今の私の感情を、一文字で表すと、青天の霹靂。
一文字じゃねえとか、せめて二文字にしろとか、そんなチャチなものでは断じてないのである。
霹靂とは落雷のことで、青天の霹靂とすれば、晴れ渡った空に突然雷が鳴り響くさまを想像するがいい。
そんなことが起きたとしたら、私は物事に対して冷静に対処できる方だが、間違いなく我を失ってしまうほどに驚くことだろう。
さて、それが今、起きたのである。
話せば長くなるのだが、ちょっと私の回想につきあって欲しい。
● ●
○ <回想、始まるよ!
「ナズーリン」
「呼びましたか?」
「ナズーリンは、いつ帰るのでしょう」
● ●
○ <回想、終わり!
何と恐ろしいことだろうか。まるで数秒が永遠に感じられるかのようであった。どうしてご主人様はこんなことを言い出したのか。
これはやはり、お前はもう不要だ、いなくなってしまえということだろうか。急に言われたから、心の準備が出来ていない。
私はご主人様を助けて、探し物を見つけ、聖を復活させることができた。これでしばらくはのんびりできる、そう考えていたのに。
「ナズーリン」
ああ、探し物なんか見つけるんじゃなかった。探したけれど見つからないなら、私はいつまでもご主人様の傍にいられた。
狡兎死して良狗烹らるとは正にこのことである。探せないネズミは、ただのネズミだ。
「ナズーリン」
ふと自分が呼ばれていることに気付くと、目の前には心配そうな顔をしたご主人様がいる。
「はい?」
「大丈夫ですか?」
これは心外なことを言う、私を大丈夫ではなくさせたのはご自身ではないか。思わずそう言いかけたが、
何とか思いとどまることはできた。とりあえず、事実の確認をしなければならない。
「ご主人様。私は暇を出されたということでいいのですね」
「いやいや、暇を出されるのは私の方ですよ」
「どこに主人に暇を出す者がいますか」
「ナズーリン」
ご主人様は目を閉じている。何やら、風向きが変わったようだ。黙っていると、続いて言葉が出てきた。
「私は貴方の本当の主人ではない」
「おや」
「質問を改めます。毘沙門天のもとへ帰るのは、いつなのですか?」
「……ご主人様、いつからご存じでしたか」
「最初からですよ」
「それでは、私は千年以上もずっと道化を演じていたことになる」
気付かれていないと思っていたし、気付かれてもいけなかった。だからこそ、私は彼女をご主人様として扱った。
その努力は、どうやらまったくの無駄だったようだ。あまりにも情けなくて、言葉もない。
ところが、当のご主人様は、私の様子を見て頭を振った。
「聖のために毘沙門天の代理を務めるようになった、それがそもそもの間違いだった。そう思いませんか」
とても、哀しそうな目をしている。
「聖のためといいつつ、私は彼女を見殺しにした。それからの私は、誰が見たって哀れな道化師」
止めてくれ、私が見たいのは貴方のそんな顔じゃない。
「聖の代わりに守ってきた寺も荒れ果てて、結局のところ、私は誰も救えなかったのです。でも、それももう終わり」
これだけ長い付き合いだ。無理に作った笑顔ぐらいは判る。
「この寺で、私が表に立つ必要はないのです。ですから、貴方の任務もこれで終了。ここに留まる必要もないでしょう」
本当に、その言葉は本心からなのか。
「今までありがとうございました。ナズーリン」
だったらどうして。どうして、貴方の声はそんなに寂しそうなのだ──。
ご主人様は、深々と下げた頭を上げようともしない。私は、その姿が目に入らないように、上を見上げた。
まだ新しい天井は、ご主人様と出会ったころを思い返させる。それから今までにあった様々なことを、私は全て覚えている。
ここで私が出て行ってしまえば、それらは全て思い出になってしまうのだ。そしていつかは、忘れてしまうのだろう。
