オレンジ色の舌が、ルーミアの組み立てた小さな焚き木を舐め取っていく。
森の中、ぽっかり空いた空間に、彼女は膝を抱えて座り込んでいた。じっと、憑かれたようにそれを見つめている。月は雲に隠れている。火がルーミアの金髪を照らす。髪には飾り気ひとつないが、柔らかく繊細な髪の毛は美しかった。地面にじかに座り込んでいるので、彼女の黒いスカートは泥に汚れている。
それと、血とに。
「あら、珍しい。闇もまとわず、あなたが火を焚いているなんて」
茂みをかき分け、赤髪長身の女が姿を現す。ルーミアは女の方をちらりと見たが、それだけで、またすぐに炎に巻かれる小さな焚き木に視線を戻す。
何度か顔を合わせただけだ、多分覚えていないのだろう、と紅美鈴は思った。
すんっ
美鈴の鼻が動く。
「ああ、やっぱり」
「何してたの」
うずくまった金髪の少女が、ぽつりと呟く。美鈴は少し驚いた。そういう言葉が、この幼い少女の外見をした妖怪から出るとは意外だった。他者の行動に一切関心を払わないと思っていた。
「散歩よ」
「へえ」
「仕事が終わったから気晴らしにね」
「すごい大きい音がしてた」
美鈴にとっての散歩とは、ただぶらぶらと歩き回るだけでなく、時々妖力を全力で開放してみたり、特定のコンビネーションを何十回と繰り返したり、模擬戦をしてみたりする。今日は試しに十六夜咲夜でやってみた。妖怪は人間より精神に重きを置く。しかも美鈴は並の妖怪より想像力が豊かだ。顔や腕にはナイフ傷がついていた。何度もつけられた傷だから、手順を踏めばこうして再現もできる。本物は今頃館の中で主人の世話をしているだろう。
「よかったら座って」
ルーミアはそう言って、焚き火を挟んだ向かい側を指す。美鈴はいよいよもって好奇心が刺激された。今夜のルーミアはどこかおかしい。これまでにも何度か弾幕で遊んだことはあるが、こんな風に言葉を交わしたことは一度もなかった。
美鈴は手近の座りやすそうな石を持ってきて、その上に腰を下ろした。炎を挟んでルーミアと向かい合う。美鈴は自分の唇の端を指した。
「ここ、ついているわよ」
ルーミアは袖で自分の口元をぬぐった。
静かな夜だった。時折焚き木の爆ぜる音がするくらいだ。ふたりともしばらく無言でいた。
美鈴は一度座ると、疲れがどっと来るのを感じた。腹も減った。少しはしゃぎ過ぎたのだ。
先日紅魔館に強大な妖怪が侵入してきて、全員総出で撃退した。美鈴は、自分ができることだけでもやろうと、戦い方を工夫し、圧倒的な強さを持つ妖怪相手に全力で立ち向かった。最終的に気絶してしまったが、後日、咲夜がふとした拍子に一言だけ褒めてくれた。そのときは嬉しくて頭がクラクラした。努力すれば報われるのだと再確認した。それで最近、散歩のときもテンションが高い。
鶏肉、ジャガイモ、ブロッコリーがたっぷりと入ったシチューをかきこんで、そのままベッドに飛び込みたい。けれどこれから館に戻って、割り当てられた自分の部屋で火を焚いて、食材を倉庫に取りに行ってそれを切って……そもそも今自分が夢想している食材が十分にあるかは食事係メイドに聞かないとわからない……などと考えると、億劫だった。結局はストックしてあるパンでもかじりながら、若干の空きっ腹を抱えつつ、泥のように眠るのだろうと、今から一時間後の未来を予想する。
「まだ、残ってるけど」
美鈴は我に返った。炎の向こうのルーミアは、ずっと美鈴を見ていたようだ。この子の赤い目は綺麗だな、と美鈴は思う。
「よかったら、食べる?」
「あら、いいの。でも、どこにも見当たらないけど……」
痕跡といえば、地面に所々ついている赤い染みくらいだ。てっきり、もう済ませてしまったものとばかり思っていた。
美鈴の怪訝そうな顔を見ながら、ルーミアは自分の右側を指した。木の根元に黒い球状のものがある。濃密な闇の塊だ。それが薄れていくとともに、濃厚な血と肉の匂いが漂ってきた。美鈴の口の中に唾液がたまっていく。
「ひとは見かけによらないものね」
美鈴は感嘆のため息をついた。
「そうかな」
「ええ。もっと散らかしてると思った。行儀いいのね。いつもこうなの?」
「ううん」
ルーミアは首を振った。目を瞑り、軽く閉じられた口にはほのかに笑みが灯っている。眉根はわずかに寄せられ、悲しげにも見える。
「形を崩したくなかったから」
「でも、どうせ全部なくなるのよ」
「そうだよ。でも、できるだけ」
「……何だか、悪いわね」
