――最後に一つの問題が残る。 (『虞美人草』 / 夏目漱石)
そろそろお昼時になろうという秋空の澄んだ青が、千切れた雲を孕みながら京都の町を包んでいた。ついこの間まで降り続いていた雨は止み、千切れた雲はその雨雲たちの名残のように思えた。十分に水分を含んだ空気はほどよい艶を帯びていて、道行く先で時々見かける秋の花もご機嫌麗しく風に揺れている。
ひゅうと風が鳴いて、花の香りではなくどこかの家庭の昼食の匂いを連れてきた。
マエリベリー・ハーンはさて何の香りだろうかと考えながら、ここ最近少しずつ冷え込み始めた風に、思い出したように肩を小さく振るわせた。季節の花は咲き誇っていても、街路樹の木々は紅葉も終えてすっかり丸坊主の風情だ。見ているだけで寒くなってきてしまう。
ビニール袋を掴んだまま両手をポケットにしまい込む。「さむさむ」と一人呟きながら、見慣れた道を少しだけ急ぎ足で歩いていく。早く着きたいのは山々ではあるけれど、速く歩きすぎると耳の横を通り過ぎる風が冷たくてまいってしまう。この季節でも平気な顔で自転車を乗り回す友人の逞しさが少し羨ましかった。
最後の曲がり角を右に折れると、三人組の子どもたちが道路を縫うように蛇行して走り抜けていった。子どもは風の子とはよく言ったものだと感心しつつ、大学生という名札をつけた子どもの根城となっている学生アパートの敷地に入る。階段の下に丸まっていた黒猫がにゃーんと鳴いて尻尾をひるがえし、姿を消した。誰か餌付けでもしているのかもしれない。
左端のドアの前に立ち、チャイムのない玄関のドアを一応はノックする。
もちろん、反応は返ってこない。「寝てる」というメールを最後に音信が途絶えた以上、これは予測の範囲内。
小振りなトートバッグの中に手を入れて合い鍵を探しながら、もしかしたらとドアノブを捻るとあっさりと開いてしまう。これは予想の範囲外。いくら大雑把でずぼらで妙なところで間の抜ける彼女とはいえ、不用心に過ぎる。
もしかしたら起きているのだろうか。数歩で終わる廊下を歩いて、六畳の巣に入ってみると、布団に小さく丸まって宇佐見蓮子はいまだ夢見の最中だった。掛け布団は少し離れたところにすっ飛んでいて、毛布だけが腰にかろうじて引っかかっているが、寒くはないのだろうか。
「お邪魔するわ」
いつも話しているときと変わらない大きさの声をかけてみても、起きる気配は微塵もない。深々と眠りの泥の中に沈み込んでしまっているようだ。
トートバッグとスーパーのビニール袋を適当な場所に置く。少し近づこうとして、次の足をどこに踏み出そうかと辺りを見回してしまう。決してごみが散らかっていたりするわけではないけれど、本棚にとうの昔に収まり切らなくなった書籍がそこら中に置かれている。自分以外の人間が歩けるようにと、本を塔の如く積み上げて綺麗にした形跡はあるものの、幾つかはすっかり崩れ去り、かえって散らかっている有様だった。
「ご所望だった秋刀魚、買ってきたわよ」
呟きながら草根をかき分けるように本をどけ、何とか眠り姫よろしく安眠に身を委ねている蓮子の元へとたどり着く。すーすーと規則正しい寝息が聞こえる。寝相ではだけたパジャマの首元からは、囓ればこりこりと澄んだ音の鳴りそうな鎖骨がほっそりと浮かび上がっていた。
枕元にはそれでも努力した形跡が見えていて、目覚まし代わりの携帯がアラーム画面を表示したまま止められていた。無意識のままに止めてそのまま眠りに戻ったらしい。これで「目覚ましが鳴らなかったのよ!」と頻繁に遅刻のいいわけを作り出すのだから困ったものだった。
「蓮子」
顔に近づいて言ってみても、まるで起きる気配はない。むずがるように逃げた頬を人差し指で突いてみると、化粧を最小限に保っている成果なのか、プリンを皿に落としたときのような柔らかな反発が指先を包んだ。
信じられない。インスタント製品による暴食と夜更かしの限りをつくしている乙女の肌とはとても思えなかった。
妙に腹立たしさを感じて、ぴんとデコピンを一度お見舞いしても起きないのを確認してから、再び本の森を切り開いて窓の側へと寄っていく。窓に手をかけて、その前に蓮子の腰辺りまでかけられていた毛布をはぎ取ってしまう。「むぅ」と不思議な鳴き声を出しただけで起きる様子はなかった。
