ひどく迂遠な現実が、小野塚小町の意識を浅いまどろみの表層へと引き上げた。
死神のトレードマークである巨大な鎌を傍らに横たえて、大柄な体格と豊満な胸を青空に向かって盛り上がらせる一人の女が、重々しい目蓋をようやく開く。
さわさわと河の流れる音は、薄衣が肌とこすれ合う心地の良いものと似ている。たとえそれが、数え切れないほどの命が彼岸に渡っていくと知れ渡った場所であろうとも。
そんな所に身を横たえるのは、埋葬されずに野ざらしになった死体と世人に誤解されても文句は言えないのかもしれない。
一度、深々と寝に入った身体を薄らと起こすのは、水底に沈んだ肉体を無理矢理に引き上げるように困難な行いだ。今は昼か? それとも未だ朝と呼んでいい時間帯なのか? 太陽の位置を確かめるのも億劫なので、小町は「まだお腹が減ってないから朝で良いや」と結論付ける事にした。
ぴくぴくと白い目蓋がうずくと、その下に収まった眼の珠がゆ――っくりと、単なる器物から生へと変ずる肉の震えを始動させた。仰向けになったは身体は氷が溶解する様子にも似て熱を取り戻し、雲ひとつも無い青空を見つめる両の瞳は大あくびとともに涙で曇った。
衣服越しにも肌に突き刺さる草の感触と、限られた視界に対して容赦なく入り込んでくる彼岸花の真っ赤な花弁が、いくら手を伸ばしても届くことのない天への感慨を思い起こさせる。地上に身を横たえるという行為において、あの世とこの世の境は無いと彼女は思う。どこからでも見える空はきっと同じものだし、地上に在り続ける限り、きっと空に届かないという憧れを抱き続けるのも同じだろう。
そして。
やはり、そんな益体も無いこと考えながらの昼寝は素晴らしい。ぽかぽかとぬくもりに包まれての眠りへの没入は、寒さからの逃避という意味合いを持った夜間の睡眠とはまた違った楽しみがある。
――本日幾度目か判らない昼寝より目覚めたばかりの彼女は、一点の曇りも無い確信を抱く。
ボンヤリと覚醒と睡眠を行き来していたその時に、ふと目蓋の上をくすぐられる感覚に気が付いて、小町は、それが寝ぼけまなこの上を這う小さな羽虫であると知った。
地獄に落ちた罪人が、一条の救いとして御釈迦様の垂らした蜘蛛の糸を独占しようとして結局は地獄に逆戻りするという物語を、彼女はだいぶ昔に読んだ事があったのを思い出す。そういえば、主人公のカンダタとかいう男は、生前に一匹の蜘蛛を助けたことで地獄から抜け出る機会を与えられたのだった。結局は、土壇場で欲を出してチャンスをふいにしてしまった馬鹿な奴ではあったけれど。
放り出していた右手をおもむろに差し上げると、小町は潰してしまわぬよう最適な力の加減を気をつけながら、落ちまい落ちまいと必死に目蓋にしがみつく羽虫をひょいと持ち上げた。少女の瞳が、ごく小さなものを注視する。パッと見た所は蟻のようだが、それにしてはちょっと胴が短い様な気もする。かといって蝿と見るには痩せ過ぎだ。だいいち蟻だの蝿というより以前に、身体の大半を覆っている半透明の翅が邪魔で、全体像が朧にしか見えないのだ。しかも別段、彼女は虫に詳しい訳でもなかったから、爪の先より小さいか否かという相手を上手く判別する事も叶わない。
けれど、逆光を浴びて黒々とした姿に変化する羽虫を見つめているうちに、心にちょっとした願望が兆してきた。
……もしかしたら、コイツの命を助ければ、あたいにも何らかのご利益があるかも?
命を粗末にする奴は、好きじゃない。むろん、無闇に殺そうとするのも――つまり、今、このちっぽけな虫けらの命を救うのは一種の功徳だ。
「仕事サボって昼寝をしてても、四季様にバレないとか! ……なんて、あるわけ無いよねえ」
彼女とて子供ではない。サボりが易々と見逃されるなどという都合の良い事態がやって来たりはしない事など百も承知。それは、指に挟まれてもがく羽虫に対して殺生をしようがしまいが何らも変わる事は無い。となれば、わざわざ無碍にも罪の無い小さな命を散らすのも忍びなかろう。
「ほれほれ。さっさと行っちまいなよ。誰にも見つかるんじゃないぞ」
挟んでいた指から力を緩めると、羽虫は一、二度左右に身体を揺すり、ようやくといった体で小町の指から逃れ出た。翅を振るわせて宙に踊り込んだ『彼』は、お礼でもしているかのようにぐるぐると旋回すると、小町の胡乱な瞬きが終わるか終らぬかのうちに何処かへと飛び去ってしまったのである。
「さて……ささやかな慈善事業も終わったことだし、また一眠りと洒落込もうかね」
このまま昼寝を続けていれば、それほど時を経ずしていつものように彼女の上司の口から説教・お小言の連発される恐怖が待ち構えているはずだが、そんな瑣末な事態が怖くて小野塚小町の健やかな昼寝ライフが邪魔される訳は無い。
枕代わりにした両手を頭の下にしてしまえば、もう既に意識は魅惑の眠りへと誘われ始める。
そして何より、誰かが作ったのじゃないかと錯覚するほど綺麗な青空と暖かな陽光。さらに地面にはふかふかの緑の布団と、さらには目を楽しませてくれる真っ赤な彼岸の花畑。これで昼寝をするなという方が無理というものだと思う。
すゥすゥと吸い、吐き出される少女の息が、次第に眠りの気配を帯び始めてきた。閉じた目蓋もどんどん重くなり、重石でも乗せられたように強固で、なおかつ無限の慈愛にくるまれた安堵の空気が漂い始める……
…………どれくらいの時間、彼女はそうしていたのだろうか。
何だかよく解らない悪夢にうなされた記憶を引きずりながら、小野塚小町は再び目覚める。
仰向けになって寝に入ったはずが、いつの間にやら寝返りのために身体も顔も完全に横を向いて眠ってしまっていたらしい彼女は、肩を掴まれて前後に揺さぶられる感覚によって、ムリヤリ叩き起こされた。
何だ、いや、誰だ。
目蓋をこじ開けようとしてハタと気付いた彼女の額に、一筋の汗が現れた。
もしや、あの、口うるさい――もとい生真面目・大真面目な上司が、仕事の合間に三途の河の見回りがてら、不真面目な部下へと説教を試みんとして小町に覚醒を促しているのかもしれない。本人が目の前に居なければいくらでも気が大きくなるものだが、いざ本物が目の前に居るとなると先のように好き勝手な行動(つまりは、単なる昼寝だが……)を取る勇気はどこまでも減退していくものである。ここは、さっさと起きて平謝りに謝った方が得策かもしれない。
だが、何と言って謝れば良いのだろうか。「ごめんなさい」「すいません」では陳腐に過ぎる。かといって「お許しください」では堅苦しい気もするが、そもそも堅苦しくあるべきか否かもよく判らない。いっそのこと土下座などするという手もあるが、形ばかりの改悛の情を見せた所で自分には同じような前科が数え切れないぐらいあるから一発で見破られるだろうし……と、小町が寝るのか起きるのかも判然としないまま脂汗を薄らと流しながら色々と思案していると。
「――お嬢さん、起きとくれよ、お嬢さんったら」
と、声が聞こえてきた。
そこに至って、ようやく彼女は気が付いた。
自分を起こそうと肩を一生懸命に揺すっているのが、あのおっかない閻魔様ではなく――見も知らぬ人間の男だという事に。
――――――
地が割れ天が裂ける様な怖ろしい悪夢だったな、と、小町は述懐する。慌てて机の下に隠れた後、崩れてきた建物の下敷きになって生き埋めになってしまった夢だった。
もしや夢の中で「すわ、地震か!」と大慌てしていたのは、肩を揺さぶられ続けていたせいがあったのかもしれない。そう考えると、少しだけ男に対して恨み言を叩きつけたい気にもなってしまう。
「うう、ん……」
と、ようやくにして完全な目覚めの状態まで復帰した死神は、半身を起き上がらせて両腕を天に向け、全身の骨と筋を思い切り伸び上がらせた。背中からポキリと小さな音が鳴り、長時間にわたって屈曲していた骨格が軋む。起きた直後の伸びはサボり中の昼寝に比肩するほど気持ち良くもあるのだけれど、連日こればかりだと、さすがに身体が思い切り動かし辛くなっていくように感じられる。甘美なる怠惰の代償は落ちる一方の体力といったところだろうか。
