あれ?
「どしたの船長」
や、それ。とれてるわよ釦。
「あらま」
紅いリボンから目線を少し落としたところ。私が指差す丁度胸のあたり真ん中ほど、ぬえの着る服の釦がひとつ無い。ほつれてしまったのかどうなのか。
「あーあー、気にしなくていいよこんなの。別にほっといても」
そう?
「そうそう」
あっけらかんと言われても、本来あるべきものが無いとなあ。たといほんの僅かな一点の装飾であれ何だか気になってしまう。
ふむ。何時の間にとれちゃったのかしらね。
「いや別にさ。釦のひとつやふたつ取れたところでそんなに乱れぬ訳よ私の場合は。着替えもあるんだよ?」
え、そうなの。それとおんなじやつ?
「うん、箪笥に入ってる。あとさ、船長と違ってほら。そんなやわっこそーでも無いし隠すほどでも無いしというか」
なんか物凄いジト眼で見られてる気がする。
え、ええー……でもねほら、きちんとした身だしなみも大事というかね? そういうのあるじゃない?
「なるほど! そういうことか」
うん。
「この僅かな隙間から覗く柔肌! そこに容赦なく突き刺さる船長の視線……ああ! そういうちらりずむに目覚めろということよね! こう? こういう屈み具合とかどう!? この角度か! ほらみっちゃん急いで今がシャッターチャンスだ!」
違う。
*
「ほらー。それだよ船長。多分それでとれたんだってば釦……いったいんだからもうやめてその錨」
何を言うかこの正体不明。
「ほんの冗談なのに! でも船長がそれを赦してくれない、私は赦されない度にどっかんどっかん錨の一撃を喰らうわけだ! そりゃ釦だってさぁ、とれちゃってもおかしくないよね」
お決まりのやりとりになってる気がしないでもないけれど、とりもあえず眼の前の自重しない正体不明は頭をさすりながら涙目になってるのが現状。
時は昼過ぎ、秋は日々深まりつつもぽかぽか日和の命蓮寺。今日は聖輦船の定期巡回もお休みで、いつの間にか寺に居ついてしまった彼女の部屋を訪ねてみたのだった。寺の敷地は広々としたもの、故に彼女の部屋もそこそこ大きいものが割り当てられている。
私の部屋もあるにはあるけれど、普段船に乗ってばかりだしあすこにも寝室あるし。そんなんで偶に帰ってこないことっだってある。なので基本的に寺の自室はほったかし。もっとも、飾りと呼べるものはおろか散らかせる類だって置いてないから平気だった。ただそれだと埃はたまってしまうので、はたはたハタキをかけたりもする。その度、自分でも簡素な部屋だなぁと少しは感じる。
翻ってぬえの部屋はというと。なんだかよくわからないペナント(何処から持ってきたか判らないけど、何かでかい船があしらわれているやつ)だとか、どっから持ってきたのかわからないゴツめの弓矢とかが壁に備え付けられている。畳の上にちゃぶ台、更にその上番茶を淹れるための茶道具一式、一式って急須とお茶っぱ入れる容器と湯飲みくらいだけど。小脇に小さな箪笥。あと敷きっぱのお布団。天気いいんだから干そうよ。自分のことは棚上げにして、お世辞にも女の子らしい部屋とは呼びがたい。
湯飲みを手に取り、ずずっと番茶を一啜り。お茶は普遍的に美味しく心落ち着く飲み物だ。
こもごも云々は一先ず置くとして。兎も角私が船に乗ったまま帰らない、それ即ちこの寺での食卓に空席がひとつ出来てしまう訳で、さらに即ち聖は若干というかかなりしょんぼりした感じになってしまう(らしい)訳で、なるたけ帰ってこようとは思うのだ。定期巡航もタイミングを見計らうことが肝要。手放し自動運転は私の手には余る代物。それを以て尚ご飯の時には寺に居るよう心がける。朝昼晩はしっかりと。大事なことだ、うんうん。
「なにさひとりで頷いちゃって! そんなに私をぶっ潰すのが愉しいっていうの」
愉しくてやってる訳じゃないんだけど。単にあなたが自重しないだけでしょうに。むしろこれだけぶっ叩いて釦ひとつで済んでるところが不思議よね。
「まったくだわ。船長が錨振るうときってばピンポイントで私の頭しか狙わないから。お陰で部屋には何一つ損害が無い」
喜ばしいことじゃない?
