灰色の砂漠を歩いているような気分。
時がない世界をひとり進んでいくような、たとえようもない寂しさ。
失って始めて気づく、そのぬくもり。
私の従者が死んだ。人間にしては長生きしたほうだろう。しかし、人間の寿命とバンパイアの寿命は比べるまでもない。最後まで咲夜は綺麗なままだった。時を止める能力を最大限に使って若い少女の姿を保ち続けた。美醜など私にとってはさほど関係ないことなのに、最後まで完璧であろうとした。
そして、その代償か。死体は灰のように一瞬で風化した。まるでバンパイアの死に様のようだった。
残ったのは、空白。
ジグソーパズルのひとつのピースが足りないような、そんな気持ちだった。
神も悪魔も仲良く同居するこの世界で、どうして咲夜はいなくなってしまうのだろう。悪魔の犬と呼ばれた咲夜がなぜ冥府などに赴かなければならないのか。たったひとつの宝物を奪うほど、あの説教好きの閻魔は偉いというのか。
怒りで身体が燃えそうだった。そんな私を見かねてか、パチェが「咲夜の部屋を少しは整理したら」と言った。
あの部屋には手をつけさせていない。掃除もしていない。咲夜が息をひきとってから一ヶ月の間、誰もあの部屋には入れていない。そうやって時を封じこめておきたかった。記憶を思い出というかたちに濾していくのが許せなかったからだ。
私はパチェに怒りの矛先を向けた。パチェは本に視線を落としたまま「でも人間は死ぬわ。あなたは少し入れこみすぎたのよ」といつもと変わらない口調で、淡々と事実を告げる。最後には、私は何も言えなくなってしまう。人間はすぐに死ぬ。わかっていたことだったから。
私は紅い絨毯が敷き詰められた長い廊下を黙々と歩く。掃除は行き届いている。従者がいなくなってもそれなりに仕事ができるやつもいるようだ。両側には冷たい大理石の壁があって、窓一つない。妖精メイドたちには誰ひとりついてくるなと命じた。
時は満月の頃。たとえ窓がなくてもわかる。細胞のひとつひとつが粟立ち、バンパイアの力が完成するときだ。満月の余勢を借りて、私は咲夜の部屋に行くことを決意したのだった。
そして、ようやく咲夜の部屋の前に到着した。ドアノブに手を伸ばし、そこで少し止まる。トントンと軽くノック。返事は返ってこない。そんな当たり前の事実に私はひどく落胆する。私はドアをそっと開けた。何かが壊れてしまわないように、そっと……。
――ドクン。
と、心臓が跳ねた気がした。
私の目の前には、ありえないことに生前と変わらない咲夜の姿があったからだ。
「さ、くや?」
「はい。お嬢様」
「咲夜……。さくやぁ」
私は息を止めて、咲夜の身体めがけて突進した。けれど私の身体は受け止められることはなく空を切った。咲夜の身体をすりぬけてしまっていた。
それで、私の身体はタンスに向かってダイブすることになった。
痛い。
涙が出て止まらない。たぶん痛いせいだ。
「いけませんわ。お嬢様。紅魔館の主たる者、従者にベタベタしていたら示しがつきません」
「いいじゃないの、それぐらい。ていうか……、あなたどうしてここにいるの」
「いませんわ」
「いるじゃない」
「お嬢様。私はただの映像に過ぎないのですわ。活動写真のようなものです」
「活動写真って、ずいぶん古い言い方ね。映画っていいなさいよ。ムービーでもいいけど。で、どういうことなの?」
「お嬢様に私の姿形が見えているということは、おそらく私は死んでしまったようですね。残念なことですけど」
「ずいぶんと軽いわね」
「しかたないことですわ。人間の寿命は生きて百年程度ですもの」
「そうね。あまりにも短いわ」
「私は少しばかりその期間を引き延ばしたいと思ったのです。それで、毎日一時間ほど時間を使って、コツコツと反応のパターンを増やしていきました。会話。動作。行動。いくつものパターンです」
「パターン……」
「お嬢様と会話しているように見えている、私の発言も、すべてコマ取りしたものです。ひとつのフレーズを何万も何十万も重ねて、不具合が無いように再生しているのですわ」
「どうやって?」
「お嬢様には運命を操作する力があるのでしょう。お嬢様は運命を無意識に操作することによって、不自然ではない台詞運びを選びとっているのでしょう。これは一つの賭けでしたけれど、パチュリー様に生前にうかがったところ、あながちできないことでもないとのことでした」
