《いかにもこの都市は中心を持っている。だが、その中心は空虚である》
《虚構なるものは、臓腑の震えるが如く愉悦にして、最大の甘美》
U N D E R G R O U N D
《予告された誘拐の記録》
物語は、ドン・プレシンデア・サンティアーノが誘拐される一週間前までに遡る事になる。
私には自信がある。貴方はこの書き出しを見て、直ぐ、この書物を投げ捨ててしまう。当然だろう。もし、貴方が里の人間だったら、一番読みたいのは、この郷の英雄譚なり、彼らの日常を切り取ったような日記風の小説に違いないから。彼らはとても有名な存在だが、隠されている部分もあるから、そういった情報は誰だって知りたいものだ。おまけに里の人間というのは中々忙しいに違いない。畑仕事に家の家事に、それから、その他色々。何しろ、今は出来秋なのだ。ふうふうと息を切らせながら働く姿を、容易に想像できる。
ドン・プレシンデア・サンティアーノ。誰、それ?もし貴方が興味を持っていただいたら光栄。お時間があればどうぞ頁をお手繰り頂きたい。そして貴方が聞きなれないこの名前についてだが、よく覚えておいて貰いたいのだ。そして、先ほどの問いかけが重要なのだ。大切なのでもう一度。ドン・プレシンデア・サンティアーノ。誰、それ?
ただ、もし、貴方が里の人間ではないとしたら?この書物を偶然手に取ったのかもしれないし、或いは何らかの方法で閲覧できたのかもしれない。そして私はワクワクしながら、貴方の顔を想像している。吃驚しながら、或いは読みにくいと呆れている貴方達の顔を想像している。この幼稚な文章を目の辺りにしている貴方達の相貌を。
話を戻そう。
彼はいつものように、芒畑の真ん中に立って、小鳥や野獣が畑を荒らさないように見張りをしていたのだ。その日は、出来秋特有の、気象の揺籃が生み出すやませが吹いていて、ドン・プレシンデア・サンティアーノの被った麦藁帽子が激しく揺れていた。彼は瞬きもせずにじっと風に波打つ芒畑を見つめていた。黄金色に輝く芒のなかに、無邪気に風が走り去って行った。それはまるで子供が駆け抜けていくような、生命力や不思議な魅力に溢れている力の豊饒を感じさせるのであった。この時期、出来秋の冷涼さが肌に身に染みる頃、畑の豊作を祈るため、妖怪の山から姉妹の少女の神様が鳴り物入りで降りてくるころである。夏の暑さというものは――あのじめじめとして恐ろしい量の汗が流れ出して、太陽が肌を焦がす季節だが――すっかり地上から消え失せてしまったようなのだ。
もう少しで借り入れ時で、芒は立派に育っていた。そして大きな穂を右へ左へ振り子のように揺らしていた。芒刈りは大変は苦労を伴い、必ずと言っていいほど、秋にはKの腰と足が疲労でぼろぼろになるのであった。
ある里人――仮にKとしておく――とドン・プレシンデア・サンティアーノが一緒に仕事をし出したのは、一年くらい前のことであった。この郷の診療所的性格を有する永遠亭のため、Kはせっせと芒畑の世話をしていたのだが、害虫や鳥や狐、それにいたずら妖精のため、畑は大変な被害を被っていたのだ。特にいたずら妖精だが、彼等ときたら、人間が耕したものと知ると眼の色を変えて荒らしまくるという奇妙な癖があるのだ。異様な恨みを持っているのかもしれない。ひょっとしたらちょっとした気まぐれかもしれない。いずれにしたって迷惑この上ない害虫のようなものだという。誰かが言っていたけれども、妖精どもを捕まえたときは、うんと懲らしめてやるのが良い。日頃の恨みを込めて。
永遠亭には面白い風習があって、何時でも欠かさず、月にお供え物をするのだ。それには上質の芒が欠かせないらしい。その話を聞きつけたKは、ドン・プレシンデア・サンティアーノと共に仕事を始めたのだ。兎どもときたら、満月が近づくたびうきうきとして、まるで空を飛んでいるかのような狂喜の様相である。
私が調べたところによれば、Kもドン・プレシンデア・サンティアーノも、やはり外から流れ出てきた人間であるらしい。誘拐事件以後、なぜか姿を消してしまったKは、周りの人間とは少し違った肌の色をしていた、ような気がする。小麦色の肌だったか。そしていつもはむっつりとして押し黙っている男だった。時折、異国語で何か歌を歌っているのを、里の人間が目にしていた。それを教えてくれた百姓は、何か泥棒とか山賊のことを話すかのように、Kについて色々話した。つまり、畏れていたのだ。或いは三ドル紙幣みたいに変わった男であると認識されていた模様。
ドン・プレシンデア・サンティアーノが芒畑で見張りをしている夜の話だ。Kがお茶の入ったポットを持って彼の元にやってきた。すると奇妙な影が一つ、寄り添うようにして常闇の中に浮かんでいた。Kは眼がいいほうであったから見えたらしいのだけれども、実際、里から離れたKの掘っ立て小屋と芒畑は、原始の闇とも言うべき、どろりと濃密な暗闇に包まれている。その中で、人影はKの気配に気が付いたようで、さっと彼方へ走り去ってしまった。彼は警戒しながら近づいた。
「誰だね、ありゃあ?」
ポットからお茶を粗末な茶碗に汲んで、ドン・プレシンデア・サンティアーノに渡した。宵の明星が夜空一面に輝く、そんな夜であった。
ところで、私がこのような一部始終を書くことが出来たのも、Kのお陰である。Kは失踪する数日前、私に事の次第を話してくれたのだ。彼と私が邂逅した時には、件の誘拐事件は里全体を騒がせた事件に発展していた。それに興味を持った私が、取材に行ったとき、Kは快く取材に応じてくれたのだ。
「誰だね、あれは?」
「女の子だよ」
「もてるじゃないか」
「あの子、おれを連れて行くだよ」
「どこに?」
「知らないところ。わくわくする」
次の日のことであった。博麗の巫女のところに一つの依頼が舞い込んだ。その時、博麗の巫女はというと、午睡を楽しんでいた。彼女はその時、奇妙な犬の夢を見ていた。それは一人の人間が車を引いていて、それには大きな塊の牛肉か豚肉かなんかが乗っていたのだが、それに野犬が群がっていたのだそうだ。逃げる車。追う犬。余りの不快な夢から覚めた。博麗の巫女は明らかに機嫌を損ねていた。しかしへんな夢を見るものだ。フロイト派の研究者に是非鑑定して頂きたい。尤も、才能や他の魔なるものを引き付けてやまない美に恵まれても、学のない無知な少女である。この博麗の巫女には、フロイトなんて到底思いも及ばなかった。何か嫌な予感に、頭がぐらぐらとした。そして外に出ると、ぽかぽかとして気持ちの良い天気だった。布団に入る前に昼餉を腹いっぱい食べてしまったせいか、胃が凭れて重たかった。
それに喉がからからだった。舌の表面が乾ききっていて、気持ちが悪かった。水を飲もうと神社の裏の井戸に行った。境内の背後に迫る鬱蒼とした森も、赤や黄色に色づいていた。土の匂いで満ち満ちていた。よく見ると、彼女が住んでいる神社は非常に奇妙な構造を呈していた。色褪せた鳥居を潜ると、本殿が構えている。しかしその本殿には本来あるべきご神体が無く、そこは博麗の巫女の住処となっていた。無知な里の人間は、どこかからやってきたその巫女が勝手に無人の神社に住み着いているのだろうと勘ぐっていた。きっと出自の貧しい少女なのだと。それは一種の、才能のない者のねたみであった。
そのときKがやってきた。博麗の巫女に、ドン・プレシンデア・サンティアーノの誘拐を阻止してくれるよう懇願した。博麗の巫女は二つ返事で承諾した。
博麗の巫女は、頼まれればだいたいの依頼を引き受けるのだが、その仕事は胡散臭いものばかりだった。例えば、赤い霧が郷全体を包んだとき、桜の花が咲き乱れたとき、最近では間欠泉が境内の一角から噴き出した時、彼女はのそのそとどこかに行って事件を解決するのだった。どこに行くか、それは皆目検討の付かないことだったが、そうした異常気象がいつの間にか無くなってしまうと、人々は安心する。そして彼女に感謝するのだった。何しろ、そういった事件はただでさえ不気味なものだし、下手をすれば生活を脅かされるからだ。
その時、博麗の巫女は、単純な事件と見て甘く考えていた。その上、Kが示した報酬に常識的な判断を欠いていたようだ。胃凭れも、野犬の夢もどこかに飛んでいってしまった。
だって、その、なんちゃら様を守ればいいんでしょ。簡単じゃん。
彼女はその日の夜から、芒畑を見回った。昼間はKが、そして夜は交代で博麗の巫女が見張り受け持つことになった。それは博麗の巫女が提案した策であった。どのようなやり方で、ドン・プレシンデア・サンティアーノを拉致するか判らない。ひょっとして大変な数の盗賊が押し寄せるかもしれないから、そうなったらKは邪魔なのだ。だから夜は一人っきりで、芒畑を見守ることにした。後述することになるが、芒畑に敷かれたあるルールにとって、非常に都合のよいやり方であった。
彼女は来るべき賊の襲来に備えて、様々な準備をした。まず顔馴染みの古道具屋に行って、武器の類を揃えた。そして特殊な鉄条網を買い、それをKのところに持っていった。畑を守る防風林に張り巡らせるように指示した。
昼間は決して、誰も芒畑の周囲に近づくことが出来ない。そういうルールなのだ。かつて里のものが芒畑に迷い込んだとき、大変な剣幕でKに追い出されたことがあった。彼は熊打ち用の猟銃をもって、追い掛け回した。そして、畑の中には昼でも夜でも、所有者のKとドン・プレシンデア・サンティアーノ以外は入ってはならなかった。畑の四方は多くの防風林に囲まれていて、遠くから見ることが出来なかった。例えそれが博麗の巫女でも、見ることは硬く禁じられた。鉄条網でもまだ心配が残ったので、さらに鉄条網の前に、特殊な地雷を敷設することにした。これは、顔馴染みの古道具屋が考案した罠であった。第二次大戦中、ドイツ・アフリカ軍団が考案した地雷原、通称『悪魔の園』とよく似ていた。地雷を撤去しようとすれば、近くに敷設してある別の地雷の信管が作動して、爆発するのだ。鉄条網に触っても、同じように爆発する。だから、Kには決して防風林に近づかないように指示した。Kは最初こそ反対したが、博麗の巫女に説得されて渋々この案を受け入れた。
再び夜が来た。博麗の巫女が見回りをしていると、そこに白黒の魔法使いがぶらぶらとやってきた。この少女は博麗の巫女と、大変仲のいい友達だった。手に持った洋灯から橙色の明かりがぼんやりと広がっている。夜風にふわりとした金髪を靡かせている。
「何やってるの?」
「お仕事」
「だから何の?」
「見れば判るでしょ」
「何にも判らねぇ」
くすくす笑いながら、白黒の魔法使いが言った。
「私はもう行くよ」
「またおいでよ。中々暇だし」
「そうする。今日は香霖堂によって帰るよ」
「そうなの」
博麗の巫女は面長の、店主の顔を思い浮かべた。どこか長閑な性格で、本ばかり読んでいる男だった。朴訥としていて、あまり博麗の巫女や白黒の魔法使いを女の子と見てくれないのが、たまに瑕であった。博麗の巫女が時折、料理を作ったり、掃除をしてあげるために、いそいそと彼の元に出かけるのだが、女の子らしい感情を知ってか知らずか、彼女のちょっとした気配りに気づいてくれる気配も無かった。
「まぁよろしく言っておいてね」
