ああ、ごめんなさい、先生。
許してください、私は、私達は、あなたの言いつけを破ってしまいました。
それでも、それでもやはり私達には、何よりもあの花が欲しかったのです。
ああ、私は後悔しています。
けれど、私はどうなってもかまいません。
だから、だからそれでも、この子だけは、この子だけはお見逃しください。この子だけは、無事でいさせてください。
[8:17]
その銀髪の女――八意 永琳は、椅子に座っていた。
椅子に座って、目の前でちろちろと揺れるアルコールランプの火で、長煙管の先端の金属部を炙っていた。
彼女が今いるのは、簾で唯一の光源である窓を覆い隠し、隙間から入る陽光とその火を明りに少し薄暗い室内である。
「いい天気だわ」
投げやりな様子でそう言うと、炙っていた煙管を火から離し、椅子に深く座り直して体の全てをその背に預けるようにして、煙管を咥えてゆっくりと吸いこんだ。
「何吸ってるんですか?」
部屋にはもう一人いた。黒髪の妖怪兎である因幡 てゐは、部屋の端、壁際へ背のない丸椅子を運んで、その上に胡坐で座り、何とはなしにぼんやりしながら目の前の永琳へ尋ねかけた。
「暇潰しが出来る薬」
「薬? 薬ですかい。効かないんじゃなかったですか」
訝しげなてゐの問い返しに、永琳は煙管を口から少し離すと、またゆっくりと薄く開いた口から煙を吐き出した。
「そう、効かないの。だから、そんな私にも効くほど物凄いやつ」
「うへえ」
「あなたもどう? 三秒で月の裏側までぶっ飛べるわよ」
「遠慮しときますよ、私ぁ健康マニアで界隈通ってるんですから」
苦い顔で固辞するてゐに、永琳は先程まで気だるげだった顔を少し意地悪い笑みへ変えた。
「あら、そう、もったいない。一吸いで脳がぐずぐずに腐って廃人になった気分が味わえるのに」
「できれば一生涯味わいたくない気分ですねぇ」
「気持ちいいわよ。前頭葉が思考機能を失う数秒間で、一生かけても見られないほどの夢が見られるの」
からからと笑いながらそう言う永琳へ、てゐも仕方なさそうに笑い返した。
「まあ、ほどほどにしといてくださいよ。天下の八意 永琳が、楽しいお薬で頭を腐らせるのが趣味なんて、誰にだってショックが強すぎるでしょう」
「どうせまた数秒で元通りだもの、こういう楽しみ方が蓬莱人の醍醐味なのよ。それくらいしか楽しみがないとも言えるけどね」
また煙管を吸いながら永琳。
「暇なのよ。文字通り、死ぬほど暇。楽しいわね、てゐ」
見事最初の怠そうな顔に戻って、煙と言葉を吐き出す。
「私はそれほど暇ってわけじゃあありませんよ」
問いかけに、てゐは心外だというような顔つきで答えた。
「そう? その様相で?」
「実はまあ、兎達の仕事を監督しなきゃならないんですけどね。鈴仙に押しつけて、ここでサボってるわけです」
こちらも意外そうな顔で問い質す永琳に、欠伸をしながら頭をかいててゐ。
「ふうん……」
永琳の吐き出す煙が宙を漂い、換気の悪い室内を埋めていく。てゐは少し焦りながら、己の方へ近寄る煙をばさばさと手を振って散らした。
「手伝ってあげればいいのに」
「……健康の秘訣は、七割の自由と三割の束縛という持論がありまして」
目を流してこちらを見やる永琳へ、てゐは存外真面目な顔を見せつける。
「一日の三割は仕事しますけど、七割は自分の思うように行動するんですよ。それが一番精神に負担がなくていいのです」
「へえ」
「そんなわけで、今は自由の時間というわけです。ま、することなくて腐っちゃいますがね」
「逆に、大きく見たら束縛されてる気がするんだけど……」
永琳は視線をてゐから天井辺りへ何を見るでもなく移した。煙を吐く。
「まあ、面白い説だわ。論文でも書いてまとめてみたらどうかしら」