「喜べないよ! 痛いんだからそれ、自重してよお願いだから。私もうぼろぼろだよ、せめて柄杓にしてよ柄杓」
ああ、これ?
膝元に置いていた柄杓を手に取り、まじまじと見やる。まあ確かにこの位ならそんなに痛く無いかもしれないわね、うん。
「そうだよ。私その柄杓だったらいつ船長にお水ぶっ掛けられてもいい位に準備オッケーだよ。そして私の柔肌にぴったりとくっつく衣服、そこにはすけすけな有様が! なんてあられも無い姿! 突き刺さる視線……ああいけない! そんな下方向からギリギリのアングルを狙うだなんてそんなけしからん実にけしからんよ危険だ! いやしかしそれだみっちゃん急いでその時こそシャッターチャンスだから!」
落ち着け。
*
『私のリクエストは……あくまで水をぶっかけられることだったのに……』
柄杓でもファイナルストライクは決められるという事実が残った。今度からはこれでいこうかなとちょっと思う。ファイナルと銘打って置きながら何度でも炸裂させられる自信がある。
おーい、大丈夫?
返事が無いところを見るとどうやら彼女は不貞腐れてしまったようで「もういい寝る! もう寝てやるこんなにお天気いいけど無駄に過ごしてやるぞちくしょうめ」あらそう、高らかに宣言したかと思えばいそいそと箪笥から寝巻き(やっぱり黒色。好きなのだろうか?)を取り出して「後ろ向いてて!」はいはい、そっから「もういいよ!」早いな着替えるの。ああ寝るときはニーソックス脱ぐんだ「暑いから!」……そうよね。きちんと元着た服をたたんで枕元に置いてから布団に潜り込んで顔も見せなかった。
ねぇねぇごめんねってば、と語りかけてもみたけれど。彼女がまさに眠りに就かんとする意思は頑なだったらしくだんまりだった……お布団に耳を当ててみたら、くかーくかーと既に寝息を立てていた。そりゃ返事するの無理よね。
仕方ないなぁ。もう。
*
まあ、なんというか。今は森をのこのこ歩きながらの道すがら。手元には彼女の服と森の地図。紙面を指でなぞりつつ進んでいるものの、果たしてこれで道合ってるんだろか? 今日は大分天気がいい筈なのに、森の中にはそれほど光が届いてこない。ぼんやり薄暗くて、それだけで道を違えてしまいそう。
釦がとれちゃった云々が本当に私が錨をぶちかました所為かどうかは与り知れずとも、若干悪いことしたかなと思わなくは無い訳で。このままにしとくのも忍びないし、幾ら着替えが箪笥に用意されているとは言えど、ほっといたら多分この服はずっとこの先もこのまんまだ。聖あたりが気付いたらさっくり新しい釦をつけてくれるのかもしれないけれど、何となく此処は私の手でどうにかしたい。あとそもそも替えの釦が都合よくあの寺の中に在るとも限らないし。
一応置手紙を残しておいた。ちょっとこの服借りていきます、盗んだんじゃないからね、と先ずは一言。魔法の森とかいうところに行って来ます、夕飯までには帰ってくるから。もひとつそんな感じで付け足すように一言。変なところで勘ぐられてもいやだし。幾ら枕元に服が無いからってまさか寝巻きを脱いだあとニーソックスだけ装着して服も着ずうろうろするなんてことは……いやいやまさか。何考えてんだ私は。
