんのレミリアが絡んでくれば適当にあしらい、咲夜に向かって不敵に冗談を云い、紫と幽々子のとりとめもない会話に時々口を挟んではその傍らで妖夢をいじり、魔理沙と萃香の繰り出してくる乾杯を次々とこなし、てゐと一緒に泣きじゃくる鈴仙をぶっきらぼうに慰め、文が端っこの方でまとめている文々。新聞の草稿を覗きこんだり、そして――黙りこくっているさとりの元にやってきた。
「どう、疲れた?」
「えぇ、少し」
「心が読めると、宴会とかじゃあ大変なんでしょうね。いつにも増して」
「元々、地霊殿では宴会をやりません。お酒も、嫌いではないですが、呑む時は一人でか、燐や空としか呑みませんね」
「へぇ、たしか前は、空なんかは放し飼いで命令聞くかどうかわからないって言ってたのに。今じゃあもうそんなに発展したのねぇ」
「お陰さまで。素適な誰かさんがずかずか乗り込んできて、引っかき回してくれましたから。秩序が回復された代わりに私の胃はぼろぼろです」
「おや、青白い顔で皮肉を言うあたりは変わってないわね」
「本当なら愚痴の一つでも零したいところですが、湿っぽいのは嫌だと言ったのは貴女ですよ」
「私、そんなこと言ってないよ。思いはしたけどね」
「……そうでした」
「時々、見分けがつかなくなるのね」
「悪い癖ですね」
「悪い、とも言ってないわよ。ただ直した方が人に嫌われないってだけ」
「直すべき点ということは、悪いじゃないですか」
「あんまり細かいこと気にしすぎると、また胃がぼろぼろになるわよ?」
「大丈夫です。胃薬は常備していますから」
「それ、大丈夫って言わない。まぁ軽口を叩けるくらいなら大丈夫かな」
にっと唇を傾けて、霊夢は笑みを作る。
さとりにはその表情が眩しく見える。
そして、こうして霊夢と会話をするのが、楽しいと感じた。
観察している限り、霊夢の言動と思考にはまったく断絶がない。裏表がない、というのだろうか。思った通りに行動し、行動しているまさにそのことを思考している。何食わぬ顔でお喋りをしながら、相手のことを心の中で蔑んでいる、というのがまったくないのだ。普通なら、個人差はあれそういうことは絶対にあるはずなのだけれど(さとりでさえあるくらいなのだから)。だからさとりは、こいしや地霊殿の住民たち以外の人との会話で、ほとんど初めて安心感というものを感じていた。
「あの――」
この人ともっと会話したい。そう思って声をかけようとすると、霊夢はもうすでに別のところへ行ってしまっていた。
「あ……」
その心を読んでも、さとりのことはもう彼女の中から消え失せてしまっているようだ。今は、再び話しかけた相手――八雲紫――に関心がすべて向けられている。
胸がずきりと痛む。
特定の誰かの心を特定の誰かが占有するなんて、ほとんどの時と場合において、確実に無理なことなのだ。
そんなのは自分が一番よくわかっているはず。
だから、気にしてはいけない。霊夢は悪くない。これは当たり前のことだ。
それでも、それでも。もう少しだけ、自分のほうを見ていてほしいと、せめてあとちょっとだけお話してほしいと思ってしまう。
煮え切らない。
そんなせめぎ合いに耐えながら、しばらくの間さとりは目の前にある料理の残りをなんとはなしに眺めていた。
すると、俯いたさとりの肩に、誰かの手がぽんと置かれる。
「ちょっといいかしら?」
振り向くと、そこには紅い吸血鬼の従者がいた。
十六夜咲夜は柔らかい笑みを浮かべ、さとりとしっかり目を合わせている。
咄嗟に彼女の心の中を読む。
どうやら、一緒に部屋の外に出て、話をしたいようだった。霊夢に関することについて。その感情といえば霊夢と同じように緩やかで、一番目立って主張していたのは、さとりに対する好奇心だった。
嫌悪感には慣れているけれど、好奇心を向けられるのは珍しい。さとりは少し不思議に思った。
それ以外のことを探り出す前に、彼女はちらりと視線を残して、部屋を出ていってしまった。ついてきてということだろう。さとりは、紫と楽しげに話す霊夢を振り返り、少し後ろ髪をひかれながらも、咲夜を追うことにした。
5 よむこと
