* * *
9.4。
つまるところ、それが私たちの関係なのだ。
■ 0 ■
寒くて寒くて、地獄の炎も凍りつく。
そんなことを思ってしまう程、その日は冷え込みがひどかった。
もともと他の妖怪に比べて体の強くない私は、いつもの服装の上からさらに厚めの上着を羽織って出かけた。
玄関のドアを開ける。すると、冷たく肌を刺す外の空気と一緒に、ノイズのような微かな音が流れ込んできた。
さぁぁぁ……。
雨。雨が降っていた。
通りで寒いわけだ。しとしとといつまでもしつこく止まない冬の雨が、大気中の熱を根こそぎ奪ってしまったのだ。
はあ。
ため息をついて、空を見上げる。空に寝そべったネズミ色の雲が、けだるそうに雨の粒をばら撒いている。
幸い、雨はさほど激しくなかった。いつ止んでもおかしくない程に弱弱しい。雨というよりも霧のようだ、私は思う。
(これなら傘は必要ないかしら)
そう思って、私は一歩外へ踏み出して、そこで踏みとどまった。
思い直して、踵を返し玄関まで戻り、一番お気に入りのピンク色の傘を引っ掴むと、もう一度外へ繰り出した。
「濡れると困るからね」
傘の下で呟き、私は胸の前で固定されたそれを見つめた。そっと指でそれの輪郭をなぞる。
私の視線の先。
私の第三の目は、何も返してくれなかった。
* * *
私は雨が好きだ。
窓の向こうで、しとしとと、あるいは、ざあざあと降りしきる雨の音を聞きながら、一人部屋で本をめくる。傍らには熱めに入れたココア――うん、ココアがいい。温かいココアは、コーヒーよりも紅茶よりも、何よりも私を温めてくれる。
とろける程甘い、温かいココアを飲みながら、読書に勤しむのだ。雨の歌を心半ばに聞きながら。私はそれが好きだ。
あるいは、何もせずにごろごろする。
ざあざあと轟音を響かせて、何かを急き立てるような雨の音を無視して、ただ部屋の中で寝そべる。どこか遠い世界でそぼ降る雨の音を、ただ寝転がりながら、何をするでもなく聞いている。そんな時間が私は好きだった。
そして何より、人に会わずにすむ。だから、私は雨が好きだった。
* * *
その日も、霧雨に霞む裏通りに人影は全く見当たらなかった。
底冷えのするほどの寒さに加え、しとしとと冷たい雨。いかに屈強な妖怪たちでも、わざわざこんな日を選んで表に繰り出そうとは思うまい。
それに、私は常日頃から、人の往来の激しい表通りを避けて、わき道を選んで歩くようにしていた。だから、こんな悪天候の日に人と会うことなど無いのは当然だった。
時折冷たい風が吹き抜ける。その度、私は亀のように首を縮めて、冷たさに耐える。その寒さには辟易とさせられた。そもそもにして、こんな地底に雨だの雪だのが降ったりするということ自体、全くおかしな話である。とは言うものの、そのおかげでこうして誰とも行き会わずに歩けるのだから、感謝せねばなるまい。
出来ることなら、誰ともすれ違いたくなかった。面識もない、どうせ明日には顔も忘れるであろう見ず知らずの通行人の心など覗きたくなかったし、そんな見ず知らずの通行人の、覚りである私への根拠のない中傷など聞きたくもなかった。
だから、私はいつでも、裏道を好んで歩いた。
そうすれば、大抵誰とも行き違わなかった。
しかし、その日は生憎といつものようにはいかなかった。
――寒い、寒い……。
微かな心の声が聞こえた。か細い、弱弱しい、声。
すでに用事を済ませ、家路を辿っていたときだった。
私は足を止めて、周りを見回した。誰も居ない。はて、と首を傾げる。確かに、どこからか声が聞こえた気がしたのに。
――寒い、寒いよ……。
まただ。
今にも途切れそうな、消え去りそうな、声。小さな小さな心の叫び。
私には近くに居る者の心しか読めない。だから、その声は絶対に私の目の届くくらいの範囲から発せられてるはずだった。
――寒い……。
もう一度、声が聞こえた。
私は、それが自分の足元から聞こえた気がして、ふと目線を下へ落とす。
そこに、声の主は居た。
「……にゃぁ」
猫だった。
道端に打ち捨てられたゴミみたいに、ずぶぬれで薄汚れていた。ひどく小さく、醜い、黒い子猫。寒空の下にボロの雑巾のように投げだされたその体は、ひどく脆弱な存在に見えた。
捨てられたのだろうか。
それにしたって、捨てた人もこんな人目につかないところに、その身一つで放り出すこともないだろうに。
子猫は、ただじっと目の前に立ち止まった者を見あげた。
この猫は、私を求めている。
私は唐突にそんなことを考えた。
実際はそんなこと無いのに。心の声はただ、「寒い」の文字だけで覆い尽くされていて、それ以外は読み取れないのに。
私は、その猫が自分を求めているように感じた。感じてしまったのだ。
それはきっと、私の思い込みか、あるいは自分より弱い存在に対する同情でしかないのだろう。もしかしたら、ただ寒空の下で震える子猫に、自分の姿を知らず重ねていたかもしれない。だけど、理由なんてどうでもよくて、私はその猫を何とかして助けてあげたいと思っていた。思い込みでも、偽善でも良い。ただこの子猫に救いの手を差し伸べてあげられたら。
「私のところに来る?」
しゃがみ込んで、私はできるだけ優しく微笑んで見せた。子猫は、ただ弱弱しく、「にゃあ」と鳴いた。
私はその答えを肯定の返事だと自分勝手に解釈して、その猫を抱きあげた。冷気と雨に晒されたその体は驚くほど冷たく、軽い。
私は、その子猫を小さな赤ん坊を抱くようにして――赤子を幼い時に何度か抱いたことがあった。その赤子が誰だったかはとうに忘れてしまったが――丁寧に抱きながら、雨の中を歩いた。
その足取りは、家を出たときよりも、少しだけ軽い。
結局、家に帰りつくまで、その雨は止むことはなかった。
■ 1 ■
