森の茂みをくまなく探る作業にも疲れ、腰を伸ばそうと空を仰いだら、そこに思いがけず目的のものを見つけてしまった。
「……みーっけ」
枝葉の間から覗くうららかな陽射しに満ちた春空を、彼女、緑髪の妖精は目を細めながら見上げる。視線の先、遠い空の只中には、天空の色よりも濃い青をした小柄な影が浮かんでいた。のんびり気ままに空を泳ぐその様は、いかにも自分たち妖精の姿らしい。
まったく、あの子は。あの様子じゃまた、私と遊んでたことも忘れてるな――
緑髪の妖精、並の妖精よりも強い力を持っていることから一部の人間や妖怪の間で「大妖精」と称されている彼女は、溜め息まじりに背中の羽を大きく広げた。ふわりと風を巻いて浮かび上がると、木立に茂る若葉の間を潜り抜け、空へと翔けた。
「おーい、チルノー。見つけたよっ」
虚空をふわふわと漂っている青い影に近づきながら、声を投げかける。相手が完全に友人である妖精だと信じ込んだ、気安い調子の声で。
が、すぐにそのことを悔やんだ。そばまで寄ってみると、そこにいたのはまったく見知らぬ顔の妖精だったのだ。
やっちゃった、と恥ずかしさで頬に熱が上るのを感じる。辺りに自分たち以外の影はない、ごまかしようもなかった。人違いを素直に認め、謝るしかないだろう。大妖精は相手の前で止まると、愛想笑いを浮かべた。
「あの、ごめんなさい……てっきり友達かと思って」
相手の反応は鈍かった。こちらを向いて何度かゆっくりとしたまばたきを繰り返し、それから小さく首を傾げた。ぼんやりした眼差しは、本当に大妖精のことを認識してくれているのか疑わしくなるほど、焦点がはっきりしていない。
「あの……」
逆に大妖精の方が困惑を覚えそうだった。何か応じてくれないと、こちらとしてもこのままバイバイとは言いにくい。
それにしても青い子だなと、相手の反応を待ちながら大妖精はちらりと考えた。大妖精にとって青い印象の存在といえばチルノが代表格なのだが、この初対面の妖精ときたら、友人たる氷精をも上回っている。
淡い水色の髪と藍色の瞳、着衣は白のブラウスに青のワンピース――ここまではチルノとほぼ共通している。でもチルノには胸元を赤く飾るワンポイントのリボンがあったが、こちらにはそんな洒落っ気などかけらもなく、本当に青と白のほぼ二色のみで全身が構成されていたのだ。
よくよく見れば、チルノと人違いしてしまったのが不思議に思えるくらい、他にも異なる点は多い。例えば胸まで届くほど長い髪とか、垂れ気味の目尻とか。背中の羽も、チルノが持つのは硬質な氷を思わせるものが三対六枚だが、こちらのは昆虫のにも似て薄くやわらかそうなのが一対のみ。
なにより、チルノの最大の特徴である冷気を、彼女は纏っていない。間違っても氷の妖精などではなさそうだ。
「あ……の……」
いつしかじっくりと彼女のことを観察していた大妖精は、不意の声にびくりと身を震わせた。相手がやっと口を開いてくれたのだ。慌てて不躾な視線を投げかけるのをやめ、取り繕うようにうなずく。
「う、うん?」
「……う……ん」
ぼんやりした口調に、要領を得ない短い言葉、というよりも音。それだけを発し、青い妖精は口を半開きにしたまま、また黙りこくる。
いったい何なのだろう、この子は。変なのに関わっちゃったかな、と大妖精は胸の中で苦笑を作った。ここは適当に切り上げてしまうべきか。
「えっと……それじゃ、そういうことだから。ごめんね」
もう一度謝って、踵を返す。眼下、さっきまでいた森へと戻ろうとする。
その途中でちらりと振り向いてみたら、青い妖精はまだぼんやりとした様子で、同じところに浮かんでいた。大妖精の方に顔を向けているが、特に引き止めようとする様子もない。
やや強い春の風が横合いから吹き付けてきて、青い妖精の髪をなびかせる。その流れに押されるかのように、妖精はまた空を漂いはじめた。
ふと、大妖精は思い当たった。もしかしてあの子は、この世に生れ落ちたばかりの妖精なのかもしれないと。
妖精がどうやって生まれるのか、大妖精はそんな仕組みなんて知らない。考えたこともない。自然そのものである妖精は、気が付いたらそこに在る、そんなものなのだった。
大妖精自身、自分がいつ、どのようにして世界に生を受けたのかなんて覚えていない。気が付いたら幻想郷で風の中を飛んでいたのだ。それが、彼女の思い出せる最古の記憶だった。
世界が、森羅万象が常に変化を続けている以上、変化に伴って新しい妖精が生まれることだってあるのだろう。あの子は、たった今、変転する世界に生じた小さなひずみからこぼれ落ちてきたのかもしれない。それでまだ自我もしっかりと確立できておらず、上手くしゃべることもできないのではないか。
あくまで大妖精の推測であって、実際にその通りなのかは分からない。でもこれが一番、筋の通る考えのように、大妖精には思われた。そして一度そんな考えに行き当たってしまったら、もう脳裏から消し去ることなんてできない。
