「ところでお嬢様、明日お暇をいただきたいのですが」
「ふむ?」
レミリアの知る十六夜咲夜とはメイドとしての資質を全て備えており、休日といった休日もなく、毎日忙しく館内の掃除から家計の管理など、紅魔館の運営に関わるもの全てをこなしている才女である。
逆に言えば、レミリアはそれ以外の咲夜を深く知らないし、知る必要もないと考えていた。レミリアにとっての「十六夜咲夜」とは紅魔館のメイドであり、取るに足らない、けれども何よりも楽しませてくれる人間という種族である。
十分過ぎる。
「明日の分の仕事は、妖精メイドだけで事足りますわ」
「結構なことね。でも、休日ぐらいもっと取ってもいいのに。働き詰めじゃないの」
「何かしていないと身体が腐ってしまいますもの。休みが要らないぐらいに、メイド稼業というのは肌に合っているのです、お嬢様」
メイド稼業というよりか、参謀だとか右腕だとか家老とか。
そっちのほうが似合うような気がするなぁ――と考えて、レミリアは最近漫画の読みすぎだと思い直した。
美鈴は一体どこからあれだけの漫画を仕入れてくるのか。今度聞いてみよう。明日とか。
「咲夜さんが漫画もってっちゃうんですよぅ」
泣きついてきた美鈴を、仕事中に読むなと蹴っ飛ばしたのもいい思い出だ。
明日はその咲夜も居ないことだし、美鈴も存分に羽を伸ばしてくれるだろう。
それは紅魔館にとっては良くないことだとも、思うが。
「ああそうそう」
レミリアはくるくると自らの髪の毛を指に巻いた。
「かしこまりました」
深々と傅き部屋を出た咲夜は、なぜか白衣とマスクに身を固めて戻ってきた。
それは違うと思うのだけど、と口に出したことはある。
しかし「形から入るのが重要です」と真顔で返答された。
人間の里の美容師はその風貌で仕事をしているのだろうか。
咲夜のボケはわかりづらいので、ツッコミを入れるのも億劫だった。
「いつも通りで?」
「いつも通りで」
帽子を外すと、いくらか育った青色が顔を覗かせる。
「髪の毛は伸びるんですよね」
「さあ、身体の変化は少なくとも、髪型ぐらいは弄れってことじゃあないの?」
「それは粋な心遣いですね。神様も」
「鬱陶しいだけだわ。フランのも今度、切ってあげるのよ」
「かしこまりました、お嬢様」
ぱさり、ぱさりと真昼の空より明るい青が、敷かれた文々。新聞増刊号の上に積み重なっていく。
レミリアにとっては、主人の意図を言わずとも汲み取る咲夜は、何にも換え難い宝だった。
霧雨魔理沙の家というものは、およそ人間の居住する環境としては最低の位置に存在している。
ところ構わず転がるがらくた。倉庫と思しき場所にもがらくた。がらくた、がらくた。
外観はともかくとして、二十歳に満たぬ女性が一人暮らしをするには相応しくない。
家主は用事があればでかけてしまう。家にはほとんど、客を招かない。
当然、不意に訪れる客というものはほとんど居ない。
「あー……」
であるからして、鼻水をすすったところで、乙女の品格が下がるということもない。
そもそも、風邪が長引くとは思っていなかった。
何しろ自分は若いのだし、免疫力も過分と思っていた。
たまには風邪を引いて中和しないといつか中身が爆発してもおかしくない。
そう嘯いていたのも今は昔。寒気のする体でパチュリーの図書館を襲撃したのがトドメとなって、こうして寝込むことになった。
どうにか起き上がり、お粥か何かを作って口に入れたい。
入れなければならないというのに食欲もわかないし、身体も動きたくないとストライキの真っ最中だ。
「食べなきゃよくならんよなぁ」
その理屈は重々承知しているのだが。
「寝て体力が回復したら、お粥を作る。これだ」
こういった妥協に逃げてしまうのも、半端な病人の思考では極自然なことだった。
しかし、抗い難い咳やくしゃみの襲撃ときたら、大変な勢いで喉を焦土に変えてゆく。
仮に寝付けたとしても、悪夢のようなものにうなされて(目が醒めてからはよく覚えていないが)時計は進んでいないという悪循環である。