家に帰ると、まず暖炉に火を点けた。ひんやりと冷たく冴え返ったリビングの空気が、徐々に温もりを取り戻す。
子猫と一緒に、まず私は暖炉の前で冷えた体を温めることにする。手をかざしていると、冷え切った指の先から、じんわりと熱がしみ通って来る。まるで、じわじわと生き返るような感覚。
ちらり。
横に座った客人に目をやった。
こちらは私と同じようにすぐに生き返ることはできないらしい。暖炉の熱に当てられても、まだ寒そうに体を震わせていた。さむいさむい、心の声が訴える。
私は、いったん部屋を出て、バスタオルを手に戻ってきた。それを子猫に被せてやる。
突然視界を覆った大きな布に、びくりと子猫が体を縮みこませた。私は、丁寧に子猫の体についた水分を、バスタオルで拭ってやった。黒猫は抵抗するでもなく、じっとしている。あまり気持ちよさそうでもなかったが、それでも徐々に「さむい」の声は聞こえなくなった。
これで良し。
子猫にバスタオルを巻いてやったまま、私は台所へと向かった。
棚から片手なべを取り出すと、ミルクを注ぎこんで、火にかける。鍋に並々と注がれたミルクは、いつもより多めの二人分。いつもより多めだから温まるまで時間がかかるけど、それはあまり気にかからなかった。
いつもは沸騰させるくらいまで火にかけるけど、今日はそれもお預けだ。今日の客人はおそらく猫舌。やけどをさせてしまわないように、少しぬるめに調節する。
温めたミルクの表面に、薄い膜が出来始める。
ふんわり、甘い香り。優しい香り。
少しすくって舐めてみる。ちょうどいいくらいの温度。これが風呂ならばいい湯加減だけど、ホットミルクとして飲むには少しぬるい。それくらいの温度。
火を消して、私はマグカップと深めの皿にミルクを注いだ。マグカップには少なめに、皿には溢れんばかりに並々と。それからティースプーンを取り出すと、マグカップにココアパウダーを一杯入れて、溶かしこむ。そうすれば、私のお気に入りのココアの出来上がり。芯まで冷えた私を温めてくれる魔法の飲み物。
それを寒さに震える客人にも振る舞いたかったが、はて、猫はココアを飲むのか、と考えて、結局ココアパウダーの代わりに砂糖を加えてあげることにした。
お盆にカップと皿を乗せて、暖炉のあるリビングまで戻る。
そこには、さっきまでと同じように、子猫がタオルにくるまれて、ぼうっと暖炉に当たっていた。
私は自分用のマグカップをテーブルの上に置き、もう一つのミルクの皿を床に置いた。その拍子に、かしゃん、と床に当たった皿が音を立てた。ミルク色の水面が揺らぎ、少し零れてしまう。
その音に、子猫が耳をぴくぴくと反応させた。それから、ゆっくりと頭を上げて、こちらの方を見る。
「ほら」
私は、わざともう一度皿を床に置いて、かしゃんと音を立てる。白い水面がまた揺らぐ。
「お飲み」
私は優しく手招きしてみせた。それに誘われたか、あるいは湯気を立てるミルクの匂いに誘われたのか。のそり、と億劫そうに身をよじって白い布の下から這い出すと、子猫はとてとてとこちらへ歩いてくる。その足取りはやはり弱弱しく、今にも倒れてしまいそうだ。だけど、初めて会ったときの印象よりは幾分かしっかりしているようにも感じる。
やっとのことで皿のところまで辿り着く。
しかしそこで、猫はちょこんと座ってしまった。
皿と私の顔とを交互に見る。「飲んでいいの?」と心の声。
「さ、お飲み」
もう一度、私は微笑みかける。子猫は皿をじっと見つめ、それから恐る恐る、匂いを嗅いだ。
この子にも解るだろうか。この優しい香りが。
子猫は、床に零れたミルクを、ペろりとひとなめした。「甘い」、心の声。そうだ、ミルクは甘くて、優しい。
子猫はしばらく床を舐めていたが、それだけではやはり飽き足らないらしく、皿の中を覗き込み、もう一度念入りに匂いを嗅ぐと、やっとぺろぺろとミルクを飲み始めた。
私はしばらくその様子を眺めていた。子猫は、ちろちろと小さな舌を必死に使い、ミルクを飲む。子猫の黒とミルクの白と、真っ赤な舌のコントラストが私の網膜に焼きつくほど鮮烈に映る。
私はおもむろに立ち上がり、テーブルの上へと手を伸ばす。自分のマグカップを手に持って、中身を少しだけ口に含む。粉っぽい甘さが口の中に広がって、溶ける。ココアは、いつものように、甘い。
だけど、今日に限って、私を温めてくれなかった。
こんなに寒い日なのに、こんなに寒い日ほど温めて欲しいのに。何故だか、今日のココアはひどく、ぬるい。どうしてだろう。どうして。
ちょんちょん。
足元をくすぐるような感覚。私は、足元を見やる。そこには子猫が居た。
子猫は、前足で軽く引っかくように私の靴を叩いていたが、私と目が合うと、一声「にゃあ」と鳴いて行儀良く座った。尻尾が左右に静かに揺れる。
皿を見ると、そこには一滴もミルクは残っていなかった。すべて綺麗に平らげてしまったらしい。見ると子猫の口の周りは、白く汚れている。あの小さな舌だけではうまく飲めずに、ミルクに口ごと突っ込んだのだろうか。
その姿を想像して、可笑しくて思わず吹き出した。
不器用だ。この子は、とても不器用な子。
だけど、何故かそれがひどく愛おしい。
私は、手に持っていたカップをテーブルに置くと、しゃがみ込んで、子猫の口の周りをハンカチで拭ってやった。それから、子猫の頭を撫でてやる。子猫は嫌がるでもなく、じっとしていた。目を細めて尻尾を振る。ときどき思い出したように「にゃあ」と甘えた声で鳴いた。
私は思いついて、子猫を抱きあげた。そしてそのまま椅子に座ると、膝の上に子猫を座らせる。子猫はやはり嫌がることはなく、私の膝の上で丸くなった。まるで自分の場所を見つけたと言わんばかりのくつろぎっぷりだ。私の顔は思わず綻んだ。