さて。こうして歩いているのにも少々は当てがある。先日聖輦船に乗り込んできた魔法使いと酒を呑む機会があって、その折の会話によればどうやらお裁縫に詳しい輩が居るらしいとか。その時点で私が興味を持ったかどうかは正直微妙だけれど、彼女はご丁寧に地図(酔っ払ってたのでかなり怪しい代物)まで描いて私に渡してきた。今はその地図が頼り。
『適当に迷ってても着くと思うぜ? それにあいつ世話焼きだからな、困ってるやつはほっとけない性質だ。見つけて貰えるやもしれん。誰かは直ぐ判ると思う、いっつも人形と一緒だから。ちっちゃくて可愛い人形だぜ? あいつ人形遣いなんだ、だから裁縫とか得意でさぁ。今日も来れば良かったのにな、そしたら紹介したのに。立て込んでるから無理とか全く……まあいいとりあえず呑もう! な?』
頼りを描いてくれた彼女が適当過ぎて心配。それでも足を動かし前に進むよか仕方なく、ざしざしと枯葉を踏みしめながら歩く。
見渡す限りの樹、樹、樹。今は秋なりに暖かい塩梅とは言えど、いずれ葉っぱを脱ぎ捨てて寒々しい姿になっていくのだろう。森というものも歩くのは随分久しぶりな気がしていて、眼に入る光景は私を飽きさせることが無い。風がほんの少し吹くだけで、森は小刻みに震えるのだと思った。その辺りは海と違う。あれは本当に恐ろしい。風が吹けば波立つけれど、海はおのずから大きなうねりを孕んでいる。そういうもの。決して抗えぬもの。
今見ている森はどうだ。例えば夜は? お天道様が高い頃合でも、降り注ぐひかりは少ない。ひょっとして、夜の森は今と全く別の顔を見せるのか。
そうやってとりとめなく考えながら歩いていると。
「あら?」
後ろの方から不意に声をかけられる。
振り向いてみれば見知らぬ娘の姿。こんなに近付かれるまで気付くことが出来なかった。大したこと考えてた訳でも無いのになぁ……
金色の髪を右手ですぃと梳きながら、何とも優雅な様子。左手にはバスケット、何だか満杯に詰まっている様子。きのこ? きのこか。
「見ない顔ね。迷ったの? そうだったら、ちょっと家で休んでいったらどうかしら。お茶位出せるわ」
ああ。是非ともよろしければ。
彼女の傍らに佇んでいる人形が、「オウチヨイトコ、イチドハオイデー」とか言いながらその小さな両手をぱたぱた上下させている。あら可愛らしい……でも喋れるって凄くない? それ。
ふぅむ。私の色々な心配事は、どうやら杞憂に終わったらしい。
*
「あー、あなたがムラサね、最近幻想郷に来たっていう。覚えたわ。はじめまして、私はアリス・マーガトロイド。アリスでいいですよ、みんなそう呼ぶから」
はじめまして、と一先ず返しの挨拶を。
アリスと名乗る彼女(あの黒白魔法使いはそういえば名前を教えてくれなかった!)は、人当たり良さげな微笑みを浮かべている。
「うん。くだけた感じでいきましょう。私に用事があったのよね? 逢うのは初めてだけど、話は魔理沙に聞いてるから。お酒強いんですって? 船長は酔いに強い云々」
ああ、そんなことも言ったような気が。
宴会の場で件の魔法使いにあんまりにも絡まれるものだから、とりあえず一騎打ちの呑み比べで沈没させてみた。若い若い。
「また一緒に呑みたいって言ってたわ。二日酔いで頭いたいいたい言いながらのたまうんだもの。立派な呑兵衛よねあいつも」
苦笑いしながらも、彼女は何処か愉しそうだ。
ああでも、こないだの宴会にあなた居なかったわよね?
