艶やかに色づいた木々が、遠方にそびえる山肌を覆っていた。遥か遠くに望む清澄な空では、毛状の白く薄い雲がなびいている。
柔らかい陽射の中、八雲藍と橙の二人は八雲紫の屋敷にある縁側で画布に向い、その風光明媚な風景を写すべく筆を動かしていた。
時折、山の方向から頬を撫でるような秋風が縁側に暖気をもたらす。庭前の傍らに生えるススキや淡く紅葉し始めた木々は、その流れに身を委ねるように枝葉をそよがせる。
あまりの心地よさに、藍は噛み殺せぬほどの大きな欠伸をした。
藍の隣に座っている橙も、この陽気に気が緩んだのか、伸びらかに天を仰いでいる。
ふと、藍は背後に気配を感じ、手を休めた。
「おはようございます、紫様。今日は早いのですね」
後ろを振り向き、藍は紫に挨拶をした。橙も慌てて居住まいを正し、小さくお辞儀をする。
「ええ、おはよう。あなたたち、珍しいことをしているわね」
「はい。橙が絵を描いてみたいとのことなので、一緒に付き添ってやってます」
「相変わらず、仲が良いこと」
取り出した扇子を自身の頬に当てながら、紫は笑みを浮かべる。
「藍も、だいぶ人間味ってのが分かるようになってきたようね」
「紫さまほどではございませんよ」
「十分よ。そんじょそこらの妖怪や妖獣が、風雅な景色を見ても心が動かされるなんてことは無いもの。それにしても、見事に紅葉してるわね」
遠景を眺望した紫は無意識に、感嘆の声を漏らした。
「あまり、紅葉を煽てると秋の神の自慢話に捕まりますよ」
「目の前で、秋と冬の境界を弄って有頂天から灼熱地獄跡まで突き落とすから大丈夫よ」
「紫さまも、人が悪いですね」
「私は妖怪だからいいの」
沓脱ぎ石の脇で群生している彼岸花の花弁が一枚、ひらりと落ちた。紫の一声で、すぐそこまで近づいた秋の神が踵を返したかのように。
「それで、二人はどんな絵を描いているの?」
紫はおもむろに、藍の後ろへと回る。
拙い作品です、と謙遜する藍の肩越しに画布を見遣った。
藍の画布に描かれた風景は、如実かつ鮮明に、彩る秋を表現していた。その出来栄えに、紫は胸中で拍手を送る。
その一方で橙の画布に描かれた風景は、良く表現するならば、鳳凰卵をゆで卵にしてしまったような斬新奇抜かつ自由闊達な料理法で表現されていた。その出来栄えは、この日の紫の手記にて「幻想郷の中の幻想郷。もとい、橙想郷(ちぇんそうきょう)」と記される程のものだった。
己の作品を見られた気恥ずかしさからか、紫と目の合った橙はえへへへへと照れ笑いを浮かべる。
茹でられた鳳凰が展翅することはないだろう。
「ところで紫さま、早速お食事になさいますか?」
時刻は、太陽が正午線を通過してから四半刻ほど経過していた。
紫はともかく、藍と橙は普段なら昼餉を取っている時間だ。
「そうね……その前に一つ頼みごとをしてもいいかしら。私も、久々に絵を描きたくなったから準備してちょうだい」
そう言いながら、紫は橙の横へおもむろに腰を据えた。
程なくして、画布と画架を担いだ藍が廊下伝いに現れる。
藍はそれらを適当な位置に手際良く配置すると、一本の筆を紫に手渡した。
その筆は、首を垂れる稲穂の色をしており、陽射を受けて艶やかに輝いている。
「何気に良さそうな筆じゃない」
「目が肥えていらっしゃいますね。元々は御阿礼の子が『幻想郷縁起』を執筆する際に愛用していた筆で、かなり希少な品なんですよ」
「道理で」
「どうかなさいました?」
「何でもないわ、藍。同じものを何処かで見た気がしただけ。稗田家に訪れた時に見たのだと思うわ」
「そういえば、最近になって鴉天狗の新聞にも取り上げられましたし、里では人気商品なのでそんじょそこらでお目にかかっているかもしれませんね。そうそう、私も橙も、同じ筆を使ってるんですよ」
「かなり希少な品が有り触れていてもねぇ……」
半ば呆れつつも、藍から受け取ったそれを注視する。
「では、食事の準備をしてきます」
筆を手先で弄ぶように観察する紫へ言葉を投げかけた藍は立ち上がると、台所の方へ振り向いた。
私も手伝いますと、橙が軽快に立ち上がり藍を追随する。