そして大妖精は、妖精としては比較的、他者のことを気にかけられる性格だった。だからこそ、チルノという我の強い性格の少女と友人関係を続けてもこられたのだろう。
森へと戻ろうとしていたはずの大妖精は、気が付けば背中の羽を動かすのを止めて、全身で青い妖精の方を振り返っていた。数秒の逡巡の後、また彼女の方へと上昇を始める。
「ねえ、良かったら、一緒に来る?」
そばへと戻り、思い切って声をかけると、相手はやっぱりぼんやりした顔を向けてきた。
「分からないことがあるなら、教えてあげられるよ。それにね、こんなところをふらふらしてたら、通りすがりの怖い人間や妖怪に辻撃ちされちゃうかもしれない」
だからひとまず私と来なよ。大妖精は指を伸ばし、青い妖精の手に触れた。
すると相手は一瞬、びっくりしたように目を少し見開いて、それから微笑んだ。初めて見せる、表情らしい表情だった。
大妖精もつられて思わず微笑してしまう、そんな表情でもあった。
さあ、と大妖精は相手の手を引っ張る。直に触れている相手の皮膚は、温かさも冷たさもなく、不思議な感触をしていた。細く骨ばった、固い手首だった。
「友達とね、かくれんぼしてたところだったの。……知ってるかな、かくれんぼって。知らないか」
森の元の場所へと戻って、大妖精は茂みを掻き分ける作業を再開する。一方の手を、妖精の手としっかり結んだまま。ちょっとでも離したら、この子はどこかにふらりと消えてしまうのではないか、そんな予感があったからだった。
今のところ、青い妖精は大人しくついてきている。
「かくれんぼもね、前は一時、すごく流行ったんだけど。今じゃ思い出したときにやるくらいかな。たまにやるとなかなか面白いんだけどね」
樹間の影にも目を凝らしながら、しゃべりつづける。ふと、溜め息。
「でも友達にひとり、物凄く野放図な子がいて……とんでもない遠くまで隠れに行ったり、そのまま帰ってこなかったり、それはもうめちゃくちゃするのよ。ほんと、困った子なんだ」
言葉の内容とは裏腹に、その口ぶりはさほど困った様子でもなく、むしろ話題に挙げた人物のことを微笑ましくすら思っているようだった。
そんな口調で今回もかくれんぼの鬼となってしまったことの苦労をひとしきりぼやくと、大妖精は青い妖精を振り返り、笑いかける。
「そうだ、あなたも一緒にやってみる? 私の鬼の番が終わってからになるけど」
きっと、これもうまく意味は伝わってないだろう。けれど相手は大妖精の表情を鏡に映すかのように、笑みを返してきた。承諾と受け取っていいのかな、と大妖精は内心で苦笑を作った。
そこで大事なことに気付く。一緒に遊ぶのなら、お互い名前くらい知ってないとやりにくいし、他の仲間に紹介だってできない。
まずは自分から名乗って、尋ねてみる。が、半ば予想していたとおり、相手は首を傾げるだけだった。
困った大妖精も同じ角度に首を傾ける。そういえば私の名前はどうやって現在のものになったんだっけ、と回顧してみた。生まれつき持っていた、のではなかったような。そうだ、確か、友人の誰かが命名してくれたのではなかったか。
じゃあ、私もこの子に。
「名前、私が付けても、いい?」
その思いつきは、意外なほどに大妖精の胸を躍らせた。名前なんて大事なものを人に贈ったことなど、これまでになかったのだ。
青い妖精はやっぱり申し出の意味が呑み込めていないようで、それでも曖昧にうなずいた。きっと名前の重要性も理解していないのだろうけれど、ここは一から説明するよりも決めてしまったほうが早い。ひとまずは了承してくれたと思おう。
「それじゃあ、どんなのがいいかな……」
青い妖精の顔を見て、唸る。眉を寄せて考え込む大妖精のことを、青い妖精は不思議そうに見つめ返す。
森の中を歩き続けながら、だけど大妖精は木々の間に目を凝らすことも忘れ、一心に頭を捻っていた。もはやかくれんぼそっちのけといった風情だ。うんうんと唸り続け、閃きを求めてあちこち視線をさまよわせる。
視線を上に向けたのと、頭上を覆っていた枝葉の屋根が取り払われたのとは、ほぼ同じタイミングだった。いつの間にやら森の端まで来ていたのだ。まばゆさに、足が止まった。
高々と広がる蒼穹の春を映した大妖精の瞳に、きらりと光が瞬いた。うん、とひとつ大きくうなずいたかと思うと、青い妖精に向き直り、その深い碧眼を覗き込んで、
「ティア。ティアちゃん。どうかな?」
あの春の空からこぼれ落ちてきた、青いひとしずく。
この場に他の誰かがいたならば、あるいは何か感想なり突っ込みなりの口を挟んでいたかもしれない。だが幸か不幸か、ここには当事者たる妖精がただふたりきりだったのである。
青い妖精は明らかに現在進行している事態をまるきり把握していない顔つきで、小さくつぶやいた。
「てぃあ」
その音の味を確かめるかのように、口の中で繰り返し転がす。
「てぃあ……ティア」
「そう、あなたの名前。気に入ってくれたならいいんだけど」
「ティア……」