体を撫でてやりながら、私はカップを手に取った。中にはぬるいココア。もう捨ててしまおうかとも思ったがやはりもったいない。ゆっくりとカップの縁に口をつけて静かに傾けた。
じんわりと、甘さが広がる。口の中に、体全体に。
そして何故だか、さっきよりもちゃんと私を温めてくれた気がした。
「どうしてだろうね」
私がつぶやくと、子猫は「にゃあ」と返事をした。
■ 2 ■
私はその子猫に「リン」と名付けた。鈴が鳴る音のような響きが私はとても気に入っていた。
リンはとても人懐こい猫だった。
拾って来て面倒を見ている私には当然のように懐いてくれたし、ときどきしか家に帰って来ない妹にもすぐにすり寄っていった。年相応にかわいいものが好きな妹は、すぐに新しい家族を受け入れた。
私にはお気に入りの時間ができた。
昼下がりになると、私は台所に立つ。
そして鍋を火にかけ、かき混ぜる。鍋の中には、ミルクがたゆたっている。かき混ぜるたびに広がる甘い香り。
くつくつと音を立て始めたころに鍋を火からはずす。マグカップと皿に、丁寧に注ぐ。
マグカップには、ココアパウダー。そして皿にはお砂糖。私はスプーンで一杯ずつ入れると、お盆を持ってリビングへ。
「リン」
私は呼ぶ。
私の声は小さい。でも、リンは必ずこたえてくれる。ソファーの上でくつろいでいたリンが、ぱっと顔をこちらへ向ける。待ってました、とばかりに駆け寄ってごちそうをねだる。
私は「はいはい、ちょっと待ってね」なんて言いながら、こぼさないよう丁寧に皿を床に置く。待ちきれないリンが勢い込んでミルクを飲み始める。私もマグカップにそっと口をつける。ぬるい、けれど、甘く優しい味。
それから、すぐに飲み終えてしまったリンが、私のひざで丸くなる。私はその背中を撫でながら、ぼんやりと残りのココアを味わいながら飲む。ひざの上がリンの温もりで温かくて、心地よい。
それが私たちの日課だった。私たちの静かなティータイム。
* * *
リンを拾ってからというもの、私は事あるごとに動物を拾って来た。犬や猫や、地獄鴉や――意識して見ると自分の力で生きられない動物というのは案外多いもので、皆私の心を読む能力をありがたがった。
私は覚りの能力が生かせるのが嬉しかった。忌み嫌われた能力が、どんな形であれ有用されているということに安心を覚えていた。
だけど、本当を言えばそんなことはどうでもよかったのかも知れなかった。
ただ、私と妹だけでは広すぎる屋敷が、賑やかになっていくのが嬉しかったのだ。
私は、だんだんとペットたちが寂しさを紛らわせてくれていることに、気付き始めていた。
リンは、人懐こい猫だ。
いや、人懐こい、というのは間違いかもしれない。正確に言うと、誰にでもよく懐く猫だった。妖怪でも、動物でも。
明るく元気なリンは、私が連れてきた他の動物たちとすぐに仲良くなった。あるいは、自分が古株であることを理由に、お姉さん風を吹かせていたのかもしれない。リンは他の動物の面倒を率先して見てくれた。
だからリンは他のペットたちから好かれていたし、頼られていた。
それはいいことだ。だけど、反面寂しくもあった。
リンは、他のペットたちに呼ばれればすぐにそちらへ行ってしまう。例えティータイム中であっても、リンはペットたちの頼み事や、遊びへのお誘いへと乗ってしまう。そうしたとき、私は一人リビングに残されて、寂しさを感じずにはいられない。
あるいは、もしかしたら寂しさとは違う、何か他の感情かも知れない。
例えば、不安のような。
私は、ふと、いつも屋敷の外をふらふらしているこいしの事を思った。今はどこで何をしているのだろう。もしティータイムに一緒に誘ったら、彼女は受けてくれるだろうか。
部屋を去っていくリンの背中に、似ても似つかないこいしの背中を見た気がした。
そうして、私は不安になる。
リンが、こいしみたいに私を離れてどこかへ行ってしまう気がして。
私は残された部屋で、冷たくなり始めたココアを、一人啜る。
■ 4 ■
「9.4」
こいしが、囁くように言うのを私は聞き逃さなかった。
いつかと同じように、冷たい雨の降りしきる日のことだった。私は、ひざにリンを乗せてティータイムを満喫していた。リンは今日はどこにも行かずに私のひざの上で丸まっている。最近は以前にも増して活発に活動するようになっていたから、こうやって静かに二人で過ごす時間は珍しい。
リンの背中を撫でながら、私は視線だけをこいしの方へ向ける。こいしはこちらを見てはおらず、ただ窓の外を眺めていた。
9.4。
何の数字だろう。私は首を傾げる。
それはまるで暗号のような、おまじないのような言葉だった。
「そうだね、おまじないのようなものかな」
私の心を読んだこいしが答える。やはりこいしの視線は窓の外に囚われたままだ。窓の外、ざあざあと降る雨は心なしか強まってきている。
おまじない。一体何の。
こいしはくるりとこちらを向く。はにかんだ笑顔を浮かべていた。まるで、いたずらっ子が親にいたずらするみたいな表情だった。
「ね、おねえちゃんは確かめたことある?」
何を? 私は尋ねた。
いまいちこいしが何を言いたいのかわからない。言葉にも、心にも答えが見当たらない。もともと自分の本音を隠すのが上手く、昔から何度も他愛のないいたずらで嘘を吐かれたことが多かったが、ここ数年でやたらと隠し事が上手くなった気がする。
私の心を読み取ったのだろうか。こいしはさみしげに笑った。どうしてそんなに儚げに笑うのだろう。
「ちょっと立ってみて」
こいしが私の手を掴む。私はそれに応えようとしたが、リンがひざの上に丸まっていることに気付いく。「ごめんね」と謝ってからリンを床に下ろした。
リンが機嫌を損ねるかもしれないと思ったが、どうやら別段何とも思わないらしい。大きく欠伸をするととてとてと部屋を出て行ってしまった。