「そう。つまり、今見えているあなたは幻に過ぎないのね……」
「そうです」
咲夜の姿は生前と変わらない。
死ぬまで若い姿だったから、まるで生きてそこにいるようだ。
「それで……、あなたは何をしてくれるのかしら」と、私は言った。
少し冷たい口調になってしまった。そうしないと今にも涙で崩れてしまいそうだったからだ。
幻に過ぎない咲夜だったけれど、やっぱり咲夜に会えて嬉しくないわけがなかった。
灰のように消滅した咲夜の姿を目のうちにいれただけで、身体が爆発しそうなほどに嬉しかった。叶うなら、咲夜を力の限り抱きしめたかった。
「物理的なことはできませんが、たとえばお話すること、歌を謡うこと、微笑みかけることなどは可能です」
「そう。それでいいわ……、そばにいなさい」
咲夜は静かにうなずいた。いけない。私はまた泣きそうになる。
「ただし――、私に出会えるのは満月のときだけです」
「どうして?」
「満月のとき、どうやら私の力が最大値になるようなんです。逆に言えば満月以外のときは時を停止させる能力が弱まるため、この部屋にかけた作用が弱まってしまいます。壊れかけのラジオのようにいきなり私の姿が掻き消えても不気味でしょう。それにお嬢様と邂逅している時間が長いと、どうしてもワンパターンになってしまいますわ」
「わかった。そうするわ」
これは咲夜の最後のプレゼントなのだろう。
それから、私は咲夜と他愛のない話をした。博麗の巫女が新しい代になったとか、フランに新しい友達ができたとか、閻魔のやつの愚痴とか。まぁ最後には少し苦笑されてしまったけれど。
胸のうちに溜めこんでいた思いを吐き出すように喋り続けた。咲夜はいつもの調子で、柔らかな笑みを浮かべて、私の話を聞いてくれた。
幸せな時間はまたたく間に過ぎ去り、咲夜が不意に声を出す。
「そろそろ時間です。お嬢様」
「もうなの?」
「はい」
硬い意思を感じさせる声だった。咲夜がどのような気持ちで、その独り言を呟いたのかはわからないけれど、その哀しげな表情に私はなにも言えなくなってしまう。
「わかった。じゃあ、月が満ちるまでしばらくおやすみなさい」
「おやすみなさいませお嬢様」
優雅に腰を曲げる咲夜。
私は小さく手を振って、部屋を後にする。
時間を停止させる。時間を凝固させる。アニメや映画もそんな作用の一種なのだろうか。だとすれば、私は咲夜ではなくて、咲夜の演じる『咲夜』というキャラクターに入れこんでいるに過ぎないのかもしれない。しかし、いまさら咲夜と会うことをやめられるはずもなかった。咲夜が本当はもうこの世にいないことを頭では理解しているのだけど、そんな現実を認めてしまうのがたまらなく嫌だった。たとえ幻に過ぎなくても、その幻は咲夜が与えてくれたものには違いないのだから、私はもう少しだけ甘い夢を見ていたかったのだ。
「パチェ……、咲夜に会ったわ」
「そう」
パチェは本から視線をはずすこともせず、私の言葉にこたえた。
「時間を細切れにして、合成しているらしいわね。あなたが教えたの?」
「いいえ」パチェは僅かのあいだだけこちらを向いた。「考えたのは彼女。私はできるかどうか答えただけ」
「でも未来に向かって映像を残すなんて」
「できなくもない。物が見えるというのは光の反射を認識しているから。だとすると光子をとてつもなくゆっくりと保全する空間があれば、時空の断面上に一定の映像を残すことが可能になる。時空を封印することと解凍することが自在にできるならば、一種の活動写真を残すこともできる」
「声は?」
「部屋の中に無数に停止させておいているのでしょう。部屋のあちこちから響いてくるように聞こえたはずよ」
「そういえばそうかもしれない」私は思いだしつつ答える。「私の無意識的な能力発現が、違和感なく細切れのシーンをつなげてるらしいわね」
「あなたが望むとおりにね。レミィの運命操作でなければできないことでしょう」
「少し罪悪感のようなものを感じるわ。変かもしれないけど」
「感情移入するのは当然よ。人も妖怪も知りえるのは外見上の行為に限られるわけだし、そういったパターンに惹かれているのだから」
そうだとすれば、例えば小説における作中の死は、現実の死と等価の重さがあるのかもしれない。
さすがに――それは言い過ぎだろうけど。