目を細めてかすかに笑い、うなずく。曖昧さのない、はっきりとした動作だった。少なくとも大妖精には、そう見えた。承諾の意味と受け取ってもよさそうな、そんな意志の感じられる動きに思えたのだ。
こうして、命名の儀は滞りなく完結してしまったのであった。
うっすらやわらかに微笑んでいる青い妖精、ティアの表情に、大妖精は自分の命名が受け入れられた喜びと、少しの照れくささを覚えて、紅潮した微笑を返す。そうやって、にこにことした表情を向け合っていると、
「……なにやってんの、あんた」
横合いから不意に声が投げかけられてきて、ふたりはびくりと肩をすくめた。
はっと首を巡らせた大妖精は、やや離れた場所に人間の少女が立っているのを見つけた。
少女は紅白の巫女装束を身に纏い、手に竹箒を握っている。古めかしい木造の建物を背負っていた――博麗神社だ。森を気まぐれに進んでいるうち、こんなところまで来てしまっていたのだ。
そして少女は博麗霊夢、人間の有名人だった。
つないでいるティアの手が、緊張のためか固くなった。大妖精は彼女を背にかばうようにしながら、ささやきかける。
「大丈夫、怖い巫女だけど、こっちから何かしなければ向こうも滅多なことはしてこないから……たぶん」
ティアは大妖精の陰で、身を縮こまらせている。
そんなふたりの様子に、霊夢は片手を腰へやり、呆れたような吐息をこぼした。
「今日はいい日和だけど、こんなところで遊んでたら、いつどんな風が吹いて悲しいことにならないとも限らないわよ。ぶっちゃけたら掃除の邪魔だから、さっさと帰って……」
ふと、巫女は言葉を切った。目をすがめて、まじまじと大妖精たちのことを睨むようにしてくる。
「……ああ、まだあんたみたいのがいたんだ。まったくもう、こっちはとっくに落着したつもりでいたのに。これって誰の怠慢になるのかしら」
なにやら溜め息混じりにひとりごちたかと思うと、竹箒を手放した。箒が地面に倒れるより先、空いた手には、お払い棒とお札の束とが出現している。
え、と大妖精は巫女の態度の豹変に目を見開く。なんで、どうして武装するの?
霊夢は無言でこれに答えてくれた。鋭く踏み込みながら大妖精たちめがけてお札をばら撒いてきたのだ。
大妖精がひとりきりだったなら、呆然と立ちすくんだままこの攻撃を受けて、あっけなく倒れていただろう。だがこのときの彼女には、守ってあげるべき存在があった。この世に生まれ落ちたばかりで、まだ右も左も分かっていない赤子同然のティアが。やっと名前を得たばかりというティアに、いきなり「一回休み」なんて体験させたくはない。
思考より先に体が動いていた。ティアの手を掴んだまま咄嗟の能力解放、ショートテレポート。
かすかな風を残し、ふたりの姿がその場から掻き消える。
まばたきほどの間も置かず、ほど近い森の中に、ふたりは出現している。大妖精が持つ短距離瞬間移動能力の効果だった。
突然のことに目を白黒させるティアの頭を、大妖精は押さえつける。
「伏せて!」
一瞬後、ふたりが身を寄せる樹木の向こうで、着弾の音が連続した。ふたりを狙って追ってきたホーミングアミュレットが、木に阻まれたのだ。大妖精は顔を蒼ざめさせながら、細く息を吐いた。
そして考える。どうして急に霊夢は襲ってきたのだろう。確かにあの巫女は好戦的なところもあるが、ティアに話したように、やたらめったら血を求めるわけでもない。こんな風に理由もなく妖精をいじめることなんてなかったはずなのに。それとも、こちらのあずかり知らない理由が、向こうにはあるのか。
なんにせよ、戦って勝てる相手でもなかった。ましてティアをかばいながらでは。
木陰からそっと神社の方を窺ってみる。初撃をしくじった霊夢は、「めんどくさいなあ」と言わんばかりの顔つきで頭を掻いている。それからおもむろに地面を蹴って浮かび上がると、こちらに向けて飛翔を始めた。追撃してくるつもりだ。
「ティア、逃げるよ」
大妖精は慌てて、つないだままの手を引っ張る。ティアは抵抗もなく後をついてきた。
ふたりで宙に飛び上がったそのとき、背後で悲鳴が上がった。
「なっ、ちょっと、こいつ!?」
動転した霊夢の声だ。
何事かと首だけで振り返った大妖精は、木々の間に霊夢の影と、なにやら光るものとを見た。陽の光とは別種の、一瞬ごとに明るさの強弱が変化する、奇妙な白い光だった。
その正体が何かは分からないけれど、霊夢の注意はそちらに向けられたらしい。今のうちにと、大妖精はティアと共に全速力で木立の中を翔けた。
方向もろくに定めず、どれだけの時間を駆けずり回っただろうか。
一旦、羽を止めて後方を確かめてみたが、霊夢が追ってくる気配は無かった。どうやら撒いたようだと、大妖精は安堵の息をこぼす。めくら滅法に飛び回ったせいで、こちらも自分がどこにいるのか分からなくなってしまっていたけど。もう少し待ってから森の上空へ出て、現在位置を確かめないといけないだろう。
「それまではここで隠れてようか。もう大丈夫だとは思うけど、念のために、ね」
