※
私は、博麗霊夢に恋をしている。
ただ、恋、とはあくまでこの情念を形容したものであって、実際の恋愛感情ではもう無くなっていた。けれども、決して衰えている気配は無い。
そんな、憧憬の一言で括るには余りにも足り無さ過ぎる感情の只中に、私はたゆたっている。
時に胸を優しく包み、時に切なく締め上げるそれは気紛れで、私はよく翻弄されるけれど、その想いの存在は確かに、私の心を満たし、充足させていった。
彼女の存在が脳裏に腰を据えてから、三年の月日が流れても尚、この気配は色褪せることはなく、不安定な気概を休み無く醸成している。
この感情を初めて覚えた日のことが、三年後の今でも記憶に新しいのは、そこで体験した、彼女との邂逅に熾烈な、かつ静かな情緒の揺れに、一種の初恋のようなものを見出したからだと思う。初めての恋というものは、とても印象深く心に刻まれるものである。
霊夢との邂逅は、回顧してみれば実に刹那的なものだった。
それは三年前、後に『永夜異変』と語り継がれることになる異変においてのことだった。
光陰の流れるままに、普段なら巡り回るはずの昼夜が、この時ばかりはその循環を止めた。
いつまで経っても夜は明けず、月がおぼろに地上を照らすその下で、私達は狂気に走っていた。
妖精は、自然より生まれた種だ。自然に歪みが生じれば感化されて、心の平衡が徐々に傾き始める。
その振幅を抑え込めるほど、私達はたくましく出来てはいない。故に異変となると、私達は常に存念を慌しく掻き乱しては、一つの警告として、向かってくる者に悉く攻撃を仕掛けていく。
尤も、そんな異変の日に外を出歩く者と言えば、興味本位や解決……目的は数多あれど、異変に首を突っ込もうとする物好きくらいである。
そんな一握の一人が博麗霊夢であった。
当時、私は彼女に会ったことが無かったものの、噂になら彼女について聞いていたことがあった。
幻想郷と外の世界とを隔てる『博麗大結界』の管理人、今となってはここにおけるポピュラーな決闘方式『スペルカードルール』の発案者。
言わば、幻想郷の均衡を保持する重鎮の一人と、そう彼女を称しても過言ではないだろう。
更に、妖怪退治を稼業とし、異変があれば身を乗り出して解決する。その実力がいかなるものかということは、そのことから容易に想像できた。
今回とて、決壊した気概の片隅で、かろうじて繋ぎとめられている理性には、幾ら私達が束になってかかっていっても、霊夢には勝てないだろうという思いがあった。
その時の彼女に対する私の印象と言えば、百戦錬磨の実績が占め、同時にそんな彼女と対峙しなければならない状況下でもあったから、霊夢を畏怖の対象として見做していた。
ただし、そんなものは暴走する心持ちの影響で、僅少にしか感じられなかったけど。
今宵は満月だった。
竹林に差し込む月光に、竹達は眼下に長い影を伸ばす。奥行きは暗々裏としていて、心許ない光輝が相まり神秘さを演出している。
微風に靡いた竹薮がざわめく音が、耳元で囁いていると感じてしまうほど、近くに聞こえていた。私の耳朶に届いたのは、それだけであり、辺り一帯は嵐の前の静けさとでも言うのだろうか、沈黙が支配していた。
眼前にも、後方にも、藪の中にも、妖精達は身を潜めて、来る者を待つ。
普段は騒がしい彼女達だけど、今日ばかりは何も喋らない。ただ、暗がりの奥に目を見張り、音の変化を逃すまいと聴力を研ぎ澄ましている。
母なる自然の中に在る私達には、無限を駆け巡る風を伝って情報が流れ込んでくる、それはもう暫くすると、来る者――霊夢がここに来る、ということを伝えていた。
他にも数え切れないほどの情報が伝達されたけれど、それ以外は脳内に止まらず流されていく。徐々に彼女が近付いてくると分かれば、周りの緊張は更に増大しだす。
糸を目一杯引っ張ったかのような空気が、私の体を刺激した。
攻撃、と言われて、最も一般的なのは弾幕である。
勿論、私達の攻撃手段もそれなのだが、幻想郷でも力量が弱い区分に分けられる妖精だから、中には弾幕を出せない者もいる。
その時は、せめて弾幕を放つ者のお膳立てをすることぐらいしか出来ない。つまり、なりふり構わず相手に突っ込んでいって錯乱し、ミスを誘発させるのだ。
これは捨て駒に近く、無防備で突貫するのだから、やられる確率がぐんと高くなる。だが、何もやられたとして、死ぬわけではない。
自然が存在する限り、私達は再生をすることが出来る。だから、妖精という種はある意味では、永劫の命を持った悠久の種族であるのかもしれない。
私もまた、そんな捨て駒の一人だった。
死なないにしても、私はやられるのが嫌いだった。体が消滅し、自然へと一旦還るあの瞬間が、心が空っぽになるような感覚が好きになれなかった。
消失と誕生の合間にある、自然に溶ける僅かな時間。そこに妖精としての死を見出した私は、恐れおののき、死ぬものかと、今日まで日陰者に徹し続けてきた。
馬鹿な真似はしない、異変には首を突っ込まない――だが、所詮は軟弱な妖精なのであって、結局私はこうして、自分の意志に関係無く、不気味な笑みを浮かべた死神が刻一刻と近づき、やがては喉元を掻っ切るのを、黙然として受け入れていくにしか他にない。
怖いが、その影は生まれ出た高揚によって、カーテンのように覆い隠されており、些かにしか感じられなかった。
稠密な感覚は、微細な風の変化を逃さない。徐々に強くなっているようなきらいがある。
