*ご注意*
このお話は
作品集88「私のお星さま」
同 「私のお星さま2」
の完結編となっております。
ごとりと――落ちるように彼女は膝を突いた。
胸の下、鳩尾を押さえ苦しそうに呟く。
「ああ――――なんてことだ」
「ナズーリン……?」
浮かぶのは、苦笑とはとても云えぬ――苦しげに歪められた笑み。
「私は……ここまでのようだ」
彼女が何を言っているのか理解できない。
「私を置いて行ってくれ……」
「馬鹿な……! そんな真似出来るわけがない!」
それでは全くの無意味だ。彼女が居なければ私は前へ進めない。
ナズーリンが居なければここまでの道程すらも意味を失ってしまう。
苦しげなまま、彼女は笑みを深める。
「変わらないね――昔から、あなたは強情だった」
「ナズーリン!」
倒れ込む彼女を受け止める。
顔は真っ青で、抱く肩は震えていた。
ご主人様と、小さな声で私に呼び掛ける姿が……あまりに痛々しい。
肩を抱く手に力を込める。私はここに居る。寅丸星はあなたの傍に居る。
「まったく――心残りだよ。あなたに……エローリンと呼んでもらえなかったことが――」
「日を跨いでボケを続けるな! 誰にも通じませんよそんなの!」
息も絶え絶えにナズーリンは言葉を絞り出す。
そんな真似をせねばならぬほどに、苦しいのだ。
「もう喋らないでください……これ以上苦しむあなたを見たくない……!」
「優しいねあなたは……その優しさに付け込んで頼みがある」
「付け込むって堂々と言うな! なんです!?」
「私の部屋のエロ本、始末しておいてくれ……」
「この期に及んでまた情けない頼みですね! わかりました、焼いておきます……!」
「いや大人としての責任だ、寺子屋への通り道に」
「青少年に害悪を振りまくな! そんな責任は放棄しろ!」
目の焦点も合ってないのにうわ言のように紡ぐ言葉に応える。
しかし彼女の返事はなかった。
ただ――体の力が抜けていく様が抱く手に伝わるのみ。
「ふ……すまない、ね。ご主人様……先に、いくよ――」
「ナズーリン……? ナズーリン! なずうぅぅりいいいんっ!!!」
応える声は無く、叫びは反響さえも残さずに消えていった――
ひょい、とナズーリンの小さな体を担ぎあげる。
「さ、病院行きますよ」
寸劇はここまでだ。長々と付き合ってしまった。
「……ここまで嫌がってるんだから思い直して欲しかったよ……」
ダメです。
ようやく辿りついた病院は意外な佇まいだった。
竹林の中に建つとても落ちついた作りの大きなお屋敷――永遠亭。
一見した限りでは貴族かなにかのお屋敷と云った風情だ。言われねばこれが病院とは気付けまい。
ともあれ、ここに来るまで大変だった……
先日赴いた時は迷いに迷い、偶然見つけた雀のお宿で一泊して帰ることになってしまった。
万全を期して今日は里で案内人を雇ったのだがそれでも迷った。
突然案内人が、
「おらぁっ! 妙な術やめんと焼き鳥にすんぞ兎ぃっ!!」
と叫んだ後は迷うことも無くすんなりと永遠亭まで来れたのが不思議でならない。
なんだったのだろうあれは。案内人は兎の悪戯だと言っていたが……兎の悪戯、ねえ。
帰りは大丈夫だろうか。一応案内人は帰りは平気だろうと言っていたが心配だ。
やはり待っていてもらうべきだっただろうか。
「…………」
まあ今は無事帰れるかよりも心配なことがある。ナズーリンの容体を知らねば安心など出来ようもない。
こうして平然と座っていられるのだから大事ないとは思うのだが……
「…………」
かたかたかたかたかたかたかたかたかた。
尻に小刻みな振動が伝わりとても気持ち悪い。
「ナズーリン」
呆れ気味に声をかける。
エンドレス貧乏ゆすり。彼女はここに着いてからというものずっとこんな調子だった。
「落ちつきませんねえ」
「落ちつくものかね。ここは病院だよ?」
正確には薬屋らしいのだが。ともあれ貧乏ゆすりはやめて欲しい。
長椅子に一緒に腰掛けてるからこっちにまで振動が伝わってくるのだ。
「病院だからこそ落ちつくものでしょうに」
「無茶を言う。腹を切り開いてハサミやら小刀やらで切り刻む場所で落ちつけるわけがないよ」
「また酷く限定的な嫌がり方ですね……」
「そも、病院が好きな者など居る筈もない」
「どこからその自信が出てくるのですか。居ますよ」
「だって病院じゃきゅいーんってするやつで歯を削るらしいじゃないか!
きゅいーんって! すごく気持ち悪くて痛くて堪ったものじゃないって緑髪の巫女が言ってたぞ!」
「え。歯も悪いんですかあなた」
「まさか! げっ歯類は死ぬまで歯が伸び続けるんだ健康さ!」
てんぱってるなあ。もう何言ってるのかわけがわからない。
きゅいーんってなんだろう。
それにしても受け付けを済ませてからだいぶ経つのに呼ばれないな。待合室は私たち以外誰も居ないのに。
早くこの貧乏ゆすりから解放されたいのに。
ちらりと受付にちょこんと座っている妖怪兎に目を向ける。呼ばれる気配はなかった。
うーん……暇だなあ。なんとなくナズーリンが落ちつかないのがわかってきた。
こう、呼ばれるか呼ばれないかという時間はいやに長く感じ、そわそわしてしまう。
「命蓮寺さーん。命蓮寺ナズーリンさーん」
「あ、はい」
「…………」
耐え難くなる前に呼び出される。これでこの鬱々とした貧乏ゆすりともおさらばだ。
立ち上がろうとすると、くいと袖が引かれた。
「待ちたまえご主人様。なんだね今のは?」
「今のとは?」
「私の名前が改変されていたんだが」
「ああ。苗字なしじゃ不便と思いまして」
「……いや、ご主人? 私はナズーリンでフルなのだよ……?」
なんでそんなに唖然とした顔をするのだろう。
「あ、もしかしてナズーリン・ナズーリンの方がよかったでしょうか」
「すまない。あなたのセンスについていけない」
「命蓮寺さーん」
「おっと、行きますよナズーリン」
「……了解」
いいと思ったんだけどなあ、ナズーリン・ナズーリン。
妙に遠い診察室までの道を歩く。壁に貼られている矢印に従って廊下を進むがまだ見えない。
大きなお屋敷だからというのはわかるがもっと入口の近くに診察室を置けばいいのに。
広い廊下だな……牛車くらいは簡単に通れそうだ。無駄にでかい私が小さくなったかのように感じる。
「……ん」
沈黙に耐えかねたのが緊張に耐えかねたのか、ナズーリンが声をかけてきた。
「そういえばここの先生はたいそうな美乳だそうで」
ああいつものナズーリンだ。
「どこからそういう情報を仕入れてくるのか聞きたくないので突っ込みません」
「だが悲しいことに身長は170そこそこ……私はもっとこう、でかくてどーんなのがいいのだよ」
「聞きたくないつってんでしょうが」
「そうだね。星熊殿などはもう私の好みドストライクだった。あ、安心してくれたまえ。
バランス的にも形的にもサイズ的にもご主人様が一番だ」
「おまえもう黙れ!」
そんな寸評知りたくもないわ! 知って私が何か得をするとでもいうのか!