「くっそう、いっそアリスん家に向かってマスタースパークでも打ち込んでやろうか。そしたらあいつはやってくるに違いない」
その後ボコボコに殴られるに違いない。
「意味がない!」
自分の思考と戦ってみて、いよいよ万策尽きたことに気づいた。
霊夢は神社から出るような女でもないし、アリスもこちらから訪ねることしかない。
他の顔見知りも、このタイミングで訪ねてくるような奴がいるだろうか、いいや、いまいて。
「風邪を引いたときのために、病人食やアリスの人形なんかを用意しとくべきだったな」
地下に潜ったときみたいに。
「そうそう、他にもメイドなんかを雇っておくといいわよ。そしたら部屋だってこんなに汚くならないし」
「そうだな。うちにもメイドを一体欲しいってお前どっから入った」
「玄関から」
「いやそうなんだろうけど、なんでお前がここに居る?」
「玄関から入ったからかしら?」
「いやいやそうじゃなくてだな。紅魔館のメイドがなんでここに居るんだって私は言ってるんだ」
「今日はメイド服じゃないんだけどなぁ。メイドに見える?」
「ああもうメイド服以外も似合ってるけどな! ごほごほ!」
「私の名前は十六夜咲夜よ。ごほごほっていうのは私じゃないわ」
「それは咳だ!」
「やたら気合入れて言うもんだから勘違いしちゃったじゃないの」
「……じゃあ十六夜咲夜さんが、なんで私の家に居るんですか」
「勝手に上がりこんだからかしら、玄関から」
「玄関から離れろよ!」
「いまはベッドの前に居るじゃない」
「ああもう!」
「ごめんなさい。魔理沙が弱ってるとついからかいたくなっちゃっていけないわ」
「弱ってるよ! お前のせいで余計な体力使ったよ! いいから帰れよ!」
「寝て起きたらお粥を作る。くっそう、いっそアリスん家に向かってマスタースパークでも打ち込んでやろうか。そしたらあいつはきっとやってくるに違いない」
「声真似すんな気持ち悪い。っていうかいつから聞いてた!」
「食べなきゃよくならんよなぁ、ぐらいからかしら」
「そこで首を傾げんな! 性格悪いなぁおまえは!」
「ここで問題です。卵粥とミルク粥、どっちが魔理沙は好みでしょう?」
「……えっと、梅干が棚にあるから、卵粥に入れてほしい」
「あいわかりましたーっと」
くるくると踵を返し、心底楽しそうに台所へと向かっていく咲夜を、魔理沙は布団を被りつつ見送った。
ウェストを絞ったテーラードジャケット。女性らしい特徴が強調されていて、自分の発展途上国が恨めしくなる。
灰色のスラックスなんて、若い女性が履くには地味で趣味が悪いはずなのに、咲夜に履かせればそれだけでオーラを放ってるみたいだ。
私服もキッチリカッチリ決めていて、自分では到底似合いそうにないそれらを、この世から処分してしまいたい。
ひらひらのついたブラウスだって、自分じゃただの少女趣味なのに、咲夜が着たらアクセントにしかならない。
どう考えても不公平だって、一人魔理沙はむくれた。星柄のナイトキャップを、口元まで下げたい気分だ。
魔理沙にとって、弱っているときに一番来て欲しくない相手が咲夜だった。
確かに誰かが来てくれたらすごく助かる。そう思った。思いはした。
でも、どうして神様は半端なところで空気を読まないんだろう。
一応弁解しておくけれど、咲夜が嫌いなわけでは決して、ない。
ただ、風邪を引いている姿を見られたくない相手が、咲夜だったというだけなのだ。
咲夜は料理も上手だし、こういった看病に対しての気が回るだろうけど。
きっと看病人としては一番適任なのが咲夜なのだということも、魔理沙は頭では理解しているのだけど。
それでも、嫌なものは嫌だった。
台所から、楽しそうな鼻歌と、おなかの中が空っぽだったと思い出させる匂いが漂ってくる。
きゅう、と性悪な音が鳴るのを、まさか聞かれてはいるまい。
けれども、気恥ずかしくなった魔理沙は、布団を深く被った。
