香霖堂に入ると長雨で湿った空気と、古物特有の饐えた臭いが妖夢を包んだ。この店には何度も足を運んでいるが、妖夢はこの雑多に物が置かれた空間が気に入っていた。この季節特有の長雨に打たれた体をほっと休める。
「おや、しばらくぶりだね。いらっしゃい」
店の商品に水滴がかからないように合羽を脱ぐと、店主の森近霖之助が姿を見せた。合羽を畳んで軽く会釈する。
「お久しぶりです。――また、仕事があれば回してもらおうかと思いまして」
香霖堂の店としての売り物は二種類ある。一つは香霖が拾ってきたガラクタ古物屋。もう一つが妖怪や人間に仕事を斡旋する口入れ屋だ。
斡旋する仕事の内容は様々で、荷台押しや、茶屋の店員から要人の護衛、人探し、妖怪退治と多岐にわたる。
普通の口入れ屋なら里にもあるのだが、香霖の場合、主に妖怪や一癖も二癖もある人間相手に仕事を斡旋している。これは香霖が八雲紫や博麗霊夢といった特殊な立場にある人間や妖怪に対して非常に広い人脈を持っている事と、里から離れ一人で店を開いている怪しい人物という事からである。
本人からすれば、本業の古物屋だけではやっていけない苦肉の策だと言う。
「ああ、仕事ね。そうだね、ちょっと待ってくれ。また食費稼ぎかい?」
「ええ――まぁ……」
言葉を濁す。そもそも、妖夢が口入れ屋に仕事を回してもらうような、その日暮らしの真似事を始めたのも、すべて主人である西行寺幽々子のせいである。
妖夢でも現金がなければどうしようもない、そういうことである。今朝も米櫃の中身が四割ほどになっているのを見て、慌てて財布を確認すれば心もとない金額しかなかった。
そんなわけで、梅雨の長雨の中、合羽を被ってやってきたのであった。
「今あるのは……うーん、これか。ある意味では君向きかもしれないが……」
言葉を濁す霖之助。普段は割りのいい仕事だといって、荷台引きや街道の舗装を押し付けてくる彼にしては珍しいことである。
「どういうことですか?」
いぶかしむ妖夢。追求されると諦めたのか、霖之助は依頼の内容を説明しはじめる。
「依頼の内容は辻斬りの退治。生死問わず」
霖之助の口元から笑みが消えたのを見て、妖夢も姿勢を正す。
「最近、里は南繰材町の行徳川の一帯で辻斬りが起こっている。今までに被害者は三人。どれも袈裟懸けに、一刀のもとに殺されている」
「一撃で、ですか」
相手が素人とはいえ、一撃で倒すのは生半可な事ではない。剣士が相手ならば、これは自分向きの依頼といえる。
「被害者に共通するのは、さっきもいった通り全て行徳川にかかる橋の上で殺されていること。そして、殺された時には必ず雨が降っていた。この二点だ」
「雨……?」
今は梅雨。雨が降っていれば人目も避けることができるし、それは不思議なことではない。そう言おうとした妖夢を霖之助が留める。
「被害者が殺された日はね、すべて晴れだったのだよ。より正確に言うなら、彼らが殺された時間だけ雨が降っていた。それも南繰材町にだけね」
「なっ……!」
そんなことがありえるのだろうか。晴れの日でも、一時だけ通り雨などで降ることはある。だが、それが里の一部地域でのみなど。
「これのせいで警察も捜査が難航していてね。それで遺族がこちらに依頼してきたというわけさ」
妖夢は腕を組んで悩んだ。正直なところ、謎解きは苦手である。雨が降った理由などこれぽっちも見当がつかない。雨が降る降らないなど関係ない。出てきたところを斬り捨ててしまえばいい。そう考える。
それでも逡巡したのは、何か引っ掛かるところがあったからだ。剣士としての第六感と言えばいいのだろうか。
だが、結局妖夢は引き受けることにした。決め手になったのは報酬が前金で二両、成功で十両という破格の値段であったからだ。所詮、第六感は不確かなものでしかない。杞憂であると思うことにした。
「特に期限は決められていないけど、被害者が増えるようなら心象が悪くなるのは間違いない。可能な限り早めに片付けるといいさ」