こうして時間が過ぎていく。しかし彼女の意気込みは、最初こそ凄まじいものだったが、どういうわけか一週間と続かなかった。何も起こらなかったし、芒畑は静かなものだった。その真ん中で、ドン・プレシンデア・サンティアーノが突っ立っているのを彼女は一晩中見ていた訳だ。遠くの防風林の中からは、米粒ぐらいの大きさにしか見えなかったが、確かにドン・プレシンデア・サンティアーノの人影らしきものがぽつんと立っていた。博麗の巫女は、自分のことを棚にあげて、変な人だなぁと思ったらしい。
五日目にはすっかり飽きてしまい、途中で眠りこけてしまったこともあった。ここが彼女の愚かなところなのだ。六日目になった。いい加減ウンザリしていた彼女は懐から酒の入った真鍮の容器を取り出すと、とうとう飲み始めてしまった。それは境内で暗々裏に醸成されている密造酒で、大変濃厚な酒であった。
一方Kは、不安で眠りに付くことが出来なかった。自分の相方は大切だし、かけがいの無い友人だった。どこぞの女に連れて行かれるのが、口惜しいのだ。こんな夜中に出歩くのは女と言えども、人間ではあるまい。だから博麗の巫女に頭を下げたのだが、どうも気だるそうで、頼り気がなかった。こんな時、自分に力があれば守ることが出来るのに、と彼は忸怩たる思いでいっぱいだった。
ふと、芒畑が騒がしくなり始めた。ベットから飛び降りて窓から覗いた。
外は随分明るくなっていた。そこら中から集まってきたのだろう、人間が騒いで、踊って、歌っていた。Kはぶるぶると本当の恐怖を感じた。人間の形をしている者達は、明らかに異様な衣装や雰囲気を纏っていた。ある者は御伽噺に出てくる西洋風の服を着ていたし、またある者は背中から翼が突き出ていた。何より彼等の体が赤く発光して、辺りを照らしているのだ。翻って、Kは青褪めた。あれは物の怪だ。
彼等は博麗の巫女を取り囲むようにして歌っていた。博麗の巫女は、顔を酒で赤くして、ふらふらとしていた。やがて真鍮の容器を煽ると、突然ふわりと宙に浮いたのだ。それはまるで足元に、ちょっとした台風が起きたかのようだった。つまり、風が八紘に満ち渡り、妖精たちの衣服がふわりと跳ねたのだ。周りを取り囲む物の怪どもが突然静かになったかと思うと、驚嘆の声を上げた。まるで巫女の発する神聖というものに、彼等は驚き、また祝福しているといった具合だった。いつしか、博麗の巫女を中心として、彼らの間で一つの戒律が生まれたらしいのだった。それを生み出したのは博麗の巫女が発する、重力の不在。何にも縛られない象徴として、彼女は崇められていた。異型のものたちに、だ。
話を戻そう。
Kは人間が空を飛ぶところを始めてみた。博麗の巫女は、何か不思議な力を持っていると聞いたことがあるが、それが目の前で起こっているのだ。宙返りをしたりして、物の怪どもを再び喜ばせた。
今日飲まなきゃいつの飲むだろう。
毎日お祭り、馬鹿騒ぎ。
月も芒も大喜び。
それ、飲め飲め。もう一つ、それ行け、どっこいしょ。らっせら。らっせら。
その時、芒畑の果てで火柱が上がった。轟音が響き渡り、彼は思いっきりつんのめった。予期せぬ衝撃だった。鼻の頭と右肩を強かに打ってしまった。
即席の歌がやみ、火薬の轟きが響く中、Kはふと芒畑に眼をやった。ドン・プレシンデア・サンティアーノの姿は消えていた。彼は芒畑を踏みながら、彼が立っていた位置に走った。何者かの足跡だけが、芒畑の彼方まで続いていた。
「ドン・プレシンデア・サンティアーノが誘拐されちまった。どっかに行っちまった」
彼は叫んだ。
彼は必死に辺りを探し回った。彼は奇妙なものを発見した。それは轍であった。二つの車輪が引いた、二つの線がくっきりと芒畑の果てまでも続いていた。
博麗の巫女はそのころ、早くも臨戦態勢に入っていた。酒の勢いが増して、喉の奥が熱く、煮えたぎっていた。歪な笑みを浮かべたと思ったら、一瞬にして、その場から消えてしまった。どこへ行ったのか?それはとうとう誰にも判らずじまいであった。
その頃Kは、轍を追って走っていた。どこまでも広い芒畑を踏み荒らすように、車輪の後は引かれていた。だが、やがてある事に気がついた。地雷が爆発した位置と、轍の走る方向が真逆なのだ。彼は大きな穴を発見した。車輪の後はその中に続いていた。それは、トンネルだった。入ろうとすると、奥のほうが震え、トンネルは崩れ落ちてしまった。こうして世紀の誘拐劇は幕を閉じてしまったのだ。絶望に蹲るKを残して、だ。
《シルヴァー・ノイズ》
私がその探偵に会った時、彼女はナズーリンと名乗っていた。但し、正確に言うとナズーリン・セミューニチ・イヴァーノブナと名乗っていたが、ある時はナズーリン・アレクサンドロヴナ・グレゴーリチと名乗るときもあったそうだった。また別の依頼者には約十もの洗礼名を書き綴った名刺を持って恭しく挨拶に迎えたこともあった。不思議の国のデズニィランドからやって来たと冗談めかして言うこともあったそうだ。彼女は偽名を考えるのが大好きだった。
だからナズーリンというのも本名かどうか判然としないのだった。それが大事であった。ナズーリンとは本名か、偽名か。それは、彼女の言によると、自己を曖昧なものにするということは、自身をより客観視することが出来るし、何より客観こそ事態の様相なり状況なりを素直に認識できると信じていた。そしてそれは探偵にとって重要な要素であるとも考えていた。
彼女の体には野鼠が三匹、纏わり付いていた。それぞれミセス・ヴァオイラ、トマシナ・チュウチュウ、そして吹田さんと言った。彼等はナズーリンの忠実な僕であった。ただ、食べ物などは容赦なく食い荒らしてしまう貪欲な鼠であった。特にくいしんぼうの吹田さんはナズーリンの悩みのタネであったという。探し物が食べ物の場合、腹心を使わずに捜査をする必要があった。
Kはどうしようもない絶望に包まれていた。あれから何故か博麗の巫女は姿を現さない。そうしてぼろぼろになっている時だったのだ。Kの最後の希望、ナズーリンがやって来た。
彼女の奇妙な能力であった。Kの困惑や絶望を彼女は見事に察知し、芒畑の掘っ立て小屋まで足を運んだのだった。
彼女は例によって件の長ったらしい偽名を記した名刺を出して、挨拶した。藁にも縋りたい気持ちであったKからすれば、まさに点が与えたもうた配剤であった。また同時に博麗の巫女の儕輩に過ぎないのではないかとも考えた。
尤も、ナズーリンが話したところによると、ドン・プレシンデア・サンティアーノの誘拐は、既に里中の噂になっていた。今にあの芒畑の主が誘拐されるに違いない。こんな具合であった。
例えばトマシナ・チュウチュウが里の寺小屋の屋根裏部屋――まさしく比喩や暗喩でなく屋根裏部屋である――で聞いた話だと、こんな風であった。芒畑の主と一人の女が出奔する、と。
子供達の間では、芒畑は一種の冒険活劇の舞台であり、また一種のタブーであった。近づけば、例の芒畑の主人にどやされ、打擲の憂き目に会うかもしれない。それに親御達からも、決して近づくなかれ、と教えられていた。しかしながら、そう言った困難は児戯にちょっとした彩を与えるに過ぎぬ。彼等は恐らく、里の中で一番芒畑のことを知っていたに違いなかった。彼等は度々、芒畑に侵入していたようだ。
大人は愚かなんて、こんな酷い文句はありはしない。しかし、このシーンにおいて、哀しきかな、大人は無力なり。彼等は子供の話すことを信じきっていた。
「あすこのおじさんは気が変なんだよ」
子供の文句を信じきっていた。それは後のナズーリンの調査でも裏付けられていた。決して里の人間はあすこのおじさん――つまりK――のことを頭のおかしい人間だと信じきっていた。
彼等は常に情報収集に郷を散策しているのだが、彼等の敏感なレーダーがこの奇妙な事件の一端を察知したわけだ。まるで、ナズーリンが暖炉の傍で焼いてくれるトーストとチーズの匂いを嗅ぎ付けるように、だ。野鼠どもときたら、どんな些細な兆候も見逃しはせぬ。私にナズーリンは語るのであった。私は例の暖炉の傍で、彼女の話をメモしている。ぱちぱちと炎が彼女の童顔を照らしていた。暖炉は煉瓦で造られてい、頑丈そうであった。そこはナズーリンが使うセカンドハウスだった。場所は非公開で、と前もって頼まれていたから、詳しい住所は伏す事にしよう。
まぁこのナズーリンというのは仮名かもしれないけれども……ナズーリンは探偵というよりは、スパイ的、または諜報員的な立場に収まっていたのだ。日々送られてくる情報を彼女はいち早くキャッチしていたのだ。尤も、その情報をキャッチしうるのは、ナズーリンしかいなかったのだけれども。
「だったら、最初は、寺小屋で事件のことを聞きつけたのですね?」
私が聞いた。
「いかにも」
「貴方はそこで、早速被害者のもとにかけつけた、と」
「その通りである。私は主人とじっくり相談して、助けることにした」
寺小屋では、生徒達が車座になって寺小屋の先生に何か話をしていた。彼等はとても興奮しているようであった。この寺小屋の先生というのは、大変な美人であった。それから里の男から、良く厭らしい妄想の目で見られることもあった。里の幼い男の中には、自分の童貞を、強姦に近い方法で奪ってくれると信じている被虐的な考えを持つ阿保もいた。現にそういった噂もあったようだ。
実際のところ、彼女が里の男と交接していたかなんて与り知らぬことではある。数百年は生きているとされる彼女のことだから、男なんて手玉に取ることも簡単であろうし、ひょっとしたらそう言った男遊びに飽きていたのかもしれない。それとも異性には何の興味が無かったのかもしれない。学問。それが恋人なのかもしれない。実際あってみると、実に飄々とした女性である反面、厭世的にものを考える人間特有の、影が相貌に走るのを認めることができた。物や知にしか興味の無い人間特有の、人間らしさ(尤も、彼女、人間ではないのだけれども。それは皆さんご承知でしょうに!)。
「芒畑のおじさんが誘拐されるんだよ」
「お前達、何を言っておるか。宿題はやったか。頭突きするぞ」
「女の人に惚れられて、おじさんも好きになっちゃったから、一緒に逃げるんだって」
「あぁ?」
「河童が言ってたもん」
そして、里中のあちこちで、野鼠共は息を潜ませながら、この事件の噂をキャッチしていた。
しかしあらゆるゴシップ、他の根も葉もない噂、そして出鱈目とフィクション、或いは作り話というものが、鼠共が発する通信を通して、小さき賢将ナズーリン・セミューニチ・イヴァーノブナ(仮名)に通達されていた。
「ユダヤ人が企む支配計画がこの郷にも及んでいる。彼等はこっそりと、食品に化学物質を添加していて、それによって皆頭がおかしくなって洗脳されてしまう」
「外の世界から流れてくるメチル水銀が、湖に蓄積している。ある屋敷の従者が捕まえた魚を食べたメイド妖精が、死んでしまった」
「一年後、空から灰色の世界が降ってくる。巨大な飛行機がバベルの塔にぶつかって。でも、飛行機って?バベルの塔って何なのさ?」
こんな訳のわからぬ噂ととも、芒畑の事件の噂が流れていたのだ。彼女は里の監視を始めて以来、ずっとこんな噂を耳にしていた。その噂らしきものを聞きつけると、彼女は逐一ノートに書き綴った。それは単純に《レポート》と、呼ばれていた。