後にはひざの上の温もりが、わずかに残っているだけだ。
私はこいしの言う通り、その場に立ち上がった。
こいしはそれを見て頷くと、おねえちゃんはそこに立ってて、と言ってくるりと踵を返して歩き始めた。
「いち」
一歩目を踏み出す。まるで、ステップでも踏むように、大きく大きく。
それと一緒にこいしは言う。
「にい」
歌うようにこいしはそう続けて、二歩目を踏み出す。
「さん」
三歩目。
どうやら歩数を数えているらしい。
しかし何のためにそんなことを。
「よん」
だんだんとこいしの背中は遠のいていく。
もう手を伸ばしても、とうに届かない距離。
「ご……」
こいしの声が遠のいていく。
こいしは依然として同じ調子で言うものだから、だんだん声は届かなくなる。
「……」
ろく、と言ったのだろう。しかし、完全に彼女の声は聞こえなかった。
ねえ、もっと大きな声で言ってくれなきゃ、解らないよ。こいし。
(なな)
その代わりに、心の声が数えてくれた。
歌うような、こいしの声。さらにこいしの背中は小さくなっていく。
ただでさえ広いリビングが、余計に広く感じる。
(はち)
こいしが八歩目を踏む。
もう叫ばないと、声は届かない。
(きゅう)
ふと、叫びだしたくなった。
そうしないと届かない距離。そうすれば届く距離。
今、呼び止めておかないと、こいしがどこかへ行ってしまいそうな気がした。
「きゅう、てん、よんっ」
こいしがはっきりと大きな声で宣言する。張り上げた声は、広いリビングに良く響いた。
こいしは、ぴたりと制止したかと思うと、くるりと体をひるがえしてこちらに向き直った。
「ここが9.4。ね、わかる?」
何が、と私は言いかけて、はっと気付く。
さっきまで――ほんの一歩前まで、私に歌いかけていたこいしの心の声が、届かなくなっていた。
慌てて、必死にこいしの心を読もうとした。しかし、届くのは雨の音のようなノイズだけ。それ以外の感情も思考も、読み取れなかった。
そうか、違うんだ。私は勘違いをしていた。
こいしが数えていたのは歩数なんかじゃない――距離だ。9.4メートル。
私が、私たちが、心の声をキャッチできるかできないかの境界線。私たちがコミュニケーションを取るのに必要なぎりぎりの距離。触れ合うことのできる空間。つまり、それが9.4メートルなのだ。
私はこいしを見つめる。こいしの表情は笑っているようで、泣いているようで、儚げだ。
私はぞっとした。急にこいしが、とてつもなく遠い存在に思えた。
そして、その病的なまでの数値の正確さにうすら寒さを覚えた。何故、どうしてそこまでしてその正確な数字を知ろうとしたのだろうか。あるいは、どうやって。
こいしは、私の見つめる先で、ただ微笑むだけ。
その表情が、どうして、こんなにも、私を不安にする。
こいしは、ずっと見極めようとしていたのだろうか。その悲しい笑みを浮かべながら。こいしはずっと私たちと、私やリンやその他のペットたちと一定の距離を置きながら、自分の位置を値踏みしていたのだろうか。私の背中を、私の気付かないうちに、遠くから見つめながら、呟いていたのだろうか。
「9.4」と。
こいし、私は声をかけようとした。こいし、あなたはいったい、どこへ行くの。
だけど、届かない。私の声は小さかった。こいしの鼓膜を揺らすには、私の声は小さすぎた。
どうして。
どうして9.4メートルが、たった9.4メートルが――こんなにも、遠い。
こいしはうつむいた。そうしてしまえば、この距離では、表情は解らなくなってしまう。
そして何かを呟いて、こいしはくるりと後ろを向くと、そのまま去ってしまおうとする。
待って、私はすがるように言う。
その背中を追いかけようとした。だけど、足が動かない。まるで怨念でがんじがらめにされてしばりつけられた自縛霊のように、私は動けなかった。
バタン。扉が閉まる。
その音が広い部屋にこだまして、すぐに静かになる。
さっきまで聞こえていた、ノイズのような心の声はもう私には届かず。
後に残るのは、ノイズのように、さあさあと窓の外で降り続ける雨の音。
こいしが第三の目を閉ざしたのは、それから数ヶ月後のことだった。
■ 7 ■
それから数十年たった。私たち妖怪にとっては、数十年などほんのわずかな期間。
ある日から、こいしは心を読む力を捨て、代わりに無意識を操る力を手に入れた。一時はどうなることかと心配はしたが、こいしは自分が覚りとしての道を閉ざしたことを殊更に気にしていなかった。むしろ、今までよりもいっそう明るくなった気がする。あの日のような、消えそうな表情を浮かべることも、無くなった。
ただ、昔から放浪癖の気があったが、最近はそれに輪をかけて遊び呆けるようになり、私を少し悩ませもしたが。
そして、この数十年には、それ以外にも小さな変化がぽつぽつと現れ始めていた。
私は台所に立っていた。
お気に入りの動物柄のエプロンを来て、頭にはちゃんと三角巾も被っている。
いつもどこかをほっつき歩いているこいしの代わりに食事を作るのは、私の役目だ。だけど、今日くらいは手伝ってくれてもいいのに。
私は、無邪気な妹の顔を思い浮かべてため息をつく。その間も、鍋が焦げ付かないようかき混ぜるのは忘れない。
食卓には、すでに色とりどりの料理が競うように顔を並べていた。量も味も彩りも、今までにないくらいこだわったつもりだ。
何せ、折角のお祝いだもの。
私は、あの子の喜ぶ顔を思い浮かべて、わくわくしながら手を動かした。
今、鍋の中でぐつぐつと煮立っているスープで最後だ。そろそろみんなテーブルに集まって来る時間。早く仕上げないと……。
「うにゃぁ!」
あ。
しまった。見つかった。
しかも、今日の主役に。大失態である。