頭を下げて、合羽を被りなおして店を出ようとする妖夢に霖之助が声をかけた。
「そうそう、龍神像によれば明日からしばらくは晴れるようだよ。被害者は『晴れの日』に『雨の中』で殺されている。今日は戻って、明日からに備えたほうがいいと思うよ」
もう一度礼をして、店を出る。
空はどんよりと灰色の雲に覆われている。さして激しくもない雨は憂鬱な気分を加速させる。重苦しい空気を振り払うように、妖夢は雨の中を突っ切った。
翌日はそれまでの長雨が嘘のだったかのような快晴だった。朝食の片付けも早々に終わらせ、幽々子に断りをいれて妖夢は里へと向かった。雲ひとつない青空を、風を切って飛ぶのは心地よい。昨日引き受けた依頼もすぐに片付くと思うくらいに、空は青く澄んでいる。
昨日の依頼内容を反復する。大丈夫、ただの辻斬り退治にすぎない。
里の繰材町とは、表の大通りに店を構えられない程度の商人の店舗、それから医師や学者、鍛冶職人、飾り職人や仏師などが住んでいる地域である。
行徳川はその繰材町を流れる幅およそ十間の運河である。この川は里の中央に流れる河から引かれており、鍛冶職人などが職業柄水を必要としている人らが水源として利用し、上下水道も兼ねている。
その行徳川に架かる橋の一つ、滸我橋に妖夢は居た。ここは二人目の被害者が斬り殺された場所である。橋の中央には大分薄まったとはいえ、今だ血痕が残っており、事件の凄惨さを思い起こさせる。通行人も不吉な気配を感じるのか、血痕を避けている。
事前に貰った情報と、血痕をみてわかることが幾つかある。被害者は霖之助の言うとおり、袈裟切りに一刀を貰っている。それも致命傷であるのは間違いないが、この出血の量からすれば即死を免れたとしても、失血で命を落としていただろう。
(狙ってやったのだとすれば、相当の腕前か)
妖夢とて魂魄の剣を修めた身である。人知を超えた妖怪相手や、弾幕戦以外でならば遅れを取る事はないと思うくらいには自負している。
「とは言ったものの、さてどうやって遭遇したものか」
行徳川に架かる橋は三本。ここ滸我橋と足利橋、そして結城橋。全ての橋で事件は起こっており、繰材町以外の場所で起こる可能性を考えれば、どこに辻斬りが現れるかは断定不可能であった。
「やはり被害者の共通点なりを見出す必要がある、か。こういう下調べは苦手なんだけどな」
橋の欄干に背を預けて一人ごちる。
その時だった。
何の前触れもなく、突然豪雨が降って来た。
「うわっ!」
それも目の前が見えなくなるほどの豪雨。体を打つ雨粒を痛いと感じる。
「さっきまで晴れていたのに。――――そういえば!?」
思い立った。あの辻斬りは雨の日に犯行を行っていたのではないか。ならば、この雨はもしや。
前髪をかきあげるが早いか、妖夢は欄干から川に向かって飛び降りる。いや川面を滑る様にして飛ぶ。滸我橋は三つの橋のうち一番上流に位置する。ならば川を下るのが一番早い。
しかし、幾らも進まぬうちに雨音に紛れて悲鳴が聞こえてくる。次の足利橋までは対した距離ではない、間に合えと心に念じて速度を上げる。
だがその甲斐無く、妖夢が目にしたのは橋の欄干に倒れ掛かっている人。その背後に立つ人影。
妖夢は即座に楼観剣を抜刀。川面から上昇してそのまま大上段で振り下ろす。相手に隙を与えるわけにはいかない。
だが、妖夢の渾身の一撃はあっさりと受け止められた。鋼と鋼が噛みあい、音を立てる。
「なっ、貴様……!」
妖夢が驚愕に目を見開く。驚いたのは二重の意味。
一つ、上段からのそれも空を飛んでからの振り下ろしを片手一本で止められたこと。
一つ、受け止めた相手が女であったこと。
噛みあう刃を押すようにして間合いを取り、相手の姿を改めて確認しようとして――妖夢は見た。
着崩れた着物と結い上げもせず垂らすだけの黒髪。雨に濡れそぼるその髪の隙間から覗く、眼を。
「…………っ!」