《レポート》に書き綴られたこれらの噂は明らかに、巨大な死というものに直結していた。誇大妄想、明らかな誤解や嘘。ナズーリンは三匹の野鼠が伝播する情報を見ていて、一つ気が付いたことがあった。それは人々が何か大きな不安と言うものに呪われているのではなかろうということであった。彼等がその不安を感じるのは、何故だろう。
話を戻そう。
兎に角、ナズーリンはKの芒畑に向かった。そして依頼を受けると早速調査に乗り出した。
鍵となるのは、芒畑でKが見つけたトンネルであった。それはもう埋まってしまっていた。探偵はそれを、少なくとも一ヶ月は前から用意されていたのではないかと推理した。事実、畑を掘り返してみると丈夫そうで、太い角材が発見された。これはトンネルを支えるための梁に違いないと探偵はにらんだ。秘密に、大規模な工事が行われていたのだ。
トンネルの方でわかったのはそれくらいであった。彼女は続いて里の方に捜査に出かけた。気になること、というより何か引っかかる点がいくつかあったのだ。
彼女は件の《レポート》を私に見せてくれた。
「例えばだね、何で里の人々はドン・プレシンデア・サンティアーノの誘拐を知っていたのだろうね。尤も、彼らが実際知っていたのは犯行予告であって、実際に誘拐が実現してしまったことは誰も知らなかったようなのだ」
芒畑に纏わる数多の噂を分析すると、まるで里の人間すべてが事件の共犯者なのではないかという奇妙な考えに、彼女は取り付かれたのだった。芒畑の噂は事件が起こる前から里中に流れていたし、やはりみんなは何かを知っていたのだ。そしてその誘拐事件が終わった後であっても、これから何か恐ろしいことが起きようとしていることも、知っているといったかんじだった。それでいて、誰も止めようとしない。ただ只管、じっと事態というものが収まるのを息を潜めて待っているといった感じだった。まるで噴火寸前の火山のように、危殆と熱気、どろどろとしたエネルギーを孕みながら、里全体が小さく蠢動しているかのようだった。
気になるといえば、こうした人々の口上に浮かぶ誘拐事件の断片なるもののなかに、度々ある妖怪の名前が出てくることだった。
ナズーリンはある日、一軒の茶屋に足を運んだ。そこの店主の気さくな老婆は、彼女にみたらし団子とお茶を持ってきて、その日のあらましを語ったのだった。彼女はねばねばする団子を齧りながら、《レポート》にペンを走らせた。本当は甘いものは好きではないのだが。
「貴方、探偵さんなんですってね」
「厳密には少し違うのですが、まぁそのようなものだと思っていただけたら」
「それなら、シャーロック・ホームズ?」
「何ですって?」
「あの探偵みたいに鳥打帽は被らないのかしら?あなた」
今から一ヶ月程前のことであった。早朝であった。まだ往来に人気は無い。いつものように暖簾を出して、店を始める支度をしていた。その日の天気は、まるで里全体を包み込む驟雨の日であった。きっと直ぐに止んでしまうにわか雨。とても細かい雨粒が、店の外壁に少しずつ染み込んでいった。湿度もそこそこに高かったので、肌に着物がひっついてしまい、不快な日だとおもった。そのとき一人の少女が店に入ってきた。
こんな朝早くにお客とは珍しいことであった。そのとき彼女ははっと気がついた。里の食べ物屋には、時折こうして妖怪の類が訪れるが、人々を驚かせないよう、こっそり朝方とかとうに夕餉が済んでしまった夜遅くにやってくることがあるのだ。彼女も妖怪なのだ。そして今日の天気と、目の前の妖怪少女の関連を見つけ出した。今日ときたら、まるで野池の底に沈んでしまったかのように、生臭くて、暗くて、じめじめとしている。そうだ、この女の子は河童だわ。河童が地上を出歩くと、どんなに晴れていても、雨とか霧とか、彼らにとって優しい天気に変わるのだと老婆は思い出した。彼女たちに天気が味方するのだ。それは古くからの言い伝えであった。里から少し離れた場所にある妖怪の山から、気まぐれで里に遊びに来るという言い伝えがあるのだ。
老婆はあわてることなく、お茶を出して、注文を聞いた。
「何をお出ししましょう?」
「おなかが空いているの」
老婆は朝食を作りだすと、少女は鼻をひくひくさせて、その後姿を見守っていた。老婆は川魚を焼いたのと、白米と、それから味噌汁に漬物を載せたお盆を持って彼女の元に向かった。
彼女は大きな荷物を背負っていた。膨らんだリュックサックのほかに、ズックの鞄が二つ、やはりぱんぱんに張っている。推理小説が大好きな老婆は大変な好奇心を持ってしまった。
「それ、何を買ったの?」
「いろんな道具さ。あの人を攫っていくのに使うの」
「まぁ、じゃあ貴方怪盗二十面相ね」
「なにそれ」
「それで、誰を攫うの?河童さんは」
「芒畑の見張りだよ」
「素敵な人なの?」
「とっても素敵な人だよ。わたし、あの人みたいな人大好きなんだ」
老婆は、きっと冗談だと思ってにこにこしながら聞いていた。その後、二人は三、四十分楽しく話したという。河童は完全に老婆の朗らかな人柄を信頼しきっていたようだし、老婆も始めて河童というものと話したから、楽しかったそうだ。
私は思う。この河童は、自分が犯そうとしている犯罪を、誰かに止めてほしかったのだ。その後も、彼女は寄る必要もない店や井戸端会議している里の女達に近寄っては、それとなく自分の犯罪予告を残していったことが判っている。そのために彼女は、計四回も朝食を取ったのだ。子供たちと遊んだりもした。やはり、子供たちはそのことをちゃんと覚えていた。
結果的に言えば、彼女はドン・プレシンデア・サンティアーノを見つけることが出来なかった。彼女の赫奕たる探偵の経歴に傷が残ったといえる。しかし、彼女の弁解として書いておくが、彼女はあくまで有能である。
確かに彼女はいくつかの痕跡なり、証拠なりを現場で発見した。そして犯人の目星もついた。それでもナズーリンは捜査を完全に打ち切ったのだ。
先ず一つ、犯人が様々な権利、法、そして暴力が錯綜する妖怪の山のものであることがほぼ明らかとからだ。妖怪の彼女は犯罪の舞台が妖怪の山に移った時点で半分諦めていた。明らかに自分の主に迷惑をかける性質の事件に首を突っ込むのは憚られた。それは藪をつついて蛇が出るというものだ。
そしてもう一つ、突然のKの失踪。また誘拐されたのか。判らない。それとも失意の余り、自ら蒸発したのか。判らない。依頼主が失踪し手しまった以上、捜査を続ける理由はないのである。
彼女がKの掘っ立て小屋を訪れたとき、部屋の中はがらんとしていた。部屋の中は些か散らかって、あらされた条理を呈していた。彼はどこに行った?彼女は机の上を見た。そこには原稿用紙が山のように積み重なってあった。
彼女はKの家から拾ってきたものを私に見せてくれた。それは小説であった。
小説がどんなだったか。その不思議な小説は敢えて言えば、ジェームス・ジョイス風、神話的、自然主義的描写の目立つものであった。ジョイスの後の大作、ユリシーズやフィネガンズ・ウェイクのような奇抜さ、読みにくさ、つまりポストモダンたる性格は無い。寧ろタブリナーズのような、楚々としていて、且つまっとうな簡潔さに溢れている。
例えば、
欧州を追われ、各地を旅する吸血鬼姉妹。
非業の死を遂げる西行の娘。
さとりの妖怪の悲劇と過去。
橋姫の報われぬ悲恋。
死神と人間の奇妙な交流。
遙か昔、白狼天狗の活躍。
蓬莱の薬を飲んだ少女の英雄伝。
一九世紀パリの、画家と日傘の妖怪の物語。
それらは、あくまで、客観的に描かれていて、また三人称、かつ、徹底的な固有名詞を排除したやり方で書かれていた。神話的というのは語弊があるかもしれぬが、要はあらゆるものの指針、根幹となりうるものであるということだ。短編ばかり。
Kが書いたものか、と尋ねると、ナズーリンはそうかもしれない、と言った。チーズを暖炉で焼きながらじっとしていた。寒いのが相当苦手らしい。やけに口数が少ない。そして肩や胸の辺りにあの三匹の鼠が纏わり付いていた。彼等もどこか不安そうに目を丸めている。押し寄せる寒さと言う名の死のイメージに彼等は脅えているようであった。凍えて、丸くなり、小さく蹲って死んでいく自身のイメージでもあった。
私がKのもとを訪れたのは、事件発生から数日が経った日のことであった。既に事件はちょっとした展開を見せていた。Kの芒畑では無く、里で。
偶然私は里を訪れていた。別の取材であった。里へやってきたのは、ある歴史博士に面会しようと思っていたのだ。思いがけないことに私が件の誘拐事件を知る切っ掛けとなった。ここでも私は噂というものに触れたのだ。
噂。噂を敵に回すなかれ。それは大きな情報を孕んだ生物のように、情報を食い、育っていくのだ。嘘や思い込み、誤解、それにフィクション。
「仲間を誘拐されたKが、仲間を集めて里に復讐に来るぞ。何もかも燃やされて、殺されてしまうんだ……」
町は慌ただしくなっていた。何しろ戦争だの紛争だのには全く縁の無い土地だ。妖怪退治を出来る人間なら兎も角、人間と戦う用意など里には無かったのだ。彼らは闇雲に興奮して、武器を手に里の出入り口を固めた。私は事情を周囲の人間共から聞き出した。それから私は唯一の友を失って可哀想なKの元にはせ参じたと言うわけだ。
私は非常に興味を持った。なぜか。簡単だ。まずは退屈だったからだ。自分で新聞を書き、発行している身分からすれば、大変おいしい事件だと考えていた。これは是非被害者であり、かつ、加害者の疑いをかけられている者に話を聞いてみたいと考えていたのだ。
始まりこそ、非常に突発的なものだが、私は徐々にこの単純なように見えて、不可解な事件にのめり込んで行くことになる。
だが事情は全く違った。復讐など無かったし、その後どの家も放火されなかった。まして人は死ななかった。一人を除いて。死んだのは山の奥で炭焼きをしている老人が一人だけだったが、老衰であった。後日、老人はミイラのような状態で発見された。水分はすっかり抜け気ってい、里の男衆がそっと触れるとボロボロと崩れた。
この先、誰も復讐などにやってきやしない。それを知った人々は安堵した。やがて人々はこの噂を忘れて言った。そしてKのことも、ドン・プレシンデア・サンティアーノのことも、芒畑のことも忘れてしまった。子供達も遊び場の芒畑などうっちゃっておいて、新たな冒険の舞台を探したようだ。芒畑は荒れに荒れ、雑草が繁殖し、原っぱの一部と化した。
ナズーリンもまた、この事件のことを忘れようとしていた。彼女は主の言うとおり、困った人間を救わなければ成らなかった。そういう人間は次から次へ、増えるのだ。三匹の可愛らしい野鼠、トマシナ・チュウチュウ、ミセス・ヴァイオラ、そして吹田さんが運ぶ人々の叫び、大きな死に繋がる不安。そしてナズーリンにも一つの不安。
それは、どれが本当の情報と言うものなのだろうか、というものだった。どれが嘘で、どれが本当なのだろうか。そして彼は何を根拠にして不条理な死がやってくると信じているのだろうか。もし、そのうちのどれかが本当だとしたら?