「いずれやるつもりではありますよ、広くこの方法を売り込んで一儲けするんです。まあ、これだけじゃなくて他にも色々と秘訣はありますし」
そう言うと、てゐはにししと笑った。
「ますます面白い。その折には、ぜひ私も一枚噛ませてもらおうかしら」
宙を見つめる永琳の目は、ただ目に映る景色を反射する。
「ああ、まったく面白いわね」
煙を吐いた。
女の子達は必死に、必死に山の中を逃げていました。
何故そんなに必死になって逃げているのでしょう。
簡単です、その後ろから、恐ろしい、恐ろしい、人を食べてしまう妖怪が追ってきているからです。
二人の内、大きい方の女の子は自分より小さいもう一人の女の子の手を引いて、必死に木々の間を走ります。
背後から絶えず響く茂みをかき分け、枝葉を踏みながら走ってくる物音が、妖怪の、化け物の追跡が終わっていないことを知らせています。
大きい女の子は、出来ることならその場に蹲って、震えながら泣き出したいような気持ちでした。
しかし、そうするわけにはいきません。自分だけならそうしていましたが、今自分はもう一人、自分より小さい女の子を連れているのです。
その小さい女の子は泣いていませんでした。顔は不安と恐怖で塗り潰されていましたが、口をぎゅっと結んで、自分の手を引く女の子へ必死でついていっていました。
ならば、自分が諦めるわけにはいきません。大きな女の子も、小さな女の子と同じような表情で、荒い呼吸意外を一切発さずに黙々と必死で走ります。
そうして逃げながら、大きな女の子は後悔していました。こんなところへ来て、こんなことになっていることを後悔していました。
この山へ子供達だけで入ってはいけない、たとえ大人と一緒に来ても、奥深くまで進むことをしてはいけない。
周りの大人達や両親、ことに女の子の通う寺子屋の先生はいつも、いつも真剣な顔でそう教えていたのです。
それなのに、女の子達はその言いつけを破ってしまいました。破って、この山へ入ってきて、そして奥深く入り込んで迷ってしまったのです。
それでも、女の子達は言いつけを破ってでも、一度連れられてこの山へ入った時に見た、綺麗な綺麗な花が欲しかったのです。
その花がどうしても、どうしても欲しくて、女の子達は二人だけでこの山へ来てしまったのです。
そして、恐ろしい、あの恐ろしい人食いの化け物に見つかってしまったのです。
ああ、女の子はとても後悔しています。後悔しています。二人を追う足音はすぐそこまで迫っています。
女の子は逃げ始めてからこれまで決して振り向きませんでした。振り向いて、その恐ろしい化け物の姿を見てしまったら、自分の足が恐怖で止まってしまうような気がしていたからです。
しかし、その足音がもう、その息遣いがもう、二歩も三歩も行かない内に追いつかれると思うほどに近くへ迫った時に、初めて女の子は振り向きました。
そこには今にももう、自分達へその鋭い、体をなますのように切り裂いてしまう爪を振りおろさんとしている化け物がいました。心臓が止まるかと思うほどに恐ろしい姿でしたが、それ以上に恐ろしい光景が女の子の目を捕えていました。
化け物がその爪を振りおろそうとしているのは、ああ、そうです、自分が手を引いている、自分よりも少し後ろを走っている、小さい女の子にだったのです。
それを見て、その瞬間、女の子は何かを考える前に足を止めて後ろへ飛び、そして小さな女の子へ抱きつくように飛びかかって、自分の体で覆い隠してしまうように――。
[11:30]
その後、我が愛しの永琳師匠は相変わらずぼんやりと二、三時間腐った後に、急に立ち上がると煙管を片付け簾を上げて、てきぱきと仕事の準備を始めた。
何だろうと私が訝しんでいる内に、すっかりいつもの診察が出来るように準備を終えて、師匠は椅子に座り直した。