背筋を悪寒が走る。尋常の殺気ではない、纏わりつくような感覚。未知の感覚に妖夢は飛び退った。
その瞳はいわゆる狂気を帯びた類ではあったが、妖夢にはそのような視線を浴びた経験はない。永遠亭の鈴仙・優曇華院・イナバが狂気の視線を持っているが、あれは見るものを狂わせるものであり、当人が狂っているものではない。
(あの眼は人間の出せるものじゃない。あれは、怨霊か)
怨霊。強い思念を持ったまま死に至り、ただの幽霊ではなく、意識を持たず生前の関係者を呪い殺す、あるいは無差別に人を襲う厄介な霊である。常人には見抜けないであろう。半霊である妖夢だからこそ見抜くことができた。
(一般的に実体化できる怨霊ほど強い思念を持つとは幽々子様に聞きましたが)
呪いなどではなく、自ら刀を振るって危害を加えるとはさすがに妖夢の計算外である。
(そして刀の腕も立つ、か)
飛び退る瞬間、相手は追撃する素振りを見せていた。実際にはしてこなかったものの、おかげで妖夢は警戒して間合いから大分離れてしまった。相手が逃走を計ったとしても追いつける距離ではあるが、相手の手の内が読めない間は不用意に飛び込めるものではない。
睨み合ったのは数瞬。
突然、女は欄干に足をかけて川に飛び込んだ。
予想外の行動に妖夢も動きが一歩遅れる。橋の上での対峙である。前方の妖夢に向かってくるか、後方に退くか、どちらかだと思っていたのだ。川に飛び込むとは予想外だった。
慌てて川を覗きこむが、雨によって荒れた水面では行方を掴むこともできない。
相手は霊である。川が荒れていることなど関係はない。だが、肉体を持つ妖夢にはできる真似ではない。妖夢が臍を噛む間にも雨は止み、青空が姿を見せる。
「やはり、雨もあの怨霊の仕業か」
みすみす逃してしまった憤りで欄干を叩く。
その衝撃で、欄干にもたれかかっていた男が呻く。まだ息があったのだ。
妖夢は慌てて応急処置を施すと警察を呼びに走った。あれほど降っていた雨はとっくに止み、空には青空が広がっていた。
妖夢が警察から解法されたのは、太陽が山に沈もうかという時刻であった。
あの後、警察を呼んだまではよかったが、刀を持っていたことで疑われ、事情聴取に付き合わされてしまったのだ。白玉楼では幽々子が確実に拗ねているだろう。昼食を用意できなかったばかりか、このままでは夕食も手抜きになってしまう。幽々子の小言を思えば気が重くなる。
とはいえ時間がかかっただけの収穫はあった。
妖夢の疑い自体は、殺されかけていた男が回復術で意識を取り戻した時点で晴れている。そこから妖夢は誤認逮捕されたという立場を利用して事情を聞きだしたのだ。担当し小兎姫という女性が、協力的であったのも救いだった。
完全に漆黒に染まった夜の空を、月明かりを頼りに飛びながら、妖夢は先ほどまでの情報を反芻する。
「あの女は剣術道場の娘、ねぇ」
とある剣術道場の娘が商家の跡取りと恋に落ちた。両親は反対する。思い悩んだ二人は心中というお決まりのコースである。それ自体は別段珍しい事ではない。人の住む場所が限定されている幻想郷で駆け落ちというものはできない。となれば、何とかして両親説得するしかないのだが、若い人ほど思い悩んで心中に走る。小兎姫はそう愚痴っていた。
殺されたのは順に、とある商家の旦那、その商家に嫁ぐ予定だった女、剣術道場の隠居。今回襲われたのは嫁ぐ予定だった女の父親だった。
件の二人であるが、男の遺体は川の下流で見つかったものの、女の遺体が見つかっていない。さらに下流に流されて紅魔湖までいってしまった可能性もあり、捜索は打ち切られていた。
「まさか化けて出るなんてね。下に恐ろしきは女の執念、ってとこかしら」
自嘲するかのように肩を竦め、小兎姫は言ったものだ。
恨み妬みなどの入り混じったあの狂気の瞳を見れば、頷くしかない。だが、妖夢には恋愛の機微などわからないし、死ぬのは愚かだとしか思えなかった。事情はどうあれ、あの怨霊を放置しておくわけにはいかない。女としてどうこうよりも、先に正義感が立つ妖夢でなのだった。