そして、ナズーリンの前に残されたのは、数多の死のイメージだった。数え切れない死と言う名の虚構のベクトルが流れ込む彼女のセカンドハウスは、いつだって慌ただしい。セカンドハウスはまさに、テレヴィジョンを満たすあのノイズ、勝手に、縦横無尽に飛ぶ銀色のデータの乱れ。騒音。そしてあらゆる無関係な情報の波。
最後に彼女は言った。
「未だに判らないのは、ドン・プレシンデア・サンティアーノという人物が本当にいたか、ということなのだ。それはK氏が徹底的に里の人間から差別されていたという事実を追求すれば浮かび上がる。なぜか彼は酷く疎まれていた。彼は孤独であった。少なくともそれは里の人間共から聞いた。里の人間共の言葉の選び方からして、一種の被差別者とも言えるんじゃないか、と思われたくらいだ。だから里の人間は、全くK氏の生活環境を知らなかったのだ。聞いていたのは子供の信頼に値しない証言のみが、彼等がKを知りうる情報であったのだ。Kには、汚らしいものでも扱うかのように、誰も近づかなかったのだ。まして彼に友達がいたのかなど、誰も知らなかった。もう一度言うよ、誰もドン・プレシンデア・サンティアーノなんて人間は知らなかったんだ。まぁどうでもいいのだけれども。もう終ってしまった事件だからね」
「貴方はそれで満足しておられるのですか?」
「いや、私の本能は承服していない。ただ仕様が無いのだよ」
ナズーリンは現在、他の名前で、立派に探偵をしている。残された不安のイメージに立ち向かい。因みに彼女が尤も得意とする捜査は、探し物だそうだ。最後に彼女とこんな話をした。
「貴方を呼びたいときはどうすればいいのですか?」
「簡単だよ。助けてほしいと祈ればいい。ただそれだけさ。本当に困っているならね。君が本当に施しを受けたがっているなら、私は助けに行くのだ」
その後、彼女は時折、里の団子屋にやってきてお茶を飲むようになった。それは彼女にとってちょっとした変化であった。ナズーリンは老婆のことをハドソンさんと呼ぶ。なぜかは判らない。
諜報活動をしていると、現実と虚構の区別がつかなくなり、神経がすっかり参ってしまうことが度々あるものだ。そんな時、あの団子とお茶を飲むためにやってくるのだった。何となくだが、ナズーリンにとって、彼女は本当に全うな人間に思われたからだ。
そしてハドソンさんの元には、とうとうあの河童の少女は現れなかった。彼女は時折、また会いたいなぁと言っていた。何でも彼女は一つ忘れ物をしたそうだ。それは例のズックの鞄であった。探偵はそれを見たが、中身は何だかよくわからない機械であった。
それからいくつか月日がたったある日のことだ。彼女が台所で倒れているところを、偶然店にやってきたナズーリンが発見した。そうしてハドソンさんは帰らぬ人になってしまう訳だが、やっぱり、河童はとうとう現れなかった。
《重力の崩壊》
もし、貴方が病気に掛かったらどうする?病院に行くだろう。風邪なら風邪薬を貰い、怪我をしたら傷薬を塗ってもらう。骨を折ったらギプスを蒔いてもらえばよい。
貴方達にとって病院とは何か?
あの竹林に囲まれた屋敷だ。もし病気にかかったら、永遠亭の門戸を叩くがよい。そして頭を下げて診てもらうといい。きっと直してくれる。
そこで貴方は非常にユニークな女医さんと会うだろう。私、月で医学を学んだのです。チャーミングな挨拶で診察は始まる。いや、まず、イナバの兎少女に会うかもしれない。この悪戯兎は人間の少女の形をしているが、侮るなかれ。一度その悪戯の牙に掛かれば、二度と逃げられない。それも相当あくどい性質の悪戯だった。下手をすれば死に掛ける、恐ろしい罠だった。
そこには、貴方はある人間に会うことになるだろう。誰か?白黒の魔法使いだ。豊かな金髪を揺らしている。彼女はとても整った顔立ちをしている。里にもめったに姿を見せないから、非常にミステリアスな存在だ。彼女は不思議なオーラを纏っている。それは不可視の壁のように貴方と彼女の間に懸隔を生み出す。それはこの世に存在しない、名状しがたい感覚なのだ。
要は、彼女と貴方は別の生き物だ。そう考えてくれればよい。
貴方はにらみ合っているイナバの兎少女と白黒の魔法使いを見ることになる。それは憎みあっていて、お互いの殺気が飛んでくるようであった。
そもそも貴方は何をしに来たんだっけ?
そうだ。商品を納めに来たのだ。大切な芒の見本を抱えてやってきたのだ。貴方は玄関を開けると、そんな光景にぶつかった。
イナバの兎少女がこちらを向いたようだ。貴方は少し途惑いながら、用件を告げる。
営業用の笑顔を浮かべて貴方を歓迎する。何しろ大事なお客様だから。白黒の魔法使いも憚って、脇にのけた。イナバの兎少女は中に案内する。
暫く歩いたところで何か爆発音がする。白黒の魔法使いが癇癪を起こしたのか?何か実験が失敗したのか?貴方には判らない。だってそこからは何も見えないから。
イナバの兎少女は舌打ちをした。ちょっとあいつとは喧嘩していたのだという。
診察室に通された。
診察室は、真っ白で奇麗であった。染み一つ無いし、徹底的に磨き込まれていて、清潔を保たれている。クレオソールの匂いが経ち込めていて、貴方は鼻腔の奥に痛みを感じる。
「いつもありがとうございます」
女医さんは恭しく挨拶をすると、お茶をイナバの兎少女に持ってこさせた。さっさとお暇しようと考えていた貴方は、少し戸惑ってしまう。彼女はお礼だと言って、お茶菓子を勧める。
貴方は改良を重ねた芒の説明を始める。女医さんは熱心に聞き入っている。枯れにくい上、虫もつきにくい、今までで最高の品質なのだと、貴方は説明する。
この屋敷は、毎日盛大に月に供え物をするのだ。特に、毎月十五日になると、沢山の料理と、花と、そして束にした芒を供物にする。供物台は永遠亭のあらゆるところにあって、それこそ芒はたくさん必要なのだ。どうしてそんなことをするのか、貴方は判らないだろう。
貴方は急いでお茶を飲み干して、失礼する。急いで永遠亭を出て行く。改良された芒を後で沢山持ってくるよう約束を取り、お金を受け取ったあとであった。
貴方がいなくなった後である。永遠亭の女医さんが診察室に置かれた芒を手に取ると、屑入れに放り込んだ。彼女は既に、件の供え物の習慣を、形骸化した一種の祭りのように考えていた。完全に客観視していた。恰も自分だけが祭りの外で、馬鹿騒ぎを覚めた目で傍観しているかのようだった。
永遠亭の住民は、何かに脅えていた。何か?それは間違いなく、あの頭上に浮かぶ月であった。彼等はそれ故に崇拝していた。だが、女医さんはというと、平気な振りをしているように見えてその反面、意外にも深層心理では、これを確かに忌避しようとするメカニズムが働いていることを認めていた。
例えば、永遠亭に住み着いている兎達に話を聞いたところ、約八十パーセントの兎達がある夢を見ていたことが判明した。彼等は仕切りに女医さんにこんな感じで訴えていたのだ。
「月が落ちてくるんです!」
彼等はただでさえ表情の少ない相貌を歪ませて、訴えるのだ。中には少女の形をした者もあった。少女兎は帰って悲壮感を表現していた。それに対して彼女は女神のような笑顔を見せる。くっきりとした笑窪が特徴なのだ。口を撓めると、まるで顔に穴を穿ったかのような素敵な笑窪だ。きっと他愛の無い、悪夢であると信じきっている、と思うだろう。母親が子供を安心させるための、シフトレヴァーだ。
だが、その脳裏で、彼女は驚愕していた。確かにそれは夢でしかない。夢は夢でも、それは女医さんの見る夢でもあった。女医さんは、満月が近づくにつれて、その月の落ちてくる夢が鮮明に映るようになっていた。あの黄色い球体が、徐々にこの永遠亭に接近する。やがて地平線と月が、一つに、繋がる。それからは、全く良く判らない。光と熱と、膨張、そしてあらゆるものが膨張し、最もエネルギー熱を中心から発した瞬間だ。どうなる?収縮する。何もかも一つの点に還って行く。
まさにこの永遠亭を住処にする者達を、従容と支配するこの奇妙不可解な夢を、どう説明すればいいのだろうか。彼等が作り出す奇妙な祭壇の秘密が、夢にあるなんて、どう報告すればいいのだろう。
だが、少なくとも、永遠亭の女医さんには心当たりがあるのだった。それは彼女の秘密であった。決して誰にも話したことのない、そんな秘密。月と自分を巡る、一つの秘密とともに彼女は生きる。もう数千年、いや数百年?