この暗闇が、弾幕に煌々となるのも決して遠くはない、私はそう思った。皆もそれに感づいているに違いない。
竹薮がより深く手折れ、そのさざめきが騒がしくなってくる。覚悟を確固たるものにする暇も辞さなく、堰を切ったようにそれまで静謐に満ち満ちていた世界に喧騒が染み込んでいった。
闇夜に慣れた目は、漆黒の景観に人影を捉える。同時に、周りの妖精達は弾幕を射出した。急激な光量の変化に、私は思わず目を細める。
閃光に視界が奪われる最中、私は不確かであった人影を克明にその目に収めた。赤青、大小様々な弾幕が交錯していく中、機敏な動きで僅かな隙間を回避しては、懐から紅白の札を投げつけていく彼女の姿を、一瞬だが私は見た。あおられた黒髪は、白光との対照にその美を際立たせ、眼は幾百の妖精たちを目の前にしても臆する様子を見せない。装束から垣間見せる素肌は真珠のようで、まさに可憐な少女のそれだった。
百戦錬磨の妖怪退治の専門家が、こんな少女だったとは、誰が予想していただろうか。激しい流動を続けるこの空間の中で、独り時間が止まってしまったかのように、私はその場に立ち尽くしていた。霊夢が放った札が、私の胸を貫いたその時すらも、私はただ、眼前の弾幕の嵐を遠望していたのであった。
※
そういった理想と実際とのギャップに鮮烈な印象を覚えたのと同時に、熾烈にまで降り注ぐ弾幕を、焦っている素振りもなく回避する霊夢の毅然な姿に感銘を受けたのが、今の私を弄ぶ感情の引き金となったのだと思う。
結局、私は何も為せぬまま土に臥し、霊夢はその後も難無く関門を突破。日月の巡りもいつの間にか、元通りになっていた。
眼を刺す陽光に眉を顰めながら私は目を覚まし、それから気持ちの昂ぶりを覚える。それが慕情の芽生えとも知らずに、最初私は、狂気の残滓が尾を引いているのかと思っていた。
それにしても、そこには鋭利なナイフで胸元を突き立てたかのような冷徹さが無かった。生起した感情は誰かからちょっときつく抱きしめられたように、仄かに苦しくて、かつ、暖かだ。
狂気とは似たようで少し違う、今まで感じたことの無いこの思いに戸惑いながらも、私は一つ、思いの生ずる発信源を突き止めることが出来た。
胸を締め付ける際に、常に霊夢の姿が、鮮明に脳裏を過ぎるのである。鮮明なのは単純に、今し方の出来事だからなのかもしれないが、記憶力がやや悪い妖精にとって、これほど克明に情景が描画されるのは異常なほどだった。
一瞬だけ私の眼前に姿を見せた霊夢の、その一瞬が巻き戻しされては、再生されていく。その繰り返し。靡く髪が、衣服が、まさに今そこに居合わせているのと何ら変わりなく想起することが出来るのだ。
それは紛れも無く、彼女に対する羨望で、ただ羨望では言い尽くすことの出来ないほどの強い感情で――そこで私は、誰に言われたわけでもないのに、これは恋だと、不意に自覚するようになった。
人間が、妖怪が、或いは妖精が、複雑な情操を持っている以上、他者への感情を何かしら持つということは必然的なのかもしれない。
精神的な繋がり、または、肉体的な繋がりを特定の相手に希求するようになるそれは、生命の螺旋と通ずるところがあり、生殖を要しない妖精からしてみれば、さして重要でない感情だ。
そもそも私達は、同胞と共に談笑しては気ままに過ごす日常で満ち足りているので、そのような恋愛関係による潤いは蛇足というものだ。
にも関わらず、私がこうした恋心を抱くようになったのは、やられたことに起因するのだろう。一度空っぽになった心に、この感情が間髪入れずに注ぎ込まれたに違いない。
容器に波打つ液体からこぼれ落ちた一滴のように、私はか細く霊夢の名前を呟く。ちゃぷんと水面が揺れて、胸をきゅっと締め上げた。
苦しい筈なのに、そこにはどうしてだろうか、そっと胸に手を当てて微笑んでいた私がいる。
この時の私は、比喩ではなく純粋なものとして、博麗霊夢に恋愛感情を抱いていた。
種族とか、背丈の違いとか、そんなもの恋愛の前では関係ない、というのは私の主観であり、霊夢からしてみれば大問題だろう。
大体、まず霊夢にとって私は、幻想郷にごまんといる妖精の一人、殊更歯牙にかける必要も無い空気のような存在で、さすれば彼女に私のことを知ってもらうというのが最優先。
こういったものは、ただ感情の赴くままでなく、冷静な判断による駆け引きも重要なのだと、初心な癖にいい気になった私は、早速彼女のいる博麗神社へと向かった。
そうして意気揚々と行ったはいいものの、いざ博麗神社の前に近づいてくるとなると、霊夢のことが否応なしに意識されて、胸が切なくなる。付随して、後ろめたさを小感した。
残念なことに、その躊躇すらも跳ね除けられるほどの度胸は持ち合わせておらず、結局私は、当初の予定を変更して、空から神社を俯瞰することにした。
その際の自責の念は甚だしいものであった。霊夢に対する想いの度合いを自分自身で疑ったりもした。が、やがてはこうして様子見をすることもまた一つの方法だという考え方に定着する。
私だって、霊夢については、先刻初めて逢ったばかりだったし、それを考慮すれば、自分も逆に霊夢のことを知る必要があるのだ。
博麗神社は幻想郷の東端、山の中、獣道を抜けた先にある。そうした森閑な場所にあることと、それと獣道に妖怪が巣食っていることも相まって、神社はどことなく参拝客のいない、うら寂れているような印象を受ける。
鳥居の紅色も剥落している箇所が多々あるし、神社自体も、改修であるとか、そういったものにご無沙汰なような気もする。
