朝靄が視界をうっすらと遮る早朝。
まだ太陽が半分しか顔を出していない頃。人里の近くの茂みで彼女はじっくりと時を待つ。茂みは人間で言う大人の腰ほどの高さで横幅も両手を広げたより短い。そんな比較的少ない体積の緑に隠れ、時折尻尾にすれる葉の感触を我慢する。くすぐったさで声を出してしまえば、気づかれてしまうかもしれないからだ。普段の彼女の性格からしてみれば、こうやってじっとしていることが奇跡のように思えるかもしれないが、それは当然というもの。
暗い茂みの中、爛々と光り輝く瞳は瞳孔が開き切っており、普段の愛らしさが嘘のよう。
その眼は、ただ一つの欲望を満たすために油断なく人里の中を見つめていた。
空腹を満たす。ただそれだけのために……
目標が通るはずの路地と彼女がいる茂みの距離は、少なく見積もっても五十歩ほどはある。しかもその路地へ到達するまでは民家の間を走らなければいけないのだ。当然人間に見つかる可能性は決して小さくない。現に朝食の素材を売り歩く商人はところどころで声を上げ、商売を始めていた。そんな商人に気づかれ目標と接触する前に大声を上げられれば、自警団が飛んできて、最悪退治されてしまうかもしれない。
それでも彼女には、狩りを無事に終える自信があった。
身体能力の高さは当然、その速度を生かして死角から回り込めばあっさりと目的は達成できるだろう。過去の狩りで手応えを覚えつつある彼女は、大きな耳をまっすぐ前に向け、わずかな物音すら聞き逃さないよう小刻みに動かし始めた。
そうだ、もうすぐ来る。
太陽があの山から完全に顔を出したとき。
彼女が狙う目標は現れる。
大きな桶を二つ。長い木の棒の両端に縄でくくりつけ、それを肩に担ぎながら威勢の良い声をあげる男。その明るい声色からして、桶が軽いと思う者もいるかもしれないが、彼女は知っている。あの桶は非常に重く、それが彼の機動性を殺しているということを。
しばらくその様子を見守っていると男が一件の民家の前で桶を下ろし、中から出てきた女性と楽しそうに会話を始める。その無防備な背中を見ているとついつい飛び掛りたくなるが……
ここで焦ってはいけない。
何せ今は目撃者となりえる女性がいる。
狩を今後この里の中でやらないのならその程度のことにこだわる事はないが……
人里は彼女の数少ない餌場。
下手に人間に警戒心を持たれては、今後の活動にも影響するだろう。
だから彼女は息を殺し、背を丸くして時を待つ。
目の前で女性が一礼し、家の中へ入っていくときを。
男が女性から受け取った金銭を袋にしまい込み、棒を肩に担ぐ瞬間を。
身動きが自由に取れなくなる、その一瞬を狙い。
研ぎ澄ませた神経へ命令を下す。
さあ、狩の時間だ、と。
体を丸め、顔が地面につくんじゃないかと思うほど姿勢を低くしたかと思うと。
ざっ
わずかな葉のゆれる音を残し、その身を疾風とする。
音に気づいて、棒を担ぐ人間とは別の誰かが茂みを見つめるが、すでに彼女の姿はその人間のはるか後ろ。
ぐらつきながら別の家へ向かって一歩踏み出そうとする男へと迫っていた。
彼の背中をはっきりと捉えた彼女は、狩の成功を確信し……
頬を緩め。
ただ、静かに爪を伸ばす。
風の抵抗をほとんど感じさせない細い刃を空中で走らせ……
無言のまま、無慈悲にそれを振り下ろす。
すぅ……
誰か、その音に気づいたものはいただろうか。
まるで豆腐に箸を刺したときのように、その爪が獲物へと突き刺さる。
何の抵抗も感じさせず、悲鳴すら上げさせない。
何せ、獲物はすでに命を失っており、音を出せるはずがなかったのだから……
そして、彼女が満足そうにその獲物を抱え地面を蹴った後。
やっと異変に気づいた誰かが、声を上げる。
それでももう遅い。
犯人はもうすでに、人里から消え去っており……
悲鳴だけがその、人気のない通りを支配する。
「ひぃ……ふぅ……みぃ……ああ、やっぱり三匹足りない!!
あ、あの! 泥棒ネコめええええええええええええええええ!!!!」
そう、『桶の中の川魚を奪われた人間』の悲痛な叫び声だけが……
今日の朝の成果、川魚三匹。
土の上に置いたまだ新鮮そうなそれを見つめて瞳を潤ませ、二本の尻尾を楽しげに振っていた彼女は何かを思い出したように周囲を警戒しつつ身を低くする。
「……誰も、いないよね?」
また野良猫に輝かしい成果を奪われては堪らない。
耳と鼻を小刻みに動かし、日が当たらない場所に何かいないかを探り……
自分を安心させるようにつぶやいた。彼女の周囲には動物の気配は無く、ただ薄暗い闇だけが広がっている。何せここは忘れ去られた山小屋の軒下。人里から少し離れた、誰も住んでいない場所。やってくるものがいたとしたら、自分の縄張りを主張しにくる野生の動物や妖怪くらいのもの。しかも秋真っ盛りの今、気温が低い時間帯なら変温動物の大型ヘビやトカゲは活動できないので、視界に入ったところで何の問題もない。
つまり、ここはかぶり付くのが吉というもの。
「はむっ!」
バリバリっと、小気味良い音をさせながら、その小さな妖怪は地面に置いた川魚にかじりつき幸せそうな笑みを浮かべる。何せこれは三日ぶりの食事。通常の生き物とは違い、激しい活動さえしなければある程度の空腹は凌げる。
それでも、ある程度、だけ。
少なくとも3日に一回は何かを胃に入れないと、動けなくなってしまうだろう。その三日目が今日だったので、久しぶりにありつけた魚の味すら楽しもうともせず、あっというまに三匹を平らげてしまう。
骨まできれいにしゃぶり尽くし、余韻に浸る彼女。
そんな緩んでいた顔が、何故か段々と暗くなっていき、さっきまで元気に揺らされていた尻尾も力なく土の上に置かれていた。
「……なんで、こうなっちゃったんだろう」
少し前は、獲物を選り好みする必要などなかった。
栄養価の高い獲物がとり放題で、それさえ食べれば10日程度は平気で活動できる。そんな魅力的な獲物である『人間』。それが、少し前からほとんど取れなくなってしまった。昔から多少縛りはあったものの、少しの量なら口に入れることができたのに……
ある事件が終わってからは、まったくと言っていいほどに。
それは幻想郷に新しい妖怪が入ってきたことから始まる。どこにあるかわからない外の世界というところから、妖怪たちが移り住んでいるのだと。それでもその流れは穏やかなもので、数年に一度妖怪が境界を越えてやってくる程度だったらしい。
彼女は、その詳しい原理はよく知らない。
それでも、それがもたらした結果だけは知っている。
新しい世界へと移転してきた妖怪の中に、世界の決まりごとを守ろうとせず人里を襲うものたちがあらわたのである。しかも年を追うごとに幻想郷に呼び込まれる妖怪も増え、それに比例するようにして人里の被害も増え始めたという。そのせいで人里の人間の妖怪に対する恐怖心が煽られ、人里の中では妖怪をすべて滅ぼすという意見すら出たらしい。
だが、その一歩を踏みとどめさせたのは紫。
人里を餌場としか思っていないような新参者の妖怪たちに対し、実力を持ってわからせたのである。人里の中、もしくはその近辺で人間を襲ってはいけない、と。その脅しにも似た紫のお願いによって、混乱状態にあった人里もいつもの活気を取り戻し、平凡な日常へと戻っていったという。
ただ、この事件をきっかけに……
ときどき、こっそり人里から人間を攫って食料としていた妖怪たちの行為も全面的に禁止され……
食料を積極的に必要とする力のない妖怪、特に肉体に比重を置く妖獣は、人間以外の食料で飢えをしのぐしかなかった。
「……寒いなぁ、今日は」
彼女がそう感じるのは、山小屋の軒下で日が当たらないからだけではない。栄養補給が不十分であり、妖力がうまく全身を回らないから。
そして、今でこの状況なら……
「もうすぐ、冬……」
食料がぐっと少なくなる、凍える季節。