「いいの。お姉さんが言う通り、どうせ食べてしまわないといけないし」
「じゃあ、ご好意に甘えるわ」
「うん、おいしいよ。とても」
「あら、本当」
「うん。とてもいい人だった」
魔法の森上空を飛んでいた博麗霊夢は、血の臭いを嗅ぎ取った。一瞬のことで、すぐに臭いは消えた。だが、そのことが逆に誰か隠蔽する存在がいることを示している。見下ろした限りだと、特に変わったところはない。夜に沈んだ緑が広がっている。
普段なら気にも留めないが、この臭いがある以上、見過ごせない。
博麗の巫女として。
肺からせりあがってくる倦怠感混じりのため息を呑みこみ、下降する。
森は闇に覆われていた。霊夢は昼間の平野を歩くように歩いていく。石につまずくことも、木の枝に服を引っかけることもない。
夜の森では、ものの形ははっきりせず、すべてが黒くぼんやりとしていた。
その中で、塗りつぶされたように不自然な黒があった。目の前に壁のように立ちはだかっている。闇は何者の侵入も拒むかのように、不吉に蠢いている。
霊夢は一切の躊躇なく踏み込む。
闇は、博麗の巫女に自らその領域を明け渡す。
闇の中は、火の灯りがあった。
生臭い風に乗って、話し声が聞こえてくる。
「おや、珍しい顔ぶれだね。こんなところでお食事かい」
「こんばんは。えーと……火車さんでしたっけ。でももう、運んでいくほど残っていませんよ」
「別にそれを狙いにわざわざ顔出したんじゃないよ。第一、そんなんなったらもうあたいの守備範囲外さ」
「お燐、こんばんは」
「こんばんはルーミア。元気そうだね」
「お燐もどう?」
「あたい、ナマは駄目なんだ。体が受けつけなくてね」
「ナマ苦手ですか? 勿体ない、結構いけますよこれ」
「火があるよ……」
「おや、そういえばそうだね。ルーミア、あんたが火使えるなんて初めて知ったよ。地上の火はそんな好きじゃないんだけどね。まあせっかくだからご相伴に預か」
美鈴が地面を蹴る。
お燐とルーミアの腰を両腕に抱えてそのまま前方へ飛びこむ。
一瞬の後、彼女らがいた場所を陰陽玉が通り過ぎた。組まれていた焚き木は、火の粉を散らして砕けた。
「焚き火が……」
ルーミアは押し倒されて仰向けになったまま、ぽつりと呟いた。バラバラになった木切れがわずかに燃え残っているだけで、ほとんど火は消えていた。
「な、何するのさいきなりっ」
上半身を起こしたお燐は茂みに向かって叫ぶ。茂みから、紅いリボンで黒髪をまとめた少女が現れた。紅と白の入り混じった巫女服。少女のまわりを陰陽玉が旋回している。まだあと五、六個はある。
「何って? 妖怪退治」
陰陽玉が続けざまに射出される。
妖怪たちはそれぞれ別方向に散る。
地面がえぐれ、木がなぎ倒された。
「くっ、お姉さん今夜は機嫌悪いみたいだ。とっととずらかるよ!」
「そ、そうねっ」
お燐に応えながらも一方で美鈴は、巫女は機嫌が悪いわけではない、と思っていた。悪かったのはタイミングだ。この場所でそう遠くない過去、何があったかというのが露骨にわかってしまう、そういう状況だった。
陰陽玉は一度避けて終わりではない。地面や木にめりこんでも、すぐに宙に浮いて追撃を再開してくる。しかも玉は増えていた。さらに霊夢の周辺に札がセットされていく。
「おもしろくないねえ、実におもしろみのない動きだねえ、お姉さん!」
お燐の顔は、口ほどには余裕が見受けられなかった。目は退路を探している。
そのとき、霊夢の頭上から巨大な闇の球が降ってきた。すっぽりと霊夢を呑みこむ。
「こんなもので私の視界を封じたつもり?」
霊夢は振り向きもせず、真後ろのルーミアに声をかける。
「それにこれじゃああんたも見えないでしょう」
「見えなくてもわかるよ。こんなに近くに人の匂いがするのなら」
幼く、呑気で、どこか楽しげな声が応える。
「あんたの牙が私の首に刺さるより早く、今私の手にある針が、あんたの頭を打ち抜くわよ」
「そう……」
針が闇を貫く。
ルーミアの頭が砕ける。
いや、散って闇に溶ける。すぐに復元する。
振り向きざまに針を放った霊夢は、驚愕の声を呑み込んだ。人間である霊夢の目には闇しか見えない。ルーミアの頭が針で破壊され、それが一瞬で元に戻った様子も見えていない。しかし気配ですべてを理解していた。
ルーミアは闇と同化している。
「あの人、外の人だよ」
声は霊夢の目の前から聞こえる。それはルーミア本体かもしれないし、ただの影かもしれない。この闇自体を夢想封印で吹っ飛ばすことも考えたが、やっても無駄な気がした。
