この髪に、今までどれだけのひとが触れてきたのだろう。
村紗水蜜は椅子に座った聖白蓮の後ろに立ち、彼女の髪を梳きながら、ひと房手のひらにすくいとる。髪は清流のように村紗の手から流れおちる。手のひらに残った髪の毛を指で触る。
こんなにも白蓮に触れている、そう考えるだけでたまらない気持ちになる。
白蓮は求められるがまま、誰にでも、惜しげもなく与える。
みんなのため、と白蓮は言う。
みんなの中の、誰にも渡したくない。村紗はそう思う。
白蓮のやさしさも、慈悲も、ほほえみも、興味も関心も、そして欲望も、自分だけに向いていてほしい。
「どうしたの、手が止まっているわ」
白蓮は村紗を仰ぎ見た。村紗は白蓮の肩に手を置く。ドレス越しにぬくもりが伝わる。そのまま上体を傾け、手をおろしていく。白蓮の肩に顎を載せる。白蓮は首を傾け、村紗に頬ずりする。母猫が子猫にそうするように。
「何か考えごとでもしているのですか?」
「ええ、しています」
「どんな?」
「ここからあなたを出さないためには、どうするか」
した、と雫が垂れる。
「村紗、これはもう決まったことなのです」
した、した、と。部屋の湿度がわずかに上昇する。
「いけば、あなたは人間に囚われます。あなたが仲間と思っていた、あの薄汚い連中に」
した、した、した。
村紗の指が、白蓮の指の上を這う。首を傾け、より強く、白蓮にすり寄る。
ぴちゃ、ぴちゃ。
「あいつらは、あなたのことを、なにひとつわかっていないんです。あなたがどんな風に笑うのか、どんな風にがんばっているのか、それがどれほど私たちを悦ばせてくれるか」
「水蜜、私は」
ぱしゃっ。
「ええ、あなたは私のためにそうしたのではない。私たちのためにしてくれたんです。それでもいい。私は満足なんです。あなたの気持ちがどうあれ、あなたは、私にとっては、私だけの……私だけの」
指に力を込める。手の中に白蓮の手を包み込む。
「同じようにあなたを慕うひとがいるのは構わない。けれど、あなたの良さをなにひとつわからない連中があなたを蹂躙するのは、我慢がならない。そんなことはさせない。そんなことをする奴らは、全員海の底に引きずり込みます」
ちゃぷ。ちゃぷ。
「村紗、そんな風に考えてはいけません」
「なぜ」
「憎しみが憎しみを生むのです」
「ええ、そうでしょう」
体を起こす。
ざぶ、ざぶ、と水をかき分け、白蓮の前に立つ。
とぷん。
膝をついた。村紗の腰まで水に浸かっている。
白蓮の腰に両腕をまわし、膝に頭を載せる。白蓮の体にべったりと自分の体をつけていると、体の奥に溜まっている嫌なものが、溶けて流れていく気がする。
白蓮の手が、村紗の髪や耳の後ろ、うなじを這っていく。手のひら、指の腹、爪の先、その感覚ひとつひとつが、村紗にとっては何よりも大切なものだった。
「欲望が、欲望を生むように」
「村紗、もう行かないと」
「どこへ?」
村紗は顔をあげ、問いかける。まじり気のない目で、白蓮を見つめる。部屋の半ばは水に浸かっている。膝をついた村紗は完全に水面下だ。底のぬけた柄杓が天井付近を漂っている。そこから水がぽつぽつと垂れている。しかし水嵩の増す速度は尋常でない。
白蓮の首まで水が張る。ダークブラウンの髪の毛が、藻のように水面に広がる。村紗は目を細めた。
「聖、綺麗です」
羽が舞う。ふたつ、みっつ、もっと多い。魔界の蝶だ。甘く、気だるい匂いが漂う。村紗は水中でその匂いを嗅いだ。水嵩が減っていく。
「魔界蝶は、なんでも飲み食いします。あなたの水は特に甘いから、蝶も悦んでますね」
部屋を飛び回る蝶たちは、水をすべて飲み干した。何匹か、村紗に止まっている。村紗は重く垂れてくる瞼をなんとか意志の力でこじ開けようとしていた。だが、体が重い。下り坂を転がる車輪が止められぬように、眠りの淵へ転がり落ちていく。白蓮は立ち上がった。水で濡れた室内から、外への扉を開ける。
「聖」
岩のような眠気に辛うじて抗い、村紗は声を上げる。
白蓮はもう振り向かなかった。
「私だけを、見てください」
***
生暖かい闇に包まれていた。意識はどこまでも広がっていくのに、それに肉体が伴わない。体を遠くに置いたままふらついていると、そのうち戻れなくなりそうで、怖くなって戻る。
指先に力を込める。指は村紗の意思に応え、ぴくりと動いた。瞼をもちあげる。古びた天井の木目が目に入った。
「夢、かあ」
村紗水蜜は上体を起こす。
まだ体に魔界蝶がとまっている気がする。願望だ。とまっていてほしいのだ。魔界蝶がいるということは、あのひとがいるということだから。
聖白蓮のことを考えると、自然と体が熱を帯びる。聖が傍にいれば、あとはなんでもいい。もしその願いが叶えられたなら、今度こそどんな手をつかってでも引き留めるだろう。
肌寒く、空気は湿り気を帯びている。辺りを見回すが、室内は薄暗い。障子からかすかに光が漏れている。布団から抜け出し、膝をついて障子に近づく。手を伸ばして三分の一ほど開ける。まだ顔を出したばかりの朝日が射し込んできた。
庭には、刈り取られた雑草がかき集められ、あちこちで山になっている。何百年もほったらかしにされていたせいで荒れ果てていた寺は、昨日一日でどうにか見れる形になった。
「あら、おはよう村紗。早いのね」
その功労者である少女は、障子の音に気付いたのか、紺色の頭巾で包んだ頭を振り向かせた。その傍らでは、厳めしい老人の顔つきをした雲入道が両腕に伐採した枝を抱え込んでいた。雲居一輪と雲山だ。
「一輪、あんたまさか昨晩からずっと?」
村紗は目を丸くした。一輪ならひょっとしたらやりかねないと思った。一輪は苦笑して首を振る。
「まさか。私もさっき起きたばかりよ。今日は大切な日だっていうのに、そんな馬鹿な無茶はしないわよ」
「そうだね。一輪は要領いいなあ、もうこんなに片付いている」
「雲山がやってくれるから」
そこで一輪は何かに気づいたように、す、と村紗から視線をそらした。その動きに気づいて、村紗は自分が白いキャミソール一枚であることを思い出した。ほのかに肉のついた肩が剥き出しになっている。黒髪の先がかかっていて、肩の白さがますます引き立っていた。
「……早く着なさいよ」
「はぁい」
村紗はいたずらっぽく、満面の笑みを浮かべた。
枕元に畳んだセーラー服を着て、布団を畳んで押入れになおす。廊下を歩いて突き当たりを右に曲がると、もう食卓が広がっていた。ただ、座布団に正座して卓についているのは、灰色の髪の少女だけだ。髪の間からは半円形の耳が突き出ている。
「あら、あなたも早いわね、ナズーリン」
村紗が声をかけると、ナズーリンはちらりと村紗を見て、それから背後の扉を見やる。
「さあ、寺の朝は本来もっと早いものだと思うが……」
「星はまだ寝ているの」
「どうやら二百年以上に渡る自堕落な生活習慣にすっかり蝕まれていたようだ。もう少し寝かせておいて差し上げようじゃないか」
ナズーリンは笑うが、その冷笑が装ったものであることを村紗は知っている。言葉の端々から滲み出る、主人に対するいたわりの念は拭い去れないでいる。それを指摘するとまた笑って否定されるので、黙って席について白ご飯をよそう。魚の煮干しとほうれん草、梅干しがおかずだ。味噌汁は作る暇がなかったようだ。ご飯の量は十分にあるので腹が満たされないことはないが、やはり少し物足りない。
「準備はできたのか?」
頬を膨らませて咀嚼している村紗に、ナズーリンは尋ねる。村紗は首を横に振る。
「というより、動くのか」
これには首を縦に振る。口の中のものを呑みこんでから、口を開いた。
「あのね、私の船よ。ちょっと何百年かブランクがあったからって、そう簡単に壊れたりしないわ」
「聖の船だろう」
「もちろん聖の船よ。でも、その次に私の船。操縦するのも、使わないときに縮小してとっておくのも私だもの」
「ふむ、まあそういうことにしておこう」
「気になる言い方ねえ」
「別に」
ナズーリンは澄ました様子でチーズを齧った。
「ところで星の方こそ大丈夫なの? 聖の封印を解く準備は」
「ああ、問題ない。宝塔はあるんだ。あとは今頃空のあちこちを飛び回っている飛倉の欠片を集めてやれば、聖は復活する」
「うーん」
「どうした。何か問題でも」
「うーん、大丈夫かっていうのはね、星自身の問題なのよ」
ナズーリンはチーズを皿の上に戻す。晩冬の朝の冷えた空気に、さらに別の冷たさが加わる。
「どういう意味かな」
「星は、ちゃんと聖を解放して差し上げるつもりがあるのかしら」
「村紗船長、君が何のことを言っているのか、私にははっきりとはわからないが」
ナズーリンの目が刃物のように、すっと細まる。対照的に、村紗は笑顔だ。
「あまり穏やかでないことを言おうとしているのなら、やめた方がいい。あのときの状況は、君を含め皆もよくわかっていたし、納得もしていた」
「理屈ではね」
まだ村紗は笑顔だ。
「理屈でない何かまで私がどうこうするのは無理な相談だな。ところで船長、私も聞きたいことがある」
「なにかしら」
「君と一輪は、地底の封印が解けて地上に出てきたとき、仲間にも声をかけてきたと言っていたな」
「ええ」
「なぜ、君らしかこの寺にいないんだ。他の者はどうした」
「完全に力が戻っていなくて、まだ地上に出てくるのに時間がかかるんだって。船の中だったらいられるけど、外には出られないってひともいるわ。私と一輪ふたりだけってわけじゃないのよ」
「ふぅん、一輪はまた少し違うことを言っていたような気もしたが……」
ご飯とおかずをせかせかとかきこむと、村紗は勢いよく立ちあがる。
「まあ、そんなに心配ならもう少しメンテナンスしてくるわ」
まだ、笑顔だ。
「頼むよ、船長」
庭の掃除はずいぶんと捗っているようだ。村紗が起きてすぐに目にしたときよりも、さらに片付いている。
「村紗、今から船?」
「うん、ちょっと行ってくる。それにしても……すごいわねえ、たった一日でこの変わりよう」
村紗は庭、それから寺の外観を見渡す。庭に生えていた木や雑草だけではない。瓦や柱、床から生えていた蔓草なども、一輪と雲山は丁寧に刈り取っていた。
「星の信仰が戻ればこんなことしなくてもすぐに綺麗になるんでしょうけど、今の状態なら、まだ仕方ないものね」
一輪の声に、星を責める色はない。
「私たちで盛り立てていかないと。姐さんがいない今、やっぱり頼りになるのは星だもの」
村紗は力強くうなずいた。
「うん、私もそう思う。星は頼りになる……頼りにならないといけない」
「ま、あんまりプレッシャーばかりかけるのも無責任だけどね。星に解放を任せる代わりに、飛倉は私たちで集めないと。あなたはあなたで、私たちの船を目的地まで運ばなきゃいけないし」
「そうね。役割があるものね」