人里の人間を絶対襲ってはいけなくなってからの、初めての季節。冬眠しない野生の動物たちを多く狩れればいいが、もし……
もしも……空腹で自由に体が動かず、一匹も捉えられなければ……
「……ぃゃだょぅ……前の暮らしがいいょぅ……」
その小さな妖怪は、誰にも相談できず。
自分の体をぎゅっと抱きしめ、震えを止めようとする。
それでも、一度恐怖を頭に浮かべた思考はどんどん悪い方向へと加速していき、少女の頬を静かに濡らした。
そんな涙に誘われるように……
ポツリ……ポツリ……
静かに、雨が降り始めていた。
◆◆◆
そう、その日は雨が降っていた。
もうすぐ冬を迎える幻想郷の中で、雨が土を削り取ってしまうんじゃないかと言うほどの大雨が。だから当然外出する者は限られるので……
「お賽銭箱は、今日も空のままってところね」
コタツに入ったままそうつぶやき、ミカンの皮を剥いていた手を止めて天井を仰ぐ。代わり映えのしない天井が目に入ってきて、余計に気が重くなってしまった。
雨の日だから、自然と気が重くなるわけではない。
理由があるとすれば……
「霊夢、賽銭もないのはわかるけど、お茶がないわ」
「自分で煎れて」
「嫌よ、だって外の空気が私を凍えさせるのだもの。
それに霊夢、客人は敬うものですわ」
この無遠慮な客人がいきなり現れたことだろうか。
霊夢と同じように深々とコタツに入り込み、上半身だけ起こして机の上の急須を縦に振る厄介な人物。
その女性の顔を目を細めながら見つめ、霊夢は机の上に顎を置いてふぅっとため息をついた。その霊夢の様子とは対照的に、コタツで温まった隙間妖怪、八雲 紫は対照的くすくすっと小さく笑みを浮かべる。
「急にやってきて、お茶とお菓子だけを奪っていくヤツは私の中で客と分類されないのよ。
お客さん扱いしてほしかったら、仕事の依頼を持ってくるとか、賽銭入れるとか。そういう建設的な行動をとってくれないと」
「建設的な行動を目標にする神社というのも新しいわね」
まるで自分の家のようにくつろいでいるため、いくら霊夢が帰れと言っても満足するまで帰らず、逆に手伝って欲しい時はまっ先にいなくなるという本当に困った性格をしているのだから……
しかも今日に限って言えば、霊夢から見てコタツの左側。何もおいてない畳のところで、実体化した二つの塊が楽しそうに体を揺らしている。
「橙、あまりそうやって動いてはいけないよ。
毛繕いしにくいじゃないか」
「えへへ、ごめんなさい」
九尾の式、藍の膝の上に座り、足を伸ばしてパタパタ上下させているのは、彼女の式の橙。緑の帽子とがトレードマークの猫の式である。帽子がの横に自己主張するように生えた耳は、藍が指を動かすたびに小さく揺れ、藍が指を動かすたび幸せそうな吐息を漏らす。見るからに可愛らしい女の子なのだが、これでも種族としては猫の親分。猫又という化け猫の部類に入る。
本人も自分は猫の代表であるべきだと思っているのだが……
「そうやって落ち着きがないから、いざというときに相手を惹きつける行動ができない。
いつまでたっても猫たちに馬鹿にされてしまうよ」
「うー、藍様。その言い方は卑怯です……」
藍の言うとおり、妖獣としての威厳が欠如しているため、どうしても猫たちを従えることができないのだ。年齢を重ねれば自然と妖力が高まり、威厳というものも備わっていくとは思う藍だったが、まだ遊びたい盛りの橙にはそれが難しいようで、家にいても隙があればすぐ外へ遊びに行ってしまう。
ただ、藍も藍で……
自分の式をついつい可愛がり、甘やかしてしまうのだが……
いまこうやって、橙を膝の上において毛繕いをし始めたのも、藍が希望したものなのだから。そんな橙との幸せな時間を過ごしていると、主である紫が空の急須を持ち上げ。
「藍、これお願い」
隙間を利用し、藍が座るすぐ横にそれを運ぶ。
紫の境界を扱う能力は、十分妖力さえ蓄えられる時間があれば世界の根底を覆すような規模の異変すら起こすことが可能なわけだが、最近異変が落ち着いてきてからは日常生活中の体を動かすのが面倒なときに活躍している。
「また式に頼むんだから、少しは自分で動いたらどう?
いい加減動かないと太るわよ?」
「そうですよ、紫様。巫女の言うとおり少しは体を動かす努力をしないと。
そうやって隙間を使っていては少しずつ妖力も使いますし」
「いいのよ、どうせ冬眠で痩せるんだから。
それに私の力がこの程度で枯渇するわけがないでしょう?
いざとなったら結界少し弱めるから」
「いや、そこは頑張りなさいよ」
「いいんだも~ん。
だって、私のかわいい式神がお茶を入れてくれないんですもの」
コタツの上に頭を預け、頬をぴったり机にくっつけている状態。
そんな子供じみた姿を見ると、ちょっとだけ年齢を考えてほしいと思う藍だが、式が命令を守らず主人に寂しい思いをさせたのは事実。珍しく拗ねているようにも見える後姿を眺めながら、急須を手に取り霊夢に一礼してから台所へと向かう。
そんな気配りのできる式神を横目で追ってから、机の上でコタツの暖かさを楽しむ駄目っぽい主人をじっと見つめる。紫もその視線気づき少しだけ顔を上げるが、やる気の感じさせない細められた瞳は今にも夢の世界へ旅立ってしまいそう。
そんな対照的な物体を見比べた霊夢は、まだ湯飲みに残っていたお茶を飲み干しため息をつきながら両手で頬杖をついた。
「普通飼ってる動物って主人に似てくるとか言うけど、良かったわね。似なくて」
「あら失礼ね。どのあたりが似てないっていうのかしら」
「じゃあ、あなたから似ているところを上げてみなさいよ。納得できたら拍手してあげる」
「ふふふ、簡単よ。美しさと、頭の良さ。この二つで十分すぎますわ♪」
「できれば、その二つ以外で当てはまってほしかったんだけど……
はい、ぱちぱちぱち」
やる気のない拍手をしつつ、欠伸をする。
紫も紫なら、霊夢も霊夢。
巫女の仕事がなければ、のん気に一日を過ごすのだから何も変わらない。特に雨の日などは妖怪も濡れるのを嫌がり、事件なんて起きないのが普通なのだから。もし長雨でイライラしているヤツがいれば話は別だろう。しかし女心と秋の空と謳われるくらい天気が目まぐるしく変わるこの季節にそれはありえない。どちらかというと太陽が顔を出した秋晴れの日、調子にのった妖怪を懲らしめることが多いのだから。
「まあ、それ以外で似てるところと言えば、妖獣好きなところ?」
「……何故、私がそういった趣向の持ち主になるというの?
まさか一緒に暮らしている式が妖獣しかいないから、とか?」
「まあ、単純にそう思っただけ」
「違うわよ、橙は私が拾ってきたのではないわ。
あれは藍が勝手に、ねぇ、橙? ……橙?」
藍がお茶を入れにいってからしばらく、畳の上でぺたんっと腰を下ろし天井を眺めていたはずの橙。その姿がいつのまにか消えている。霊夢もその紫の声に引っ張られるようにして部屋の隅々を見渡し……
橙が部屋の隅でじっと、丸くなっているのを見つけた。
しかも二人に背を向けて、角をじっと見つめているような体勢だった。
「橙? そんなところで何してるのかしら? コタツに入るなら今のうちよ」
「だから私のコタツだって……」
霊夢に軽く非難を浴びながらも、橙の様子を見つめる紫。
すると、橙の右肩が一瞬すばやく動き、その直後にダンッと畳に何かがぶつかる音がした。まさか畳で爪磨ぎでもしているのかと、不安になった霊夢がそっちへ顔を向けると、ちょうど半身で振り返る橙と目が合った。
「あ、霊夢さん。お茶請けみつけました!」
嬉しそうな微笑。
しかし霊夢は、その姿を見た瞬間。
ビクリっと体を震わせて、反対側の紫を盾にするようにして身を隠してしまう。橙はなぜ霊夢がそんなに警戒しているのかわからず、右手にソレを持ったまま紫へと近づいていった。
すると余計に霊夢は困惑するわけで……
「ちょ、ちょっと! ちょっと~~!! 紫ぃ!