窓の鍵を解き、いつでも開けれる体勢を取ってから、心の中でスリーカウント。わん、つー、すりー。
北風と太陽作戦(北風だけ)、開始。
蓮子の部屋は周りの住宅と道路の配置の都合からなのか、窓を一つ開けるだけで十分すぎるほどに風が入ってくる。「おかげで我が家は埃知らずなのよね」と少し自慢げに話していた蓮子であったけれど、これで少しは無用に伸びた鼻も縮むことだろう。
冷たく潤った秋風が音を立てて部屋の中に飛び込んで、コートとマフラーで防壁を張っていても寒いくらいだった。身を守る唯一の毛布をはぎ取られた蓮子が耐えられるわけもない。
窓を開けたまま蓮子に近づくと、驚くべきほどの野生の勘を発揮したのか、身の回りで最もあたたかさのあるものと判断したそれに腕を伸ばして、蓮子は自分の元へと引きずり込んだ。
抱き込んだ「それ」が、コートにマフラー、手袋の装備をしたマエリベリー・ハーンであることは言うまでもなかった。
「ぬくいー」
「ちょ、ちょっと、蓮子!」
「ぬくぬくー、柔らかいー」
「どこ触ってんのこのお馬鹿!」
げんこつを振り下ろしたつもりだった腕は、拘束されていたせいで十分な動きを発揮できず――結果的に、蓮子の額へと強烈な肘打ちを叩き込むことになった。
「愛がほしい」
「募金箱でも持って駅前に立てばいいんじゃないかしら」
「訂正」と蓮子は淡泊に言った。「マエリベリー・メリーさんの、愛がほしいです」
「はいはい。愛してるわ、蓮子。あと名前がいろいろ違う」
「だ、か、ら、愛がないっちゅーの!」
火山がどこんと噴火するように勢いよく蓮子は言葉を放り投げる。いくら強く投げ込もうとも、キャッチボールの相手に受け取る気がないのではまるで意味がなかった。
「わざとじゃなかったのよ」
「まだ少し痛むもの。メリー、あなた食欲の秋だからって――何でもない何でもない。『ドグラ・マグラ』はそんなふうに振り上げるものじゃないわ」
「全く」嘆息を一つ。「それよりほら、食べたいって言ってた秋刀魚、買ってきたわ」
「おお、流石はメリーね」
「太っ腹、とか言ったらはっ倒すわ」
「メリー、最近こわい」
「こわくさせてるのは誰よ」
「思い出して、本当のメリーはあんなに柔らかなのに」
「ねえ、蓮子。今日はどうしてそんなに喧嘩を売ってくるのかしら?」
「メリーに愛が足りないから」
見てよここ、と前髪をかき上げて先ほど肘の落ちた額を指さす。確かにまだほんのりと赤みを帯びていて、必死に訴える表情と相まって子供らしい雰囲気を生んでいた。
何だか妙に愛らしくて、思ったままに口走ってしまう。
「蓮子、前髪あげても可愛いのね。カチューシャとか似合うんじゃない?」
「……そ、そんな急に直球になられても、私困るんだけど」
前髪を押さえていた右手をぱっと離して、少し恥ずかしそうに蓮子は言った。メリーとて意識せずに言ったことだから時間差で気恥ずかしさがこみ上げてきていたものの、蓮子の狼狽ぶりを見て落ち着くことができていた。
何でもないことのように平静を取り繕い、話題を変えてしまう。
「そういえば蓮子、玄関を鍵もかけずに開けっ放しとか危ないと思うわ」
「だって、メールで『寝てる』って送ったでしょ。鍵が開いてないとメリーが困ると思って。私、玄関のドア越しじゃあ携帯鳴らされても起きない気がしたし」
確かに、窓を開けた上で肘が額に落下してくるまで起きなかったのだから、ノックや携帯の音程度の雑音では起きるわけもなかっただろう。
「私、あなたからこの部屋の合い鍵もらってるじゃない」
トートバッグの中から小さな瓢箪のストラップのついた鍵を取り出す。瓢箪の中にはおみくじのように大吉から大凶まで書いた棒が入っていて、振ると出てくる仕組みになっていた。今出ている棒は、可もなく不可もなくといった具合の小吉だった。
「あ、そういえばそうだったわ」
すっかり忘れていたと、蓮子は舌を出す。
いつだったか今回と同じように蓮子の家を集合場所にした時に、蓮子が深く深く眠りに落ちてしまっていて、数時間メリーが外に放り出されることになった教訓から、メリーの元に合い鍵が手渡されていた。
