もうどれくらい前になるでしょうか――という程昔でもありませんね。だって私はまだあの時のことを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せるからです。
初めて彼女と出会った時の、ひんやりとした夜の空気も、新月の為に僅かな輪郭しか残さない闇に覆われた森の怪しさも。
そして何より、彼女の眼差しに心まで射抜かれてしまった自分自身を――――
是非曲直庁は財政難の為、全国の地獄のスリム化を図ることにしました。それは幻想郷の地獄とてもちろん例外ではなく、その担当官である私も頭を悩ませていました。
どこを削るかはすぐに決められました。私が迷うことなどありません、すっぱりと“地底界”を切り離すことにしました。しかしそれによって生じる不具合をどう処理するかが問題だったのです。
灼熱地獄に残される霊をどうするか――こればかりは選択がどうこうではなく手段をどうするかなので、私でもこの問題は持て余していました。
なかなか妙案が出ずに煮詰まった私は、休暇を取って気分転換に地上を訪れたのです。
どこという目星も付けずに幻想郷に来た私は、名前も無いただの森の中を浮遊していました。
ただでさえ明かりの乏しい月、それすらも隔てる雲、止めとばかりにまわりを囲う背の高い木々。もし私が人間だったならば、とっくにどこぞの人喰いにでも襲われていたことでしょう。
いえ、それ以前に夜中にこんな所をうろつくのは自殺願望のある者だけです。見付けたら只では済ませません。
とにかく辺りは真っ暗闇。私なら平気ですが、妖怪でもなかなか厳しいかも知れない程の視界の悪さです。
そんな中でも、この私には見えたのです。――大木の下、身を寄せ合う二人の人影が座り込んでいるのを。
私は何とはなしにそれに近付いていきました。
そこにいたのは二人の少女――片や紫の髪、片や白い髪を持つ彼女らは、間違いなく妖怪でした。
(説教の必要は無さそうですね)
常ならば早速“浄玻璃の鏡”を取り出し、場合によってはそのまま善行を説くことになるのですが、この時はあくまで気分転換の為に来たに過ぎなかったのでそういう事もしなかったのです。相手が人間ならどうだったかわかりませんが。
「こんばんは。良くない月ですね」
私が声を掛けると、彼女たちはその時になってやっと私の存在に気付いたようで、ハッとしてこちらを見ました。
するとすぐさま立ち上がった紫の髪の娘は、白い髪の娘を庇うように私に対峙し、真っ直ぐにこちらを睨んできました。
その姿はあまりに堂々と、しかしどこか脆そうにも感じられて、私は不思議な感覚を覚えました。
ただはっきりと言えることは、私はその時には既に彼女の魅力に取り付かれていたということです。自覚はしてませんでしたがね。
「そう警戒しなくてもいいですよ。今は休暇中ですから」
彼女らの警戒は私からのお説教に対してのものだと、その時の私は思ったのです。
私としては相手の為に助言をしているつもりなのですが、言われる当人たちからはそうは思われていないことは知っていますからね。何とも哀しいものです。
「何を言っているの? あなたは何者?」
しかし彼女たちはまず、私が閻魔だということすら知らなかったようです。
私としたことが、「自分は誰からも閻魔だと認知されている」と思い込んでいました。まだまだ青かったのですね。
と、得体の知れない人物に警戒心を露わにし続ける彼女らは、急に驚いた顔をして声を上げました。
「お、お姉ちゃんっ」
「そんなっ。心が読めない!?」
「? 何を慌てているんです」
焦りだした彼女らに私は首を傾げました。
「あ、あなたは本当に何者なの?」
真剣な顔で尋ねてくる彼女に、元々名乗ろうと思っていた私は素直に答えました。
「私は四季映姫。この幻想郷を担当する閻魔です」
『閻魔様!?』
良い反応です。なかなかこう驚かれるのは嫌いではありませんよ。
「えぇ。ですが先ほども言ったように、休暇中です。そう畏まる必要もありませんよ?」
私は優しく言いました。が、彼女らはひそひそと話し合いをしており、聞いてはいませんでした。