「私だけで大丈夫だ。橙はそこで待っていなさい」
藍の言葉に橙は一瞬だけ哀切さを滲ませるも、機敏な動作で踵を返し再び画布の前にちょこんと座り直す。小さな手で筆を握ると、何ごとも無かったかのように二本の尻尾をふわふわとなびかせながら橙想郷の創造を再開した。
……
「ご飯の用意ができましたよー」
秋の空のように澄んだ声が屋敷に響いた。
藍は、今にでもトタトタと小走りで橙が我先にとやってくると思っていた。
しかし、一向に現れる気配はない。厠にいるとしても返事くらいはするはずである。
不思議に思いつつも、声が届かなかったのだろうと解釈し縁側へ向かう。
「あれ、橙はどうしたんですか?」
藍は、一人でそこに佇む紫に首を傾げながら問いかけた。
「さぁ? 遊びにでも行ったんじゃないのかしら」
「いえ……それは流石にないと思いますが」
「あら、そう?」
「何か言伝を頼まれたりしていませんか?」
「何も」
先ほどまでに橙が座っていた場所には絵具や筆が散乱していた。いくら、式となった今も猫ゆえの気まぐれさが残っているとはいえ食事前に出掛けるとは解しがたい。
「それはさておき、紫さまは何を描かれているんですか?」
「ええ、ちょっとね。もう少しで完成するわよ」
そういうと、紫は空いた方の手で手招きをする。
それに誘われた藍は、興味深く紫の元へ歩み寄る。
「はい、完成」
「何ですか……これ」
藍が紫の背後に辿りついたと同時に、紫は満足げな声色で宣言する。それとは対照的に、藍の口からは弱々しい疑問にも似た感想が零れた。
そこには、この世の禍々しさとおぞましさの権化のような、藍でさえ腰がすくむネクロファンタジア的生物が描かれていた。
藍は確信した、橙の姿が見えない原因は紫画伯にあることを。
橙は阿鼻地獄よりも混沌としたそれを直視してしまい恐怖のあまり逃げ出したのだろう。藍は心の中で、橙の無事を祈った。
「ところで、藍はこれから何をする予定なの?」
「ええと、今日は天気もいいので里へ買い出しに行ってこようと思っています」
藍は、橙の散らかした画材を丁寧に片付けながら受け答える。
「紫さまも、ご一緒にどうですか?」
「ごめんね、藍。今日はちょっと用事があるの」
「分かりました。境界の管理ですか?」
「その通り、夢と現の。日没頃には戻ってくるから」
「ようするに、二度寝ですか」
「そんなところかしら」
……
紫も眠る未三つ時、人間の里は活気ある雑踏に満ちていた。
藍は、人の往が盛んな表通りを縫うように進むと、途中で狭いわき道へ入った。
一歩、また一歩、前進する度に喧騒が遠ざかる。かつかつと、規則的に並べられた飛び石を渡る音が路地裏に木霊した。
やがて視界が開けると、鬱蒼とした路地裏とは打って変わり鮮やかに紅葉した木々が藍を出迎えた。
その傍らには、茅葺の小さな茶屋が存在する。藍が買い出しのついでに立ち寄る場所である。
軒先に立てられた傘は、紅葉と背比べをするように紅く大輪の花を咲かせている。その根元には、一人で座るには大きすぎる緋毛氈を敷かれた床机が置かれていた。
藍はそこに腰を据え、注文した水羊羹を黒文字で丁寧に一口大に切り分けて口に運ぶ。
咀嚼と共に広がるほのかな甘みに口元を綻ばせ、もう一口。
周りの風景に映える秋の稲穂色をした尻尾を浮き浮きと左右に揺らす。その様は、見ているだけでも心が温まると評判で、この茶屋の名物になっていることはいうまでもない。
最後の一切れを口に入れようとした瞬間、茶屋の横手にある茂みの奥から聞こえる不自然な物音に気がついた。
風の音と似て非なるそれを確認しようと首を向けるが、視線は生垣に阻まれ正体をつかむことはできなかった。
小さな物音は徐々に大きくなる。かさかさと枝の擦れるような音はいつしか、がさがさと大枝を揺らすような音へと変貌を遂げる。
音をさせていた正体と思しき黒い影は、脱兎のごとく生垣を跳躍して姿をあらわにした。
茶屋の周囲に居合わせた里の人間の中には、突発的な出来事に悲鳴をあげる者もいた。
なにしろ、現れたのは化け猫――それも、妖術を扱う程度の能力を持つ――である。いくら里の中とはいえ、いきなり現れたら驚いてしまうのも当然だ。