などといつもの漫才に発展するところだったが、ようやく診察室の札が見えた。
やはり遠い。この作りには物申した方がいいのかもしれない。
「入りますよ」
「……も、もうちょっと待ってくれないかな。心の準備が」
「永遠亭に辿り着くまでの紆余曲折を思えば準備は万端です」
がらりと戸を開く。
「ようこそ、永遠亭へ」
なんか赤い人がいた。
「ひぃっ!?」
私とナズーリンは異口同音に悲鳴を上げる。
悲鳴も出るさ。戸を開けたらいきなり斑に赤い人が立ってれば。
「あらどうしたの?」
「な、なんで血塗れなんですか!?」
白衣を斑に染めるのはどう見ても血だった。しかも鮮血だ。
殺人現場に迷い込んだかと錯覚してしまったわ。
「え? 手術後なんだから当たり前でしょう?」
「……どんな手術を……というか薬屋だったんじゃ……」
「表向きは薬屋ですけど、必要なら手術くらいしますわ。知識と技術はあるし」
赤い人は何故かくるりと背を向け首だけ振り返り、薄い笑みを浮かべる。
「天才ですから」
うわムカつく。何故かわからないけどムカつく。
つーか血塗れになったんならまずは着替えろ。
だが赤い人は血塗れの白衣を気にした様子も無く椅子に腰を下ろした。
びちゃりと湿った音が聞こえた。……勘弁してほしい。
「改めて。私が薬師の八意永琳よ。さて今日は……胃痛ね?」
机の上に置かれていた紙を摘み上げ問うてくる。
受け付けの時に聞かれた簡単な病状などが書かれているようだ。
「それでどちらを診ればいいのかしら」
患者の特徴などは書かれていなかったらしい。
……まあ、私たち二人とも顔面蒼白だからどっちが病人かなんてわかり辛かろう。
「こっちです。ナズーリン」
私の後ろに隠れていたナズーリンを引っ張り出す。
蚊の鳴くような悲鳴が聞こえたが無視。大丈夫。この人は多分医者だよナズーリン。多分。
ふむと頷き八意医師は血塗れの白衣を脱ぐ。と、すぐ傍に置いてあった替えの白衣を着た。
……最初から着替えて出てこい。私たちのリアクションを見たいが為に着替えてなかったのかこいつ。
「さてそれでは」
八意医師が診察を始めようとした瞬間、怒鳴り声が舞い込んだ。
「せんせぃー! 八意先生ー! てぇへんだあっ!」
すぱぁんと豪快に診察室の戸が開けられる。
「あら、霧の湖の太公望(自称)さん。どうしたのかしら」
「括弧自称括弧閉じまで言わないでくださいよ! それが釣りをしてたら大怪我したのが流れてきて!」
「はいはい。女の子なのだからもう少しお淑やかにしなさいね」
言ってくるりとナズーリンの方を向く。
「悪いけど急患が入ったわ。どんな状態か見てくるから待っていてくれる?」
「あ、うん」
ほう、と彼女は安堵の息を吐いた。
先延ばしになっただけでこれで帰れるわけじゃないんですがねナズーリン。
がらがらと重たい音が外から聞こえてくる。大八車にでも乗せられているのだろうか?
だとしたら相当に重傷なのかもしれない。他人事ながら気にかかるな。
音を聞いてか八意医師が意外にきびきびした動きで出ていく。
「河童かしらねー…………あら」
などと聞こえてきた。
さっき飛び込んできたのが人間だったから患者も人間だと思ったのだが違うのだろうか。
ばたばたと白衣を着た妖怪兎たちが駆け出していく。
「慌ただしくなってきたね」
「ええ、大事ないといいんですが」
「邪魔になっちゃ悪いから帰ろうか」
「逃がさんよ」
そそくさと廊下に向かうナズーリンの襟首を掴む。
「放せー! 私はまだ戦えるんだー!」
「何と」
「エロ本を規制しようとする頭の固い大人と!」
「あなたはまず己の現実と戦いなさい」
「いやだあぁっ!!」
無理矢理椅子に座らせる。こうして椅子に座らせた姿勢で頭を押さえれば動けまい。
抵抗しても無駄だよナズーリン。怪力無双の鬼に褒められた私の腕力に敵う筈もなかろうよ。
「やめてくれご主人様! 背が縮む!」
「そこまで力籠めてませんよ。逃げられないようにしてるだけです」
「いやあああ! 誰か、誰かぁ! ご主人様が力づくで私をー!」
「私の社会生命を抹殺する気か貴様ぁ!」
ついに攻勢に出やがったなナズーリン! 猿轡噛ませるぞ!
縛れそうなのが私の帯しかないからやらないけど!