「……で、何。それだけ?」
無論“それだけ”では終わらない。
喰われた人間が、里の者かそうでないかで、幻想郷の秩序に与える影響はまったく違う。博麗の巫女は、幻想郷の秩序に奉仕する存在だ。霊夢の感情に奉仕するものではない。
霊夢は体から唐突に力が抜けるのを感じた。
それを見越したかのように、闇が晴れる。あとにはいつもの夜の森が残った。
「里の人間がいなくなったって、明日事件になってたら承知しないわよ」
「いなくなってないから、ならないと思う」
目の前の金髪の少女はそう言って、両腕を水平に広げて宙に浮かんだ。闇が少女の体から滲み出る。黒い球体となった彼女は、夜空をふよふよと浮かんでいく。途中、何度か木にぶつかりながら、だんだん遠くなっていく。
既にお燐も美鈴もいなかった。残骸はかけらも残っていなかった。おそらく美鈴が気を使ったのだろう。染みがついていた地面も掘り返されていた。三日もすれば踏み固められて、何の異常も見当たらない、ただの地面になるだろう。
というより、はじめから異常でもなんでもなかった。あの血の臭いに苛立ちを感じたのは、今宵この場にいた者で、霊夢だけだった。
徒労感が重くのしかかった。それは、この森全体に漂う瘴気のせいばかりではない。
霧雨魔理沙の家には灯りがついていた。普通だと夕食の時間帯だが、魔理沙の場合、いつ寝ているのかいつ起きているのかわからない。実際、霊夢が家に近づいても、食べ物らしい匂いはしなかった。
扉を叩いても返事がない。庭を横切り、窓を開けてそこから上半身を入れる。リビングルーム……のはずだが、物置とほとんど変わらない。今日はいつにもまして物が散らかっている。本、ガラス容器、得体の知れない彫像、透明の袋に入ったキノコ、壊れた楽器のようなもの等々、足の踏み場がない。
「魔理沙、入るわよ」
「おお、霊夢か。その辺でゆっくりしていってもいいぜ」
リビングの向こうの廊下から、声が聞こえてきた。あの方向は研究室だ。霊夢は入らせてもらったことはない。特に入ってみたいとも思わないが。
「魔理沙、私入りたいんだけど」
「おお、霊夢か。気が向いたら片づけていってもいいぜ」
霊夢はため息をつくと、靴を指に引っかけて、浮遊して室内に入る。手近な本を積み上げて辛うじて立つスペースを作った。
「あとになってあれはどこにやったとか、言わないでよね」
廊下に向かって呼びかけてから、とりあえず形状が理解できる物から集めていく。
「大丈夫。そういう奴は、次に出てきたときには何か別の物に変化している。一石二鳥ってやつだ」
廊下から声が返ってくる。霊夢はそれには応えず、片づけを続けた。
魔理沙が戻ってきたのは三十分ほど過ぎてからだった。足の踏み場もなかったリビングは、ある程度片づいていた。ゼロだったスペースが、部屋の三分の一にまで増えていた。
「悪いな、まるで片づけに来てもらったみたいだな」
「別にいいわ、暇だったし」
「それで、何の用だ?」
シンプルな質問に、霊夢は言葉に詰まった。
「何って……別に。ただ、ちょっと森を通ったから」
「そうか。実はな、今、私はちょっと暇じゃないんだ。新しい魔法ができそうなんでな。いや、できないかもしれないが、がんばればできるかもしれない。今夜が峠だ」
「それって悪い意味にしか使わないんじゃ」
「細かいことは気にするな。霊夢、明日も暇か?」
「ええ、明日は暇よ」
「じゃあ明日そっちに来る。昼過ぎになるかな。それでいいか」
「いいも何も、あなたの好きなようにすれば」
魔理沙は、霊夢の顔をじっと見た。そして両手で霊夢の顔を挟んだかと思うと、指で頬を左右に思い切り引っ張った。
「……あにふんのよ」
「霊夢、もう一度いうぜ、何しに来たんだ」
ぱっ、と手を離す。
「遊びに来たのよ」
「嘘だな。仕事の顔してるぜ。顔を洗って出直しな。もっとも、次に来るのは私だけどな」
美鈴は、ルーミアが木の根元にぼんやりと座りこんでいるのを見つけると、ほっとひと息ついた。美鈴にかかれば瘴気に満ちた魔法の森であろうと、誰かを探すのはそう難しいことではない。たとえ夜だろうと同じことだ。それにルーミアの気は、他の妖怪と比べても特にわかりやすかった。
「ルーミア」
「あれ、さっきのお姉さん」