けれど、たとえ幻の咲夜に魂がなくて、偽者に過ぎなくても、私が咲夜に惹かれた大部分は、咲夜の声や表情などの外形的なパターンなのだから、むげにできるはずもない。
幻の咲夜は私にとっては本物の咲夜と変わらない。
「時間は有限よ。たとえ幻の咲夜が人間より遥かに長持ちするといってもね」
パチェの物言いには一切の暖かみがなかった。長持ちだなんて、ひどい言いようだ。だけど私の気持ちをよく理解しているともいえた。このままずるずると幻の中に埋没してしまうのを危惧しているのだろう。物憂げな表情が、そう言っているようだった。
「気を悪くしたかしら。でも、そういうものなのよ。声も映像も有限で、おそらく一度再生されれば二度と巻き戻ることはない。記憶された映像と声は有限なのだからいつかは消え去るのよ」
「わかってる……。私だって、それぐらいわかってるから」
いまは与えられた時間を精一杯かみしめるだけだ。
また、満月の時。
私はフランの部屋を優しくノックする。ドアはすぐに開かれた。フランの顔には翳りはない。人間が死ぬという現実をさほど理解していないのか。それとも単に咲夜に対する思い入れが私ほどではなかったのか、その顔には明るさがあった。
部屋のなかにはあの閻魔の手先、古明地さとりの妹もいた。こいしという名前で、気づいたらそこにいるような娘だ。私にとっては咲夜を奪った憎いやつの関係者だけれど、彼女自身には罪はないし、妹の友人でもある。私はそこまで狭量ではない。
「いらっしゃい」と私は余裕たっぷりに言った。
「あ、フランちゃんのお姉ちゃん。こんばんわ」
こいしは私をじっと見つめている。瞳が透明で無邪気なところはフランそっくりだが、こいしの場合のそれは空虚さを呑みこんだような昏さを伴う。不思議と目を逸らさないではいられない。
「ふぅん。少しは安定してるようだね」
「何がよ」
「だって、フランちゃんのお姉ちゃん、ちょっとイド側が強すぎたんだもの」
意味がよくわからず、私はフランのほうへと視線を送って説明を求めた。
フランは肩をすくめるようにした。
「こいしちゃんは時々無意識に言葉を口走るから、気にしないほうがいいよ」
「ああ、そう……」
「ところでお姉様はなにしに来たの?」
「今日は咲夜に会える日よ。フラン、あなたもどうかと思って」
「うーん。私はいいよ」
「どうして?」
「だって、それってお姉様のために咲夜が用意したものだよ。だから私は見ちゃだめなの」
「そう。わかったわ」
フランなりに気をつかってくれていたということなのかもしれない。
私は咲夜の部屋にまたひとりで向かった。
「お嬢様」
咲夜の声に耳を澄ますと、確かに部屋全体からぼんやりと反響して聞こえてくるようだった。
「まるで、亡霊の声みたい」
「けれど亡霊の声のほうがはっきりしていますわ」
「そうね。幻想郷ではそうみたい。ねえ咲夜。あなた冥府に行ったらこっちに帰ってくるつもりはあったの?」
「ありません」
「どうして?」
「私は人間の理のなかで生きて、そしてお嬢様にお仕えしてきたからですわ。死んだ人間はこの世に来てはいけないことになっております」
「悪魔に仕えるのはいいのか?」
と、私は意地の悪い質問をした。
「お嬢様はお仕えするに足りる立派なお方でした」
「過去形で言わないでよ」
「すみません。お嬢様」
「いい。もっと楽しい話をしよう」
私はベッドに腰掛ける。背が足りなくて足が地面に届かない。咲夜はすぐそばに立っていた。
「座れば?」
「お嬢様。その言葉が無意味なことはおわかりのはずです」
「近いほうがいいじゃない」
「わかりました。では失礼します」
咲夜がすぐそばに座る。私は肌の感覚で気づく。こんなにそばにいるのに触れない。近いのに遠距離にいるような錯覚。手を伸ばしそうになって、慌てて引っこめて、そして、不器用に笑った。
うまく笑えただろうか。それも意味のない行為ではあるけれど。
「お嬢様。今日は何をいたしましょう」
「何かお話をして」
咲夜はシトラスの香りが漂うような涼しげな口調で話し始める。それは五百年の時を生きてきた私ですら知らない物語だった。千夜一夜物語みたいに、咲夜はたぶんたくさん練習して物語をためこんでいたのだろう。私に話すためにいくつも努力を重ねてきたに違いないのだ。人間の生きる時間はとても短いというのに。胸の奥がキュっと詰まった。
話しを終えた咲夜に、私はすがるように聞く。