「――と、無駄に騒いでる場合じゃなさそうですね」
外でも騒ぎが起きている。ただ事ではないのはその声を聞くだけで理解できる。
「無駄じゃない! 私の生死が掛かっているんだ!」
うるさいので手で口を塞ぐ。まだ暴れようとするが無駄だ。
筋力も妖力も私に勝るものは何一つ持ってないナズーリンにこの拘束は解けない。
頭押さえて口塞いでるだけなんですが。
静かにさせたところで乱暴に戸が開けられる。
「おっと……急患が運ば、れ、て」
目が見開かれるのを自覚する。動くものがいやにゆっくりと見える。
驚きが度を過ぎればこうなると聞いた。そう、度が過ぎている。
こんな光景を目の当たりにするなど考えすらしなかった。
担架に乗せられて運ばれる妖怪。
豪奢な金の髪。
私に匹敵するその体躯。
天を衝く見事な一本角。
「星熊ーっ!?」
思わず叫んだ。
誰だって叫ぶ。
あの星熊勇儀がズタボロで担架に乗せられてたら驚きを通り越して叫ぶ。
「う、ぉ、おお……寅丸……久しいな……」
「先日会ったばかりですよ! どうしたんですか!?」
「いやなに……大したことは無いよ。ちょっと、ね……
酔って走り回ってたら崖から落ちて滝に流され流木に弾き飛ばされ猪の集団に轢かれただけさ……」
「言いたかないですけど馬鹿にも程がある……!」
どんだけ奇跡を重ねればそんな事態に陥るんだ。
「っふ……私も焼きが回ったもんだ……ついでに迎えに来た大八車に轢かれただけなのにな……」
「とどめ刺されてんじゃないですか! 呪われでもしたんですかあなたは!?」
「べ、別に崖から落ちた直接の原因はその、あれだ。酔った勢いで……
パルスィの尻を撫で回し頬ずりしまくった末に突き落とされたから実際呪われててもおかしくないとか……
そんなことはあんまりないんじゃないかなと信じたい気持ちもあるんだがどうだろう」
「自業自得じゃねーか!!」
どうだろうもなにもあるかぁ! 鉄板で呪われとるわ! 自信も欠片ほどにしかないじゃないか!
「パルスィの尻は肉が薄い割に柔らかかったぞ……」
「お願いです星熊……! これ以上喋られたら拳で突っ込みそうだから喋らないでください……!」
握った拳が暴発寸前。
頼むからシリアスな空気を維持してくれ私の周りの人々。
「もう……目も開けていられん……さらばだ寅丸。最後におまえに会えて、よか……」
「ほ、星熊? ……星熊! ほしぐまあああっ!」
「ぐがー」
「寝ただけよ」
――流石に一日二回やると恥ずかしいですねこれ。ははっ。
というわけで星熊の治療の為に私たちはもう少し待たされることとなった。
すぐに済むと云うので診察室で待っているが落ちつかない。ナズーリンが。
再開した貧乏ゆすりは先程よりも速度が上がっているような気がする。
「死刑執行を待たされてるんじゃないんですから……」
「注射されるかもしれないのだよ!? 鉄で刺されるのだよ!? 液体をブチ込まれるのだよ!?
死刑執行に等しいじゃないか、このような恐怖に耐えられるほど私は強くない……!」
物は言いようと言うがここまで拗らせるのも珍しいのではないだろうか。
「私は医者が嫌いでね……幼少の砌よりお医者さんごっこだけは避けて通ったほどさ。
笑うがいいご主人様。この私が、エロスの申し子たるこの私がね!」
「あなたが子供の頃は存在しませんよねお医者さんごっこ」
生温かい目を向けるが効果なし。床板の節目を数えでもしているのか下を凝視したまま動かない。
怖がり過ぎて前後不覚に陥っているな……何がそこまで怖いと云うのか。
確かに痛い目も見ようが治療の為だ。刀で斬られたり槍で突かれる方がよっぽど痛いのに。
認識に差があり過ぎるのか彼女の怖がりがちっとも理解出来ない。
どうしたも
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
響き渡る悲鳴。
確認するまでも無い。星熊の声だった。
「ご主人、私、帰る」
「だ、大丈夫ですよ。星熊なら死にはしませんよ」
「私なら死ぬかもしれないじゃないか!?」
反論できない。これは本気で帰った方がいいのかもしれない。
手術室がどこにあるのか知らないが血の臭いがここまで漂って来てる。
よし逃げようと決めるのと戸が開かれるのは同時だった
「うわあああぁぁぁぁっ!?」
思わず悲鳴を上げる。
ナズーリンはそれすら出なかった。
「あらびっくり」
びっくりなどとどの口で言う。腰が抜けるかと思ったのはこっちだ。
なにせ戻ってきた八意医師は滴る程に血塗れだった。
返り血どころの騒ぎじゃない。全身血塗れにも程がある。
銀髪も赤く染め上げられてしまっている。
なんだこの新キャラ。
「待たせたわね。それじゃあなたの診察に入りましょうか」
「いやあの」
「ああ手術? 無事に済んだわ」
何故かくるりと以下略。
「天才ですから」
「ムカつくわ」
決めポーズなのかそれは。せめて顔くらい拭ってから出てこい。
来る病院を間違えたとひしひし感じる。人間も妖怪も分け隔てなく診る名医と聞いて来たのに。
本当に星熊は無事なのだろうか……この出血量はどう見ても致死量なのだが。
生きていたら後でお見舞いに来よう。そうしよう。
「ねえ診察しないのー?」
少し黙っていてくれ先生。こっちにも心の整理とか色々あるんだ。
だから回転椅子に座ってぐるぐる回るな気が散るなあもう!
「というわけで診察よ」
「着替えるか顔を拭うかしろ」
間を空けたように見せかけるな。
「別に妖怪ネズミなんて初めて診るから楽しみだなんて思っていないわ」
心配だ。初めてなのか。しかも楽しみなのか。
着替えもしないでそわそわしてるあたり本気で楽しみなんだろうな。
もうさっさと診察させて帰った方がいいのだろうか……
控えてる白衣を着た妖怪兎に助けを乞う目を向ける。彼女は硬く目を瞑り首を横へ振った。
諦めてください。そう告げられた気がした。
「それじゃあお願いします」
驚愕の顔を向けないでくださいナズーリン。どうしようもないんです。
良心がちくちく痛むから哀願の目を向けないでくださいお願いします。
「あなたは?」
「私はこの子の上司です。付き添いで」
「ふぅん……上司、ね……」
俄かに声が真面目さを帯びる。
「あの、なにか……?」
「症状や顔色から見てストレスが原因と推察出来るわ。
重症化するストレスとなると身近なものが原因の場合が多いのよね。例えば、仕事の上司とか」
え――?
私が……原因……?