「魔理沙ー、部屋片付けないとよくなるものもよくならないわよ?」
「私にとっては整理整頓されてるんだ。勝手に触らないでくれよ」
「紅魔館の常識では、埃を被っているものは整理整頓とはほど遠いものなんだけどなぁ」
「地域差って奴だな。魔法の森の常識は他とは違う」
「アリスは?」
「アリスは出身地が違うから」
「魔理沙だって、生まれは人間の里じゃないの」
「郷に入れば郷に従え。アリスはそこらへんをまだ理解していないんだな、きっと」
「本人が聞いたらきっと怒るわよ。あの子、皮肉屋のくせに変にマジメだから」
「そうかもな」
「そうよ。というわけで片付けておくわね」
「捨てるなよ?」
「まさか、人間の尊厳を捨ててる魔理沙にそんなことを言われると思わなかったわ」
「一般の女の子としての尊厳は、どこかに片付けてしまったかもしれないぜ」
「そうかしら? 私から見たら魔理沙はよっぽど女の子女の子している気がするけどね」
「そうか?」
「そんなものよ」
喉が渇いたな、と魔理沙は会話を打ち切った。咲夜に水を持ってきてくれるように頼もうかと身体を起こすと、手の届く場所に水差しとティーカップが置かれていた。
それも、この家では見たことのない陶器製のもの――レミリアが気に入りそうな具合の代物だった。
「なぁ」
「お水なら枕元に置いてあるわよ」
出鼻を挫かれた気がして、大人しく水をいただくことにした。
咲夜はいつもこうなのだ。先回りして先回りして、こちらの欲しいものを見透かしているような気がする。
宴会の時だって、いつも忙しく周りの世話をしていて、不満そうな顔など一つも見せたことがない。
渇いた喉を潤して、魔理沙はもう一度ベッドへと寝転がった。
「魔理沙。熱とかは大丈夫?」
「あー。全身がだるい以外はあんまし」
「そう? チルノが居たら氷を作ってもらったんだけど、あいにく見つからなくって」
「うん」
というのは強がりで、本当はくらくらするぐらいに熱っぽい。
水枕や水で濡らした手ぬぐいなんかがあれば、最高にいい気持ちになれるのだろうけど。
「やっぱり、熱あるじゃないの」
ぴと、っと。
額に手の平が触れた。
微熱がそのまま、吸いとられていくみたいだ。
「病人なんだから、甘えるところは甘えなさい」
「……お前が低体温なんだろ」
「手が冷たいと、心が暖かいらしいわ。良かった」
「お前がか?」
「少なくとも、貴重な休日を病人の看護に費やすぐらいには」
「……悪かったよ」
「そのために来たんだから、気にしなくていいのよ。お粥ができるまで横になってなさい。いま手ぬぐいを持ってきてあげるから」
咲夜がここに居るということは、紅魔館のメイドのお仕事を休んでいるということなのだ。
わざわざ休日に私のことを訪ねてきて、あの水差しは本当は、紅茶を淹れるためのポットだったのかもしれない。
そうだとしたら悪いことをしたなぁ、と魔理沙は少しだけ、居心地が悪くなってきた。
額に乗せられた、冷たい手ぬぐい。
くつくつと鳴っているお鍋と、椅子に座って目を閉じている咲夜。
部屋の中に目線を泳がせても、魔理沙の居心地の悪さは解消されそうにはなかった。
「咲夜?」
「何?」
「……お前、もしかして私が風邪引いてるってわかって来たのか?」
「そうよ? 確信はなかったけど、そうだろうなって思って。ああそうそう、パチュリー様からお薬を頂いてきたから、お粥を食べた後に飲みなさい」
「……なんでだ? どうして私が風邪っぴきだってわかったんだ?」
「こないだうちに来たとき言ってたでしょ。『明日も来るぜ!』って。だというのにこなかったじゃないの」
「それは、急用ができたからかもしれないだろ」
「あの日はパチュリー様も少し体調が優れなかったのよ。だから、弱ってる魔理沙でも勝てたのね」
「弱ってるって、私がか?」
「そう。美鈴が言ってたわ。いつもよりもキレがなかったって。あと、気が乱れているとかなんとか。
だったら追い返しなさいって言ったらしょぼくれてたけど」