「閻魔――それなら私たちの能力が効かないのも納得出来る」
「お姉ちゃん、心が読めない相手なんて初めてだよ、どうするの?」
ちなみに彼女たちの会話は全て聞こえていました。閻魔の地獄耳を舐めてはいけません。
「へぇ。あなたたちはもしかして“さとりの妖怪”ですか?」
『!?』
「今の会話、聞こえていましたもので」
私がそう言うと、彼女らは苦い顔をしました。
「そうです。――で、閻魔様が私たちに何の御用で?」
やはり彼女らは未だ警戒を解いてはくれません。むしろ強まったような気がします。
「そんなに気を張らないで。私は散歩をしていただけですから。そうだ! もし良ければ話し相手になってくれませんか?」
折角の気分転換ですから、私も出来れば誰かと他愛ない話などをしたかったのです。
「何を企んでいるんです?」
「何も。用心するのは良いことですが、閻魔をそう疑うものではありませんよ?」
「……」
私は笑顔のまま言いました。
彼女たちはしばらく無言で何か考えているようでしたが、やがて溜め息混じりに「わかりました」と返事をくれました。
彼女たちとの会話は決して盛り上がったり、笑いに溢れていたわけではありませんでした。
私が質問して、それに彼女たちが答える。それの繰り返しです。
そしてわかったことは――彼女らの名前や能力。つい最近幻想郷にやって来たばかりだったということ。連れはおらず、昔からずっと二人だけで放浪してきたということ。そしてさとりの妖怪であるが故に、どこに行っても疎まれてきたということでした。
私は二人に許可を取り、浄玻璃の鏡で過去を見させて頂きました。
その感想を私的にまとめるなら、「彼女らの会ってきた者たちは全て有罪」です。
彼岸に来る魂の中には、彼女たちよりも酷い人生を送ってきたものもたくさんありましたが、だからと言って同情せずにはいられませんでした。何よりその話を聞いた時の私は、“閻魔”という名の冷静堅牢な鎧を外している状態だったのですから。
感傷的な私をそのままに、夜が明け始めたことで彼女らはまた移動してしまい、私の勤務時間も迫ってきたことから、その日はそれでお別れでした。
しかしこんな話を初めて会ったばかりの私に話してくれたのは、ただの気まぐれでしょうか。それとも、やはり私が閻魔という職に就く者だったからでしょうか。
だとしたら私は自分の立場に感謝しなくてはなりませんね。これがこの後の私たちの関係の“きっかけ”になったことは間違い無いのですから。
それからの私は休暇を取って幻想郷を訪れては、度々彼女らの……いえ、はっきり言ってしまいましょう。――“さとり”の姿を探すようになりました。
一所に留まらず常に移動する彼女らを探すのは結構骨が折れました。しかしそれでも私はさとりに会いたかったのです。
こいしさんには申し訳無いのですが、私にとってさとりとの一時は何よりも効果のある気分転換だったのですから。
思い出します、彼女らとの会話を。
「私から一方的に話してばかりですが、もしかして無理矢理付き合わせてしまってますか? だとしたら申し訳ありません」
「ううん、そんな事は無いんだけど……」
「心が読めない相手なんて今までいなかったものですから、私たちもどう会話していいものやら」
「あぁ、なるほど。私としたことがそんな事にも気付きませんでした。大丈夫ですよ、私の顔色なんかいちいち窺わず、まずは好きなように話してみて下さい」
こんな調子で初めはあまり口数も少なかった二人ですが、次第にどんどん会話は増えていき、お互いに気兼ね無く話せるようになっていきました。
「はぁ」
「どうしたんです? そんな溜め息なんか吐いて」
「いえ、実は最近新しく私の部下になった死神――小町というんですが、この子がまたマイペースで」
「じゃあ働き虫の閻魔様と足して丁度良いんじゃない?」
「そうですよ。良かったじゃないですか、バランスが取れて」
「そ、そんな、二人とも他人事だと思って……」
『他人事ですから』