考えもしなかった。彼女の、ナズーリンの胃痛の原因が私だったなんて。
単純に原因は仕事が出来ぬ故のストレスだとばかり……
「先生」
黙り込んでいたナズーリンが口を開く。
「あまり私の主を虐めないで欲しいな――あなたの仕事は私の治療の筈だ」
「……そうね。あまり睨まないで、怖いから」
少しも怖がる素振りは見せず、八意医師は診察に使うだろう道具を取り出し始めた。
……ナズーリン。今あなたは私を庇ったのですか? それは、彼女の言うことを肯定してしまう。
私が……あなたを苦しめていたのですか?
ナズーリン――――
よくわからない器具を使い――痛そうではなかった――調べ上げた病状を八意医師は紙に書き込む。
道具がそうであるように書かれる言葉も専門的で私には何が綴られているのかもわからない。
不安は募る一方だった。兎角、わからないことは恐怖以外の何物でもない。
落ちつかぬまま待っていると突然八意医師はナズーリンの方を見る。
ゆっくりとナズーリンと、私に順番に目を向け、
「神経性胃炎ね」
と、そう診断を下した。
「胃潰瘍にまで進んでるわ。重度ね。ストレッサーに心当たりは?」
「ストレッサー?」
「ストレスの元ネタ」
わかりやすいようで的を外した説明だ。
「ん、んー……」
ナズーリンは口籠る。言い難そうにしているのは、やはり私が原因だと彼女も気付いているからか。
「それは、私が……仕事のことで」
「違うわね」
罪の告白に似た私の言葉は遮られた。
「そうでしょう? 患者さん」
「…………」
「ナズーリン?」
「どうやら、上司の居るところでは言えないようね。ま、それはおいおい聞き出すから構わないわ。
さて、心の治療となると胡蝶夢丸ナイトメアが最適かしら」
「悪夢見せてどうすんですか師匠」
「本音が出てしまったわ。胡蝶夢丸――いえ、この場合はストレッサーを取り除かないと、無駄ね」
声は、一層深みを増す。
「入院してもらいます」
告げられるのは、聞きたくない言葉だった。
この病院が信用できないとか、それ以前の問題で――ナズーリンが苦しんでいると、知りたくなかったのだ。
「入院とは――そこまで酷いのですか」
「程度の良し悪しの話なら、そうね。いくら妖怪が頑丈とはいえ、心が原因では中々治らない」
認めがたいことを次々と肯定されてしまう。
「彼女の場合薬の処方でどうにかなるものじゃないわ」
「む、う。……そこまでだなんて」
「マジぱない症状ね」
「ぱ?」
「若者言葉を意識してみました」
「……若者の言葉遣いには明るくありませんが……聞いた事ないんですけど……?」
「あら。まだ流行ってなかったかしら。流行りは周期的に繰り返すからそろそろと思ってたのだけど」
前回は何時頃流行ったのだろう。
「まあマジぱない状態なのよ」
「だからぱないってなんですか」
「ぱないのよ」
「説明してくださいよ」
「マジぱねえのよ」
「意味わかってませんね」
「ぱねえわ」
会話してくれ。
おかげで胸に支えていたものは取れたが逆に脱力し切ってしまった。
なんでこう私の周りには真面目さを維持できる者が居ないのだ。
「あの、先生」
ナズーリンの声に我に返る。
「私はなるべく入院はしたくないのだが……それは無理だろうか」
「無理ね」
要求はあっさりと突っぱねられた。
医者の見地からすれば当然なのだろうが少々酷薄に過ぎる物言いだ。
もう少し患者である彼女の言い分を聞いてくれても……
「別に妖怪ネズミなんて珍しいから研究し尽くして切り刻んで標本にしようなんて思っていないわ」
「ご主人私帰る!」
駆け出そうとするナズーリンをなんとか捕まえる。
気持ちはわかる。気持ちはわかるがここで逃げては治るものも治らない。
本気の目だったのは気のせいさ!
「こいつ絶対やる! 絶対なんか怖いことするよご主人様!」
「落ちつけ! 落ちつきなさいナズーリン! 医術は仁術! そんなことする筈ないじゃないですか!
大丈夫ですよ。もしやろうとしたらこの女を等活地獄の責苦にあわせますから」
ごきりと指を鳴らしてみせる。
ああ迷うまい。私はあなたのためならどんな奴でもこの爪で引き裂いてやろう。
「ご主人様……」
「その責苦本当に出来るからやめて欲しいのだけれど」
黙ってろ藪医者。
そんなこんなで入院の為に泊まる部屋に通された。
急な入院だったので寝間着などは貸してくれるそうだ。
「むう……この、和服と云うのはどうにも慣れないね」
「あなたは昔から洋服ばかりですからねえ。明日着替えなどは持ってきますよ」
帯を結ぶのに四苦八苦しているナズーリンの横で私は布団を敷いていた。
落ちつかない様子のナズーリンであったが、落ちつかないのは私も同じだった。
この数百年、彼女と離れて過ごした記憶など……一日とてなかったから。
「何か他に必要なものはありますか? 明日まとめて持ってきますから」
不安を掻き消さんと話しかける。
「んー……着替え以外は特に……いや、忘れてはならないのがあったよ」
なんだろう? 生憎医者にかかった経験がないので思いつかない。
まさか仕事道具のダウジングロッドを持ってこいとは言わないだろうし。
「見舞いの定番はエロ本だと緑髪の巫女が言っていたのだよ。頼むね」
沈黙。
ああ、うん。
ナズーリンだからしょうがないね。
「わかりました。あなたの部屋のを適当に持ってきますよ」
「いやあれらは読み飽きたから里で新しいのを買ってきてくれないかな」
重苦しい沈黙。
否、重苦しいのは私だけでナズーリンは笑顔さえ浮かべている。
「……私に、里で、買ってこい、と?」
「ああ。出来れば過激なやつが好ましい」
注文まで付けられた。いや、待て。待てよ寅丸星。何も変なことはないさ。
私も彼女も大人だ。そういう本を買ってもどこからも文句は出まいて。
だがしかし。
「い、嫌ですよ! 里に買い物に行き難くなるじゃないですか!」
「必要なものなのだよご主人様。ああいうものがなければ退屈で退屈でどうしようもない。
入院するんだ。この程度のわがままくらいは言ってもいいだろう?」
「う、く……!」
正論に聞こえないことも、ってなんだその笑い方! 素直に笑顔と表せないにやにや笑い!