グルグルと肩を回すと、先ほどまで惰眠を貪っていたのと同一人物とは思えぬ速さで立ち上がる小町。服から僅かな土と千切れた草の破片を手で払いつつ、その辺に適当に放っぽっておいた仕事道具の大鎌を取り上げる。いつも日の光を受けて鈍く輝きを発するはずの『相棒』は、表面に茶色い錆が浮いていた。試しに指でツと触れてみると、そこだけ別の金属が後から貼り付けられたようにしっかりと根付いてしまっているのが解った。こすっても拭い落せる気配がまるで無い。土の見間違いとか、そんなものではやはりないらしい。彼女は思わず、げッ、などという物語の中みたいな呻きを発してしまった。
「最近、手入れしてなかったからな……」
錆付くのは肉体のみにあらずか、と、日頃の行いのいい加減さをほんの少しだけ悔恨する暇もあらばこそ。刃が肉にめり込まぬよう気を払いつつ、小町は大鎌を肩に担いで例の男をようやく目にした。ずっと傍らで事が終わるのを手持ちぶさたに待っているのだ。
クルリと向き直ると、男の顔には申し訳なさのようなものが張り付いている。せっかくの昼寝を邪魔してしまったという気持でもあったのであろうか。
小町が男の頭のてっぺんから爪先までを順繰りに観察して――そうしてまず明々白々に解ったのは、彼の年齢がいまひとつ判然としない事。三途の河のほとりで死神たる小野塚小町と相対しているということは、余程の事情があって生者のまま生死の隔てを越境しようとする者でない限りは、間違いなく彼岸に渡るべき死者の魂である。しかしながら、彼の声は年若い故の張りがあったようにも聴こえたし、また老年のため微細な震えが宿っているような印象もあった。
再び小町は男を見る。
翁というほど老いている訳でもないが、かといって青年と断ずるには軽はずみに過ぎる。
無理に歳を見出すのなら、五十も近かろうか。彼は男性にしては小柄な方と思われ、大柄な小町からすると彼女の胸辺りにようやく頭頂部が届くか届かぬかくらいの背丈は、子供が成長しない体格のまま歳をくったようにも感じられた。白髪が幾分か混じり始めている頭髪は、胡麻塩頭という括りに入れてしまっても全く問題は無い様に思われる。加えて髪の毛そのものはボサボサで、伸びたのを適当に刃物で切り裂いたのだと言われても納得してしまいそうなほどのザンバラ頭である。不揃いな髪の先は、落ち窪んだ眼窩にはまって濁った光を発する瞳と、頬と顎との別なく覆う、整えられた形跡の無い無精ヒゲと相まって、何か、人間でなしに妖怪じみた――ある意味で、妖怪よりもなお妖怪的な悪辣さが秘められているような印象を刻み付けられてしまった。
そんな不気味な男が、汗か土か知らないが、黄と茶でまだらに染まって薄汚れた衣服を着て、首筋の汗をぬぐう様な仕草でしきりに腕を動かしていた。
「お前さん……ひょっとして、妖怪かい」
ふと口をついて出た疑問が、相手の素性を殊更に暴き立てる様な危うさを孕んでいる事に、小町は思い至らなかった。
死神として三途の河の渡し守を担当する以上、彼女は色んな連中に出会ってきた。老若男女、貧福貴賎の区別なし。美男も醜女も誰でもござれ。死を受け容れる者、頑強に否定する者。悲しむ者、喜ぶ者。残された家族を案じる者、縁が切れてよかったと言いだす者。涙を流したり大笑いしたり。一期一会という以上の言葉は思いつかないけれど、とかく死というのは一生に一度しかない大き過ぎる出来事なのだから、今生との別れに際しては悲喜こもごもの様相を呈するのが、ごく自然かもしれぬ。
が、このたび彼女の目の前に現れた男は、それまで見つめてきた死者たちとは何かしら違う面があるように思われてならなかった。
……しかし、それが何かが解らない。解らない理由が解らないのである。
もしかしたら尋常でなく汚らしい格好のためかもしれないし、それともどこか人間離れをした不気味さを勝手に勘違いしていたのかもしれない。男の面構えを見れば見るほどに、小町の両眼は怪訝の気を強めていった。見た方が良いと思った。否――見なければならぬと確信した。ただの死人ではないという根拠の無い一念が、かえしの付いた棘の如く、深々と死神の心に突き刺さる。
首をこする腕がぴたと止まり、男の頬が微かに震えたように見えた。口の端をくッと釣り上げて、鎌型が顎に表れる。く、く、と、男は二度笑い、ほどなくして大声で笑い始める。ざんばらの髪の毛を振り乱し、身体を折り曲げると、文字通りに腹を抱えて笑いだした。
「妖怪……妖怪ねえ。馬鹿を言っちゃいけないよ。おれは人間だよ。頭っから足の先までね」
「ふうん。そっか。やっぱりあたいの早とちりかねえ」
「そうさ、そうさ。初めて会う相手への見間違いってのは、あるものだと思うよ」
目尻へ涙さえ浮かべながら、男はあくまで否定したいらしかった。言葉の端々に宿る奇妙に芝居がかった調子を、しかし、小町は見逃す事が出来ない。慧眼――という程でもないが、これでも幾千もの死者と付き合っているのだ。小野塚小町の勘は良く当たる……と、思いたかった。
が、これ以上、男が人間か妖怪かという問答を続けていても埒が明かない。本人が違うと言い切っているのだから確固たる根拠が得られないのであれば、自分の仕事――三途の河の渡し守――を全うするよりほかはあるまい。
「ところで――お前さん、自分が死人だってこと、もう気が付いているかな?」
――――――
舟の舳先は生死の境を隔てる隠り世の河を、一時、切り裂く。
櫂も無しになおも見えぬ向こう岸へと一人でに動く様は、不可視の動力が何処かに備わってでもいるかのようだ。舟が行き過ぎた後には小さな飛沫の音と、生まれては弾けて消える大小様々の泡が残されるのみ。泡は各々群れ集い、河底を明瞭に透過しようとするも、霧がかかったように茫漠とした河中にては誰一人も覗こうとする者とて見出せない。次々と生まれては、束の間、輝いてからぱちんと消え去る儚さは、無常に支配された現世の縮図ででもあるかの如く。
ギっ…………ギっ…………と、古さのゆえに時折、軋み音を発するぼろぼろの渡し舟は、乗るたび小町を不安にさせる。
肩に負うた大鎌同様、この小さな舟もまた彼女の仕事上の『相棒』と呼ぶべき道具であったが、長年に渡って酷使され続けてきたこの舟を新調するだけの金を、渡し守は持ち合わせていなかった。止むを得ず、穴の空いた部分には板で継ぎを当てるなどして修復を繰り返しているが、傍目には継ぎ接ぎだらけの不格好なボロ舟にしか見えまい。
見かけも乗り心地も――到底、安全に使えるのかどうか確信が持てないほどだが、そもそも彼女の雇い主である地獄からして近頃は財政難だという。だからという訳でもなかろうが、支給される舟の新調もままならないような窮乏ぐあいは運ぶ死人に対してばつが悪いというか、死神として示しがつかないような思いがするのも確かなのだ。
舟の真ん中に仁王立ち、両の瞳で見つめるは彼岸――現世を離れた死後の世界。
渡し舟は、だいたい二人が乗れるか乗れないか程度の大きさをしていた。まず船頭である死神が乗るだけの場所が必要だし、次いで死者を乗せるための場所も確保すべきだからだ。元がそれほど大きくはない舟であるが、今までどうにか使えてきた。だが、最近は一人が乗るだけでギシギシと縁起でもない音があちこちから響くようになっている。
……しかし、人も道具もまともに動くうちはまだまだ働いてもらわねば困るというもの。
幸いにして小野塚小町は「距離を操る程度の能力」を有している。彼我の距離を自由に操れるこの力によって、少しでも舟にかかる負担が軽くなっていると、小町は信じたかった。
「……さて。もう一通りは説明したけれど、念のためにもう一度。お前さんは死んだ。魂だけの状態になって、今、あたいと一緒に三途の河を渡ってる。これから彼岸に渡り、あたいの上司――つまり、閻魔様こと四季映姫・ヤマザナドゥ様のお沙汰を受けて、地獄行きか極楽行きかが決定されるのさ」