「……橙?」
呆気に取られる藍を尻目に、橙は肩で大きく呼吸をしている。
橙の身体には、あちこちに蜘蛛の巣や枯れ葉が付着しており、道なき道を余程の勢いで掻い潜ってきたことを物語っていた。
どよめいていた周囲の人間は、「なんだ、いつも一緒の猫ちゃんか」と平穏を取り戻す。
藍の姿を確認した橙は、ばつが悪そうに苦笑した。
藍はおもむろに、紅葉色の床机を軽くぽんぽんと叩く。隣に来いの合図である。
服にまとわりついた埃を払いながら歩み寄り、藍の隣へ腰を据えた。
橙は藍の傍らに置いてあった湯呑から、ぬるくなった煎茶を嚥下し、大きく息を吐く。
「なぁ、橙。皆に黙って何処に行ってたんだ?」
「えっと、まぁ……その。紆余曲折ありまして」
煎茶を飲み干した橙は、歯切れの悪い返事をした。反応を見る限り、藍の推測は的を得ていたのだろう。
「中華まんでも食べるか?」
「はい?」
藍に深く詮索されると思い、適当な言い訳を思索していた橙は予想外の質問に素っ頓狂な声をあげる。
「食べてないんだろ、昼飯」
「はい、食べてないです」
ついて来いと言う藍に、橙は追随した。
茶屋を後にする頃には、すっかりと影が長くなっていた。撫でるような夕風は肌寒い。
表通りは相変わらず、夕暮れの寒さを感じさせない程の賑わいを見せていた。
和気藹々と戯れる子供たちの姿や、買い物客が溢れている。
藍と橙も、夕餉の買い物がてら表通りを歩いていた。
「そういえば、橙。どうして、あんな所にいたんだ?」
表通りを歩きながら、藍は問いかけた。
時々、橙が仲間の猫とあのような場所へ行くことはあっても一人で行く可能性は考えられない。まして、息を切らすほどのこととなれば、何か余程の理由があるのだろう。
「えっとですね……怖くて逃げてたんです」
ポンと、弾けるように胸の前で両手をあわせて橙は言った。
「何から?」
「何か、黒くて不気味な物体です」
「紫さまが描いた絵のことか?」
「いえ……それもそうですが、里の近くに何かがいたんですよ。そいつは、陽炎みたいにふらふらしていて、遠くから私の名前を呼んでくるのです。ちぇーん、ちぇーん……って」
中華まんの温もりが残った両手をさすり、記憶を掘り返しながら橙は言葉を紡ぐ。
「何で私の名前を知ってるのかも分からず、少しずつ私に近づいてきて……どうやら無我夢中で逃げていたらしく、気がついたらあの茶屋の前でした」
「不思議な体験だったな」
「もしかしたら白昼夢でも見ていたのでしょうか」
「狐にでも、化かされたんじゃないのか?」
「そうかもしれませんね、藍さま」
本当に怖い思いをしたのかと疑問に思うくらい快活に、橙はくすくすと笑った。
それに釣られ、藍もくすりと笑みを浮かべた。
……
陽射は山に隠れ、幻想郷に夜が降りてくる。
橙と藍が主の屋敷へとたどり着いたのは、辺りがすっかりと暗くなったころだった。
からからと玄関の引き違い戸を開け、足を踏み入れた。
それと同時に、藍は正体不明の違和感を感じ顔をしかめる。
詮索するように周囲を見回したが、白い壁に囲まれた玄関は、腰丈の下駄箱と、その上に花の生けられた花瓶が置いてあるだけだ。
埒が空かず、藍はその正体を気の所為だと解釈した。
家路に着く頃から宵惑っていた橙は、居間に座るや否や藍に抱きつくように寄りかかり、ふかふか尻尾を枕にして眠っている。橙の二本の尻尾は枯れゆく花弁のように力なく垂れ下がり、心を許しきったかのような表情は安堵に満ちていた。
「あら、寝ちゃっているの? 橙」
居間へやってきた紫は、橙を起こさぬよう声を絞り藍に問う。
座卓を挟んで向かい合うように座った紫に、藍はゆっくりと頷いた。
「ねぇ、藍。一つ聞いていい?」
手のひらを返したように真剣な声色で藍に問いかける。
普段はあまり見せない態度の紫を、藍は無意識に注視した。
紫は頬杖をつき、もう片方の手で宙に開かれた空間の亀裂から一本の筆を取り出した。
「この筆、あなたの尻尾で作ったものでしょう?」
紫が手にするそれは、昼間に藍が紫に手渡したものである。
「だとしたら、軽挙妄動ね」