「私に恥をかかせることだけが目的か……!?」
「ふむ、意外と……うむ。こういうプレイもいいね……」
やっぱりかこんちくしょう!
「貴様の変態行為に私を巻き込むなぁ!」
「私を変態変態と気持ち良く罵ってくれるがね、あなたも人のことは言えないのだよ?」
「罵られて気持ち良くなるな、って。え? どういう意味です?」
「私の姿をよく見たまえ」
「…………いつも通りですけど?」
「うむ。いつもどおり少女だ。つまり女でロリだ。あなたは同性愛好者でロリコンなのだ」
「言い返せねえっ!!」
完全に言い負かされた。突っ込み切れなかった……!
おのれ、おのれナズーリン……! 何時の間にここまで牙を磨き上げたのだ!
「あなたも変態なのだ。堕ちるとこまで堕ちてしまえば楽になるよ……?
と、冗談はここまでにしておこうか」
「……え?」
彼女の方から切り上げるなど珍しい。真面目な話に持っていくでもなし……体調が優れないのだろうか。
切り上げ方が不自然だ。いつもならこんな強引に終わらせないでもっとスマートに話を流すのに。
「うん? どうしたんだい。物足りなそうな顔だね」
「んなわけあるかあ! 私を変態に引き摺り落とさないでくださいよ!」
……気のせい、だろうか。
いや、やっぱり、おかしい。
「そろそろ帰った方がいいよ。暗くなったらまた竹林で迷ってしまうだろうからね」
納得できない。胸に支えてすとんと落ちない。
しかし――私から離れたいと、距離を置きたいと願う彼女の気持ちだけは、察せた。
それがどういう意味なのかわからない。どんな理由でそう思ったのか想像も出来ない。
不安も不満も多い。だが、今は距離を置くことが最適だと、呑み込む。
彼女が望んでいるのなら……受け入れる。
「……では、また来ます」
「うん――また明日」
背を向けたまま、彼女はそう言った。
戸を閉める時も――彼女は私を見なかった。
翌日、私は荷物を持って永遠亭に赴いていた。
考え事をしながらだったので案内人を雇うのを忘れたが、幸いにも迷わず辿り着いた。
……辿り着いてしまった。気が重い。このままナズーリンに会いに行くのは憚られる。
私が原因だと医者は言った。そうではないと医者は否定した。
あれはどういう意味だったのか、未だに理解出来ない。
こんな落ちつかぬ気分のままではただ会うことすら難しい。なにか、ワンクッション置かねば。
そうだ――星熊は生きているだろうか。なにせあの惨状、意識があるかも疑わしい。
受付で安否を確認し彼女が入院している部屋へと向かう。
少しでも気になることは減らしておこうと云う後ろ暗い見舞いであるが、行かぬよりはましだろう。
「寅丸です。起きてますか?」
声をかけ戸を開ける。
「おー、寅丸か。わざわざ見舞いに来てくれたのかい?」
布団に寝かされている星熊は足に添え木を当てられ吊られているものの、元気そうだった。
ほっと息を吐く。どう考えても無事ではなかろうと思っていたから尚更安心できた。
「心配でしたから。大丈夫ですか?」
「ああ、あの先生名医だな。三日もありゃ退院できるってさ」
「そ、そうですか」
けろりとしているあたり真実なのだろうがいまいち信じ切れない。
あの悲鳴と出血量だったからなあ……
「怪我の具合は?」
「主に骨折だけど、大体骨はくっついたよ」
流石は鬼か。この分なら三日で退院と言うのも藪の放言でもあるまい。
布団の横に座ると――彼女の異変に気付いた。
「……紅葉にはまだ早いですよ」
「だはは。女の勲章さ」
顔に見事な張り手の跡。よくもまあ勲章などと嘯ける。
「誰に――って、あなたにそんなことを出来るのは橋姫くらいですか」
「おうよ。私が崖から落ちた後ずっと探してくれてたみたいでさ。ついさっき来たんだよ。
入れ違いだったけど会わなかったかい?」
「いえ、見ていませんね。しかし崖から突き落とされた上ここまでやられるとは……
宇治の橋姫は苛烈な性格だと聞いてはいましたが、本当に恨まれてますね」
「いやあ、涙目で駆け込んできたからさぁ。ついね? あっついくちづけをね」
また自業自得かよ。つくづく同情出来んことばかりする鬼だ。
「それで怪我したって自覚あります?」
「わかってないねぇ。百の言葉で蕩かす前に、熱いくちづけで火を点けるんだよ」
「それで紅葉が散ってれば世話ないですよ」
「はっは。ま、何よりの応えになっただろうさ。私の怪我は大したことないってね」
口ぶりからして――崖から突き落としたのは事故だったのだろう。
直接言葉を交わしたことはないし、面識もほんの少しのものだが……
あの橋姫はこんな非道なことを平気で出来る妖怪ではないように思えた。
星熊も欠片すらも恨んでいない。
それが証左であるだろうし――なにより、彼女の顔に浮かぶのは幸せそうな笑顔。
「相変わらず仲のよろしいことで」
「妬けたかい?」
「ええ――」
そうですね、とは繋げられなかった。喉まで出かかっているのに吐き出せない。
彼女の……言う通り、私は妬いている。幸せな二人に、嫉妬している。
何故私とナズーリンはああなれない、何故私たちは上手くいかないと、妬んでいる。
情けないな。ナズーリンがああなってしまったのは私のせいだと、言われているのに。
己を棚上げして嫉妬するなど、情けない。
「…………」
こんな私だから……彼女は、ナズーリンは重荷に感じてしまっているのだろうか。
「……ところでさぁ」
「え」
「そっちの大荷物はなんだい?」
突然話を振られ反応し切れない。星熊は――ひどくつまらなそうな顔をしていた。
「あ、ああ、私の部下が入院しまして。着替えなどを持って来たんです」
「部下……ああ、あのネズミか」
言葉に詰まり、話を続けられない。
星熊の顔が俄かに険しくなる。
「心此処に在らず、か」
「う……」
反論できない。数瞬ではあるが、星熊のことを忘れていた。
無礼にも程がある。見舞いに来ておいて物思いに耽るなど……
ごろりと寝返りを打ち、星熊は追い払うように手を振った。
「気も漫ろな見舞いなんざ嬉しかないよ。それ持ってとっととネズミんとこ行きな」
「……はい。申し訳」
「寅丸」
背を向けられたまま話しかけられる。
腰を上げかけた姿勢のまま、私を耳を傾けた。
「今度また遊びに来なよ。酒くらい奢るからさ」
頭を下げ、立ち上がる。これ以上迷惑はかけられない。
戸に手を掛けた背にその一言は届いた。
「二人でな」
「……っ」
――鋭い人だ。
全部、見抜かれてしまっているのだろうな。鬼がどうとかではなく、懐の広さで。
敵わないと思い知らされる。彼女は――強い。
振り返りもう一度、今度は深く頭を下げる。
「失礼します」
あなたのその言葉に応えられるよう頑張ります。星熊。
戸を閉める。頭は下げたまま。俯いたまま。
されど、もう迷いは無い。
星熊に背を叩かれてなお立ち止まってなどいられない。
話し合おう。私が負担となっているならその部分を直せばいい。
初めから諦めて何もしないなんて許されない。
私は、寅丸星はナズーリンを愛しているのだから。
彼女の部屋へ向かう。足取りは意識して強く、速く。何事にも動じぬと気合いを入れる。
部屋が見えてきた辺りで足を止めた。つばを飲み込み、覚悟を決める。
話し合うんだ。私と彼女は恋人同士。後ろ暗い想いを抱いたままでは――幸せになどなれる筈もない。
「出て行ってくれっ!」
されど踏み出さんとした一歩は怒声に阻まれる。
聞いたことも無いような、怒りの叫び。あれは、彼女の……声?