村紗はにっこりと笑う。その笑顔のまま、尋ねる。
「ところで一輪、地下の仲間たちのこと、ナズーリンにはなんて言ったの」
「え? そのまんまよ。力がまだ戻らなくて、あとから地上に上がってくると約束した仲間とか、船に乗ったけど外の空気に慣れなくて途中で降りた仲間とか。結局、封印が解けてすぐに星の所へ来れたのは私と村紗だけだった、って」
「船の中に残った仲間がいる、ってことは?」
「え、ああ、あなた最初そんな風に言ってたわね。実は私、地上に向かう途中から船酔いしてね。久々の地上だったから。途中誰が乗って誰が降りたか、よく覚えてないの。ただ、船にひと気がなかったから、みんな途中で降りたのかと思ってたわ。あなたは自分の体みたいに船を感じることができるけど、私にはできないから、そう思い込んでいただけだったみたい。みんな、少しは船に残っているの?」
「……残っているわ。意外と多くね」
「あら、そうなの。じゃあ、みんな体調が万全じゃないのね。星もまだ寝起きみたいだし。なにしろ数百年ぶりだものね、こうして集まるの。ああ、私もお腹減ったわ。雲山、ひと段落ついたし、寺に戻りましょう。それからお昼の算段もしないとね。夕食は、せっかくだからご馳走がいいわ。この辺の神様とか妖怪にかけあって、何か食べ物をゆずってもらえないかしらね」
雲山と話す一輪と別れ、村紗は寺の隣に向かう。そこには、寺と同じくらい大きな建造物があった。木造の船だ。聖輦船と名付けられている。時々半透明になる。まだ虚実の間をさまよっていて、完全に実体化しきれていない。
地底で村紗とともに封印されていた期間が長いためだ。もう少し外界に慣らせば大勢で乗り込んでも大丈夫だが、今の状態だと、乗組員ごと虚の世界に入ってしまう危険性がある。
……と、村紗は星たちには説明している。嘘ではない。だが、本当のことをいくつか言っていない。
たとえば、聖輦船が外界に慣れ切ったとしても、村紗の意思ひとつで容易く虚実を行き来できることを。
「私たちの、じゃないんだよ、一輪」
ぽつりと、水滴を落とすように呟く。
「この船は、私のだよ」
宙に浮いた村紗の体が薄れていく。そのまま、扉も何もない船腹に埋もれていく。
「そして、聖も」
星はこの数百年間、自分の役目を見失っていた。ひとは自分を優秀だとほめる。だが、肝心な時に何もできなかった負い目が、ずっと彼女の心を蝕んでいた。彼女たちの大切な、とても大切なひとが人間に封じられてからは、何もする気が起きなかった。木偶の坊のようになった星から、次第に人間も妖怪も離れていった。百年、二百年と経つうちに、彼女は忘れ去られた。眠っているのか起きているのかわからない、朦朧とした日々を送っていた。
昨日、その日々は終わった。雲居一輪と村紗水蜜が姿を現した。何かが終わり、何かが始まったことを、星は否応なく思い知らされた。
扉を開けると、ナズーリンの思った通り、星はとっくに起きていた。布団から上体を起こしたまま、彫像のように動かない。
「ナズーリン」
「はい」
「あなたが私を起こしてくれたことに、私は感謝するべきなんでしょうね」
長い年月は寺の周囲の地形を変えた。植物が暴力的に蔓延り、寺を覆い隠した。それだけではない。長い間誰からも顧みられることのなかった星の寺は、幻想郷の人々の記憶から消え去りつつあった。そのせいで寺の存在自体が消え去りつつあったのだ。星を含んだまま。
村紗たちの“捜し物”だった寺を見つけさせたのはナズーリンの能力だった。
「さあ、“べき”かどうかなんて、私が決めることじゃない。まあ、ぐうたらなご主人を焚きつけるために、連中を利用したことは確かです。今までみたいに日がな一日死体のようにのんびりしていると世話は楽でいいが、従者としてはもっと溌溂とした主人の姿も拝見したい」
自分の目をまっすぐ見てくる部下に、星は思わず視線を落としてしまう。
「昔は、聖がいましたから」
「その聖を取り戻すのでしょう? わかりやすくていいと思います」
「私は、この手で聖を封印しました」
「知っています。みんな知っている。それが、一番聖の苦痛が少なくて済んだ。妖怪と人間の総力戦にもならずに済んだ。あの決断は、私が今まで仕えてきたひとたちの中でも、一、二を争う英断だったと思う」
「そうでしょうか。あのときは確かにそう思いました」
「なぜ揺らぐ。船長があんなことを言っていたから?」
「村紗はいい子です。さっきは……気が立っていたのでしょう。彼女が、聖の封印に手を貸した私に複雑な思いを抱くのは、仕方のないことです。」
「気が立っていた、なんて生易しい言葉で済ませられるかな。船長の様子は明らかにおかしかったよ。私の前にいながら、私が見えていないようだった」
「百年や二百年ではない、もっと長い間私たちは離れていました。それで、戸惑っているのですよ。私たちも、村紗も」
「そうかな。まあ、そうかもしれない」
さらに何か言おうとする星の言葉を遮るように、ナズーリンは背を向けた。
「あなたが万全でなければこの計画は頓挫する。それは確かです。ごゆっくり、鋭気を養ってください。ご主人様」
扉を閉める。
その足で庭に出て、宙に浮いた。聖輦船に近づく。船は一定のリズムで、透明化と実体化を繰り返している。心臓の動悸に似ているな、とナズーリンは思った。意を決して甲板に降り立つ。
船内は閑散としていた。中では透明化は起こっていない。じめじめした半端な闇が広がっている。
ナズーリンがダウジング棒を揺らすと、まるで暗闇から生まれたように鼠の群れが現れ、船内に散らばっていった。
建物の構造は変わっていない。数百年ぶりの廊下を歩き、船長室の扉を開ける。
船長室といっても、他の客室とたいして変わらない、こじんまりとまとまった部屋だ。壁には海図や錨、羅針盤など、船に関係のあるものが飾られていたが、ほとんどが文字通りただの飾りだ。村紗が船を動かすときに、こういうのはほとんど必要ない。
正面には船長用の重厚な机があるが、そこには誰もいなかった。村紗は、部屋の隅にあるピアノの前に座っていた。目はぼんやりとしている。目を開けたまま眠っているのかと、ナズーリンが疑ったほどだった。村紗の視線はゆっくりとナズーリンを捉えつつある。意識はあるようだ。
「村紗船長。そんなところでメンテナンスできるのかな」
「まあね」
「私の鼠が船を探っている。あまりひとけがあるとは思えない。というより、君以外に動きまわっている者は私と鼠以外にはいないんじゃないかと、私は思うんだ。どうかな」
「ごらんの通りよ」
「地底で乗ったはずの、他の妖怪はどこへいったんだろうね」
「さあ」
「ビリビリと痺れるんだ、私の手が。コレが、反応し続けてるんだよ」
ダウジング棒を目線で示す。
「そう」
「いるんだよ。たとえばそこ、ほら」
壁にはどこのものとも知れぬ海図がかかっている。その海図の脇を、棒で差す。
視符「ナズーリンペンデュラム」
キキキキ、と金属音を立てて、ナズーリンの周囲に三つの石が現れる。壁から腕が突き出てきた。さらに上半身が出てくる。墨染の衣を着たろくろ首だった。ナズーリンの知った顔だ。ぐったりとして動かない。体中、水浸しだ。
「ほら、ひとり。まだいるね」
次にピアノを差す。上蓋が開き、毛むくじゃらの人狼が三人出てきた。ナズーリンとは昔よく一緒に食事した仲だ。やはり意識はなく、壊れた人形のように四肢をだらしなく投げだしている。
「この部屋にもあと二人。船全部ならもっとだ。二十は行くかな。地底でずいぶん声をかけたみたいだね。そして、全部喰った。手強い一輪は、部屋の空気を悪くして船酔いにでもさせていたんだろう」
「そう」
「何のために?」
「餌よ」
村紗は満面の笑みを浮かべた。邪気ひとつない、ほほえみを。
「私たちはみんな、この船の餌」
余裕に満ちた村紗の態度に、ナズーリンはかえって焦りを感じた。
「君の言葉は、具体性を欠いている。目的を言ってもらおうか。でないと私も交渉のしようがない」
「星に言いつけるのね。聖を封印した、星に」
「あれは……もういいっ、なぜ君自身が理解し尽くしていることを、私がいちいち説明してやらなきゃならないんだ」
ちゃぷ
思わず後ずさりをしたナズーリンの足が、水面を踏む。いつの間にか床に水が張っていた。水は意思を持った生物のように、壁を上っていく。
左右の壁は澄み渡った水面で満たされた。まったく揺らがない。それは鏡のように、向かい側を映し出す。向かい側には、同じように鏡と化した壁がある。
鏡と鏡に挟まれて、無数の船長室が映し出される。
無数のナズーリン、無数の村紗が現れる。
「幽霊客船の時空を超えた旅、よ」
村紗は椅子から立ち上がる。合わせて、左右の壁面に移る村紗も椅子から立ち上がる。ピアノから水が溢れている。
「えっ?」
「何がしたいの、って聞いたでしょ、今。だから答えたの」
ナズーリンは身じろぎする。この距離、しかもこの限られた空間で戦うには、相手との相性が悪すぎる。左右の無数のナズーリンも同じように身じろぎする。村紗に気おされて。
中の何人かは、動かなかった気がした。
「合わせ鏡の右には未来の世界が、左には過去の世界が広がっているそうよ。昔、まだ私が人間だった頃、神隠しにあってね。そこの里で聞いたの。もちろん、ただ鏡を合わせただけじゃそんなことはできない。ちゃんと儀式をしないといけない。神社でも神輿でも、何か大きくて目立つものがあればいい。船とかね。そして、供物」
違和感のある匂いがナズーリンの鼻先を漂う。
村紗は笑顔のまま、片目だけをうっすらと細めた。
「さすが鼠ね」
「これは……あのときの」
あの日、白蓮を封じるため、人間たちは国の中でもえりすぐりの精鋭を集めた。焚き染められた魔除けの香薬が、ものすごく煩わしかったのを覚えている。
ナズーリンは思わず右の鏡を見る。村紗にとっての過去だ。そこから匂いは漂ってくる。村紗にとっては左。だから過去だ。自分にとっては……と、そこで彼女は首を振る。馬鹿馬鹿しい。こんなことを信じているのは、このおかしくなった船長だけだ。
「聖を助けるわ。そのためには、この間の何百枚もの鏡が邪魔。全部割るには、もっと聖輦船に栄養をあげないといけない。この子に、もっと」
棒符「ビジーロッド」
二本のダウジング棒の先から赤いレーザーが射出され、壁中に広がった水面を切り裂いた。水飛沫があがり、水面は泡立ち、大小の波紋がいくつも広がる。左右の鏡の世界が揺らぐ。
だが、すぐに何事もなかったように収まった。
「いいか、君は相当に無謀なことをしている。しかも合理的でない。仮に、私たちが時空を超えることができたとして、そこであの方を助けたとする。だが、現にあの方は封印されている。この世界の聖白蓮はどうする気だ」