状況が掴めず狐疑と駭然の入り混じる表情を浮かべる藍に、紫は不敵な微笑を返す。
「紫さま、確かにそれは私の尻尾から作りましたが、どこが軽率なんでしょう」
「尻尾は、藍たちにとっては妖力の指標。だから、そこにも妖力が宿っているのよ。そんな筆で絵を描けばどうなるか……後は分かるわよね?」
「仰ることは分かります。しかし、それは微々たるものゆえ――」
ぴしゃん、と乾いた音が藍の言葉を遮った。不意の出来事に、藍は体を萎縮させる。
扇子で叩かれた前頭部をさすりながら、不満そうな表情を紫にぶつけた。
「藍。その発想が、軽挙妄動だと言っているのよ」
橙の尻尾が、不規則にぴくりと動く。藍は橙が目を覚まさないように、その小さな背中を優しく撫でた。
「藍も、絵を描き出す時は、心を籠めるでしょう。上手く描いて、褒めてもらいたいとか、喜んでもらいたいとか」
滔々と、語りかけるように紫は言葉を紡ぐ。
藍は黙って、それに相槌を打った。
「それでね、藍。そうやって描かれた絵は、現実と空想の境界に綻びが生まれるの。魂を与えられたかのような空華に囚われた画布の中の人物は、その空隙から境界を超えてしまう。つまり、画布を超えて跳梁跋扈するおそれがあるってこと。どう? 分かった?」
「煎じ詰めると、微小の妖力ですらその過程の進行を促してしまうということ……でしょうか」
「正解よ」
「そうであるなら、今すぐ回収に行ってきます」
「そんなに焦らないでもいいわよ。落ち着きなさい」
「しかし……」
「筆を扱う人に余程の妖力がない限りは大丈夫よ。もし、境界を超えてもすぐに消滅してしまうから。だけど、力の強い者に使わせるのは慎みなさい。それ以外なら、今まで通りでも構わないわよ」
気を咎めることはない、と紫は念を押す。
「分かったなら、この話は終わり。そういえばね、藍。今日はあなたにお土産があるの」
紫は、どこからか取り出した扇子で空中に一筋の線を描く。ごそごそと手探りで開いた空隙から、一本の一升瓶を取り出し、座卓の上に置いた。透明感のある茶色の一升瓶に貼られている紙片には、子供のような拙い字で『本じょう造 八海橙』と書かれている。
「はっかいちぇん? 何ですか、これ」
「お酒よ、それも珍しい。幻想郷じゃ手に入らない代物なんだから」
「つまり、外の世界のお酒ですか」
「いえ、藍も知らない世界よ。せっかくだし、たまには私たちだけで晩酌するのもいいと思わない?」
紫の言葉に、藍は頂いてもいいのかと問うように目配せをした。
「そうと決まれば、さっそく燗をつけてくるわね」
「私がやりますよ、そのくらい」
「かまわないわよ、藍。そもそも、その格好じゃ動けないでしょう」
紫は扇子で、藍を枕にしたまま眠っている橙を指す。相変わらず、規則的な寝息をたてている橙は当分目覚めそうにない。
「あのね、藍。玄関に私が描いた絵を飾っておいたのだけど、どうだったかしら」
台所から、紫の声が響いた。
藍は毛糸を手繰るように記憶を探った。しかし、脳裏にぼんやりと浮かんだ玄関には、その様なものは存在しない。
「玄関ですか? どのへんでしょう」
「下駄箱の上の方よ。目立つところに飾ったのに気づかなかったの?」
「いえ、そこには何もありませんでした」
「やっぱり、逃げちゃったかしら」
「捕まえに行かなくても大丈夫でしょうか?」
「心配無用よ。あちこちを彷徨うだけだし、一刻もすれば消えてしまうから。外出中に、それらしいもの見かけなかった?」
「そういえば、橙が黒くて怪しい物体を見たと言ってましたが」
「おそらく、それねぇ。せっかく藍のこと、上手く描けたのに」
「私だったんですか……あれ」
程なくして、紫はざらついた苔色の徳利と三つの猪口を手にして腰をおろす。
「ねぇ、藍。その格好疲れない?」
「いつものことですから」
藍は紫から酌を受けながら答える。
「涎垂らしてるわよ? 橙」
「い、いつものことですから」
苦笑いする藍から紫は酌を受ける。
藍は徳利を静かに置き、慣れた手付きで橙の口を拭ってやる。
「それじゃ、乾杯」
紫の音頭にあわせ、二人は猪口を口へと運ぶ。