と、同時にがらりと部屋の引き戸が開き、紫色の長い髪をした月兎の鈴仙が入り込んできて、私は見事にサボりの現場を見つけられてしまったのだ。
ああ、なんということか。部屋へ入ってきた鈴仙はまず真面目な顔で椅子に座っている師匠を見て安心したような顔になり、次に私の顔を見るや、まるで長年の仇敵を見つけたような様相となった。
「てゐ! あんたこんなとこにいたのね!」
まずいと思い、行動を起こす前に私はすぐさまに首根っこを掴まれ、哀れまるで普通の兎のように、背の高い鈴仙に持ち上げられてしまった。
「まったく! 師匠も、何でおっしゃってくれなかったんですか!」
「ああ、てゐは相談に来ていたのよ。最近体の調子が重いってね」
「仮病に決まっていますよ! まったく師匠をこんな風に騙して!」
掴んだ私を鈴仙は自分の高さまで持ち上げて、穴を開けようとでもするかのように睨んでくる。
何か言うべき言葉を見つけられずに顔を顰めて永琳師匠を見る私に、当の本人は鈴仙に見つからないように気をつけながらいやらしい笑顔を一瞬送ってきた。
ため息をつくしかなかった。
「さあ、ここに隠れて、絶対に出てきては駄目よ」
小さな女の子は、恐怖に引き攣ったような顔で震えながら、それでも確かに小さく頷きました。
「大丈夫、ここにいれば絶対にあいつには見つからないし、きっとずっと隠れていれば、探しに来たみんなが見つけてくれるわ」
大きな女の子は小さな女の子の頭を撫でると、優しく笑いました。
もう恐怖はありませんでした。絶対にこの子だけは守らなければならないという決意だけが、心の中にはありました。
女の子の口の端から、つ、と、血が一筋溢れて零れます。
そうです、女の子は、小さな女の子をかばって、背中に大きな傷を負っていました。
今も血がどくどくと流れ出ています。しかし、それでも、それとそこから一緒に恐怖や不安も流れ出て行っているような気がしました。
喉の奥からまた溢れそうになる血を無理やりに飲み込んで、大きな女の子はもう一度念を押します。
「いい、絶対に、誰かが助けに来るまでは……出ては駄目……」
それだけ絞り出すと、女の子は小さな女の子を隠した木の洞から離れてふらふらと立ち上がり、ゆっくりと歩き出します。
足の方に垂れた血をわざと地面にこすりつけるようにしながら、なるべくそこから離れるために。
血を追わせて、化け物をおびき寄せるために。
かばった時に、勢い余って道外れの斜面を転がり落ちたせいで、幸いにも女の子達は一時的に追跡から逃れることができたのです。
しかし、それも長くは続きません。いずれ見つけられるし、見つけられる前に山を下りる自信もありませんでした。
だから、だからせめて一人だけでも助かるために、自分が囮にならなければ。
女の子は足を引きずり、血を流しながら、必死で歩きます。後ろから音が迫って来ています。
女の子は小さく笑います。自分を追ってきているなら、少なくとももう一人は狙われていないのですから。
そして、一度大きく咳き込むと、びしゃびしゃと地面に血を吐き出して、倒れ込みました。
もう立ち上がる力もありませんでした。音が真後ろで止まります。
女の子は最後の力を振り絞って、後ろを向いて座り直しました。
目の前に化け物がいます。化け物は女の子を見下ろして、牙の生え揃った口を開くと、まず手を合せました。
「ありがとう、お前さんのおかげで私は今日も生きられるよ」
女の子は、いきなりそんなことをする化け物がなんだかおかしくて、少し笑ってしまいました。
そして化け物は爪を振り上げます。
「悪く思わないでおくれな。私が人間を襲うのは、これ正しく妖怪と人間の定めなのだからね」
女の子は最後に、最後まで、小さな女の子はちゃんと助かるだろうかということを考えていました。