ルーミアは呼ばれると、のろのろと立ち上がり、美鈴の方を向く。その間にも何度か、ルーミアの体は闇に侵食され、ろうそくの炎のように揺らめいた。炎が風に吹かれ、影が光に照らされ姿を変えるのと同じように、今のルーミアはちょっとした外界の変化ですぐに揺らぐ。
それなのに美鈴は、不思議と彼女から危うげな印象をまったく受けなかった。元々ルーミアとはそういう在り方だったのだと、納得すらしていた。
「忘れものよ」
美鈴はルーミアに向かって腕を突き出した。手には、金色の束が握られていた。それは、みつあみにされた髪の毛だった。先には赤いリボンが結わえられている。
「ほんとだ、私のだ」
「さっき地面を片づけてたら、でてきたの」
ルーミアは手を伸ばす。指先がメイリンの指に触れた途端、ルーミアから漏れていた闇が、油を得た火のように美鈴に伝わった。
「うわ……っと」
美鈴は慌てて手を離す。だが既に闇は美鈴の腕に侵食し、蛇のようにのたくっていた。
「これ、困ったわね……斬らなきゃいけないの」
自分の手を指先までぴんと伸ばす。
「大丈夫」
ルーミアはみつあみからリボンを外し、自分の髪の毛に結びつける。すると、ルーミアから滲み出ていた闇がぴたりと収まった。美鈴の腕の中で暴れ回っていた闇も、ぐったりと動かなくなった。やがて蛞蝓のように小さくなっていき、そのうち消えた。
「ふう、一瞬ひやっとしたわ」
美鈴は腕をぷらぷらさせながら、ルーミアを観察する。見たところ、少女の形体に落ち着いたようだ。少なくとも、今夜見た中では一番今が落ち着いてみえる。
「探さなきゃと思ってたの。ありがとう、お姉さん」
「いいのよ」
「今日はたくさんお姉さんに助けてもらったわ。ありがとう」
「うん、いいのよ。それじゃ、また何かあったら一緒にご飯食べましょうね」
「うん、またね」
ふたりは、手を振って笑顔で別れた。
境内に落ちた葉っぱを掃き終え、いったん縁側に腰を落ち着けた。かじかんだ両手に息を吐きかけてから擦る。正午を過ぎたばかりだというのに、寒さは一向に和らがない。お茶を飲むために湯を沸かそうと思ったところに、空から魔理沙がやってきた。袋を提げている。
「よう」
「ちょうどよかったわ。今、お湯沸かすところ。それは?」
「ああ、差し入れだ」
「ま、作るのは私だけどね」
袋の中には、里で買ったと思しき野菜や肉が入っている。
「これは……牛かしら」
「なんか精のつくものでも、と思ってな」
「結構買ってきたわねえ。それじゃあすき焼きにしましょうか」
念入りにすき焼きを作ったものだから、ふたりが食卓につき、後は食べるばかりとなった頃には、夕陽が射していた。魔理沙はガラスコップに焼酎を三分の一ほど入れ、さらに別の瓶に入った液体をそそぎこむ。霊夢は眉をしかめる。
「それ、何?」
「何って、お前、牛乳も知らないのか」
そう言いながら、さらに別の瓶の蓋を開け、スプーンですくい取り、今入れた液体に混ぜ込む。これはどう見ても蜂蜜だ。色といい、とろみの具合といい、間違いない。
「牛乳は知っているわ。それが蜂蜜だということもね」
「そうだ。お前の分も作ってやる」
「呑めるの、それ」
「はっきりいってかなりうまい。最近の私の流行りなんだ」
山盛りになって湯気を立てている白飯と、牛肉、葱、シラタキ、エノキ、豆腐がぎっしりと詰まった汁、それに焼酎牛乳蜂蜜、種類は少ないが、量は多い。ふたりはコップの縁を軽く合わせた。酒を口に含むと、霊夢は意外そうに口を開け、それから頬をゆるめた。魔理沙はにやりと笑う。
「あら、これいけるわね」
「だろう」
「すごく甘い。何杯でも呑めそう」
ふたりはコップを置いて、すき焼きにとりかかった。
「魔法って、何の魔法?」
霊夢はそう聞いてから、はふはふしながら牛肉と葱を一緒に口に入れる。たっぷりと汁が染み込んでいて、歯で噛むと甘味が口の中に広がった。
「お前さんの、はふ、真似だよ」
魔理沙はそう答えて、咀嚼する。
「んぐ。真似って?」
「空間転移さ。お前、時々変なところから出てくるだろう」
「そうかしら? まっすぐ進んでいるつもりだけど」
「客観的に見たら、変なんだよ。たとえばお前が北にいる私に向かって飛ぶとするよな」
「なんで私が飛ばなきゃいけないのよ」
「そこ突っ込むなよ。なんでもいいよ。お前が飛びたくなかったら弾幕を飛ばしてもいい。とにかく北だ。いいか」
「いいわ」
「それなのにな、なぜか私はお前に東からぶつかられるんだ。南からじゃないとおかしいだろう」
「ぶつかってるんだからいいじゃない。結果は一緒でしょ」
「違うぜ」
「一緒よ」