今日の主役であるリンは、テーブルを埋め尽くす豪勢な夕飯に目を丸くした。それから「おいしそう」と心の声。
「ちょっとまっててね、リン」
私は、エプロンで手を拭きながら、ぱたぱたとスリッパを鳴らして、リンの元に駆け寄る。
勝手に食事を食べ始めてしまうような聞き分けのない猫ではないが、念のためだ。
リンは私の言葉に、うん、と大きくうなずく。くくりつけた二本の赤いおさげが、拍子に大きく揺れた。黒い服に黒い猫耳に、さらには尻尾まで黒く、全身真っ黒なリン。ただ一点、さらさらなびく短い髪だけが赤く、黒に良く映えていた。
まかせとけ、とばかりにどんと自分の胸を叩くと、テーブルから椅子を引き、ちょこんと腰かけた。
椅子の座り方を教えたつもりはないのだが、なかなか器用なものだ。
リンはずっと私やこいしの行動を見ていたのだろうか。だとしたら、まるで子供みたいだ、と私は笑った。
「もうすぐできるからね」
もう一声かけて私は台所へ戻る。
目を離したすきに、鍋はもうもうと煙を立てていた。しまった、また大失態。
慌てて火から離したが、スープは少し焦げてしまった。
でも、いいよね。他にもたくさん料理はあるんだから。一つくらい失敗しちゃっても。
私は三人分の皿にスープを注ぎ分ける。もちろん、焦げてしまったところを丁寧によけながら。
注ぎ終わると、私はそれをお盆に載せて、テーブルまで戻った。
そこにはすでに、リンだけでなく他のペットたちも大勢集まっていた。匂いに誘われてやってきたのだろう。
わんわんにゃあにゃあ、ペットたちは豪勢な食事を前に、上を下への大騒ぎである。
「ああ、ちょっと待ってなさい」
言いながら私は、三つのお皿をテーブルに置く。
そしていそいそとエプロンを脱ぐと、台所に戻る。お盆にペット用の料理を載せて、もう一度ペットたちの元へと急いだ。
「さあ、パーティの始まりよ」
私は宣言する。
ペット用の料理を床に置くと、私もテーブルについた。
「で、いったい何のお祝いなの?」
隣から、いきなり声がして驚く。
見れば、いつからそこに居たのか、こいしが当然のように私の隣に座っていた。
しかしそれもいつものこと。神出鬼没の妹の挙動にいちいち驚いていたら、いくら肝があっても足りない。
私はすぐに落ち着きを取り戻すと、その声に答える。
「解らないの? こいし」
私は、呆れた、と肩をすくめる。
こいしは、なにそれー、と口を尖らせる。ぷー、とほっぺたを風船のように膨らませて不満顔だ。
「目の前に居る人物をちゃんと見なさい」
言われてこいしは、テーブルをはさんだ向かいにいる人物を見やった。
そこに居るのは、今日の主役、リンである。
リンは私の言いつけを守り、手を膝の上に乗せて行儀よく座って待っていた。いい子だ。ちょっとよだれが垂れかかっているけど、それくらいは大目に見てやらなければなるまい。
「あれえ、リン。いつの間に人型に変身できるようになったの?」
こいしはその姿を見ると、大げさに驚いてみせた。
わざとらしい。こいしは知っていて冗談めかして言っているのだ。
リンは照れながら、誇らしげに微笑んだ。
「みんなそろったみたいね。じゃあ、始めましょうか」
私はパーティの始まりを告げる。
リンが一人前の妖怪になれたことを記念しての、ささやかなパーティだ。私たちだけの記念。
もうすでに、他のペットたちは我先にと食べ始めていたので、私たちも、乾杯もそこそこに食事を始めることにした。
リンにとっては、人型で初めての食事である。私やこいしは箸を使って食べるが、リンに最初からそれは無理だろうと、フォークとスプーンを用意してあげた。
それでもいきなり使いこなすことは難しいようで、リンは試行錯誤を重ねて、悪戦苦闘しながら料理を口に運んでいた。一生懸命にフォークとスプーンを使いこなそうとする姿はとても不器用で見ていられなくて、でもとても可愛らしく見えてしまう。
頑張ってもなかなか上手くはいかなくて、リンはすぐに口の周りをべとべとに汚してしまった。
全く、仕方ないわね。
心の中でため息を吐きながら、私は身を乗り出して、リンの口周りを布巾で拭ってやる。ごしごしと、丁寧に。ぎゅっと目を閉じてリンはじっとしている。その姿がまた可愛らしくて、私は笑った。
「まるでお母さんみたいだね、おねえちゃん」
こいしがにやにやと意地の悪い笑みで、私をからかう。
「何よそれ」
「別に、深い意味は無いよ。ただ、おねえちゃんは優しいな、って」
「あら、私はいつでも優しいわ」
「うん……うん、そうだね。おねえちゃんは優しいよ」
あはは、こいしは無邪気に笑った。
変なこいし。私はそんなこいしを訝しげに眺めてから、唐突に思い出した。
「そうだ。リンにあげるものがあるのよ」
私は唐突にそう言った。リンは食事の手を止め、頭に「?」を浮かべてこちらを見た。その口の周りはまた汚れていた。もう、また拭いてあげないと。
「わ、何? プレゼント?」
まだ喋れないリンの代わりに、こいしが合いの手を入れてくれる。
「そんな大層なものじゃないわ。ただ――名前をつけてあげようと思ってね」
「名前?」
こいしは首を傾げる。それを真似してリンも首を傾げた。
「そうよ。『リン』だけじゃ、一人前の妖怪の名前として少し寂しいですからね」
私はそこで一呼吸置いて、
「『火焔猫 燐』。リン、あなたの名前はこれから『火焔猫 燐』よ」
そう、リンに告げた。
リンは――燐は難しそうに顔をしかめた。何だかよくわからない、と言った顔だ。
「そんな大げさな名前つけなくてもいいじゃない」
こいしが不満顔で言う。どうしてあなたが不満なのよ、こいし。
「リンにはリンって名前があるじゃない。それで充分だと思うけどな」
ねー、と言ってこいしがリンに同意を求める。
うんうん。燐が大きく頷いた。
あ、あれ? 燐までそっち側なの?