ティアを促して地面へ降り、適当に選んだ木の根元に腰掛ける。大妖精を真似て隣に座ったティアは、小首を傾げて訊いてきた。
「かくれんぼ?」
「うーん、遊びのかくれんぼは、ここまで命がけじゃないんだけど……」
反射的に苦笑を返した一瞬後、大妖精は驚きに口を閉ざすのも忘れた。自分とティアはいま、初めてまともな会話を組み立てられたんじゃないのか。
間違いない。ティアはまだ乏しい語彙の中から状況に合ったものを選び、発したのだ。ティアは、考えている。学びつつある。
言葉や、遊びなどの知識。それに名前。自分が与えたものを基にして成長を始めているんだ――そう実感すると、大妖精の胸が不思議な熱を帯びた。初めて味わう種類の、喜びに近い感情。
これはなんだろうな、とティアの顔を見つめて考える。ティアの深い藍色の瞳には自分の顔が映っていて、ちょっとにやけた表情をしていた。気恥ずかしくなり、緩んだ頬の片方をぽんと叩く。ティアが不思議そうにまばたきした。
「ほんとのかくれんぼはね、やっぱりドキドキするけど、でも怖いってより、楽しいんだよ。次はチルノに鬼をやってもらうから、私と一緒に隠れる側をやろうよ」
「ちるの……」
「そう、チルノ。私の友達。とても強くってね、なんでも凍らせることができるんだ。それでね、ティアみたいに青いんだよ。もしかしたら気が合うかも」
それとも反発するだろうか。真っすぐ最短距離を好むチルノの性格だと、いまのティアと話すのはまだるっこしいことに思えるかもしれないし。自分が上手く間を取り持たなくっちゃ、と大妖精は胸の奥で拳を握った。苦労性なのである。
「ともだち」
その語句に惹かれたかのように、ティアが言う。
「うん。友達」
大妖精はうなずいて、ずっとつなぎっぱなしだったティアと自分の手とを、軽く掲げるようにする。
「私と、ティアも。友達だよ」
その言葉は、自然と口からこぼれ出た。
持ち上げられた自分たちの手を、ティアは瞳で追う。やがて絡めた指に、きゅ、と小さく力を加えた。
大妖精は自分の胸に灯った感情が、さらに熱を増すのを感じた。上気した頬をまた緩めそうになったとき、離れたところで下草のこすれる音が響いた。
霊夢か。つい今まで追われる身であったことを思い出し、慄然となる。もうすっかり逃げ切ったつもりでいたのに。いったい、あの巫女をこれほど熱心に駆り立てるような何を、自分たちはしてしまったというのだろう。
木の幹に背中を預けてすっかりくつろぐ形でいたため、態勢を整えるのに時間を要してしまった。その間に茂みを掻き分ける音はまっすぐ、迷うことなく近づいてくる。ティアとふたり、ようやく立ち上がったときには、すぐそこまで迫っていた。
「……なんだ、妖精か」
温度の低いつぶやきと共に姿を現したのは、大妖精が予期した紅白の巫女ではなかった。灰色の小柄な少女。ネズミの妖怪らしかった。
妖怪は金属製らしき鉤状の長い棒を両手に一本ずつ持ち、その先端をこちらに向けていた。足を止め、大妖精たちのことを睨むようにして眉根を寄せる。
値踏みするような視線に、大妖精は不吉なものを覚え、後ずさりしようとした。が、すぐ背中が木にぶつかってしまう。動転して、咄嗟に次の動きへ移れない。
妖怪はスカートの裾から伸びる長い尻尾を揺らし、その先にぶら下げたバスケットを顧みた。籠の中の暗がりに、小さな灰色の影が素早く動くのを、大妖精は見た。
「妖精相手に私の子ネズミたちが反応するはずもないし……そうか、ではやはりロッドの反応で確かなようだ」
妖怪はひとり、納得したようにうなずく。
大妖精はわけの分からないまま、尋ねてみた。
「あの、あなたは……?」
「私はナズーリン。ああ、いや、君は名乗らなくてもいいよ。名前を覚えたって、妖精なんていちいち見分けてられないからね」
ひどく失礼な言葉を返して、ナズーリンなる妖怪は、大妖精がティアとつないでいる手へと視線を動かした。薄く笑う。
「用があるのは君じゃなくて、君の持っている宝の方なんだ。そう、君が手に持っているそれだ。それは元々こちらのものでね、返してほしい」
「宝……?」
ナズーリンが向けてくる視線の先、自分たちの手元へと、大妖精も目を落とす。つないでいるティアの指先から彼女の手首、腕と伝って、顔へ視線を移していく。藍色の瞳が不安げに大妖精のことを見ていた。
彼女を安心させようと、つないだ指を軽く握る。自分の掌が汗ばんでいるのを感じる。
「宝って、もしかしてこの子のことですか?」
妖精、それもついさっきこの世に生を受けたばかりの者を宝物呼ばわりなんて、大妖精も不自然だとは思う。でも、相手の口ぶりは、そう解釈するほかない。
だが、大妖精の問いに、相手も訝るような表情となったのだった。
「この子……?」
ナズーリンは何度か目をしばたたかせ、それから「ああ」と、何かを察したようにうなずいた。苦いものを含んだように口元を歪ませる。
「そうか、そうだった。あいつがつまらない悪戯をしでかしてくれてたんだっけ」
右手、ロッドと呼んだ棒の先端で、ティアのことを指し示してきて、