「知らないわ」
ゆらり、と村紗は歩を進める。村紗の背後にあるピアノが、透けて見える。輪郭が二重にブレる。ナズーリンは目をこすって自分の視覚を確かめるような愚行は犯さなかった。村紗の能力は知悉している。純粋な妖力なら、白蓮は元より、主人である寅丸星の足下にも及ばない。にもかかわらず、時として彼女の能力は誰よりも厄介なものとなることも、ナズーリンは知っている。
「私は、聖と一緒にいたい。聖だけと。そういう世界に行けたら、あとはもうどうでもいいの」
「君は……仲間を何とも思っていないのか」
ナズーリンは群れるのが嫌いだ。群れを統率するのは得意だが、他人と集まって、他人に合わせて苦楽をともにすることに、意味を見出さない。
だから、村紗水蜜が、白蓮や妖怪たちの中でひときわ活発に行動して、仲間と話し、笑い、じゃれ合い、抱きついているのを見て、なぜ彼女があんなにも他者とかかわりたがるのか理解できなかった。
そう、ナズーリンは知っている。天真爛漫な村紗を。あれが嘘だとはどうしても思えない。
「私は知っているぞ。君は、心の底から楽しそうに連中と一緒にいたじゃないか。はたからみて、馬鹿かと思うくらい」
「大好きだよ。みんなと一緒にいるのは」
村紗が音もなく距離を詰める。
ざぶっ
ナズーリンが退こうとすると、膝まで水位の上がった水が動きを邪魔する。
「でも、誰だって、私の全部を受け止めてくれるほどの余裕なんてない。みんなそれぞれに、大切なものがある。それはひとつじゃない」
「それの何が悪いッ」
「聖だったら、私の全部を受け止めてくる。とても大きくて、気持ちのいいひとだから」
威圧に耐えきれなくなったナズーリンは、ビジーロッドを発射した。レーザーは村紗の残像を貫く。青白い残像はやがて消える。
溺符「ディープヴォーテックス」
「むぐッ!」
水柱が噴き上がり、ナズーリンを捉えた。逃げ切れるスピードではなかった。柱から手を出そうとするが、外側からさらに水で固められる。完全に水に閉じ込められた。
目の前に、二重にブレた村紗が現れ、ひとつに収束する。
「聖は誰にでも優しい。そういうところを含めて、私は好き」
どれだけナズーリンが手足を伸ばしても外に届かない巨大な柱に、村紗が手を入れる。すると腕は村紗から離れ、ナズーリンの喉元に食らいついた。
「だから、私と聖以外誰もいなければいい」
手の力が強まる。両手でつかんでも、引っ掻いても、びくともしない。ナズーリンの意識が遠のく。
「水蜜、私は」
途端、水柱が崩れた。膝まで水位のあった水もほとんどなくなった。
「ゲホッ、ゴホッ……ッく」
水浸しの床に手をつきながら、ナズーリンは顔を上げる。村紗は腕を前に差し伸べたままの体勢で、呆然と突っ立っていた。顔は一面、驚愕に満ち満ちている。
「今の……声……」
「私の能力だ」
「えっ」
「聖の声を“捜して”きた」
五つの石が村紗を囲い込む。
守符「ペンデュラムガード」
石は一斉に、容赦なく、村紗を押しつぶす。くぐもった悲鳴が五つの石に挟まれた少女から漏れる。その悲鳴には、紛れもなく憎悪が含まれていた。
ナズーリンは瞬時に部屋を飛び出す。長居は無用だ。ナズーリンの攻撃ではあれが最大のものだが、あの程度でどうにかできる相手ではない。しかも、本来ならあの石は防御用にとっておくものだ。新たに石を生成するのは時間がかかる。今のナズーリンには、逃げる以外の選択肢はない。
背後から、壁を突き破りながら錨が迫ってくるのがわかる。全速力を出せば、ナズーリンは錨より速く動ける。追いつかれることはない。
だが……
「来たかッ!」
天井を突き破って別の錨が襲ってくる。進路を防がれる。背後からの錨を身をそらしてかわす。錨がまき散らした水が体につく。ナズーリンは舌打ちした。これに捉えられると動きが一気に鈍くなる。
そして目の前で、セーラー服の残像がブレている。服や肌に、血がついている。どうやらそれなりの痛手は与えることができたようだ。ナズーリンは全身に走る震えを押し殺すようにして、言った。
「聖の声が拾えたということは、やはり君の言う通りあの鏡の向こうは過去に通じているんだろう。けれどね船長、過去とか未来とかいうけど、私たちはやっぱりここにいる私たちだけだと思うんだ。過去が物理的にあるとしても、やはりそこにはいけないよ。物語や絵画の中に行けないのと同じさ。境界でも越える程度の能力があれば、話はまた別だろうけど」
「よくも、聖の声を」
「村紗船長、君の強さは、具体と抽象を行き来できるところにあると、私は思うんだ。君は性格はまっすぐの癖に、戦いになるとあちこちで応用が利く。たいしたものだ。でもね、やっぱり君は無謀だよ。君らの中で、誰ひとりご主人に勝てる者はいなかった。別格なんだ、あのひとは」
手にした錨が振り下ろされた。
雲で作った即席の袋にたっぷりと食べ物を詰め込んだ。
柿、薩摩芋、トウモロコシ、葡萄、蜜柑、と山盛りだ。ほかほかに湯気を立てる芋をかじって、一輪は顔をほころばせた。
「おいしいー、ありがとう神様。感謝感謝、だわ」
両手を合わせて頭を下げる。
「ほら、雲山も一緒に」
一輪のまわりを漂っていた雲は、そう言われて顔を出した。厳めしい仏像を思わせる顔立ちだ。雲山は腕を六本出して、三組で合掌する。
「いやあ、そんな、こんなに悦んでくれるんなら神様冥利に尽きるわ。それにしても最近調子いいわあ。春もまだだってのに、外からも中からも信仰心が入れ食いよ。ほんとガッポ……うん、とにかくいいのよ。私だって嬉しいの」
帽子に葡萄の房を下げた少女、豊穣の神秋穣子は、頬が緩むのを止められなかった。見るからに信仰心篤そうな妖怪が、ふたりして穣子に何度もお辞儀している。信仰が活力になって、内側から湧き上がってくるのが感じられる。
「これで仲間とおいしいご飯が食べられるわ。かえったら早速準備しよう。ねえ神様、よかったら一緒に食べませんか?」
「え、でもお邪魔じゃあ……」
「大丈夫大丈夫、みんなやさしくて、敬虔なひとたちばかりですよ」
「け、敬虔っ……」
穣子は涎を垂らさんばかりに目を輝かせた。
山道を踏み分けていくと、穣子が声を上げた。
「あれ、なにかしら」
「聖輦船。姐さんを……立派な僧侶を乗せるための船。私たちがこれから乗って、姐さんを迎えに行くの。その前にお寺で一服、と思いまして」
「え、僧侶? それにお寺って」
穣子は不安になってきた。この見知らぬ妖怪たちは仏を信仰していたのだ。もし彼女らの仏が、神を忌み嫌っていたらどうしようか。ただ仏教徒が神頼みしていけない法もないはずだ。事実ふたりの信仰心は穣子にとって美味しかった。だからそのままついていくことにした。
「ただいまー、誰もいないの?」
袋をぶら下げ、寺に上がり込む。星の部屋の前に立つ。
「星、他のみんなはいないの?」
扉を叩くと、中から衣擦れの音がして、やがて鍵が開く音がした。扉の隙間から星が顔をのぞかせる。どことなく憔悴しているように見える。やはりまだ本調子でないのだ、と一輪は思った。
「私はずっとここにいましたが。村紗もナズーリンもいないのですか?」
「ええ、どこにいったのかしら」
「村紗は船の様子を見ると言っていたようですが」
「そう、船ね。きっと整備に夢中になっているんでしょう。呼んでくるわ。さっきそこで会った地元の神様もお呼びしたから、みんなで食べましょう」
一輪が身を翻すと、星が彼女の袖をつかんだ。
「待ってください一輪」
「どうしたの」
「本当に誰もいないんですか。ナズーリンも」
「まあ、隅から隅まで探したわけじゃないけれど、見当たらないわね。どこか偵察にでも行っているのじゃないかしら。どうして? あの子って、何も言わず時々ふらっといなくなるでしょう」
「ええ、確かにそうなのですが。少し、気になります」
「まさか人間に襲われたとでも? でもあの子ほど逃げるのが上手な子もいないわ。もし襲われてたら、すぐに私たちに知らせるはずよ。心配しすぎじゃないかしら」
それ以上一輪を引きとめる言葉も思い浮かばず、星は曖昧にうなずいて室内に戻った。
ナズーリンが時々姿を消すのは本当だ。しかし、ナズーリンからは常に一定のタイミングで発信音が送られてきている。だいたい一時間に一回だ。ほとんど自分の呼吸と同じように感じているから、煩わしさはまったくない。むしろ聞こえると安心する。
それがさっき、なかった。あまり耳にうるさい音ではないし、特にここ百年ぐらいは聞くともなく聞いていたぐらいだから、今までにも発信音がなかった時間があったかもしれない。だがナズーリンが恐ろしく用心深く、時に神経質と言ってもいいくらい緊急事態に気を配っているのを星は知っている。
「ナズーリンが逃げ切れないほどの手だれだったとしたら」
頭にぼんやりと靄が立ち込めている。頭を振っても、中にある靄は消えない。昨日一輪たちが来てからも、白蓮の復活の可能性が出たことを聞いてからも、まだ消えない。ひょっとしたら、このまま意識が遠のき、薄く眼を開けたまま布団の上にいるのではないかと思えてくる。
すべては夢だったのだ、と。仲間は誰ひとり傍にいず、白蓮を救う手立てもない。自分がふぬけたまま、相変わらず寺で無為な日々を過ごしている。そんな覚醒は、怖い。
白蓮の、すべてを許したような表情が脳裏をよぎる。
**
人間は、神や仏も動員して、白蓮退治に向かった。すべての神や仏が従ったわけでは、無論ない。ただ、星は人間側に参加した。彼の寺は主に妖怪が利用していたが、あくまでもそれは心の貧しいかわいそうな妖怪に憐みを施してやっていただけであって、有事の際は当然人間に味方する。少なくとも人間側はそう思っていた。ここで妖怪側であること、星が神ではなく妖怪であることを人間たちに知らしめるのは、彼女の社会的生命の終わりを意味した。星は強大な存在だったが、神々の中にはもっと上もいる。第一、寺を干されれば終わりだ。まず毘沙門天から解雇される。どれほど褒めそやされても、結局お山の大将に過ぎなかった妖怪虎にはもう戻りたくない。戻ったとして、それで白蓮が救われるわけでもない。だから人間相手に戦いを仕掛けるという選択肢は、はじめからなかった。
戦端が開かれると、ものの半刻で双方に甚大な被害が出た。血が流れた。命も消えた。星は宝塔を握り締めたまま、戦場に立ち尽くしていた。生半可な攻撃は彼に影響を与えない。人と妖、双方の痛みや恨みの声が、彼女を苛んだ。
意を決し、地響きを立てて、跳躍した。強靭なレーザーを、いくつも身にまとい、障害物を蹴散らし、聖白蓮に向かった。目が合った。
横から、雲山の巨大な拳が襲いかかってきた。雲居一輪の頭巾はどこかへ破り去られてしまったのか、銀髪が剥き出しになっていた。髪には血がこびりつき、目はつり上がり、口は真一文字に結ばれている。白蓮の傍に来るものを片っ端から殴るだけの機械になっていた。
