誰もいなくなった湖。
氷の中を見透かすようにぼんやりと眺めるのが、最近の習慣だった。
一月の寒さは凶悪で、夕方ともなると太陽は弱々しく燃え尽きて、辺りはすっかり暗くなる。
だから頼りない体温を保つために体をギュッとちぢこめながら、昼の残り香のようなざわめきが聞こえる中、たった一人で湖に向けて顔を近づける。
おかげで妖精仲間や紅魔館のメイド長さんに変な勘ぐりをされることもあったが、私はそれでもここにいた。
そうまでして何を見ているのか、実は自分でもよくわかっていない。
ただ、毎日この時間帯になると、空は黒とも灰色ともつかない姿で稜線の上に覆いかぶさり、幻想郷の色を飲み込んで、笑うでもなく沈黙する。
みんな当然のように受け入れているそんな風景が、私は少しだけ怖かった。
思い出まで飲み込まれていくようだ。
迫る暗闇に抗うように(私がここにいるのは、そのためなのかもしれない)目を瞑り、あの日の夕焼けを思い出す。外と瞼の暗闇を突き破り、血のように滲む優しいオレンジ。
『ねえ』
耳の中で、銀の鈴を放った様な高い声が響く。
いくら再生しても色褪せない音の記憶。忘れられない大事な思い出。
『ねえ、何を見てるの?』
振り向けば、誰もいない湖の畔。
私は何も答えなかった。
誰かを好きになったのは初めてだったと思う。
妖精達が好きな異性の話題で盛り上がっているときも、私はずっと聞き役で、たまに話を振られた時はなんとなく返事をして、少し無理をしながらみんなと足並みを揃えていた。
正直に答えると、余計につつかれることは十分わかっていたからだ。
みんなが盛り上がるたびにへらへらと嘘臭く笑っていても、取り残されたと焦ることはなかったが、ただ単純に羨ましいと思うことはあった。
そんな私が、彼女に会った途端に恋に落ちてしまった。お笑いだ。
きっかけなんてものは覚えていないが、一目惚れでは無かったと思う。最初は、好きだと言う気持ちを自分でも上手く理解できなかった。そういうことに今まで無縁だったから、当然と言えば当然だ。過去に遡っても照らし合わせるべき感情が見つからず、戸惑う日もあった。
ただ、気付いたら何気なく彼女の方を見ていたり、速く飛ぶときに乱れる髪が気になって、頻繁に直すようになったり、たまに言葉を交わす時にはいつもより気合を入れて笑わせようとしていたり、笑ってくれたら嬉しかったり。そんな事が重なる内に、ゆっくりと自分の気持ちを理解していった。
私はきっと、彼女のことが好きなんだ。
特別な自分を失ったようで悔しくもあったが、同時に嬉しくもあった。ようやくみんなの言葉が理解できるようになった安心感か、それとも純粋な高揚か。どちらにせよ、愛想笑いを浮かべる回数は減りそうだ。
しかし、それが理解できたからといって、日々に変化は表れなかった。彼女の姿を目の端で捉えたり、たまに何てことのない話をしたり。無理して関係を縮めようとはしなかったし、できなかった。自分が特別初心だったわけではないだろう。似たような話は、友人から幾つも聞いていた。
それでも、全てがそうであるように、思い出だけは残っていた。
二人っきりの湖で言葉を交わした、あの日の思い出も。
その日は、人里で妖精仲間と遅くまで悪戯をしていて、帰り道で湖に差し掛かった頃には、すっかり日が沈んでしまっていた。だから誰もいないだろうと思って素通りしようとした先に彼女がいて、ひどく驚いたのを覚えている。
「あれ?」
氷った湖の上でふわふわ浮かんでいた彼女も、少しびっくりした様子で顔を上げる。
「だいちゃん、今帰り? こんな時間までどこ行ってたのさ。何かやるんなら、あたいも混ぜないとだめじゃないの!」
誰に対してもそうする様な笑顔を浮かべる彼女は、それでも特別だった。固まった私の視線をどのように解釈したのか、彼女は慌てて私の前まで降りてきて、照れくさそうにまた笑う。
「今日は神社に行ってきたんだけどねぇ、巫女ったらすごいのよ? ここ一週間ミカンしか食べてないんだって。だから、あたいがかき氷を恵んできてあげたのよ!」
本人も言うとおり彼女は氷の妖精で、何に対しても一生懸命だ。だからと言って、頭がいいほうではない。悪戯が好きだけど、やはり賢くないからあんまりうまくはいかない。でも時には驚くような寛容さを見せたり、天然かどうかわからないけどユーモアもあった。
それだけに人気者で、憧れる妖精も多かったのだろう。私もその中の一人だったので、たまに気が滅入りそうにもなった。多数派に飲まれている自分はどこかみっともない気もしたし、告白なんてする気が無くとも、やはりたじろいでしまう。そもそも私は女の子なわけであって、いいんだろうか、そういう関係は。
