※この作品は、【彼女の黄昏とプラチックダイアローグ】の続きとも言えるし、違うとも言える作品です。
また、国語便覧程度にきついかもしれない描写があります。
ちょうどこんな夕暮れだった。
「おねえちゃん」
幼い声に意識を惹かれ、私は道具から手を離して後ろを振り返った。視線の先には小さな影。影は女の形をしていた。女と言っても十かそこらのようであるから、影は少女の形をしていた、と言う方がより正確な描写だろうか。
刻限であった。
比較的、灯りの集まる人里にも、今まさに夜が降りて来ようとしていた。少女の形をした影の後ろには、さらにのっぺりと暗い闇があった。他に人の姿も無かったから、自分を呼んだ声の主は、間違いなくこの子だろう。甘い、鈴のような声だ。金属の物ではなく、不純物の少ない土で作った、高すぎない鈴の音。どこか甘い土鈴の声。疲弊した心にするりと入り込む物は、いつだってこんなふうにひっそりとしている。その彼女が、再び私を「おねえちゃん」と呼んだ。それは、ひどくむずがゆい響きだ。
「ねえ、人形遣いのおねえちゃん。今日はもう、お店はお終いなのかしら」
「ええ。今はこうして、片付けをしているところよ」
正確に言えば、店ではなく人形劇である。拝観料は取っていないから、これはお店とは言えなかった。そんなことは別に告げる必要が無いから、私は彼女の言葉を訂正しなかったけれど。
「そうなの?なんだ、残念」
本当に残念そうに、小さな肩をがっくりと落とす。心情に忠実な動き。純粋な反応。だからか、いつからいたのかとか、どうやってこの場を切り抜けようとか、いろいろと考えていたこと飛んで、ただとても可愛い子だな、と思った。赤い帽子を乗せた髪は豊かに黒く、整った目鼻立ちは利発そうで、薄く色づいた唇には、幼いながらも品があった。それでいて、瞳はあどけない輝きを放つ黒真珠のよう。もしもこのまま彼女が成長することがあったら、さぞかし魅力的な女性になるだろう、と期待に抱かせるには充分な容姿だった。そんな肢体を包む独特な華美な三つ揃いのスカートからは、これまた溜息の出るほど白い素足が形良くのぞいていた。辺りは薄暗かったが、妖怪の私には、その服も一目で良い物だとわかった。どこの意匠かしら、と半ば職業病じみた疑問が脳裏を掠める。
「良い夕暮れね」
せっかくの出会いだと思ったのかもしれない。彼女を帰しがたい気分になった私は、片付けの手が止まらない程度に話題を振った。とはいえ、初対面の相手と話せることなどそう多くない。こういう時は天気か季節の話と相場が決まっている。取り敢えず、目に付いた空を褒めてみることにした。
「ほら、西があんなに燃えている。太陽と月なら月の方が好きだけれど、夕陽もなかなかのものね」
「おねえちゃんも夕焼けが好きなの?わたしも好きなの。とっても綺麗な色をしているもの。わたしね、赤が一番好きなの。おねえちゃんは?」
「私は一色よりも、沢山の色がある方が好きね」
「あは。欲張りさんだ」
何も考えずに答えたら、容赦の無い言葉が返ってきた。幼い心を持つ者は、時に長く生きた者よりも躊躇い無く人を傷つけるものだ。まぁ、私はこれでも蒐集家であるから、つまるところやっぱり強欲なのだろう。なるほど、真実だからこそ深く刺さったのだと一人納得する。
「そうかもね。私は欲張りかもしれないわ」
「欲張りは良くないよ」
「そうね。でも、私は人様のものを盗んだりはしないわ」
「うん?当たり前だよね」
その当たり前のことを全く守ろうとしない人間を、私は知っていた。
「あなた、いい子ね」
「そうかな?」
「そうよ」