爪が振り下ろされて。
「だったらぁ!!」
女の子の横を何かが通り過ぎ。
「お前が人間に退治されるのも、これ正しく定めなんだろうなぁ!!」
女の子の視界が真っ暗になる寸前に、鳥の翼のような形の炎を纏った誰かが目の前の妖怪へ突っ込んでいったように見えましたが、それについて何かを考える前に女の子の意識は眠るように落ちました。
[14:23]
鈴仙・優曇華院・イナバの証言より一部抜粋
ええ、はい、確かに私はその時台所にいました。
兎達のおやつ用にお団子を作っていたんです。みんなこれが大好きなんですよ。
この屋敷の台所事情というのは、何故か今は私が全て握っていることになっているので。
私が来る前はてゐと師匠が交代でやってたらしいので、二人とも手伝ってくれてもよさそうなものなのに……二人とも今はたまにしか作ってくれないんですよ。渋々私が色々と用意することになっているわけですけど。
ああ、すいません、話が逸れましたね。
そう、そうです、そしてお団子を作っていたわけです。生地を捏ねて、一口に丸くしている時だったかしら。
それくらいの頃に、ふらっと台所に師匠が現れたんです。珍しく欠伸なんてしていましたね。
まあ、その日は診察客も一人もいなくて暇な日でしたし、仕方ないのかもしれません。とはいえ、診察客が多い日というのがここは少ないのですけれど。
うん、そしてそれから、私は師匠の姿を一瞥すると、別段何も問いかけませんでした。師匠はそのまま真っ直ぐ水瓶に向かうと、一口水を飲むのが見えました。それだけの用事と思いましたし。
師匠は水を飲んだ後に、そのままじっと立って私が団子を作り続ける姿を眺めていたみたいです。
どうもじっと見られるのは恥ずかしかったんですけど、それに何か言うのも変かと思って私は黙って作業に没頭しました。それに、何か反応して面白がらせるのも嫌でしたし、何せ人をからかうのが結構好きな人なんですからね。
師匠はそれからしばらくして、今度はいきなり動いて勝手口へ近づいたかと思うと、引き戸を少し開けて外を見始めました。
「てゐは?」
そして、いきなりそう聞いてきましたので、私は少し驚きながら師匠へ顔を向けました。
「別の仕事を任せています。働く時間だとか言ってましたから、サボってはいないと思いますけど……」
「ふうん……」
それだけ聞くと、師匠は戸口から少し外へ出て、空を見上げていたようです。
「雨が降るわね」
しばらくそうしてから、戻ってきてまたいきなりそう言いました。
「はあ……」
私は思わず気の抜けた返事を返してしまいましたね。何せ外はすごくいい天気だったんですから、これから雨が降るだなんて信じられませんでした。
「兎達に洗濯物、取り入れさせなさいな」
「あ、は、はい」
とはいえ、師匠は冗談は言っても、どこかの詐欺兎と違って嘘を好んで言う方ではありませんでしたので、私はそれをとにかく信じることにしました。
結局その後言葉通りに雨が降ってきたのですけど、いまだにどうやって師匠がそのことを予見できたのかわかりません。
まあ謎の多い人ですから、変な神通力など持っていたり、使ったりしててもおかしくないのですけど。
そうそう、そうですね、師匠はそれからこう言って台所から出て行きましたよ。
「後はお湯を釜一杯沸かしておいてちょうだい、必要になるかもしれないから」
これも後に結局必要になったわけなんですけれど、まったく私のお師匠はすごいを通り越してやっぱり変な人としか私には言えません。
雨の降り注ぐ深い竹林を、一つの影が駆けて行く。
白く長い髪の女が、その背に一人の幼子背負い、血塗れで、雨を避ける為の合羽を上から一枚、背中だけを覆い隠すように羽織っただけで、雨に濡れるのもかまわず駆けて行く。