「どんなにずぼらで大雑把でお淑やかさに欠けていても、蓮子は女の子なんだから。戸締まりとか身の回りには気をつけないと駄目でしょう」
「メリー、柔らかいとか言ったの根に持ってる?」
「そう思うならそうなんじゃないかしら」
「ごめんなしゃい」
「よろしい」
抱き枕がメリーだったらすごい快眠できると思うのに、という蓮子の呟きは、しっかりと閉まっていなかった窓の隙間を吹き抜けた風の音に混じって、メリーの耳に届くことはなかった。「さむいー」と呟いたメリーの手によって今度こそぴしりと閉められる。
メリーがきょろきょろとしていると、蓮子が散らばっていた本を積み上げて部屋の隅へと押しやり、人がまともに座れるスペースが現れた。慣れた調子で折りたたみ式の丸い卓袱台を引っ張り出し、向かいへと蓮子も座る。
蓮子が二人分のお茶を淹れにもう一度立ち、再びゆっくりと腰を落ち着けてから、メリーは問うた。
「どうしてそんなに眠かったの?」
休日の土曜日とはいえ、昨日は特に何か活動があったわけでもない。コンパや飲み会があるならばメリーもなし崩しに連行されているだろうから、その可能性もなかった。レポートは数日前に涙目になりながら徹夜で仕上げていたのを知っているからまずないだろうし、蓮子は案外にお酒好きではあるけれど、一人ではそんなに飲まないことも知っている。
メリーに思いつく限りでは、眠くなるような原因はなさそうだった。
「ああ、これよこれ――って、どこいったかな」
あれでもないこれでもないと、自分の周りに広がる本をチェックして、蓮子は二冊の本を卓袱台の上へと置いた。一つは小説で、一つは花の図鑑。図鑑の方には大学の図書館のラベルが貼られている。
「言っておくけど、借りたのは昨日だからね。借りっぱなしとかじゃないから」
「花の図鑑を借りるなんて珍しいな、と思っただけよ。それで? どうして蓮子は眠り姫になっていたの?」
「いや、まあ、そんな面白いこともないんだけどね。ただ、寝る前にちょっとこの小説を読んでみたら、いつの間にやら朝になってて、そういえばメリーが来るから寝てしまうわけにはいかないと頑張って持ちこたえていたんだけれど、結局は時間前にして力尽きちゃった」
「なるほど」メリーは頷いた。「蓮子が阿呆だったのね」
「ひどい。せめて子どもっぽいとか」
「別に何でもいいけれど、その小説そんなに面白かったの?」
卓袱台の上に置かれた小説を手に取る。古い小説で、タイトルは『虞美人草』と書いてあった。著者は夏目漱石。他の小説ならば読んだことのある著者だった。『吾輩は猫である。名前はまだ無い。』というような書き出しから始まるやたらに印象的な小説だった気がする。
「またあの古書店?」
「もちろん。百円ワゴンから発掘するのが日課になってるもの」
大学近くにある少し大きめな古書店は、店の外に置かれた百円の小説の品揃えが頻繁に入れ替わって、面白そうなものをとりあえず読む雑食な二人の間では、とても重宝されていた。
「虞美人草、か。確か、ひなげしの別名じゃなかったかしら」
「すごいメリー、なんでそんなこと知ってるの」
「何でって、この花かなり有名だと思うけれど」
「そうなの?」
そう聞かれると世間の認識がどうかまでは怪しかったが、少なくともメリーにとってはマイナーな花ではなかった。街中で流れているようなポップスにも、この花をタイトルにつけている曲があった気がする。
「……まあ、花図鑑をわざわざ借りてきているんだものね。蓮子の努力だけは認めるわ」
「でしょう? 花の種類なんて本当に門外漢だから。こんなことならメリーに聞いちゃえばよかったわ。図鑑重いし」
「図鑑の重みは知識の重みよ。それにしても蓮子、読む前に図鑑を借りるなんて随分と準備がよかったのね」
「この本、タイトルに目をつけて勢いで買っちゃったから。絶対に気になると思ったから先回り」
「なるほど、蓮子らしいわ」
「小説は出会いが大切よ、うん」
しみじみとした口調で蓮子は呟く。
この部屋の惨状を見れば一目瞭然ではあるけれど、彼女はかなりの読書家だった。本のことを話す時の口調もどこか堂に入っているような感じもするし、書こうとすれば小説を書くことも無理ではないように思えた。