はにかんだ笑みが返ってきた。照れたらしい彼女は、視線を夕陽へと戻した。だから私も西へと向ける。日は山陰に半分隠れていたが、空にはまだその残滓がありありと燃えさかっている。私は手を透かして太陽を見つめた。指の隙間から赤が溢れた。その隣で、彼女は眼を細めて私を見上げている。その様子は、どことなく物欲しそうに見えた。
「本当に見事な赤だこと」
「うん。赤は素敵な色だよ。でも、だからこそときどきね、こうして見ていると悲しくなるの」
「どうして?」
「好きな、とても好きな色なのに、私には似合わない色だから」
「そんなことないと思うけど」
現に、彼女が被っている赤い帽子は、とても似合っていた。丁寧に縫われたであろう刺繍が細かく施されていて、かなり手が込んでいる。素材も上物だ。おそらくは彼女の為にと誂えた特注だろうと踏んだ。
「その帽子も、良く似合っているわ」
「本当?本当にそう思うかしら?」
「もちろん」
私が力強く頷くと、ほう、と溜まった熱を吐き出すような音が聞こえた気がした。
「――――――――――――――――嬉しい」
聞いた途端、何故かぞわりと首筋が粟立った。
声の調子ががらりと変わる。慌てて彼女の方を見ると、先程までにはなかった熱のようなものが、黒真珠の中で瞬いているのが見えた。その熱に浮かされたように、夢みるような調子で彼女は私を見つめた。
「他の誰に言われるよりも、貴女にそう言われるのがいっとう嬉しい」
そんなはずもないのに、彼女の瞳はまるで泣きでもしたかのよう潤んでいる。声も急に大人びて、心なしか色づいていた。しゃべり方まで打って変わっている。何が起きたのかわからなかった。幼げな唇から出た音に艶めかしく胸を打たれ、私はその豹変に戸惑い、酷く困惑した。いったい私の言葉のどこに、ここまで劇的な変化を起こさせる要素があったのか、私には皆目検討がつかなかったのだ。
「そう、かしら?」
「ええ。とてもとても嬉しいの」
うれしいうれしいと、本当に幸福そうに繰り返されて、困った私は、その熱っぽい視線からあからさまに目を逸らしてしまった。
その日から、里で人形劇を開くと、必ず彼女は現れるようになった。
●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回
丑三つ時であった。
寺子屋に不審な影が一つ入っていく。
影は少女の形をしていた。
独特な華美な三つ揃いを痩躯に纏い、小さな頭には赤い見事な帽子を一つ、椿のように咲かせている。
こんばんは、と彼女は言った。
「アナタが、ジンタイモケーさん?」
人体模型しゃべらない、しゃべれない。それは当然のことで、しかし赤帽子の彼女は切なそうに息を吐くのだった。ああ、かなしい。アナタには私の声が届かないのね、と。
「でも丁度いいわ。悲鳴は聞きたくなかったもの」
昼間の間は子どもの喧噪が絶えない寺子屋も、夜の今は寒々しく寂然としている。彼女は短い腕を伸ばして、人体模型を床に引き倒した。ゴロン、と。無機物独特の音がする。柔らかさを感じない音。床に転がった模型の傍らに膝を突き、冷たい造形を指で辿って、不法侵入者は歌うように器官名を連ねる。
「ここが肺、こっちが腸、膵臓、胃袋、肝臓、それから――――――――心臓」
骨のような指が、人のそれを模した物に触れ、なぞっていく。品定めをするように一指しは何度も動きまわり、やがて彼女は心の臓を取り上げた。想像していたよりもずっと軽い、空っぽな感触が掌から伝わってくる。
「へんなの。やっぱり動いてなきゃダメね。でも、いいなぁ」
彼女は血の味を知らない。これらに歯を立てたところで、返ってくるのは無味乾燥の無機物の堅さだけだ。いや、この木偶は文字通り木製だから、木の味はするだろう。あるいは、少しでも本物に似せようと施した塗料の味か。