「この前、里で事故があってな。大変だったんだ」
「知らないわね」
「妖怪に関係ないことなら、誰もお前に言わないだろうからな。先月から、里の集会所の改築が始まっていたんだ。で、工事の途中で屋根の一部が崩れた。原因がなんなのか、現場を調べているみたいだが詳しいことはわかっていない。屋根が予想以上に古かったのか、工程が悪かったのか、職人がちょっとしたミスをしたのか、それもまだわからない。なにしろ事故後の建物の損傷が激しいものだから、どこをどう工事していたか、当人たちしかわからないんだ」
「へえ」
「とにかく大事故だった。三人巻き込まれてな。二人死んだ。一人は落ちてきた石に巻き添え食って、今もぶっ倒れている。そのぶっ倒れたのが大工の棟梁なもんだから、改築作業は大幅に遅れている」
「……へえ」
「死んだ二人ってのが、棟梁と昔から付き合いのあった職人らしくてな。そういう意味でも棟梁、だいぶ参っているみたいだ。ああいう事故も、今いる空間と違うところにいたら、助かるんじゃないかと思ってな」
「なに、話つながったの?」
「つながっているさ、ずっと。私が脈絡のない話をしないことは、霊夢、お前よくわかってるだろう。高い足場から落ちている最中に、安全なところに移るんだ。もしくは重いものが落ちてきたとき、人か物か、どっちかを移すんだ」
「もっとさ、役に立ちそうな魔法がありそうなものだけど。たとえば治療する魔法とか。体を守る魔法とか」
「自然治癒を促進するのか、首が曲がったままで? 体を鉄みたいに固くするか、それでどうやって作業する?」
「だから、たとえばの話で」
「たとえばのひとつとして空間転移さ。まあ、単に私がやってみたいってのもある」
「何それ、結局あんたの好奇心じゃないの」
「半々といったところだな」
それが偽りのない本音だろう、と霊夢は思う。自分の努力で人を助けたい、という願いと、知的好奇心のままに技術を深めていきたい、という願いはどちらもまっとうなものだ。それが同時に表明されると、不謹慎に感じられてしまうだけの話だ。
「お前、昨日はどうしたんだ」
白飯を頬張りながら、魔理沙は言った。霊夢はコップの白い酒に目を落とす。言いたいことをうまく伝えられる自信がなかった。霊夢が酒の表面を眺めている間に、魔理沙は牛肉と豆腐を口に放り込む。口の中で白飯と混ぜ込む。
「人が死んだところに、居合わせたの」
「そりゃ間が悪いな」
「まあ、直接死体は目にしていないし、ああここで人間が死んだんだなあっていう、情報だけを見たんだけど」
「それで、気分悪くなって私の家に来たのか」
「まあね」
「そのことが話したかったのか」
改めて聞かれる。霊夢は瞬きを何度かして、魔理沙の目を正面から見る。言いたいことはやはり伝わらなかった。大工の棟梁の話があっただけになおさらだ。しかし、そもそも自分に言いたいことがあったのか、霊夢はもうわからなかった。あの事件は、職業として霊夢を激しく動かしはしたが、霊夢本人に揺らぎは与えなかった。
むしろ、揺らぎがないことに、霊夢はためらいを感じていた。
「……そんなんじゃないわね。多分、違う。ただ、最近あんたとこうして呑んでいなかったなあ、って。そう思った」
わからないことは脇に置いて、霊夢はとりあえず真実を言うことにした。
「あんたの顔が見たかった」
「なんだ、私と呑みたかったのか」
「そうね。それだけだったのかも。昨日、すごく楽しそうだったわね。私は疲れてたのに、魔法だ魔法だって」
「あれは忙しかったんだ。必死だったんだよ」
「楽しかった?」
「まあな。その前が苦しかったからな。二週間は苛々しっぱなしだった」
白飯をかき込み、汁をすする。
「なんでできないんだって思った。机の前に座ってたら、眠くなって、何もしたくなくなった。立ち上がると、外が明るいんだ。無駄に夜を過ごしたって思うと、結構キツイものがあるぜ。それとか、本当にわからなくなるときがある。どうしていいか。私が考えている魔法の理論通りにいかないんだ。私の技術がヘボくていかないのか、理論が間違っているのか。この検証作業がまた面倒でな。それでうんざりしてふて腐れて眠る。でもな、眠れないんだ。疲れてるのにな。できないってことがな、眠らせてくれない。できたいってずっと思ってるから。こんな、眠たいのに眠れないようだったら、はじめからしなきゃよかったっても思うんだが、私から魔法とったら何も残らないからな。いや、何か残るかもしれないが、でもそう思えるくらい魔法は好きなんだ。それがなくなったときの空しさを考えるとゾッとする。だから、体をひっぱり起こして机に向かうんだ。何も、嫌なことを無理やりしているわけじゃない。したいことを、思うとおりにできないから苦痛なだけなんだ。ちゃんと思うとおりにできたら、こんなに気持ちいいことは他にはないんだ」