幼子の顔に生気はない、血を流し続けているのは、その幼子自身なのだから。かろうじて薄く息をしているだけだ。
白い髪の女は必死で駆けながら、背中の幼子に話しかけ、心の中で思い続ける。
ああ、死なせるものか、お前のような子供を死なせるものか。
さあ、もう少しだぞ、頑張れ、お前は強い子供だろう。
ああ、お前はその身で自分より幼い子供を守り切ったほどに強いではないか。
死なせはしない、絶対にお前を死なせはしないぞ。
女は駆ける、深い竹林の中を、一直線に。
さあ、もう少しで医者のところだ、頑張れ、お前はきっと助かる。
お前の両親も、先生も、あの女の子も、それをきっと願っているのだから。
さあ、見えてきたぞ、あの屋敷だ。
お前は助かる、絶対に死なせるものか。
[15:46]
(玄関へ、子供を背負った白い髪の女、妹紅現る)
「おい! 誰か! 誰かいないのか!」
(奥より兎達現る)
「やや! これはどうしたことだ!」
「ああ、藤原 妹紅だ! また、この屋敷を襲いに来たのか?」
「違う! 怪我人を連れて来たのだ、お前達以外には誰かいないのか?」
「本当だ! 怪我人を背負っているぞ!」
「血塗れだ!」
「師匠達を呼んでこよう!」
(兎達、退場する。少しして、永琳、鈴仙、てゐ、奥より現る)
「兎達の説明は焦っていまいち要領を得ていなかったのだけど、どうやら怪我人を連れて来たらしいわね」
「そうだ、この子を助けてやってくれ」
「仇敵に頼むとは、よっぽどのようね」
「ああ、頼む。私のそんな恨みなど、今は関係ないんだ」
「ふうん、その背負っている子供かしら、優曇華」
「はい」
「少し診てあげなさい、正確な所が知りたいわ」
「ここでですか?」
「不都合が?」
「床が汚れますよ」
「後でお前が掃除すればいいでしょう」
「そうですけれど……」
「まあまあ、こんなこともあろうかと、このてゐめが敷き布を持ってきております。さあ、ここへ」
「何でもいいから早くしろ!」
(てゐ、床に布を敷き、妹紅、そこに子供を寝かせる。鈴仙、そこへしゃがみこんで、調べていく)
「ふむふむ」
「どうかしら?」
「どうなんだ!」
「背中の大きな裂傷が酷いですね、脇腹まで回って、内臓まで損傷させています。ああこれは酷い、今かろうじて息があるのが奇跡なくらいです」
「そんなこと見ればわかるだろう!」
「今言えるのはそれくらいですね」
「御苦労、戻って正確な報告を書いておいてちょうだい」
「はっ!」
(鈴仙、角張ったような敬礼をすると、奥へ退場する)
「何だ? どうして帰らせる?」
「てゐ、とりあえず応急の処置をしておきなさい」
「はいはい~」
「さて、それじゃあ妹紅、少し話をしましょうか」
「今はそんな場合じゃない! 早くこの子を!」
「やらせているじゃないの、少しかかるわ。その間にでも、まあ、聞きなさいな」
(永琳、懐より煙管を取り出し、石を打って火をつけて吸い始める)
「ふぅ……ねえ、妹紅、八雲のは知っているわね」
「ああ、あの胡散臭い妖怪だろう」
「そう、あの胡散臭い妖怪。この郷の、この世界の管理者。あなた、ここに来たのは何年前だったかしら」
「さあな」
「少なくとも、閉じられた後でしょう? ならばあなたは知っているわよね、外の世界の医療技術は、どれくらいのものなのか?」
「ああ?」
「人間の技術は日進月歩、ああ何とも素晴らしい存在です。けれどね、ここはその進歩を意図的に止めてしまっている。それがいいところもあるけれどね」
「……何が言いたい?」
「医学術もその一つ。里には医者がいたわよね、まずはそこへこの子を診せたはずよね、どうだった?」
「……」
「匙を投げられたでしょう、誰もが諦めたはずよ。だけど、あなただけは諦められずにここへ連れて来た」