私は大きく息を吐いた。
毘沙門天の傍らで、小さな賢将と呼ばれたこともあった、その賢将は、どうやらこれから大馬鹿に改名するらしい。
「こういうときは、どういう顔をすればいいのかわからないのだが」
とりあえず、その頭を上げてもらうことから始めなければならない。
「笑えばいいと思うのですが」
少し、自然な笑顔に近づいた。私も、少しだけ、笑顔を混ぜてみることにしよう。
「嘘をつくのが下手だから、単刀直入に言わせてもらうよ」
「どうぞ」
「私は君のことが好きなんだ。ああ、もちろん変な意味じゃないから安心してほしい」
「それは残念ですね」
「私が毘沙門天のもとに戻るタイミングなら、これまで幾らでもあった」
「確かに」
「それでも、私はやはり、君を見捨てることなどできなかった。運命に翻弄されながら、君は無言で耐えた。自戒の念に苦しみ、
どれだけの尽力をしてきたかはこの私が一番良く知っている。夜や昼の区別もなく、眠りも休息も碌に取らず、取ったとしても
それが柔らかな寝床や平穏な静寂を意味することはなかった。私ができることは多くはなかったが、とにかく役に立ちたかった」
今でも思い出すことができる。疲れ果てて眠りこんだご主人様に、そっと毛布を掛けるのは、私の大切な仕事だったのだ。
起こさないように、風邪をひかないように。大変だったとしても、少なくとも私にとっては、充実した時間だった。
「私は君の下についたことを感謝しているぐらいなんだよ。その恩は、これから返していく予定だったのに」
「ナズーリン……」
「それに、考えてもみてくれ。私が今さら毘沙門天のもとに戻っても、大勢いる部下のうちの一人にしか過ぎない。
ここに残れば、たった一人だけの部下でいられる。この差は大きい」
ご主人様にウインクを一つ、プレゼントする。
「だから申し訳ないが、一つ訂正させてもらうよ」
「何でしょう」
「主人に暇を出す者などいないと言ったが、ここにいた。私、ナズーリンは今をもって毘沙門天に仕えるのを辞めることとする。
そして、これから先、未来永劫、寅丸星に仕えることを誓う」
真っ直ぐ、私の思いを乗せて、ストレートに視線を送る。これを受け止められないようでは、ご主人様失格である。
そして、しっかりと見つめ返してくるその瞳の力強さに、私は何か満たされたものを感じた。
「意外とロマンチストですね」
「ええ。そして、とても独占欲が強いんですよ。覚悟してください、ご主人様」
ご主人様が、にこっとした顔になる。私の好きな表情だ。
「ナズーリン、貴方は敬語じゃないほうが良いです」
「そう言われれば、自然体に直すしかない。失礼は承知の上で、改めてよろしくお願いするよ、私のご主人様」
「何だかくすぐったいですね。私の、いや、私だけのナズーリン」
私だけの、という響きはとても魅力的だ。そして、耳を通り抜けてくるときは、確かに、どこかくすぐったいものだった。
「早速ですが、相談があるのです。この世には、挨拶の代わりに頬を触れ合わせるというところがあると聞きました」
初耳である。何と素晴らしい文化であることか。
「私はこれを幻想郷に流行らせたいと思ったのですが、どうすればいいでしょう」
「それが流行ればご主人様の頬に誰彼構わず触れるのだろう。反対といきたいところだが、どうせ流行らないから、手伝おう」
「おや」
「ご主人様。先ず隗より始めよ、という言葉をご存じかな?」
「ああ、ナズーリンは賢い。それでは、最も身近にいる貴方から始めることにしましょう」
ご主人様は私よりよほど大柄である。普段は見上げるその顔が、今は私の顔と同じ高さにある。
「それでは、よろしくお願いします」
私の手がご主人様の腕を掴み、二人の距離は縮まってゆく。
顔が熱いのは、きっと、摩擦熱のせいだ。
べたつかない甘さが癖になるお話でした。