小さな舟の中。仁王立つ小町は、自らの後ろに胡坐をかく男に顔を少し向けてチラと見、舟に乗る前にした説明を再度、試みる。わずか視界に入った男は元が小柄なためか、窮屈な舟の中でもそれほど難儀せずに座り込んでいるようだ。それに、かなり気持ちが落ち着いている様子でもある。これなら仕事がやりやすくって助かるな、と、小町はほくそ笑む。
死人にも色んな奴があるものだ。大概は大人しく彼岸に渡るが、中には河の途中で「逝きたくない」と駄々をこね始めたり、止せば良いのに舟から無理に身を乗り出して河に落っこちたりする者もいる。そんな厄介者に比べれば、この度の男は不気味ながらもなかなかの“優等生”であった。
「へいへい。おれも子供じゃないよ。いちど教えてもらえば大概の事は覚えられるぜ」
ちょっと頭は悪いけどな。
そう言うと、男はまた片手で首を触り始めた。どうやらこれが彼の癖であるらしい。
「そうかい? いやー、お前さんみたいな物解りの良いのが相手だとあたいも助かるよ。仕事が楽で」
「仕事かぁ。それあ、楽な方が良いだろうな。船頭さん、あんまり仕事熱心そうには見えねえもんな。何たって、昼寝してたくらいだし」
げッ――と、またもや妙な呻きを発し、
「そ、それは言いっこなしだよ。何て言うか、その、死神にもたまには命の洗濯ってヤツが必要なのさ!」
と、小町はしどろもどろに抗弁する。
実際の所、“たまには”どころか毎日のように惰眠を貪る日々なのだが。
――二人を乗せた渡し船は、しばし生死を分かつ大河を進み続ける。
流されるでもなく逆らうでもなく。このまま順調に行けば、あと少しで閻魔の控える彼岸へと到着する事が出来るだろう。
ただ……今日は何だか、まるで霧でもかかったように何もかもが茫洋だと小町は思った。実際に霧がかかっている訳ではない。けれど、どこもかしこも白い靄に包まれて、先に何が待ち構えているのか知れないという怖れが彼女の胸には滞留していた。何度となく死人とともに渡って来た三途の河。いわば小町にとっては庭も同然の場所であるはずだ。しかし、何故か理由の解らない不安が離れてはくれない。自分に危害を加えられる者など今この場には居ない。居たとしても、得物の大鎌で大概の敵は斬り伏せる自信がある。しかしながら、身体のどこかが無闇に熱くなり、焼けた鉄棒でも突っ込まれたような苦しみが消えてはくれない。
それは、ひょっとして後ろに乗せた例の男のせいであったか。
得体の知れぬ不気味な風体が、今もって小町の正常な認識を苛んでいるのであろうか。
そういえば、男はあまりにも大人し過ぎやしないだろうか? 唐突に湧き上がる疑問が、ふと仕事のやり易さという一点にのみ注目していた小町の眼を開かせる。
死というのは言葉を好き勝手に発するほど単純で解し易いものではない。天命と自死の別なく、今まで生きていた肉体から否応なしに意識が離れねばならないという現象は、大なり小なり動揺を伴うものだ。死神に対して最も従順さを見せるタイプの死者でさえ、顔の真ん中に不安げな感情の揺らぎを張り付けずにはおかないというのに。
男には、それが無い。
ただニコニコと、上機嫌に微笑を崩さずにいる。
それが小町には不思議でもあり、また、怖ろしかった。
死神として常なる“境界”の往復を繰り返す彼女が、ついぞ感じた事の無かったであろう恐怖。適当に相手をしていればそのうち切れるだけの一時的な繋がり。そんなものに対して煩わしさに近い一念を覚えたのは、男が初めて――かもしれなかった。
目の前が白く塗り潰される錯覚を、小町は味わった。彼女の意識下でそれを行っているのは、紛れも無しに渡し舟に同乗する、あの不思議な男なのだ。奴は、ただの人間ではないのかもしれない。しかし妖怪の類にしては妖気を発しているようにも思われない。どちらでもない奇妙な同乗者。
そんな事を考え考え、小町の胸がまた不安に熱くなろうとした時である。
「船頭さん。アンタ、名前は何て言うんだい」
「えッ!? ……あたいかい?」
「ここに、おれたち二人以外に誰か居るっていうのか」
それは確かに男の言う通りだが、相手の方から名前を尋ねられるとは、小町にとっては意外だった。
死神と死人の関係とは、河を渡らば容易に切れる一過性のものに過ぎない。互いに名前を名乗っての付き合いなど無い事の方が遥かに多いのだ。小野塚小町とて、それが普通だった。名も知らぬ死者と名乗らぬ死神。それは決して珍しくない。
男は動揺する小町をしげしげと眺めると、首に触れる例の癖を見せながらまた笑った。濁った両目が細められると、それは体格だけでなしに子供のような純真さがあるように見えた。この光景だけは、男の纏う不気味な雰囲気は薄れるようでさえある。朗らかな笑みは朗らかな気を生み出すものだろうか。
「お、教えてくれっていうんなら教えない事も無いけど」
慌てるあまりどもってしまう小町である。
何せ死人に名を訊かれるなど滅多にない事なので、名乗れぬ理由は無いとしても少しばかり驚きが先に立ってしまう。
「自分から教えるのはイヤかい。なら、おれから教えるよ」
彼は、言った。
口をすぼめる様にして頬を指で掻くと、何か数瞬、思案げな所を見せてから自信の名を口にする。赤ん坊に言葉を教えでもするように、ゆっくりと、空気に自分自身の存在を浸透させる如く。
「玄助――ってんだ。おれは、玄助だよ。船頭さんよ」
「玄助、か。ま。良い名前なんじゃないか」
「そいつァ、嬉しいね。船頭さんは?」
「あたいは小町。死神の小野塚小町だ。よろしく、玄助さん」
「小町か。船頭さんこそ良い名前だと思うぜ、おれは」
「褒めたって何ンにも出やしないよ……玄助さん」
何だか調子を狂わされるな、と、死神は内心で独語した。
小町はさっきとは別種の困惑を感じてしまう。一言で言えば、男――玄助はいやに馴れ馴れしいように思える。それが死したが故の不安によるものなのか。それとも単にそういう性格だからなのだろうか。
生前の玄助を知らぬ小町には知りようもないが、しかし、饒舌に死神に話しかけてる輩というのは、大抵が死後の不安が先に立っている。互いの名前などという、一見して瑣末と思える事柄を気にするような者は圧倒的に少数派なのに。
もしも私が舟を漕ぐ櫂を櫂を持っていたならば、この動揺を覆い隠すべく一心不乱に水を突き刺していたろうに――そう考える度、彼女の目蓋は自身でも気付かぬほど細かい震えを見せていた。
ようやく、彼岸が見えてくる。
長いようでいて短くもあり、短いながらも濃密な旅程だった。
死神と死人を乗せたボロ舟は、水の小山を突き崩す舳先を揺らせながら、青々と茂る草を侍らす船着き場へと向けて進路をとる。
まがりなりにも現世と地続きである対岸の船着き場は、薄れていながらまだしも生の茫漠たる空気を吸い込むに良い場所である。彼岸花に覆われて血よりもなお赤々と照らされる地面が、別の世界に足を踏み入れた感を強くさせる場所ではあるけれど。
だが、先に閻魔の待つ彼岸はそうではない。青い空も、空に掛かる太陽も何ひとつ違うところは無いけれど、陽光を取り込み反射する大気には現世とは到底、混じる事の無い瘴気にも似た何かが入り混じっている。水と油よりもなお相性の悪い生と死とは、こうして彼岸の地に到着する事で、ようやくほんの短い拙い一致を見ようとするのであった。
「彼岸だ、彼岸。お客さーん。ようやく彼岸に到着したよ。ほら、立てるかい玄助さん」
「おお、ありがとよ」
岸辺に近づくにつれ、小町は能力を加減して舟の速さを緩めていく。
次第に速度を落とされた渡し舟は果たして不可視の操作より脱し、死神の意思を離れた。波に洗われる葉っぱも同然の揺られようになった舟は、途端に大きく傾き始める。小町は座っていた玄助に肩を貸して倒れぬよう立ち上がらせると、次に舟の内部にしまっておいた縄を取り出し、岸に埋め込まれた杭へと手を伸ばす。縄の端を杭にしかと結びつけ、ちょっとやそっとでは解けぬようにする。こうして河の流れに舟が流されたりしないよう、繋ぎ止めておくのだ。