私は一生懸命考えた名前を、燐本人にまで批判されて少し泣きそうになった。一晩かけて考えたのに。
「それに『火焔猫』っていうのがリンには似合わないよ。もっと、こう、胸がときめくような、可愛らしい名前でないと」
「じゃあ、どんな名前ならいいって言うのよ」
そうねえ、こいしが人差し指をくちびるに当てて考える。
ちらっと流し目でこちらを見た。その目が、きらりと怪しげに光る。あ、この目は何か悪いことを考えている目だ。
「『殺戮猫 燐』とか」
「却下です。どこがときめくような可愛らしい名前なのよ」
「じゃ『ヘル・キャット お燐』」
「洋風とか、そっちの方がよっぽど似合わないじゃない。却下」
「『うおのめ お燐』は?」
「もう自分でも許可が下りると思ってないでしょ? もちろん却下」
わいわい、私たちのパーティは続く。ひそやかにささやかに。
燐は、そんなパーティの中心で、ずっと微笑んでいた。
■ 9.4 ■
それから数ヵ月は、またたく間に過ぎていった。
燐は勉強熱心で努力家だった。自分から積極的に言葉を覚えようとしたし、フォークやスプーンもだんだんと使いこなせるようになってきた。私もそんな燐に協力を惜しまなかった。
燐は見る見るうちに教えられたことを吸収していった。私はそれが嬉しかったし、少し誇らしい気持でもあった。
ただ一つ。
そういった時間に押しつぶされるようにして、燐とのティータイムがまた減っていったことだけが少し寂しかった。
* * *
私は一人自室で、読書に勤しんでいた。
静かな夕方の時分である。普段は騒がしいペットたちも、穏やかな時間の流れにまどろんでいて静かだった。
静寂な部屋に、ただ時折ページをめくる音だけが響いた。
しばらくそうしていると、だんだんと目が疲れてくる。
活字を追っていた目の動きが鈍くなるのを感じ、ストーリーが頭の中に入って来なくなり始めた。
私は読んでいたページを開いたまま机に伏せ、立ちあがった。両手を上に伸ばして、ぐうっ、と伸びをする。凝り固まっていた関節が、ぽきぽきとなった。
立ったまま、私はテーブルに置かれたココアに口をつけた。
「……ぬるい」
私はそう呟いて、カップを置いた。さっきまで夢中でページをめくっていたおかげで、すっかり冷めてしまったらしい。
やれやれ、作り直そうか。私はカップを手にとって、部屋を出ようとする。
(……様には、秘密……)
(驚かせ……から……)
いきなりドアの向こうの誰かの心が見えたので、私はびっくりした。静電気が流れたみたいに、ドアノブからさっ、と手を外す。
それから、何をびっくりしているんだ、と自分を戒めて、私はドアノブを回した。
「あ、さとり様」
そこには燐が居た。
しゃがみ込んで、同じペットの地獄鴉と話し込んでいる。その地獄鴉は、最近の燐のお気に入りらしく、よく一緒に遊んでいるのを私は知っていた。
しかし地獄鴉(名前はクウという)は燐のように人型に変身できないので、燐は自然と、私が他の動物にそうするように、しゃがみ込んで話をすることになる。何だか友達同士というよりは、ペットと飼い主のようである。
「楽しそうね。何を話していたの、お燐」
私は話しかける。ちなみにお燐というのは燐の愛称だ。フルネームで呼ばれるのは、堅苦しくて嫌らしい(名付け親として悲しいことだが)。
燐は慌てて立ちあがると、スカートの裾をぱんぱんと払った。そして、ぎこちない笑顔を浮かべると、
「な、何でもないですよ! あはは」
言うが早いか、全速力でさとりの元から走り去っていった。
クウも、鳴きながらそれを追いかけていく。
後には、私ひとり残された。
「もう、はしたないから廊下は走るなと言っているのに」
私は独りごちる。燐は元気のいい子だが、少しおてんばすぎる。後でちゃんと言い聞かせなきゃ。
ぶつぶつと文句を言いながら、台所へ向かう。
私は、長い廊下を歩きながら、何故だか一抹の寂しさを感じていた。
多分、ココアがぬるすぎたせいだ。
今度はうんと熱めに淹れてやろう。きっと私を芯まで温めてくれる。
* * *
ココアをお盆に載せ、自分の部屋に戻る途中。
私は、ふと思いついて燐の部屋の前に行ってみることにした。
それはささやかないたずらだった。いくら言っても、廊下を走るのを止めない燐への、ちょっとしたお仕置き。
さっき少しだけ覗いた、燐の心の声。あれの続きをこっそり盗み聞きしてしまうのだ。
私はその案を思いつくと、一人微笑んだ。
私はお盆を部屋の机に置くと、燐の部屋へと足を向ける。
燐はいたずらに気付いたら、いったい、どんな顔をするだろう。
私はわくわくする心を押さえつけられない。
(これでは、こいしのことを悪く言えないな)
私は、いつも遊び呆けて、帰ってくればいたずらをする、困った妹の顔を思い浮かべた。そのいたずらをするときの、意地の悪いにやにやしている顔を、今自分もしているのだろうか。
だけど、私は弾む心を抑えきれなかった。私にもこいしと同じ血が流れているらしい。この姉にしてこの妹あり、というべきか、血は争えないというべきか。
私は、ともすればスキップでも踏んでしまいそうな足を諌めながら、ついには燐の部屋の前まで来た。
慌てて逃げていった燐がこもるところと言えばここしかない。私はそう思っていた。
そっと足音を立てないように、燐の部屋の前に立つ。
(ここなら……だから……)
案の定だ。
燐はそこに居た。私はにやにやした笑みを浮かべながら、燐の心の声に耳を傾ける。
(……だから、知られたくない)
ぴた。
瞬間、私の顔が凍りつくのを感じる。
(さとり様に心を読まれないようにしないと)
え? どうして?