「おねえちゃんの心臓も、こんなふうに小さいのかしら」
人形遣いのおねえちゃん。
「あんなにあっさりと話せるのなら、もっと早く声をかければよかったわ」
端正な指を持つ少女の事を思うと、急に胸を締め付けられる心地がする。あの心臓は、どんな風に収縮し、また血を全身へ送り出すのだろう。そのメカニズムを眼にしたことがない彼女にとって、幼い想像は現実味を欠いた曖昧模糊としたものだ。しかし、その分幻想じみて、妙に甘いものでもあった。僅かばかり頬を上気させ、たまらなくなった彼女は思わず手にしている臓器に頬を擦り寄せる。その際、木材である板屋楓の感触と、表面に塗られた胡桃油の匂いがしたが、夢現の彼女には届かなかった。彼女の意識は先日の夕焼けの中にあったのだ。沈黙する器官たちをうっそりと見つめ、ああ、と声を漏らす。幼い彼女は自問する。これが、餓えというものなのだろうか、と。
翌朝、寺子屋で慧音が発見したのは、床に転がされ、心臓を失った人体模型だった。
●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回●回
「人形供養はしているかしら?」
とある昼下がり、傘を携えた妖怪は、挨拶代わりにそう言った。
「貴女が人形を野放しにするのと、花がたくさん咲くのとではわけが違う。前者は有害、後者は無害だわ」
傘が回る。白い傘が回る。くるりと回る。
私は最近、この傘をよく見る気がする。
「巫女やそれ以外みたいなことを言わないでよ、幽香」
「それ以外には、私は入っていないのかしら?」
「入れてないわね。どうして長く生きた連中は、そろいも揃って説教くさいのかしら」
「単に貴女が未熟なのよ。あら、今日は茉莉花茶」
匂いに気づいた幽香は、ぱっと表情を明るくした。彼女は花の妖怪ではあるが、こうして食すことには抵抗が無いらしい。どころか、珈琲よりもずっと喜ぶ。過去に評判の良かったメニューから予測するに、この妖怪は刺激物を好まないのではないだろうか。私は彼女こそを刺激したくなかったので、遠回しにされた要求に応えるべく、客用のティーセットを人形に持ってこさせた。
「おかまいなく」
「ご冗談を」
「いや本当に。お茶請けなんて無くていいのよ?」
私は黙って、戸棚からクッキーを運ばせた。
「それで、今日は何の用?」
「日課のついで、いえ、ついでの日課かしら」
意味がよく分からなかった。
「用がなければいけないの?」
「いけないわけは無いけれど、用が無かったことなど無かったもの」
散歩のついでに寄った、ということもないだろう。ここには花などほとんど無いのだから。
「それはそれで咲かせがいがあるというもの」
「でも、そんな理由じゃないんでしょう?」
「まぁ、そうですが。あ、砂糖壺を頂戴」
「いいけど、私のには入れないでね」
「このクッキー、美味しいわね」
やはり私のカップに入れるつもりだったらしい。
「ところで。私は昨日、人里の方に顔を出していたの。ほら、里はちょうど菊の時期でしょう?」
「ああ。竹林の姫主催だとかいうコンテストが近いから」
「そう、それです。楽しかったわ。天狗にコメントを求められたので、2、3くれてあげたのよ。弾幕を」
「……そう」
「いえ、もちろんコメントもあげました。弾幕はそう、まずは花の美しさとは何かを説いただけなのです」
「身をもってよぉく知ったと思うわ」
「楽しかったわ」