「違いない。でも、それだけのためにわざわざきたのか?」
「それだけのためにって、何がそれだけのためなのよ」
「私が、風邪を引いているかもしれないっていうことだ」
魔理沙はそう言ってむくれて、布団で顔を隠した。ご丁寧に、額は外に出したままで。
「十分過ぎる理由じゃないの。あなたは一人暮らし。うちは私一人が居ないぐらいで潰れたりしないわ」
「でも、さくやにとっては久しぶりの休日じゃないのか? それを私なんかのために浪費して、それでいいのか?」
「何を気にしてると思ったら、そんなこと?」
「そんなことって、結構たいしたことだろう」
「うーん、少なくとも、魔理沙が風邪を引いているかもしれない、ってことぐらいにはそんなことなのかもしれないわね」
くすくす、と悪戯めいた笑い声をあげる咲夜と、布団の中で余計にむすっとした表情に変わる魔理沙。
お互いに、次の言葉を紡がずに、奇妙な沈黙が訪れた。
可笑しくてたまらない、そんな口調で咲夜が口火を切る。
「だってそんなことで悩んでるとは思わないじゃないの、普通。むすっとされるとも思わない」
「普通は貴重な休日を病人の看護に使わないぜって、私は言ってるんだ」
「別に貴重でもなんでもないわよ。私はメイドの仕事が好きだから毎日しているんであって、休もうと思えば休めるわ」
「そうなのか? でも」
「でも、じゃないの。魔理沙? 病人はもっと看護人に甘えるものよ。取り替えてあげる」
額に乗ってた手ぬぐい、もう随分温くなっていたそれが持っていかれてしまった。
そぉっと、魔理沙が布団から目だけを出して、咲夜の背中を伺った。
魔理沙にとって、咲夜の背中は誰よりも大きかった。
魔法使いの先輩としてのパチュリーや、同年代のライバルと位置づけているアリスや、霊夢とはそこには一線を画すものがある。
十六夜咲夜とは、自分よりも年上の余裕を持った女性である。
十六夜咲夜とは、何事も瀟洒にこなし、気配りにも優れた女性である。
宴会の時に彼女がいなければ楽しい時間にはならないだろうし、裏方に徹していてくれるから騒げるのだということを魔理沙はよく理解している。
振舞われる手料理も、自分が作るそれとは比べ物にならない。咲夜がメイドでなく、人間の里で小料理屋を開いたとしたら。
それは瞬く間に行列のできる人気店になるであろうという確信があった。
しかし、それは才能という言葉一つで片付けられるものではないということも、魔理沙は知っている。
たった一人、人間の身で吸血鬼に仕え、メイド長という役職――というよりも、紅魔館を実質的に切り盛りしている立場であるということ。
もちろん並外れた才覚がなければ成り立たないことであることは間違いない。
けれども、血の滲む努力の果ての果て、そして想像が及ばないほどの過酷な運命を乗り越えてようやく、十六夜咲夜はここでお粥を作っている。
見たことがないぐらい、楽しそうに。
実家を捨て、魔法の森で暮らし始めて数年。
ライバル視している相手と切磋琢磨し、自分を磨いているつもりだったが、その努力すらも咲夜の前では、霞む。
霞むどころか、努力と言うのもおこがましいのではないかという気持ちにさえなる。
だからこそ、魔理沙は咲夜にだけは、自分の弱さを見せたくなかった。
自分は地に足をつけている。魔法使いとして一人前なのだということを、認めてほしかった。
誰よりも、十六夜咲夜という、紅魔館で働く人間のメイドにだ。
くつくつ、と小気味良い音が台所から聞こえてくる。
鼻歌もそれに乗って、流れてきている。
今台所でお粥を作っている相手がアリスだったなら、憎まれ口の一つや二つ、叩いていると思う。
霊夢だったら気兼ねなく、世間話を振っているんだと思う。
パチュリーだったら……。ありえないけど、何が出てくるんだと戦々恐々しているはずだ。
魔理沙は一人布団の中で呟く。
永遠にお粥が、できなければいいのにと。
おなかがきゅるきゅると情けない音を立てているけれど、それとこれとは別である。