白玉楼に戻ってくれば、幽々子は紫と宴会の真っ最中であった。上機嫌の幽々子は妖夢を咎めることもなく、酒の肴を要求してきただけ。
安心しつつも、心のどこかで寂しく思いながら台所へ行くと、紫の使い魔である藍がいた。
「すいません、どうもお手数とおかけしてしまって……」
割烹着を着て、頭を下げる。火加減が微妙な料理なのだろうか、鍋から目を話さず藍は、構わないよとだけ言った。
食材は藍が持ち込んでくれたようだ。芋を取り出して、藍と並んで皮を剥く。
「里に行っていたのか?」
混ぜている豚汁から目を離さず聞いてくる藍。
「ええ、色々都合がありまして……」
「そうか」
同じく芋の皮剥きしながら答えると、同情された。
「そうだ。里に行くなら片手間でいいのでちょっとやってもらいたいことがある」
豚汁は完成したのだろう。今度はこちらを向いている。
「やってもらいたいこと?」
「いやそんな手間な事じゃないんだ。暇があれば古物商や刀屋を覗いてもらいたいだけだ」
「何か探し物でも?」
藍が珍しい武器などを集めるのが趣味なのは妖夢も知っている。また何か珍しい品物でも見つけたのだろう。
「妖夢は八犬伝は読んだことがあるか?」
「南総里見、ですか? おおまかな内容を知っているだけよければ」
「なんだ、最近の子は読書離れしているというが妖夢もその類か。八犬伝くらいは読んでも損はないぞ」
「は、はぁ……」
妖夢は別に読書が嫌いなわけではない。だが、本を読むよりは庭で剣を素振りしているほうが好きなだけである。
「まぁそれはともかく、その八犬伝には村雨という刀がでてくる。抜けば玉散る氷の刃。それがどうも幻想入りしたらしい。で、それを探しているというわけさ」
「なるほど、しかし村雨は架空の刀では?」
八犬伝の登場人物の一人、犬塚信乃が所持していた刀である。とはいえ創造上の刀である。それが幻想入りするはずはないのだが。
「いや、実は村雨の号を持つ刀が一本だけある。津田越前守助広の作だ」
「とはいえ、同名なだけではないのですか」
「もちろんその可能性は高い。だが、ここは幻想郷だ。幻想入りする際に村雨の逸話と混同され、本物の村雨になっていたとしてもおかしくはないだろう?」
「そういうものなのでしょうか……」
そんな話はついぞ聞いた事がない。
「いいや、ただの私の願望さ」
あっけらかんという藍をがくりと肩を落とす。
「で、どうやって見分けるのですか、それ」
もう妖夢にはまともについていく気力はなかった。だが、会話せねば機嫌を損ねてしまうし、何より自分がいなかった間、面倒みてくれていたのだから、無下にはできない。
「何、刀を振るえば水を操れる。山火事も消したという話だから川に出て振るえばすぐにわかるだろう」
「水を……?」
妖夢の脳裏に光景が走る。
「もしかして、それを使えば雨を降らせることも……?」
「ん、いやどうだろうな。程度によるがそれくらいはできるかもしれないが……」
包丁で芋を両断した。存外に大きな音。
決まりだ。あの女の持っていた刀、あれこそ村雨に違いない。村雨の能力で雨を降らせていたのだ。「ご助言ありがとうございます、藍様。村雨はきっとお渡ししてみせます」
「うん。……うん?」
助言とう言い方に違和感を覚えたのか首を傾げる藍。だが、居間の紫から呼び出され、そのまま忘れてしまった。
一人残された厨房で、妖夢は手を動かしながら思考する。
雨が降る理由、人が殺された理由はわかった。後は如何にして怨霊を退治するか、だ。
翌日、妖夢は団子屋で茶を啜っていた。今日も快晴で秋の暖かな日差しが心地よい。幽々子がいつも縁側で茶を飲んでいる理由が少し分かった妖夢である。
「すまない、遅れたな」
「いえ、大丈夫です。……団子、どうですか?」
「頂こう」
苦笑して妖夢の隣に腰掛けたのは上白沢慧音である。村雨の話を聞いた妖夢は上白沢慧音に助力を乞うたのだ。