秋の夜長に、小さな小さな宴の幕が上がった。
(了)
柔らかい陽射の中、八雲藍と橙の二人は八雲紫の屋敷にある縁側で画布に向い、その風光明媚な風景を写すべく筆を動かしていた。
時折、山の方向から頬を撫でるような秋風が縁側に暖気をもたらす。庭前の傍らに生えるススキや淡く紅葉し始めた木々は、その流れに身を委ねるように枝葉をそよがせる。
あまりの心地よさに、藍は噛み殺せぬほどの大きな欠伸をした。
藍の隣に座っている橙も、この陽気に気が緩んだのか、伸びらかに天を仰いでいる。
ふと、藍は背後に気配を感じ、手を休めた。
「おはようございます、紫様。今日は早いのですね」
後ろを振り向き、藍は紫に挨拶をした。橙も慌てて居住まいを正し、小さくお辞儀をする。
「ええ、おはよう。あなたたち、珍しいことをしているわね」
「はい。橙が絵を描いてみたいとのことなので、一緒に付き添ってやってます」
「相変わらず、仲が良いこと」
取り出した扇子を自身の頬に当てながら、紫は笑みを浮かべる。
「藍も、だいぶ人間味ってのが分かるようになってきたようね」
「紫さまほどではございませんよ」
「十分よ。そんじょそこらの妖怪や妖獣が、風雅な景色を見ても心が動かされるなんてことは無いもの。それにしても、見事に紅葉してるわね」
遠景を眺望した紫は無意識に、感嘆の声を漏らした。
「あまり、紅葉を煽てると秋の神の自慢話に捕まりますよ」
「目の前で、秋と冬の境界を弄って有頂天から灼熱地獄跡まで突き落とすから大丈夫よ」
「紫さまも、人が悪いですね」
「私は妖怪だからいいの」
沓脱ぎ石の脇で群生している彼岸花の花弁が一枚、ひらりと落ちた。紫の一声で、すぐそこまで近づいた秋の神が踵を返したかのように。
「それで、二人はどんな絵を描いているの?」
紫はおもむろに、藍の後ろへと回る。
拙い作品です、と謙遜する藍の肩越しに画布を見遣った。
藍の画布に描かれた風景は、如実かつ鮮明に、彩る秋を表現していた。その出来栄えに、紫は胸中で拍手を送る。
その一方で橙の画布に描かれた風景は、良く表現するならば、鳳凰卵をゆで卵にしてしまったような斬新奇抜かつ自由闊達な料理法で表現されていた。その出来栄えは、この日の紫の手記にて「幻想郷の中の幻想郷。もとい、橙想郷(ちぇんそうきょう)」と記される程のものだった。
己の作品を見られた気恥ずかしさからか、紫と目の合った橙はえへへへへと照れ笑いを浮かべる。
茹でられた鳳凰が展翅することはないだろう。
「ところで紫さま、早速お食事になさいますか?」
時刻は、太陽が正午線を通過してから四半刻ほど経過していた。
紫はともかく、藍と橙は普段なら昼餉を取っている時間だ。
「そうね……その前に一つ頼みごとをしてもいいかしら。私も、久々に絵を描きたくなったから準備してちょうだい」
そう言いながら、紫は橙の横へおもむろに腰を据えた。
程なくして、画布と画架を担いだ藍が廊下伝いに現れる。
藍はそれらを適当な位置に手際良く配置すると、一本の筆を紫に手渡した。
その筆は、首を垂れる稲穂の色をしており、陽射を受けて艶やかに輝いている。
「何気に良さそうな筆じゃない」
「目が肥えていらっしゃいますね。元々は御阿礼の子が『幻想郷縁起』を執筆する際に愛用していた筆で、かなり希少な品なんですよ」
「道理で」
「どうかなさいました?」
「何でもないわ、藍。同じものを何処かで見た気がしただけ。稗田家に訪れた時に見たのだと思うわ」
「そういえば、最近になって鴉天狗の新聞にも取り上げられましたし、里では人気商品なのでそんじょそこらでお目にかかっているかもしれませんね。そうそう、私も橙も、同じ筆を使ってるんですよ」
「かなり希少な品が有り触れていてもねぇ……」
半ば呆れつつも、藍から受け取ったそれを注視する。
「では、食事の準備をしてきます」
筆を手先で弄ぶように観察する紫へ言葉を投げかけた藍は立ち上がると、台所の方へ振り向いた。
私も手伝いますと、橙が軽快に立ち上がり藍を追随する。
「私だけで大丈夫だ。橙はそこで待っていなさい」