「君には『それ』が鳥にでも見えているのかな。言っておくが、君が見ているのは、それの本来の姿じゃない。それは私たちが飛宝と呼んでいる、飛倉の破片なんだ。本当の見かけは、ただの木片でしかないんだよ」
相手が何を言っているのか理解できず、大妖精はティアとナズーリンとを見比べる。この妖怪は頭が変なのか、それともティアをさらうために口から出任せを言っているのではないか、そう考えた。
そんな大妖精の胸中を見透かすように、ナズーリンは肩をすくめた。
「それが散逸した際に、ちょっとした悪さをしてくれた奴がいてね。それの正体をあやふやにして、本来の姿を見て取れないようにしてしまったんだ。飛宝の正体を知っている私たち以外が目撃したら、その人はまやかしを見せられてしまう。自分が持つ知識の中から適当な姿かたちを飛宝に重ねてしまうんだよ」
告げられた内容を、大妖精はすぐには飲み込めなかった。ナズーリンは小馬鹿にするように笑う。
「君が飛宝に見ている姿は、君自身の想像力が生み出した虚像ってことさ。空を漂っているそれを見つけたとき、君は半ば無意識に、自分が知っている何かの影を重ねたはずだ。一度そう信じたが最後、何らかの要因でまやかしが打ち払われない限り、飛宝はその影を君の目に映し続けてしまう」
はっ、と大妖精は息を飲みそうになった。ナズーリンの言葉に思い当たるところがあったからだ。ティアを見つけたあのとき、自分はチルノを探しているところだった。だから、空に浮かぶ青い物体を見て、あれは妖精じゃないかと思ったのではなかったか。
ティアをもう一度見る。彼女がそこにいることを、つないだ手の感覚を確かめたくて、指に力をこめる。加減できなかったためか、ティアが痛そうに喘いだ。大妖精に向けた瞳に、かすかな怯えの色がよぎる。
大妖精は慌てて力を緩めた。かぶりを振りながら、ナズーリンに向き直る。
「嘘、そんなの嘘よ。この子が本当はただの木切れだなんて、信じられない」
「嘘じゃない。それが見せるまやかしは、精神のかなり深いところにまで作用する。君が信じたいものを君に見せ、感覚させるんだ」
ティアがしゃべったことも。ティアが人との会話を学びつつあることも。大妖精に見せた笑顔も。それらの反応はすべて、大妖精の心理が投影された幻の一幕なのだと、そうナズーリンは言うのだ。
そこでふと何かを思い出したように、妖怪は表情の端に憐れみの色を浮かべた。
「そういえば君は妖精か……妖精は自然そのものの具現だ。対して飛宝に取りついたのは超自然的な力とも呼べるものでね、君たちにとってはあまりよろしくない性質を持つんだ。端的に言ってしまうと、触れた妖精を狂わせてしまう。君は、狂ってるんだよ」
「な……」
言うに事欠いて狂人扱いするとは。飛躍した話に、大妖精は咄嗟に継ぐべき言葉を見失ってしまった。
その空隙に、ナズーリンがさらに恐ろしい言葉を投じてくる。
「狂っていないと主張するのなら、私の話に耳を傾けるんだね。それが飛宝であると証明する方法を教えてあげるから。なに、簡単な方法さ。確か人間たちが言っていたんだ……そう、それを“こじ開ける”んだ」
「……え?」
「力ずくでこじ開けてやれば、取りついている『種』が現れて、飛宝も本来の姿を取り戻す。そういう話らしい。私には元から木片としか見えないから無理だけどね、感覚を幻惑されている君ならばできるだろう」
「そんなこと……できるわけないじゃない!」
周囲の木々がざわめくほどの大声で、大妖精は怒鳴っていた。
相手の最後の言葉が、彼女に心を決めさせた。惑いを失わせた。もはやこの妖怪の言葉に耳を貸す必要はない。友人に危害を加えるような真似を求めてくる相手の言葉になど。こいつは敵だ。私たちの、敵だ。
「ティア、逃げて」
ずっとつないできた手を離し、ナズーリンに向けて身構える。自分とティアの汗に濡れた手をワンピースの懐へ入れ、そこに忍ばせてある護身用の苦無を握る。妖怪相手にどれほど抗えるかは分からないけれど、せめてティアが安全なところまで離れられるだけの時間は稼いでみせる――
ティアが心細げな顔で、大妖精のワンピースの端を掴んでくる。大妖精は懸命に微笑を作って見せた。
「逃げなさい。逃げて、隠れるのよ。かくれんぼするの。私が鬼になって、すぐに探しに行くからね」
空いている手でティアの指をワンピースから外してやり、その拍子、妙なことに気付いた。ティアの手が、自分とは違ってさらさらと乾いていることに。ついさっきまで自分と重ねていた掌に、少しも汗をかいていないことに。大妖精の掌を濡らしていたのは、ふたり分の汗ではなくて、大妖精自身のものだけだったのだ。ティアは汗なんてかかない体質で、その理由はもしかしたら……
蒼褪めそうになって、大妖精は急いでかぶりを振り、不吉な想像を頭から追い払った。ティアの体をそっと脇へ押しやる。
「ほら、早く行って。一〇〇数えたら探しにいくよ」
果たしてそれだけの時間、持ち堪えられるかも怪しいけれど。でも、約束することで少しでも自分を奮わせたかった。