咲夜と一緒に向かった縁側には先客がいた。月の澄んだ青い光に照らし出されて、因幡てゐがふすまに背をあずけ、あぐらをかきながらお酒を飲んでいる。その横には、布団にくるまれた鈴仙が寝転がっている。てゐが指を一本立てて唇にあてたので、静かに耳を澄ますと、すやすやと幸せそうに眠る鈴仙の寝言が聞こえてきた。
「…………えへへ……おっしょーさまぁ……もっと撫でて……」
さとりは思わずクスリと笑った。咲夜がてゐの横の壁によりかかったので、さとりも同じようにする。
「胡蝶夢丸を飲ませたんだよ」
てゐが鈴仙のへにゃれた耳をいじりながら説明する。
「せめて、眠りの中では良い夢を、というわけ?」と咲夜。
「うん。ちなみにお酒と併用するといつもの倍の効果がある。眠りの洞窟を抜けた先には輝かしい桃源郷が」
「嘘ですね。本当は危険なんでしょう」
さとりは心を読んで言う。これは、口に出して発言するべきだと感じたから。
「まぁ、飲ませた頃はだいぶお酒抜けてたから大丈夫だよ」
てゐは少し前屈みになり、さとりの方を見上げてくる。
因幡てゐの精神は、まったく奇妙なものだった。様々な二律背反する事柄が、子供のおもちゃ箱のように無造作に置かれている。さとりがその中から何か言葉を拾いとる時、それは決まって、てゐがにやにやと笑いながら差し出すような、絶対に「嘘」としか言いようのないものなのだ。うまく説明できないけれども、この兎の心を読めば読むほど、落とし穴の深みにはまっていくような、意味もないとんちに惑わされ続けるような、馬鹿らしい気分になってしまう。
何だかわけがわからなくなってきたというか、そろそろ1+1が本当に2になるのかどうかすら怪しくなってきたので、さとりはてゐから目をそらした。
また頭痛がぶり返してきた。
てゐがにやにやと笑いながらさとりに尋ねる。
「ねぇねぇ、何が見えた?」
「……わざと無邪気にならなくてもいいですよ。貴女にはかないそうにありません」
「ありゃりゃ。なんにも言ってないのにねぇ、わたし」
「嘘つき兎の心なんて読まないほうがいいわ。文々。新聞のインタビューを読んだかしら。大体において、馬鹿を見るのがオチよ――どうぞ」
咲夜が忠告とともに差し出したのは、紫色の液体が楽しげに揺れるグラスだった。いつの間に、とさとりは不思議に思ったが、時を止めていれてきたのだと心を読み取ってわかった。ワインではなく、ぶどうジュースらしい。
「………いただきます」
「じっくり味わうといいわ。ぶどうは目に良いっていうから、その第三の目にも効くんじゃないかしら」
もちろん、冗談だろう。
「面白いことを言いますね。でも、目に良いのはブルーベリーではありませんか?」
「知りませんわ」
咲夜がにっこりと微笑む。心を覗いてみると、本当にそう信じているようでもあるし、どうでもいいと思っているようでもあった。どちらかわからなかった。
掴み所がない、という点でてゐと咲夜の精神は似ていたけれど、それはまた別の種類の掴み所のなさだった。咲夜の場合、さとりとは別の時間軸で生きているような――これも上手く言い表せないけれど、緩やかで澄んだ清流を、早回しで見ているような感じだ。手を伸ばして水に触れようとすると、思考よりもゆっくりとしか体が動かせない、そんな妙な気分になってくる。
さとりはくいっとグラスを傾ける。少し苦さの残るコクのある味で、舌でころころ転がすと、その奥底に隠された深い甘味を堪能することが出来た。
揺れる液面を眺め、そこに自分の顔が小さく写りこんでいるのを見て、さとりは小さく溜息をもらす。
「……心を読んでも、それですべてがわかるわけではないのですね」
「あら、どうして?」
咲夜が、なんのことかわからない、とでも言うかのように首をかしげ、まさにその通りのことを心の中で呟いていた。
「貴女たちを見ていると、そう思います」
「わぁい、誉められたー」
てゐが八重歯を見せてニカッと笑う。
「なんだか、誉められていないような気もするけどねぇ」と、咲夜。
「正解です。むしろ私には、貴女たちのことが――」
そこで、ハッと言葉を止める。
息をのみ、危うく抑え込んだ言霊が、胸をバクンバクンと強く叩くのをこらえる。
――また、私は、
「不気味ですって言いたいんだね」
「不気味とでも言いたいのかしら」
てゐと咲夜が言った。