藍の言葉に橙は一瞬だけ哀切さを滲ませるも、機敏な動作で踵を返し再び画布の前にちょこんと座り直す。小さな手で筆を握ると、何ごとも無かったかのように二本の尻尾をふわふわとなびかせながら橙想郷の創造を再開した。
……
「ご飯の用意ができましたよー」
秋の空のように澄んだ声が屋敷に響いた。
藍は、今にでもトタトタと小走りで橙が我先にとやってくると思っていた。
しかし、一向に現れる気配はない。厠にいるとしても返事くらいはするはずである。
不思議に思いつつも、声が届かなかったのだろうと解釈し縁側へ向かう。
「あれ、橙はどうしたんですか?」
藍は、一人でそこに佇む紫に首を傾げながら問いかけた。
「さぁ? 遊びにでも行ったんじゃないのかしら」
「いえ……それは流石にないと思いますが」
「あら、そう?」
「何か言伝を頼まれたりしていませんか?」
「何も」
先ほどまでに橙が座っていた場所には絵具や筆が散乱していた。いくら、式となった今も猫ゆえの気まぐれさが残っているとはいえ食事前に出掛けるとは解しがたい。
「それはさておき、紫さまは何を描かれているんですか?」
「ええ、ちょっとね。もう少しで完成するわよ」
そういうと、紫は空いた方の手で手招きをする。
それに誘われた藍は、興味深く紫の元へ歩み寄る。
「はい、完成」
「何ですか……これ」
藍が紫の背後に辿りついたと同時に、紫は満足げな声色で宣言する。それとは対照的に、藍の口からは弱々しい疑問にも似た感想が零れた。
そこには、この世の禍々しさとおぞましさの権化のような、藍でさえ腰がすくむネクロファンタジア的生物が描かれていた。
藍は確信した、橙の姿が見えない原因は紫画伯にあることを。
橙は阿鼻地獄よりも混沌としたそれを直視してしまい恐怖のあまり逃げ出したのだろう。藍は心の中で、橙の無事を祈った。
「ところで、藍はこれから何をする予定なの?」
「ええと、今日は天気もいいので里へ買い出しに行ってこようと思っています」
藍は、橙の散らかした画材を丁寧に片付けながら受け答える。
「紫さまも、ご一緒にどうですか?」
「ごめんね、藍。今日はちょっと用事があるの」
「分かりました。境界の管理ですか?」
「その通り、夢と現の。日没頃には戻ってくるから」
「ようするに、二度寝ですか」
「そんなところかしら」
……
紫も眠る未三つ時、人間の里は活気ある雑踏に満ちていた。
藍は、人の往が盛んな表通りを縫うように進むと、途中で狭いわき道へ入った。
一歩、また一歩、前進する度に喧騒が遠ざかる。かつかつと、規則的に並べられた飛び石を渡る音が路地裏に木霊した。
やがて視界が開けると、鬱蒼とした路地裏とは打って変わり鮮やかに紅葉した木々が藍を出迎えた。
その傍らには、茅葺の小さな茶屋が存在する。藍が買い出しのついでに立ち寄る場所である。
軒先に立てられた傘は、紅葉と背比べをするように紅く大輪の花を咲かせている。その根元には、一人で座るには大きすぎる緋毛氈を敷かれた床机が置かれていた。
藍はそこに腰を据え、注文した水羊羹を黒文字で丁寧に一口大に切り分けて口に運ぶ。
咀嚼と共に広がるほのかな甘みに口元を綻ばせ、もう一口。
周りの風景に映える秋の稲穂色をした尻尾を浮き浮きと左右に揺らす。その様は、見ているだけでも心が温まると評判で、この茶屋の名物になっていることはいうまでもない。
最後の一切れを口に入れようとした瞬間、茶屋の横手にある茂みの奥から聞こえる不自然な物音に気がついた。
風の音と似て非なるそれを確認しようと首を向けるが、視線は生垣に阻まれ正体をつかむことはできなかった。
小さな物音は徐々に大きくなる。かさかさと枝の擦れるような音はいつしか、がさがさと大枝を揺らすような音へと変貌を遂げる。
音をさせていた正体と思しき黒い影は、脱兎のごとく生垣を跳躍して姿をあらわにした。
茶屋の周囲に居合わせた里の人間の中には、突発的な出来事に悲鳴をあげる者もいた。
なにしろ、現れたのは化け猫――それも、妖術を扱う程度の能力を持つ――である。いくら里の中とはいえ、いきなり現れたら驚いてしまうのも当然だ。
「……橙?」