縁側に目を見張れば、誰かが腰掛けているようだった。恐らく霊夢なのだろうが、ここからじゃあ屋根が邪魔して確認することが出来ない。
だからと言って、後方に下がってしまっては、障害物も何も無い空の上だ、彼女に感づかれてしまうかもしれない。私は近場の茂みに隠れて、改めて神社の様子を窺うことにした。
そっと茂みの中に隠れて、私は再び縁側を見やった。遠くではあるが、霊夢が見える。お茶を啜っているようだ。
早鐘のように脈打つ私の心臓は、彼女を視認したことで最高潮を迎える。凝視なんか出来るわけがなく、私は何度も視線を霊夢から逸らした。
だが、そう恥らいながらも、やはり視線は霊夢の元に帰着する。触れてもいないのに、ただ彼女の姿を遠目から見ているだけなのに、胸は切なく私を締め上げる。
今すぐ彼女の元へ向かいたいと、その激情は私にそんな衝動を植えつける。しかし、それと恥じらいとが拮抗して、余計に私は苦しくなった。
ここを離れさえすれば、霊夢から視線を背ければ、この苦痛から解放されることは分かっている。けれど私は、痛みを背負っても尚、彼女を見ていたかった。それ位に、私は霊夢のことを愛しいと思っていた。
私の思考は、霊夢を見ること一つに思考を奪われ、一切の回転をせずに流浪していた。何も考えていないせいだろうか、時間の移ろいがすぐ傍で感じられる。
一秒一秒が、とても緩慢なものとして、私の横を通過していく。このまま更に遅くなっていって、やがては止まってしまうのではないかという錯覚すら、私は覚えた。
だが、霊夢に身体髪膚を奪われた私の頭は、そんな懸念には行き届かず、その場から石のように動くことはなかった。
暗闇の如く、他の顕現を許さない私の心に一筋の光明が差し込んだのは、それから暫時のことであった。
それまで不変を貫徹していた眼前の風景に、ふと切れ込みが入った。それも、霊夢のすぐ傍でだ。
線は線であり続けるだけに飽き足らず、景観をこじ開けるように二本へと裂けていく。その裂け目の先が、毒々しい紫色をしており、かつ、おびただしい量の眼が、虚を捉えているのを、私は遠方ながらしかと確認した。
私はそれを見て、背筋に悪寒を走らせる。一方で、その気味悪い空間の正に隣にいるにもかかわらず、霊夢は平然として、湯飲みに唇を付けては息を吐いていた。まるで、それの正体を既に知っているかのように。
突如として現れた紫苑の空間を仕切りにして、私は霊夢と隔てられたような心持ちがした。二人の間にそびえ立つそれを、疎ましくも思った。
そう感じてはいても、私にとって異端とされるこの現象を、霊夢のように茶飯事としない以上、彼女に近づくことは出来ないから、今にも逃げてしまいたい気持ちを抑えて、私は切れ目を注視し続けた。
すると、そこからぬっと、金色の長髪をした女性が顔を出したではないか。
背後の紫が醸成しているゆえんか、姿を見せた女性は、とても艶かしく、殊に妖しげであった。大人の女性――咄嗟にそんな言葉が浮かぶ。
裂け目から出るときも、そして霊夢の横に座るときでも、彼女の動作にはしたたかさがあった。それは、子供には無い、心身共に成熟した大人の女性特有の色香が誘発しているものだ。
こうして、その女性は霊夢の否応言わせず、彼女の隣に腰掛けたわけだが、当の霊夢は嫌そうにするどころか、まんざらでもない様子で、女性と話をし始めた。
それまで泰然としていた霊夢の表情に色がつく。女性との談笑に微笑んで、口を尖らせて、呆れて――自分の知らない平生の霊夢が、そこにはいた。けれど、それらは私に向けられたものではなく、目の前の女性に向けられたものだ。その疑いようのない事実は、私に嫉妬心を植え付ける。
今、彼女がいる位置は、私が欲しくてやまない位置で、彼女の目の前にいる博麗霊夢という少女は、私が愛してやまない少女で……私が欲しいもの、好きなものを、あの女性は独り占めしている。言わば、私の恋路を阻む障害。
悔しさは彼女への憎悪と変わり、くつくつと私の心に狂気が煮沸しだす。それは非常に、苦痛を伴うものだった。暴れ回るどす黒い情念は、外への解放を熱望して、私の理性を破壊せんと容赦なく叩きつける。そこに思慕のような暖かさは、優しさは存在しない。
その痛みが嫌なのであれば、狂気を解放してやればいいだけの話だ。狂気は一種の興奮剤である。痛覚も感情も麻痺され、楽になれる。
痛い、鎮まって――そう腹中で哀願しても殴打の手を緩めない暴君に、私の意志は屈しそうになる。屈しそうになった、だけだった。好きな人の前で、そんな暴挙に出るわけにはいかない、そんな霊夢への恋情の庇護を受けた感情がせき止めたというのもあるが、何よりも、目の前の光景を壊したくない、という思いが、一番の抑止力となってくれた。
支配を知らずして、牢の中に捕らえられた猛獣のように、暴れまわる怨恨に顔を歪ませながら、私は霊夢を見る。彼女は、幸せそうな表情を浮かべていた。私からしてみれば、この一時は嫉妬に満ち溢れたものであるが、霊夢にとっては幸福の一時なのだ。
霊夢は今、幸せなんだと、その至福を、私の利己心で打ち壊しちゃいけないんだと、私は何度も自分に言い聞かせた。彼女の幸せの為なら、この猛獣だって飼い慣らしてみせる。
欲を言えば、こうして霊夢の幸せを願い、苦しみに必死に耐え続けている自分のことに、気付いて貰いたかった。けれど、彼女の瞳には紫の女性しか映らない。そしてまさしく、女性は霊夢を幸せに出来る存在だということが、私を敗北感に打ちひしがせた。