「で、私に相談があるそうだな」
「はい、長くなるのですが……」
一通りのあらましを説明する。慧音の潔癖な性格を考えて、口利き屋からの仕事であることは伏せた。辻斬りのこと、村雨のこと、怨霊の因果のこと。
「ふむ。で、私に何の用だ?」
「私はこれから行徳で怨霊が出るのを待ち構えます。慧音殿には人を連れて行徳下流の水門を浚ってほしいのです」
行徳川の下流には田園地帯がある。そこへ流れる水量を調整する為の水門が村の外にあった。ここしばらくは稲の収穫期の為に水門は閉じられたままになっている。
「水門を……? いや、まて。心中……水門に怨霊。――そうか、そういうことか」
しばし考えていた慧音であったが、得心が言ったのか納得した顔で頷く。
「了解した。辻斬りは私も捨て置けないところだ。男衆を集めてすぐに行ってこよう」
「お願いします。それと、これを持っていってください」
差し出されたのは脇差。妖夢がいつも差しているものとなれば、それは白楼剣以外に有り得ない。
それを受け取った慧音は、
「確かにこれがあれば助かるが……、そっちは大丈夫なのか?」
「はい、二刀で闘うだけが魂魄の能ではありませんので」
力強く頷く妖夢に慧音は安心したのか、駆け足で去っていく。
「さて、私も……」
団子屋に金を支払うと妖夢は行徳川の方へ足を向けた。
昼間であるにも関わらず、行徳川周辺は道行く人もおらず、閑散としていた。無理も無い。辻斬りがあったのが昨日今日。しかも、怨霊の仕業となれば誰だって外に出歩くのを憚る。
そんな中、妖夢は結城橋の上で欄干にもたれかかっていた。結城橋を選んだ理由は特に無い。強いて言うなら、団子屋から一番近かったというだけのことだ。
妖夢はここにいれば怨霊が来ると確信している。怨霊というものは、呪いを特定の個人に対して行うものでもあるが、同時にそれを邪魔する存在がいれば、それを排除しにかかる。
なれば、先日怨霊の邪魔をした時点で妖夢と縁は結ばれている。こうして橋の上にいれば、必ず仕掛けてくるはずだ。
足元を流れる川のせせらぎを聞きながら待つこと半刻。
突然として空が曇り、豪雨が降り注いでくる。妖夢は慌てずに楼観剣を抜くと、橋の真ん中へ移動する。
同時。橋の向こうから歩いてくるように現れる女。以前と同じく、髪は濡れたように垂れ下がり、髪に隠れた顔からは、狂気迸る眼のみが見えている。
元々言葉の通じぬ相手である。妖夢は剣を構える。女も同じく剣を構えた。
構えるは互いに青眼。降りしきる雨が妖夢の視界を鈍らせる。突然、女が走り出す。不意を突かれたわけではなかったが、驚くほどの敏捷さだった。あっという間に妖夢の前に来る。
右上方から襲いくる剣を妖夢は寸前でかわした。体を入れ替えるようにして襲ってきた打ち上げも振り返りざまに弾き返す。 楼観剣は野太刀であるがゆえに重く長い。妖夢が斬りかかろうとした時にはすでに間合いを離されていた。
厄介な相手だ、と妖夢は思う。切り札である慧音はまだだろうか。少なくともそれまでに耐えねばならない。
妖夢は焦る心を押し殺し、すべるように走ってきた女の剣を叩きつけるように弾き飛ばした。
同じ頃、慧音は里の男衆をつれて行徳の水門にいた。水門は閉じられており、溜まった川の上に船をだし、男達が水中を探っている。水質は酷く、川底に泥が溜まっているせいで捜索は難航していた。
「おそらくどこかに水死体があるはずだ。すまないが、急いでくれ!」
慧音の言葉に男達は威勢のいい返事を返す。慧音が探しているのは女の死体。心中したうちの女のだ。
妖夢から頼まれた内容とはこれだった。女の死体が出てこず、その怨霊が行徳にしか出ないということは、その付近に死体があるということではないのか。 もちろん推論にしかすぎないが、これ以上犠牲者を出すわけにもいかない。それに怨霊の方をひきつけている妖夢も気になる。行徳の方へ眼をやれば、空が妙に暗い。おそらくすでに怨霊との戦いは始まっているのだろう。