ナズーリンとの付き合いは長い。当然、怒ったところくらいは見たことがある。
怒声だって何度か聞いた。それでも……あんな、憎しみを混じらせた叫びなんて聞いたことはなかった。
決意が揺らぐ。一歩が踏み出せない。
ナズーリンに、何が……?
固まったままでいると、戸が開けられ八意医師が出てきた。
目が合う。彼女は戸を閉め、無言のまま歩み寄る。
「あら、お見舞い?」
それは、ナズーリンに私の存在を隠そうとしているかのようだった。
「あ、はい――あの、何があったんですか?」
「治療よ。進捗は芳しくないけれどね」
声は抑えられている――部屋の中に居るナズーリンまでは届かない。
先程の怒声と云い、詳しく訊くべきなのかもしれない。
少なくとも、ナズーリンの容体くらいは訊ねるべきだ。
しかし、嫌な予感がする。この菫色の瞳に見られるのが酷く、恐ろしい。
「……では、私は見舞いに……」
「ちょっと待って」
行く手を遮られる。逃げられない。
「少しお話していかない?」
「……私も暇ではないので……」
「つれないわね」
菫色の瞳が細められる。
「主治医と患者の身内がお話しするくらい普通でしょう?」
なんとも、威圧的な視線。笑っているのに笑顔とは思えない。
……普段の私だったなら、尻尾を巻いて逃げだしていたかもしれない。
ただでさえナズーリンのことで不安定だ。これ以上揺さぶられては耐えられない。
だが、今の私は星熊に、あの星熊勇儀に背を押されている。
「なら――お聞かせ願いたい」
退くことなど、あり得ない。
「……ナズーリンの病の原因は、私なのですか」
単刀直入。腹芸は出来ない。
問いに、八意医師は僅かに驚きの表情を見せた。問われるとは思っていなかったのか――
だが答えを聞かぬわけにはいかない。ナズーリンと向き合うなら知らねばならぬことだ。
彼女を苦しめたくない。彼女と共に歩みたいと願うのならば……避けては通れぬ。
「意外ね」
短い呟き。
「妖怪が自ら己の非を認めるだなんて」
「ナズーリンに傷を負わせるより、ましですから」
「ふぅん……正直、医者としてはあまり会わせたくなかったのだけれど」
楽しそうに、面白そうに、彼女は笑った。
「……あなたが毒だったけど、あなたが薬になるのかもね」
「それは、どういう」
「さてはて。毒と薬は裏表~♪ なんてね」
そのまま八意医師は立ち去る。結局答えは聞けなかったが――もう私を止めようとはしなかった。
あるいは……今の、意味のなさそうな問答こそが答えだったのだろうか。
ともあれ、もう止める者は居ない。
歩みを進め、声をかけ戸を開ける。
「入りますよナズーリン」
一拍置いて返事。
「ん……ああ、よく来たねご主人様」
布団の上に座ったまま、彼女は顔だけをこちらに向けた。
「着替えを持ってきました。具合はどうですか?」
「大事ないよ。そもそも入院する必要もなかったんじゃないかな」
私の目を見てはいない――それを指摘はせず、布団の横に腰を下ろす。
星熊の言葉を、八意医師の言葉を噛み締める。
私が原因なのなら、それを直さねば、直視せねば前へは進めない。
「いつまで入院することになるんでしょうねえ」
少しずつ切り込む。
「あなたが居ないと色々大変ですよ」
「一日でかい?」
「ついあなたの分まで食事を作ってしまったりしましてね。まあ、色々」
「まったく、ご主人様は私が居ないと本当にヘタレだね」
「駄目と言うならまだ受け入れられるがヘタレか! そこまで私のヘタレイメージを固着させたいのか!」
――と、落ちつけ、落ちつけ。
ここで彼女にペースを握られてはいつも通りだ。切り込むどころではなくなってしまう。
やはり……率直に訊くべきだろうか。私は腹芸に向いていない。真正面から攻めねば、進めない。
「あの」
「聞かれてたかな」
意を決して声をかけると、それは問いに阻まれた。
しかしそれは、遠回りではあるが核心に至る話。
「……はい」
「見苦しいところを……済まないねご主人様」
「いえ私は別に」
これを逃してはならない。
「ナズーリン、何があったのですか?」
「なに、ちょっと苛ついただけだよ。入院なんて慣れてないから」
「嘘はやめてください」
強く彼女の声を遮る。
酷く――嫌な気分になる。彼女を責めているようで、辛い。
やめるわけにはいかないとわかっているのに心が折れそうだ。
それでも、続けねば。
「昔からそうだ。あなたは私を想って、嘘を吐く。でも、今はやめてください」
「ご主人様、それは」
「あなたの本心を聞きたいのです。つまり――私が、あなたを苦しめる病なのかと」
ナズーリンは驚きの表情のまま動かない。赤い眼は見開かれ、私を見ているのかも判然としない。
沈黙が、耐え難い。心折れてはならぬと己に言い聞かせる。目を逸らしては――ダメだ。
ふぅ、と、彼女は息を吐き……俯いた。
「……そのまま、さ」
「え……?」
「あなたが言った通りのことを、医者に問われた。それでつい頭に血が昇ってね。叫んでしまった。
我ながら我慢が足りないと思うよ」
ご主人様と、一旦言葉を切りながらも彼女は続ける。
「あなたは悪くない。悪いのは私なんだ。原因は私に返ってくる」
しかしそれは答えになっていない。ただ抱え込んでいるようにしか見えない。
「ナズーリン、それでは原因が」
「ご主人様」
彼女は、真っ直ぐに、泣きそうな眼で、私を見た。