途中、酒や豆腐や肉を挟みながら、魔理沙はしゃべっていた。霊夢は、ほとんど相槌も打たずに、黙って自分のペースで飯を喰っていた。
「やっと昨日、目処がついた。少しは私もやれるんだって、思えた」
「あんたがいいなら、それでいいわ」
霊夢は淡々とした口調で応えた。
「私は嬉しい」
「お前と呑みたかった」
「うん」
「今日はいい日だ」
「そうね」
鍋にはわずかな汁や具の切れ端が残るばかりになった。皿や箸をまとめて鍋に入れる。霊夢はそれを抱え上げた。
「魔理沙、今日は泊まっていくんでしょう」
「ん、ああ」
コップの酒をちびちびと呑みながら、魔理沙はのろのろとうなずく。かなり酒が回っている。
「洗いもの済ませたらお茶持ってくるわね」
「霊夢、その、今日はどうする」
廊下に足を踏み出した霊夢は、半身だけ振りかえった。
「お風呂はどっちからでも。布団は二枚敷いておくわ」
「……ああ、悪いな」
霊夢は唇の端をわずかに曲げ、目を細めた。一瞬、凄艶な表情を見せる。
「ごめんね、魔理沙」
「ばっ……な、何言ってんだ」
酒が少し口に入った状態で吹き出してしまった。飛び散った酒を台拭きで拭きながら、さらに呑む。
「今日はもう眠いの。ゆっくりしましょうよ」
「じゃあ風呂入ってさっさと寝ろ。私はもう少し起きてる」
「あなたも研究で疲れてるんじゃないの」
「疲れてても酒は楽しめるさ」
「そんなこと言って、昼まで寝てるつもりでしょう。明日は朝から倉庫の掃除するわよ」
「聞いてないぜ」
「今決めたから。だからあなたも早く寝るのよ。こっちが寝てるのにあんたがひとりで起きてて酒呑んでたら、なんか寂しいじゃない。一緒じゃないと」
「だったら……っ」
「だったら?」
「いや」
魔理沙は酔いで赤くなった顔をさらに赤くした。
それぞれの布団に入ったあとも、ふたりはとりとめのない話を続けた。一時間、二時間と過ぎるうちに、室内に残っていた熱気は消えていき、空気は冷たく張り詰めていく。布団は何枚も毛布を重ねていたので暖かかったが、鼻や唇は冷えてしまっている。魔理沙は鼻まで毛布で覆った。自然、口は利けなくなり、相槌ばかりになる。
「どうしたの、もう寝る?」
暗闇の中、霊夢の吐く息は白かった。
「そうする。なあ、霊夢」
「なに」
「そっち行っていいか」
***
朝日が射したが、一向に空気は暖まる気配がなかった。
冷たい空気を吸い過ぎて胸が痛い。胸に手を当てると、異様に速い動悸が手のひらを叩く。ジーンズのポケットに入れている携帯を取り出す。やはり“圏外”の表示が出る。昨晩と同じだ。ため息をつき、携帯の蓋を閉じる。
既に驚きも嘆きも通り越していた。突然降りかかった現実にもはやなす術がなかった。ただ、体が水を吸った綿のように疲れている。それだけは何とかしたかった。だがその辺で寝ても、獣か幽霊か、何か得体の知れないものに脅かされてすぐに飛び起きる羽目になる。夜が明けたからと言って幽霊が来ないとは誰も保証してくれない。今は誰にも邪魔されないところでひたすら眠りたかった。
木の根元に黒々とした闇があった。その球形の闇は、物のようにしてそこに存在していた。日が昇ってきて、次第に物の形がはっきりとしつつある森の中で、その闇はあまりに黒過ぎた。彼は自然とそこへ吸い寄せられた。触れてみる。すると、触れたところがじわりと温かくなった気がした。とっさに引っ込める。手のひらは痺れている。静電気が走ったときのチリッとした感じにも似ていた。
もう一度、今度はより深く、手首まで入れる。やはり痺れがある。闇から出して、手を閉じたり開いたりする。動くには動くが、指を動かしているという感覚がない。まるで麻酔にかかったようだ。彼はそのまま闇の塊へ倒れ込んだ。ここでなら、たとえ獣だろうと幽霊だろうと、おそろしくはない。なぜなら感覚が麻痺しているのだから。もし襲われても、痛みがなければいい。