なんなのよ、あなたの式どんな教育してるのよ!」
「……あら? せっかくあの子が捕まえたお茶請けなのに?」
「人間はアレをお菓子感覚で食べないのよ!
いいから捨てなさいその『ネズミ』」
「ぇぇぇ!? せっかく捕まえたのに……」
チューチューと悲鳴をあげる小動物の尻尾を右手でつかみ吊るし上げたまま、彼女は心底残念そうに耳をぺたんっと倒す。そんな小さな騒動の中、入り口のフスマを開いて藍が部屋の中に入ってきて、橙がねずみを持ったまま落ち込んでいるのを見つけた。
そして次に、視線を移すと紫の後ろでその小さな動物から逃れようとしている霊夢。
藍は苦笑しながらフスマを閉めると、お待たせしましたといいながら急須をコタツ机の上に置き困っている橙の近くで腰を下ろした。
「橙、霊夢は私たちと同じような姿はしているが、人間はこのネズミというものはあまり食べないんだよ。地域によっては食べる人もいるけれど、それは少数なんだ」
「え、えええ!? ほ、本当ですか?」
橙は藍の笑顔とネズミを交互に見つめ、目を丸くする。
妖怪の友達と遊ぶことが多いため、橙は食文化の違いをあまり理解していなかったようだ。それできっと霊夢も食べるだろうと、ネズミを勧めたのだろう。
「それにね、橙。よく見てごらん」
藍は、逆さ釣りにされっぱなしのネズミのわき腹の部分を指差し、橙に優しく言い聞かせる。
「ほら、うっすらと骨が見えるだろう?」
「あ、本当ですね。
大きさの割には軽いと思ってたら、痩せてたんですね。この子」
「そうだよ、橙。
きっとここのネズミはあまりいいものを食べていないから、こんなに痩せているんだよ」
「あ、なるほど! わかりました!
食べ物があんまりないんですね!」
そうやってはしゃぐ二体の式。
そんな姿を微笑みながら見つめる紫の後ろで、まだ警戒しつづけている霊夢が眉を潜めて座っていた。
「ねえ、紫。ここって私、怒っていいところよね?」
「怒ってもいいけど、ああなったらしばらくそっとしておくのが一番よ?」
そうやって達観した様子で袖口から扇子を振りだし、口元を隠しながら後ろの霊夢を振り返る。
意味深に細められた瞳を向けられて、それに押されるように霊夢は少しだけ身を引いた。その怪訝そうな顔をじっと見つめて、なぜか満足そうに微笑む。
そして橙の持つネズミを指差し、こう質問した。
「あなた、あのネズミが橙の手から離れたらどうする?」
「どうするって、追い払うに決まってるじゃない。
家を齧ったりするし」
「そう、それが当然。
やさしい人間の、当たり前。
後々、その情が害を成すとわかっていても、手を下せない。でもね、霊夢」
その答えに当然といった様子で答える。
ただ、紫はそのとき、少しだけ悲しそうに霊夢を見つめて……
「私なら、あの子が持っていようがいまいが、この手であっさり首を跳ねるわ」
「……妖怪と人間の違いって言うやつ?」
「そこまで崇高なことを言うつもりはないの。
単なる私の性格かもしれませんもの。
だから、昔、あの子とも良くケンカしたけれど」
そう言って、どこか懐かしそうな顔をしながら。
橙とネズミの話で盛り上がっている藍を見つめたのだった。
◆◆◆
あの日は朝から来客が多くて、盛り上がるというよりは騒がしいだけの一日だった。普段なら紫の住処であるマヨヒガに到着するのは非常に困難を極めるのだが、その日に限って紫が入り口を複数開いたため、雨が降る中でも多くの妖怪等がそこへと訪れたのだ。
そしてその中でも一番早かったのが……
「お邪魔します。清く正しい射命丸 文です。
八雲 紫様はご在宅でしょうか?」
妖怪の山、天狗の代表。文だった。活発な少女のような笑みを浮かべ、玄関で出迎えた藍へと小さく会釈する。藍もそれに合わせて歓迎の言葉を発してから奥へと誘った。
ゆっくりと主が待つ部屋を歩く間、藍は一言も発することなくただ文を先導して廊下を歩き続ける。普通なら世間話の一つや二つでもするものなのだが、彼女たちの場合最後には腹の探り合いになってほのぼのとした雰囲気からかけ離れてしまうから。それに世間話をしながら引き出さなくても、今回彼女がここに来た理由はわかりきっている。
しばらく長い廊下を進んだ後、藍は失礼しますと一言だけ声を発してからフスマを開き、文をその中へ招きいれた。瞬間、鼻に入ってくる新しい草の香り、そんな畳部屋の様子をゆっくりと確認しながら足を運ぶと、部屋の真中に目的の人物が正座して待ち構えていた。
「……あら? 今日はあなたが来たの。天狗のお嬢さん」
開口一番、若干失礼なものの言い方をされてしまうが、これはいつもの彼女の手口。この程度で平常心が揺らぐ妖怪はこの場所では手玉に取られるだけ。文は微笑を浮かべたまま、紫の正面に置かれた座布団の上に正座して、早速胸ポケットから手帖と万年筆を取り出した。
「ええ、私も正直嫌だったんですけどね。
紫様のお屋敷にくると必要以上の情報を出さないとまともな話もしてくれないので」
「あら、需要ある情報を供給するのがあなたたちの趣味の一つでしょう?」
「時と場合によりますよ、これでもあまり妖怪に不利になる記事は書かないよう心がけておりますし」
「妖怪の山に不利になる情報は、の間違いじゃないかしら?」
「あややや、これは手厳しい」
ぺろっと舌を出し、会話を繰り返しながら手帖へと会話の内容を書き込んでいく。この天狗という種族は縄張り意識が非常に強く積極的に自分から山を降りようとしないものが多くいたため、種族の中で独自の文化を数多くもっている。
その中でも最近始められた趣味というか文化が、新聞という情報提供するための紙を作成することだった。天狗たちはそれを仲間の間での情報交換に利用している。一部の天狗は他の妖怪にも新聞を無料で配布し、純粋な趣味として楽しんでいるようだが。
「まあ、紫様と交渉の手札で勝負するだけ無駄とわかっていますから、手短に本題に入ってもよろしいでしょうか?」
それだけ文が言うと、入り口近くにいた藍が静かに一礼して退室した。
主人が聞くべき話で、自分は口を挟むべきではないと判断したのだろう。それを横目で確認してから、文はこほんっと咳払い一つして胸元に手帖を持ってくる。紫が微笑を浮かべる中、片目を閉じて自分の意志ではないと自己主張するように棒読みでその文字を伝えた。
「『我々、天狗は妖怪の山を守り、文化を発展させてきた。
だから新しい妖怪を招きいれ、その秩序が乱されるのは望むところではない』
とのことでした。新参の妖怪の住処は提供できない、上層部ではそう判断したということです」
その言葉を受け取った後、紫は短く声を漏らしてから扇子を広げ、口元へと持ってくる。そしてにこやかに微笑みながら……
圧倒的な、その力を解放する。
「……あら、どうやら私の真意はあなたたち天狗には伝わっていなかったのかしら?
どこの誰が、天狗だけの意見を聞いて欲しいと言ったのでしょう?