「……ストレッサーの正体なんて、わかっているよ」
初めて見る表情。こんな顔は、一度たりとも見たことがない。
「……ご主人様」
声に滲み出るのは辛さ。耐え難い、それこそ病などより辛い苦しみ。
「私は、その」
言い淀む。ただ一言発するのも苦痛なのだと伝わってくる。
「私は」
彼女は胸を押さえる。心の臓を握り潰されるに等しい苦しみなのだと見てわかった。
何度、止めようと思ったか。そこまで苦しむのなら真実など知らなくていいと叫びたかった。
叫べなかったのは、私を止めていたのは、星熊でも八意医師でもなく、潤む赤い瞳。
覚悟とも決意とも呼べぬ想いの浮かぶその目に射抜かれ私は動けなかった。
そして、彼女は小さく呟くように告げた。
「あなたの――監視役なのだよ」
なにを言われたのかわからない。問い返すことさえ出来ない。
「毘沙門天の、本物の毘沙門天の命令で、ね。あなたのことを逐一調べる為に来たんだ。
聖白蓮を失ったあなたが暴れないかと、毘沙門天を騙り悪事を働かないかと監視する為に遣わされた」
理解が追いつかなかった。
なんだって? ナズーリンは誰を監視していたって?
私を? 寅丸星を? 誰が? どうして?
それは、ナズーリンが私の味方ではないということ?
ぐらぐらと、視界が揺れる。起きているのかも寝ているのかもわからなくなった。
現実感が無い。これを現実だと認識できない。私の心がそれを拒否してしまう。
「――あなたが、毘沙門天から派遣されてきたことは知っていましたが」
誰の声だ。
何故こんな冷静な声を出せる。
私は、怒ればいいのか悲しめばいいのかすらわからず混乱しているのに。
「今も……毘沙門天と連絡を?」
「いや――幻想郷が大結界で閉じられてからは何も。毘沙門天の手下とはいえ、私も妖怪だからね。
気楽で、そのままの方がいいと探しもしなかったよ。神に関わるなんて御免だ」
話が進むのに、それを聞いているのに理解出来ない。
だって、それなら、ナズーリンは私の部下ではなくて。
あの数百年は全部、お芝居だったということ?
握り締めた手が震える。怒りにでも悲しみにでもなく、恐怖に。
積み重ねた数百年が消えてしまうのなら、今は?
彼女と共にある今はどうなってしまうの?
彼女が告白してくれて私が応えたあの日から始まった新しい日常はどうなるの?
もう、互いに目を合わせていられなかった。
何時どちらが目を逸らしたかもわからぬ内に俯いてしまっている。
「すまない。ご主人様」
もう理解も出来ないのに、ナズーリンの声だけは耳に届いた。
「私は――ずっとあなたを騙してきたんだ」
血を吐くように――そう、告げた。
「私は、あなたに触れる資格なんてなかったんだ。あなたを想うことすら汚らわしい。
私はあなたを欺いて、騙して、何百年も過ごしてきた。そんなこと、おくびにも出さずに。
私は醜い。私は許されない。私は――狡賢く、卑小な、化け鼠だ」
言葉の羅列。
それがただ呟かれていたら聞き逃していただろう。耳を閉じていただろう。
だが、そこにあるのは慙愧だった。悔いて悲しむ気持ちだけが籠められた言葉だった。
「私は、私は――あなたのような、気高く、煌煌と美しいお星さまに愛される資格なんて――」
堰を切る。
「――…………ごめんなさい」
何百年も溜め込んだ感情は止まらずに溢れ出す。
「ごめんなさい、寅丸星。私は、愚かだ。あなたを騙し続けて、また騙して、愛を得ようとした。
あなたを騙し続けることでしか、愛を得られなかった。私は――どこまでも、卑怯者だ――
私には……あなたに愛してもらう資格なんて、ないんだ……っ。――ごめんなさい、寅丸星。
私は――あなたの愛まで嘘にしてしまった。あんなに、あんなに大事な聖白蓮より……
こんな、私を選んでくれたのに、私は嘘を吐き続けて、違うのに、あなたが愛してくれたのは、
嘘の私で、あなたが愛してくれたナズーリンなんて、初めから居なかったのに――」
ぽたりぽたりと、吐き出す言葉につられる様に涙が零れた。
赤い瞳からとめどなく涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
幼子のように泣きじゃくる。その姿は私の知るどのナズーリンの姿とも重ならない。
知らぬ姿。知らぬ泣き顔。されど――それは、私の愛する人の姿。
握り締められた手が開く。固まっていた膝が動く。
天地も定まらずにいた金眼は彼女を捉えていた。
「ナズーリン」
今度は……私の番だ。
「何百年も――少なくとも、大結界に閉じられてからの百年、私に付き合ってくれたのは――
私の自惚れでなければ、私を想ってくれたから、でしょう?」
千年の後悔から私を救ってくれたのはナズーリンだった。
漫然と死に逝くことしか考えられなかった私を何百年も支えてくれたのは彼女だった。
私を――――寅丸星を救ったのは、ナズーリンだったんだ。
「そこには醜さも疚しさも無い。あるのは、私を想ってくれたと云う事実だけです」
今度は私が救う。
「ナズーリン。あなたが私を好きだと言ってくれたことには、嘘など無いのでしょう?」
絶望の淵に居るあなたを救う。
「あなたの罪は、私が許します。あなたが私に感じる罪は、私が全て許します」
私のこの手で、あなたを暗闇から引っ張り出す。
「百年も――思い悩んでいたのでしょう? 血を吐くほどに、苦しんでいたのでしょう?