ナズーリンが溜め息つくのを耳にする。
「しょうがない、大人しく渡してくれれば、それでよかったんだけど。こっちも仕事だからね」
妖怪は両手のロッドを鉤爪のように構えた。
大妖精は森の奥を指差して、まだそばに立ちすくんでいる青い妖精を怒鳴りつけた。
「行くのよ、ティア! 必ず探し出してあげるから!」
ティアがびくりと肩を跳ねさせて、指された方向へやっと足を向けたとき。
森の木立が作る影の深淵に、高く細く、奇怪な鳴き声が響いた。
鳥のものとも獣のものともつかぬ不気味な声は、木々の間を通り抜けながら徐々に細まっていき、一度はかすれて消えたかと思うと、今度は意味のある言葉となって再び枝葉の隙間を流れだした。
「破片となっても元は飛倉、不思議な力を秘めた飛宝。その力は、大まかに三種類の性格に分かたれたの」
大妖精とナズーリンは対峙している相手のことも一瞬忘れ、声の出所を求めて視線を巡らせた。
「そしてその力のかけらをみっつ、決まった組み合わせで一箇所に集めると、さらなる不思議が起きるの。とても幻想的で、正体不明の何かが」
歌うような声に合わせて、一本の木の陰からひょいと飛び出してきたものがあった。白く光る大きな球体。ふわふわと明るさを変えるその様に、大妖精は既視感を覚えた。そうだ、霊夢から逃げたあのときにも見た光。
ナズーリンが顔色を変えた。
「ぬえ、君なのかい。どういうつもりだ」
強く責める調子の声を無視して、光の球はふたりの頭上を飛び越し、ティアの方へと向かっていく。大妖精が思わずそちらに爪先を向けようとしたとき、光の中から何かがこぼれ落ちてきた。それを見て、大妖精の足が凍りつく。
青い、妖精の影。ティアとそっくりな姿をした妖精がふたり、虚空に出現したのだ。
ティアがそちらを向く。彼女へと、ふたりの青い妖精が手を差し伸べるようにする。大妖精は反射的に制止の声を上げたが、それより早くティアは妖精たちと掌を重ねていた。
三人の青い妖精を中心に、雷光にも似た閃きが生まれ、大妖精の視力を一瞬奪った。
光の球の声が三度、森に響く。
「さあ、来るわよ、正体不明の飛行物体が!」
視界が真っ白に染まった中、大妖精は、遥か頭上に風切り音を聞いたような気がした。
一瞬後、回復した視界に、青と白の影が飛び込んでくる。同時、頬に触れた冷気が、影の正体を雄弁に教えてくれた。馴染み深い、友人の纏う空気。
「チルノ!」
「……っと、ここにいたんだ」
くるりとスカートの裾を翻して、場に飛び込んできた影は大妖精と顔を付き合わせた。青い衣に春空の色をした髪、背中でぱたぱた揺れる薄氷の翼。こうして正面から見比べると、やっぱりティアとはあちこち違う。容貌だけでなく、根底の雰囲気からして。
「家に帰ろうとしてたら、森に変な光が飛んでるのを見つけたから降りてきたんだけどさ」
氷の妖精チルノは、そこで不意に言葉を切り、あっ、と手を打った。
「そういえば、かくれんぼしてたんだっけ」
やっぱり忘れてたのか。こんな場合でなければ、大妖精は思い切り呆れ返っていたところだ。
「そっちも私を探すの忘れて、なにやってたの?」
チルノの問いに、目まぐるしく推移していた状況を思い出し、首を巡らす。あの光の球はどこかへ消え去っていたが、ティアと青い妖精たちの姿は、十本ほどの木を隔てた向こうに、まだ見ることができた。しかし、こちらから遠ざかろうとしている。
「ん? あれ、なに?」
同じ方向を見てチルノが怪訝そうに言った。「あれ」と彼女が表現したその意味を、大妖精は深く考えたくなかった。チルノにはティアがどう見えているのだろうかなんて、そんなの考えちゃいけない。
「私、行かなくちゃ」
チルノに告げながら、ナズーリンの方を見やる。ネズミの妖怪の表情は、混迷した状況に不機嫌さを増していた。両手のロッドは剣呑な形に構えられたままだ。
チルノもナズーリンを向いた。ふうん、と軽く髪を揺らす。口の端を不敵に吊り上げて、
「分かった。じゃあここは私が任されてあげるわ」
何を分かってくれたのか。本当は、大妖精が置かれた状況のことなど、ちっちゃな小指の先ほども把握してないに違いないのだ。それでも自分がするべきことを直感で察して、理由も尋ねず実行しようとしてくれているチルノのことが、だから大妖精は好きだった。友達でいられることが嬉しかった。
「ありがとう」
心の底から告げて、身を翻す。
「いいってことよ」
背中に聞くチルノの声が、頼もしくてならなかった。
「邪魔をしないでくれ。まったく、元々妖精なんかが出る幕じゃないのに、次から次へと……」
前に立ち塞がるチルノへ、ナズーリンは冷淡な声を投げる。
チルノは一歩たりとも譲るつもりは無いというように、傲然と反らした胸の前で腕を組んでいた。
「あたいをそこらの妖精と同等に見てたら霜焼けするよ。なんたって絶対無敵の冷血最強妖精なんだから」
「君は……」
ナズーリンは溜め息を間に挟みながら、言い直す。