私は、山の妖怪の意見を集めて報告してほしいと、そうお願いしたはずだというのに……
それとも、もうあの妖怪の山は自分たちのものだとそう思った?」
「あ、い、いいい、いえ、そ、そんなことは……
あれは、鬼の方々から一時的に預かっているもので、天狗のものというわけではないですよね。
あははは…… 大天狗様たちはいったい何を考えていらっしゃるやら、ハハハ……」
もう、笑うしかない。
笑う以外に何ができるというのか。
幻想郷全体を覆うような結界を一人で管理できるような妖怪。
いつもはくすんだ茶色い瞳を、金色に変化させたまま微笑む彼女の前では天狗と言えど身を引かざるをえない。それでも縦社会が構築さえている種族としては、相手がどう反応するかわからなくても、上司の意思を伝えるしかないわけで……
「……私があの山を確認したときには、白狼天狗の子が細かく教えてくれたわよ?
山頂付近は天狗の住処が多くあるけれど、ふもとに近い森では全くと言っていいほど空いていると。
そこで、受け入れられないかとそう尋ねたはず」
「い、いや、でもですよ。
ほら、鬼の方々から預かっているわけですから…… やっぱり勝手に別なものを引き込むのはどうかと」
「文、あなたは代理で来ただけ。
それなのに、勝手な意見を言える立場にあるのかしら? それとも私にこう言ってほしいの?」
紫は手にしていた扇子を閉じ、その先をしっかり文の顔に向ける。
おどおどと怯える事しかできない、文はペンを手帖に走らせることもわすれて、ただ体を縮こまらせていた。圧倒的な力に、今にも押しつぶされてしまいそうな恐怖を感じながら。
「……あなたの返答次第では、私の古い友人に山を支配してもらってもいいのよ?
その方が私も気楽ですし」
「……古い友人?」
「幼名、伊吹と言えば、伝わるかしら?」
「っ!?」
そう、その名は、ある一族の幼名。
しかもその幼名のまま、過去に妖怪の山の四天王と呼ばれた者がいた。
それが鬼の中の一種族の頭領、酒呑童子。
「す、すぐ! い、いいい、いますぐ大天狗様たちに意見を求めてきますので!
少しだけ、少しだけお待ちを!!」
「そう、助かるわ。妖怪の山へ直通の隙間を裏口に作ってあげるから急いでくれるとありがたいのだけれど。もしかしたら、待ってほしいというあなたの約束を忘れるかもしれませんし」
「は、はい、もちろん! では失礼します」
烏天狗の中でも、まだそんなに地位の高くない彼女にとって、鬼という言葉は禁忌にも近く思考回路を停止させるには十分の材料だったようだ。後は、天狗のお偉いさんに文から話を通させれば、違った回答を得ることができるだろう。
さきほどの報告とはまったく正反対の。
「人が悪いですね、紫様。結果が同じであればご自分で動かれたほうが早いのでは?」
「わかっていないわね、藍。
あなたには私程度の思考回路が備わっている筈なのだから少しは察して貰わないと」
天狗が慌てて出て行った開けっ放しの部屋の入り口、そこに入れ替わるようにして顔を出した藍から非難めいた意見をぶつけられるが、紫は余裕の笑みを浮かべながら隙間を作り出し、躊躇わず手を突っ込む。そして素早く抜き出した手の中には、まだ少し青いミカンが握られていた。
「これから日が差し、太陽を十分に浴びればこのミカンは黄色く染まり。皆を楽しませることになる。
ただ、もし虫がついたり、風で落ちたりしたら、小さな生き物や土壌の肥料へと成り代わる」
「……結局のところ誰かに吸収され次の段階へと進むという、滅び、生まれる自然の円からは逃れられない。
結果は決まりきっていても、過程が大事。そういうことですね」
「そう、ただし。
青いまま落ちるより、黄色くなるまで楽しんだほうがこちらとしても暇つぶしになるということ」
紫は、幻想郷の中に妖怪が急激に増え始めた今、その妖怪たちが落ち着いて暮らせる各々の居住区、縄張りを設置しようとしていた。そうしないと、ふらふらと動き回る過程で必要以上に他の種族と激突し、いらぬ争いを生むから。だから妖怪の山、迷いの竹林、魔法の森、霧の深い湖、そして冥界までにも声を掛けた。そしてその答えの期日が今日ということ。
「ほら、妖怪の山の応えなんて私の言ったとおり。
なら最初から圧力をかけてやればそれで済むかもしれないけれど、今のやりとりで天狗は自分の奢りを知ることができたでしょう? 過程を楽しむとはそういうことよ」
「楽に取った獲物より、苦労して取った獲物の方がおいしく感じる。そういうことでしょうか」
「似ているようだけれど、意味合いが少し異なるわね。
ところで藍。さっき部屋の前に一瞬いなかったようだけれど、誰か別な客人でも来たかしら?」
ほとんど物音を立てていなかったのに気づかれたことに藍は静かに驚きながらも、平然とした態度のまま手を胸の前で合わせ、主へと伺いを立てる。
「ええ、こんなに早くお話が終わるとは思っていなかったので、別な部屋でお待ちしてもらっておりますが、もうお通ししてもよろしいですか?」
「もちろん、私にかかればあの我侭姫の難題すら子供の宿題程度ですもの。
話し合いなんてすぐ終わってしまいますわ。さあ、お次はどこの代表者がお見えになったのかしら」
そうやって自身満々に言う主人。
まだ青いミカンをお手玉のように空中二歩折り投げて遊んでいる紫を見つめてから、藍は少しだけ頬を引きつらせながら静かにその人物の名前を告げる。
おそらく、彼女こそ閻魔を除いて唯一彼女天敵となりうる存在……
「西行寺 幽々子様です……」
「…………藍。しばらくどこかで時間つぶしてきてくれる?
接客は前鬼と後鬼に任せるから……」
長くなる。
藍は、来客者の顔を見た瞬間そう思ったが……
どうやら紫も同じ意見らしい。
藍は苦笑しながら九本の尻尾を大きく翻し、傘を持ってマヨヒガを後にするのだった。見上げた空は灰色に曇っていて、一筋の光も差し込んでいないように見えた。
◆◆◆
(そうだ、そういえばネギが切れていた。
外出ついでに人里の市で買い込むとしよう)
灰色の空の下、藍はゆっくりと飛びながらできるだけ体が濡れない様に器用に傘を動かす。昼なのに空気が肌寒く感じるのは、雨のせいか、日差しが雲で遮られているせいか、それとも迫る冬の足音のせいか。
霧のように細かな粒子の雨の中、藍は静かに空中から人里の入り口に下りると、そのままなんの警戒もせずに堂々と大通りを歩く。普通、妖怪が中へ入ってきたら騒ぎになると考えがちだが、八雲 紫が人里で人間を襲わないようにと妖怪たちに徹底してからは、こうやって街中を歩き回っても騒ぎにはならなくなってきた。それに藍はよく買い物にくる部類なので、見慣れているというのもその理由になるだろう。だから傘を出して歩く人間とも挨拶を交わすような間柄で……
ちょうど大通りの真中くらいまで来たとき、藍の視界の端に移る豆腐屋から威勢のよい声が聞こえてきた。
「お~い、藍ちゃ~ん! 藍ちゃ~ん」
大きな尻尾を軽く振って方向を変えると、そこにはニコニコ笑顔浮かべる中肉中背の人間の男が店の中に立っていた。そして右手を胸の高さくらいまで上げて、ちょいちょいっと招き猫のように手招きしてくる。藍も千年以上生きている自分を呼ぶこの豆腐屋の主人には見覚えが合ったので、何かと思ってゆっくり近づいていくと……
左手に何かつかんでいるのが確認できる。
「いつも買い物ご苦労様だねぇ。
今日は豆腐買っていかないのかい?」
「ああ、すまない。今日は豆腐を使わない料理を作ろうと思っていてね。
ネギだけを買いに着たんだよ」
「なるほどね、だから買い物用のカゴも持ってないわけか、でもそれならちょうどよかったな。
時間はあるんだろ? 藍ちゃん」
そうやって『ちゃん』付けで呼ばれると昔を思い出して恥ずかしいのだが、確かに中年の人間よりは外見は幼く見える。それでもこの小柄な主人よりは身長も高いはずなのだが……
そうやって少し藍が頬を染め、困ったように指で鼻の頭を掻いていると……
何かが鼻孔の奥をくすぐった。
慌ててその匂いの元を探ると、主人が藍に差し出した左手に辿り着く。そこには笹の葉でくるまれた何か茶色いものが見えた。
「ほらほら、今年の新作大豆を使って作った油揚げだ!