意地を張らなければ食べられるであろう、美味しそうな卵粥。とろとろした卵と、ちょうどいいぐらいにふられた塩気。
それに、梅干を千切って頬張るのだ。弱った身体に染み渡るお粥の暖かさといったら、筆舌に余りある。
その誘惑を果たして断ち切れるのか、それは魔理沙にとっても苦渋の選択であった。
しかしそれを乗り越えた先に
「できたわよ。身体起こせる?」
「……うん」
抵抗勢力はさしたる抵抗も見せずに白旗を上げた。
予想通りに小鍋にはとろとろとした卵が綺麗に入ったお粥。付け合せにどうぞと、ご丁寧に蓋を外された梅干入れ。
おなかを空かせている今、この魅力に抗える者が居たとしたら、それは仏陀をも凌ぐ悟りを開けるに違いない。
器に盛られていくお粥に、梅干を千切ってのっけたい。はふはふと息を吹いて、口の中に頬張りたい。
喉を通っておなかの中に入れば、身体の芯からぽかぽかと活力が湧いてくる。
スプーンをこっちに、渡してほしい。
魔理沙がそんな目を向けると、咲夜はわざとスプーンを取り上げるようにしてお粥のなかへと突き入れた。
「ね、魔理沙、あーんってしてあげよっか」
「いらねぇよ。自分で食えるっつの」
「そう。一回してみたかったんだけどなぁ」
「……そこまで言うなら、してもいいけどな」
「やった。はい、あーん」
「……あーん」
お粥の味が、背中すら見えていないということを否が応にも突きつける。
自分で、アリスが、霊夢が、パチュリーが。
そうして作られたお粥ならば、こんなにしょっぱくなかったはずなのに。
涙が止めようもなく溢れてきた。
「あう」
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「そうじゃない、そうじゃないけどさ。美味しいけど、美味しいから」
弱った身体に活力が戻ってきた。
それが涙という形で溢れてくるぐらいに、美味しかったけども。
「わたしは、わたしはな、もっと強く、格好よくなりたいんだよぉ。弱いところなんてちょっとも見せず、こうやって、泣いたりなんかしないぐらい。
一人でなんでもこなせて、ほかの人の分までいっぱいいっぱい、気配りもできるぐらいにかっこうよく。
でもわたしは、わがままで自分のことばっかりに精一杯で、咲夜にだって迷惑かけちゃってるから」
一度堰が切れると止まらなかった。
「霊夢だってアリスだって、別に風邪引いてるところ見られたって何も思わないよ。思わないもん。
でも、咲夜にだけは、咲夜にだけは弱いところを見られたくなかった。わたしのこと、認めてほしかった。
図書館にいくときだって、咲夜は私の事を匿ってくれるし、美味しいお菓子だって紅茶だって出してくれる。
子供扱いされてるみたいで、悔しかったんだよう」
ぐずぐずと泣きじゃくる魔理沙を、咲夜はそっと胸元に抱き寄せた。服が涙や鼻水でぐちゃぐちゃになるのを、一瞬たりとも厭わず。
「子ども扱いしたつもりはなかったけど、させていたならごめんね」
「違うんだ。咲夜は悪くないんだ。私がばかで、子供だからいけないんだ」
「そんなことない、そんなことないわ?」
「そんなことあるから、咲夜は困った顔をしてるんだろう?」
「顔を上げてごらんなさいな。私は少しも困ってないわ?」
恐る恐る魔理沙は顔を上げる。
そこには、お粥を運んできた時と何ら変わらない表情の、咲夜が居た。
「私は魔理沙のことが好きよ。やんちゃで、がんばり屋さんで、すっごく真っ直ぐじゃない」
「違う。私はすぐに落ち込むし、努力も足りないし、自信も全然ない根暗なんだ、半端ものなんだよ」
「じゃあ、私は魔理沙のことを全然知らなかったのね。それってちょっとショックかもしれないな?」
「咲夜は、完璧で瀟洒で、周りに気配りもできて、すごいじゃないか。私なんか、咲夜に敵うことなんか何一つなくって」
「そうかしら? 私だって落ち込むこともあるし、できないことだってたくさんあるわ。
それこそ魔法は使うことができないし。細かい失敗は、結構あるのよ?