呆気に取られる藍を尻目に、橙は肩で大きく呼吸をしている。
橙の身体には、あちこちに蜘蛛の巣や枯れ葉が付着しており、道なき道を余程の勢いで掻い潜ってきたことを物語っていた。
どよめいていた周囲の人間は、「なんだ、いつも一緒の猫ちゃんか」と平穏を取り戻す。
藍の姿を確認した橙は、ばつが悪そうに苦笑した。
藍はおもむろに、紅葉色の床机を軽くぽんぽんと叩く。隣に来いの合図である。
服にまとわりついた埃を払いながら歩み寄り、藍の隣へ腰を据えた。
橙は藍の傍らに置いてあった湯呑から、ぬるくなった煎茶を嚥下し、大きく息を吐く。
「なぁ、橙。皆に黙って何処に行ってたんだ?」
「えっと、まぁ……その。紆余曲折ありまして」
煎茶を飲み干した橙は、歯切れの悪い返事をした。反応を見る限り、藍の推測は的を得ていたのだろう。
「中華まんでも食べるか?」
「はい?」
藍に深く詮索されると思い、適当な言い訳を思索していた橙は予想外の質問に素っ頓狂な声をあげる。
「食べてないんだろ、昼飯」
「はい、食べてないです」
ついて来いと言う藍に、橙は追随した。
茶屋を後にする頃には、すっかりと影が長くなっていた。撫でるような夕風は肌寒い。
表通りは相変わらず、夕暮れの寒さを感じさせない程の賑わいを見せていた。
和気藹々と戯れる子供たちの姿や、買い物客が溢れている。
藍と橙も、夕餉の買い物がてら表通りを歩いていた。
「そういえば、橙。どうして、あんな所にいたんだ?」
表通りを歩きながら、藍は問いかけた。
時々、橙が仲間の猫とあのような場所へ行くことはあっても一人で行く可能性は考えられない。まして、息を切らすほどのこととなれば、何か余程の理由があるのだろう。
「えっとですね……怖くて逃げてたんです」
ポンと、弾けるように胸の前で両手をあわせて橙は言った。
「何から?」
「何か、黒くて不気味な物体です」
「紫さまが描いた絵のことか?」
「いえ……それもそうですが、里の近くに何かがいたんですよ。そいつは、陽炎みたいにふらふらしていて、遠くから私の名前を呼んでくるのです。ちぇーん、ちぇーん……って」
中華まんの温もりが残った両手をさすり、記憶を掘り返しながら橙は言葉を紡ぐ。
「何で私の名前を知ってるのかも分からず、少しずつ私に近づいてきて……どうやら無我夢中で逃げていたらしく、気がついたらあの茶屋の前でした」
「不思議な体験だったな」
「もしかしたら白昼夢でも見ていたのでしょうか」
「狐にでも、化かされたんじゃないのか?」
「そうかもしれませんね、藍さま」
本当に怖い思いをしたのかと疑問に思うくらい快活に、橙はくすくすと笑った。
それに釣られ、藍もくすりと笑みを浮かべた。
……
陽射は山に隠れ、幻想郷に夜が降りてくる。
橙と藍が主の屋敷へとたどり着いたのは、辺りがすっかりと暗くなったころだった。
からからと玄関の引き違い戸を開け、足を踏み入れた。
それと同時に、藍は正体不明の違和感を感じ顔をしかめる。
詮索するように周囲を見回したが、白い壁に囲まれた玄関は、腰丈の下駄箱と、その上に花の生けられた花瓶が置いてあるだけだ。
埒が空かず、藍はその正体を気の所為だと解釈した。
家路に着く頃から宵惑っていた橙は、居間に座るや否や藍に抱きつくように寄りかかり、ふかふか尻尾を枕にして眠っている。橙の二本の尻尾は枯れゆく花弁のように力なく垂れ下がり、心を許しきったかのような表情は安堵に満ちていた。
「あら、寝ちゃっているの? 橙」
居間へやってきた紫は、橙を起こさぬよう声を絞り藍に問う。
座卓を挟んで向かい合うように座った紫に、藍はゆっくりと頷いた。
「ねぇ、藍。一つ聞いていい?」
手のひらを返したように真剣な声色で藍に問いかける。
普段はあまり見せない態度の紫を、藍は無意識に注視した。
紫は頬杖をつき、もう片方の手で宙に開かれた空間の亀裂から一本の筆を取り出した。
「この筆、あなたの尻尾で作ったものでしょう?」
紫が手にするそれは、昼間に藍が紫に手渡したものである。
「だとしたら、軽挙妄動ね」
状況が掴めず狐疑と駭然の入り混じる表情を浮かべる藍に、紫は不敵な微笑を返す。