幽香が楽しいなら、それは大変結構なことである。彼女の機嫌が良いことは、私にもプラスに働くのだから。私の今日の平和は、どこぞの天狗の犠牲によって成り立っていたようだ。ありがとう、射命丸文。今度新聞を持ってきたときは、きっと2部買わせて貰おう。ちょうどドーナツを揚げようと思っていたし。
「私は人里にいたの。そこで、貴女を見たわ」
「私?」
「そう、アリス。貴女ね」
嫌な予感がした。
「あの子、あれは妖怪でしょう?」
赤い帽子の、と幽香は笑う。
その笑いに反抗したくなって、私は正確には、と口を開いた。
「なりかけ、と言ったところでしょう。まだ」
「そうかしら。私にはもう完全に成ったように見えたけど。それも、貴女の影響で。駄目じゃない。あんな不安定なモノの近くで、ぽんぽんと魔法を使っては」
果たして、人形劇をやる程度の魔力でそんなに効果があるものだろうか。
「確かに、もはやあの子は理を外れた存在に見えるかもしれない。でも、それだって朝日を浴びればたちまち消え失せてしまうほどの、弱々しいまやかしに過ぎないわ。だから、幽香が心配しているように、人に害を為すことは無いはずよ」
「いえ、私が心配しているのは花のことです」
「ああ、そうだったわね」
それはそうか、幽香だし。
「それと、貴女のことも」
「え、本当?」
予想しなかった言葉に、思わずうわずった声が出た。
「私より先に当代の巫女と弾幕っては嫌よ?」
「ああ。そんなことだろうと思いました」
だって風見幽香なのだから。
けれど、私は彼女の忠告を聞かなかった。明くる日も変わらずに、人里の小屋で人形劇を披露した。彼女が妖怪になるならなるでいいではないかと思ったのかもしれない。ああなっては、もはや見守るしか無いではないかと。いや、本当の事を言えば興味があったのだ。これが魔法使いの業だろうか。きっと私は、私の魔法の影響で、妖怪が生まれるところが見たかったのだ。
その日の夕暮れ、やはりいつものように客が引いた後、宵闇に紛れるように彼女は現れた。いや、実際紛れてきたのだろう。幽香に言ったように、この子はまだ日が高いうちは自由が利かないはずだった。
「おねえちゃん。人形遣いのおねえちゃん」
ああ、土鈴の転がる音がする。
「ううん。アリスと呼んで良いかしら?」
艶めかしさこそ籠もりはするが、相変わらず彼女の声は鈴だった。それが、ほんの少しだけ私の後ろめたさを弱めてくれる。大丈夫、と。この子はまだ、それほど禍々しい存在ではないのだと。
「かまわないわ。それで、なにか用かしら」
「人形劇は、今日も終わってしまったの?」
「ええ。とっくに」
「残念。いつも間に合わないのよね」
そう言えば、彼女は一度たりとも、自分が人間でないことを言っていない。気づかれていないつもりなのだろうか。それとも、私がわからないはずがないとわかっているのだろうか。
「だって貴女、来るのが遅すぎるのよ。こんな時間に出歩くのは、よっぽどの馬鹿か馬鹿な妖精か、あとは幽霊か妖怪だけよ」
「ふふ。随分と賑やかに聞こえるけど」
人間じゃないことを告白するなら今のタイミングのはずだったが、彼女は無難に流した。この短期間で急激に知恵を付け始めたのだろうか。いつの間にか話し方はすっかり子どものそれでは無くなっている。見た目にそぐわない話し方。ここでは珍しくもないことだ。
「でもいいの。本当はね、人形劇を観に来たのではないのよ?」
「じゃあ、何をしに?」
ふふ、と彼女は笑った。
ねえ、アリス。アリス・マーガトロイド。人形遣いで、魔法使いのお姉さん。歌うように彼女は言って、私の酷く近くへにじり寄った。細い腕を腰に回され、ぎゅっと抱きつかれる。
「すてきな音ね」
「音?」
「なんでもない」