星は正面から拳で殴り返した。雲山の腕が砕け散った。一輪は二十本以上のレーザーを飛ばす。星のレーザーは鯉のようにしなりながら、一輪のレーザーを呑み込み、そのまま雲山を打ち抜いた。雲山がばらばらになる隙をついて、一輪が金輪を振りかざして襲いかかってくる。矛を振って容赦なくはたき落とす。そして白蓮と向き合った。それに気づいたまわりの妖怪たちが、自分が戦っている相手も放り出して、白蓮のもとへ向かおうとする。後ろから撃たれる者もいる。
「なんだか、久しぶりにあなたの顔を見た気がします、寅丸星」
白蓮は両腕を広げた。
「聖……私は」
何か言おうとした。言いたいことはいくらでもあった。白蓮はうなずく。星は宝塔を握りしめた。汗で滑らないよう、しっかりと握り直す。
先端を白蓮の胸に突き立てた。白蓮の肋が折れる確かな手応えがあった。
妖怪たちの血を吐くような声が響く。
白蓮の体の内側から、神々しい光が迸る。それは少しずつ白蓮を蝕んでいく。
「聖、私も」
白蓮は首を横に振り、広げた腕で、星を抱き寄せた。
「いいのです。わかっていますよ」
星は口がからからになって、何を言っていいかわからなかった。赦されたのだという安堵感と、自分が今とてつもないものに手をかけているという喪失感が同時にのしかかる。どちらも重すぎた。重さに耐えきれず、ひたすら叫んだ。叫びながらも、宝塔の底の部分を両手で持ちかえ、力の限りねじ込んだ。星の頬に温かいものがかかった。それは垂れて、星の唇の端にもぐりこむ。
苦く、甘い、鉄の味だ。
**
扉を遠慮がちに叩く音がした。鍵を開けると、稲穂色の髪の少女がいた。赤い帽子には葡萄が乗っている。さっき一輪が言っていた神様だろうと、星は見当をつけた。
「あの、お仕事中済みません。私、秋穣子と言います」
「あ……っ、いいえ、こちらこそせっかくいらっしゃったのにお構いもせずすみませんでした。寅丸星と申します」
一輪が出ていった時点で残っているのは星だけなのだから、客人の相手は星の役目だ。昔を思い出して、時間が経つのを忘れてしまったらしい。
だが穣子は、待たされていて所在ないといった感じでもない。怯えたようにしている。
「どうされました」
「雲居さんが、戻ってきません。それに、なんだか、あの船」
言葉よりも、穣子の表情が事態を雄弁に語っている。星は外に出て、船を見た。
船は、実体化と半透明をせわしなく繰り返していた。それは心臓の動悸にたとえるには、あまりに早すぎた。おそらく、中にまだひとがいる。
そして、吹きつける禍々しい風。べっとりと湿気を含んでいる。浴びると、まるで汗をかいたような不快な雫が肌に張りつく。まだ何も起こっていないのに、これから必ず何かが起こると思わせる風だ。
「どうして……村紗」
「いったい、これは」
穣子は震えていた。怖いのに、それを押し切って星に報せに来てくれたのだ。星は出会ったばかりのこの神の誠意に、感謝した。
「秋さん。私たちは、本当に仲がいいんです。苦しいときも楽しいときも、その思いを分かち合ってきました」
星は穣子の頭に手を置く。そのことでお互いの震えが少し治まった。自分も震えていたことを自覚した。
「けれど、あまりに苦しいとき、もしくは、あまりに心地よいとき……それを誰かに八つ当たりしたり、独占したくなったり、するものなのです」
「あ…あ…」
「あなたから頂いたもの、できればみんなで食べたかった。でも、ひょっとしたらこの辺りも危険なことになるかもしれません。逃げてください」
星はそう言いおいて、船に向かった。
船に入った途端、一輪は異変を察した。胃がきゅうっ、と締め付けられる。切り裂かれた扉がいくつも廊下に散らばり、壁は破れ、折れた柱が天井からぶら下がって揺れている。この破壊の形状は、一輪が知る限りひとりしか思いつかない。
「村紗……」
点々と見覚えのある妖怪が倒れている。地底で出会って声をかけたはずの妖怪もいた。その中に、灰色の髪の少女もいた。
「ナズーリン!」
「うぅ……ぐ、君か。ご主人じゃないのか」
ナズーリンはかすれた声で答えた。顔はやつれ、服はあちこち破れて、そこから血が滲んでいる。こめかみからは、まだ新しい血が流れている。
「星は仕事部屋よ。秋の神様と知り合いになって、それでみんなで食べようって、だからもう少し仕事を」
「呼べ」
「いったいどうしたの。これ、全部村紗がやったの。どうして。わっ、あなた、下半身が壁に埋まっているじゃないの」
「いいから、呼べ。多分、君じゃ無理だ」
「ええ呼ぶわよ。で、あいつはどこなの。村紗は。いったい、何が、どうなって」
「馬鹿、呼……べ……」
「ここよ」
頭上から村紗が降ってくる。振りかぶった錨を叩きつける。
一輪が雲になって弾けた。爆風とともに膨大な煙が湧き上がった。
ダミーだ。
村紗は煙幕で視界が利かない。真横から抉るようなボディブローが飛んでくる。
「ぐぅッ……」
直撃だ。片手で腹を押さえ、一瞬うずくまる。顔をあげると、目の前に鉄拳があった。
連打「キングクラーケン殴り」
ひとつを避けても次の鉄拳が襲いかかってくる。間近に来るまでどこから飛んでくるかわからない。息つく間もなく、ひたすらその場を飛び退き続ける。壁や床がえぐれ、木板が突き出る。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ……
背後に壁が当たる。廊下が終わった。
七つ目が頭上から降ってくる。村紗は思い切って前に向かって飛ぶ。足先を打たれただけで、壁際から何とか逃れる。ただ、右足が痺れてしばらくは使い物にならないだろう。はじめのボディブローで先手を取られたのが痛い。動きが後手になっている。
打たれた右足を庇うため、獣のように、左足と両手で床にはいつくばる。鉄拳が止んだ隙に、底の抜けた柄杓でありったけ水を撒いた。煙幕は晴れていく。
煙幕の向こうに、白髪を蓄えた鋼のような老人がそびえている。入道の雲山だ。その肩に、一輪が乗っていた。腰に手を当てて、大声を張り上げる。
「この馬鹿村紗、いったいあなた、何をやってるのよ。こんな、仲間を傷つけて……姐さんが知ったら何と言うことか」
「その聖のために、やってるの」
村紗は手のひらに小さな錨を生成し、投げつける。鉄拳に遮られ、あらぬ方向へ飛んでいった。
「だから、それが意味がわからないっていうのよ。村紗、私にはわからない。わかっているのはあなたがやっているのが間違っているってことだけ」
「そうね、一輪にはわからないかな。あんた、自分の目的と行動に、全部整合性つけられるでしょ」
「ひとは目的のために行動する。当然のことだわ」
「嘘。そんな簡単に一致しない。でも一輪は器用だから、そこをどうにかして折り合いつけるのね。残念だけど」
「村紗、あなたは時々よくわからないことを言うわ。いい加減に」
「この悦びは、一生理解できない」
「話はおしまいにするわ」
潰滅「天上天下連続フック」
左右に巨大な鉄拳が壁のようにずらりと並ぶ。
「一気に決めさせてもらうわ、村紗」
「それがいいよ、一輪。だって、他に勝機がないもの。あなたには」
拳が左右から押し寄せる。拳と拳がぶつかった衝撃で、船内が激しく揺れた。そのまま万力のように、がっちりと固まる。
やがて拳の壁が開く。そこには、床におびただしい水たまりが残っているだけで、誰もいなかった。
「……いったいどこに」
壁と床の間から、水が漏れる。水は、音もなく一輪に這い寄る。足に達すると、獰猛に這い上がってきた。
「うわッ」
一輪が気づいたときには、すでに体中にびっしりと水の鎖が絡みついていた。身動きがとれない。目の前に、青白い残像が現れる。
「あなた、パワーは私よりあるけど、小回りが利かないね」
村紗は錨を担ぎ、一輪に近づく。一輪はため息をついた。
「そうみたい」
「さよなら。私は聖に会いにいく」
「鏡見なさいよ、今、あなたひどい顔してるわ。そんなんじゃ姐さんに顔向けできないわよ」
「やりなおすの。あの日から聖は封印されなかったことにする」
「どういうことなの。何を言ってるの」
「いいよ、わからなくて」
村紗に説明する気はなかった。ナズーリンならともかく、この生真面目な友人が、合わせ鏡から始まる話を延々と聞いてくれるとは思えない。
「なんで自分から難しくしてるの、村紗。簡単よ。大変だけど簡単。姐さんは封印された。それをみんなで助けに行く、そういう話でしょう。私たちは昔話をしに来たんじゃないよ、村紗」
「あなたの言う通りよ、難しくないわ、一輪。あなたは聖を独占したくないの? 私はしたい」
「よくわからないわね、それって姐さんと一緒にいたいっていうこと? もちろんそうよ」
「……もういいわ、あなたにわかってもらうつもりもないから。もう、いい」
「よくない」
一輪は全身に力をこめた。水の戒めが一輪の服に肉に食い込む。ぎぎぎ、と一輪は歯ぎしりする。
体がひとまわり大きく膨らむ。顔を真っ赤にして、もがく。
水の鎖を引きちぎった。村紗は目を丸くした。
「嘘……」
「甘えるな、村紗。姐さんを助けるためにみんなで協力するっていう、それだけのことがどうしてできないの」
「一輪、あんたって」
村紗は、胸にもやもやとしたものを抱える。一輪の愚直さを、嗤いたくもなる、怒りたくもなる、羨ましくもなる。
「姐さんを独り占めしたい!? だから仲間を船に埋め込む、って何それ、村紗、あんた子供なのよ!」
そう叫んで、殴りかかってくる。丸腰で。得物を持った村紗に。村紗は一瞬の躊躇を余儀なくされた。雲のダミーを疑ったからではない。憐みをかけたからでもない。
一輪の無謀さに呆れたからだ。
まっすぐな感情に、怯んだからだ。
「うるさいッ! 言ったでしょ、あんたに私の気持ちはわからないって」
喚き散らす。自分でも餓鬼みたいだ、と思う。
向かってくる一輪の頭を、錨で思い切り殴りつけた。一輪はそのまま床に倒れ込む。ぴくりとも動かない。村紗はその場で一輪を見下ろし、虚脱したように立ち尽くしていた。一輪の言葉、ナズーリンの言葉が頭の中で渦巻いていた。
だから、雲山の鉄拳が背後から迫っているのに気づくのが、ほんの少し遅かった。
***
命蓮の墓を参り終わると、行きとは別の道にしようと白蓮が言い出した。水蜜は一も二もなくうなずいた。
渓谷の橋を渡ると、休憩所があった。方形に組み合わせた四つの長椅子に屋根がついているだけだが、ひと息つくには十分な場所だった。休憩所の脇に生えている木は、若いが、見事な枝ぶりだった。紅葉の途中で、まだ半分は青い葉だ。ある線を境に、それが鮮やかな赤色に変わっている。