「そっちは、遅くまで何してたの?」
好奇心を素直に浮かべ、彼女は聞いてくる。
その言葉に対して何を答えたのか、そこからどんな会話を交わしたのかは、実はぼんやりとしか覚えていない。ただ、気付けば今度は私も彼女と一緒に、氷の上にふわふわ浮かんでいた。
「だーいちゃーん!早く早くー!」
その言葉を合図に、彼女は急ブレーキをかけた。「湖の真ん中まで競争よ!」なんて言ったと思ったら、彼女はもう飛び去っていた。こんなに頑張って飛んだのは久しぶりだ。もう暑さなんて無縁の季節だというのに、首筋にはうっすらと汗が浮かんでいて、自分の健闘を称えているようだった。それでも彼女の方が、全然速いんだけど。
ようやく彼女の横に羽を落ち着けると、彼女は湖に降り立ち、氷の中を睨んでいる。泳ぐ魚でも探しているんだろうか。うーん、とかむぅー、だとか呻く声は、決して耳障りではない。
私はできるだけ静かに、低空飛行で彼女の真横まで近づいて、そのまま彼女と同じように、じっと氷を眺めてみた。
湖を照らす夕焼けは、ともすれば昼の太陽より鮮やかで、柔い橙色に包まれたこの世界に明かりは必要なかった。
例年になく寒い、寒い冬のはじまりだった。
「ねえ」
すぐ近くから聞こえる声。私は顔を、真横に立つ彼女に向けた。色の薄い手には、何も握られていない。少し鼓動が早くなった。
「ねえ、何を見てるの? 何か見つけた? 蛙がいた?」
氷は分厚く、正直に言えば湖の中など見えないし、当然こんな時期に蛙なんかがいるわけもなかった。
私は、すぐ傍で身を乗り出す彼女を横目に答える。
「うん。とってもおもしろくて、かわいいのがいたよ。」
はっとした様子で首をこちらに向けた彼女は、丸い目をさらに丸くした後、やがて年頃の少女らしく相貌を崩しながら詰め寄ってくる。青い髪がゆるやかに揺れていた。
「えー! どこどこ? あたいは見つけてないよ? ちょっと! 何を見つけたのよ!」
私はおどけながら追求をかわす。諦めない彼女。
じゃれ合いの途中で偶然触れ合った手が熱くて、何故か涙が出そうだった。
そろそろ本格的に暗くなろうかという頃、実は友達を待ってるんだという彼女を置いて、私は湖を後にした。後ろ髪引かれるようでもあったが、満足もしていた。
去り際の彼女は笑顔だったし、聞こえたお礼の言葉はひどく甘く、これ以上の何かを望む事なんて考えられない。こんなに楽しい夕暮れは初めてだ。夜遊びや悪戯なんかより全然ドキドキする。
森の前で湖を一度振り返り、明日から少し遅くまでここに残っていることにしようと、ひそかに決めた。
私が、失恋をしたと知ったのは、その翌日のことだった。
私が彼女を好きなように、当然彼女にも好きな人がいて、冬にならなきゃ会えない人なんだそうだ。
彼女が、私のことを好きだなんて考えたことはなかった。なかったと自分に言い聞かせたけれど、どうしても、涙が止まらなかった。
あの時、私が最後まで彼女と一緒に残っていたのなら、何かが変わったのだろうか。自分の想いを少しでも伝える事ができていたら、今も隣に彼女はいたのだろうか。ヒロイックな妄想だ。しかし、ありがちな後悔は、だからこそ重い。
「あれ?」
そんな女々しい回想は、誰かの声により唐突に打ち切られた。
「珍しいですねぇ。妖精さんが、こんな時間まで何やってるんですか?」
いつの間にか、真横に誰か立っている。背の高い見慣れたシルエット。
「何か面白いものでも見えたりしますか?」
変なあだ名の門番さんは腰を下ろすと、私と同じように湖に向かって身を乗り出した。
門番さんとは、毎日最低でも一度くらいは会話する。つまりそれぐらいの関係だ。
「……何も無いですねぇ」
「ええ、何も無いですね」
暗いだけで、もう何も見えない。
「じゃあ、何をやってたんですか?」
呆れたような、からかうような声だ。当たり前か。私はそれに答えず、代わりに尋ねた。
「そっちこそ、大丈夫なんですか?メイド長さんに怒られますよ?」
門番さんは寒そうに肩を竦めると、湖から身を離す。
「いいんですいいんです。今頃、晩御飯の準備中ですから。それに、あの人はちょっと理不尽すぎますよ。そう思いません?」
文句を呟きながら立ち上がると、自分の服のポケットをあさり始めた。そういうお互いに対する遠慮の無さが羨ましかった。でもやっぱり、ちょっと間の抜けた人だ。
やがて顔を上げた彼女の手には、束ねられた写真が握られていた。
「何ですか、それ?」
「えへへ、去年やったクリスマスパーティーの写真です。あなたも来てましたよね?見ますか?」