「そんなに好きなら小説、自分も書いてしまえばいいじゃない」
蓮子は少し悩んだふうに腕を組んで、考えがまとまらないのかお茶を一飲みした。
「書いてもいいけれど、秘封倶楽部が題材でメリーが主役になるわ」
「却下」
答えは蓮子も予想していたのか、うんうんと頷いて答えただけだった。こういう反応は、彼女が面倒くさいと思っているときによくするものだった。実際の所はあまり書きたいなんて思っていないのかもしれない。
「そんな盛大に却下をかましてくれたメリーさんに質問です。ちなみに『虞美人草』から」
「唐突ね」
「物語はいつだって唐突なのよ」
「ただの日常のつもりだったんだけれど……まあいいわ」
「それでは」
つくったような咳払いをごほんと一つしようとして、喉に変な負担がかかったのか、蓮子はお茶をぐびぐびと飲んだ。呆れ顔を向けられているのに無視を決め込んで、丁寧な口調で言う。
「『最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。』」
「……蓮子の答えは?」
「せっかく私が出問したんだから、メリーがお先にどうぞ」
そう言われてしまえばそうだと頷かざるを得ない。
生か、死か。生きることと、死ぬこと。考えれば考えるほどに身近なことであるのに遠くなって、答えなんて雲を掴むよりも遙かに困難を極めてしまう。それが悲劇といえば悲劇のような気もするが、そういう出題ではないだろう。そもそも、原典を読んでいない時点で、答えを導き出すことはまず不可能なように思えた。
正直なところ、小面倒くさくて考える気もあまり起きない。
やっぱり蓮子が先に、と言葉を紡ごうとして蓮子に視線を合わせたところで、メリーの口は止まった。お腹に手を当てて、狐につままれたような表情で蓮子は固まっていた。
次の瞬間――ぐるるるるる、とここまでくると気持ちのいい盛大な腹の虫が、蓮子のお腹から飛び出していた。
無駄に気合いを入れた空気を作り出していた本人が崩壊してしまったせいで、一気に部屋に満ちていた雰囲気が気配を変える。青から黄色へと変わるような、笑うしかない馬鹿らしさに満ち満ちて、メリーもメリーでお腹を抱えてひーひーと笑ってしまう。蓮子も少しだけ恥ずかしそうにしていたけれど、メリーに釣られるように笑ってしまっていた。
涙目になって息を吸い込み、お茶をお互いに一口飲んで平静を少しずつ取り戻した。
「女の子捨てちゃ駄目よ、蓮子」
「よく考えたら夜から今まで何も食べていないもの……これは流石の私でも恥ずかしいわ。でも、そんなに笑うことないじゃない」
「蓮子があんな真面目な雰囲気を壊しちゃうからいけないのよ。私のせいじゃないわ」
「むむう」と蓮子は口を尖らせて唸った。言い返せる余地がないのだから仕方がない。
「ねえ、蓮子。私、あの問題考えるのが面倒くさくて投げ出してしまったんだけれど」
「奇遇ね。私も投げ出しちゃってたわ」
その代わりに一つ思いついた、と言ってみると、ふうんとまだ笑いのつぼが不安定らしい曖昧な表情で、蓮子は先を促してくる。「ではでは」と空気を制するようにして、メリーは言った。
「『その前に一つ、忘れていた問題がある。――食すか否か。』」
卓袱台に置かれたビニール袋を指さす。蓮子は目を丸くして、けれど咄嗟に反応して口を開いた。
「『これが悲劇である』」
食しても嬉し悲し、食さなくても嬉し悲し、乙女には悲劇に違いなかった。
「食欲の秋が過ぎてしまうのは早いわよ、メリー! さあ、今こそ秋刀魚を!」
妙にテンションが高いままに蓮子は言う。蓮子自身、お腹が空いているし、恥ずかしいし、笑いのつぼはなおらないしで、自分の状態がよくわからないのだろう。
そんな蓮子を諫めるように、メリーは厳かに言った。
「だめよ、蓮子。まずは掃除してからよ。はい、本を隅に片付けて。小さい掃除機あったでしょ、あれどこにしまったの?」
メリーが空気を入れ換えるために窓を開け放つと同時、再び蓮子のお腹がぐるるるるると鳴き声を上げて、開かれた窓から二人の笑い声が高い秋空に飛んでいく。
やはりメリーは通い妻ですね。
和みつつにやにやしつつ楽しませていただきましたw