日が高くなったせいか、少し暖かくなった。目覚めると、目の前に金髪の女の子がいた。白いブラウスの上に黒いシャツ、黒いスカートという出で立ちだった。髪の毛とブラウスの襟にそれぞれリボンがついている。目を閉じて眠っている。あどけない寝顔だった。男は、溜まりに溜まっていた疲れがふっと抜けるのを感じた。この少女なら、自分を楽にしてくれそうな気がした。
体全体が痺れて動かない。男は以前病院で受けた手術を思い出した。右腕だけの部分麻酔だった。手術台に横たえられた右腕に、何度も刃物が刺し込まれた。痛くはなかった。ただ、ひたすらに怖かった。
女の子は薄く眼を開けてこちらを見た。
「こんにちは」
辛うじて男の唇は動いた。声も出た。女の子はきょとんとして、首を傾げた。
「……こんにちは」
少女は不思議そうに、挨拶を返した。瞼が半分閉じかけている。まだ寝たりないのだろう。
「どうして私の隣にいるの?」
そう言って、少女はすぐにまた目を閉じた。彼も、動けない以上何もすることがなかったので、一緒に眠ることにした。怖くはなかった。
次に目が覚めたときには日が暮れていた。体が芯から冷えていた。一ヶ所だけ温かみがあった。見ると、少女が男の胸に顔をよせていた。男の腕を枕にしている。少女は寒さで小さく震えていた。
「僕で暖を取っても、仕方ないと思う。あまり太っていないし」
「そう?」
男が声をかけると、少女は顔をあげた。
「冬は寒いから嫌い。体を動かしたり、食べたりしてあったまれるけど、でもずっとそうしているわけにもいかないでしょう。そういうとき、どうしようもないの」
「そうでもないよ。火があればいい」
男は地面に落ちている葉っぱや枝をかきあつめた。枝は少し足りなかったので手近な木から折った。枝を井桁型に組んでいく。
ライターで葉っぱに火をつけ、少しずつ火を大きくしていく。
「こうすれば少しはマシかな」
男が手をかざすと、少女も真似して手を火にかざした。
「暖房もカーペットもないなら、焚き火するぐらいしかないよな」
「焚き火っていうの?」
男の呟きを聞いて、少女が尋ねてくる。男はうなずく。
「これ、あったかいね」
「だろう? 昔はよくしていたんだ。道路脇とかでね。枝とか葉が燃えていくのを見ているのが、好きだった。葉によって燃え方も違うから、飽きなかった。そのうち、一日中道路脇で遊べる身分じゃなくなったから、焚き火することもなくなったな」
電車の中や職場で火を焚くわけにはいかない。
「たまの休日には、それでも意味もなく葉っぱをかき集めて、火をつけたな。馬鹿みたいな趣味だと自分でも思うけど。ひょっとしたら犯罪者と思われていたかも。でも、寒くなったり、心細くなったりしたときは、どうしても火を焚きたくなる。まじないみたいなものだね」
「まじないは、私もよく、したりされたりする」
「今度、君も自分でやってみるといい」
「うん、そうする」
ふたりは隣り合って火を眺めていた。男は背負っているリュックを地面に下ろした。中には昨日出勤前にコンビニで買ったものが入っている。おにぎりがふたつ、中身はそれぞれシーチキンと昆布だ。それに、仕事道具。獣から逃げ回るときは、捨てることすら思いつかなかった。火を前にしてひと心地つくと、腹が減ってきた。食べ始めると止まらなくなり、あっという間に平らげた。
「お兄さんは、何する人?」
少女から聞かれ、男はしばし言いよどんだ。嫌で嫌で仕方のない仕事。生活のためには続けていかざるを得ない仕事。昔、どこかの段階では希望を見出していた仕事。
「髪を切る人だよ」
そう言って、少女の髪に結ばれたリボンに指をかける。少女は一瞬怯えたような表情を見せたが、リボンがほどかれるに任せた。
「たとえば、こう」
男はリュックから出した櫛で少女の髪を梳き、前には髪の房をふたつ、触角のように垂らして、あとはオールバック気味に後ろに流した。少女の顔を見た瞬間から、額を大きくあけてみたくて仕方がなかった。
「もっと長ければ後ろで一本にまとめられるんだけどな」
男が呟くと、少女はこくりとうなずいた。
「じゃあ、長くする」
髪の毛が伸びていく。男は目を丸くした。
「へえ、すごい。ここではなんでも起こるんだな。せっかくだから編んでみよう。ちょっと後ろ向いてここ座って」
男は胡坐をかいて、その足の間に少女を座らせた。櫛を動かして髪を整え、後ろでみつあみにしてリボンでまとめた。
「ほら」
手鏡を渡してやる。少女は手鏡自体触れるのが初めてのようで、好奇心もあらわにぺたぺたと触る。やがて鏡の中の姿に興味を示す。
「それは君だ」
「知ってる。獲物の目に映る姿と同じだから」