「何を……」
「でもね、今の外の世界の技術なら、わからないわよ。こんなところへ連れて来ずとも、すぐさまに助けられたかもしれない。こんな迷ったら出られなくなるような竹林を、こんな激しい雨の中に強行軍で来ることなど必要なかったかもしれない」
「……っ」
「だのに、八雲のが、この世界の医術の進むのを良しとしていないのは何故かしらね」
(永琳、煙を吐き出す)
「助けられる命が増えるはず、この子だけじゃなくね。ああ、何故かしら? 何故かってね、それは……」
「助からない命は、助からない方が自然だからよ。摂理を曲げることは、何人にも許されない。医の進歩とは、それ自体倫理摂理何もかもからどんどん突き進んで離れて行く道なのよ」
「その究極が私達。わかるでしょう、わかるはずだ、藤原 妹紅。ああ、何とも穢らわしいことじゃないかしら」
(永琳、煙を吐き出す)
「そして、私もね、別段そんな命を救いたいとか、そういう考えでこんなとこに医院なんて構えているわけではないの」
「趣味よ、暇潰しと言いきってしまってもいいかもね。私はね、この郷の全員の命どうこうだなんて、どうでもいいのよ」
「私が治療してやるのはね、はっきり生きたいという意志を持って、命からがらここへ辿り着くような、そんな命よ。誰も彼も構わず助けてやろうだなんて、おお怖い、それこそ隙間に睨まれるわ」
(永琳、煙を吐き出す)
「だからね――」
「――それが……」
「うん?」
「それが何だ!?」
(妹紅、永琳へ近づき、胸倉を掴み上げる)
「それがどうした!? そんな理屈が何だ!? それで、そんな理由をつけて、お前はこの子を助けないっていうのか!?」
「……」
「ふざけるな!! お前は、お前は、医者だろう!? 医者なんだろう!? だったら、目の前に、死にかけている奴がいるんだったら、治せ!! どんな理屈つけたって、結局それが一番根本だろうが!!」
「……ちょっと、落ち着きなさい」
「ああ!?」
「誰も、その子を治さないとは言っていないわ」
「まったく、そうね。その子の命は、あなたに連れ来られたとはいえ、確かにここまでもったもの。それは確かに、この子の生きようとする意志に他ならないでしょう」
「じゃあ……」
「それならば、治すわ。助けますとも、生きていたいならば、そう思ってここへ来たならば、この永遠亭の威信をかけて生かしてあげる」
「運びなさい、てゐ。手術の準備をしといてちょうだい」
「へいへい、かしこまりました」
(兎達現れ、てゐと一緒に女の子を担いで退場する)
「ふぅ……まったく……」
「……どうして……」
「……まあ、結局のとこ、私が言いたいのは」
「今日みたいに、誰彼構わず連れて来られても困るってことよ。その誰かが確かな意志を持って、自分の足でこの屋敷の門を叩くならばいいけれど、それ以外を診る気はないってこと」
「……」
「そこら辺がわかってもらえればいいわ、釘刺しとかないとあなた、何でもかんでも連れてきそうだから」
「……わかったよ」
「ええ、それなら結構――さて、これからどうするの? 手術は大分かかりそうね、ここで待っていてもいいわよ。部屋へ案内させるわ、お望みの姫もいるでしょう」
「いや……帰るよ。待ってる皆に報告しなきゃならんし」
「そう」
「助かるんだろうな?」
「助けるわよ。そうね……沙汰は追って、誰かを使いに出してあげる。サービスよ」
「……そうしてもらえたら助かるよ、なあ」
「うん?」
「その……一応、感謝するよ……頼んだぞ」
(妹紅、そのまま足早に退場する)
「……されるほどのことじゃあないと思うけれどね。そんな身でもないけれど、まあ、悪い気分じゃないわ」
(永琳、奥へ退場する)
[20:03]