まったく同時に。
ふっと両脚の力が抜けた。
さとりは、壁をつたってずりずりと床に腰を下ろし、ほぅと力なく息を吐き出す。
「え。ええ。……は………ええ、と」
「どうかしたん?」と、てゐ。
「何だか、物凄い、脱力……しました」
見抜かれた。
さとりは自分の顔に触れてみる。
頭が、熱い。恥ずかしいのか、嬉しいのか、よくわからない。またいつの間にか汗ばんでいる。
たぶん、文脈を読めば、それは結構簡単に見抜けるものだったのかもしれないけど。
それでも、てゐと咲夜が、それを何の怒りも持たずにさりげなく言ったのが、さとりにとっては最大のショックだったのだ。
自分でもびっくりするくらい、今の瞬間が衝撃的だった。
霊夢のこともそうだけれど、この二人はさとりの想像の範疇を超えていた。
怖い、と思う。
でも、それにも増して、この二人のことをもっと知りたいと、強く願った。
こんなことは初めてだ。今日は本当に、初めてのことが多い。
「……おお、笑った笑った。いい感じの笑いだね」
そう言って、てゐがあぐらをかいたまま、ひざのあたりに頬杖をついて、さとりをしげしげと眺める。
「そういうのは健康にいいんだよ。じゃんじゃん笑いな」
「……それは、嘘ではないみたいですね」
「あともう一つ、いいことを教えてあげようか」
さとりは、てゐの言いたいことをすでに読んでしまっていたけれど、彼女が声に出して発言するまで待った。
「溜息をつくと、幸せが逃げていくよ」
心の中のものをそのまま読むよりも、口の動きを伴って呼気と共に放たれたほうが、言葉はより力強くなるからだ。
「……覚えておきます」
「なかなか素直でいいね」
てゐはそう言うと、未だに眠りこんでいる鈴仙の頬をぷにぷにするために体を傾けた。
「貴女が教訓を垂れるなんて、珍しいこともあるものね。明日は天変地異かしら」
咲夜が皮肉な調子で言う。
てゐは顔を上げず、手をひらひらと振る。
「まぁいいわ。ところでさとりさん。一つ提案があるのだけれど」
さとりはじっと咲夜を見つめる。だいぶ脇道にそれたが、これがさとりがここに呼ばれた理由なのだ。
正直、最初は決心がつきかねたけれど、ここでの会話があったから、さとりは咲夜の提案を受け入れることを決めていた。
「家に帰れないのでしょう。だったら――博麗神社はやめて、紅魔館に泊りに来ない?」
6 別れ
「――お世話になりました」
荷物を石畳の上に下ろし、さとりは霊夢に向かって言う。
「悪いわね、宴会の片付け全部やってもらっちゃって」
「いえ、一飯と宿のお礼です。ここに泊れなかったら、どうなっていたことか」
「紅魔館でもしっかりやりなさいよ。あそこには小生意気な吸血鬼がいるし、何考えてるかよくわからない従者だっているからね」
「ははは。心得ておきます」
さとりが紅魔館に行く旨を伝えると、霊夢は特に気にするでもなく、理由もきかずに頷いただけだった。それがさとりには少しだけ辛かったけれど、しょうがない。いつかまた、成長することが出来たら、ここに戻ってこようと思う。
咲夜がさとりに紅魔館へ来るように勧めた理由は二つだった。
一つ目。
「霊夢は、貴女にはまだ早いわ」
三人で話しこんだ明け方近く、咲夜は柔らかい表情で淡々とそう語った。
笑ってしまうような理由だが、それはさとりも実感したことだった。霊夢の精神の潔さに触れるには、さとりの心はまだまだ弱いというか、どこか粘着してしまうフシがある。そのまま触れ続けていけば、きっとざっくり切られてしまうだろう。そうならないためにも、そして霊夢と何の貸し借りもない対等な関係を築くために、まずは――紅魔館で修行しろということだ。
実は、宴会の間に、咲夜はずっとさとりのことを観察していたらしい。心を読む能力がないのにそこまで見抜くなんて、とさとりはまた少しだけ驚いた。
二つ目は、咲夜の個人的な理由によるものだった。咲夜は、さとりに対して好奇心を抱いている。さとりの能力に期待をかけて、彼女が紅魔館にやってくることで――ただ漠然と、何かが起こるのを楽しみにしている。そんな感じだ。
期待をかけられるなんて珍しいことだ。それに、咲夜すら漠然としか持っていない、そのいずれ起こるであろう変革について、さとり自身も関心があった。