鏡の中の少女が、男の目をじっと見る。鏡の中の赤い目は、男を捉えて離さない。そこにもまた、少女自身の姿を見出そうとしているかのようだ。
「私、こういう顔もするんだね。顔って変わるんだ」
不意に男から視線を外し、自分の髪や、結わえられたリボンに手を触れる。
「顔は変わらないよ。でもひとは、髪形や服装を変えると、顔つきや性格まで変わってしまうものさ」
「なんか、楽しい。こういう楽しいこと、知らなかった」
少女は、男の胸に背中をもたれかけて、男を仰ぎ見た。満面の笑顔を浮かべる。
「ありがとう。今日はとてもいい日だわ。お兄さんに逢えた」
男は、素直に満ち足りた気分になった。つい昨日まで感じていた、胃の締めつけられる感じ、どこにも居場所がなく、逃げ場所がなく、自分のことをかけらも理解しようとしてくれない人間たちに囲まれ、罵倒され、軽く扱われ、白い目で見られ、それでも押しつけた役割だけは果たさせようと、遮二無二働かせようとする……あの行き詰った感覚が、もうどこにもなかった。そんな思いをしていたことすらもはや曖昧だった。
「明日もいい日だといいなあ」
少女の言葉に心から同意する。安心しきったせいか、男は猛烈な眠気に襲われた。心地よさに身を任せ、大きく欠伸をする。
「お兄さん、火、消していい?」
「どうして」
目尻に涙を溜め、男は尋ねた。
「灯りがあると眠れないの」
「そうか。そうだよな」
男は座ったまま足を突き出して、組んであった枝を崩した。一気に火の勢いが弱まる。燃え続ける枝を踵で踏んでいく。やがて線香花火のようにかすかな灯りを残していた最後の火も消えた。森の夜が地面にまで降りてきた。
今、自分はまったく別の世界にいると、痛切に思い知った。これが永遠に続くのか、明日にはもう終わっているのか、今はわからない。ただの夢かもしれない。目覚めたら、いつもの布団、いつもの天井、いつもの目覚まし時計のベルの音。それを止めて、ため息ともうめきともつかぬ声をあげて、定められた場所へ向かうため、体を起こす。洗面所へ向かう……日常の始まりだ……そう考えると怖気が走った。どうかこの幻想が現実であってほしいと、男は切に願った。
くぅー
闇の中、梟の鳴き声に似た音がした。
それは男の腹辺りからした。正確には、男の足の間に座っている少女の腹からした。
男は納得した。何もかもが、すとんと腑に落ちた。
これは夢でもなければ妄想でもない。
ひょっとすると幻想かもしれないが、それは男の現実に直結した幻想だ。
少女は男の胸に肩をすりよせ、上目づかいに男を見る。表情の微細な動きまでよく見えるのは、さっきまで雲隠れしていた月が顔を出したからだ。だが彼は一度も空を見上げなかった。少女の表情に魅入られていた。
彼女は、少し照れたように言った。
「お兄さん、私、お腹すいたの」
あなたの新作を待っていました
ルーミアもっと評価されないかなぁ
霊夢のタフでいて繊細な面もまた良し。
粘り気のあるちょい長めな物語も期待してます。
>布団は二枚敷いておくわ
ほんの3行だけどドキドキです。霊夢、女の子ではなく女ですね。
あなたの作品があった。
あと、霊夢と魔理沙がなんかえろい
良い作品
すごく、すごく良かったです。
死体があったのを感じてなんか元気なくなった霊夢とそれを慰めようとして結局甘える魔理沙がもうね
いい人を食べちゃったルーミアの静かな供養とが対比になってじわじわしみ込んでくる
どの登場人物も何と言ったらいいのか、とにかくすごかったです
『永遠の巫女』良いですね
いいですよ! 出典明記さえしてもらえれば、ご自由に構いません。
ただ、もしよかったら直接お話をおうかがいしたいので
[email protected]こちらの方にメールしていただけると助かります。
ツイッターでも構わないです。
>all
コメントいつもありがとうございます! とても励みになります。これマジ。
この作品、今年になってだいぶ恵まれましたねw
以前から言及していただいているかたにももちろん感謝しています。
kamSさん動画をきっかけにまた読んでくださるかたが増えれば、これに勝る悦びはありません。
ほの暗くも暖かい幻想郷の闇夜、艶があって美しいですね。
少しの間だけでも、ルーミアが暖かさを感じられたのなら、良かった。
掟の通り、幻想郷は今日も事もなし。容赦なく平穏だねぇ
東方大人味(トウホウアダルティー)
ご馳走さまでした