「わあ、いいなあ、綺麗ですね、聖」
「ええ、本当に。なんだか、頬を染めているみたいね」
「頬を? 木なのに」
聖は変なことをいう、と水蜜は思うが、そのとっぴな言葉遣いも愛らしかった。
「木でもなんでも、いいのですよ」
そう言って、白蓮は少し離れたところの木まで歩いていく。しゃがみこんで、何かを手にいっぱい乗せてきた。
「えい」
そのひとつをとって、水蜜に投げつける。それは水蜜の額にこつ、と当たった。
「何してるんですか、聖」
「団栗が落ちていました。だから拾いました」
また飛んでくる。ふわりと弧を描いて。水蜜は手に取ると、即座に投げ返した。白蓮の額に、ぱちーんと軽い音を立てて団栗が宙に浮く。白蓮は微笑み、目にも止まらぬ動きで続けざまに投げてきた。四つまでは水蜜は目で確認できたが、実際に手に取れたのは二つで、残りは顔やら肩に当たった。五つ当たった。
「どうしたんですか、いきなり」
水蜜は呆れたように苦笑する。白蓮は団栗を持ったまま、先へ進む。水蜜もあとを追って、道を下っていく。川のせせらぎが耳を撫でる。いつまでも聖とこうして歩けたらどんなに幸せだろう、と水蜜は思う。唐突に白蓮は振り向いた。
「ああ、水蜜。やっぱりあなたを連れてきてよかったわ」
どくん、と。
胸が、内側から強く叩かれる。鼓動が急に速くなる。
たまらない。この感覚は、やみつきになる。
聖だけが、自分の世界になる。他は何もいらない。
水蜜、水蜜、ともっと名前を呼んでほしい。もっと必要としてほしい。もっと求めてほしい。
「私があなたを求めているくらいに……」
「えっ?」
白蓮から聞き返されて初めて、水蜜は自分が想いを口走っていたことに気づいた。
「水蜜、あなたは、私が必要なの?」
「ええ」
水蜜はうなずいた。
「誰よりも」
団栗がすべて地面を転がっている。気づいたときには顔が白蓮の肩に押し当てられていた。ドレスの生地は柔らかかった。背中を這いまわる白蓮の手の動きは、もっと柔らかかった。肩甲骨の下と、うなじを押さえられている。それだけで身動きがとれない。そこから、白蓮のぬくもりがそそぎこまれていくのを感じる。身じろぎすると、白蓮のダークブラウンの髪が、頬や首筋ををくすぐる。白蓮の息遣いが、すぐ右耳のところで聞こえる。いつしか、自分の鼓動と白蓮の鼓動が重なっていく。ばらばらだったものが、ひとつになっていく。水蜜はおそるおそる、白蓮の腰に腕を伸ばす。わずかに指先が腰のくびれたところに触れる。抵抗はない。そのまま手のひらを乗せる。それから意を決し、力を込めて、抱き寄せる。白蓮の体が、さらに自分と密着する。あまりの快楽に、水蜜は息を呑んだ。こめかみが重く疼く。目眩がした。
「ありがとう」
白蓮は囁く。
ありがとう、と水蜜は唇の動きだけで応えた。
「私は、誰かに必要とされないと生きていけないの。弟みたいに、自分で自分の生きる道を見出すことなんてできなかった。老いが怖かったから、ただそれだけの理由で魔法を学んだ。自分のことしか考えていないの。弟が死んだあとも、私は若くあり続けた。そうして、どうしようもないほど退屈で、寂しくなったの。でも、死ぬのはやっぱり怖かった。本当に、どうしようもなかった。どこに行っても道は塞がっていた。思い出したくもない、昔のことよ。あの頃は、弟に会いたくて会いたくて、でもお墓を参る勇気がなくて、それでいつの間にか弟の墓自体が何か怖いものに思えていた。今でも、その頃の名残かしらね、ひとりで命蓮の墓の前に立つと、緊張してしまうの。よかった、今日、あなたがいて。命蓮にも胸を張って言えるわ。今は、あなたたちがいるから生きていける、と」
めくるめく陶酔の中、骨が、水蜜の喉に引っかかる。
白蓮がどれだけ利己的だろうと構わない。昔どうだったのか、現在はどうなのか、そんなことは問題じゃない。
〈あなたたち〉
白蓮から与えられる、この何にも代えがたい快楽。
この快楽を味わうのは、自分が初めてではないだろうし、自分で終わりでもないだろう。
「人間たちが都に退魔師や僧兵を集めています。かなりの規模です。あなたたち妖怪を一掃しようと考えているに違いありません。危険です。私のできる範囲で妖怪たちに危険を知らせます」
白蓮の声は落ち着きを取り戻す。同時に、あの想像を絶する心地よさの波が引いていく。腕を精一杯差し伸べて、快楽の切れ端だけでも手に残しておこうと思うが、それも叶わない。
「あなたたちを、人間の横暴から守りたい」
水蜜は首を振ろうとするが、白蓮に抱かれていてそれすらかなわない。
聖、そんなことはどうでもいいのです。
「私はあなたを傷つける人間を許さない」
***
意識を失っていたのは確かだ。体に蓄積された疲労がほとんど抜けていないところからして、雲山に殴られてからそれほど経ってはいないようだ。おそらく十秒かそこら。
木片をかき分けながら、上体を起こす。廊下の真ん中で倒れている一輪が視界に入る。最後の力を振り絞ったのだろう。一輪はそのまま、沼に沈みこむように、廊下に埋もれていく。左右に水面を張り巡らせ、合わせ鏡を作った。前よりも、あの日が近づいてきている気がする。ナズーリンほど鼻が利かない村紗にも、既に香薬の匂いが嗅ぎ取れる。
もう少しだ。
もう少しで、聖に逢える。
廊下を、誰かの靴が踏む。たった一度だけだ。また沈黙が降りる。村紗は崩れた柱や扉の下敷きになっている錨に、そうっと手を伸ばす。
「あなたは、止めてほしかったのでしょう」
攻撃は突然だった。
うねる閃光が村紗の手の甲を貫く。そのまま錨を、村紗の手の届かぬところまで弾き飛ばした。村紗は廊下を歩み進んでくる影を見据える。
「星ッ……!」
「自分が間違っていることは承知の上だった。それでも感情の迸りを抑えつけることができなかった。だから誰かに止めてほしかった」
「違うわ」
黄色やオレンジの光が、星の周囲を蛇のようにのたくっている。星と目が合った。毘沙門天の弟子は、静かな闘争心に満たされていた。村紗は、改めて彼我の実力の差を思い知る。
「いいのです、ひとは過ちを犯します。私もまた、そうなのですから。安心しなさい、村紗船長。あなたのことは、よく知っています。こういうことがあったからといって、私はあなたを見捨てたりはしません」
「好き勝手に……」
「もう抵抗しなくていいのです。あなたはナズーリンと戦いましたね、一輪とも戦った。そうして今、崩れた壁にもたれかかり、立ち上がることもできない状態です。あなたが万全の状態であっても、率直に言って私が遅れを取ることは決してありません。たとえば一輪と二人がかりなら、もう少し状況は変わるかもしれませんが、やはり結果は同じでしょう」
「言ってくれるね」
「私が勝ちます」
「やってみなさいよ」
閃光が村紗の青白い残像を貫く。もうそこには誰もいない。星は振り向き、手にした矛をかかげる。背後から襲う村紗の錨を受け止める。
ぎり、と村紗は歯を噛みしめる。完全に読まれている。星は戦いの最中とは思えないほど穏やかな声で村紗に語りかけた。
「やはり全力はもう出せないようですね。時間はかけません。あなたも疲れるでしょう」
空いた手で懐から宝塔を取り出す。村紗はそれに視線を走らせる。左目だけを薄める。片頬を引きつらせる。
「聖を刺したもので、私も刺す気?」
星の動きが止まる。こめかみに、錨が直撃する。横ざまに倒れ込んだ。
「いいわ。刺して。聖の中を通ったものを、私も感じてみたい」
「ぐ……村紗」
「聖を貫いたとき、どんな気分だった」
星は腕をついて上体を起こす。脇の下が裂け、肌が露になり、そこから血が滲んでいる。折れた柱が刺さったのだ。辛うじて矛を手に取る。
「教えてほしいな。正直に、ねえ、星」
普段の星ならばこの程度の傷で出血したりしない。村紗の言葉は、星の精神をズタズタに切り苛む。星の顔は青ざめ、目からは闘争心が消えていた。
村紗は底の抜けた柄杓から水をばらまく。星の体にべったりと水気がまとわりつく。村紗は錨を構える。迷いがない。
「苦しそう。私、そんなにいけないこと言ったかな。でもこれで対等ね」
そのまま叩きつける。
乾いた音がした。星の矛は真中から折れ、先が天井に突き立った。錨は星の肩に食い込む。錨から水が滲み出る。
溺符「シンカブルヴォーテックス」
水の柱が噴き上がる。ナズーリンのときよりも遥かに巨大だ。水は天井を突き破る。柱は渦になる。木片と化した壁も扉も、巻き込む。星も村紗もまとめて飲み込む。村紗は錨を再度振り上げる。水中であるにもかかわらず、動きはまったく鈍らない。
村紗を見上げる星の目が、黄色く光る。
「対等?」
水中なのに、村紗には声が聞こえた。
「こんな水遊びで、虎と?」
上体を起こしただけの不安定な姿勢から、星の体が跳ね上がる。金色の髪が、一瞬で伸びる。炎のように膨れ上がる。頭上の蓮の冠が落ちる。
荒れ狂う水流をものともせず村紗の肩に手をかける。村紗はうめいた。星の指から伸びた爪は、深く彼女の肩に食い込んでいた。逃げられない。力が入らない。錨が手から離れる。星の顔が目の前にある。大きく開けた口には、獰猛な牙が並んでいる。眼光は爛々と、黄色に光っている。
逃げようがない。
村紗は観念した。
「グぁルッ!」
白い喉に牙が食い込む。
村紗の意識が薄れる。渦は水勢を弱め、たちまち引いていった。星は顎の力を緩めた。ぐば、と音がし、牙から唾液と血が糸を引く。村紗のまっしろな喉は、無数の歯跡が醜く刻み込まれている。水を吸ったセーラー服は村紗の体にぴったりとはりついている。下にキャミソールしか着ていない村紗の肌を、完全な裸よりももっとあらわに暴いていた。黄色の目の星は、目を閉じて力なく横たわっている村紗の胸元に、右手の爪をそえる。
「……ハッ!」
星の左目だけが、元に戻る。右手はもう止まらない
引き裂く。左手を右腕に突き刺す。爪は村紗の服を裂き、皮膚にわずかな傷をつけたにとどまった。右目はまだ、黄金の輝きを放っている。
「うっ……く」
長すぎる金色の髪の毛が、少しずつ抜け落ちていく。右腕が血で赤く染まる。それでもまだ獣の性を失っていない。獲物を引き裂こうと、筋肉が躍動を続けている。左手でそれを懸命に抑える。
「村紗、もういいでしょう。もう、やめましょう」
村紗は目を閉じたまま答えない。喉からも血が溢れていく。
「聖を貫いたときどうだったか、あなたは尋ねましたね」
そこで言葉を切り、ぶる、と震える。あのときの感覚を洗いざらい、思い出す。
後ろめたさ、申し訳なさ、忌まわしさ、悔い、そして……
「痺れるように、良かった。あれほどの心地よさを、私はいまだかつて味わったことがなかった。認めます。私の薄汚い欲望を認めるから、だから、もう、これ以上」