何百年も、私に打ち明けられずに、一人で抱え込むしかなくて、誰にも話せなくて。
あなたの罪は、十分に贖われた。だから、私が許して……お終いです」
抱き寄せる。
震える小さな体を抱き締める。
「あなたはもう、自分を傷つけなくていい」
罪を感じ震えているのなら私はあなたを包み込む。
あなたの心が癒えるまで私はあなたに付き添おう。
「私を救ってくれたあなたのように……私にもあなたを救わせてください」
でも、と泣きながら彼女は嘆く。
「私は、偽物なのに――」
「あなたはナズーリンです」
抱く手に力を込める。
「偽物も本物もない。私にとって、あなたはたった一人のナズーリンなんです」
この声が届くように強く強く抱き締める。
「……あなたは――まだ、私のお星さまで、いてくれる……?」
「約束したでしょう」
涙が止まるように……抱き締める。
「ナズーリン、私は変わりませんよ。私はあなたが誇ってくれた私のままです。
私はずっと、あなたを照らす、あなたの手が届く、あなただけの星ですよ」
これからもずっと、あなたは罪の意識に苛まれるのかもしれない。
私に負い目を感じ触れることすら躊躇うのかもしれない。
それでも。
「あなただけの――寅丸星ですよ」
私があなたを愛していると云うことは、変わらない。
それから三日。星熊が退院した翌日。
「はい、退院ね」
診察に来た八意医師はそう告げ、笑顔で去って行った。
片づけを済まし、料金を支払い――驚くほど安かった――私たちは永遠亭を後にする。
ナズーリンが恐れていた手術をすることはなく、あとは薬を飲んでいればいいそうだ。
治療自体は拍子抜けするほど簡単に終わってしまった。
飛ぶには適さぬ竹林の中を二人で歩く。
寺まではまだ遠い。二言三言、言葉を交わす。
「よかったですね、入院長引かなくて」
「そうだね。病院なんて長居しないに限るよ」
ふてぶてしい物言いに苦笑する。
「はは……でも、本当によかった」
「――心配させてしまったかな」
「まったくですよ」
申し訳なさ気に見上げる彼女に笑顔を返す。
「あなたには長生きしてもらわねば困りますから」
伝える言葉は短かったが、籠めた想いは数え切れぬ。
それを酌みとってくれたようで彼女は照れ笑いの表情を浮かべた。
そして無言。互いに何かを告げることは無く風に揺らされる笹の葉の音だけが響く。
さくさくと地に落ちた葉を踏みしめながら帰路を進む。
迷いさえしなければあと小一時間で里に着くだろう。どうせだし、里で一服してから帰ろうか。
ナズーリンの胃の調子もいいそうだからお茶に団子くらいならば問題あるまい。
「あの」
声を掛けられ振り返る。
ほんの少し私の後ろを歩いていたナズーリンが落ちつきなく目を泳がせていた。
なんでしょう、と問う前に彼女は口を開く
「ねぇご主人様…………えっと……」
それでもまだ口籠る。
どうしたものかと思案に耽ろうとしたら、そっと彼女は手を差し出した。
「――――手を繋いでも、いいかな?」
まだびくびくしてるその様子に苦笑が漏れる。もう気にしなくともよいと何度も言ったのに。
数百年積み重ねた罪の意識は……そう簡単に消えはしないのだろうけれど。
「……どうぞ」
でも、歩み寄って来てくれたことが嬉しい。
辛いだろうに、苦しいだろうに手を差し出してくれたことが喜ばしい。
荷物を持ち替え空いた手で彼女の手を取る。そのまま意識してゆっくりと歩き出した。
「ずっと、あなたとこうしたかった」
呟かれた言葉に胸が締め付けられる。
こんなささやかな願いすら口に出せずにいた彼女を想うと、悲しくてしょうがない。
しかし、もう悲しむことは無い。
「何度でも手を繋ぎましょう」
「え?」
「何度でもこうして二人で歩きましょう。これからは」
微笑む。
「ただ幸せになればよいのですから」
笑みが返ってくる。
それが当然のように二人で笑い合った。
もう星熊たちを妬むことも無い。
相手を想うあまり苦しむことも無い。
二人で共に歩く、それだけで嬉しかった。
「ご主人様」
きゅっと、強く手が握り返された。
「やっぱりあなたには敵わない」
ナズーリンは私を見上げ、もう一度微笑む
「あなたは本当に――私のお星さまだよ」
勇儀さんマジぱねぇっすwww
終わっちゃったか・・・もうちょっとこの変態コンビのやりとりを見ていたい気持ちもあったけど・・・
とにかくお疲れさま
本当におめでとう・・・
本編は終わっちゃったけど暇があったら番外編で変態コンビがみたいです
星もロリコン同性愛者だからでいいよね変態
ナズ星は俺のアブソリュートジャスティス!
氏の四十度目ましても楽しみにしておりますぞ
いつも楽しみにしています。
個人的にちょっと物足りない感がありました。もっとこの正義を堪能したい。
この二人には幸せになってもらいたいものです。
ごちそうさま!
しかしなんだ、なんか最後のほうエコノミーになって字が見えないんですが。
病気かな。永遠亭に行かなきゃかな。
ああ、100点じゃ足りない。すばらしい話を読ませて頂きました。
俺は明日全裸で桜島火口に身投げをして貴方への愛を叫びます。
番外編でもいいからこの二人の話をもうちっと読みたいなと思いつつ。
これで完結とは言わず、是非とも番外編を見てみたいものです
100点どころか、何百点だって差し上げたいくらいだ。
最近の楽しみがこのお話しだったので、完結とはさびしいものだな……
ナズ星が私のアブソリュートジャスティス
またこの変態コンビが見たいです。
変態でギャグを入れてもこんなに涙が出るのなんて他にないですよ。
てかシリーズ通して早苗さんほんと碌な事してないなw
続きも本当に楽しみに待ってますね!
今後とも、良いナズ星をお願いします!
泣けた
まあ、それは置いといて素晴らしいナズ星でした、あなたの書くナズーリンがかなり好きです。
まじめな星との相性もいいし、末永く幸せになってほしいです。