焦る慧音に船上の男から声が飛んだ。
「慧音様、見つかりました! 川底に何かありやす!」
「よし、急いで引き上げてくれ!」
引き上げられた死体は川縁にひきあげられた。ござの上に横たえられた遺体は、まともに人の形をしていなかった。
長い間汚水に使った体は腐食し、魚に齧られたのか大部分が白い骨が露出していた。さすがの男達も顔を背ける有様。
「む、これは……」
死体が何かを握り締めていた。それは刀の鞘であった。心中した女には似つかわしくない黒い鞘。
「そうか、これが例の村雨の……」
心中を図って川に流される途中で拾ったのか、はたまた偶然か。女の右手にはしっかと握られていたのである。どうやらこれが件の怨霊の肉体であると見て間違いではないようだ。
膝をつき、手をあわせると、腰に刺してあった脇差を抜く。妖夢から預かって来た白楼剣である。白楼剣は刺せば相手の迷いを断ち切る刀。恨みでこの世に留まっている悪霊。その体に刺せば悪霊は消えるはず。それが妖夢の出した策。
「死者を冒涜するようではあるが、安らかに眠ってくれ。願わくば来世で幸せにな」
振りかぶった白楼剣を、慧音は振り下ろした。
結城橋での闘いは妖夢が押され気味であった。
ただでさえ相手の方が素早い上に、持っているのは取り回しの悪い楼観剣である。致命的な攻撃は防ぐものの、小さい傷ばかりが増えていく。
斬り込んで来た女の刀を、避けきれずに剣を上げて打ち合う。剣戟の音が誰もいない雨の中に響き渡る。
(このままではジリ貧だ……)
弾幕は使えなかった。単射でなら幾らでも撃てるが容易に避けられてしまう。かといって弾幕を張れば橋を破壊しかねず、結局剣のみで戦うしか選択にない。
一足飛びに間合いを詰めて楼観剣で横薙ぎの一刀。だが怨霊も後ろ跳びで勢いを殺しつつ、刀で剣筋を逸らす。人里にこれほどの剣の使い手がいたという事実に驚くと同時に、自分の剣腕はまだまだだと思い知る。斬ればわかる、などとは傲慢の極みであった。
妖夢は怨霊の激しく休みのない攻撃をかわしきれず、二の腕を浅く斬られる。冷たい雨の中での戦闘である。体力の消耗は激しくなる一方だった。
しかも、相手は怨霊である。体力の消耗はしていないだろう。慧音に本体を白楼剣で刺す事で怨霊を倒せると思い頼んだが、まだその兆候もない。
こんなところで終わるわけにはいかない。痛みをこらえ、体に気合を入れなおす。
「さぁ、来い」
怨霊は八双に構えると走って来た。上方からの一撃を受け止めたところで、女が体からふっと力が抜けたように足をもつれさせる。その隙を逃す妖夢ではなかった。素早く踏み込むと肩口から大きく斬り抜いた。
怨霊はそのまま倒れるようにして掻き消えていった。妖夢もたまらず膝をついて喘いだ。乾き切った喉が笛のような音を立てる。
雨が止み、暖かな日差しが戻ってくる。その温かさは妖夢の傷を癒すようでもあった。振り返れば、村雨がその刀身に露を残しながら、地面に突き立ち、陽光を反射して輝いていた。妖夢は楼観剣を鞘に納めると、村雨を抜き、重い足を引きずりながら里の外へ向かった。寒さをはらんだ秋の陽気が妖夢には心地よかった。
里の入り口が見えてきたところで、慧音と合流することができた。男衆が引く大八車。そこには筵をかけられた遺体が乗っているはずだった。
妖夢は無意識に手を合わせた。遺体はこれから命蓮寺に運び弔ってもらうという。
「此度はどうもありがとうございました」
頭を下げる妖夢に慧音は逆に恐縮するばかりであった。
「いや、当然の事をしたまでだ。そんな頭を下げる必要はない。そちらのほうが大変だっただろうしな。――ああ、白楼剣を返そう。それとこれを持っていくといい」
渡されたのは村雨の鞘だった。村雨を鞘に納めると確かにしっくり来る。再度頭を下げる妖夢を止め、慧音はそのまま命蓮寺へと向かっていった。
妖夢は村雨を握り締め、その姿をしばらくの間見送っていた。