夢を見るだけなら可愛いものだった。夢なんて罪の無いいたずらっ子のようなもの。しかし、確実にそのいたずらっ子は、現実を侵食していた。一体、何匹もの兎が、満月の前夜に行方不明になるのかを考えた。何匹の兎が自分の掘った穴に入って、自分で土をかぶせて死んでしまうのかを考えた。
それは彼女にとっては、直面する困難であり、また挑戦であった。彼女は、何とかして、この支配から逃れようと苦労したのだ。
女医さんは、まずパブロフを読みふけった。前など、歯の治療の合間に本の頁を手繰っていたことがあった。里から来たリッチな人間の歯だった。紙巻の脂と虫歯でボロボロだった。根幹形成のため、リーマーを通すべき下鍔大臼歯は、二根に別れたそれぞれの彎曲が酷かった。ドリルを通すべき場所も、その深さも知っていた筈だが、客がうめき声を発した時はさすがに焦った。失敗したのだ。とりあえずレントゲンを見るふりをして、気持ちを落ち着かせ、再び手術に集中した。その治療は何とか成功に導くことができた。
しかし何故、このロシアの科学者に彼女は答えを求めたのだろうか。あらかた読んでしまうと、次は兎を何匹か協力を求めた。彼女は、兎の唾液の分泌量と、兎の目の前に差し出される餌の関係性について詳しく調べだした。
彼女の実験には、感情や理性、あらゆる行動のコントロールが可能であるという仮説を伴っていた。兎達の情緒不安を端に発する、自殺、蒸発を食い止めようと彼女も必死だったのだ。
彼女はしかし、パブロフを放り出してしまった。魔法使いが住む森に佇む、古道具屋で手に入れたパブロフ全巻をまたどこかに売ってしまった。その道具屋は、大変な蒐集家であり、この郷で見かけないものに限って見つかるという、以外とありがたい店だった。因みに、先述の『悪魔の園』を考案したその人である。
彼女は本を未練も無く売りさってしまうと、つづいて針金と木の板で何かを作り始めた。そういえば、彼女は非常に魅力的なスタイルを持っていたが、針金に向かって、眼鏡をかけ、黙々と物を作る姿は、どこか老婆を思わせた。まるで、孫のための編み物を施すおばあさんのようだった。まぁ、診療所の住民共のいくつかは、実際そんな感想を持ったのだが、そんなことを本人の目の前で言えば、怒髪天を衝くというものだ。
しかし、それを恐れない者がいた。そう、我らがイナバの兎少女である。
彼女の持ち前の、ポジティブな性格が災いしたのだ。きっといつもみたいに大目に見てもらえるのだ。そう考えた。しかし、この郷の住民と来たら、揃いも揃って楽天的なのだろう。
「おばあちゃんみたいで、素敵ですよ!割烹着もプラスすれば、最高ではないですか」
これがいけなかった。イナバの兎少女は、自分に向けられたやけに冷ややかな目線に、震撼した。そしてその次の、太陽のような笑顔!これは流石に腰を抜かした。
「じゃぁ、割烹着を持ってきてくれないかしら」
従者の詰め所から、大き目の割烹着を持ってきた。永遠亭の女医さんがそれを羽織ると、まさにぴったりだった。自分の目測がぴったりなのに誇りを持ったが、相変わらず続く三日月のような笑みに、おどおどしていた。
「折角だし、お婆ちゃんのお願いを、もう一つ、聞いてくれないかしら?」
「は、はい」
「とりあえず準備があるから一ヶ月まってね」
イナバの兎少女は一ヶ月、じっと待っていた。その間、女医さんと会うたびに、この三日月のように撓んだ微笑と対面することになった。あまりの恐怖に逃げることもしなかった。とうとう、胃が痛み出して、最後の一週間は布団の中で悶え苦しんでいた。軽い胃炎を患ってしまったのだ。余りの苦しみに、枕を涙で濡らしたほどだった。一番辛かったのは、憚りに用を足しに行く時であった。これほどまでに、自分の生理を厭わしく思ったことはないと、後に語ったそうだ。
そして一ヶ月が過ぎた。約束の日がやってきたのだ。イナバの兎少女の部屋はがらりとして、永遠亭の女医さんが障子を開けて入ってきた。ひっと声を上げて少女が後ずさった。
「なぁに怖がってんの。そんな大層な実験じゃないのよ」
「実験するんじゃないですか。何の実験ですか」
女医さんはむっつり黙ってイナバの兎少女の手を引いて、一緒に歩き出した。彼女は少女を、地下室に連れ込んだ。因幡のウサギ少女はその部屋でリスの匂いを嗅いだ。それから何かの糞尿の匂い。
因幡の兎少女もまた、月を恐れ、あの黄色くてまん丸の物体に、過大なまでの恐怖の想像を抱いていた。怪物的な想像を持っていた。悖るべからざる支配の象徴として、満月というものを捉えていた。
結果的に、どうなったか。因幡の兎少女は月を恐れなくなった。それどころか、月に愛着すら感ずるようになった。濃密な闇に浮かぶ愛すべき恋人である。
彼女はこの結果を大変喜んだ。そして永遠亭の住民たちに次々とこの治療を施し始めた。
因幡の兎少女の治療を施す前、彼女が試みた定率スケジュールと名づけた実験パターンによって、兎達にある一つの条件付けに成功した。兎達は変化した。事象の間に必然的に生じることのない組み合わせ。レヴァーを押すと餌が機械からトレイにぽとりと落ちてくる。兎達はレヴァーを押して、必死に餌を、報酬を手に入れる。その餌には、ちょっとした薬が入れてあって、あっという間に兎達は餌の持つ習慣性に引き込まれていってしまった。
彼女は報酬を手に入れるための過程に変化を取り入れた。レヴァーを引くたびに餌が出てくる仕組みだったが、三回に一回、十回に一回、レヴァーを引くと餌が出てくるようにした。強化に偶発的に随伴する相違は、動物の反応を変えてしまう。彼らは欲望のため、レヴァーの虜と化した。しかし、女医さんは新たな段階に実験を進めることになる。
随伴――ある二つないし三つ、或いはもっと多くの事象の間で、必然的に結び付くことのない組み合わせ――の強化。即ち条件付けは、種に定められた行動の限界を突破して、行動のレパートリィを増やすことができる。彼女はそう確信したのだ。
この条件付けを成功させるためには、つまり診療所の住民を震えさせる月の恐怖を克服するためには、それに見合った報酬が必要だ。食料か?いや違う。彼らはこの診療所で働く代わりに衣食住の報酬を受け取っている。
そうだ。快楽だ。どんな快楽がいいだろう。セックス?いやもっと凄まじいのがあるのだ。
彼女が発見したある化学物質がそれを可能にしてくれるだろう。それはある日、湖から見つかったのだ。湖で漁をする兎の脳内を汚染していたこの《ロマンティック―P》には、一種の開放感、浮遊感を利用者に与える。変わりに死の危険を、同時に与えるのだが。
つまり重力からの開放だ。重力という頚木を抜き取ってやる。月を仰ぎ見るたびに、この薬を与えてやればいいのだ。しかし、ただ与えるのは駄目だ。与えられる浮揚感、重力からの開放、そんなものは正体不明の奇跡でなくてはならないのだ。
どこかからやってきた奇跡、それが大事なのだ。薬の力では無い。そう、月が与えたものでなくてはならない。
彼女は一つの案山子を、診療所の屋根の上に立てた。ドン・プレシンデア・サンティアーノという名前をつけた。兎には金の鯱のような飾り物だとと説明して済ませた。
夜、そこに兎が上がると、案山子から《ロマンティック―P》が放出される。兎達は重力から解き放たれたような浮揚感に、うっとりとするのだ。彼らは月を見ると、その重力から解き放たれることを理解する。
月を見ること→化学物質が齎す幸福感(兎達は、《ロマンティック―P》によってそれが齎されていることを知らない。これが大事なのだ)。
彼女は暫く、随伴の強化を続けた。兎達は幸福感を味わうために、月を見る。まるで崇めるようになるのだ。
強化の後、ドン・プレシンデア・サンティアーノから放出される薬は徐々に減らされていった。彼等は決して、月を見るのを止めようとしなかった。彼等は信じていた。月が不思議な力を与えてくれると信じていたのだ。薬の放出を完全に止めてしまっても、彼等は月を愛した。用済みになったドン・プレシンデア・サンティアーノは、捨てられてしまった。
こうして永遠亭は平和になった。百年、二百年、そして千年と栄華は続いた。月を見て発狂するものも、自殺者もいなくなった。みんな幸福であった。彼等の世界に重力は存在しない。何者にも絆されること無い、自由と尊厳の世界。永遠の理想郷。
最後。
貴方は里を散歩中だ。森の中でドン・プレシンデア・サンティアーノを見つける。貴方はそれを拾って自分の芒畑に持ち帰る。
私はだいたいを知っている。この手記は私が記したもの。じゃあ私は何だ。神?天使?政治家?作家?何でもいい。何でもいいのよ、蓮子。
我々に襲い掛かったあの忌まわしき《災害》は、この国の経済、政治、あらゆる国家の機能を破綻に追い込んだ。先進国は出来る限りの支援をするとともに、試験的に監視制度の導入を進めた。それは先進各国で深刻な問題となりつつある凶悪犯罪、及び無差別テロを未然に防ぐべく、一時的かつ限定的に試験運用されることとなった。その試験段階からプロジェクトに関わっている米国の《レーガ社/Alice in Wonderland》は、かなり古い歴史を持つ科学技術企業だ。第二次世界大戦後、《レーガ社》は軍需産業において、重戦闘車両や戦闘機、はては歩兵の暗視装置などに使われるカメラのレンズやカメラ本体という、極めて特殊で狭隘な市場ではあるが、世界有数のシェアを有していた。性能や耐久性では文句なしの一級品であり、世界各国の軍事の目を、《レーガ社》は造ってきた。またその株式は米国のグリーンシート・フェニックス銘柄に認定されており、事実上、会社の経営は国が管理していると言っても過言ではない。災前、この国は周辺諸国の年次改革要望書で、治安体制の確立に基づく国内監視のインフラ整備を通達。本来旧東京に実装されるはずが、《災害》を得て一旦は破綻した。その後復興とともに遷都した京都への配備が決まり、現在に至る。
しかし従容とではあるが、監視システムが赫赫たる効果を挙げると、首都京都の外にも実装されるようになり始め、やがて全国道州地区の主要都市に配備されるようになる。本来、軍事の目的で開発された《影踏/Сталкер》という監視カメラは、こうして我々の生活の一部となって、どこかを漂っている。最近の世論調査では、監視カメラの存在が気に障るか?との質問に対し、約八十パーセントが『まったく気にならない』、との回答を示した。またNHKのアンケートでも『興味がない』、『言われるまで忘れていた』などといった回答が目立った。プライヴァシーの観点からも、治安維持のためにはある程度の犠牲は必要、と話す社会科学者もいる。