私は妖精である。力も美貌も持たない、ただの妖精である。故に私の存在を個別に霊夢が知っている由も無いし、目にかける筈も無い――この恋慕とは裏腹に突きつけられた現実に、私はこのとき、初めて気付いたのであった。
※
霊夢と仲睦まじく会話をしていた女性が、『妖怪の賢者』として名高い、八雲紫という妖怪であったことに気付いたのは、博麗神社を後にして暫くのことだった。
あの場で気付けなかったのは、霊夢と誰かが昵懇の関係にある、ということだけが一人歩きして、それが一体誰であるかということまでに頭が回らなかったからだろう。感情の昂ぶりも冷め、考えてみれば、あの空間は紫が持つ能力によって生み出された『スキマ』じゃないかと思い出し、それに付随するようにして、私は彼女の名前を思い出した。
だとしたら、彼女が霊夢の元に来たというのは、必然であったのかもしれない。というのも、紫は『幻と実体の境界』を管理している。これもまた、『博麗大結界』同様に、幻想郷と外の世界とを隔てる結界であり、これら二重結界によって、幻想郷は区別されているのである。
所謂、霊夢と紫は、幻想郷を幻想郷たらしめる双璧であり、互いに関係を持たず生きるというのは不可避な話だ。だから、さっき紫が来たのだって、境界が緩んできているとか、そんな事務的な話をしにきたのであって、単に雑談したかったなどという、霊夢への好意をちらつかせるような目的は無かったのかもしれない。私の思い過ごしだったんじゃないか――もし、本当にそうだとしても、あの一幕において、霊夢は楽しそうにしていた、ということだけは決して揺るがない。それどころか、あの女性が八雲紫であるからこそ、私は余計な懸念に頭を悩ますこととなった。
あんな、仲の良い間柄を見せ付けられた後だ。否が応でもついつい私は、霊夢は紫のような女性が好みなのかなと思っては、紫と自分とを比較してしまう。
紫は自分には持ってない、女の武器となりうる魅力を数多く備えている。例えば、背丈は言わずもがな、力量なんて、幻想郷でも指折りの実力を持つ彼女になんか及ばない。
あの慎ましい、女性の品格を思わせるような物腰も、何かとじっとしていられない私には無理だ。とにかく、列挙すればするほど、私は劣等感に苛まれる。ただ一つ、金色の髪が紫と同じってことはあったけれど。
いずれにせよ、所詮私はひ弱な妖精であって、紫とは酷くかけ離れている存在で、それは何だか、彼女が座っていたあの場所に、自分はいつまで経っても逢着する事が出来ない、ということを示唆しているような気がした。
やはり、自分にとって霊夢の存在は、大き過ぎたのであろうか。そもそも、恋心を抱いてはいけなかったのだろうか。すっかり後ろ向きになった私に、諦念がにじり寄る。
愛があれば種族の違いとか、圧倒的な身長の差異とか、何だって乗り越えられると、そう思ってはいたけれど、ドリーマーから一転、リアリストと成り果てた私に、それらは決して乗り越えることの出来ない強固な壁として見えた。
だからと言って、このまま恋路を諦めてもいいのだろうか? 考えてみれば、私は自らの恋路を、まだ一歩も踏み進めていない。それだというのに、もう無理だと高を括る権利が私のどこにあるのだろうか? たかが一度、霊夢が他の女性とくっついているのを見て萎縮してしまうほど、彼女への想いは生温いものだったのか?
答えは全部、決まっていた。決まっているからこそ、私はそれらを確認するようにして、自分に言い聞かせた。断固に首を横に振れば、勇気も少しは湧いてくれたような気もした。
種族は、身長差は、私と霊夢の間にある幾多の障害は、未だ天高くそびえ立って私のことを鳥瞰している。隔てりを自覚してもなお、恋の道を突き進もうとする私を嘲笑っているようにも見える。が、そんなものに膝を折るほど、私の想いは軟弱ではない。
想う“だけ”じゃ、後できっと後悔する。この道に、どんな結果が待ち受けていたとしても、私は私の気持ちに正直になって、悔いの無いように進みたい――それが、私の答えだった。
現実を知り、佇む壁の存在を如実に感じ取れたことで、私は霊夢へのはち切れんばかりの激愛を再確認することが出来た。同時に、逼迫する妥協の念を超克したことで、一つ強くなったような気がする。お陰で、私は物事に対して、露が映し出す風景のような明瞭な視線でもって臨むことが出来るようになっていた。
どんな結果が待ち受けていたとしても――と意気込んでも、やっぱり結末は一番良いのがベストだと思うのは性なのかもしれない。けれど、その結果に至る過程を考えてみれば、ただ思慕を募らせるだけじゃたった一歩にもなりはしない。ある程度の交流が何よりも必要になる。例えば、一定の期間内には会うとか、会話を交わすとか、何かプレゼントをあげるとか……そうは言っても、先程の通り、日陰者に徹してきたせいですっかり消極的になってしまった私だ。いきなり霊夢に接近しようなど、冗談抜きで気絶しかねないかもしれない。
大体、霊夢は私のことについて何一つ知らないというのに、そのように親密な関係になろうとすること自体、早計過ぎる。土台が十分でない上に、建築物を創造するようなものだ。はやる気持ちは分かるけれど、ここは順を追って着実に霊夢に近付いていくべき――すっかり私は、自分の世界に陶酔してしまっていた。