右腕が力を失い、だらりと垂れさがる。長い髪は、いくつか残っているが、ほとんど元通りになった。右目の黄色が、白へと移りゆく。
「聖を貶めないでください」
「聖を貶めないで」
村紗の声なのに、唇は動いていない。
「聖に抱く想いを、薄汚いなんて」
村紗の四肢は、手や足の先から水になって溶けていく。それは、村紗の喉から溢れるものや、星の右腕から流れるものとひとつになっていく。髪の毛が、耳が、目が、赤い液体に溶かしこまれていく。最後に、ピンク色の唇だけが残った。赤い水面に浮かんでいる。それは、下弦の月のように湾曲した。とぷりと沈む。
水が世界を覆い尽くす。上下左右、前後、六面を赤い鏡が囲む。
合わせ鏡の世界が星を支配する。
「村紗、村紗、やめなさい村紗」
「うん、もうやめたいの。やめたいけど、とまらないの」
「村紗ッ!」
再び星の髪の毛が伸び始める。目が金色の輝きを帯びる。牙が、爪が、またも生長を始める。この変化は、星に心身ともに多大な負担を強いる。今、星は、理不尽な労役を大人から負わされた子供のように、ただひたすらこの場から逃れたかった。背中の荷物を放り出して、逃げたかった。
「右には未来が」
声が聞こえる。星はびくりと肩を震わせ、辺りをきょろきょろと見回す。その度に、六面に広がる無数の星が、一様にうろたえる。
「左には過去が」
左の鏡を見る。いつの間にか真黒になっていた。星の姿はない。そこだけ夜になっていた。過去の夜へと通じている。潮の香りがする。星は身を乗り出して、鏡の向こうの夜を覗き込む。
夜の海に、誰かが浮かんでいる。
彼女の半開きの口から、ごぽ、と海水が溢れでる。黒髪は海面に藻のように広がり、月光に濡れている。ちぎれた布の切れ端が、藻のようにゆらめきながら、体にまとわりついている。白い裸体には、いくつかの傷がある。海を漂ううちについたものだろう。
特に目立つのが、形の良い乳房の間から突き出ている木片だった。
木片というよりは、槍を思わせる。その細長く鋭利なものは、少女の背中から胸を貫き通し、上弦の月を差している。
「おおう、ついについに」
「ほう、ほう、来たか来たか」
「それ、見よ、それ、見よ」
「なんと、おお、なんと」
ぼろきれの群れが、海面を這い、口々に感嘆の声をあげながら、少女を囲んでいく。祭壇を囲むように、ぐるぐると彼女のまわりと蠢く。森の木々がざわめいているようにも、火が燃え盛っているようにもみえる。ただ、森や火が持つ豊かな色を、彼らは持たない。自ら捨てたから。
月夜の晩、海に漂う村紗水蜜は、美しかった。
夜の海の向こうに、白銀に輝く面がある。それは鏡だ。鏡が押し寄せる。星の体は赤い鏡の世界に閉じ込められたままだというのに、視界だけはここから抜け出していた。
白銀の面を越えた。
黒髪の幼い少女は、所在投げに、ぽつんと板張りの部屋にいる。座布団もないので、足が痛いらしく、何度か姿勢を変えている。部屋は狭い。少女が寝転がって四肢を広げたら、手足の先が部屋の四隅に届いてしまうくらいだ。扉はない。自分がどこから入ってきたのか少女は知らない。目の前に裂け目ができた。裂け目の向こうは青黒い沼のようで、無数の目がこちらを見ている。
「こっちの鏡は昔なの」
裂け目から、奇妙ないでたちの女が現れた。少女は、祭りや、絵物語の中で辛うじてそれに当たるものを見たことがあった。道士とか陰陽師とかが身につけそうなものだ。その証拠に、前掛けには、彼らが占いに使うような模様が入っている。だが、そういう服とも何か違っていた。少女は西洋のドレスを知らない。
女は少女の右側に化粧台ほどの、長方形の鏡を立てる。
「こっちの鏡は先のこと」
そう言いながら、左にも同じ大きさの鏡を置く。
「あなたの水は、甘すぎるから、亡霊まで悦ばせてしまうのね」
少女は鏡と鏡の間に頭を入れる。右を見ると、夜の海に浮かぶ、少女によく似た、でももう少し年上の女が映っていた。裸だった。胸を、鋭い何かで貫かれていた。
「そんなに甘いの? どれくらい」
「ええ、とてもとても。だって私に見つかったくらいだから」
「お姉さんは、亡霊なの。怖いの」
「怖くないわ」
「私、ずっとここにいなくちゃいけないの」
「いいえ」
女は、少女の手を取り、裂け目に導いた。
「お家に帰してあげるわ。また、会うことになるかもしれないけど」
裂け目は閉じた。
白銀の鏡に亀裂が走る。世界が粉々に砕け散る。
その向こうに青い鏡がある。それは海の底だ。
長い黒髪が海中を漂っている。半裸の少女が頬を膨らませ、岩に腰かけている。一枚の白い布を体にまきつけている。沈めた船の帆を拝借した。質のいい帆だったらしく、着てからかれこれ五十年は経つ。
から、ころ。
口の中で転がす。口を開け、舌の上にそれを載せた。人差し指と親指でつまみだして、目の前でじっと見つめる。人間が、ゆったりとした姿勢で座禅をしているように見える。そのまま即身仏になってしまったようにも見える。人間の骨の一部位、第二頸椎または軸椎と呼ばれるものだが、村紗はそういう名前は知らない。ただ、彼女は彼女なりの価値判断で、これを仏と呼ぶ。
「うん、この仏はいいものだわ」
特に、仏の背中から腰にかけての形がいい。惚れ惚れする。生前は徳の高い人間だったのかもしれない。もう一度口に放り込む。
から、ころ。
そうやって水底にたゆたい、朽ちた骨や肉で口寂しさを紛らわす。ムラサと呼ばれる舟幽霊の日課だった。楽しくてやっているわけではない。他にすることが何も思いつかないのだ。それでも、長い間習慣にしていたためか、これをしていると心が落ち着く。
「ほほう、ムラサ、ほうほほう」
底の地面をいざり寄ってくる亡霊がいる。彼女は亡霊に好かれた。というより、彼女の水が、亡霊の大好物だった。
村紗水蜜は、海賊の村に生を受けた。
海賊と言っても、まわりからそう呼ばれているだけで、本人たちは一度もそう名乗ったことはない。海のなんでも屋だった。水上輸送の用心棒をする。よその村で漁が忙しい時は手を貸す。遭難者が出た時も船を出して捜す。そしてたまに、国同士の戦に手を貸したりする。村人の気性は荒っぽいし、付近の村から治安維持費、要するにショバ代も取っていた。戦の間は敵方に対しては容赦なく略奪を敢行した。
皆、物心つく頃には櫂の漕ぎ方を知っている。村のリーダー格は全員船長だった。村の政治も経済も、そして暴力も、船長が握っていた。誰もが船長に憧れた。村紗も例外ではなかった。
生前から、村紗のまわりでは水の異変に事欠かなかった。日照り続きのある日、村紗の井戸から水が溢れた。洪水が起こり、堤防もない彼女の家は無事で、彼女に辛く当たっていた女がいた家はもっとも安全な場所にあったのに流された。川が逆流したり、村道がまるごと沼地になったりした。そうやって村紗が招いた水には、必ずと言っていいほど亡霊が混じっていた。村人の先祖や、最近死んだ村人もいた。つい懐かしさや親しさのあまり、彼らと熱心に話しこんだ者は、そのまま水の中に引いていかれた。
村紗を畏れる者は多かった。だが、本人はいたって快活で人懐っこく、友人もまた多かった。俊敏で我慢強いところが、船長をはじめ、船乗りたちに気に入られていた。船長の中には、あえて村紗を船に乗せて“仕事”に出かける者もいた。村紗を乗せると当たり外れの差が大きく、博打好きの船長たちに好まれた。
水がもたらす力は年々凶暴になっていった。村紗の手には負えなくなっていた。彼女はそのことに気づいてはいたが、目をそらしていた。しかし視線をそらしても運命は追いかけてくる。念願の、村で一番立派な船に乗せてもらった。長年憧れていた船に乗ることができて、村紗はすっかり舞い上がっていた。たとえ目的がどんなものであろうとも。
船は、西の果ての大陸を目指す。村はかつてないほど困窮していた。外敵に絶えず侵略を受け、金目のものは根こそぎ奪われ、天から見放された作物は枯れる一方だった。誰かが外の世界へ助けを求めなければならなかった。
つまり、土地を捨てた。
まず三日かけて、村紗たちは小さな島についた。そこから、点在する島で補給をしつつ、旅を続けていった。七つ目の小島を出て半日後、その時代の人間には未曽有の大嵐が船を直撃した。遥かな異国、西方の浄土を夢見ながら、村紗は溺れた。
幽霊になってからは、水の使い方も覚えた。今ムラサのまわりにいる亡霊は、誰も彼女に害を加えようとはしない。彼女の甘い水に飼い慣らされた者ばかりだ。
「僧侶、おう、僧侶ぞ、おぉ」
「へぇ」
がりっ
口の中の仏を噛み砕く。また狩人がやってくる。今まで、何人も何人も返り討ちにしてきた。
「強い、眩しい、強いぞぉ」
「どうする、さあぁ、どうする」
亡霊たちは怯えていた。その怯える様が滑稽だった。ムラサは彼らを鼻で笑うと、水底の地面を蹴った。海面に顔を出す。夜が、大きく腕を広げている。かつて村から眺めていた星よりも、海面から見る星の方がずっと数が多い。
(ただ者じゃない)
海面に上がる途中から、嫌でも感じる。得体の知れない神々しさとでもいったものが、岸の方から漂ってくる。
(どんな人間だろう)
ばり、ぼり。
骨を、さらに噛み砕く。
星は夜空に浮かぶ緑色の鏡へ視線を移した。ここから先の、村紗と白蓮の出会いは見るべきでないと判断した。どういう経緯だったかは、双方から聞いているので星もおおよそ把握している。それでも、こうして直接見ることは、村紗と白蓮の思い出を土足で踏み荒らすように思えて、気が引けた。
鏡から鏡への移動は、慣れてくると自分の意思でできた。
ページをめくるように、鏡を越えていく。前に進んだり、後ろに戻ったりした。やがて、星も知っているあの日の光景が、鏡に広がった。
聖白蓮が封印された日。
大勢の妖怪と人間が入り乱れている。互いに傷つけ合っている。やがて、鏡は白蓮の姿を映し出す。星は目をそらした。白蓮に宝塔を突き刺し、愉悦に歪む自分の顔を見たくなかった。村紗はその愉悦をまるごと肯定したが、星にそれはできなかった。次の鏡へ移ろうとした。
「聖、待って下さい!」
突然、村紗の悲鳴に似た叫び声がした。足下から白い腕が突き出る。さらに髪の毛、額、目、と出てくる。
「聖!」
鏡面から上半身だけ出して、村紗は鏡に向かって叫んだ。彼女の体は時々透き通った。切れかけた電球のように、ゆるやかに点滅している。
「今助けます、聖!」
両手を鏡について、下半身も鏡から引きずり出す。波紋が広がる。今まで完全無欠だった六面の鏡に、大きな歪みが生じる。鏡の中の白蓮が、こちらを見た、そんな気が星にはした。
「聖、こっちに気づいた……」
村紗は虚ろな眼差しで、白蓮に歩み寄る。波紋は収まる気配がない。村紗が水面に手を触れると、そこからさらに波紋が生じる。白蓮が、なんだかわからない、ただの色の集まりになった。