舟の揺れが縄のおかげで鎮まったのを確認すると、二人は真横に伸びる木製の足場へと降り立った。こちらも渡し舟と同様に、かなり年季の入った様子である。全体が黒々とした苔のようなもので覆われ、近くに寄ると肉の腐った様な奇妙な悪臭を放っているではないか。……いくら財政難だからって、掃除くらいはできないもんかねえ。小町は足場に降りる度、考えるのだった。
小町と玄助は、彼岸の地を踏んだ。
足場の上でカツカツと硬い音を鳴らしていた小町の草履が柔らかい物を踏む感触があり、彼女は一気に頭を切り替える。これから先に待つ沙汰は、死神の手を離れた閻魔の領分。あまり死人に対して肩入れをすべきではない。でなければ、ほんの少しの付き合いでも別れるのが惜しくなってしまうのだから。
「それじゃ……いよいよこれから、アンタは四季映姫・ヤマザナドゥ様の元で審理を受ける事になる。四季様ン所までは、この小野塚小町が責任持って連れてってやるから、途中ではぐれたりしないでくれよ?」
「大丈夫だって、こまっちゃん!」
「こっ……こまッ…………!?」
「ん? 駄目かい。小町だから、こまっちゃん……そう思って呼んでみたんだけどな」
あまりの事態に、小野塚小町の舌がもつれた。そのせいで、まともに言葉を発する事も叶わない。
三たびの動揺が彼女を襲う。“こまっちゃん”とは一体どういう事か。馴れ馴れしいにも程がある。というか、玄助と自分とは仇名をつけられるほど親しくなっていたというのか。けれど、親しげに名前を呼んでくる相手に対しては憎からず思えてしまうのもまた確かだ。それに、よくよく見ればこの玄助という男、けっこう良い男のような気も……。
色んな言葉がグルグルと渦を巻いては彼女の頭の中を駆け巡った。腹の中に焼けた石が入り込んだように、身体中に恥ずかしさの熱が波及する。言うに事欠いて“こまっちゃん”などと。しかし、自分を仇名で呼んでくれる者が居ると思うと、どこか嬉しくなってしまう。
止めろと言えば言えたはずなのだけれど、小町が熱くなる頭を一生懸命にはたらかせて導きだしたのは、
「そそ、それじゃあ――あたいは玄助さんのこと、“玄さん”って呼ばせてもらおうかね……」
という、自ら親しさを助長させでもするような言葉だった。
「おっ。嬉しいね。それじゃあ、案内よろしく頼むよ、こまっちゃん」
「あ、ああ! 任せときなよ」
鎌に触れる手ををワザとらしく動かしながら、空いた方の手をぐっと握って小町はムリヤリ笑顔を作った。
こうなったらもうヤケクソである。
どうせ程なくして途切れる関係だ。互いに仇名で呼びあって、刹那の友情を楽しんでみるのも面白い。そうしよう、ウン。そうしよう。死神の胸に現れた不思議な高鳴りは、なかなか止む気配を見せなかった。
――――――
何とか自分を御する結論に達した小町と、やはり微笑を崩さぬまま首をこする玄助は歩き出した。途中、何くれとなく玄助は小町に話しかけ、小町も気軽に応じるという遣り取りが続いた。
普段どんな仕事をしているのか。
どうやって舟を動かしていたのか。
その大きな鎌は何に使うのか。
話に聞く閻魔様というのは、やはり怖ろしいお方なのか。
嘘をつくと舌を引っこ抜かれてしまうというのは本当なのか。
見かけに似合わず好奇心の旺盛らしい玄助は、あれこれと楽しげに訊いてくる。小町も小町で自分に興味を示してくれる相手に色々と話すというのは、それなりに楽しいと感じる事が出来た。
けれど奇妙なことに、玄助は『自分のことを話さない』。
最初、小町はあの世の様子が気になって仕方が無いから、自分の事情を教えるだけの余裕が無いのだろうと思っていた。が、それでも話を盛り上げようと、時には自分から玄助に話を振ってみたものだ。――しかし、彼は自分について何かを訊かれる度、ふと微笑を曇らせて、俯き加減になってしまう。「俺の事より、こまっちゃんの話が訊きたいね」と、適当にはぐらかされてしまう。
ひょっとしたら、この玄助という男。相当な訳あり……なのであろうか?
「……で、その時の四季様の顔ったら、地獄の鬼よりおっかなくってさ。あれで金棒持ってたら、知らない奴は絶対に獄卒と勘違いしちゃうと、あたいは思ったね!」
「そりゃ、尋常じゃないもんだな。やっぱり閻魔様ってのは、昔の人が言うとおりに怖いお方なんだろうなあ」
「それはもう。昼寝中のあたいを叱りつける時の怒声ったら、それだけで地が割れる様な大音声さね」
「いやいや。そいつは真面目にやらないこまっちゃんが悪いんじゃねえかな?」
そんな、意味も益体も無い雑談が取り交わされながら、二人は歩く。
そして、巨大な城と見紛うばかりの建造物と、人を十人重ねてもまだ足らぬと思えるほどに巨大な鉄の扉が現れる。
「さて――ここが地獄の入口だ。この扉の先に閻魔様――四季様がいらっしゃる。あのお方の前で嘘なんてつこうものなら、あッという間に見抜かれて地獄行きだ。気ィ付けなよ玄さん」
「ほうほう。正直が美徳なのはあの世でも変わらないんだね」
ここまで来ると、さすがに玄助でも泰然自若として微笑し続ける様にはいかなくなったようである。
首を掻く手がフと止まり、言葉を発する唇も、こころなしか動きを小さくしているのだ。
無理もあるまい、と、小町は思った。
この先で受ける裁きで、極楽か地獄かが決まる。いくら玄さんが気丈でも、いつまでもヘラヘラしていられる方がどうかしている。
「それじゃ、行こうかい。せいぜい極楽に行けるよう頑張っとくれよ」
言うと小町は、眼前に聳える巨大な扉へと歩み出した。
地獄へ通ずる門を潜る時は、いつでも言い知れぬ緊張に包まれてしまう。足先から地面に呑まれて自分が地獄に落ちて行くかのように。だが、今日は少しだけ気が楽かもしれない。ほんの一時の付き合いとは言え、玄助という友達に恵まれたのだから。
――――そこまで考えると、小町は、さっきまで自分の後ろにくっ付いていた小柄な男の影が無くなっている事に気が付いた。少しばかり慌てて周囲を見回すと、既に歩き出した小町の後方。さっき立ち止まって説明をした所に相も変わらず玄助が突っ立っているではないか。どうしたのだろう。もしかして土壇場で怖くなってしまったか。
小町は心配になる。
すぐに踵を返し、案じるべき友達の元へと駆け寄った。
玄助は、また笑っていた。一度は消えた例の微笑が、落ち窪んだ眼窩から零れるように、フツフツと。道化のように芝居じみた笑みを、小町は久しぶりに不気味に思う。自分が数時間前に玄助に出会ったとき、やはり不気味に思っていた事を、彼女はようやく記憶の底から引っ張り出した。
「どうしたんだい玄さん。急に怖くなったかい」
「……」
「まあ、仕方ないよね。普段は平気だと思っていても、イザって時には緊張しちゃうもんだしね」
「……」
「ねえ。玄さん。返事をしておくれよ。どうしたってんだよ。玄さんったら」
「……」
玄助は、小町の呼びかけには一切応えようとはしない。まるで、死人とは思えないほど陽気だった例の玄助が虚構の産物だとでも言うように、今の彼は石のように沈黙していた。
そのまま、数瞬。
小野塚小町に向かって、ようやく玄助は口を開いた。
彼の言葉は、心の臓に刃物を捻じ込まれるが如き感覚にも似ていた。
抜き身の短剣が胸に突き刺さる空想の中から、小町は遠くなりかけた現実をようやく認識する。なおも玄助の言葉は彼女の中を駆け巡って、目には見えぬ傷を作り続けていた。繰り返される記憶の反復は、ほんの一言より受けた衝撃を幾度となく彼女へと思い知らせるのだ。
何度目か引き出された、小町の中の玄助が問う。
「……こまっちゃん。アンタ、人を喰ったことはあるかね」
(続く)
死神のトレードマークである巨大な鎌を傍らに横たえて、大柄な体格と豊満な胸を青空に向かって盛り上がらせる一人の女が、重々しい目蓋をようやく開く。