まず、第一に、霊夢に私のことを知ってもらう必要がある。ということは既に確認済みのことだ。私の方から近付いて話しかける、という方法が一番効果的だと思うけど、私が内気であるという以前に、妖精であるということを考慮すれば、ただ話しかけただけでは相手にされないのが関の山だ。
自然が至るところ隅々に行き渡っているように、幻想郷のありとあらゆるところにいる妖精の数は、星の数ほど存在する。しかも、大半は外見が似ているので、妖怪や人間といった異種から見れば、個別に誰が誰だか分からないときたものだ。そんな妖精の中で周知されている奴と言ったら、専ら霧の湖に住む氷の妖精・チルノだろう。
他の妖精には見受けられない、冷気を操ることが出来る能力と、氷のように煌く羽根。何よりも彼女の力は、妖精の中でもずば抜けて高い。先の『紅霧異変』では霊夢と対峙し、敗れはしたが健闘したとも聞く。その後も彼女は、妖精という枠を越えて、妖怪や人間達と交友を深めているのだとか。
つまるところ、他の妖精達を出し抜く為には『力』が必要とされるのである。無力は言わば、妖精を妖精に止まらせる殻のようなもので、それを力によってこじ開けてこそ、私達は外でも際立つ存在として輝くのだ。
私はこのことにより、霊夢に力を示して彼女の気を惹くために、自らを鍛練しようと画策した。
チルノと私は種族が同じ妖精ではあるけれど、その力量差は凄まじくかけ離れている。そして、そのチルノですら、霊夢に善戦することしか出来ないとなれば、私と霊夢にどれ程の力の差があるのかは想像に難くない。日々懸命に特訓に取り組まなければ、彼女に一泡吹かせるまでには至らないだろう。
訓練は、仲間達と弾幕ごっこをすることで、弾幕の出し方と避け方を学ぶことにする。妖精達は暇を持て余しているから、弾幕ごっこに快く応じてくれるに違いない。
これまで霧の中に隠れていた、自分の進むべき道筋が、はっきりと見えてくるのが分かる。それは生半可な覚悟じゃ通り抜けられない、茨の道だった。
それを目の前にして、臆していない、と言えば嘘になる。今まで平和を愛し続けていた私が、弾幕に身を流される日々に躯体を投じるのだ。それは足の踏み所も分からない、暗澹の世界に飛び込むようなもので、その最中で私は耐え抜くことが出来るのか、不安で不安で仕方が無い。
でも、そうやって最初の一歩を躊躇い続けては駄目だ。開拓者の目の前には常に一寸先の闇が待ち構えている、彼らはそれでも恐怖に足を止めることなく、その先の希望を信じて突き進んでいる。私だって、怖がるわけにはいかない、自分が後に、後悔しないような結果を――私は、私の決意をもう一度反芻して、自分の住処へと戻っていく。
帰りがてらに、空を見上げる。雲一つ無い清澄な青空にぽつりと、太陽がぎらぎらと輝いている。眩しすぎて直視できないそれは、暖かみを私の体へと降り注ぐ。手を広げれば掌中に収まってしまうのに、いざ掴んでみると私の指と指の間をすり抜けてしまう。それはまるで、霊夢のようだった。幻想郷という決して広くは無い世界に住んでいる私達だけど、その距離は未だ遥か遠い。太陽のように、掴んだと思っても掴みきれていない、そんな煩わしい距離が私と霊夢には内在している。
今は、その輝きに届かないけれど、いつかきっと、追いついてみせる――私は大きな誓いを小さな胸に抱いて、もう一度、天上の太陽を力強く握ったのであった。
※
そして、それから三年の月日が流れた今、私はここ――妖怪の山・九天の滝にいる。
季節は巡りに巡り、秋。木々は色づき、真っ赤に染まった紅葉が、透き通った川に軟着陸して流れていく。一帯には鮮やかな様相が映え、その鮮明さと散る落葉の哀愁が、えも言わぬ感傷を生み出していた。
が、そんな山の彩りを楽しむために私はここに来たのではない。また『異変』が、それもここを舞台にして、始まろうとしていたからだ。尤も、三年前に参加した『永夜異変』に比べれば個人的な話ではあるのだが。
端的に言えば、博麗神社が乗っ取られてしまう、ということらしい。何でも、近頃この妖怪の山の頂上に神社が現れたのだとか。それは『守矢神社』と呼ばれるもので、外の世界において十分な信仰を得ることが出来なくなったために、幻想郷にやって来たようだった。けれど、幻想郷には既に博麗神社がある。そこで、守矢神社の巫女・東風谷早苗は、幻想郷の人間の信仰を頂くために、博麗神社の機能停止を霊夢に言いつけたのである。
勿論、霊夢がそんな頼みごとを聞き入れるわけもなく、神社の未来を守るために単身、彼女は守矢神社へ向かうことへなった、ということだ。今までみたいに霧が辺りを覆ったり、なかなか冬が終わらなかったりするような、そういった自然に何らかの影響を及ぼすような異変ではないにしても、今回も妖精たちは盛っていた。
こうなったのは多分、山の中が警戒態勢にあるからなのだろう。守矢に祀られた神様・八坂神奈子に、妖怪たちは反発しているから、そんな彼らのささくれ立った雰囲気に感化されてしまったのだと思う。雰囲気は空気にも及び、そしてそれは自然に浸透して妖精に行き渡らせる。彼女達が凶暴化してしまうのは、普段の異変と、何ら変わりは無かった。
霊夢はたった今、妖怪の山へ入ったようだ。自然がそう教えている。自然は相変わらず、様々な情報を私達に伝え続けていた。
それをやはり相変わらず、必要なものだけ掻い摘み、それ以外は右から左へ流してやる私の心境は、とてもクリアだ。