何よりも……。周りを明るくさせる魔理沙みたいになりたいって思ったこと、いっぱいあるのよ?」
「え?」
「どうしてかしらね、楽しいときも、『つまらないの?』って言われることが多くって」
そう言って寂しげに、自らの頬に手を当てる咲夜。
こんこん、と咳は出ても、上手い言葉が魔理沙には見つからなかった。
どんな瞬間も気を抜けない、そんな場所を生き抜いてきた者に染み付いた生き方。
確かに、その立場からしたら、能天気に笑っている私なんかが、酷く羨ましく見えるのかもしれない。
卑屈な考えであると、わかっていた。とてつもなく、卑怯な解釈であるとも。
こうしたところで咲夜と自分との差が埋まるわけでもないというのに、それでも咲夜の言葉を受け入れることが、魔理沙にはできなかった。
むくれている怒気が、空気を伝わったのだろう。
咲夜は少しだけ、ほんのちょっとだけ泣きそうな顔をして。
その次の瞬間には、満面の笑みを浮かべた。
「でもね、不思議と魔理沙がいる宴会ではそういうことは言われないの。みんなからも『楽しそうね』って言われるから。
レミリアお嬢様やフランドールお嬢様も、パチュリー様も美鈴だって、魔理沙が来るようになってから明るくなったわ。
もちろん、それだけではないんでしょうけど。妖怪たちだけで宴会を開くことも、紅魔館ではままあるんだけど……。
みんな今ひとつ、楽しみきれてないのか、集まりもあまりよろしくないのよ。でも、博麗神社で宴会を開くときは」
「大抵、全員集まってるよな」
「ね」
「でもそれって、霊夢のおかげなんじゃないのか?」
「それは元々騒ぐ、伊吹萃香や八雲紫みたいな連中だけ、もっと周りを見なさい」
咲夜は苦笑して、訝しむ表情をする魔理沙の頭を撫でる。
「びっくりしちゃった。魔理沙に私がそう思われてたんだって。私はもっと、魔理沙に甘えてほしかったけどな?
魔理沙って、霊夢やアリスには遠慮なく喋ってるのに、私と喋るときって距離を置くんだもん。
それが寂しくって寂しくって、私は幻想郷に馴染めてないんじゃないかって、泣いたときもあったんだから」
「それは嘘だろ」
「うん、泣いたのは嘘っぱち。でも寂しかったのは本当」
魔理沙は戸惑っていた。
目の前にいる「十六夜咲夜」は完璧で瀟洒で、憧れていた姿とはかけ離れていて、歳相応の少女でしかなかったから。
「霧雨魔理沙」にとっての「十六夜咲夜」とは、いつも完璧で、どんなときも涼しい顔で居る女性だった。
「霧雨魔理沙」にとっての「十六夜咲夜」とは、自分と違いつまらない悩みなど持たずに在るべくして在る。そんな存在だった。
「霧雨魔理沙」にとっての「十六夜咲夜」とは、こんなにも、自分を気にかけてくれる存在だったろうか?
今頭を撫でてくれているその人は、憧れにしていた像よりもずっと、優しい。
温もりのせいでそのまま、蕩けていってしまいそうになるぐらいに。
許されるのならば、ずっとこのまま居させてほしい。
甘えさせてほしいと、声を大にして言いたかったけれど、それをぐっと堪えた。
「なぁ咲夜」
「なぁに? 改まって、愛の告白でもするの?」
「今日、来てくれてありがとうな。……あとさ、お粥、冷める前に食べときたいんだ。
で、何度もお願いするのは恥ずかしいから言わない。手を動かすのが億劫だから、食べさせてくれ」
「口移しで?」
「それは勘弁願いたいな。ただ、風邪を移せば治るって言うしな? これがファーストキスじゃなかったなら、お願いしていたところだったぜ」
「それは残念。魔理沙にだったら、私のファーストキスをあげてもいいって思ってたのに」
「冗談だろ」
「ええ。セカンドキスまであげてもいいって思ってるから」
「だから」
「はい、あーん」
「あーん」
なんだかペースに乗せられている気がしたけれど、お粥が美味しかったのでどうでもよくなった。
そう、こんな言葉遊びは、心底どうでもいいことなのである。
どうでもいいことが、何よりも大事なコミュニケーションでもあるのだけど。
「それでさ、咲夜、お前はいつ帰るんだ?」
「んー……魔理沙が寝付いたら、かしら。一晩寝たら良くなるでしょ。