試作品だからちょっと味見してもらおうかと思ってね」
油揚げ、その単語を聞いた瞬間。
藍の九本の尻尾が別の生き物のようにくねり始める。喉もごくりとなって、すぐさま齧り付きたい衝動に駆られるが、紫の式である自分がそんなはしたない真似をするわけにはいかない。
できるだけ平静を偽りながら、静かにその油揚げを受け取るとうっすらと湯気が上がっていた。つまりこれは、出来立てのホカホカ油揚げ……
それを確認してしまった藍の理性はあっさりと吹き飛び、なんと一口の元に人間の手の平大はあろうかという油揚げを飲み込んでしまった。
「ん~~~~~♪」
瞳に涙を浮かべ、体を折りたたむようにして歓喜の声を上げる。
その仕草だけで、その油揚げの良さは折り紙つき。何せ狐は油揚げに一番うるさい種族といってもいいのだから、藍がこれだけ満足してくれるということは、人里でも最高の出来と自負していいだろう。
「ありがとう、ご主人。
こんな素晴らしいものをご馳走になってしまって……
この恩はいつか必ず」
「いいよいいよ、藍ちゃんは味見役に最適だからね、こっちも無理につきあってもらったから。これで貸し借りなしにしとこうや」
「そうか、困ったことがあればまたいつでも言ってほしい」
微笑を返して藍がその場を後にしようと傘を手に取ろうとしたとき、そこの主人は少しだけ難しそうな顔をする。その様子は困っているというより相談していいものか迷っているようにも見えた。また何か異変でも起きているのかと思い、藍が問い掛けてみると。
こんな答えが返ってきた。
『最近、人里で肉や魚といった食べ物を狙った泥棒事件が多発している』と
主人の家は豆腐と大豆しか扱っていないので、被害はまったくないらしいのだが。
三日の内に必ず一回はその泥棒が出るという。
そして、この前、早朝に魚が奪われる事件があってから今日で三日目だから何か事件がおきるかもしれない。無理に解決しないでいいから、気をつけるようにと言われた。今日は肉も魚も買う予定がないので藍は別に気にすることもなく八百屋を目指す。
どうせ妖怪のいたずらか、愉快犯が連続して起きているか。そんな深刻な事態ではないだろうと、油揚げの味を思い出しながら鼻歌を歌い、民家の間を通り過ぎていった。
ちょうどそのとき、藍の後の民家の入り口が開き。
勢いを弱めつつある雨の中を元気の良い女の子が追い抜いていった。
◆◆◆
最悪、最悪、最悪、最悪……
なんでこんなときに雨が重なるというのか。
自分は化け猫で水が苦手、だから服が濡れるだけでも動きが鈍ってしまうというのに……
こんな空腹なときに限って、灰色の空からは霧状の雫が降り注ぎ続けている。
まるで彼女を嘲笑うように、諦めろと告げているように。
人里の屋根の上に隠れながら、彼女は少しでも隙のある人間はいないかとじっと里の様子を見守っていた。空腹で目を回しそうになりながらも、しっかりと屋根にしがみつき……息を殺しながら。
三日前、魚を盗んでから彼女が何もしなかったわけではない。
山で獣を狩にも行ったし、川で魚も捕ろうとした。でも、いつもの彼女の狩場には、新しい妖怪が住み着いてしまっていて……
縄張りを争うために戦った結果、情けないことに餌場を奪われてしまった。
先に自分が見つけた場所だぞ、と捨て台詞で叫んでみたものの、負け猫の遠吠え。敗北者となった彼女は結局すごすごと退散し、思いのほか深い怪我の治療に一日半を必要とした。それでも傷は完全に癒えておらず、彼女の最大の武器である機動力を生み出す足にはそのときの痣が痛々しく残っている。それでも今何か口に入れなければ、倒れてしまいそう……
だから彼女は最後の賭けに出た。
人間を、襲おう、と。
空腹で衰えた体を癒すためにも。
妖力を取り戻すためにも。
故に、今の自分でも容易に捕らえられるはずの獲物。
人間の子供を狙う。
しかし、その決意をして人里へやってきた今朝から急に雨が降り始め、ただでさえ低下している彼女の体力を容赦なく奪っていってしまう。そして雨の日にはあまり外で遊ぶ子供の姿がなくて……
見つけたと思って屋根から飛び出そうとしても、必ず親子連れ。傘を差しているため、彼女自身の姿を確認する前に仕事を終えることができるかもしれないが、少しでも手間取ればそれで終わり。無事に人里から出ることもままならないかもしれない。
だから、一人で出歩く子供を必死で探し続け……
その視界の中に、見慣れない妖獣が入ってくる。
しかもその尻尾は……九尾。
妖獣の中では尻尾が多ければ多いほど力が強い獣とされるが、九尾はその最高峰。彼女が全力を出したとしても足元に及ばないだろう。そんな危険な妖獣が傘を差し、鼻歌を歌いながら大通りを歩いていく。彼女は早く行けと願いながらその姿を目で追っていたが……
「…………最悪だ」
その瞳の中に、元気のいい女の子が映った。
扉を開けて傘も差さず大通りを走るその姿からして、親にお使いを頼まれたのかもしれない。楽しそうに大きく手を振って走っていく無防備な背中。
待ちに待った、最大の好機。
それを祝福するように、雨も小降りになり始めていた。
すべてが彼女の望むように噛み合った瞬間のようにも見え、思わず飛び出そうとするが。
その子供が走っていく方向には、さっきの九尾がいる。
人里に慣れていそうなあの九尾の狐が、どういった行動を取るか。
そんなものはわかりきっている。
一番可能性が高いのは、妨害だ。
希望的観測だけで行動したら……
……命の危険すらある。
しかし……
彼女の我慢も、体力も、限界。
この好機を逃せば、いつ次の機会が訪れるのか。
それまでに、自分の体は体力を維持できるのか。
そんな感情が冷静になろうとする彼女の焦りを刺激し、とうとう彼女に選択させた。
その選択のとおりに、彼女の体は屋根から飛翔し静かに地面に着地。
「!?」
直後、右足に激痛が走るがそんなものは気にしていられない。
今の彼女には前に進むことしか許されないのだから。
気を抜くとそのまま地面と口付けしそうになるほど下げた顔を必死に持ち上げ、歯を食いしばって地面に四つん這いになると、ぬかるむ地面を蹴って加速。
晴れた日と比較するとどうしても遅れてしまうが、それでも人間とは比較にならないほどの初速。
異常に気付いた人間たちが騒ぎ始めるが、遅い。
痛む足を少し引きずるようにして地を駆け、獲物に向かって一直線。
楽しそうに走る人間の子供は、まだ自分にまったく気付いていない。
やっぱり人間は、愚鈍で、どうしようもない、自分の餌でしかない存在なんだ。自分の中でそう正当化させ、一瞬頭の中に浮かんだあの大妖怪の言葉を振り払う。
だって、ほら。
あの九尾を追い抜けば、この鋭く伸びた爪は、あの柔らかい肌に突き刺さるじゃないか。
民家が並ぶ大通りの中。
ただ一人、たった一人っきりの野良猫は、自分の命を繋ぐために必死で駆け抜け。
小さな、まだ10を数えないような子供の首筋にその爪を。
突き立てる。
ほら、簡単だ。
こうやって手を伸ばせば、彼女の手には望むものが手に入る。
だから視界の中に映っている、宙を舞う紅い水滴はきっと子供のもののはず。
それなのに……
何故、こんなにも全身が軋んでいるのか。
何故、視界の中に灰色の空しか見えないのか。
小さな背中へとまっすぐ飛び掛ったはずの彼女の体は、まるで重力を無視したように直角に進行方向を捻じ曲げられ……
地面と垂直方向に打ち上げられていた。
だから彼女が見たその真っ赤な水滴は、子供の血ではなく。ましてや雨でもなく……
自分の口から吐き出された、血液。