この状況を見、露西亜のジャーナリスト、アンドレイ・ミハロイフカはこう自書の中で著した。
人間は、自らを恐れる余り、自ら自身の足に枷を繋いでしまったようなのである……。
※NHK放送『時事問題209X。監視システムの歴史』から一部抜粋
《Log in》
宇佐見蓮子が、某所のマンションの一室に篭り出して、早三ヶ月が過ぎようとしていた。ディオゲネスの樽。だが実際そこに溢れているものは、宇佐美蓮子に言わせればあらゆるガラクタ、途方も無いアイディア、そして意味不明のノイズ。笛吹けど踊らぬ出鱈目。その部屋には、黴の匂いと、食べ物の饐えた匂い、そして葉巻の臭気が立ち込めていた。
彼女はステンレス製の机に両足を乗っけて、Toscanoを燻らせていた。マエリベリー・ハーンが残していったものの中で、数少ない実用的なものであった。よく、一緒にベッドの中で寝ながら一本の葉巻を吸い合いっこしたものだった。二十数年という短い人生の中で味わった、幸福だった。
蓮子とマエリベリー・ハーンが出会ったのは、二年前のことだ。蓮子は大学の入学式で、その少女を見た。その大学は京都にある。体育館にパリッと糊の利いているスーツを着けた新入生たちが集まっていた。ずいぶん青臭くて不安そうにしている連中にまじって,
宇佐見蓮子はその彼女を見つけたのだった。
あ、外国人だ。というのが一番初めの正直な感想だった。金髪のふわふわの女の子だ。自分と同じような大学一年生が、ちらちらとそちらを見ている。特に男子学生のべとべとするような視線に晒されていた。何故か蓮子はムカついて、目をそらした。男は犬だ。どいつもこいつも、発情期の犬だ。
しかし、外国人の女も子犬みたいだった。慣れない土地で寂しそうにぶるぶる震えている。そして、蓮子は思った。何だ、可愛いじゃん。
その後、近くの安っぽい居酒屋で、学科のコンパがあった。先輩面した、まぁ先輩なんだけど、その先輩の薦める酒を適当に飲みながら、メリーの方を見ていた。彼女と蓮子が所属する学科合同の歓迎会だった。入学式で見た、軽そうな男共に取り囲まれて、顔を紅潮させている。
馬鹿騒ぎのコンパが終わった後、二次会を断って蓮子が帰ろうとした時だった。駅に向かおうとするとさっきの外国人がいた。タクシーに乗ろうとしていた。
「家、遠いの?」
「えぇと」
住所を教えてもらうと以外にも、蓮子が借りている下宿の近くであった。
「そこならタクシーなんて乗らなくたって、電車で帰れるわ」
「あぁ、そうなの。私、ぜんぜん判らないの」
かなり流暢な日本語だった。
「すぐ慣れるさ」
タクシーの運ちゃんに詫び、彼女を駅に案内した。電車に乗ると、隣ですうすうと彼女は眠ってしまった。プラットホームに電車が入る。メリーを起こした。寝ぼけ眼をこすり、彼女はおきた。あまりに酔っ払っていて、ふらふらしていたから、駅前に止めてあったチャリンコの荷台にメリーを乗っけて、漕ぎ出した。ぎゅっと、蓮子の腰にメリーがしがみ付いた。
いやな予感がしたが、やはり彼女の部屋は高級なマンションであった。住所を聞いて何となく予想は付いた。彼女をおろして、蓮子は帰った。これが、出会いだった。
それから基礎化学の授業が終わり、さて帰ろうか、それともジムに行って運動しようかなと思いながら机を立ち上がると肩をぽんとたたかれた。先日の女の子だった。
「昨日はありがと」
「あの後は大丈夫だった。二日酔いは?」
「うん、平気よ」
きらきら光る目をこちらに向けてそんなことを言うのだった。蓮子は少し躊躇えていた。喉が詰まるような感覚。二人の間に、沈黙が落ちた。吸い込まれてしまいそうな程のコバルト・ブルーの双眸に、言葉を失っている自分がいる。
「ラウンジでコーヒーでも飲まない?」
語彙の少なさとか、たかが同性の美人にどきまぎしてしまう性根の細さとか、その美人にどもってしまう自分にうんざりしたものだ。もっと気軽にお茶に誘えないものか。これじゃナンパだ。
彼女は目を瞬かせて言った。少し、驚いているみたいだった。
「いいわよ。喜んで」
にっこりと微笑んだ。それから彼女と話したことを、全部蓮子は覚えている。人間なんてどうでもいい記憶ほど覚えているというけれど、実際そんなものなのだろう。彼女の故郷の話に始ま――アルスターの荒涼、タブリンの人々――そして本の話になった。
「嬉しいわ」
「何が?」
「学科の人ってこんな話をしてもつまらなそうなんだもの。その点、貴方はしっかり聞いてくれるし。何でみんな、本を読まないのかしら。それに」
彼女は続けた。
「貴方はちゃんとした日本語が話せるのね」
こうして毎週火曜日は、基礎化学が終わった後は本と映画と、音楽の話となった。特に日本の小説に対して、異常なほど愛情を注いでいることが判った。夏目漱石は日本語と英語の翻訳、両方を読んだらしい。そして小一時間話し飽きると二人は学校のジムに行き、体を動かすようになった。蓮子がサンドバック相手に格闘しているのを、横でストレッチをしながらメリーが見ている。髪を結ってポニーテールにしていた。
「すごいわね」
「何が」
汗をタオルで拭きながら蓮子が質した。
「どうやったらそんな硬そうなもの、思いっきりぶん殴れるのかしら?コツがあるの?」
「メリー、サンドバックも人間も、ぶん殴るにはまず腕を使っちゃ駄目だ。腰と足でぶん殴るの」
「ふーん」
彼女は、新品のアディダスのジャージを着ていた。かなり高そうなそれを脱ぎ、Tシャツだけになって、サンドバックの前に立った。そしてグローブも着けていないすべすべの拳を、強かにサンドバックに打ち付けた。サンドバックは微動だにしない。
「すごく痛いわ」
「あとしっかり練習しなきゃ」
メリーに寄ってくる男の数は、二次関数の放物線が左から右へ落ちていくように減っていった。それでも何人かは付きまとっていたし、そういった男友達を従えて何か話している姿を、蓮子は何度かキャンパスの中で見たことがあった。彼女のボーイフレンドは同級生は無論、年上の院生にもいた。何人かと付き合ったという話もあった。そして、男といる時のメリーの傍には、決して蓮子は近寄ろうとしなかった。自分は決してその輪に入れないと思っていた。その時ほど、自分が惨めな人間であるような気がしてならなかった。
自分は馬鹿なのかもしれない。明らかに、マエリベリー・ハーンの周りに群がっている連中に、嫉妬している。だが嫉妬というよりは、本来女の自分が持つことのない、奇妙な違和感を伴って起こる言いようの無い感情だった。
彼女の持つ雰囲気に魅せられていることは、知っている。自分の中に、どろりとした化学変化が起こり、彼女を見る眼が変わっているような気がする。自覚しているが、認めるのが恐ろしい。
いつものように蓮子はサンドバックを叩いていると、メリーが旅行に行かないか、と言った。
「どこに?」
「ヒロシゲに乗って、東京に行きましょう」
そういえば、そろそろ夏休みだった。蓮子の実家が東京で、お盆に帰る予定であったのをメリーに話していたが、彼女はちゃんと覚えていた。
お盆の混雑時にも関わらず、謎の方法で彼女は難なく二枚のチケットを手に入れてしまった。京都駅で新幹線に乗り込んだ。メリーの後について車両に向かうとコンパートメントが並ぶグリーン車だった。個室の一つに二人は入った。
「東京ってどんなところ?」
「田んぼと畑しかないよ」
荷物をおいて一息ついていると、菫色のスカーフを巻いた女性クルーがコーヒーとお菓子を運んできた。いい旅になりそうだと蓮子は思った。
「日本の田んぼは面白いわ」
「はぁ?」
「まだ写真でしか見たことがないけど、何だが長閑で、きれいな水が張ってあって、妖怪が歩いてそうじゃない」
「じじとばばと、案山子しかないよ。あとメダカがいる」
「蓮子は妖怪見たこと無い?」
「無いなぁ」
「河童も?」
「天狗もいない」
「神様は?」
「あんたキリスト見たことあるのかよ」
「うーん」
「でも、メリーなら見えるかもね。あんたの目なら妖怪でも神様でも」
「そうだといいんだけど」
コーヒーを啜り、メリーが外の景色を眺めながら、指先で窓ガラスをなぞっている。視点の定まらないような眼の色を、外に向けながら口を開いた。
「蓮子、今日は随分機嫌がいいのね」
「そうかな?」
「うん、楽しそう」
「うん、まぁ、楽しいよ」
「いつもは、何だかむすっとしているから。一人でいることも多いし」
「そうかな」
「そうよ」
「だっていつもあんたといるじゃない」
「私といないときの話をしているの」
東京駅に到着した。電車を乗り継いで蓮子の実家についた。ちょうど昼を回ったころだった。東京の郊外では、昔から稲作が営まれている。蓮子の祖母も広い田んぼもっている。あぜ道を歩き、二人は瓦葺の大きな家についた。蓮子が十八歳まで育った家だった。
荷物を整理すると、二人で周辺を見て回った。廃校、田んぼ、神社、林。蓮子にとってありふれたものだが、隣の少女は浮き浮きしている。だが、流石に疲れてしまったので、神社の境内で休むことにした。缶入りソーダを二つ買って、座っているメリーに一つ渡した。
「ありがと」
「暑いね」
「うん」
蓮子はソーダを飲みながら、横目でメリーを見ていた。白いワンピースを着て、麦藁帽子を被っている。ワンピースは彼女の体の線をなぞって、曲線を描いていた。どんな体をしているのだろうか。
「妖怪は見えた?」
「見えないなぁ」
「私も見えない」
「やっぱり今日の蓮子、いつもと違うね」
「いつもと同じだよ」
「そう?いつもの宇佐見蓮子だよ」
「ところが違うんだなぁ」
「学校じゃないから、かな?」
「そうね」
「あんたはどうなの?私と二人っきりで」
「楽しいし、嬉しい」
「男といるときよりも?」
彼女の顔色がさっと、波が引いていくように曇ってしまった。それは心から興ざめしたといった感じだった。
「どういう意味?」
「いや、別に」
「私が誰といようかなんて、勝手でしょ」
今度は蓮子がむっとする番であった。
「何でそういうこと言うの?」
「あなたに色々言われる筋合いなんてないわ」
二人の間に沈黙が落ちた。蝉が喧しく鳴き、陽炎がコンクリートで舗装された道路の上で踊っている。
「帰りましょ」
それから二人は家まで数マイルを何も喋らずに只管歩いた。隣でメリーが何か歌を口ずさんでいる。沈黙に絶えられない時、彼女は口笛を吹いたりするのだ。
両手を広げて 風にご挨拶。
悲しみ忘れたら 貴方も飛べるよ。
それからの一週間、二人はぎこちないまますごした。蓮子は苛立ちながら、一人で散歩に出たり、本を読んだりした。一週間が経ち、とうとうメリーは出て行ってしまった。旅行に行くのだと言い残して、東京を離れたようだった。