「くたびれたわ……」
足を投げ出し、はしたない格好で、どうにか寝転ばずに座りこんでいる永琳が呟くようにそう言った。
「まったくですよ……」
「いやぁ、大手術でしたねぇ」
同じく半分寝転びそうになりながら畳に座る鈴仙と、こちらはもう寝転がっているてゐ。
手術が終わり、術衣を脱ぐのもそこそこに、手術室から出てきてとにかく空いていた部屋に転がり込んだ、疲れ果てた三人であった。
雨のいまだ降り続く外はもう闇に落ちている。蝋燭の明かりだけが室内を照らしていた。
「はぁ……」
永琳はともあれ一息がつけたことを味わいながら、己の懐をゴソゴソと探る。
「あら」
探って、しかし目的の物がそこにないことに気づいて、自分の弟子の方を見た。
「ちょっと、てゐか優曇華、煙管を取ってきてくれないかしら」
「ええー……」
同じくらい疲れ果てているのに、そんな自分達へ遠慮なく言いつける師匠へ抗議の視線を送る二匹。
しかし、永琳はそれにまったく取り合わない。
「頼むわよ、早くしてちょうだい」
「まったく、いい人使いですよ……」
渋々諦めた二人が顔を見合わせて、次の押し付け合いのためにタイミングを合わせて拳を振り上げた。
その時。
「あら、煙管ってこれかしら?」
そう、声がしたかと思うと、いきなり部屋に、永琳の背後に、もう一人の誰かが現れていた。
黒い黒い、夜のような長い直ぐ髪を垂らした、この屋敷の姫が。
「ねえ?」
くすくすと笑う、蓬莱山 輝夜が。
「……ええ、まさしくそれですよ、姫」
自分の背後を、呆けたように見上げながら永琳。
視線の先の輝夜姫は、中々様になった様子で手に持った煙管を口に近付け、味わうように吸って、煙を吐き出した。
吐き出して、呆然としている三人を見下ろして、くすくすと笑う。
「そう、それはよかった。はい」
そして、永琳の目の前へしゃがみ込むと、咥えていた煙管をくるりと回して、吸い口を永琳の口へ近付ける。
「御苦労さま、永琳」
「……ありがとうございます」
そうされて、永琳も笑うと、礼を述べてからそれを咥えて、手渡してもらう。
「でもね、駄目よ。こんなつまらない出来の物なんか吸っていたらね、永琳、名折れだわ」
それから、笑いながらそう言って、輝夜は立ち上がった。
その言葉を受けて、面食らったような表情をする永琳と、いつの間にか姿勢を正して座りながら苦笑するてゐ。
ただ一人、鈴仙は話についていけないといったような顔をしていたが、次に輝夜がそこへ視線を向けてきたので、慌てて居住まいを正した。
「夕餉が遅いと思っていたのだけれど」
「は、はい、すみません!」
そう言う輝夜へ、慌てて頭を下げる鈴仙。
「あら、別にいいのよ、事情は大体聞いているしね。それに」
輝夜は笑うと、いつの間にどこから取り出したものか、手に団子の乗った皿を持っていた。
「これでしばらくもたせておくわ」
「あっ!?」
それを見て、鈴仙はしまったというような顔と共に声を上げる。
「台所にあったのだけれどね、私のためでしょう?」
「あ、は、は、はい……」
問いかけに、鈴仙は歯切れの悪い返事を返す。実際は、出来上がった時に色々とゴタゴタがあったせいで、作ってそのまま放っておいてしまったものであった。
姫の我が侭には、この屋敷の誰もが逆らえない。兎達のおやつも独り占めというわけである。
「……まあ、兎達には勝手に分けるようにさせておいたわ。私にはこれくらいで十分だし、あなた達の分も残っていると思うけれど」
しゅんとなっている鈴仙を見て、またくすくすと笑うと、輝夜はそう言った。
「あ、ありがとうございます! 夕餉はこれからすぐに準備いたしますので!」
その言葉に、沈んでいた気持ちを一気に引き上げて、鈴仙はまた頭を下げてそう叫ぶ。
「ええ、お願い。ああ、けれど、けれど」