もう、狂乱の潮流には流されたりしない、この動乱の最中でも、私は自分の意思でここに存在している。それは私の、この三年間での成長の証。
変わったのは精神力だけじゃない。星屑のように細かな弾幕を放てるようになったし、背中にちょこんと生えた稚い羽根は、天使のように広がった。三年前は腰ぐらいまで伸びていた髪の毛も、修行の中で邪魔だからと首元まで切ってある。
私は、この期間の中で成し得る最大限の努力をしたつもりだ。そして、今までそうやって汗水を流して弾幕の日々に耐え続けたことに後悔は無い。全ては、霊夢に自分の存在を気付いてもらえるようにするため――今までずっと堪えに堪えて、貫いてきた信念は、今ここで、集大成を迎えるのである。
三年間、という月日は、悠久を生きる妖精にしてみれば、僅かな時間ではあるけれども、その僅かな時間の中で、私はこのように心身共に成長した。見違えるほどだろう、何せ弾幕が扱えるようになったのだ。しかも、星屑状の弾幕を一挙に生成することが出来るなど、実力者のステータスといっても過言ではない――妖精の枠組みの、中での話だけど。
幻想郷に視野を及ばせてみれば、そんなもの特筆にも値されない。まだまだ私は、霊夢を苦戦させるほどの力を所持していなかった。
以前まで、異変に参加してしまえば最後だと、私は自分に言い聞かせていた。もし、やられてしまえば、心は一度空になる、つまり、この波打つ想いは一息に流れ出てしまうからだ。
故に、霊夢を苦戦させることが出来て、かつ、やられないようにすることが出来るほどの力量が付くまでは、異変などには顔を出さないようにしようと、だから、今回のこの異変だって参戦を見合わせようと、私は心に決めていた。なのに、私は今、異変の只中にいる。
今、霊夢と戦ったところで、歯が立たないというのは了解している。分かっていて、私は戦う腹づもりでここにいる。そこに至らせたのは、皮肉にも妖精という種族の限界――私がずっと思い悩んでいた障害によるものだった。
鍛練に臨んでいる間、私は力を求め続けた。その先に、妖精という種族のちっぽけな力の器を見てしまったのだ。それはとてもとても小さくて、霊夢と戦うには心許ない大きさだった。
最初にそれに気づいたとき、私は嘘だと驚愕した。これが自分の行使できる力の窮みだとは俄かに信じることが出来なかった。けれど、何度も訓練を重ねていって、手に入れた力が、器から溢れ出して、私の体から出て行くのを感じて、是非問わず、私は妖精の力の限界を認めざるをえなくなったのだ。これが、私が行き着いた結末である。結局私は、茨の道の先を見ることなく、頓挫してしまったというわけだ。
最善は尽くしたのだから、後悔は無い――そうして易々と全てを畳んでしまうほど、私の霊夢への想いは廃れてはいない。決して色褪せることの出来ない感情は、絶望に染まった私の心を、もう一度奮い立たせてくれた。そうだ、こんな結末に甘んじているわけにはいかないのだ。
故に、最後の悪あがきとして、私は今ここにいる。
想う“だけ”じゃ、後できっと後悔する。この道に、どんな結果が待ち受けていたとしても、私は私の気持ちに正直になって、悔いの無いように進みたい――私の意志に呼応して、あの日の決意が思い起こされる。
たとえ叶わぬ恋だと分かっていても、せめて一瞬だけ、彼女と繋がっていたい。小さな妖精の、そんなたった一つのささやかな願いに、私は全てを賭す。
これが、私が今まで紡いできた想いの集大成。そして私は玉砕し、今日が悲哀にも記念すべき、初恋が終わる日となるのである!
※
背後で雄々しく流れ落ちる九天滝の音だけが、私の耳元に届く。それは、この場の異様な静けさを意味していた。
そう言えば、前にも似たような状況にあったことがある。さざめきの音が辺りを支配する、嵐の前の静けさに。
一つの音の変化も逃すまいと、血気盛んに霊夢の到着を待つ妖精達は、三年前の私を見ているような心地もする。
森閑とした山中は、時間が流れていることを感じさせないくらいにひっそりとしているけれど、今この瞬間にも、確かに時は刻まれ、次第に霊夢はこちらへ近付いているのだ。
風が、そう教えている。高められ一つに集約された精神は、それの微細な変化を逃しはしない。風の流れが荒立ち始めたのは、静寂が崩れ始めた兆候だ。
この風に想いを乗せて、霊夢に届けることが出来たら、こんな種族の限界に立ち会い、挫折することも無かったのだろうか――などと、来るべき一度のチャンスを前にして、私は物思いに耽っている。
いつもは私達に味方してくれる自然だけど、恋沙汰になれば知らん振りだし。仲間達は「私だって霊夢のことは好きだよ?」って言って、相手にしてくれないし。確かに、霊夢は何故だか妖怪に好かれやすいけれど、そんな仄かな好意じゃなくて、私のは好意を超えた愛情なんだ。でも、幾らそれを言っても、やっぱり誰も信じてはくれなかった。
帰着するところ、沢山の仲間達の協力によって、私の力は積み重なってきたけど、想いというのは、孤立無援に紡いできた。ということになるか。
相手が霊夢だったのが悪かったかなあ、などと、独りごちる。霊夢への恋の道が閉ざされてしまったからこそ、言える台詞だった。
どんなに大きな愛情を抱えていたとしても、私はちっぽけで、内気な妖精で、天狗とか人間みたいに、規律とかそういったものに束縛はされないけど、実際弱々しいせいでやれることが余り無くて……それだったら、せめて妖精以外の生命に産まれたかった、という気分にもなる。けれど、種族の選択なんて私は出来ない。ただ、運命とかそういった目には見えない大きなうねりによって身を任せることしか出来ないのだ。