少々気兼ねが無さ過ぎる気もしますが……まぁ私自身がそれを居心地良く感じているのですから、文句は言えませんね。
「こんにちは」
「また来たんですか。閻魔様も大概暇なんですね」
「そんな事はありません。たった二人で裁判業をこなすのは大変なんですよ? 今も色々問題を抱えていますしね」
「だったら何故こんな所に来れるんです?」
「それは休暇中だからです」
「ならゆっくり休めばいいじゃないですか。どうしてわざわざ……」
「それはお姉ちゃんに会いたいから、でしょ? 閻魔様」
「!?」
「こいし、何であなたが答えるのっ」
こいしさんはよく私たちのことを含みのある笑いで見てきました。初めはどういう意味なのか私にもわかりませんでしたが、だんだんと自分のさとりへの気持ちを自覚していくと、ようやくわかるようになりました。
こいしさんは私自身よりもずっと早く、私の気持ちを見抜いていたのです。そしてさとりの気持ちも、実の妹である彼女には容易く見抜けていたのでしょう。
こんなこともありました。
「幻想郷が大結界で隔離されました。もう簡単には幻想郷から出ることは出来なくなってしまいました」
「別に構いませんよ。どうせ私たちはどこに行っても同じですから」
「でも閻魔様にとっては僥倖だったんじゃない? もうお姉ちゃんが幻想郷から離れちゃう心配も無くなったでしょ」
「う!? え、あ、そんな、私はっ」
「そんな閻魔様にさらに嬉しい情報! お姉ちゃんがしばらくここに留まってたのは、閻魔様ともっと会いたかったからなんだよ」
「こここ、こらっ、こいし!? ななな、何てことをっ」
「そ、それは本当ですか!?」
「本当本当。お姉ちゃんったらいつも閻魔様が来るぐらいの時間になると、急にそわそわしちゃうんだから」
「こいしーっ!」
こんなやり取り――私とさとりがこいしさんに振り回されるようなことは度々ありました。
その時はやんちゃな妹さんだとしか思っていませんでしたが、今思えばあれは大事な姉が自分以外の人と親しくすることや、姉に馴れ馴れしく接してくる私への、精一杯の報復だったのでしょう。
私とさとりが今の関係になれたのも、こいしさんに色々手助けして貰ったところが大きいですからね。
今の関係――とはどういうものかと言えば、
「おや、こいしさんは?」
「あの子は今食料を探しにいっています。私はここで休んでいるように言われまして」
「それは――気を、使ってくれたんでしょうね」
「はい、多分」
「……少し、歩きませんか?」
「は、はい」
「出来れば、手を繋いで」
「~っ、はい」
こういうものです、お恥ずかしいっ。
この時のさとりの真っ赤な顔はいつまでも忘れることは無いでしょう。向こうだって「映姫様のトマト顔、しっかり頭に刻みましたよ」なんてからかってきたんですから。
とにかく、このようにして逢瀬を重ねて私たちは恋仲となりました。
もちろん私だって意思ある者ですから、浮かれていないと言えば嘘になります。しかし現実から逃避しているわけでもありません。
地獄から切り離され、“地下世界”として確立した地底には鬼が移住しました。
そこで妙案を思いついた私は、鬼たちにとある仕事を頼みました。灼熱地獄跡の蓋となる施設の建造です。
鬼たちは「地底を使わせて貰う代わりだ」と、この仕事を快く引き受けてくれたので、経費も掛からずに済みました。
さらに鬼の他にもたくさんの妖怪が地下へと移り出したそうです。
それがいずれも「地上では暮らし難い妖怪たちだ」と聞いた私は、さとりとこいしさんも地底へ連れて行くことにしました。初めは渋っていた彼女たちですが、私の説得に最後には頷いてくれました。
もし出来ることなら、「私と一緒に暮らして欲しかった」というのが本音です。
しかし閻魔には家というものがありません。全く関係の無い者を彼岸に留まらせる訳にもいかず、そんな私に出来ることといったら、せめて彼女たちが少しでも過ごし易い場所を勧めることぐらいだったのです。
私が二人を案内し、幻想郷から地底へ繋がる穴を降りていると、突然金髪に緑の瞳をした妖怪が行く手を遮りました。
「何ですか、あなたは?」