「ああっ、もう、邪魔をしないで、私の体」
村紗の体が薄まる。そうすると、水面に触れても波紋は立たない。村紗のまわりを、ぼろきれが漂い出す。ぼろきれは時々ひとの形を取った。
おう、おう、ムラサよぉ。
ぼろきれは楽しげに囁く。
「村紗、舟幽霊に戻るのですか」
星の声は厳しかった。
「おかしいなあ、聖にさわれないよお」
村紗は星には返事せず、向こう側の白蓮ばかりを見ている。
「あと一枚、あと一枚、この鏡さえ割れば行けるのに」
おほう、おう、餌が足りぬのだ、ムラサ。
「そう、餌」
そう、そぉう、この水にたっぷりと吸わせるのだ。餌の命をな。命の水は、鏡を越える。
「そうね」
視線を星に転じる。村紗の形は、朝霧のようにおぼつかない。今にも消えてしまいそうだ。朧な村紗は亡霊をまとい、星に縋る。たちまち星の肺は水で満たされた。溢れた水は星の口から外へ出る。星は内側から侵されていく。指先まで、村紗の水がめぐっているかのようだ。
「閉じこもるの。聖とふたりで。誰にも邪魔されないところで」
殴っても切っても無駄だ。矛も牙も爪も、役に立たない。しかし星は慌てない。むしろ今朝目覚めてから今までのうちで、もっとも落ち着いていると言ってもいい。髪や指先、口元に獣の気配はもうない。目は薄く開いている。唇は血の気を失って、白い。体全体がほのかに光っている。
「わかりました。話がとてもわかりやすくなりました」
口からは絶えず水を吐き出していたが、声は口ではない別のところから発され、鏡の部屋に明瞭に響き渡った。怯えの色はもうなかった。
「私がもっともすべきことを、あなたは示してくれました」
白い光は強くなる。
「魔を払う力、これは、聖すら私には及びません」
足下から広がる光は、赤を白く染めていく。
「なぜなら聖は魔をも受け入れる。村紗、かつてあなたをそうしたように。けれど私は、魔を祓うことしかできません。祓うことに関しては、誰よりも勝っています。あなたの過去から手を伸ばしてくる亡霊も、例外ではない」
相手が、正体不明の感情、未知の動機、理解できない友ならば、星はなすすべがなかった。だが相手が魔に限定されれば、話はまったく違ってくる。心おきなく、全身全霊を尽くすことができる。
「コンプリートクラリフィケーション」
鏡の世界が光で満ちていく。隅々まで、赤は排斥され、白が支配する。亀裂が走る。無数の銀色の砂のように、鏡が崩れていく。光の奔流はとどまるところを知らない。溢れていく。星も村紗も、何もかも呑み込んでいく。
光が収まったとき、まわりは、元の荒れ果てた船内に戻っていた。村紗はそこにいた。星は村紗に近づく。
「村紗、大丈夫ですか」
「無粋なこと、しないでよ」
村紗は目を閉じたまま、か細い声で言う。
「せっかく聖とふたりきりになれると思ったのに」
「それはもう、止まってしまった聖でしょう。それなら、あなたの記憶の中の聖と何も変わりはない。あなたは思い出だけで満足できますか?」
「ううん。もっと新しい聖に触れたい。色んな聖に触れたい。色んな話をしたい。もっともっと、飽きるまで。貪るように」
「そうでしょう、そうでしょう。ふたりで閉じこもればそれで満足だなんて、それは嘘ですよ。あなたは自分に嘘をついていた」
「半分はね。でも半分は本当だった」
村紗は長く息を吐いた。
「疲れた。疲れたわ。どうして浄化しなかったの? どうせもう、私はここからいなくなるのに」
「村紗、あなたは……」
「こんなことした。もうみんなとは、いれないよ」
星が何か言おうとする前に、村紗は糸が切れたように首を落とした。揺さぶっても反応しない。意識が完全になくなっている。言いかけた言葉を呑み込み、立ち上がり、まわりを見渡す。
一輪や他の妖怪たちも、船内の方々でぐったりと倒れていた。幸い、みんな息はあった。
「ご主人」
物陰から、よろめきながらナズーリンが現れた。
「ああ、無事だったのですね。よかった」
体中を駆け巡る安堵感が心地よい。緊張が一気に解けた。星は顔をくしゃくしゃにして、目尻に涙を浮かべながらナズーリンに歩み寄る。対照的に、ナズーリンは表情をほとんど動かさず、口元だけに笑みを浮かべている。
「心配したのですよ、ナズーリン」
「やっぱり、いいな」
「どうしたのですか?」
「やっぱりこういうご主人が、私は好きだ。あなたは強い。それに、優しい」
ナズーリンから面と向かってこんな風に言われたことは、ほとんどなかった。戦いが終わって気が抜けたこともあり、星はぽろぽろと涙をこぼした。
「あれ、どうしてでしょう。私、いけませんね、なんだか子供みたいですね」
「ふふん、そういうご主人も、まあ悪くはないな」
ナズーリンは傍に倒れている一輪の腕を、自分の肩に回す。
「立てるか」
「う、うう……私より、みんなを」
頭巾が破れ、銀髪が惜しげもなく散らばっている。
「顔中が腫れあがっているぞ。だいぶやられたな」
「あの錨、痛いのよね」
「まあ、大丈夫というのなら無理に助けたりはしない」
肩から腕を離す。一輪はよろめきながらも壁伝いに歩いていく。
「ご主人」
ナズーリンの言葉に、うなずいてみせる。これから救助活動がひと仕事待っている。
座敷の食卓は豪勢な料理で彩られていた。
「よかったわあ、みんな戻ってきて。誰も戻ってこないから、どうしようかと思っていたの」
穣子は満面の笑みを浮かべ、お椀にご飯をよそい始める。星はきょとんとしたまま、敷居の前で立ち尽くしていた。
「え……どうして。だって私は」
「あんなこと言われて、はいそうですかって帰れるわけないでしょう。仮にもお呼ばれしたんだから、それなりのことはしなくちゃね」
穣子の神としての力だろう、用意されてからずいぶん時間が経つだろうに、料理は暖かく湯気を立てていた。
「いやあ、これはたいしたものね。さすが神様……あいたたた」
一輪は座布団に膝をつきながら、顔をしかめる。顔の腫れ跡や赤く滲んだ箇所がなまなましい。
「このみすぼらしい寺にこれだけの料理が並んだことは、ついぞ私の記憶にはないな」
腕や肩に自家製の包帯を巻いたナズーリンは、そう言って皿に自分の分をよそっていく。他にも、のっぺらぼうやらろくろ首やら人狼やらが、ぞろぞろと席に着いた。二十近い妖怪が一堂に集まった。
「ではお言葉に甘えて」
星も座る。そして両手を合わせ全員で、頂きます、と唱和した。
皆、物凄い勢いで喰い始めた。とにかく疲れていた。穣子はご飯や汁、茶のお代わりの世話でてんてこ舞いだった。はじめは一番慎み深かった星が、もっとも数多くお代りを要求した。しまいには、前かがみになって、親の仇でもあるかのように、魚に喰らいついていた。
彼らが食事を終えたとき、穣子もまた、感謝と信仰を一身に受け、お腹いっぱいだった。
「それにしても神様、本当、よく逃げ出さなかったわね。見かけによらず勇気があるのね」
お茶を啜りながら一輪が言う。さっきよりも、顔の傷は引いていた。
「いやあ、まあ、ここで逃げたら神様がすたるってものよ」
「まったくだ。見たところ、戦闘力はたかが知れているようだ。私の子ネズミたちより弱いかもしれない。それなのに、この顔ぶれがすぐ傍で戦っていると知っていて尚、見ず知らずの寺でのうのうとしていられるのは、能天気か蛮勇かのどちらかだろう」
爪楊枝で柿をぷすりと刺しながら、ナズーリンは言う。
「はは……」
「もしくは余程のおひとよしか、だな。……ありがとう」
ナズーリンは素直に頭を下げる。穣子はぽかんと口を開けていたが、やがてでれでれと照れ始めた。食事がひと段落すると、昂った穣子は庭に巨大な桶を出現させた。米が敷き詰められている。その上を、彼女は狂ったように踊り始めた。秋が何よぉ、私は神よぉ、崇められるわぁ、テンションあがるわぁ、常時秋よぉ、みんな酔いなさいよぉ、ヒャッホァァァァ! などと奇声をあげる。十分ほどすると、庭に芳醇な香りが漂い始める。肩で息をしながら、穣子が座敷に戻ってきた。頬は上気して真っ赤だ。素足から酒の匂いがする。妖怪たちは拍手喝采し、茶碗や湯呑をめいめい手にして、庭の桶に群がった。酒をついで席に戻り、夕食はそのまま酒宴へともつれ込んだ。
妖怪たちは久しぶりの地上とあって緊張していたが、次第にそれもほぐれてきた。星が真っ向から村紗を打ち破り、彼らを助けたというのも心強かった。やはり星は頼りになる、と誰もが思った。
その星と、一輪、雲山の姿がないのに妖怪たちが気づいたのは、宴が始まりしばらくしてからだった。皆行き先はわかっていた。澄ました顔で黙々と神の酒と料理と自家製のチーズを食べているナズーリンが事情を知っているということも、何となくわかっていたが、あえて誰も何も言わなかった。
船内は、半刻前と比べてある程度片づけられていた。各所にまだ破壊の痕跡があるが、目を覆うばかり、というほどでもない。壁も天井も水浸しだったが、今はもう渇いている。星と一輪は、ある客室の奥で、破れた壁を直している村紗の姿を見つけた。
「村紗」
びくん、と村紗は肩を震わせる。半身だけ振り向く。
「あ……星、それに一輪」
「修理に精が出ますね」
「ご飯持ってきたから。地元の神様が用意してくれたの。おいしいわよ」
「す、すぐ出ていくからっ!」
ふたりの視線を避けるように、村紗は背中を向ける。
「みんなに迷惑かけた。けど、せめてこの船だけは直させて」
「村紗」
「あとは、うん、ごめんけど星に操縦をお願いする。最初のコツさえつかめばあとは自動だから、呑み込みのいい星ならすぐにできるようになるよ」
「村紗、話をしましょう」
「私ね、わかるの。私、全然変わっていない。変わる気もない。聖を独り占めにしたいって気持ち、全然なくならない。みんなと一緒にいたら、またみんなを傷つける。みんなといるのは、とても楽しい。私の居場所があるって思う。でも、それを壊したくなる。駄目なの」
「村紗、壁に向かって話しても何も伝わりませんよ」
「私はいてはいけないんだ。私の水が、みんなを不幸にする」
星は懐に手を入れ、突起物を出した。柄の両端に刃がついている。独鈷杵と呼ばれるものだ。一輪は拳を握りしめ、息を吹きかけた。雲がグローブのように拳を覆う。
「みんなのことは、好きだよ。嘘じゃない。でも私はみんなを傷つける。それに、私は耐えられな……あいたっ」
一輪のげんこつが村紗の頭にお見舞いされる。
「いいから黙って」
「何すんのよ」
村紗は頭をさすりながら振り向く。
「村紗、あなた、無責任なのもいい加減にしなさいよ」
「むせき……にん?」
「そうよ。あんたがいなかったら誰がこの船操縦するの。みんなで聖に会いにいくって言ったでしょう」
「私だって、行きたいよ」
村紗はうつむいた。少し涙ぐんでいる。
「行こうよ!」