再び、強く抱きつかれる。苦しくはない。彼女は本当に小さかったから。端から見れば、単に子どもが甘えているに過ぎないのに、見上げてくる視線がその全てを裏切っていた。私は「なによ、気になるわ」と言葉を返しながら、密かに攻撃態勢を整えた。私の警戒に気づかないのか、彼女はいっそ無邪気に「ねえ、この辺りが腸でしょう?」と訊いた。
「ここら辺が腎臓、ここが胃袋、そして、こっちがきっと肺なんだわ。総じて内臓と呼ぶのでしょう?人体でも柔らかくて弱いところ。どう、合ってる?」
「そうね」
腕を取られる。骨のような指がまず手の甲に触れ、それから掌を返してその内側を示す。
「アリスの肌は白いのね。ほら、こんな細い血管までよくわかる」
「ほんとうに細かいものは、毛細血管と呼ぶわ」
「うん。そう書いてあったかも」
「書いてあった?」
「本に。拾ったの」
「そう」
「ねえ、こうしてみる血の流れは、指先に行くほど細くなって、手首や腕に近づくと、それらが合わさっていく。川みたいな形ね。源流は、心臓」
心臓。彼女の口からその言葉が転がり出たとき、また首筋がそくりと騒いだ。
「本当はね、最初からこれが目的なの」
「目的?」
ふふ、と彼女は笑った。
「ここがね」
彼女の真っ白な手がその胸を押さえて、彼女の真っ黒な瞳が私を視た。
「患っているの。ずぅっとずぅっと」
だから、何とかしてちょうだいな。はっきりと艶のある声で彼女は言った。それで私は、彼女の望みをようやっと理解したのだ。いや、本当は最初からわかっていたのだ。けれど、だからこそ。
「病気なら、竹林の賢者を頼ることね」
素っ気ない口調を心がけ、私は言った。
ふふ、とまた笑われる。
「薬師では駄目なの。貴女でなければ。知っているでしょう?」
アリス・マーガトロイド、貴女でなければ。
最早、彼女が私に一切の誤魔化しも隠し立てもするつもりはないことは明白だった。思えば、会った時からそうだった。この子はどこまでも真っ直ぐなのだ。そこで私は彼女と視線を合わし、熱の籠もる瞳をじっと診てやった。初めて会ったときはただ美しく、真黒かった真珠の眼は、今や荒れ狂う感情に揺れていた。その真剣さは改めて私の胸を強く打った。何もかもが手遅れであった。だから私は告げる事にした。
「いいえ。私でも無理だわ」
ゆっくり、けれどきっぱりと、誠実に首を横に振ったのだ。
くしゃりと、愛らしい顔が歪んだ。
「残酷なことをするのね。あの子は、妖怪には成りきれなかった」
とある昼下がり、傘を携えた妖怪は、挨拶代わりにそう言った。
「あの子は貴女を頼っていたのに。貴女だけが頼りだったのに」
傘が回る。白い傘が回る。くるりと回る。
私は最近、この傘をよく見る気がする。
「ねえ、どうするの?」
「どうもしないわ」
「討たれてしまうわよ?あの程度なら、今の巫女でも充分に祓えてしまうでしょうね」
私は瞳を閉じた。
瞼の裏には一つの影がある。
華美な三つ揃いを纏った痩躯。
赤い小さな帽子を、豊かな黒髪にとまらせた小さな影。
土鈴のような、不思議に甘い声。
あの子に、私は何度呼ばれたのだろうか。
瞼を開けた。
緑の隙間から、真っ赤な眼が見えた。
いつの間に近寄ったのか、幽香はすぐ傍に立っていて、値踏みをするように見ていた。
けれど微かに微笑んでいる。
幽香が笑顔だったことに何故かひどく安心した。
変な話だ。
幽香に安心を覚えるなんて。
決まりが悪くて、誤魔化すように口を開いた。
「巫女には討たせないわ」
「そう?」
「ええ」
明日は菊の鑑賞会だ。
出品者の多くが人間だからか、場所は竹林ではなく人里だった。
私はその後の宴会に呼ばれている。
宴の席を一つ盛り上げてくれないかと言ったのは、他ならぬ主催者だ。