なにより、咲夜という存在に対しても、さとりは興味を抱いたのだ。
だから、行くことにした。
「紅魔館に飽きたら、是非ウチにも来なよ」
てゐが鈴仙のあちこちをいじりながら、さとりに向かってそう言った。
「ありったけの御馳走と鈴仙の素適写真でもって歓待してあげるウサ」
「なぜそこで落とし穴やらクリームが噴出する地雷やら金ダライやらのイメージが出るのですか。罠にかける気まんまんじゃないですか」
と、油断ならないもう一つのお誘いもあったことだし。
とりあえずしばらくは、住む場所と食べる物には困らなさそうだ。
素適なお賽銭箱(命名:博麗霊夢)に寄りかかりながら、巫女はひらひらと手を振った。
さとりは荷物を持って歩きだす。
階段の前には、いったん主を館まで送り届けた咲夜が、瀟洒な様子で待機している。
「お姉ちゃん!」
不意に、上の方から声がした。
「……こいし?」
見ると、朱色の鳥居の笠木の上に、いつもと変わらない様子のこいしが腰かけていた。
彼女は黒い帽子を片手でおさえ、ぴょいと飛び降りてきた。
さとりの上に。
「ひゃっ」
変な声を上げて、さとりはこいしを腕に抱きとめる。どうやら激突する直前に浮いたようで、お姫様抱っこさながらにこいしはさとりの細腕の中におさまっていた。
「あはは、変な声」
「……もう、危ない真似はやめてください。怪我をしますよ」
「お姉ちゃんと一緒になら、怪我してもいいかなって」
こいしがさとりに抱かれながら、可愛く笑う。
不思議といえば、自分の妹が一番不思議なのだけれど。
「どうして、ここに?」
「お姉ちゃん、紅い屋根の大きなお屋敷に行くんでしょ?」
こいしはさとりから離れて、両腕を後ろに回してお尻のあたりで組み、上目遣いで見つめてくる。
媚びているのだろうが、帽子で目元のあたりが隠れるので、結構不気味である。
「だったら私も行く」
「なぜ?」
「あそこには、気になる子がいるからね」
それが誰なのか、さとりにはわからない。こいしは心を閉ざしているからだ。
「ね、いいでしょ?」
こいしが咲夜に問いかける。
咲夜はたった一言。
「好きになさい」
とだけ言って、先に階段を降りていってしまった。
「あの人、冷たいのか暖かいのか、わからないね」
「こいし、余所様の家にお邪魔するのですから、行儀よくするのですよ」
「お姉ちゃんこそ、ホームシックにかからないようにね」
こいしは屈託なく笑い、咲夜に続いて階段を降りていった。
妹もいることだし、これなら新しい場所での生活も、それほど苦にならないかもしれない。
さとりは鳥居の下に立ち止まると、振り返って賽銭箱の方を見た。
霊夢は、魔理沙や萃香に囲まれて、どことなく無気力な感じで受け答えをしている。
いつか、自分もあの輪の中に入れるのだろうか。
その日が来る事を願っている。
強く。
さとりは深呼吸をすると、こちらにちらりと視線を向けて手を振った霊夢に、深々とお辞儀をした。
(To be continued...)
えぐさは無いけれど、どこか温かみのあるお話でした。
次回に期待。
今から気になります。
どうなっていくのかが楽しみです。
お姉さんみたいな暖かさと優しさに涙をこぼしそうになりました
そしてわくわくがとまらない
さとりんの事を知ってるパッチェさんがどういう反応をするのかに期待です
さとりんの描写うめえ。笑える部分としんみり部分のバランスがいいですな。
心を読めても全容が読めない存在というのは、さとりにとって大きな希望なのかもしれませんね。
いや、他のやつらが上手過ぎるんかな;ww
自分も「家族八景」大好きです。
さとりの視点から東方のキャラを描く、という一面は
結構新鮮ですね。
同時にさとりの成長物語の側面もあって。
とてもよいSSでした。
それにしても皆さとり妖怪を受け入れすぎていてすごいな。
こいしのこれからの動きも楽しみ。早速続編読みに行きます。
だからこそ、さとりにとっては居心地のいいものになっていくんだろう、と思います。
さとりがどのように成長していくか楽しみにしながら続きを読ませていただきます。
妖怪を嗜好品(おさけ)呼ばわりできる霊夢らしさが溢れている描写だと思いました。