「君がしていることは、あの妖精のためにもならない。私たちが何を話していたのかなんて、知らないんだろう?」
「知るもんか、そんなの」
きっぱりと、なぜか偉そうにさえ聞こえる声でチルノは答える。
「けど、兄弟分が助けてほしそうにしてたんだから。だったら助けてあげるのが最強の役目ってものなのよ」
「……君は」
またナズーリンは溜め息をこぼし、けれどその口の脇に小さなえくぼを浮かべていた。
「妖精なんて食料にもならない、私の子ネズミ達もそっぽを向くような代物だからね。悪いが、手間隙かけずに片付けさせてもらうよ」
どこか愉快そうに右のダウジングロッドを肩でとんとんと跳ねさせて、改めて身構えた。
それを目にしたチルノは組んでいた腕をほどき、右手を前に向けた。掌に白く冷たい靄が集ったかと思うと、それは透明な氷の刃を形成する。チルノの背丈にも匹敵するほどの刀身。切っ先が森の地面に落ち、ごっ、と重い音を立てる。
チルノは両手で柄を握ると、歯を食いしばるようにしながら氷結の剣尖を持ち上げ、大上段に構えた。重さにちょっぴり震えた声で、啖呵を返す。
「ふんだ、ネズミを凍らせるのなんて、カエルほども手間がかからないよっ!」
あらん限りの力を振り絞って宙を翔けた大妖精は、ほどなくティアたちに追いつくことができた。
こちらに背を向けていたティアが、気配を察したのか、振り向く。大妖精の姿を認め、目を見開くようにしながら、微笑んだ。
ひどく寂しそうな笑みに見えた。
「ティア……」
わずかな距離を残したところで大妖精は速度を落とし、ゆっくりと近づいていく。
「ティア、見つけたよ」
初めての、手順も何も無視した反則だらけの短いかくれんぼは、これでおしまい。今日の遊びは、これで終わり。だから、一緒におうちへ帰ろう?
告げた言葉にこめたそんな気持ちをティアは理解できたのだろうか。ほんのわずか、首を横に振った。その両手は、両脇にいるティアそっくりな青い妖精たちとつなげている。
さっきまではずっと、自分とつないでいた手――大妖精は汗の乾いた掌を、ティアへと伸ばそうとした。けれど届く寸前で、とどめる。胸元に引いて、指を丸めた。
「もしかして、ティアの仲間なのかな」
ティアの両脇の妖精たちを見比べながら、訊く。ティアはうなずいた。
ナズーリンの話を信じるならば、この反応も、大妖精自身が見たいと望んでいる結果なのだろう。大妖精は信じたいのだった。仲間たちがティアを迎えにきてあげたのだと、そんな風に。ティアはこれから彼女が本来いるべき場所へと帰るのだと。これは決して、悲しむべき別れではないのだと。
自分とはこれ以上、一緒にいられない。それだけは察し、認めることができていた。受け入れがたいことではあったけれど、でも、そうするのが最善だと考えられるだけの理性はあった。
理性。その言葉に、場違いなおかしさがこみ上げてくる。ナズーリンはこちらのことを狂っていると断言したのに。
三人の青い妖精たちは互いに顔を見合わせると、ふわりと浮き上がりはじめた。それぞれ手をつなぎあって輪を作り、ゆっくりと回りながら木々の梢の彼方へと昇っていく。
大妖精はそれを追わず、ただ見上げていた。小さくなっていく青い影のひとつへと向けて、手を振る。
「また、遊ぼうね」
叶わぬ約束だと知りながら。でも、友達と別れるときの言葉には、きっとこれが一番相応しいと、そう信じたのだ。
青い影たちはやがて空の色と溶け合い、見えなくなった。またね、と応える声は、ついぞ聞こえなかった。
その代わり、空を見上げながら長く立ち尽くしていた大妖精の耳に聞こえてきたのは、馴染みの深い友人の声だった。
「あっ、見つけた。またどこか遠くへ行っちゃったのかと思ったよ」
疲れた響きの声に、大妖精は自然と笑みがこぼれるのを自覚しながら、ゆっくり振り返った。
空の高く、まばらに浮かんでいる雲の間を、光の球が気まぐれに明滅しながらふわふわ泳いでいる。
遥か地表に目を移せば、光の球めがけて真っすぐ駆け上がってくる灰色の影があった。
影がそばまで来たとき、光の球は急激に明るさを失い、掻き消えた。替わってそこには一個の黒い人影が現れている。何かの尾にも似た形の奇怪な翼を背に生やした、黒い衣の少女。
少女は灰色の影、ナズーリンを揶揄するような笑みで迎えた。
「はい、お疲れさま。結局、負けちゃったのかな?」
ナズーリンの持つダウジングロッド、その一本が無残な形に捻じ曲がっているのを見ての言葉だった。ネズミの妖怪は髪や着衣も乱し、半ばあられもない格好になりかけている。
「痛み分けだよ」
ぶっきらぼうに応じたナズーリンへ、黒い少女は手を差し出した。そこには形も大きさもまちまちな木片が三つ、乗せられている。光の加減のせいか、木片はちょっと青みがかった色を帯びていた。
「ほら、あなたが遊んでる間に回収しておいたげたよ」
「……よくも抜け抜けと。誰の尻拭いをさせられていると思ってるんだ」
噛みつかんばかりの勢いで、ナズーリンは木片をひったくった。