「あなたたちこそ何しにここへ来たの? 興味本位や観光気分ならさっさと引き返しなさい」
(ほぅ)
どうやらこの妖怪は地上から地下にやって来る者に警告を与えているようです。私は素直に感心しました。
しかし私たちはちゃんとした目的で地底へ向かっているのです。ここは通して貰わなければなりません。
「この二人は地下への移住を希望していて、私はその付き添いです。地底の情勢も承知の上ですので、心配には及びません」
「――そう、ならいいわ。じゃあ案内してあげるから付いて来なさい。この先は分かれ道も多いから、迷ったら大変よ」
「ありがたい申し出ですが、それは無用です」
「? あなた、地底に来たことあるの?」
その妖怪はきょとんと首を傾げて尋ねてきました。私はほんの悪戯心で、大仰に溜め息を吐いてみせました。
「閻魔を捕まえておいて、よくもまぁ」
「へ?」
「申し遅れました。私は四季映姫、“ヤマザナドゥ”です」
「げっ!?」
私の正体を聞いた瞬間、その妖怪は今度はぎょっとして飛び退きました。
「そ、それなら大丈夫ね。じゃあ私はこれで、さよな……」
「お待ちなさい」
そそくさと立ち去ろうとしたのを呼び止めた私に、その妖怪は顔を引きつらせながら振り返りました。
私の手には既に浄玻璃の鏡があります。
「な、何でしょう?」
「地上と地下を結ぶ穴の番、実に素晴らしい行いです。これからもそのように善行を続けると良いでしょう。しかしあなたは嫉妬の念に囚われ易い性質のようですね。あなたは自分を卑下し過ぎる。自分を低く見れば他人を自分より遥かに優れていると思い込み、羨む。あなたはもっと自信を持ちなさい。さもなくば、本当の地獄に落ちますよ?」
「ぜ、善処します」
「よろしい」
そして今度こそその妖怪が立ち去ったのを見届けた私は、背中に突き刺さる視線に振り向きました。
「どうしたんです? そんな目をして」
さとりとこいしさんは二人とも半眼でこちらを見ていました。第三の眼まで半眼です。
「あなたが説教するところ、初めて見ましたがこれはかなり……」
「閻魔様ってめんどくさい人だったんだね」
「め、めんど……っ!?」
(もう少し簡潔にした方が良いでしょうか)
思わぬ反感に少々気落ちしながらも、私は二人を地底まで案内します。
「こんなにたくさん分かれ道があって、よく迷わないね」
「こいし、映姫様にその意見は通用しませんよ」
「そうですね。私の能力をもってすれば、どれが正しい道なのかなんて一発でわかりますから」
という訳で私たちは難無く地底まで辿り着けました。
そこには大勢の鬼とその他の妖怪たちが、都市の形成に勤しんでいました。
「ここが、地底都市……」
「思ってたよりいっぱいいるんだね」
「これからまだまだ増えるでしょう、あなたたちも含めてね」
(さて、これから忙しくなりますね)
鬼たちは地上からやって来たあらゆる妖怪たちを受け入れています。ここなら二人が浮いてしまうことも無いでしょう。
とにかく地獄を縮小した為に、他にも細かい調整が山ほど残っています。早い段階で集中して処理しなければ、後に大きな問題を起こしてしまうかもしれません。かの施設の管理者候補も選定しなくては。
私は二人にしばしの別れを告げ、地底を後にしました。
――――という訳で、私はもう二ヶ月も彼女らに会っていないのです。
早く会いたいという気持ちから、つい彼女たちと出会ってからのことを思い浮かべてしまいましたが、それもこれまでです。
ようやく完成したという“灼熱地獄跡の管理施設”の視察――という名目で、久しぶりに彼女らに会えるのです。
必死で仕事を捌いたおかげで、当初の予定より一ヶ月も早くほとんどの調整を終えることが出来ました。
丁度良く鬼に頼んでいた件も完了という、まさに重畳の極みです。私は上機嫌で地底を訪れました。
「な、何ですって!? もう一度言ってみなさいっ」
私が今声を荒げているのにはそれなりの事情があります。
地底へ降りた私は早速さとりたちの姿を求め、しばらく都中を探索しました。しかしいくら探しても一向に見つけることが出来ません。