さわさわと河の流れる音は、薄衣が肌とこすれ合う心地の良いものと似ている。たとえそれが、数え切れないほどの命が彼岸に渡っていくと知れ渡った場所であろうとも。
そんな所に身を横たえるのは、埋葬されずに野ざらしになった死体と世人に誤解されても文句は言えないのかもしれない。
一度、深々と寝に入った身体を薄らと起こすのは、水底に沈んだ肉体を無理矢理に引き上げるように困難な行いだ。今は昼か? それとも未だ朝と呼んでいい時間帯なのか? 太陽の位置を確かめるのも億劫なので、小町は「まだお腹が減ってないから朝で良いや」と結論付ける事にした。
ぴくぴくと白い目蓋がうずくと、その下に収まった眼の珠がゆ――っくりと、単なる器物から生へと変ずる肉の震えを始動させた。仰向けになったは身体は氷が溶解する様子にも似て熱を取り戻し、雲ひとつも無い青空を見つめる両の瞳は大あくびとともに涙で曇った。
衣服越しにも肌に突き刺さる草の感触と、限られた視界に対して容赦なく入り込んでくる彼岸花の真っ赤な花弁が、いくら手を伸ばしても届くことのない天への感慨を思い起こさせる。地上に身を横たえるという行為において、あの世とこの世の境は無いと彼女は思う。どこからでも見える空はきっと同じものだし、地上に在り続ける限り、きっと空に届かないという憧れを抱き続けるのも同じだろう。
そして。
やはり、そんな益体も無いこと考えながらの昼寝は素晴らしい。ぽかぽかとぬくもりに包まれての眠りへの没入は、寒さからの逃避という意味合いを持った夜間の睡眠とはまた違った楽しみがある。
――本日幾度目か判らない昼寝より目覚めたばかりの彼女は、一点の曇りも無い確信を抱く。
ボンヤリと覚醒と睡眠を行き来していたその時に、ふと目蓋の上をくすぐられる感覚に気が付いて、小町は、それが寝ぼけまなこの上を這う小さな羽虫であると知った。
地獄に落ちた罪人が、一条の救いとして御釈迦様の垂らした蜘蛛の糸を独占しようとして結局は地獄に逆戻りするという物語を、彼女はだいぶ昔に読んだ事があったのを思い出す。そういえば、主人公のカンダタとかいう男は、生前に一匹の蜘蛛を助けたことで地獄から抜け出る機会を与えられたのだった。結局は、土壇場で欲を出してチャンスをふいにしてしまった馬鹿な奴ではあったけれど。
放り出していた右手をおもむろに差し上げると、小町は潰してしまわぬよう最適な力の加減を気をつけながら、落ちまい落ちまいと必死に目蓋にしがみつく羽虫をひょいと持ち上げた。少女の瞳が、ごく小さなものを注視する。パッと見た所は蟻のようだが、それにしてはちょっと胴が短い様な気もする。かといって蝿と見るには痩せ過ぎだ。だいいち蟻だの蝿というより以前に、身体の大半を覆っている半透明の翅が邪魔で、全体像が朧にしか見えないのだ。しかも別段、彼女は虫に詳しい訳でもなかったから、爪の先より小さいか否かという相手を上手く判別する事も叶わない。
けれど、逆光を浴びて黒々とした姿に変化する羽虫を見つめているうちに、心にちょっとした願望が兆してきた。
……もしかしたら、コイツの命を助ければ、あたいにも何らかのご利益があるかも?
命を粗末にする奴は、好きじゃない。むろん、無闇に殺そうとするのも――つまり、今、このちっぽけな虫けらの命を救うのは一種の功徳だ。
「仕事サボって昼寝をしてても、四季様にバレないとか! ……なんて、あるわけ無いよねえ」
彼女とて子供ではない。サボりが易々と見逃されるなどという都合の良い事態がやって来たりはしない事など百も承知。それは、指に挟まれてもがく羽虫に対して殺生をしようがしまいが何らも変わる事は無い。となれば、わざわざ無碍にも罪の無い小さな命を散らすのも忍びなかろう。
「ほれほれ。さっさと行っちまいなよ。誰にも見つかるんじゃないぞ」
挟んでいた指から力を緩めると、羽虫は一、二度左右に身体を揺すり、ようやくといった体で小町の指から逃れ出た。翅を振るわせて宙に踊り込んだ『彼』は、お礼でもしているかのようにぐるぐると旋回すると、小町の胡乱な瞬きが終わるか終らぬかのうちに何処かへと飛び去ってしまったのである。
「さて……ささやかな慈善事業も終わったことだし、また一眠りと洒落込もうかね」
このまま昼寝を続けていれば、それほど時を経ずしていつものように彼女の上司の口から説教・お小言の連発される恐怖が待ち構えているはずだが、そんな瑣末な事態が怖くて小野塚小町の健やかな昼寝ライフが邪魔される訳は無い。
枕代わりにした両手を頭の下にしてしまえば、もう既に意識は魅惑の眠りへと誘われ始める。
そして何より、誰かが作ったのじゃないかと錯覚するほど綺麗な青空と暖かな陽光。さらに地面にはふかふかの緑の布団と、さらには目を楽しませてくれる真っ赤な彼岸の花畑。これで昼寝をするなという方が無理というものだと思う。
すゥすゥと吸い、吐き出される少女の息が、次第に眠りの気配を帯び始めてきた。閉じた目蓋もどんどん重くなり、重石でも乗せられたように強固で、なおかつ無限の慈愛にくるまれた安堵の空気が漂い始める……
…………どれくらいの時間、彼女はそうしていたのだろうか。
何だかよく解らない悪夢にうなされた記憶を引きずりながら、小野塚小町は再び目覚める。
仰向けになって寝に入ったはずが、いつの間にやら寝返りのために身体も顔も完全に横を向いて眠ってしまっていたらしい彼女は、肩を掴まれて前後に揺さぶられる感覚によって、ムリヤリ叩き起こされた。
何だ、いや、誰だ。
目蓋をこじ開けようとしてハタと気付いた彼女の額に、一筋の汗が現れた。
もしや、あの、口うるさい――もとい生真面目・大真面目な上司が、仕事の合間に三途の河の見回りがてら、不真面目な部下へと説教を試みんとして小町に覚醒を促しているのかもしれない。本人が目の前に居なければいくらでも気が大きくなるものだが、いざ本物が目の前に居るとなると先のように好き勝手な行動(つまりは、単なる昼寝だが……)を取る勇気はどこまでも減退していくものである。ここは、さっさと起きて平謝りに謝った方が得策かもしれない。
だが、何と言って謝れば良いのだろうか。「ごめんなさい」「すいません」では陳腐に過ぎる。かといって「お許しください」では堅苦しい気もするが、そもそも堅苦しくあるべきか否かもよく判らない。いっそのこと土下座などするという手もあるが、形ばかりの改悛の情を見せた所で自分には同じような前科が数え切れないぐらいあるから一発で見破られるだろうし……と、小町が寝るのか起きるのかも判然としないまま脂汗を薄らと流しながら色々と思案していると。
「――お嬢さん、起きとくれよ、お嬢さんったら」
と、声が聞こえてきた。
そこに至って、ようやく彼女は気が付いた。
自分を起こそうと肩を一生懸命に揺すっているのが、あのおっかない閻魔様ではなく――見も知らぬ人間の男だという事に。
――――――
地が割れ天が裂ける様な怖ろしい悪夢だったな、と、小町は述懐する。慌てて机の下に隠れた後、崩れてきた建物の下敷きになって生き埋めになってしまった夢だった。
もしや夢の中で「すわ、地震か!」と大慌てしていたのは、肩を揺さぶられ続けていたせいがあったのかもしれない。そう考えると、少しだけ男に対して恨み言を叩きつけたい気にもなってしまう。
「うう、ん……」
と、ようやくにして完全な目覚めの状態まで復帰した死神は、半身を起き上がらせて両腕を天に向け、全身の骨と筋を思い切り伸び上がらせた。背中からポキリと小さな音が鳴り、長時間にわたって屈曲していた骨格が軋む。起きた直後の伸びはサボり中の昼寝に比肩するほど気持ち良くもあるのだけれど、連日こればかりだと、さすがに身体が思い切り動かし辛くなっていくように感じられる。甘美なる怠惰の代償は落ちる一方の体力といったところだろうか。