高く、高く打ち上げられたその小さな体は、二階建ての屋根の高さを越えたところでやっと重力を思い出したかのように落下を始め、雨の中でも十分響く音を地面に響かせた。
そんな大きな音を聞いてから、狙われていた女の子は不思議そうに振り返り、そこに九尾の藍しか見えないのを確認してから、また走っていく。藍が尻尾で隠したその捕食者の影に最後まで気がつかないまま。
「……ぐ、ぅぅ」
子供が走り去ってから、数秒後。
地面に背中から打ち付けられた猫又の妖獣は、くぐもった悲鳴を上げながら立ち上がろうとするが足の痛みに加え、全身に鈍く広がった新しい痛みのせいで指と頭程度しか動かせない。しかも背中を打ちつけた衝撃のせいで呼吸が乱れ、血の味がする口を必死にぱく付かせるのが精一杯。
本当は、状況を確認したいところなのだが。
どうやってやられたかすら把握できないのだから、無理というもの。
ただ、彼女がはっきりとわかることと言えば。
「やってくれたね、幼い妖獣……」
自分を見下ろす、この九尾の狐に……
間違いなく命を奪われるということだけ。
金色の瞳を大きく見開いて自分を睨みつける九尾から何をされたとしても、大の字に転がる彼女は抵抗することはがきないだろうし、抵抗するだけ無駄だろう。
だって、今の狩の動作でほとんどの体力を使い切ってしまったのだから。
「紫様がお決めになった約束事を堂々と破り、人間を襲うとは。
しかも、この八雲藍の目の前で……
私も偉く舐められたものだ」
尋常でない量の妖気を身に纏い。
その苛立ちを隠そうともせず、一本の尻尾を地面に叩きつける。
普通なら大きな音を出して威嚇するためだけ、それで終わるはずの行動なのに地面にその尻尾の先が触れた瞬間。土が円状に陥没する。
尻尾を振った、そのわずかな動作で。
そんな行動を虚ろな瞳で見つめていた化け猫の妖獣はやっと理解した。
彼女が簡単に空中に吹き飛ばされたのは、手でも、足でも。
ましてや妖力による攻撃でもなく。
ただ、尻尾で軽く打ち払われただけなのだと。
ここまで……
ここまで差があるものなのか……
同じ妖獣という種族にありながら、笑いたくなるほど圧倒的で。
でも、これだけの力が自分にあれば……
縄張りを奪われることも、こんなに惨めに地面に転がされることも無かった。
いや、それ以上に。この九尾からさっき出たある固有名詞の……あの妖怪が……
そんなことを考える度、彼女の瞳からは暖かい液体が溢れてしまう。
「ぐ……ぇぅ…… 私だって、わかってたもん……
人間を襲っちゃダメだって……わかってたもん」
「……ふん、今更命乞いか」
地面に転がったまま、涙を流し始める小さな化け猫。
そんな姿を見ても、藍はただ感情を押し殺したような声で冷たい視線を向けるだけ。それでも小さな彼女の、血を吐くような言葉は止まらない。
「だって……どうしようも、どうしようもなかったんだもん……
私みたいな、弱い妖獣は……どうしようもなかったんだもん……
新しく入ってきた妖怪たちは、私の餌場をどんどん奪って……
取り返したくても、勝てなくて……
でも、あの妖怪が変な決まりを作ったから……人間も食べちゃダメ……
だから、お腹ぺこぺこで……
必死で戦っても、それでも勝てなくて……だからもう、もぅ……どうやって生きていけばいいか!
わからなかったんだもん!!」
声を張り上げて、少しだけ力のこもった瞳を藍へと向けてくる。
抵抗できなくても必死で、涙を溜めた瞳を藍へと向けてくる。
ただ、それでも藍の意思は変わらない。
この幻想郷を管理する立場にある紫の式である彼女が情に流されるわけにはいかないから。それでも藍は、この光景に見覚えがあった。
いや……
見覚えというよりも、もっと確かな体験として記憶している。
「いやだよぅ……かえしてょぅ……
あんなに、あんなに……毎日が楽しかったのに……
全部、あの紫って妖怪のせいで……あの人のせいで……」
確かに、新しい妖怪が入ってくれば、その分古くからいた者たちの生活は圧迫される。
そのせいでこの少女のように生活を奪われた妖怪を、藍はずっと紫の側で見てきた。そしてそうやってこの世界に適応できなくなり、自棄を起こした妖怪たちがどうなったか。
どうやって処分されたかは、痛いほど知っている。
だって、どの妖怪も……
最後はこの少女のように泣いていたから……
あの楽しかった日を返してと、懇願してきたから……
そんな泣き叫ぶ妖怪たちの最後の『感触』は、今も藍の右手に残っている。
だからかもしれない。
藍が、この化け猫の姿をあるものと重ねたのは。
そして、一度でもその姿に重ねてしまったせいで、今まで振り下ろしてきた右手が動かなくなってしまう。妖力を込めた手を下ろすだけで簡単に済むというのに……
「こふっ……こほっ……」
涙を流していた化け猫はその苦しそうな咳のあと、ふっと意識を失い、ぐったりと地面に体を預けていた。そんな無防備な彼女をどうしようかと藍が心の中で迷っているうちに……
次第に周囲が騒がしくなってくる。何かあったのかと野次馬が集まり始めたのだ。
このままでは不味い、そう判断した藍は、迷いながらもその小さな体を両手に抱えマヨヒガへと飛び上がったのだった。
手に持っていた傘をその場所に忘れたまま。
◆◆◆
なんだか藍の様子がおかしい。
そう紫が感じたのは、幻想郷の中の地域の代表者たちを呼び出した日の二日後。夕食のときだった。台所から小気味良い包丁の音が響き始めてからいつも一定の速度で料理を終えていたはずなのに、今日に限って中々料理を持ってこなかったのである。
別の世界から仕入れた、人間がまず間違いなく食べない肉の下ごしらえは昼に終えていた。だから後れるなんてことはありえず、早く仕上がるのが当然。それなのにいつもより長く待っても、一向に運ばれてくる様子が無い。
隙間を使って様子を覗こうかとしたとき……
「は、はい! 紫様お待たせしました。
すぐお料理をお運びしますので」
ドンドンっと廊下を走って来て、慌てた様子で告げてくる。
しかもフスマを開けようともせずに、である。いつものあの藍ならゆっくりフスマを開けて一礼してから料理を持ってくるはず。
もしかしたら、何か手違いでもあったかと心配したが……
確か、今日はあの肉を焼くだけといっていたはず、もし失敗しても台所が全焼するくらいだろう。まあその前に妖力で燃えている部分を丸ごと破壊してしまえばいいだけなので、そんなことになるわけもない。
ならば、可能性として考えられるのは……
紫はこっそり境界を開き、台所の映像を移し……
「ふふ……」
小さく微笑んだ。
そして前鬼と後鬼、二体の鴉の式を呼び出すと命令を与えその部屋から飛び立たせたのだった。
その夜。
藍と紫が夕食を終え、紫が床に付いた後。
こっそりとマヨヒガの離れ小屋、今では倉庫としても使っていない建物の方へと進む大きな影があった。わずかな衣擦れの音、土を踏む音。その全てに警戒を払い、一歩一歩確実にその場所へと向かうその女性は、この屋敷の式、八雲藍。手には布にくるまれた一抱えほどの塊があり、それを隠すようにして動いていた。20歩ほどしか離れていない場所へ行くのに、半刻ほどの時間を使う。
それほど何を警戒しているのかと聞かれれば当然。
この館の主に気付かれないように、である。
「……いるかい?」
昼間のぐずついた天気とは一変して、星が瞬く夜空の下。
藍は入り口まで足を運んでから、小さくつぶやいた。
すると、遠慮がちに扉が開き……
「いるよ……」
小さな妖獣が、上目遣いに藍を見つめていた。
躊躇いがちにわずかに伏せられたその瞳。