宴は夜行われる。
それなら――――――――。
「明日、晴れるといいのだけど」
取り敢えず、これも人形の範疇だろうと、てるてる坊主を作ってみた。
ここ最近の行いが悪かった割に、翌日は朝から快晴だった。お天気の神様も偶には粋な計らいをする。私は心待ち丁寧に照る照る坊主を外すと、労ってやった。ふと、宴会の席には菊を育てていない人妖も呼ばれていたことを思い出す。
「いやまぁ、晴れたなら何でもいいでしょう」
日が傾き始めるのを待って、ライエルを引っ張り出す。不備が無いことを確認してから、私は人里の方へと向かった。会場は今がまさに品評会の盛り上がり時のようだった。私は近くの別室に待機させて貰うことにした。もう少しして大賞が決まれば、それら花は壁際に移動して、中心に宴の席を設ける手はずになっている。それまではこうしてここで時間を潰していよう。余裕を持って道具を広げることができるのはいいものである。折角なので、ほつれやなんやが無いかを点検する。今日使う分には何の問題も無いようだった。
「あれ」
確かに劇に使う人形には問題は無い。しかし、それ以外の人形、主に戦闘に使う人形の一体に、違和感を覚えた。その子を手に取る。ナイフが無くなっている。特別に誂えた小さなナイフ。刃を納める鞘はあるのに、その身が無い。私はこの子を最後に遣ったのはいつかを思い出す。答えはすぐ弾き出された。彼女の願いを拒んだあの日だ。あの時、私は何体かの人形を警戒態勢にして傍に置いていた。結局彼女は何もせず、逃げるよう消えてしまったのだけれど。考えられるタイミングはこの時だろう。しかし、いつの間に、と驚かざるを得ない。全く気がつかなかった。
「あんなもの、どうするのよ」
嫌な予感がする。私はライエルをそこに置いて、外へと飛び出した。
いつもの広場は、がらんとしていた。考えてみれば、彼女がここに来ている可能性は高くない。彼女は私を追っていた。ならば、あのまま宴の席で待っている方が、よっぽど効率が良かったのではないだろうか。一方で、彼女はすでに私に固執する理由が無いのだから、あそこにいても無駄だ、という気もしていた。それに、ここ以外のどこにも、彼女がいそうな場所を思いつくことが出来なかった。
「どうしよう」
他を探すか、それとも劇をやりに戻るか。迷う私の耳に、不意に何かが鮮やかに弾けるような音が聞こえた。それはひどく懐かしい音だ。振り返る。光があった。ああ、空を覆っているあの模様、あの色、あの陣形は、あれは誰の物だったろうか。強い力が辺りに満ちていくのを感じる。それは弾幕だった。病み上がりの私は、久しく眼にしてなかった力有る者同士の遊び。言葉に出来ない焦れったさが胸を焦がし、私はその原因である影を捉えようと眼を細め――――――――固まった。
「そう、だった」
今日の宴会には、人以外もいろいろ呼ばれていたのだった。だから、その人がいてもなんの不思議は無いのだ。けれど、だけれど。
空を覆っている弾幕を仕掛けたのは鍵山雛だった。そして、対するもう一つの影を見て、私は何が起きているのかを理解したのだ。だから、自身が万全でないことは百も承知で、私は間に割って入った。
全ては、終わった後だったけれど。
だって仕方がない。あの赤帽子の彼女は、弾幕の一つも張れなかったのだから。だから、厄神である鍵山雛の軽い警告で、存在そのものが崩れ去るのは、どうしようもないことなのだ。私には、彼女が飛べることすら驚きだった。きっと、たくさん練習したのだろう。そう思いながら、墜ちていく彼女に追随した。けれど、私の指が彼女に届くよりも、彼女が地面に打ち付けられるほうが早かった。土が抉られる音と、彼女の何かがひしゃげる音がした。