受け取った写真を手早くめくると、面白い一枚を発見した。
「これ、焼き増しして幻想郷中に配りましょうよ。いい話題の種になりますよ」
私が抜き出して見せたのは、赤い帽子を被って嫌味なく笑う吸血鬼姉妹と、羽交い絞めにされている間抜けなトナカイのスリーショットだ。
「あのですねぇ……」
もちろん本気でこの写真をどうこうするつもりはないのだが、この人はからかうとおもしろい。
変わった人だと思う。そもそも紅魔館自体が変人の集まりのような気もするけれど、門番さんはまた違った変わり方をしていると思う。
そもそもなんで門番をやっているのかもわからないし、幻想郷の中でも大きな勢力の一つである吸血鬼の館、そこの門番といえばプライド高くきちっとした人、だなんて勝手に思っていたけれど、この人はどこか垢抜けて親しみやすいという、私のイメージとは真逆の性格だ。
とはいっても、いざ仕事となるとしっかりとやってくれそうな印象もある。そういう所は普段のおちゃらけた様子とアンバランスで、好感が持てた。
「あの……」
仏頂面を眺めながら、だれにも話したことの無い私の初恋の話を、この人になら教えてあげてもいいのかもしれないと考えながら口を開いた。
「写真はお返ししますから、たまに、一緒にお食事しませんか。もちろんメイド長さんに報告して、許可が取れたらの話ですけど」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて不機嫌そうに眉をしかめ、口を尖らせて言う。
「咲夜さんにはあなたがお願いしてくれるんなら、付き合ってあげてもいいですよ?」
捻くれた答えがおかしくて、私は笑った。
そろそろ本当に怒られちゃいます、と戻って行った間抜けな友人を見送った私は、星が見え始めた空を仰いだ。天然の明かりが私の体を覆って、心なしか、温度が少し暖かくなった気がする。
そしてまた、湖を見つめなおす。さっきよりも黒が濃くなった世界。もう日は沈んでしまって、あんな夕焼けは見れないが、すぐに春になるだろう。季節は薄情だ。何もかも忘れてぐるぐる回る。また、彼女と話す機会もくるだろう。
変わらなきゃいけないのはきっと、私の方だ。
そろそろ、体が冷えるだけの無駄な習慣は断ち切らなければならない。風邪を引けば、無駄な心配をかけてしまうだろう。彼女は優しいから。でも、それは少し嫌だ。
冷え切った頬に触れると、鋭く冷えた風が一度吹いた。近いうちに雪が降るのかもしれない。暗い空から降る雪が、私は嫌いじゃなかった。少しだけ楽しみが増えた。
知らず、瞼が閉じられる。
『ねえ』
耳の中で、銀の鈴を放った様な高い声が響く。いくら再生しても色褪せない音の記憶。いつか忘れる初恋の思い出。
『ねえ、何を見てるの?』
私は目を開けて、誰もいない湖に背を向けてから、一度だけ振り返った。橙色には程遠い、味気なく白い明かりに照らされながら、少し気障な言葉で告白するためだ。
「氷に映ったあなたの顔を、ずっと眺めてた」
羽を広げる直前、彼女の驚く声を聞いた気がした。
〆
チルノへの思いや美鈴との会話も良かったです。
夕暮れの黒と緋色
なのにどこか暖かくて切なくてそしてちょっぴり寂しくて
溶けてしまいそうな想いがあって
心の描写がそれをいっそう引き立てて
だからすてきなお話でした
なんだろう、すごく切ないなぁ…。ちょっとうるっときちゃいました。
仕様なら問題ないのですが、チルノの所在が気になったのでこの点数で。
あと、あとがきに激しく同意。
後半になったらそれが良かったです。
隙間にピースが入っていって、徐々に世界が見える
まるでジグソーパズルのような
きっと狙って書かれたんだろうなっと・・感じました
淡い記憶から見れる切ない恋心を感じられる作品でした。
読めて良かったです。
しかしクリスマスは爆発すべき
切ないのぅ。でも、クリスマス爆発しろ!
しかしクリスマスは抹殺せよ。
しかしクリスマスなんて都市伝説よくご存知でしたね!
短い話なのに、すごい心にズシンとくる
だけど綺麗で、素敵なお話でした
ぜひ長い話も書いてみてほしい
悲しくはないけど、すごい切ない
いやぁ去年もクリスマスは都市伝説に終わりましたよ!!
読んでて胸の辺りが苦しくなります。けど、決して嫌な感じではなくて、とっても素敵なお話だと率直に思いました。
この大ちゃんにはどうしても幸せになって欲しい、そう願わずにはいられません。
素敵な雰囲気、切ない心情、なんともいえない読後感
すごいよかったです
締めのシーンがとても素敵で魅力的で好きです。