「ねえ。咲夜。今日はこの部屋で寝ていい?」
しばし私を見つめ、
「かまいませんよ。けれど、お嬢様がお目覚めになった頃には、私の姿はありません」
「いいわ。それでも。今だけでもお願い」
朝起きると、咲夜の姿はない。
私は言いようのない寂しさを覚えて、また一つ大人になる。
咲夜との邂逅はこうして何度も重ねられていった。
私はそのたびに寂しさを深くしていったのだけれど、他方でずいぶん救われたように思う。
咲夜はこの世でたったひとつの宝物だった。
私にとっては命と等価の価値、宇宙と同じ価値を有する存在だった。
だから失ったものはあまりにも大きく、心にはぽっかりと穴が空いたようだった。
そんな空虚さを埋めることなどできるはずもなかった。
なのに、どうしてか、今はかろうじて微笑むことができる。
不思議な空間への扉を開けて、私は咲夜の幻と相対する。
「お嬢様。ごきげんよう」
「ええ。ごきげんよう」
「今日は何をしましょう?」
「いいの」私は柔らかく吐息を吐いた。「もういいのよ」
咲夜は変わらず微笑んでいる。私はテーブルの椅子に腰掛ける。
「とりあえず紅茶でも呑まない? 咲夜」
私はゆったりと頭を振った。
「いいえ。それはあなたの名前ではなかったわね。さとり」
咲夜の姿は霧のように掻き消えて、あの地底に住むいけすかない閻魔の手先が、私の目の前に現れる。
「どうして気づいたのですか?」
「体温。そして、吐息」
「なるほど、あなたがた吸血鬼は体温が低く、そして呼吸に関してずいぶん鋭い感覚を有する種族でしたね。副次的に消去法ですか――、催眠術を使える種族は数多くいるけれど、受け答えを自然にできるのは心を読める私ぐらいしかいない。合理的ですね」
「そうね。でも、本質的には――」
「本物の咲夜さんと偽者の咲夜さんを見間違うはずもない、ですか。なかなか言える言葉ではないですね」
言ってるわけじゃないけど。
「パチェにでも頼まれたの?」
「いいえ。パチュリーさんだけではありません。皆さんにですよ。あなたの妹さんにも頼まれましたし、門番さんにも頼まれました。名も無き小さな悪魔さんにも。そして、もちろん咲夜さんにも」
「咲夜にも?」
「ええ、あのような純粋な思いは、私には鋭い錐のようなものでした。まっすぐに飛来して、避ける間もなく被弾してしまいます。そして、その儚い願いを叶えたいと思ったのです」
「私の従者が迷惑をかけたわね」
「私も妹がお世話になっていますから」
「それはお互いさまでしょう」
こいしはフランの友達でもあるのだ。そこは対価的な関係が築かれていると言えるだろう。どちらが世話になっているというわけでもない。
「まあ、それはそのとおりですね。けれど、ひとつ気がかりなのはあなたの気持ちです。失礼ですけど、あなたと最初に会ったとき、とても脆い印象を受けました。こいしが言うところのイド、つまりは死にたい気持ちが強く前面に押し出されていましたからね」
「いまは、もう大丈夫よ……」
「そのようですね」
寂しさは今でも感じている。
喪失感も。
けれど、咲夜はきっと『時間』をくれたのだ。寂しさをふわふわの綿菓子のような思いに変える時間を――。
「ねえ、さとり。私たち紅茶を一緒に楽しむことってできないのかしら」
「私はあなたの大事な人を奪ったかたの手先ですよ。それでも構わないと?」
「ええ、構わない」
私はさして苦労もなく答える。
なぜなら、私は何か大切なものを失ってなお、何かを得ていくことが可能であることを知ったから。たとえば旧き友人の思いやりだったり、妹の優しい何気ない気遣いだったり、もしくは新しくできたちょっと無愛想な友人だったり。そんなかけがえのないものを。
今ならはっきりとわかるのだけど、不幸の只中にあっても、私は、たぶん幸せだった。
だから……、咲夜、ちょっと待っていて。
あっちで長めの休暇でも楽しんでいてちょうだい。
私はもう少しだけ、あなたのいない世界を生きてみようと思うから。
王道的なリリカルストーリーだ。
おぜうさまがんばれ超がんばれ。
こうゆう優しい物語は好きです。
あとがき含めてグッときました。
咲夜が死んで終わりなのではなくて、新しい友人へとつながる展開はとても素敵だと感じました。
しかし……わがままで行動的なレミリアとオトナで消極的なさとりとは……名コンビの予感。
さとりとレミィのこれからを見てみたいです