運命は、私に妖精であり続けることを要求した。それはつまり、無邪気に遊びまわって、悪戯を仕掛けて、異変の際にはこうして渦中に身を投じるようなことだ。だから運命は、私達の力を小さいものにしたし、思考も複雑なものが出来ないように仕組んだのではないだろうか。妖精が恋を、しかも種族の枠を越えて恋心を抱くなど禁忌。私は、その運命によって恋路を阻まれてしまったのではないか、とも思う。力の限界は、所謂運命の一種の具現で、これ以上先へ進んではいけないのだと、そう警告していたのではないだろうか。
いずれにしても、私はもう、この道を進むことは叶わないのだ。誰が私の路を阻んだとか、そんな不毛な追及は最早どうでもいい。今は、自分が持っている精一杯の愛情でもって、霊夢とぶつかっていくしかない。
風が、泣き始めた。妖精たちも急に騒がしくなったような気がする。そろそろだろうかと、私は眼下を見据えた。
九天滝より勢い良く流れ落ちた水が、緩やかな川になっている。その光景が、豆粒のように小さく私の目に映る。それと、何かが、こちらに向かっているのがハッキリと見えた。
それは段々と大きくなっていって、逃げも隠れもせず堂々と、私達の前に姿を現した。黒髪に結わえた大きなリボンと、風を裂いては揺らめく紅白の装束。そして、私達を萎縮させかねない、強い意志の灯った漆黒の眼――あの姿を、私ははたと忘れることは無かった。
霊夢。
そう私は、心の中で彼女の名前を呼んだ。言の葉は水となって、乾ききった大地に潤いをもたらす。それまで心の奥底で鳴りを潜めていた霊夢への慕情が、どっと全身を駆け巡った。抱き締められたように苦しくて、でも仄かに暖かい久方ぶりの感触に、私は眉を顰める。霊夢に想いを伝えることが出来る、たった一度のチャンス。そう思うと、焦慮の念に駆られてしまう。私は大きく深呼吸をして不安な気持ちを何とか堪えて、もう一度霊夢のことを見た。既に前の方で待機していた妖精達が戦闘を始めている。大きな青色をした弾を放つも、やはり相手は戦い慣れしている霊夢だ。弾と弾の狭い隙間を掻い潜っては、手に持った札を正確に妖精達に当てていく。次々と散っていく妖精達と同じくらいに、彼女の目の前に対峙する妖精の群れに、霊夢は全く臆する様子を見せない。
同胞がやられているというのに、私は霊夢の姿を美しいと思った。愛しいとも思った。彼女を好きになって、良かったと、心の底から感じた。同時に、三年前、私と霊夢を巡り会わせてくれた、意地悪な運命に感謝をしてやった。後は、自分自身を信じてやるだけだ。
私は、全身にぐっと力を込めた。溢れんばかりの弾幕を吐き出す準備はもう出来ている。霊夢は間もなく、こちらに向かってくる。心の準備なんか、もうやっていられなかった。
☆
目の前の妖精が、他の妖精とは一線を画した、星屑状の細やかな弾幕を吐き出した瞬間、博麗霊夢は刹那に身じろぎをした。
赤紫と青紫の入り混じった弾幕は、妖精を中心にしてランダムな軌道を描きながら拡散していく。規則性が無い分、かわすのが少し難しいそれに、彼女は少しばかり腕が鳴った。やっと、歯ごたえのあるような妖精が来たわね――ちょっとばかり緩んでいた集中を高めて、早速霊夢は札を妖精に当てにかかった。
沢山の弾幕に覆われて、相手を見ることは出来ないけれど、発信源を狙えばいいことなのだから、札を当てるのが苦にはならない。
そんなことよりも、霊夢は一刻も早く守矢神社に向かいたい気持ちで一杯だった。いきなり現れるや否や、神社の活動を停止しろなどと、理不尽にも程がある。そもそも、こちらには結界を管理する、幻想郷において無くてはならない役割があるというのに、それすらも停止させろ、とは、それはありえない話である。
とにかく、急ぎの用を抱えている霊夢にとっては、こんな所で足止めを食っているわけにもいかなかった。
それにしても、なかなか倒れないわね、この妖精――と、霊夢は一向にやられる気配の無い妖精を見て不思議に思っていた。
確実に札は当たっているのだが、それでも相手の弾幕は止まることを知らない。ここまで食い下がれてしまっては、次第に煩わしい気持ちに拍車がかかってくる。
別に、この妖精の弾幕は格段に避けるのが難しいわけではない。この妖精は、狙って撃っている、というよりは、ただがむしゃらに撃っているようで、どちらかと言えば弾の方が、霊夢のことを避けてくれていた。
さすれば、こんな時間に長々と付き合っている必要も無いと、霊夢は霊撃を発動して、一気に勝負を決めにかかる。霊撃は思いの外霊力を消費するから、出来る限り使用は避けたかったのだが、この際出すのを躊躇う必要は無い。
霊撃の発動と同時に解き放たれた霊気が、数多の弾幕を一息に掻き消す。最早霊夢と妖精に隔てるものは何も無い。霊夢は一気に妖精に接近して、霊撃を浴びせた。
その際、彼女は今の今まで弾幕戦を繰り広げていた眼前の妖精と、目があった。ショートカットの金髪に、雄々しくもある純白の翼、そして、自分を捉えた瞳は、とても澄み切っている。とても凶暴化しているとは思えないほどだった。清澄なそれは、或いは何かを訴えかけているようにも見えた。しかし、それが何かも分からないままで、妖精は脆弱にも、霊撃の範囲内に入った瞬間に、消え去ってしまったのであった。