私は何も考えられない。
さっきまでの高揚感はすっかり消え失せてしまった。ただ残るのは言いようもない喪失感だ。心が、まるで、冷たい冬の雨に丸裸のまま晒されているみたいに、急速に冷えていく。
(だから、さとり様には極力近づかないように)
それは、とうの昔に聞きなれたはずの言葉。
道行く人、すれ違う誰かが、私を、私の第三の目を一瞥して、容赦なく投げかけていった心の声。
ずっと昔に慣れてしまっていた、はずの、言葉。
――寒い、寒いよ……。
誰かが絞り出すように言ったその言葉を、私も叫びだしたくなった。体が、心が、とても寒くてたまらない。
何か、温かいもの――そうだ、ココアだ。こんな時には熱く入れたココアを飲まないと。
あれは魔法の飲み物だ。私を、きっと温めてくれる。
私は、無意識に後ずさった。そしてその瞬間に、ふっと心の声が消えた。
そして、はっ、と我に返る。
視線の先には、ただ木製のドアが私を遮っていた。
私は、何故か、その先が見える気がした。燐とクウが、私を疎ましく思っている姿が。
あるいは、私と、二匹の間を隔てる距離が。はっきりと解る気がした。
「9.4」
私は、誰かがおまじないのように言ったその言葉を無意識に思い出していた。9.4、もう一度呟く。
私は目の前に境界線が引かれているのをはっきり意識した。この境界線を越えてしまえばきっと、何かが崩れてしまうのだ。
* * *
いつの間にか、私は自分の部屋に帰ってきていた。
どうやって帰って来たのかは覚えていない。ただ、気が付いたときにはすでに、部屋の中心でぼうっと立っていたのだ。
ぶるぶる。私は身震いした。
まだあの寒さが、体に染みついて離れなかった。
ふと机の上を見る。そこには、湯気を上げて待っているココアがあった。
私はゆっくりと机に歩み寄り、そっとカップを持ち上げて、ココアを喉に流し込む。
熱めに淹れたココアは、とても熱くて、火傷してしまうかと思った。
私はそれでも、一回、二回と喉を鳴らしてそれを無理やり飲み下した。ほう、とため息をついて、どっかりと椅子に腰を落とす。
ゆっくりと、血に混ざって、その魔法の飲み物が全身を駆け巡る。体中がポカポカしてくる。温かい。
だけど、私の奥底は冷たく凍りついたまま。
どうして今日に限って、ココアは私を心の底まで温めてくれないのだろう。
■ -- ■
私たちの関係は均衡を取り続けて、安定していた。
少なくとも私はそう思っていた。
あれから、出来るだけペットたちと距離を置いた。とりわけ燐や空(昔のクウ)のような、力を持ち、意思を言葉で伝えられるようになったペットたちの生活には、極力介入しないように心がけた。もともとリンと暮らしていたころは、あくまで覚りの力が、言葉を持たぬ動物たちの役に立つから、という理由で、ペットたちに積極的に接してきた。だけどもうその必要は、二匹にはない。
放任主義というやつだ。自分の力で生きられるのなら、それに越したことはない。
そうやって私たちは暮らした。
それからどれくらい時間が経っただろう。
少なくとも数十年単位の時が経っていたが、やはり妖怪である私たちにとっては、取るに足らない時間だった。
特に大きな変化もこれと言って起こらず、平平凡凡とした日々を暮らしていた。
しかし、天災というのは、得てして突然やって来るものである。
ある日突然、地底に台風がやってきた。
黒白の豪雨が降りしきり、色々なものを洗いざらい押し流していった。
紅白の突風が吹き荒れて、様々なものを片っ端から吹き飛ばしていった。
地底にとって、何千年に一回あるかないかの、とても珍しく暴力的な台風だった。
地霊殿もその被害を被った。
屋敷の中を荒しまくって、私のペットたちを懲らしめていった。
そして、私が必死で築き上げたものをことごとく洗い流して、吹き飛ばしていった。
私が必死になって引いた、目に見えない境界線も、距離を測るための巻き尺も、その拍子にどこかへ行ってしまった。
せっかく、必死になって保ってきた均衡がいとも簡単に崩れて、ぐちゃぐちゃになってしまった。
まったく。
私は、そう思いながらも何故だか笑っていた。私が大事にしていたものを、呆気ないくらい簡単に壊されてしまったからだろうか。
* * *
私は、椅子に座っている。
傍らに置いたコーヒーカップを傾けつつ、手に持った本をめくる。
静かだった。いつものようにたむろしているペットたちも、今は姿が見えない。まるで、台風が過ぎ去ったあとのような、すがすがしい静けさ。
私は、静寂の中で、ただページをめくる。
ときどき思い出したように、カップを手に取る。
「今日は、ココアじゃないんだ」
いつの間にそこに居たのだろう。私の部屋に無断で入ってきたこいしが、私のコーヒーカップを覗き込みながら言う。
こいしの視線の先では、ゆったりと黒い水面が揺れている。
「ええ。今日は何だか、そんな気分じゃないわ」
「だからって、いきなりブラックコーヒーなんか淹れたって飲めないでしょうに」
甘党の癖して。こいしが意地悪そうに笑う。
私はそれを気にせずに、カップに口をつけた。やはり苦い。泣きそうになる。
だけど、無理して飲んででも、気分をしゃきっとしておきたかった。そうしないとこれから待つ出来事に立ち向かえる気がしなかった。
しかし、いくら飲んでも、その黒い液体は私に苦みしか教えてくれない。さっきから私の目はただ紙面の上を滑るばかりで、話なんか全く頭に入ってきていなかった。ただ、自分でもよくわからない意地だけでページをめくり続けた。
「ねえ、お燐、待ってるよ」
知ってる。そんなこと。
だって、私が呼んだんだもの。
私が、部屋で待っているように言いつけたんだもの。
燐は聞き分けのない猫じゃない。きっと、行儀良くして待っているに決まっている。
早く行かないと。燐の元に。
だけど、気持ちとは正反対に、体は動かない。ただ飲みたくもないコーヒーに手を伸ばすだけ。
「お燐、怖がってる。『処分される』とか思ってるんじゃないかな」
こいしが言う。
まさか、私がどうしてかわいいペットを殺さなくてはならないの。
「お燐はおねえちゃんを怖がってるんだよ、きっと。だから……ね、早く行ってあげないと」
早く行かないと。そうしなければいけないとは、思っている。
だけど、どうしていいか、私には解らない。
燐のところへ行って、どんな事を最初に言えばいいのか、解らない。
「解らなくてもいいんじゃないかな」
どきりと私の心臓が飛び上がった。
こいしにどうして私の考えていることが解るのか。もう、とうに第三の目は閉じてしまったはずなのに。
私の顔がよほどおかしかったらしい。こいしはからからと笑った。