――――――――こんな終わりを、予測していなかったわけじゃないけど
「来るなら、巫女だと思っていたのに」
彼女が最期に発した空を裂くような断末魔は、けれどきっと私と厄神にしか聞こえないだろう。里に人間には聞こえるはずがない。何故なら、彼女の声は決して大気を奮わせないのだから。
彼女が墜ちた場所は森に近い草むらだった。私の物だと思われるナイフも近くに転がっている。思えば、彼女が私の家までやってこなかったのは、森の障気に耐えきるほど力も、まだ育っていなかったからに他ならない。もしも無理をして来ていたら、邪気の溜まりやすい彼女のことだ。もっと早くに厄神が巫女に眼を付けられていただろう。私は彼女の横に膝を着き、手を伸ばしかけ、一瞬思いとどまった。
美しい人形が、そこにはあった。
壊れてもなお、彼女は美しい人形だった。彼女を作った人は、命を込めてこの子を作ったのだろう。きっと、良い主人に恵まれることを祈っていたのだ。こんなふうに打ち捨てられることなど望んでいなかった。まして、一人の魔法使いの所為で、理を外れかけてしまうことなど、夢にも思わなかったに違いない。そっと服についた土を払った。腕や足が変な方向に曲がってしまった彼女を、抱え上げ、抱きしめる。この後人前に出なければならないが、構わなかった。血は出ないと知っていたから。人間ならもっとばらばらになってしまっていただろうか。砕け飛び散っていたのだろうか。
「ねえ、貴女は痛みを感じるの?」
そうで無ければいい。自分勝手にも、そんなことを思った。弔う前に、せめて少しでも躰を修繕できないかと、私は彼女の具合を見た。その時、何か丸い物が彼女から転がり出てきた。あっと思う間も無く地面に落ち、柔らかい草に抱き留められる。
それは心臓だった。彼女にはどこか不釣り合いな大きさで、形も合わない。元から備え付けられていたものではないのだろう。彼女の胸元を確かめると、乱暴に空けられた穴があった。それで、私はナイフが何のために盗まれたのかを知ったのだ。私の心配は、とんだ方向違いだった。彼女はそれを人に向けることなど考えていなかった。どうして信じてあげられなかったのだろう。彼女はただ、人に交ざりたかっただけだのに。あの広場で、みんなが帰るより前に来て、そうして一緒に劇を見たかったのだ。だから私に近づき、私に頼んだのだ。人間のようになりたいと。とりわけ、彼女は自分には無い心臓を欲しがっていた。いや違う。彼女が欲しかったのは、きっと――――――――――――――――
「ごめんね」
きっと、私はとても酷いことをしたのだ。落ちているナイフを拾う。夕陽を受けて、銀色の刃は彼女が恋した色に染まった。いつか、幼い声が一番好きだと言った色。頑是無い心が、震えるように求めた色。今こそあの願いを叶えてあげられる。
そう、ちょうどこんな夕暮れだった。
私が彼女と出会った日は。
だから、彼女のナイフを握り直し、そっと自分の肌に添わせた。
「ほら、これで完成。でしょう?」
そうして、一度も鳴らなかった彼女の心臓の上に、私の赤を零したんだ。
.
何げに可愛らしい幽香もいい。実にいい。
妖怪達がアリスに小言を言いたくなる気持ちもわかります。
とにかく色んなものを背負いすぎる。
私も貴方の描くアリスが大好きです。
作品中に弾幕や戦闘という単語が出てきて、あれ?と思いましたが、雰囲気はやはり貴方らしいというか。
前回は難解に過ぎると思ってしまいましたが、やはりよくできた伏線や思わせぶりな文章が無いと、
歪氏らしくなく物足りないのも確か。
ちょうど良いバランスを期待しつつこの点数を。