藍はその困ったような顔に笑顔を向けながら、手に抱えていた荷物をもって部屋の中に入る。やはり何年も使われていなかったためところどころ埃はたまっているものの、生活に必要なスペースだけは綺麗に掃除されていた。
そんな埃の無い場所を選んで藍は家に上がり、布に隠されていた大皿をコトンッと少女の前に置いた。
「お食べ、少し冷えてしまったけど」
そこには何かの肉の塊が5つ。半生の状態で乗せられていて……
血が滴るようなその肉をみただけで、化け猫の妖獣である少女は、唾液を呑み込みながらその肉と藍の笑顔を交互に見つめる。
本当に食べていいのか、と。
いままで辛い生活環境化に置かれていたせいで、藍の好意を素直に受け取ることができないのだろう。それでも藍は何もいわず、ただ首を縦に振る。
ガチャン
すると、皿を割ってしまいそうな勢いで手を肉に伸ばし、少女は必死に口の中に押し込んだ。
もう誰も奪わないというのに、安全な場所にいるというのに。
それでも何かから食料を護るようにして、必死にむしゃぶりつく。
そして、最後の一つを口の中に入れた瞬間。
彼女はこの肉が一体何から取れたものなのか気付く。まだほとんど消化できていないというのに妖力が少しずつ満ちていくような、この感覚は……
「そう、これは一般には禁じられている肉。
もともと肉食動物だった狐や猫。私たちのような妖獣にとって最高の食べ物だよ」
手に付いた肉汁を舐め取る化け猫の少女の頭を優しく撫でながら、藍は少しだけ昔のことを思い出していた。
そのことがどうしても頭から離れなかったから……
離れなかったからこそ、人里で捕まえたこの化け猫をこっそりとこの小屋に中に隠し。
身の上を聞いてやり、食料まで提供しているのだろう。
昔、自分にそうやってくれたあの人のように。
思い出してみれば恥ずかしいものなのだが……
「ぅぅ……ひっく……ぅぇぇ……」
そうやって藍が考え事をしながら頭を撫でてやっていると、橙は大粒の涙を瞳に浮かべて藍の服をぎゅっと握り締めてくる。いつわりかもしれないけれど、ただの一瞬かもしれないけれど。久しぶりに与えられた安息の時間。
その喜びに、自然と涙がこぼれてしまったようだ。
藍は、自分の子供をあやす様に泣かないでと、つぶやきながらその瞳に溜まった暖かい液体を服の袖で拭ってやり……
「あら、藍。こんな良い夜に、主人を差し置いて一体何をしているのかしら?」
その姿勢のまま、目を見開いて固まる。
化け猫の妖怪は急に聞こえてきた声の発信源を探ろうと耳を激しく動かすが、どこにもそんな影は無い。だって入り口の扉すら開いていないのに……
「ゆ、紫様。いつから……」
しかし、藍はしっかりとその気配を感じていた。
式と主とのつながり、その気配の糸を辿っていけば。
天井に近いちょうど二人の真上に行き着く。
「はじめから、と、言いたいところだけれど。
今日の夕食のときからかしら、あなたの様子がおかしかったから隙間で台所を覗いたとき、何故か夕食が三人前用意されていたから気づいたのよ。おそらく、一昨日外出したときに拾ってきたのでしょうけれど。
よくもまあ、主人をここまでこけにしてくれたものね?」
扇子を広げ、長い髪を空中で蛇のように泳がせるその女性。
その声を受けただけで、藍の顔には大粒の汗が浮かび始める。ただ少女はあの空に浮かぶ女性が何者かわからず、非難の声を上げようと口を開きかけて……
やっと、違和感に気付いた。
少女は、幼くて、まだ力の弱い妖獣だから。こんな感覚は初めてだったのだろう。
人里で藍と向かい合った時と感じた、あの圧倒的な実力差。
それでも、あのときはまだ体が動けば藍に向かっていくことはできたかもしれない。
しかし、今は違う。
行動しようとしても、体が拒否するのだ。あの化け物に向かっていってはいけないと。
幼い少女の行動自体を封殺してしまうほどの……
「……申し訳ありません。人里へ出かけた際に怪我をしていた彼女を見つけて、つい……」
「そう、ついつい助けてしまったとそういうことかしら。
人里で、人間よりも身体能力が上の妖獣が怪我をしていたから、理由無く助けた。そういうことでいいのね。じゃあその子は、何のために人里にいたのか教えてくれないかしら?
子猫ちゃんは、恥ずかしがってしゃべることすらできないようだし」
八雲 紫。
化け猫の少女は、その妖怪にあったら文句の一つでも言ってやる。
そう心に決めていたはずだった。しかし、一体なんだと言うのかこの目の前の妖怪は……
次元が違う強さ、などという在り来たりな表現では表現しきれないほどの、笑うことすらできないほどの絶望。彼女は必死に藍の服にしがみつき震えることしかできなかった。
「……はい、紫様のご想像のとおり、彼女も新しい妖怪に住処を奪われた者。
だから、やむなく人里を襲うしかなかったと……」
「あら、少しくらいおもしろい嘘をついてくれるかと思ったのに正直なのね」
「ご冗談を、全てわかっていらっしゃるくせに……」
「嘘というのは、ときに生活を美しく彩ってくれるものですもの、その方が興味深い。
でも藍、あなたのその行動は、私が組み込んだ命令とは違うもののように感じるのだけれど」
新しい仕組みへと、変革していく幻想郷。
新しく妖怪を呼び込み始めたその結果、それに対応できないものたちも当然いる。それでも人間と妖怪のバランスを取り続けるためには、妖怪の絶対数を増やすための仕組みが不可欠。
その仕組みを正常に働かせるためには、その対応できない少数派を……
切り捨てる必要がある。
「私はあなたに伝えたはず。
確かに一度は妖怪の数は減るかもしれないけれど、人間と妖怪。
その微妙な天秤を吊り合わせるには、誰かが血を流さなければ行けないと。
それが、まだ、理解できないというのかしら?」
「理解はできますが……
納得ができない……それだけです。紫様
それに幻想郷はすべてを受け入れてくれると、おっしゃっていたではありませんか」
「そうね、幻想郷は全てを受け入れる」
紫は、藍がいった言葉を噛み締めるように、瞳を伏せる。全てを受け入れるように、異端が幻想郷の中に入り込みやすくしたのは彼女。
けれどそれは、とても残酷なこと。
「幻想郷が招き、受け入れたとしても。
私は全てを受け入れてあげるつもりはない。この世界を愛するものとして……
もし世界がそれを受け入れたせいで壊れてしまうとするなら。
私は全力でそれを排除するわ」
必ず余分な何かを受け入れれば、他の何かが犠牲にならないといけない。
幻想郷を想うからこそ、余分な何かを、害を成す因子を削除する。
人間のように、すべての妖怪が子を成してバランス良く数を保てるのであれば、閉鎖空間のままでもよかった。しかしそうやって増え、子孫へと明確な知識を引き継いでいくような妖怪はほとんどおらず、時が立てば必ず滅んでしまう。人間たちがその妖怪のことをしっかり覚えていてくれれば、あらたな幻想として、転生することもできるかもしれないが、それはあくまでも理想論。
「わかるでしょう? 藍。
余分な船員を抱えすぎた船は、沈むのよ。
他の事でなら、いくら情を持ってもかまわないけれど、この件に関して私は妥協する気はない」
扇子を畳み、その先を二人の妖獣に向けた紫は瞳を少し横に動かし、自分の意思を伝える。
そこをどきなさい、と。
あなたが手を下せないのなら、私がやりましょうと。
しかし、藍はどかない。
逆にぎゅっと妖獣を抱きしめて、震えながら紫を……
ぎゅっと拳を握り締め、式が主を睨み付ける。
「ならば、なぜあのとき紫様は、私を助けてくれたのですか!