しかし、輝夜はそれを見てまだくすくすと笑ったまま、襖を開けて部屋から出て行こうとしながら、振り向いて言い放つ。
「けれどね、おそらくはまだまだ私は夕餉にありつけないし、あなた達も団子にはありつけないと思うわよ。では、もう一度あらためて、御苦労さま。三人とも、よく頑張ってくれたし、これからも頑張ってちょうだい」
笑い声を残して、襖が閉まる。
後には、疑問を浮かべたまま顔を見合わせる三人が残された。
と、同時に、慌てた様な足音が近づいてくる――。
[20:12]
そして、慌てた様子の兎達に連れられた永琳達は見つける。
「あら……」
「うわぁ……」
「はぁ……」
門の前で倒れ込んでいる、一匹の妖怪を。
「うぅ……治療してくれぇー……」
全身、あらゆる所が炭化するほどの火傷を負い、血だらけ傷だらけの酷い様でそう小さく呻く、一匹の妖怪の姿を。
「どうしますか、これ……」
「どうするって、ねえ……」
それから、嫌な予感を感じつつも問いかけてくる鈴仙へ、薄く笑いながら永琳は言うのだ。
「生きたいと思ってここへ来たなら、どんな誰でも私は助けるわよ。言を違えるはずもない」
運びなさい、と、少し疲れた顔で、それでも楽しそうにそう指示する永琳に、二匹の兎はため息をつく。
かくも永遠亭の夜と一日は、名前の通りに長くなる――。
[24+8:35]
そして銀髪の女医――八意 永琳は椅子に座っていた。
椅子に座って、机に向かい、相も変わらず閉め切って薄暗い室内で、乳鉢、薬草、器具のその他色々を広げて、何かの実験をしているようだった。
「いい天気だわ」
時折、簾の隙間から差し込む陽光を見て、嬉しそうにそう呟く。
「何作ってるんですか?」
そんな様子をぼんやり見ていた因幡 てゐは丸椅子に胡坐をかいて、ぐてっとしながらそう尋ねかけた。
「暇潰しをするためのお薬」
楽しそうに、歌うように返す永琳。
「姫に駄目出しされるようでは、私もまだまだだものねぇ。今度は吸った瞬間月面旅行を目指しているの」
「はあ、そうですか……」
本当にいきいきとした様子で、薬草を摺り潰し、炙り、火にかけ、抽出し、等と色々繰り返している永琳へ、呆れたような視線をてゐは送る。
「しかし、なんですなぁ」
とんとんと自分の肩など叩きながら、老人のようにてゐ。
「次の腐ったような暇潰しのために、楽しみながら精力的に活動するだなんて、こりゃもう本末が転倒していやしませんか」
そう言われて、永琳は向けていた背を椅子ごとくるりと回転させててゐを見ると、にやりと笑う。
「そうね、結局はそれこそがこの屋敷に居着いている全員の全てだと思うわ」
そう。
「本末を転倒させながら生きてくのよ」
永遠に。
煙が空へ昇ってゆく。
生き物なのに生き物じゃない。本末が転倒してるのかもしれない。
どっちが上でどっちが下なのかわからない置物のようだ。
ぐるぐると天地が限りなく回転し続ける。
こういう物かもしれないな。と思った。
永遠亭をこんな風に捉えるのも面白い。
でも一応…
薬ダメ、ゼッタイw
台詞回しもおもしろかったです。
ただ、薬は絶対にダメです。それだけは譲れませんw
とても好きな雰囲気の作品でした。
妖怪だから大丈夫なのかな・・・
ところで永琳は何吸ってるんですか?
もしかして、塩酸メタンフェタミン・・・
ちょっと腐ってる永琳がいい感じ
と思える永遠亭だね
でも輝夜は絶対に薬に手を出さないって信じてる!w
もちろん味なんてわかりませんとも。ここは譲れん。
薬はダメだよーゼッタイ
永琳はヘプバーンの映画みたいな紙巻たばこを先に挿して使う奴の方が似合いそう
こんな永遠亭もアリだと思います。
もこと永遠亭の常識の落差にリアルを見た。見た目は同じでも中身が全く別物と