妖精が消えても尚、また新たな妖精が霊夢に攻撃を仕掛けてくる。休んでいる暇は無いと、彼女は改めて臨戦態勢を構えるけれど、頭の片隅では、先程の妖精と目が合った際の、ほんのごく僅かな空気の変化が妙に突っかかっていた。
あの瞬間、空気が変わったような気がした。
緊張した空気は弛緩して、どこか胸を締め付けるような、そんな空気の変化を、霊夢は先程の一瞬に感じていた。だが、今となっては、その空気の残滓すら存在しない。平生と同じ、張り詰めた息苦しい雰囲気があるだけである。塵芥のような変化に、霊夢はいつまでも頓着はしない。この妖怪の山を支配している天狗の一端が、侵入者を追放せんと霊夢の前に姿を見せたとき、その変化など、時間の移ろうままに忘却の彼方へと、置いてけぼりにされていたのであった。
※
私はまず、滝の轟々と流れ落ちる音を聞いた。
次に、川の緩慢としたせせらぎを聞いて、最後に自分の瞼が開く音を微かに聞き取る。見開いた目に一番に刺さったのは、眩むほどに輝く太陽の光だった。
手で光を覆うようにしながらそれを見上げ、それから私は、背中に走る冷たい感触に悲鳴を上げた。
驚いて飛び上がると、衣服が何だか重く、肌に張り付いているような気がする。どうやら、川の真ん中で倒れていたようだ。
辺りが心なしか橙色に染まっているあたり、時間の経過を思わせる。同時に、自分はやられたんだ、という思いが漠然なイメージとして湧き上がってくる。試しに、霊夢の名前を呼んでみて、何も感情の浮かんでくるものがないと分かると、それは現実味を帯びて私の元に降りてきた。
霊夢に倒された私の心は、本当に空っぽだった。今まで波打つほどに私の心を満たしていた霊夢への想いは、もう滴一つも存在しない。私は、霊夢のことを好きだったのだろうか、などという錯覚を思わせるほどに、がらんどうとしていた。
心はもう、私のことを苦しめない、優しく抱き締めたりもしてくれない、淡白なものになって、それに充足され、弄されていた私の存在は、過去の産物として追いやられていた。
あの時、私には愛を叫ぶ暇など無く、霊夢の攻撃を受けるだけで精一杯だった。彼女が、私の弾幕を打ち消して接近した時も、私に出来たことと言えば、想うだけであった。
結局、最後の最後まで”想う”だけだったんだな――私は、自らの不甲斐なさに苦笑する。今の私にとってはどうでもいいことだった。でも、それじゃあ前の私が許してくれないだろうから、想いはしっかり、霊夢に伝わっていたと願っておくことにする。それが彼女にとって、一番の報われた終わり方だろう。嘗て霊夢を好きだったあの内気な妖精は、他でもなく私なのだから、せめて自分自身が幸せであって欲しいと祈る。
私は、空に浮かぶ太陽を見た。掌に収まるほど小さくて、でも掴むことの出来ない暖かな光。
でも実際は、太陽はとてつもなく大きくて、如何なるものでも比べ物にならないくらい熱くて、私の両手じゃとても掴むことの出来ないもの。私にとっての霊夢はまさしくそれだろう、決して追いつかないくらいに遠いところにいて、私なんかが近づけるような存在ではないのだ。
妖精は自由なんて言うけれど、このちっぽけな体でやれることなんてたかが知れている。そんな中で、人間に恋心を抱くなんて背伸びするような真似をやめて、妖精は妖精らしく、悪戯や他愛もない仲間との遊びに興じるのが一番幸せなのだろう。仮に恋愛の先に、何物にも代えられない幸福が待ち受けていようとも。
兎にも角にも、私の初恋はこれで終わりである。なんだか気分が沈みがちだから、景気づけに誰かに悪戯でも仕掛けようかなとか企てながら、私は妖怪の山を後にし、軽やかに飛び立ったのであった。
何の変哲もない「たかが妖精」と呼ばれる存在の儚い恋、壮絶でした。
そんな妖精なら、これくらい知的でも良いよね。
しかし、努力をしなければそのミリセカンドの時間すら得られなかっただろう。
あの妖精にはてこずったから、というのもあるのかもしれない
事実、地の文章のみで台詞が一切無かったんでやっぱりかーと思いながら
読んでたんだけど、とにかく全体的に読みにくい。
文字が敷き詰められてて気が滅入るのは元より、無理して難しい表現を
使ったりして読者に読ませるというより自分の書きたいものを書いてると
いった印象が非常に強い。
つかぶっちゃけ記憶力が弱いと自認している「名無し妖精」の一人称で
流石にこれは無理がある。
ある程度頭の良いキャラでないとここまで自分を客観視できない。
軽い文体が主流の今、最後まで硬質の文体で書ききった心意気には拍手を
送りたいが、作品としてみると読んでて疲れたという感想しか浮かばなかった。
多少堅めの文体でなければこの初恋の切なさは半減してしまうと私は思います。
堅い文体ではありますが表現そのものにそこまで難しいものはなかったと思いますし。むしろ、初恋に悩む妖精の心がすごく伝わってきたおかげで話にも引き込まれ、読み難さもあまり感じずに一気に読みきれました。読み終わった後の疲れも、むしろ心地よいと感じましたよ。まぁそこは個人差があると思いますが。
と、ここまではベタ褒めしましたが、やはり若干の読み難さは否めません。改行を工夫して入れてほしかったですかね。
いやあ、それにしても切ないですね……。
やるせなさが半端ない……この気持ちをどうしてくれるw
主人公が名無し妖精、という時点でもう悲恋ものだろうなと思ってましたが、やはりこんな結末。
切なすぎる。