そして蓮子も故郷を後にして、京都にとんぼ返りしてしまった。灼熱の京都でだらだらしながら、自分が全て悪いのだと言い聞かせ、謝罪の言葉を考えていた。気が付くと、最近始めた観光案内のアルバイトに出勤する時間になっていた。午後のニュース番組は慌しかった。
今日未明、日本帝国航空第175236便『スワローテイル.SY』が墜落しました。これは東京~京都間を飛ぶ次世代航空機ですが、なんらかのトラブルを起こした模様です。海上には次々と残骸が……。次は時事討論、監視システム《影踏/Сталкер》の是非について……。
学校が始まってもメリーは姿を現さなかった。尤も、蓮子がスワローテイルの乗客名簿の中から、マエリベリー・ハーンの名を見つけたのは、ずっと前だったけれども。
『スワローテイル.SY』の墜落から一週間が過ぎた。宇佐見蓮子は下宿の風呂に入りながら、じっと時間が過ぎるのを待っていた。
どうしてあんな諍いを起こしてしまったのか。悔恨が付きまとっていた。
風呂から上がり、携帯電話を手に取る。メリーの携帯には一向に繋がらない。蓮子は連絡を聞いたとき、すぐさま事故現場に向かった。大阪湾の港には、すでに多くの遺体が揚がってた。
『スワローテイル.SY』は天候不良を理由に京都空港像空を旋回していた。突如連絡を絶ち、そのまま大阪湾に墜落したのだった。
そして何故か、現場の海には航空機の破片や遺体にまじり、たくさんの日傘が大阪湾に浮いていたらしい。らしいというのはネットや口こみ、噂になっていつの間にか蓮子の元に届いたからだ。テレビの報道や生中継に映っていたと話すものもいたし、動画配信サイト『your tube』には、大阪沖の地平線を彩る何かを移した映像データが公開されていた。しかし何者かに投稿されたそのデータは、数日後、削除されてしまった。
尤も、そういったデマゴーグに近い情報は、宇佐見蓮子にとって虚無にしか過ぎなかった。マエリベリー・ハーンの消息は以前不明だし、遺体も揚がらない。乗客全員の安否は絶望的とされていた。
一ヶ月が過ぎた。大学の中においても、メリーの失踪は大変な話題になっていた。乗客の全員の遺体が見つかった訳でもないが、絶望的な空気で満ちていた。蓮子は蓮子で、まるで腑抜けのようになっていた。大学を休んだりして探し続けたが、手がかりは皆無であった。宇佐見蓮子は草臥れて、絶望していた。
でもマエリベリー・ハーンはマエリベリー・ハーンだった。いつも不思議な魅力に満ちていて、可愛くて、周りを振り回すようなところがあるのだった。ある日のこと、下宿の大家さんが蓮子を呼んだ。蓮子には聞こえていなかった。部屋で航空機事故の情報を集めていたのだ。彼女はこの事故にはいくつかの不自然な点を認めていた。まず一つ、大量に流れ着いた日傘の謎。そしてもう一つ、メリーの失踪だ。空港で蓮子は乗務員に話を聞いたが、本当に彼女が乗ったのか。そもそも航空機に乗ったとされるマエリベリー・ハーンは、蓮子が知るメリーなのか。ますます判らなくなっていた。
危機管理の崩壊した世界を象徴するような事件と、傘の漂流。何が二つを結び付けているのか。
「蓮子ちゃん、お客さんよ」
大家さんが襖を開けて入ってきた。大家さんの後ろにいたのは、メリーだった。
メリーは最後に会ったときと同じような格好をしていた。紫色のドレスを着ていた。そして大きなキャリーバックを曳いていた。大家さんはごゆっくりと言って行ってしまった。
「蓮子……」
彼女が言った。蓮子は、始めてあった日のように、メリーの双眸に見入っていた。
「お土産買って来たよ」
蓮子は彼女に抱きしめた。力いっぱい。涙を流しながら。ごめん、ごめん。メリーが嗤う。私もごめんね。飛行機も、傘も、どうでもよくなった。
蓮子は思う。どうしてあんなことになったのか。自分の生理なり、倫理なり、衝動的な部分が、一斉に蠢いて、爆発したような感じ。理解できない感情が、噴出したのだ。メリーはどうだったのか。多分、同じようなものだったのだろう。どちらが先に手を出したか、よく覚えていない。
小汚い散らかった部屋があって、夏も終わりかけた冷涼な気候、そして二人の女がいる。だから何なのだ。ただこれだけは言えるのだ。二人の間に横たわっていた眼に見えない、隠微な空気に、直裁なまでに飲み込まれしまった。
蓮子がメリーの体を抱き上げると、華奢な体つきにしてはずんぐりと重く、雌馬のように艶やかな背中を持っていた。押せば跳ね返る程、柔らかく弾力のある肌。臍の辺りから下に続く微妙な線に蓮子は眼を落とした。自分は明らかに欲情していた。どろどろとしたものに塗れ、二人はにやにや嗤った。
蓮子が眼を覚ます。隣で寝息を立てるメリーに眼を向ける。花瓶にさしてあるコスモスの花弁を全て引きちぎると、白魚のように青白いメリーの腹に、それを撒き散らした。眼を覚まさないように、そっと。でも、メリーは眼を覚ましてしまう。
「メリー」
「なぁに?」
「嫌いじゃない。会ったときから、ずっと」
「もっとはっきり言いなさいよ。臆病者」
宇佐見蓮子は目を覚ました。まだ幸せだった頃の、始まりの夢だった。目の前の灰皿に、葉巻の燃えカスが山のようになっていた。足を乗せている机の上には、脂で黄色くなったパソコンを中心に、膨大な資料、本、ノートが積んである。床も、そんな感じ。黴とカオスと、無駄な知識、そんなものの妄想の温床だった。
すべて、愛すべきマエリベリー・ハーンが残したものだった。彼女が集めてきた奇妙な物語の数々だった。
メリーは、何故こんなものを集めていたのだろうか。判らない。恰も、現実に侵食する虚構の侵略だった。それは歴史上のターニング・ポイントに現れる奇妙な現象であった。
メールの着信を知らせるアナウンスが聞こえた。蓮子はスリープ状態のパソコンを再び起動させた。未開封のメールを開く。送り主は、顔も名前も知らない人間だが、さる情報機関に身をおく人間だった。映像分析のプロフェッショナルだった。
マエリベリー・ハーンさまへ
ご依頼のあった件の映像の分析が終了いたしましたので、その結果をお伝えすべく、メールをお送りしました。まず映像自体には細工、編集、あるいはコンピューターグラフィックによる加工は一切施されておりませんでした。
またご指摘のあったとおり、5:35のタイミングで貿易センタービルからは確かに何らかの飛行物体が飛び立っております。これも細工ではありません。
詳しくは映像ファイルを確認ください。また何かありましたらご連絡を。またのご利用をお待ちしています。
マエリベリー・ハーンことメリーが失踪して、半年が過ぎたのだ。全く手がかりが無かった。警察も全く手がかりをつかめなかった。大学三年生、夏のことだった。
蓮子は添付されたファイルを開いた。
デスクトップの向こう側、あの大きなビルディングが崩れていく、まさにあの瞬間だった。ビルを見上げるようにして、カメラは破壊の一部始終を映し出していた。ビルから火柱が真横に上がった。そして九月11日の蒼穹を塗りつぶしていく鉛色の粉塵。まるで大きな傘をゆっくりと開いたかのようだった。地上に雪崩れ込む塵芥と瓦礫は、従容とした濁流をなしていた。
それはフランスの旅行者が取ったものだった。ハンディカムは揺れていた。それでもその旅行者は決してカメラを離さなかったようだ。蓮子は5:35に時間を合わせた。
よく目を凝らして見定めるように画面を見た。ビルが崩れ落ちる瞬間、確かに屋上からゴマ粒のようなものがまっすぐに飛び立っている。さらに映像は、その飛行物体をアップにして映し出した。これは情報機関の優れた技術に基づく、編集だった。
ズームアップされたゴマ粒は、影絵のように黒く、輪郭は判然としないが、確かに人間の形をしていた。
これもあんたのコレクションな訳ね、メリーちゃん。
本日三本目の葉巻を手にした。両端をちょん切った後、火をつけた。
宇佐見蓮子は、メリーの手がかりを追っていた。このカオスの温床で追っていたのだ。因みにこの部屋は元々メリーのものだったが、今は蓮子が使っている。彼女が失踪し数日が経ち、蓮子の下宿のポストに権利書、合鍵などが入っていたのだ。散らかっているのは自分が掃除できないから。悪いか。
先ほどまで読んでいたのは、メリーのコレクションの一つだった。これにはちょっと小説みたいな感じがあった。冒頭のメモには、この狂言語りは天狗だと書いてある。趣味は新聞作りだそうだ。気を衒ったきらいがあるが、中々面白そうな設定だ。しかしたぶんにメリーの主観や考えが、この天狗の一人称に入り込んでいる。架空の世界にジョイスの小説などあるわけが無い。デズニィランド?ふざけている。
しかし、一体これは何なのだろう。
いったいどこの世界なんだろう。メリーに見えて、自分に見えなかった世界なのだろうか。
そのノートの題名は《UNDERGROUND》とあった。
夜になった。約束があったので、蓮子は近くの公園に向かう。夜の公園は底冷えしていた。そこでベンチに座っている一人の女性に出会った。岡崎教授だった。
「相変わらずかい?」
「相変わらずです」
「そう。まぁ早く学校に戻っておいで」
そう言うと、暖かい缶コーヒーをくれた。しかし教授は何歳なのだろう。若く見えるときもあるし、年老いて見えることもある。この人は大変な天才だけれども、学会から異端扱いされていると聞いたことがあった。何の研究をしているかは、わからない。メリーと二人でよく、この人が語る不可思議な実験の挿話を聞いたものだった。
「友達のためって、何も休学することは無いんだ……」
「まぁ、そうですね」
「どうする?近くの店にでも入らない?寒いし」
「すぐ帰って調査しようと思いますから、遠慮します」
そうかね、と言って鞄からメモリースティックを取り出した。
「全部、マエリベリーさんの論文だ」
「どうもありがとうございます」
唯一顔の聞く岡崎教授に頼み、学校中からメリーの論文を集めてもらったのだ。少しでもいいから彼女の縁を得るための苦肉の策だった。
「少しばかし拝見させていただきましたけど、面白いものを書くね、彼女」
「えぇ、結構話してみてもへんな子ですよ」
「ふふ。まぁ中でもこの、記号論、モードから辿る日本的美的価値の発見なんて、中々面白いよ」
「後で読んで見ます」
「しかし、最近はこの辺も物騒だから気をつけなさいよ」
「えぇ」
「私の言っている意味が判る?」
「痴漢なんて殴ってやりますよ」
「そうじゃないよ」
教授は缶入りの紅茶を飲みながら言った。
「君たちには話したことはなかったけど、私は一度だけ、別の世界に言ったことがあるんだ」
「え?」
「そこは確かに日本なんだけど、厳密に言えば、日本じゃない。何といえばいいのか……」