私のような、ただ相手を陥れ、力で蹂躙するだけしか能のない私を! 式にしてくださったんですか!」
「っ!?」
涙を流しながら訴える式を見下ろしながら、紫はやっと心のひっかかりの原因を知る。
藍が、どうしてここまで、この小さな妖獣にこだわるのか。
あの聡明な藍がどうしてここまで心を乱されるのか。
それは妖獣という、同じ種族であることだけでなく、小さな彼女に自分を重ねてしまったから。
幻想郷に初めて藍が足を踏み入れたとき、彼女はただ人を効率的に襲うだけの妖。
それだけでなく、結界の中を活発に動き回り、各地域で様々な問題を起こし続ける厄介な存在だった。だから紫は直接その九尾の妖怪の元へ赴き、実力を見せ付けて地面に這いつくばらせたのだった。
力を持ち過ぎた、暴れる獣。
彼女に対し、その程度の認識しかなかった紫はすぐ退治してやろうとしたが……
最後に思い残すことはないかと聞いたとき……
命乞いすらせず、諦めたように空を見上げてこう言った。
「命を奪うなら、奪うがいい。どうせ私は……元の世界でも……この世界でも生きられない……」
肉体に重点を置く、妖獣の中の最高峰だからこそ……
彼女の生命活動を維持するには、それだけの糧が必要。
妖怪であれば、人間の負の信仰とも呼べる意志の力があればなんとかなるかもしれないが……
限りなく幻想に近い、妖獣である彼女には口に入る餌が絶対必要。だから幻想郷を飛び回り、世界の広さを理解した彼女は悟ってしまったのだろう。この場所で自分が十分な食料を得て生活していくには、餌場が少なすぎると。
かといって元の世界へ戻されたとしても、幻想を否定する人間の意志に押しつぶされ結局は命を奪われてしまうだけの存在。
「あのとき、紫様が私を式にして、妖力を分け与えてくれた。
これで生きられるわよ、と優しく微笑んでくださった!
それが、あのときの暖かな想いがすべてまやかしだと!
情などなかったと、そうおっしゃるというのですか!」
そうだ、あの日も。
紫と藍が出会った日も、空は灰色で空からは霧のような雨が降っていた。
だから余計に、化け猫と自分が同じように見え、感情的になる。そうやって自分の意志をぶつけてきた式をまだ冷たいままの瞳で見下ろしながら、紫は扇子を再び開いて口元を隠した。
「……そう、わかったわ。藍、あなたの意思を尊重して今日だけ罰は与えない。
でも、私はその吹けば消えてしまいそうなほど、小さな妖気しかもたない子を八雲の者として招き入れるつもりはないわ。私の式としても同様に……」
「……はい、ありがとうございます。紫様」
なんとかこの化け猫の命だけは守ることができた。
そんな喜びと、近いうちにわかれなければいけないという寂しさが藍の心で入り混じり、微笑を作ろうとしても作れない。ぎゅっとその小さな体を寄せてくる少女を、また辛い世界へ戻さなければいけない。そう思うだけで、いつもは冷静なはずの自分が焦燥にかられる。
そんな弱々しい二つの影に背を向け、境界を開いた紫は静かにそこへ入り込み。
下半身を隙間に収めてから、何かを思い出したかのようにつぶやいた。
「あ、そういえば……藍。
あなたに打ち込もうと思っていた余分な式があったのだけれど、いらないから後で処分しておいて……
たった一枚だけなのだけれど……」
「…………え? あの、紫、さま? まさかそれは……」
「まあ、私は使わないから! 私は!」
それだけ言い残して閉じていく隙間。
それを潤んだ瞳で見送り、藍は涙を流しながら小さな体をぎゅっと、優しく抱きしめたのだった
◆◆◆
「……そう、どうしても可愛らしい式のため非情になりきれなかった優しい私は、そうやって新しい家族を招きいれたということなのよぉ」
博麗神社の居間の中。
別に霊夢がまったく頼んでもいないのに、紫が昔話を始めてしまったのだった。
その話の最初が、あのネズミから始まったとは思えない内容ではあるのだが……
「うん、そういう過去があったんだなぁ~とかそういうのはわかった」
「そう、わかってくれたぁ? 私が結構がんばってるの、理解したのね?」
「ええ、そういうことにしておいてあげるけれど……
なんで紫が私に抱きついているのかがまったく理解できないんだけど? しかも妙に酒臭いし」
最初は身振り手振りを繰り返して、対面に座っていたはず。
そして途中から藍と紫が言い合う場面になった途端に、霊夢の側にやってきて……
終わってみればなんだか肩に頭を乗せているような状況。
話題にされた二体の式はどうしているかというと、紫と霊夢のことなど気にせず二人で楽しそうにじゃれ合いという名の、スキンシップに勤しんでいた。
「とりあえず、一旦離れるように!
そしてあなたが飲んでるお酒を私にも分けること!」
「え? これ?」
いつのまにか紫の右手には一升瓶が握られていた。
お茶を飲み干してから、それを湯のみに入れて飲んでいたから話の途中で急にお酒の匂いがしたというわけだ。おそらく境界から取り出したと思うのだが……
「ああ、さっき本殿の方で無造作に置いてあったから、一本もらったのよ」
「……人の神社のお神酒あっさり盗まないでくれる?
別にそう信心深いわけじゃないからいいけど、ほら、もう雨晴れたんだからさっさと帰りなさいよね。私も境内の掃除しないといけないし」
そう言われて紫が障子越しに外を確認すると、確かに日の光が和紙に映っていて、よく耳を澄ませば鳥の声も聞こえてくる。そんな霊夢のつれない態度に、少しだけつまらなそうにしながらも紫は人一人が余裕でとおれる大きさの境界を開き、可愛い式を呼び戻し先にくぐらせた。
「またね、霊夢。
今度は甘いお饅頭が食べたいわ」
「わかったわ、唐辛子でも置いておく」
「あら冷たい」
憎まれ口でいつものような別れの挨拶を交わしつつ、紫を見送る霊夢だったが……
「ねえ、紫ってさ。やっぱり藍に好かれてるわよね」
「……何をいきなり、当然のことじゃないの」
「そうよね、自分の式に橙ってつけるんだもんね、私は紫が名前付けたと思ってたからあんまり意識してなかったんだけど」
帰り際にぶつけられたそんな言葉。
橙と名付けたから、藍が紫を好きというその言葉に反応する紫だったが、霊夢の真意がわからずただ首を横に傾げるだけだった。
「確かに、あの子からこの名前がいいと言ってきたのだけれど……
藍から何か聞いたのかしら?」
「いえ、全然。私としては紫がわからないことが意外だったけど、わからなくても好かれてるんだから問題ないわよ」
「……そう? よくわからないけど、またね」
そんな疑問を残したまま、境界は閉じ。
残された霊夢は、藍がさっき入れてくれたお茶を湯飲みに注いで、ふうっと軽く息を吐いた。
「青系統の色と、赤系統の色。
その二つの色を混ぜたら、紫色っぽくなるじゃないの。それくらい子供でもわかるわよ、紫」
きっとそれは、二人でずっと紫を支えていこうという、藍の本心から名づけられた名前。
それでも、恥ずかしかったから……
赤ではなく、橙と、少しわかりにくくつけたのかもしれない。
霊夢や橙のことでの紫様たちの会話も面白かったですよ。
しかし、前半ちょっとパッと見て解るような誤字が多く、読みにくかったのでこの点数で。
後半では引き込まれてしまいました。
過去話はシリアス成分を多目に含んでいたのでそういっていただけるとうれしいです。またほのぼのパートでは今のような、くすっと笑える場面をつくっていきたいなと考えております。
>13さん
誤字や句読点の問題ですね。
ご指摘ありがとうございます、もう一度点の位置も考えながら修正したいいと思います。
なんとか最期にまとまるように文章を構成してみたので。そういっていただけると助かります。
おもしろかったです。