グルグルと肩を回すと、先ほどまで惰眠を貪っていたのと同一人物とは思えぬ速さで立ち上がる小町。服から僅かな土と千切れた草の破片を手で払いつつ、その辺に適当に放っぽっておいた仕事道具の大鎌を取り上げる。いつも日の光を受けて鈍く輝きを発するはずの『相棒』は、表面に茶色い錆が浮いていた。試しに指でツと触れてみると、そこだけ別の金属が後から貼り付けられたようにしっかりと根付いてしまっているのが解った。こすっても拭い落せる気配がまるで無い。土の見間違いとか、そんなものではやはりないらしい。彼女は思わず、げッ、などという物語の中みたいな呻きを発してしまった。
「最近、手入れしてなかったからな……」
錆付くのは肉体のみにあらずか、と、日頃の行いのいい加減さをほんの少しだけ悔恨する暇もあらばこそ。刃が肉にめり込まぬよう気を払いつつ、小町は大鎌を肩に担いで例の男をようやく目にした。ずっと傍らで事が終わるのを手持ちぶさたに待っているのだ。
クルリと向き直ると、男の顔には申し訳なさのようなものが張り付いている。せっかくの昼寝を邪魔してしまったという気持でもあったのであろうか。
小町が男の頭のてっぺんから爪先までを順繰りに観察して――そうしてまず明々白々に解ったのは、彼の年齢がいまひとつ判然としない事。三途の河のほとりで死神たる小野塚小町と相対しているということは、余程の事情があって生者のまま生死の隔てを越境しようとする者でない限りは、間違いなく彼岸に渡るべき死者の魂である。しかしながら、彼の声は年若い故の張りがあったようにも聴こえたし、また老年のため微細な震えが宿っているような印象もあった。
再び小町は男を見る。
翁というほど老いている訳でもないが、かといって青年と断ずるには軽はずみに過ぎる。
無理に歳を見出すのなら、五十も近かろうか。彼は男性にしては小柄な方と思われ、大柄な小町からすると彼女の胸辺りにようやく頭頂部が届くか届かぬかくらいの背丈は、子供が成長しない体格のまま歳をくったようにも感じられた。白髪が幾分か混じり始めている頭髪は、胡麻塩頭という括りに入れてしまっても全く問題は無い様に思われる。加えて髪の毛そのものはボサボサで、伸びたのを適当に刃物で切り裂いたのだと言われても納得してしまいそうなほどのザンバラ頭である。不揃いな髪の先は、落ち窪んだ眼窩にはまって濁った光を発する瞳と、頬と顎との別なく覆う、整えられた形跡の無い無精ヒゲと相まって、何か、人間でなしに妖怪じみた――ある意味で、妖怪よりもなお妖怪的な悪辣さが秘められているような印象を刻み付けられてしまった。
そんな不気味な男が、汗か土か知らないが、黄と茶でまだらに染まって薄汚れた衣服を着て、首筋の汗をぬぐう様な仕草でしきりに腕を動かしていた。
「お前さん……ひょっとして、妖怪かい」
ふと口をついて出た疑問が、相手の素性を殊更に暴き立てる様な危うさを孕んでいる事に、小町は思い至らなかった。
死神として三途の河の渡し守を担当する以上、彼女は色んな連中に出会ってきた。老若男女、貧福貴賎の区別なし。美男も醜女も誰でもござれ。死を受け容れる者、頑強に否定する者。悲しむ者、喜ぶ者。残された家族を案じる者、縁が切れてよかったと言いだす者。涙を流したり大笑いしたり。一期一会という以上の言葉は思いつかないけれど、とかく死というのは一生に一度しかない大き過ぎる出来事なのだから、今生との別れに際しては悲喜こもごもの様相を呈するのが、ごく自然かもしれぬ。
が、このたび彼女の目の前に現れた男は、それまで見つめてきた死者たちとは何かしら違う面があるように思われてならなかった。
……しかし、それが何かが解らない。解らない理由が解らないのである。
もしかしたら尋常でなく汚らしい格好のためかもしれないし、それともどこか人間離れをした不気味さを勝手に勘違いしていたのかもしれない。男の面構えを見れば見るほどに、小町の両眼は怪訝の気を強めていった。見た方が良いと思った。否――見なければならぬと確信した。ただの死人ではないという根拠の無い一念が、かえしの付いた棘の如く、深々と死神の心に突き刺さる。
首をこする腕がぴたと止まり、男の頬が微かに震えたように見えた。口の端をくッと釣り上げて、鎌型が顎に表れる。く、く、と、男は二度笑い、ほどなくして大声で笑い始める。ざんばらの髪の毛を振り乱し、身体を折り曲げると、文字通りに腹を抱えて笑いだした。
「妖怪……妖怪ねえ。馬鹿を言っちゃいけないよ。おれは人間だよ。頭っから足の先までね」
「ふうん。そっか。やっぱりあたいの早とちりかねえ」
「そうさ、そうさ。初めて会う相手への見間違いってのは、あるものだと思うよ」
目尻へ涙さえ浮かべながら、男はあくまで否定したいらしかった。言葉の端々に宿る奇妙に芝居がかった調子を、しかし、小町は見逃す事が出来ない。慧眼――という程でもないが、これでも幾千もの死者と付き合っているのだ。小野塚小町の勘は良く当たる……と、思いたかった。
が、これ以上、男が人間か妖怪かという問答を続けていても埒が明かない。本人が違うと言い切っているのだから確固たる根拠が得られないのであれば、自分の仕事――三途の河の渡し守――を全うするよりほかはあるまい。
「ところで――お前さん、自分が死人だってこと、もう気が付いているかな?」
――――――
舟の舳先は生死の境を隔てる隠り世の河を、一時、切り裂く。
櫂も無しになおも見えぬ向こう岸へと一人でに動く様は、不可視の動力が何処かに備わってでもいるかのようだ。舟が行き過ぎた後には小さな飛沫の音と、生まれては弾けて消える大小様々の泡が残されるのみ。泡は各々群れ集い、河底を明瞭に透過しようとするも、霧がかかったように茫漠とした河中にては誰一人も覗こうとする者とて見出せない。次々と生まれては、束の間、輝いてからぱちんと消え去る儚さは、無常に支配された現世の縮図ででもあるかの如く。
ギっ…………ギっ…………と、古さのゆえに時折、軋み音を発するぼろぼろの渡し舟は、乗るたび小町を不安にさせる。
肩に負うた大鎌同様、この小さな舟もまた彼女の仕事上の『相棒』と呼ぶべき道具であったが、長年に渡って酷使され続けてきたこの舟を新調するだけの金を、渡し守は持ち合わせていなかった。止むを得ず、穴の空いた部分には板で継ぎを当てるなどして修復を繰り返しているが、傍目には継ぎ接ぎだらけの不格好なボロ舟にしか見えまい。
見かけも乗り心地も――到底、安全に使えるのかどうか確信が持てないほどだが、そもそも彼女の雇い主である地獄からして近頃は財政難だという。だからという訳でもなかろうが、支給される舟の新調もままならないような窮乏ぐあいは運ぶ死人に対してばつが悪いというか、死神として示しがつかないような思いがするのも確かなのだ。
舟の真ん中に仁王立ち、両の瞳で見つめるは彼岸――現世を離れた死後の世界。
渡し舟は、だいたい二人が乗れるか乗れないか程度の大きさをしていた。まず船頭である死神が乗るだけの場所が必要だし、次いで死者を乗せるための場所も確保すべきだからだ。元がそれほど大きくはない舟であるが、今までどうにか使えてきた。だが、最近は一人が乗るだけでギシギシと縁起でもない音があちこちから響くようになっている。
……しかし、人も道具もまともに動くうちはまだまだ働いてもらわねば困るというもの。
幸いにして小野塚小町は「距離を操る程度の能力」を有している。彼我の距離を自由に操れるこの力によって、少しでも舟にかかる負担が軽くなっていると、小町は信じたかった。
「……さて。もう一通りは説明したけれど、念のためにもう一度。お前さんは死んだ。魂だけの状態になって、今、あたいと一緒に三途の河を渡ってる。これから彼岸に渡り、あたいの上司――つまり、閻魔様こと四季映姫・ヤマザナドゥ様のお沙汰を受けて、地獄行きか極楽行きかが決定されるのさ」
小さな舟の中。仁王立つ小町は、自らの後ろに胡坐をかく男に顔を少し向けてチラと見、舟に乗る前にした説明を再度、試みる。わずか視界に入った男は元が小柄なためか、窮屈な舟の中でもそれほど難儀せずに座り込んでいるようだ。それに、かなり気持ちが落ち着いている様子でもある。これなら仕事がやりやすくって助かるな、と、小町はほくそ笑む。