「それは、村上春樹みたいな、つまり社会主義的なユートピアのことでしょうか」
「面白い文学論だね。確かにそれとは似ているけど、違うんだ。簡単に言えば、色んな物がごちゃ混ぜになった世界だった。私は、そこで死ぬ思いをしたのだ」
「化け物でもいたんですか」
「可愛い女の子がいた。私好みの」
「女の子?」
「見た目はね。でも奇妙な術を使うのだ。彼らは、それを遊戯としていたが、知らないものが巻き込まれたら死ぬかもしれない」
空の缶をゴミ箱に投げ入れた。
「私はね、この世が物理法則で成り立っているということに反対したいのだ。この世の全てが、ニュートン、エネルギー、熱、電気、そんな数字や数式に還元されうるという大いなる仮説に挑戦したいとずっと思っていた。神や妖怪、サイキック、または多くの不思議が単純な数字で表されることに我慢なら無いんだ」
その教授のモットーは昔、メリーと二人で聞いたことがある。
「私は、その、宮沢賢治でいうところの第四時幻想空間から帰還して、さっそく一幅の論文を書きあげた。それは位相世界を支配する、物理法則なるものを超越した、所謂魔法を証明しようとしたものだった。少女達が操る術のことだ。だけど無駄だったね。いくら実証データがあっても、出鱈目でしかないと撥ね付けられた」
「そして今は、皮肉にも物理の教師なんかしながら暮らしているわけ。だけどこっそり魔法の研究もしているの」
「知らなかったです」
「誰にも話していないからね。誰も信じてくれないし。それに私自身、ちょっぴり懐疑的になっていたんだ。でも最近、私はやっぱり魔法があると思っているんだよ。何故だか判る?」
「いえ……」
「うん、貴方なら判ると思う。現実の世界に、《何か》が入り込んでいる気がするの。しかもここ最近、そいつらの力が強くなっている気がするんだ。どうだろう?私が昔行った宮沢賢治みたいな世界の匂いが、この現実で漂い始めたような気がするんだ……」
蓮子は黙って聞いていた。
「そうそう!最近、面白い友人が出来たんだ。その人は探偵なんだけど、もの探しがうまい。ひょっとしたら君の探し物も、うまく見つけてくれるかもしれん。よかったら紹介してあげよう」
「もしかして」
彼女は続けた。
「その人も、その別世界の匂いがするのですか?」
「自分で確かめてみるといい。幻想世界の匂いは、自然の香りがするよ。落ち葉と、きれいな水と、きれいな空気、それから土の匂い。我々がとうの昔に失ってしまったものなんだ」
豚小屋のような部屋でワインを飲みながら、メリーの論文を読んでいたが、またうとうとしてしまう。
夢を見る。それはメリーの夢だった。遠くに行ってしまう夢であった。今度こそ、帰ってこないだろう。待って。お願い。
その夢を打ち破るチャイムの音。蓮子がむくりと立ち上がると既に午後11時だった。こんな時間に誰だろう。
「こんばんは」
「どなたですか?」
「こういうものです。岡崎教授に紹介されて来ましたよ」
その小さな女の子は、まるで童話から抜け出してきたかのような可愛らしい洋服に身を包んでいた。差し出した名刺には、十の洗礼名、そしてナズーリンという名前で結ばれていた。
「どうして」
蓮子は驚きを隠せない。
「どうして?」
「貴方はずいぶんお困りでしょう。私には判るのです」
「私が何に困っているか、貴方にわかるの?」
ナズーリンが言った。
「探し物は私の得意中の得意です。ただ……前に一度だけ失敗しましたけど、でも、同じ轍は踏みますまい。貴方の恋人、マエリベリー・ハーン氏を探して見せましょう」
その年、宇佐見蓮子は様々な憶測、噂、そして妄想というものをあの部屋で受信していた。ネットで、本で、世界を飛び交う電波で、そしてメリーの残した記録で。
例えば、この国のあちらこちらで、国籍不明の軍隊が居座っているというのだ。彼等は自衛隊でもないし、アメリカ軍でもない。まして某国のコマンドでもない。彼らはこの国のあちらこちらを占領しているという。まるで何かを隠すように。そしてそれを包むように自衛隊やアメリカ軍の舞台と戦車が展開しているという。
またこんな話もある。
たくさんの案山子が、京都の町中に立てられたと言うのだ。誰に?判らない。どこの町で?判らない。京都市内で起きた、残虐な通り魔事件の直後、流れた謎の情報。
別の噂は、A県の原子力発電所の周辺に住み着く奇妙な住民の物語の形をとっていた。貧困に喘ぐ人々は、何故かそこに寄り集まって一つの集落を作っていた。そこでの少女と奇形化した動物の物語。奇しくも環境破壊が進む昨今、奇形化する動物や人間、社会が大きくとり正される中の噂だった。
波のように押し寄せる不況が生み出した格差、猟奇事件、戦争、カルト教団のテロ。環境破壊。マクロな不幸。そしてそれらと表裏一体の何か。何だかよくわからないが、そういったものの背後に存在する何か。監視システムが捉えられない、何か。
そして蓮子は思った。たった今、自分はその何かが属する世界と邂逅したのだと。不安は無かった。確固たる裏づけは無かったが、きっとメリーはそっち側にいる。たぶん。
蓮子はぶるりと身震いした。そういえば、今は秋なのだ、と今頃のように実感しながら、ナズーリンをディオゲネスの樽改め、豚箱の中に入れてあげた。何しろ、彼女はあの巫山戯た書物のように、寒さでぶるぶる、三和土の上に震えていたからだ。
つづく
文学的、あまりにも文学的でここの住人たちには好かれないかもしれないけれど。
全体を貫く、ゆるい連帯感も良かったと思います。
それにしてもこの教授、カッコよくて素敵だなあ。
それを簡略化せずに使うんで味が薄まってるくせにクドい。
瓦割り10枚ぐらいいけるぜと意気込んで、実際は1枚も割れずに手首捻挫するような作品でした。
もしくは水に漬けられたまま放って、飽って置かれた紙巻煙草の匂いか
だが、その匂いが気になる
何故するのか、何故させるのか
次があるならば、吐気を催す雨降りの後の草の匂いを感じたいところだ
ご馳走さまでした
波長が合うのかなんなのか、あなたの文章は混乱することなく非常にするりと入り込んできます(ちょっと多目な誤脱部分を除いて)
不思議な…なんというのか、正しく日本のSF(散々考えたがかっこいい単語が浮かびませんでした)な感じがとてもいい
確かに不親切、独りよがり、他人に優しくないところをあげればきりがないかもしれませんが
それもまた味の一つかと思います
とにかく、変な前置きばかり長くなりましたが、つまり今回の作品も私には魅力的で面白かったということです
また続きをお待ちしております
読書の快楽を呼び起こさせてくれるテクストであります。
あと秘封ちゅっちゅ
テーマが絞られてないのが気持ち良く感じた。
珍しい感覚だ。
豚小屋で葉巻やってるのが非常に萌えた。
汚部屋キャラが好きだ。
マエリベリーでは?
自分はこの作風が好きになれませんでした。
しかし、読みにくい事には変わりなく、一々話が他に逸れてしまうのが、
物語のリズムを著しく乱している印象を受けます。良い意味でいうなら、それが
良い雰囲気を醸し出しているともいえますが、悪い意味でいうなら、物語の進行の
障壁となっているように思います。
また、日本語的に問題とも取れるような、推敲が足りないのではないか、
と思える箇所もちらほらと見えました。尤も、それが狙っている類のものであるならば、
この指摘は甚だ見当違いなものになってしまいますが。
上から目線で甚だ恐縮ですが、読みにくいと思われる、ともすれば欠点の目立つ
文章を最後まで読ませるだけの不思議な魅力が、この作品にはありました。
だからこそ、こうしてコメントを残しているのですから。これからどんな風に物語が
動いて行くのか楽しみです。先を見通せない展開の作りは素晴らしいと思いました。
外国文学の翻訳物を読んでる気分だった。
なんとも言えない可笑しみと、漂う不気味さがあって
読んでいてブラットベリィの初期の頃の短編を思い出した
続きのんびりと待ってます。
というのが最初の印象でしたが、だんだん慣れてきて、
むしろ独特の文章のリズムが癖になりそうです。
まあ、確かに読みにくいんですが、なぜか読むのが苦痛ではない。
「味わい深い」文章と言いたいです。
脱線も多いですが、脱線のさせ方が面白いので問題なし!
作中手記の著者(メリー?)は、どういう意図があって、
これほど「味わい深い」文章を書いたんでしょうか。
(蓮子のパートはかなりすっきりした文章なのに……)
その点は続きを読めば明らかになるんでしょうか。
続きが読みたいです。
そういうつもりではないのかもしれないけど私はそう読むしそれを楽しんでいる。
早く続きが読みたい。
だんだんと読み進めるにつれて話が見えてくるというところは、重箱とも言えるでしょうか。
なんとなくアメリカの片田舎のような空気を感じました。次段以降も楽しみなような、この謎の余韻が消えるのが惜しいような……
しかし、読むのに苦労した。
誤字、脱字、日本語のちょっとした乱れ、それらはまったく関係ない。そんなのは読者が考えれば分かる。
きつかったのは読む力を必要とする物語だったから。
きっとこの話は読むたび印象が変わる。何度でも一所懸命に読める。
縦書きに直して読んだせいもあるが、久々に読書をしたと思わせる作品だった。
内容はまずまず、読むのが楽しかった、続きに期待、ということでこの点数を。
東方二次創作の強みは世界観を使える事で、この作品は十二分に東方の薄暗い感覚を出す事が出来ていると思います。
読後の余韻に忘れかけましたがギャグも冴えていますし、文句なしの百点で。
けれど、そんなことが些事に思えるくらい、面白い。
本当に先が読めないし、既存のどんな東方SSにも無かったのでは、と思うくらいの「自由さ」がある。何ともない風呂敷を広げてみたら、家どころか街全体を覆いつくすほど大きい、得体の知れない何かが、途方も無い高揚感と期待と、端的に言えばワクワク感を伴って飛び出してくる、そんな感じ。
何にせよ、面白かったです。
でも面白いなあ。
>くいしんぼうの吹田さん
アシベかww
ワクワクしながらお話を読み進めました。
なにかとんでもないことをやっているということはひしひしと伝わってくるし、これに直面する人々が自発強制アリアリで事態に挑んでいく様相もなんもかんも好き過ぎる。わくわくする。
『言われてみればその通りなんだけど』なんて風に安易に読むことははばかられる。明らかに我々もまた侵蝕してくるよく解らん重力を無視するやつらに挑まれている、ように思う。落ちる月と来てアンダーグラウンドとは。さて。
悔しいけど100点じゃ足りない