仕方なく私はそこかしこの通行人にその居場所を訪ね歩いたのです。返ってくる返事は「知らない」ばかりで、妙な焦りに襲われ始めてきた頃でした。
ようやく何か知っているらしい妖怪に出会い、その言葉を聞いた瞬間、私は一瞬頭の中が真っ白になりました。
「だから、そいつらなら都内にはいないよ。心を読む妖怪だなんておっかないやつらが近くにいちゃ、折角地底に降りてきた私らも安心して暮らせないからね」
「そ、そんな、なんてこと……っ」
「いや、あんたがそいつらとどういう関係なんかは知らんが、あんたは平気なのかい? 無理してつるんでたとかじゃないの?」
無神経に尋ねてくる目の前の妖怪に殺意を覚えながら、しかし私は閻魔という立場から、感情的になって暴れる訳にはいきません。
(そうです。何もこの者だけが特別こういう考えを抱く訳ではない。ここに住む他の者たちも、多くは同意見でしょう。浮かれてそんなことにも考え至らなかった私にだって責任がある。ここで手を出せばそれはただの八つ当たりに過ぎないっ)
必死で胸中の激情を押し殺し、しかし相手を射殺せそうな程の念を込めて、私はその妖怪を睨みつけました。
「ひぇ!?」と情けない声を上げて尻餅をついたのは、何も目の前の妖怪だけではありません。私が睨みつけるその方向、私の視界に入る全ての妖怪が竦み上がりました。
誰か一人が悪いとは言わせません。私の大切な人を蔑ろにした者も、それを止めなかった者も、浅はかな自分も、皆同罪です。
「今すぐ私を彼女らのもとへ案内しなさい。それが今のあなたたちに出来る“贖罪”です」
(そして私の贖罪は――)
都から数キロも離れた場所に、ポツンと佇む家がありました。小さいながらも造りはしっかりしていそうです。
「いくら他の皆が恐がるからとはいえ、地上を捨てた仲間であることには変わりは無い。せめて住家ぐらいは用意しよう」と、数名の鬼が建ててくれたそうです。その話は、ほんの僅かですが、私の頭を冷やしてくれました。
案内させた者たちをさっさと解放し、私は一人でその家の戸を叩きました。
返事も無く、小さく開けられた戸の隙間から覗いた顔は、会いたかった筈の顔。しかしそれは以前よりも少しやつれているように見えました。
「映姫様」
「お久しぶりです、さとり」
「……どうぞ、入って下さい」
家の中に招かれお茶を出されてから、私たちは話を始めました。こいしさんは留守なのか、どこにも姿が見当たりません。
「まずは謝らせて下さい。このようなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした。私としたことが、思慮が足りませんでした」
「大丈夫です、慣れてますから。前にお話ししました通り、どうせ私たちはどこへ行っても疎まれる存在なのです」
「っ、そんなことはありません!」
「しかし今のこの状況が現実です」
深く頭を下げる私に、彼女は罵声を浴びせることも無く、ただ静かに「あなたのせいではありませんよ」と言いました。しかし責められないというのは、ある種どんな罵声よりもきついこともあるのです。
私は怒りをぶつけて欲しかった。彼女の我慢や鬱憤を少しでも私で晴らして欲しかったのです。
落ち込む私ですが、次にさとりが発した言葉には耳を疑いました。
「こいしが――能力を失いました」
「えっ」
「第三の眼を閉じたのです。私はすぐにこの状況にも納得したのですが、こいしは『今度こそは』と期待を捨てきれず、何度も交流を試み、その度に傷付き――それを繰り返すうちに、とうとう心を閉ざしてしまいました。代わりに今は“無意識”を操れるようになり、連日都を徘徊しています……誰にも気付かれることなく」
「そんなっ」
私はこれ程衝撃を受けたことはありません。大切な人の、大切な妹が心を閉ざした――その原因が自分にあるのですから。
情けないやら悔しいやらで、私は自分の両目から涙が込み上げてくるのを感じました。しかし咽び泣くことは許されません。そんな姿を見せて罪を和らげようなど、おこがましいにも程があります。