死人にも色んな奴があるものだ。大概は大人しく彼岸に渡るが、中には河の途中で「逝きたくない」と駄々をこね始めたり、止せば良いのに舟から無理に身を乗り出して河に落っこちたりする者もいる。そんな厄介者に比べれば、この度の男は不気味ながらもなかなかの“優等生”であった。
「へいへい。おれも子供じゃないよ。いちど教えてもらえば大概の事は覚えられるぜ」
ちょっと頭は悪いけどな。
そう言うと、男はまた片手で首を触り始めた。どうやらこれが彼の癖であるらしい。
「そうかい? いやー、お前さんみたいな物解りの良いのが相手だとあたいも助かるよ。仕事が楽で」
「仕事かぁ。それあ、楽な方が良いだろうな。船頭さん、あんまり仕事熱心そうには見えねえもんな。何たって、昼寝してたくらいだし」
げッ――と、またもや妙な呻きを発し、
「そ、それは言いっこなしだよ。何て言うか、その、死神にもたまには命の洗濯ってヤツが必要なのさ!」
と、小町はしどろもどろに抗弁する。
実際の所、“たまには”どころか毎日のように惰眠を貪る日々なのだが。
――二人を乗せた渡し船は、しばし生死を分かつ大河を進み続ける。
流されるでもなく逆らうでもなく。このまま順調に行けば、あと少しで閻魔の控える彼岸へと到着する事が出来るだろう。
ただ……今日は何だか、まるで霧でもかかったように何もかもが茫洋だと小町は思った。実際に霧がかかっている訳ではない。けれど、どこもかしこも白い靄に包まれて、先に何が待ち構えているのか知れないという怖れが彼女の胸には滞留していた。何度となく死人とともに渡って来た三途の河。いわば小町にとっては庭も同然の場所であるはずだ。しかし、何故か理由の解らない不安が離れてはくれない。自分に危害を加えられる者など今この場には居ない。居たとしても、得物の大鎌で大概の敵は斬り伏せる自信がある。しかしながら、身体のどこかが無闇に熱くなり、焼けた鉄棒でも突っ込まれたような苦しみが消えてはくれない。
それは、ひょっとして後ろに乗せた例の男のせいであったか。
得体の知れぬ不気味な風体が、今もって小町の正常な認識を苛んでいるのであろうか。
そういえば、男はあまりにも大人し過ぎやしないだろうか? 唐突に湧き上がる疑問が、ふと仕事のやり易さという一点にのみ注目していた小町の眼を開かせる。
死というのは言葉を好き勝手に発するほど単純で解し易いものではない。天命と自死の別なく、今まで生きていた肉体から否応なしに意識が離れねばならないという現象は、大なり小なり動揺を伴うものだ。死神に対して最も従順さを見せるタイプの死者でさえ、顔の真ん中に不安げな感情の揺らぎを張り付けずにはおかないというのに。
男には、それが無い。
ただニコニコと、上機嫌に微笑を崩さずにいる。
それが小町には不思議でもあり、また、怖ろしかった。
死神として常なる“境界”の往復を繰り返す彼女が、ついぞ感じた事の無かったであろう恐怖。適当に相手をしていればそのうち切れるだけの一時的な繋がり。そんなものに対して煩わしさに近い一念を覚えたのは、男が初めて――かもしれなかった。
目の前が白く塗り潰される錯覚を、小町は味わった。彼女の意識下でそれを行っているのは、紛れも無しに渡し舟に同乗する、あの不思議な男なのだ。奴は、ただの人間ではないのかもしれない。しかし妖怪の類にしては妖気を発しているようにも思われない。どちらでもない奇妙な同乗者。
そんな事を考え考え、小町の胸がまた不安に熱くなろうとした時である。
「船頭さん。アンタ、名前は何て言うんだい」
「えッ!? ……あたいかい?」
「ここに、おれたち二人以外に誰か居るっていうのか」
それは確かに男の言う通りだが、相手の方から名前を尋ねられるとは、小町にとっては意外だった。
死神と死人の関係とは、河を渡らば容易に切れる一過性のものに過ぎない。互いに名前を名乗っての付き合いなど無い事の方が遥かに多いのだ。小野塚小町とて、それが普通だった。名も知らぬ死者と名乗らぬ死神。それは決して珍しくない。
男は動揺する小町をしげしげと眺めると、首に触れる例の癖を見せながらまた笑った。濁った両目が細められると、それは体格だけでなしに子供のような純真さがあるように見えた。この光景だけは、男の纏う不気味な雰囲気は薄れるようでさえある。朗らかな笑みは朗らかな気を生み出すものだろうか。
「お、教えてくれっていうんなら教えない事も無いけど」
慌てるあまりどもってしまう小町である。
何せ死人に名を訊かれるなど滅多にない事なので、名乗れぬ理由は無いとしても少しばかり驚きが先に立ってしまう。
「自分から教えるのはイヤかい。なら、おれから教えるよ」
彼は、言った。
口をすぼめる様にして頬を指で掻くと、何か数瞬、思案げな所を見せてから自信の名を口にする。赤ん坊に言葉を教えでもするように、ゆっくりと、空気に自分自身の存在を浸透させる如く。
「玄助――ってんだ。おれは、玄助だよ。船頭さんよ」
「玄助、か。ま。良い名前なんじゃないか」
「そいつァ、嬉しいね。船頭さんは?」
「あたいは小町。死神の小野塚小町だ。よろしく、玄助さん」
「小町か。船頭さんこそ良い名前だと思うぜ、おれは」
「褒めたって何ンにも出やしないよ……玄助さん」
何だか調子を狂わされるな、と、死神は内心で独語した。
小町はさっきとは別種の困惑を感じてしまう。一言で言えば、男――玄助はいやに馴れ馴れしいように思える。それが死したが故の不安によるものなのか。それとも単にそういう性格だからなのだろうか。
生前の玄助を知らぬ小町には知りようもないが、しかし、饒舌に死神に話しかけてる輩というのは、大抵が死後の不安が先に立っている。互いの名前などという、一見して瑣末と思える事柄を気にするような者は圧倒的に少数派なのに。
もしも私が舟を漕ぐ櫂を櫂を持っていたならば、この動揺を覆い隠すべく一心不乱に水を突き刺していたろうに――そう考える度、彼女の目蓋は自身でも気付かぬほど細かい震えを見せていた。
ようやく、彼岸が見えてくる。
長いようでいて短くもあり、短いながらも濃密な旅程だった。
死神と死人を乗せたボロ舟は、水の小山を突き崩す舳先を揺らせながら、青々と茂る草を侍らす船着き場へと向けて進路をとる。
まがりなりにも現世と地続きである対岸の船着き場は、薄れていながらまだしも生の茫漠たる空気を吸い込むに良い場所である。彼岸花に覆われて血よりもなお赤々と照らされる地面が、別の世界に足を踏み入れた感を強くさせる場所ではあるけれど。
だが、先に閻魔の待つ彼岸はそうではない。青い空も、空に掛かる太陽も何ひとつ違うところは無いけれど、陽光を取り込み反射する大気には現世とは到底、混じる事の無い瘴気にも似た何かが入り混じっている。水と油よりもなお相性の悪い生と死とは、こうして彼岸の地に到着する事で、ようやくほんの短い拙い一致を見ようとするのであった。
「彼岸だ、彼岸。お客さーん。ようやく彼岸に到着したよ。ほら、立てるかい玄助さん」
「おお、ありがとよ」
岸辺に近づくにつれ、小町は能力を加減して舟の速さを緩めていく。
次第に速度を落とされた渡し舟は果たして不可視の操作より脱し、死神の意思を離れた。波に洗われる葉っぱも同然の揺られようになった舟は、途端に大きく傾き始める。小町は座っていた玄助に肩を貸して倒れぬよう立ち上がらせると、次に舟の内部にしまっておいた縄を取り出し、岸に埋め込まれた杭へと手を伸ばす。縄の端を杭にしかと結びつけ、ちょっとやそっとでは解けぬようにする。こうして河の流れに舟が流されたりしないよう、繋ぎ止めておくのだ。
舟の揺れが縄のおかげで鎮まったのを確認すると、二人は真横に伸びる木製の足場へと降り立った。こちらも渡し舟と同様に、かなり年季の入った様子である。全体が黒々とした苔のようなもので覆われ、近くに寄ると肉の腐った様な奇妙な悪臭を放っているではないか。……いくら財政難だからって、掃除くらいはできないもんかねえ。小町は足場に降りる度、考えるのだった。