「ぬえ、君の悪さの後始末を、私はしてあげているんだ。飛宝はかけらとは言え、力を秘めた飛倉の一部、やはり有象無象の手に渡ったりするのは避けたいからね。こうして聖を救い出してからも私が駆り出されているんだ。……だというのに君は、この仕事の邪魔までしてくれて。一体、どういう了見なのか、説明してほしいね」
「だって、せっかくの正体不明の種を、ネズミちゃんがぺらぺら種明かししようとするんだもの。ネタばらししていいのは、種を仕掛けた私だけなんだから」
それに、と、ぬえと呼ばれた少女は黒い猫っ毛をかき上げ、遠くを見るようにする。
「あの妖精がなんだか可哀想に見えてきちゃったから。まさか幻相手に、あんなに情を移すなんてね」
「そう、可哀想な妖精さ。だから、傷が浅く済むうちに、本当のことを教えてあげるべきだったんじゃないか」
ナズーリンは遥かな足下、いまは雲で隠れて見えない地表の森の方へ目を落とした。
「あの妖精は飛宝を手に入れて、まだほどないはずだった。早いうちなら、自分の過ちだってすぐに忘れられるだろう」
「そうかもね。でも、どうせならなるべく後腐れない形で終わらせた方が、向こうもこっちも気分がいいじゃない。あなたも無用の恨みを買わなくて済むし。あの妖精は、通りすがりで正体不明の何かと出会い、正体を知らぬままそれと別れたの。それでいいでしょ?」
別離というのは、なにかと引きずるものだけれど。それならせめて、引きずるものは軽いに限るじゃないの。
そんなぬえの主張に、ナズーリンは今日何度目かと知れぬ溜め息で応じた。
「……まあ、ともあれ宝は回収できたことだし」
「そうそう。これにて一件落着――」
「と相成るには、聖への報告を済ませないとね。ぬえ、君の証言も欲しいところだな。同席してもらうよ」
「え、あ、いや、私はそういうのはいいよ……」
ぬえは表情を強張らせて宙で後ずさり。数歩下がったところでくるっと向きを一八〇度変えたが、その背中へナズーリンが無事だった方のロッドを素早く伸ばし、先端を襟首に引っ掛けた。ぎゅっ、とぬえは喉から苦しげな音を漏らす。
「さあ、帰ろうか」
「いや、ちょっと待って、この形はだめ……あ、絞まる、絞まるから」
引きずり、引きずられる形で、ふたりは空の向こうへと去っていく。ふたりの後を追うようにして、遠く薄暮の色が迫りつつあった。
何も言わずにつないでくれたチルノの掌は、ほどほどに冷たくて、大妖精の中の疼くような熱をゆっくりと冷ましてくれた。
手をつなげたまま、ふたりは木の間を歩いた。やがて森を抜けて、木陰の薄暗さに慣れてしまっていたふたりは、開けた視界に目をしばたたかせる。
小さなふたりの上に広がる空は、夜の色に浸されようとしていた。地平の方角、山の稜線のあたりは夕焼け色に染まっている。藍色と茜色との狭間に、まだほんの少しだけ、青空が残っていた。
大妖精が溶けゆく青色のかけらを見上げていると、目の端に急に冷たいものが触れた。ひゃ、と声を上げてから、それがチルノの指であることに気付く。
顔を下ろすと、友人は気遣わしげな表情でこちらを見ていた。
「どうしたの? 泣いてたよ」
言われて初めて、自分の頬が濡れていることを知った。
「どこか痛いの? あの妖怪に何かされたの?」
チルノは森を振り返って柳眉を逆立てる。
「それなら、敵討ちなら、もっと思いっきりあいつをやっつけてやったのに」
氷の妖精が発する、強く熱を帯びた言葉が胸に響く。ほんとにあの妖怪に勝ったのかは分からないけれど、でもそんな強さのことなんて抜きで、とても心強い友人だと思った。そばにいてくれて嬉しかった。彼女がいなかったら、つないでくれている手がなかったら、きっと自分は今もまだ森の奥で立ち尽くし、夜が闇をもたらしてもなお、とどまり続けていることだろう。
ひとつ鼻をすすって、声がかすれないように気をつけながら、安心させるよう、優しく告げる。
「ううん、そういうんじゃないよ。怪我とかはしてないよ」
確かに胸がちょっぴり締め付けられてはいたけれど。でも、違うのだ。
「空がね、とても綺麗な色をしているから」
もう一度見上げて、潤んだ視界に去り行く春の青色を映す。明日も似たような色は見られるだろうけれど、でもそれはきっと、今日とわずかに違っているのだ。自然に生きる妖精だから、分かる。あの青は、今日だけしか見られない色なのだ。
それを瞳の奥にまで焼き付けようと、まぶたを閉ざす。目尻に残っていた最後のひとしずくが押し出されて、頬を滑り、空の色を映しながらこぼれ落ちていった。
こんなんなら許せる
ティアとの別れがちょっと淡白な感じもしましたが、むしろこういうのが後腐れのない別れ方だったのかな、と。寂しい気持ちも勿論ありますが
大妖精に対するチルノの接し方が本当に飾らないもので、チルノらしいというか、愛されてるんだなあ、と深く感じました
「青色いらねえ!」なんてもう言えない。
大妖精とチルノの二人もとても優しく暖かくて、いい感動をもらいました。