唇を噛みしめ、涙を抑えようと必死で瞼をかたく閉じます。が、それでも隙間から溢れる液体は抑え切れませんでした。その事が余計に私を惨めにさせるのです。
――と、突然私の体が柔らかいものに包まれました。
ハッと目を見開いた私は、自分がさとりの肩に顎を乗せる形で抱き締められていることを認識しました。
「さ、とり?」
戸惑う私の声を聞いても、さとりは無言のまま私を抱き締め続けます。お互いの頬が引っ付く程近くにある為、彼女の表情を窺うことも出来ません。
そして私の取った行動は、――我ながら何とも情けない話ですが――彼女の細い腰に腕を回してしがみ付き、その背中に涙を落とすというものでした。
静寂はしばらく続き、私の涙が止まる頃には彼女の服はかなり湿っていましたが、その分私の頭はスッキリしていました。
「落ち着きましたか?」
「はい、ありがとうございます」
体を離し、やっと見れた彼女の顔には、温かな微笑みが浮かんでいました。
「取り乱してしまいました」
「全くです。映姫様ともあろう方が、何たる醜態」
その茶化すような台詞に、私はようやく気付きました。
さとりは本当に、私に対して何の恨みも怒りも抱いてはいなかったのです。
自分の予想していなかった事態に勝手に取り乱した私が、勝手に彼女の“本心”を妄想し、同情し、怯えていたに過ぎません。今日、最初に会った時からずっと、彼女は“私のよく知るさとり”のままだったというのに。
「もう大丈夫です。お手を煩わせました」
「構いませんよ。映姫様が泣くところなんて初めて見れましたから」
「ではよく覚えておくと良いでしょう。後にも先にも、私が人前で泣くのは今回だけですから」
「自惚れますよ?」
「自惚れて下さい。私はあなたを愛しています」
「……私もです。久しぶりに会えて、今、本当に嬉しいんですよ?」
彼女の笑顔は本物で、私の笑顔も本物で。ようやく私も久しぶりに彼女に会えた嬉しさが込み上げてきました。彼女を前にして今までこの感情を蔑ろにしていたなんて、勿体ないことをしました。
しかしこれで自分の犯した過ちを忘れてはいけません。
(何か他に、私が彼女たちの為に出来ることは――)
そう考えていた時でした。
玄関の方からコツコツ、カリカリ――と音がします。
「何の音でしょうか?」
「あぁ、そうでした」
私が疑問を口にすると、さとりは立ち上がり、戸を開けました。
そこには誰もいない――かと思いきや、さとりがしゃがみ込んだのを目で追うと、彼女の足元に一羽の地獄鴉と一匹の黒猫がいるのを見付けました。
「その子たちは?」
「私のペットです。つい最近飼い始めて、名前まで付けたんですよ? こっちの鴉が“空”、猫の方が“燐”です。さ、あなたたち、この方が映姫様ですよ。ご挨拶して」
さとりに紹介されたペットたちは、私の方を向くとそれぞれに「カァー」「ニャーン」と鳴きました。
「『初めまして、映姫様!』『さとり様からお噂は聞いてます。閻魔様と直接会えるなんて光栄です』だそうですよ」
「これはこれは、初めまして。さとりがどんな風に私のことを教えたのかは知りませんが、私がその映姫ですよ」
さとりに通訳してもらった私も、ちゃんと挨拶を返しました。動物だからと偏見をしてはいけませんからね。
(……ん?)
その時、私の頭で何かが閃きかけましたが、あとちょっとの所で形になりません。気にせず話を続けます。
「いや、しかし本来は灼熱地獄を徘徊するこの動物たちをよく手懐けられましたね」
「それは簡単なことです。この子たちにも意思はある。しかしそれを伝える為の言葉が話せない。そして私は言葉が無くても意思を読み取れる。だからこの子たちも私に寄って来てくれるのです」
「なるほど」
(流石はさとり、私の……はっ!)
「これだ!」
「な、何がですか?」
きました。さっき閃きかけたことが、今完全に頭の中ではっきりと形になりました。
私はその提案をさとりに持ち掛けます。
「灼熱地獄跡の管理者を必要としています。もし良ければ、お願い出来ませんか?」
(さとりなら、灼熱地獄を飛び回る動物たちを使って広範囲を管理出来る!)