「心なんて読めなくたってわかるよ。おねえちゃん、解りやすいんだもの」
こいしは屈託なく笑った。
そうしてひとしきり笑うと、少し真面目な顔になった。
「ね、解らなくてもいいんだよ」
こいしは言った。はっきりと。
「解らない方が――知らない方が幸せだったとか、そんなことは言わないよ。でも、知らなくても、知らないままでも、きっとよかったんだと思う」
まるで、自分に言い聞かせるようにこいしは言った。
私にはこいしの言ってることが解らない。どこかで空間がねじれて、上手く意思伝達が図れていないのではないかと思うほど、こいしの言葉はちぐはぐに聞こえた。
こいしは、一度大きく頷くと、私の背中を押した。
「ほらほら、さっさと行きなよ!」
ぐいぐいと背中を押されて、私はしぶしぶと部屋を後にする。
飲みきれなかったブラックコーヒーが、さみしげに湯気を立てている。
* * *
私は、部屋のドアを開けた。
私の部屋よりも一回り小さい、その部屋。その奥に、燐はいた。
行儀良く、気を付けの姿勢をして、立っていた。うつむいているのでその表情は見えない。ただ、泣きそうな顔を必死で隠しているように、私には見えた。
私は、大きく深呼吸する。
結局、私は何をすればいいのか解らなかった。だけど。
(解らないままでいいんでしょ、こいし)
私はその言葉を反芻し、前を見据えた。
そこには、まるで捨てられた子猫のように、じっと何かに必死に耐える燐がいた。
燐。リン。私の愛しいペット。
今、そこに行くからね。
私は一歩目を踏み出した。
(きゅう)
ステップを踏むように大きく一歩を踏み出すと、私の耳には燐の心の声が雨のような雑音に混じって聞こえ始めた。
寒い、寒い。
そう鳴いている。
(はち)
寒いのなら――そうだ、ココアがいい。
熱く入れたココア。魔法の飲み物。
(なな)
それとも、ホットミルクの方がいいだろうか。
燐は猫舌だから、ぬるめにしてあげないといけない。
(ろく)
あなたはホットミルク。私はココア。
あなたに合わせてミルクを温めてしまうと、私のココアまでぬるくなってしまうけど。
(ご)
だけど、それでもいい。
あなたと飲んだぬるいココアが、何故だか一番良く私を温めてくれた。
また、あの日みたいにティータイムを過ごせたら。
(よん)
私は、一歩一歩踏みしめて歩く。
この距離ならば届くだろうか。
私の声が。私の声は、とても小さいけど。
(さん)
燐が顔を上げた。私と目が合う。
燐は泣いていた。小さな声をあげて。
その声は私には聞き取れない。
ねえ、もっと大きな声で言ってくれなきゃ、解らないよ。お燐。
(にい)
燐の姿が近づいていく。
私は、唐突にこいしの言っていることが理解できた気がした。
知らないままでも、きっとよかったんだ。私たちは。
(いち)
距離なんて、知らないでも良かった。
9.4なんて正確な数字は。
そんな暗号のような言葉のうちに、私たちの正しい関係なんて、隠されていないんだ。
だから。
「ぜろ」
私は、そう宣言して。
愛しい存在を抱きしめていた。
その体は小さい。でも、私が今までにいれたどんなココアよりも甘く、温かい。
■ ? ■
「いやあ、妬けちゃうねえ。お二人さん」
「ひゃっ」「ふにゃっ」
いきなり声がして、私たちは同時に声を上げる。
二人の世界に浸りきっていたものだから、完全に不意打ちだ。
私は声の主、こいしに明らかに嫌そうな視線を送る。
こんなときくらい、そっとしておいてくれたっていいのに。こいしは相変わらず意地悪な子だ。
私はしぶしぶ燐から離れようとする。
が、燐は私の服を掴んだまま離してくれない。うるうると燐の瞳が揺れて私を見る。う、そんな涙目で見つめられても。
仕方なしに、私は燐をもう一度抱き寄せた。
「ラブラブだねー。ひゅーひゅー」
「そんなんじゃありません。燐は私の――ペットなんですから」
ペット。
少し考えて、やっぱりそう表現することにした。
私たちの関係をどう表現しようが、私たち自身は変わらない。
「ふーん。ペットねえ」
含んだ言い方で、こいしはにやにやと笑う。
「どっちかというとペットというより親子みたいだけどね」
こいしはそう言ってからかった。
私は、腕の中の燐を優しく撫でながら、
「ペットは私の子供みたいなものだもの」
静かにそう言う。こいしは「ふーん」と言って私から視線を外し、窓の外を見やる。
「ねえ、おねえちゃんは覚えてる?」
こいしは外を見ながら言う。
こちらを向いていないので、顔を窺い知ることはできない。いつもみたいに意地悪な笑みを浮かべているのだろうか。
「何を?」
「私、赤ん坊のころ、よくおねえちゃんにあやしてもらってたんだよ」
「へえ」
私にはそんな記憶なんてなかった。
というか、私でさえ覚えてないのに、赤ん坊の時の記憶なんてこいしが覚えている筈がない。多分、いつものいたずらだ。私をそう言って困らせようとしているんだ。
「いつもおねえちゃんがペットにするみたいに抱いたり――そうそう、よく食事のときに、べたべたに汚した私の口を拭ってくれたのもおねえちゃんだった」
こいしは窓の外から目をそらさない。
だけど、きっとこいしはにやにやと笑っているのだろう。
私には解るのだ。
「ねえ、もし――」
こいしはやはりこちらを見ようとはせずに、呟くように言う。
「もし、私が生まれ変わって、ペットとしておねえちゃんに会ったら――」
え?
私は焦った。こいしが、こいしの声が、すごく悲しそうで寂しそうだったから。
それはどういう意味なの。
私が問いかける前に、こいしはくるりとこちらに向き直ると、無邪気に笑って見せた。
その笑顔に、陰りなど見当たらない。私の気のせいだったのだろうか。
「何でもない。じゃあね」
こいしはひらひらと手を振って、部屋を出て行ってしまった。私が、待って、と呼びとめる暇も与えずに。
こいしとの距離はあと何メートルだろう。
ふとそんなことを思った。
私にはその正確な数値なんてわからない。ただ、腕の中の存在をきつく抱きしめた。
終わり
あくまで個人的な意見ですが。
でも面白かったです
さとりとお燐の関係だけでなく、こいしやお空との距離の
話も見てみたいと思いました。
静かで、ときどき切なくて良いお話しでした
お燐との出会いから地霊殿ファミリーの出来上がり、和解までの流れが温かかったです。
うーん。9メートルを超えても10メートルには満たない
心の距離っていうのは、なんとも言えず微妙な数字なんですねぇ
さとりが主役の話は、これくらい静かだと心の声がよく聞こえて心地よいです
ちょっとヴァンホーテンココア飲んでくる