一輪は村紗の肩を両手でつかんで揺さぶる。
「またみんなで!」
「だって、だってまた……」
「大丈夫!」
一輪は右腕を高々とかかげた。雲がまといつき、金剛力士も仰天するような、たくましい腕になる。
「今度あんたがあんな風になったら、次はこいつで殴るわ」
一輪は得意げに笑う。村紗もつられて相好を崩した。
「それじゃあ、次までにはそれを破るような戦法を考えておくね」
「ちょっと、今からあんなになること想定しないでよ。大変なんだから」
「気をつけるわ」
「村紗」
星が一歩前に出る。
「あ……しょ」
ぷすり、と独鈷杵が村紗の頭に刺さる。
「あいっっ……つ」
頭を押さえて村紗はうずくまった。
ぷす、ぷす、とさらに二連続で刺す。
「いた、痛いって、ちょっと」
「けしからんことを言うからですよ」
独鈷杵をしまう。
「罰……かしら、今の」
立ちあがって、村紗は頭をさする。
「いいえ、罰はあの戦いの中であなたが受けた痛み、それですべてです。今のは、この船を出ていくなんて言うからですよ。腹が立ったのです」
「うう」
「洞察が足りませんね、あなたの悪いところです。あなたは、自分だけがねちっこく、執念深く、嫉妬深く、他人のことなんかどうでもよくて自分の欲望が第一だと思っている」
「うう……ん??」
「それをわかった上で、私たちは一緒にいるんじゃないですか?」
「ええと、ごめん星、よくわからないわ」
「友情ですよ、友情」
言ってからすぐ、星は唇を噛んだ。物凄く陳腐なことを言ってしまった気がした。村紗どころか、一輪までぽかんとしている。
「結構、そういうことさらっというよね。あと、正義とか。平等とか」
「仕事柄、そうなるのかしらねえ」
「……とにかく、寺に戻りますよ。みんな待ってますから」
村紗は破れた壁に向き直る。さっきよりも背筋が伸びている。
「村紗」
「とりあえず修理終わらせないと」
「じゃ、ご飯、そこに置いとくわよ」
一輪は部屋を出ていく。星も部屋を出ていこうとする。出る前に、振り返る。
「それじゃあ、待っていますね。本当に」
「うん」
村紗は背中を見せたまま、作業を続けている。
「あなたが持っている矛盾、それはそのままでいいと思います」
「うん」
「それが噛み合わなくて、今回のようになったら、遠慮することはありません。何度でも私たちが受けて立ちます」
「うん……うん」
「矛盾はなくなりません。それが、ひとだと思うのです」
「星」
「はい」
「ありがとう」
「いいえ」
「ごめんなさい」
「……いいえ」
か細い泣き声が、背中を向けたままの村紗から聞こえてくる。星は黙って部屋を去った。
宴の途中から村紗も入った。はじめ、おずおずとしていた。村紗は仲間ひとりひとりに頭を下げていった。怒る者や、そっぽを向く者がいた。笑って許す者や、何も言わずうなずく者がいた。それから、みんなで飲み食いした。夜も更けて、穣子は皆に拝まれながら帰っていった。妖怪たちは寺で雑魚寝をした。
村紗はひとり、甲板に立っていた。月は雲に隠れておぼろげな光を落としている。空から誰かが降りてきて、村紗の背後に立つ。
「ナズーリン、さっきは、いなかったね」
「席を外していたんだ。途中で乱入してきた天狗との世間話が意外に面白くてね。あちこち見て回っていた」
「何か用かしら」
「おや、用があるのは君じゃないかな。そう思って、こうして来たんだが」
沈黙が降りる。この鼠は苦手だ、と村紗は思う。いつも何か見透かしたような態度を取る。そしてたいていそれは正しい。
だが、そんなことは問題じゃない。あのとき必死に呼びかけるナズーリンの声を、村紗は無視したのだ。
「ごめん」
「謝るようなことでもない」
ナズーリンの返事はそっけない。
「ここの連中は、大なり小なりそういうのを持っている。ご主人や、一輪もね。今回たまたま君だった、というだけのことさ」
「あなたはなりそうにないけどね」
「わからないよ」
てっきり自信満々の返事がかえってくると思っていたので、村紗は慌てて振り向いた。この月明かりでは、はっきりとはナズーリンの顔は見えない。
「わからないさ。自分が本当は何を望んでいるか。どうすればそこにたどりつけるのか。みんな、暗闇の中で手探りするだけだ。わかっているのは、聖を救いたいということだけ」
また沈黙が流れる。村紗は考えを言葉にしようとするが、うまくいかない。
「用は済んだかな。私は寝る」
ナズーリンは甲板から浮かび上がり、寺に降りていく。ふと、思い出したように、村紗を振り向いた。
「いい仕事を期待しているよ、村紗船長」
*****
「私はあなたを傷つける人間を許さない」
水蜜は囁く。自分の言葉が、白蓮にしか届かない。この距離が、幸福だ。この距離が、すべてだった。
「私が昔、どんな妖怪だったかを、思い知らせてやります。あなたに触れる前に、人間は全員溺れ死ぬでしょう」
不意に白蓮の体が離れる。水蜜は心細くなる。
「誰も死なないのが、一番いいのですよ」
水蜜の手を取り、先へと進む。白蓮の指は細く、蜜のようになめらかだった。その蜜の甘さの奥に、獣の牙のような凶暴さが潜んでいることも、水蜜は知っている。
「ここよ、この木」
茂みをかき分けて川辺に着いた頃には、空は赤らんでいた。この島に聖輦船がついたのはまだ朝だったから、丸一日歩いていたことになる。
「ほら、これ、あなたに食べてほしかったの」
白蓮ははしゃぐように、川辺に生えている木を指した。果実が枝もたわわに生っている。そのピンク色の皮に触れると、ざらついた皮の感触に、ぬめりとしたものが混じった。内側の蜜があまりに多くて、皮の外側にまでにじみ出ている。思わず手を鼻先に寄せる。芳しい匂いがした。それも、爽やかとか清々しいとかいうのとは違う。重たく、甘い。いつまでも鼻孔の辺りに留まり続けるような匂いだった。
「スイミツっていうの。あなたと同じ字。食べてみて」
「このまま、ですか」
「ええ、そのまま食べちゃって」
言われるがまま、もいで、皮に歯を当てた。歯は皮を突き破り、果肉に食い込み、果汁をあふれさせる。果汁は歯の間から水蜜の口腔に流れ込む。歯茎を、舌を、喉を潤し、彼女の体内に取り込まれていく。果肉は柔らかく、歯で切り裂くたびに瑞々しく弾けた。
二口目は、一口目よりも貪欲にかぶりついた。ひやりとした甘さが喉を潤す。水蜜はこの状況に没入していた。こんな風に果実に没頭している自分を、横から白蓮に一方的に見られているかと思うと、ますますこの行為に夢中になった。
皮まで綺麗に食べてしまい、口の中には種が残った。種についた果肉の残りを舌で弄びながら、少しずつ舐め取っていく。
から、ころ、と口の中で種が鳴る。
「甘いでしょ」
「ええ、甘いです」
水蜜は種を前歯で挟んだ。白蓮は顔を近づけ、それを舌で器用にからめとって、自分の口に移した。
「あなたと一緒ね」
その思いゆえの行動が恐ろしくもあり、また止めようと行動した皆との会話なども良いものでした。
文章なども読みやすかったですし、面白いお話でした。
星組はパワータイプが多くて戦闘が映えますね。ムラサ怖いよー星さんかっこいいよー
船長の白蓮さんへの心酔陶酔っぷり、星さんの垣間見せた神性と獣性、キャラそれぞれの役割や立ち位置もしっかり描写されていて、とても読みやすかったです。
それにしてもこの船長は色んな意味でエロい
白蓮を開放すること、そこには想像も出来ないような深いドラマがあったはずなんですよね。
遥かな時を経て、目的のために動き出した彼女たちの思い。
心打たれました。素晴らしいと思います。
命蓮寺の皆には強い絆があっていいですね。
穣子がいい味出してました。
村紗が泣くシーンで私も泣きそうになりました。
素晴らしいお話をありがとうございました。
星さんは私の脳内イメージ通りでした。かっこかわいい星さん良いですね。
誤字報告です。中盤の回想シーンで星のことを「彼」と書いてます。
>彼の社会的生命の終わりを意味した。
ごちそうさまでした。
良いものを読ませていただきました。
それぞれのキャラの聖への思いが、心の裏側の汚い部分も含めて上手く表現出来ていたのではないでしょうか。獣な星もヤンデレな村紗も妖怪らしくて良かったです。
あ、でもこれだけは言わせてください。
ヒャッホァァァァ!
やっぱ美味です。
>>26さん
指摘ありがとうございます。訂正致しました。
星蓮船メンバーのみで話を運ぼうと思ったら
雰囲気が重くなってきたので、穣子に登場願いました。
なかなかいい働きをしてくれたようで、よかったです。
次はパチュアリか向こうかと。
年末頃、またお会いしましょう。
長めのお話でしたけど、読むのに夢中になって時間を感じさせませんでした。
白蓮を慕う妖怪たちは、みんなムラサと同じ気持ちなんでしょうね。白蓮がどれだけ妖怪に救いを与えていたか、よくわかります。
それにしても、こんなにも周りが見えなくなるほどムラサを陶酔させるとは・・・白蓮さんは罪な女ですね(笑)
戦闘シーンでは、丁寧な描写がいい具合に想像力を刺激してくれて、読んでいて楽しかったです。
あと、りすとらのWhite Lotus、いいですよね。錨の羅針盤が特にお気に入りです。
それを除いてもここまで地に足を付けたきっちりした文章が書ける人はこの創想話でも稀。
各キャラクターの魅力をここまで書き切れるって、すごいと思います
向こうと同時上映を企画しております。興味のある方はぜひ。
>>38さん
同志!w まずジャケットからしてよいです。いい二次の歌は聴いていてイメージが広がりますね。
>>45さん
今回「エロい」という評価が一つ二つしか見られなかったんで若干詰めが甘かったか……(エロ的に)
などと思ってもいます。ただ、あまりディープにちゅっちゅするとそれはそれで興ざめですしねえ。
加減が難しいところです。
>>55さん
ありがとうございます。
ちなみに穣子が桶の上で酒を醸成しているシーンは、秋姉妹が踊り狂っている動画を見て着想の元としました。
ナズーリン格好良いよナズーリン
もうどのキャラの評価も鯉のぼりになるぐらいに。
ありがとうございました。
例大祭で、彼女たちの別の話を書いた「からくれない」を出すので、よかったら読んでください。
ご馳走様でした!
星ちゃんはタイガー毘沙門天してるし穣子様は和むしキャプテンは病んでるくらいに聖に寄ってるし良い話でした
方や虎の欲望を聖に向けたことを浅ましいと断じ、方や欲望であれ聖に向けた想いを否定すること自体が冒涜だと断じる。
心の立ち位置の違いが浮かび上がっていました。
星蓮船のメンツはみんな聖大好きで、その聖はみんなのことが大好きだから、仲間意識もほかと比べてかなり強いんだろうなぁ。
読ませられるなあという感じです。