小町と玄助は、彼岸の地を踏んだ。
足場の上でカツカツと硬い音を鳴らしていた小町の草履が柔らかい物を踏む感触があり、彼女は一気に頭を切り替える。これから先に待つ沙汰は、死神の手を離れた閻魔の領分。あまり死人に対して肩入れをすべきではない。でなければ、ほんの少しの付き合いでも別れるのが惜しくなってしまうのだから。
「それじゃ……いよいよこれから、アンタは四季映姫・ヤマザナドゥ様の元で審理を受ける事になる。四季様ン所までは、この小野塚小町が責任持って連れてってやるから、途中ではぐれたりしないでくれよ?」
「大丈夫だって、こまっちゃん!」
「こっ……こまッ…………!?」
「ん? 駄目かい。小町だから、こまっちゃん……そう思って呼んでみたんだけどな」
あまりの事態に、小野塚小町の舌がもつれた。そのせいで、まともに言葉を発する事も叶わない。
三たびの動揺が彼女を襲う。“こまっちゃん”とは一体どういう事か。馴れ馴れしいにも程がある。というか、玄助と自分とは仇名をつけられるほど親しくなっていたというのか。けれど、親しげに名前を呼んでくる相手に対しては憎からず思えてしまうのもまた確かだ。それに、よくよく見ればこの玄助という男、けっこう良い男のような気も……。
色んな言葉がグルグルと渦を巻いては彼女の頭の中を駆け巡った。腹の中に焼けた石が入り込んだように、身体中に恥ずかしさの熱が波及する。言うに事欠いて“こまっちゃん”などと。しかし、自分を仇名で呼んでくれる者が居ると思うと、どこか嬉しくなってしまう。
止めろと言えば言えたはずなのだけれど、小町が熱くなる頭を一生懸命にはたらかせて導きだしたのは、
「そそ、それじゃあ――あたいは玄助さんのこと、“玄さん”って呼ばせてもらおうかね……」
という、自ら親しさを助長させでもするような言葉だった。
「おっ。嬉しいね。それじゃあ、案内よろしく頼むよ、こまっちゃん」
「あ、ああ! 任せときなよ」
鎌に触れる手ををワザとらしく動かしながら、空いた方の手をぐっと握って小町はムリヤリ笑顔を作った。
こうなったらもうヤケクソである。
どうせ程なくして途切れる関係だ。互いに仇名で呼びあって、刹那の友情を楽しんでみるのも面白い。そうしよう、ウン。そうしよう。死神の胸に現れた不思議な高鳴りは、なかなか止む気配を見せなかった。
――――――
何とか自分を御する結論に達した小町と、やはり微笑を崩さぬまま首をこする玄助は歩き出した。途中、何くれとなく玄助は小町に話しかけ、小町も気軽に応じるという遣り取りが続いた。
普段どんな仕事をしているのか。
どうやって舟を動かしていたのか。
その大きな鎌は何に使うのか。
話に聞く閻魔様というのは、やはり怖ろしいお方なのか。
嘘をつくと舌を引っこ抜かれてしまうというのは本当なのか。
見かけに似合わず好奇心の旺盛らしい玄助は、あれこれと楽しげに訊いてくる。小町も小町で自分に興味を示してくれる相手に色々と話すというのは、それなりに楽しいと感じる事が出来た。
けれど奇妙なことに、玄助は『自分のことを話さない』。
最初、小町はあの世の様子が気になって仕方が無いから、自分の事情を教えるだけの余裕が無いのだろうと思っていた。が、それでも話を盛り上げようと、時には自分から玄助に話を振ってみたものだ。――しかし、彼は自分について何かを訊かれる度、ふと微笑を曇らせて、俯き加減になってしまう。「俺の事より、こまっちゃんの話が訊きたいね」と、適当にはぐらかされてしまう。
ひょっとしたら、この玄助という男。相当な訳あり……なのであろうか?
「……で、その時の四季様の顔ったら、地獄の鬼よりおっかなくってさ。あれで金棒持ってたら、知らない奴は絶対に獄卒と勘違いしちゃうと、あたいは思ったね!」
「そりゃ、尋常じゃないもんだな。やっぱり閻魔様ってのは、昔の人が言うとおりに怖いお方なんだろうなあ」
「それはもう。昼寝中のあたいを叱りつける時の怒声ったら、それだけで地が割れる様な大音声さね」
「いやいや。そいつは真面目にやらないこまっちゃんが悪いんじゃねえかな?」
そんな、意味も益体も無い雑談が取り交わされながら、二人は歩く。
そして、巨大な城と見紛うばかりの建造物と、人を十人重ねてもまだ足らぬと思えるほどに巨大な鉄の扉が現れる。
「さて――ここが地獄の入口だ。この扉の先に閻魔様――四季様がいらっしゃる。あのお方の前で嘘なんてつこうものなら、あッという間に見抜かれて地獄行きだ。気ィ付けなよ玄さん」
「ほうほう。正直が美徳なのはあの世でも変わらないんだね」
ここまで来ると、さすがに玄助でも泰然自若として微笑し続ける様にはいかなくなったようである。
首を掻く手がフと止まり、言葉を発する唇も、こころなしか動きを小さくしているのだ。
無理もあるまい、と、小町は思った。
この先で受ける裁きで、極楽か地獄かが決まる。いくら玄さんが気丈でも、いつまでもヘラヘラしていられる方がどうかしている。
「それじゃ、行こうかい。せいぜい極楽に行けるよう頑張っとくれよ」
言うと小町は、眼前に聳える巨大な扉へと歩み出した。
地獄へ通ずる門を潜る時は、いつでも言い知れぬ緊張に包まれてしまう。足先から地面に呑まれて自分が地獄に落ちて行くかのように。だが、今日は少しだけ気が楽かもしれない。ほんの一時の付き合いとは言え、玄助という友達に恵まれたのだから。
――――そこまで考えると、小町は、さっきまで自分の後ろにくっ付いていた小柄な男の影が無くなっている事に気が付いた。少しばかり慌てて周囲を見回すと、既に歩き出した小町の後方。さっき立ち止まって説明をした所に相も変わらず玄助が突っ立っているではないか。どうしたのだろう。もしかして土壇場で怖くなってしまったか。
小町は心配になる。
すぐに踵を返し、案じるべき友達の元へと駆け寄った。
玄助は、また笑っていた。一度は消えた例の微笑が、落ち窪んだ眼窩から零れるように、フツフツと。道化のように芝居じみた笑みを、小町は久しぶりに不気味に思う。自分が数時間前に玄助に出会ったとき、やはり不気味に思っていた事を、彼女はようやく記憶の底から引っ張り出した。
「どうしたんだい玄さん。急に怖くなったかい」
「……」
「まあ、仕方ないよね。普段は平気だと思っていても、イザって時には緊張しちゃうもんだしね」
「……」
「ねえ。玄さん。返事をしておくれよ。どうしたってんだよ。玄さんったら」
「……」
玄助は、小町の呼びかけには一切応えようとはしない。まるで、死人とは思えないほど陽気だった例の玄助が虚構の産物だとでも言うように、今の彼は石のように沈黙していた。
そのまま、数瞬。
小野塚小町に向かって、ようやく玄助は口を開いた。
彼の言葉は、心の臓に刃物を捻じ込まれるが如き感覚にも似ていた。
抜き身の短剣が胸に突き刺さる空想の中から、小町は遠くなりかけた現実をようやく認識する。なおも玄助の言葉は彼女の中を駆け巡って、目には見えぬ傷を作り続けていた。繰り返される記憶の反復は、ほんの一言より受けた衝撃を幾度となく彼女へと思い知らせるのだ。
何度目か引き出された、小町の中の玄助が問う。
「……こまっちゃん。アンタ、人を喰ったことはあるかね」
(続く)
というか序盤からぐいぐいと物語に引き込まれる。
やっぱりジャンルで食わず嫌い決めてちゃいけませんね、反省至極。
というわけで続き期待してます。
>死というのは言葉を好き勝手に発するほど単純で解し易いものではない。天命と自死の別なく
→私の狭い知識の押付けに過ぎないのですが、自死と対になる語句ならば〝定命〟などの方がしっくりきますね
>何か数瞬、思案げな所を見せてから自信の名を口にする→自身の名を
>もしも私が舟を漕ぐ櫂を櫂を持っていたならば→舟を漕ぐ櫂を持っていたならば