「紫さま、確かにそれは私の尻尾から作りましたが、どこが軽率なんでしょう」
「尻尾は、藍たちにとっては妖力の指標。だから、そこにも妖力が宿っているのよ。そんな筆で絵を描けばどうなるか……後は分かるわよね?」
「仰ることは分かります。しかし、それは微々たるものゆえ――」
ぴしゃん、と乾いた音が藍の言葉を遮った。不意の出来事に、藍は体を萎縮させる。
扇子で叩かれた前頭部をさすりながら、不満そうな表情を紫にぶつけた。
「藍。その発想が、軽挙妄動だと言っているのよ」
橙の尻尾が、不規則にぴくりと動く。藍は橙が目を覚まさないように、その小さな背中を優しく撫でた。
「藍も、絵を描き出す時は、心を籠めるでしょう。上手く描いて、褒めてもらいたいとか、喜んでもらいたいとか」
滔々と、語りかけるように紫は言葉を紡ぐ。
藍は黙って、それに相槌を打った。
「それでね、藍。そうやって描かれた絵は、現実と空想の境界に綻びが生まれるの。魂を与えられたかのような空華に囚われた画布の中の人物は、その空隙から境界を超えてしまう。つまり、画布を超えて跳梁跋扈するおそれがあるってこと。どう? 分かった?」
「煎じ詰めると、微小の妖力ですらその過程の進行を促してしまうということ……でしょうか」
「正解よ」
「そうであるなら、今すぐ回収に行ってきます」
「そんなに焦らないでもいいわよ。落ち着きなさい」
「しかし……」
「筆を扱う人に余程の妖力がない限りは大丈夫よ。もし、境界を超えてもすぐに消滅してしまうから。だけど、力の強い者に使わせるのは慎みなさい。それ以外なら、今まで通りでも構わないわよ」
気を咎めることはない、と紫は念を押す。
「分かったなら、この話は終わり。そういえばね、藍。今日はあなたにお土産があるの」
紫は、どこからか取り出した扇子で空中に一筋の線を描く。ごそごそと手探りで開いた空隙から、一本の一升瓶を取り出し、座卓の上に置いた。透明感のある茶色の一升瓶に貼られている紙片には、子供のような拙い字で『本じょう造 八海橙』と書かれている。
「はっかいちぇん? 何ですか、これ」
「お酒よ、それも珍しい。幻想郷じゃ手に入らない代物なんだから」
「つまり、外の世界のお酒ですか」
「いえ、藍も知らない世界よ。せっかくだし、たまには私たちだけで晩酌するのもいいと思わない?」
紫の言葉に、藍は頂いてもいいのかと問うように目配せをした。
「そうと決まれば、さっそく燗をつけてくるわね」
「私がやりますよ、そのくらい」
「かまわないわよ、藍。そもそも、その格好じゃ動けないでしょう」
紫は扇子で、藍を枕にしたまま眠っている橙を指す。相変わらず、規則的な寝息をたてている橙は当分目覚めそうにない。
「あのね、藍。玄関に私が描いた絵を飾っておいたのだけど、どうだったかしら」
台所から、紫の声が響いた。
藍は毛糸を手繰るように記憶を探った。しかし、脳裏にぼんやりと浮かんだ玄関には、その様なものは存在しない。
「玄関ですか? どのへんでしょう」
「下駄箱の上の方よ。目立つところに飾ったのに気づかなかったの?」
「いえ、そこには何もありませんでした」
「やっぱり、逃げちゃったかしら」
「捕まえに行かなくても大丈夫でしょうか?」
「心配無用よ。あちこちを彷徨うだけだし、一刻もすれば消えてしまうから。外出中に、それらしいもの見かけなかった?」
「そういえば、橙が黒くて怪しい物体を見たと言ってましたが」
「おそらく、それねぇ。せっかく藍のこと、上手く描けたのに」
「私だったんですか……あれ」
程なくして、紫はざらついた苔色の徳利と三つの猪口を手にして腰をおろす。
「ねぇ、藍。その格好疲れない?」
「いつものことですから」
藍は紫から酌を受けながら答える。
「涎垂らしてるわよ? 橙」
「い、いつものことですから」
苦笑いする藍から紫は酌を受ける。
藍は徳利を静かに置き、慣れた手付きで橙の口を拭ってやる。
「それじゃ、乾杯」
紫の音頭にあわせ、二人は猪口を口へと運ぶ。
秋の夜長に、小さな小さな宴の幕が上がった。
(了)
非常に良い作品だったと思います。