そうそう、良くなったら紅魔館に顔出しなさい。泥棒じゃなくて、お客としてね」
「どっちで行くかは考えておくとして、わかったぜ」
「あと、家をちゃんと片付けておくのよ」
「それはどうかなぁ」
「私が気軽に、遊びに行けないじゃないの」
「それもそうか。じゃあ考えておく」
「考えてばっかり」
「人は考える葦だからな」
他愛のない会話から、少し深い会話まで。
咲夜の見聞きしてきた外の世界の話から、魔理沙の口から語られる、少々脚色された幻想郷向けの昔話まで。
二人の会話は、もう一度太陽が昇っても尽きることはなさそうだった。
魔理沙が汗をかいて気持ち悪いと言ったら、身体を拭いてくれて、着替えも用意してくれた。
薬が苦いと言ったら、蜂蜜がたっぷり入った紅茶を用意してくれた。
頭を撫でてほしいと言ったら撫でてくれたし、
「魔理沙、林檎食べる?」
「剥いてくれるなら食べる」
「兎さんには?」
「して喜ぶ年齢じゃないぞ。私は」
「そう? めーりんなんて兎にしないと食べないのよ。兎のお肉って甘いんですね! っていって喜んで食べるの」
「……それって明らかにおかしな調教がなされてないか?」
「あの子、最近漫画の読みすぎなのよ」
「とりあえず林檎を剥いてくれ」
「ええ、私のナイフ捌きごらんあれー」
「桂剥きって早いなおい!」
「あらやだ。服の下はまっしろって魔理沙みたい」
「……それを言うなばか」
「顔が林檎みたいになってる」
散々にからかわれているうちに、段々と瞼が重くなってきた。
――なぁ咲夜
――なに? 魔理沙
――今日だけでいいんだ。私が寝付くまで、傍に居て欲しい。
思わず漏らした言葉のせいで、一人用には過ぎた大きさのベッドが、窮屈だと悲鳴を上げることになった。
人が恋に落ちる瞬間があるとする。
それはその人の、意外な一面に引きずりこまれたとき。
例えばそれは、宴会を切り盛りしているメイドが、喧騒から離れて微笑みを浮かべていたのを、見てしまったとき。
彼女は義務感ではなく、進んで裏方をすることを望んでいた。自分自身の意思として、選び取っていた。
やんちゃな魔法使いにとっては、がむしゃらに進むことしか知らない魔法使いには、それはとても、煌びやかに見えた。
はじめて、おなじにんげんであることをいしきした。
紅魔館のメイドではなく。
すべてを完璧にこなす超人ではなく。
血が通っていて、辛ければ泣いて、楽しいときには微笑んで。
「十六夜咲夜」は初めから「十六夜咲夜」なのだと思い込んでいた今までが、急にもどかしくなった。
自分に向けてくれる好意、それに対して私は、一体何を返すことができるのだろうか?
いつしかその思いは、認めてほしいという欲求として、魔理沙の心の底にたゆたいはじめた。
霊夢やアリスだったら、素直に頼み事だって、憎まれ事だって言えたのに。
『魔理沙、私の部屋に寄ってかない?』
『遠慮しておくぜ。私は図書館に用があるからな』
あの時の咲夜は、どんな表情をしていたんだろうか。
まどろみの中での後悔は、膨らむ前に弾けた。
魔理沙が薄く目を開けると、目の前では無防備な表情で寝息を立てている咲夜がいた。
ずっと、見ていてくれていた。
体調が悪かったのを気遣って、訪ねてきてくれた。
認めて欲しいと願わなくとも、こんなにも、優しい目を向けてくれていたということが、魔理沙にはたまらなく嬉しかった。
「私に妹が居たら、魔理沙みたいな子が良かったな」
くしゃっと、人懐こい笑顔を浮かべる咲夜など、レミリアでも見たことがないんじゃないか。
そう魔理沙は、内心鼻高々に思った。
「ばかいえ。紅魔館の姉妹の二の舞はお断りだ。なんせ、私は金髪だからな」
「あら、姉はアッシュブロンドよ? 銀と金だったら映えると思うけど」
それだけじゃない。
私の髪はウェーブがかかっていて、咲夜のストレートの髪とは対照的だ。
どこまでも、私たちは両極に居る。
そう告げると、咲夜は歌うように言った。
「お互いに足りないところを補完しあえるのね、それって素敵なことね」