「これが先ほど説明した施設――“地霊殿”です」
「それで鬼たちがずっと行き交いしていたのですね」
私と、ペットを連れたさとりは、地霊殿という大きな屋敷の前にいました。
先ほどの家よりさらに都から離れた場所――灼熱地獄跡の上に建っているそれは何となく怪しい雰囲気を放っているようにも見え、
(建ててくれた鬼たちには申し訳ありませんが、もうちょっと別な感じには出来なかったのでしょうか)
と思っている私を他所に、
「凄く良いですね、これ。ねっ、映姫様、私ここ凄く気に入りました。こいしも必ず説得してみせますから、是非ともここで働かせて下さい!」
「は、はい、助かります」
まさかここまでさとりが乗り気になるとは。こんなにはしゃぐ姿は滅多に見られません。
「是非曲直庁に属する施設なので、誰も余計な手出しは出来ないでしょう」
そう、是非曲直庁に関わる以上、一般の妖怪たちとは一線を引いた生活を送らなければなりません。
「すみません。地下世界ならあなたたちも偏見なく暮らせると思ったんです。まさかこんなことになってしまうなんて……。結局、孤立した生活を強いることになってしまいました」
私が話し出すと、さとりははしゃぐのを止め、静かに地霊殿を眺めました。
「私だって万能ではありません。所詮、大勢の閻魔の中の一人に過ぎない。私は、……私は無力ですっ」
絞り出すように――閻魔ともあろう者が、まるで懺悔でもするかのように――言葉を紡いだ私に、さとりは俯いてポツリと言いました。
「会いに来てくれませんか?」
「え?」
「たまにでもあなたが会いに来て下さるのなら、私はそれだけで十分です」
顔を赤くしてさとりが言った言葉を理解した瞬間、私は猛烈に自分の鼓動が早くなるのを感じました。
「会いに来ます! どれだけ忙しくても、何があろうとも、あなたに会いに来るのだけは止めませんっ。部下の死神は距離を操れるんです。何かあったら呼んで下さい、すぐに駆けつけますから!」
「何も無かったら呼んではいけないんですか?」
「そ、その質問は流石に野暮じゃありませんか?」
「くすっ、冗談ですよ。……私、ここでのお仕事、頑張ります」
「えぇ、信頼しています」
「そう言って頂けると嬉しいですね。わかりますか? これは閻魔様が必要としている役職――つまり自分の好きな人の役に立てるんです。これ程やり甲斐のある仕事、他にありますか?」
そう悪戯っぽい笑みを向けてくるさとりに、私の中で何かがプツンと切れてしまいました。大丈夫、今ここにはさとりと私……と鴉と猫しかいません!
私は彼女を抱き締めて、耳元で囁きました。
「あなたと契りを交わすこと――それが今の私に積める善行です。死後まで私を支えてくれませんか?」
「っ、……はい、私でよければ」
そして私たちは三度のキスをしました。
もうすぐ私は勤務に戻らなければならない、その“一時の別れ”のキス。すぐにまた会いに来るという“再会の約束”のキス。そして“永遠にお互いを裏切らないという誓い”のキスを。
さとりには死ぬまで私の為に地霊殿で働いて貰います。死んだら地獄行きにして、今度はずっと私の傍で仕事を手伝って貰います。
こんな考えをしている私は閻魔失格でしょうか? ――別にその為なら有罪だって構いません。しかし私は無罪を主張します。
何故なら、本当にありがたいことに、彼女も合意の上だからです。
作者様、本当にありがとう、ありがとう!
こんな雰囲気のままでこれからもいてほしい
素晴らしい映さと。実にジャスティス。
素晴らしすぎてもう涙も出ねえよ・・・
……な、なんてーか、ええ雰囲気過ぎてなにこのあんたら結婚しちゃえみたいなのっ!
やばい、この組み合わせはまりそう…
これは面白かったです。
感無量な作品あざっす!
さとり様も頑張ってください、心から応援しています。
ああ、このカップリングを探していた……ぬう、妄想が止まらない……っ!