私だって、咲夜のような姉が居たら――同じように、反発していたのかもしれない。
大好きと大嫌いは、両極ではなく裏表のカンケイで。
一人でも平気だと強がっているうちは、甘える相手が欲しいってこと、なのかもしれない。
「お母さん」
「お母さん? ねぇ、いま魔理沙お母さんって言ったでしょ」
「い、言ってないし、違う。咲夜の聞き間違いだ」
「じゃあ、お姉ちゃんって言ってみてよ、お姉ちゃんって」
「ばかやろ」
自然に口を突いた言葉が、無意識なのか意識的なのか、それすらもうっすらとしか覚えていない。
というのも、魔理沙はその頃には半分夢に旅立っていたし。
目が覚めた頃にはもう、確かめる相手もそこにはもう、いなかったのだから。
レミリアの知る十六夜咲夜とはメイドとしての資質を全て備えており、休日といった休日もなく、毎日忙しく館内の掃除から家計の管理など、紅魔館の運営に関わるもの全てをこなしている才女である。
逆に言えば、レミリアはそれ以外の咲夜を深く知らないし、知る必要もないと考えている。
咲夜は忠実という言葉で言い表すには難しいほどに忠実であり、常に創意工夫を持って物事に当たる、完璧で瀟洒な従者である。
部下の質がつまり当主の器ならば、自分は偉大なる当主であると胸を張れる程度には、自慢できる従者である、と。
「咲夜、咲夜」
「ここに」
「ネズミが一匹入り込んでいるわ。早急に駆除を」
「あらお嬢様。お言葉ですがネズミは今日は来ておりません。少々躾の悪い猫が、鰯の頭を持って遊びにきているだけですわ」
「鰯の頭! それは恐ろしいものだわ! となれば、鬼は早々に部屋に戻らなきゃ。咲夜、鰯の頭がどこかへ行くまで私を呼ばないように」
「かしこまりました。ごゆっくり」
「ええ、ごゆっくり」
レミリアの知る魔理沙とは、魔法使いとしては失格で、毎日怪しげなキノコを採集しては、時折紅魔館に襲撃をかけるはた迷惑な輩である。
それ以外の魔理沙はよく知らないし、知る必要もないと考えている。
しかしレミリアは、そのはた迷惑な魔法使いを、自慢の部下の良き友であるとも認識しているのだった。
それこそ、客として来ているときに用事を申し付けるなどという野暮なことはしない程度には、二人の関係を大事に思っている。
「美鈴、漫画を貸しなさい!」
「部屋から持っていっていいですよー!」
手近にあった窓を開け放ち、レミリアは門へと叫んだ。
それが大事な従者のプライベートに対する、精一杯の抵抗である。
人が恋に落ちる瞬間があるとする。
それはその人の、意外な一面に引きずりこまれたとき。
例えば、傍若無人に振舞っている魔法使いが、料理が上手くなりたいと頭を下げてきたとき。
甘い、甘いぜ…
しかとさくまり見届けたなり
願くば血を超えた姉妹の絆が深まりますように
姉妹のような関係の2人にほのぼのさせてもらいました。
ひゃあ!
どうして咲マリって、こんなどうしようもないんだろう……。
すばらしい咲マリを読みました。本当に、本当によかったです。
そしてあとがきwww
>チルノを見つたら氷を作ってもらったんだけど
見つ「け」たらでは?
咲夜さんもそんな人なんだろうなー
とっても甘いですwww
>「鰯の頭! それは恐ろしいもだわ!
恐ろしいもの?
お姉さん咲夜も好きで、お姉さん霊夢も好きだよ。
羊さんの書く誰かと誰かが居る部屋の中の空気がすごく好きだ。
軽妙さとアットホームさが両立したやりとりがお気に入り。
ごちそうさまでした
>自分は偉大なる当主である胸を張れる程度には
「自分は偉大なる当主である『と』胸を張れる程度には」の脱字でしょうか?
甘い紅茶をごちそうさまでした
>これがファーストキスじゃなかったお願いしていたところだったぜ」
じゃなかったら、では
楽しい作品だ。
最高でした。
甘くて悶絶した
枯渇していた咲マリ分、補給完了だぜ!
風邪を引くというシチュエーションはおいしいんだって、改めて気づきましたw
ごちそうさまでした。
あなたの作品のおかげで、さくまりも良いと思っちゃいました……
砂糖吐きそうで吐かない絶妙な甘さ加減だ。
今まで読んだ百合ん中で一番好き