「用事があってね。新しい人形作ってて調子が上がってきてたとこだったし。夢中になっちゃうのよね、どうしても。時間は幾らでもあるってのに、人形に関わると『今しか出来ないかも!』とか思う訳。そうやって手をかけたものは個人的に納得いくものになるの。それでもまだ飽きて足りることが無い。趣味って大事だわ。ま、呑み会については近々埋め合わせするつもり」
人形遣い、か。その名に相応しく、彼女の家には本当に沢山の人形が並んでいる。遠眼から見ても判る位に丁寧に作られたらしいそれら。表情はどれもこれも、まさしくお人形として静かに沈黙しているけれど、……何かしあわせそうな。そんな満足気な顔で微笑んでいるようにすら思える。
この子たちは、きっとあなたに愛されているのね。
「褒められても出せるのは紅茶くらいだけどね」
彼女が言うと。先ほど彼女の傍らにいた人形が、自分の身体と同じくらいの大きさをした陶器を持ってカップにお茶を注いでくれた。「ドウゾー」とかその子が言うし、折角だから頂いてみることにする。
……うん。この「紅茶」と呼ぶらしいものを飲むのは初めてだったけれど、日本茶とはまた違った味わい。なんというか。お花のような感じと言えばいいのか? 好きになれそうな香りと味だった。
ありがとう、おいしいわ。
「ドウイタシマシテー」
人形はぺこりとおじぎ。
凄いわねこの子。あなたが操ってるんじゃないの?
「基本はね。言葉だって、私がある程度想定したものを組み込んでる。感謝の意味を受け取ったら、それに対するお返しを。セミオートマトンね、所謂」
せみおーとまとん?
「半分だけ自動で動く人形。『半分』ってのはね、何か刺激があれば其処から反応を返すことが出来るもの。あるいは、あたかも自分で行動しているように見せるもの。其処までは辿り着いたわ。情報を咀嚼して飲み込んで、行動したり話したり出来るようにさせるまでは。私が目指すのはね、完全に自律した人形。それが出来たとき、私の魔法は私から切り離されて完全に独立するような気がするの。それは新たな命を生み出すということだわ? 私では無い何かを作り上げる。其処に至る為なら、この先ずっと生きていてもいい位」
そう語る彼女の眼はこれでもかと言う程に輝いている。
命、命か。私はそれを持っている訳では無くて、この先もずぅっと幽霊妖怪やることになる訳で、それでもこの姿かたちが残るなら。それは生きていると言ってもいいんじゃないかって。そんなことを思ったりする。
「ごめんなさいね。人形のことになると熱っぽくなっちゃって。あなたの用事を訊いてなかったわ」
そうそう、そうなの。これなんだけど……お裁縫が得意って聞いたから。
と、手持ちの服をテーブルの上にのせる。言いながら、今更の話高々釦ひとつつけて欲しいとお願いするのも悪い気がしてきた。
なので少し言葉に詰まらせていると、ふむ、と彼女は言いながら服を手にとって広げる。
「ワンピースか、随分丈が短いのね。もっと短くして欲しいの? 丸見えになるわよそれだと。若干刺激が強くなるわね。下着……そうねドロワーズを敢えて見せるという選択肢も……アリか」
いやいやいやそうじゃなくてあとそれ着てる娘ドロワーズ穿いてる訳じゃないだろうから違う違う元々なんも穿いてないとかそういうことを言いたいんじゃないのよとにかく駄目なのただでさえ際どいのに!
「落ち着いて? ……ああ、釦か。とれちゃってるわね、成る程これじゃあ服がかわいそう。人形も一緒なんだけど、身に纏わせるものにぼろが在っては拙い。きちんと身体を包み込む、それが服の役割。任せて、直ぐに済むわ」
彼女はにっこり笑顔を返してくれる。
あぁ……いいひとで良かった。ありがとう。
「どういたしまして。上海、取ってきてくれる?」
「ガッテンショウチダゼー」
……お人形の口調が変わったような気がする。
これ、あなたが組み込んだ言葉なのよね? そうよね?
「ある程度は。部分的に魔理沙が吹き込んだ台詞も入ってるの」
*
ざらーっ、と。小さく可愛らしい(たまに小粋な喋り方をする)お人形は、いっぱい詰まってるらしい袋の中身をテーブルの上にぶち撒ける。
釦、釦だ。色のとりどり、大小のひきこもごも。
「何か気に入ったのがあったなら。この服に元々ついてるのに似てる釦もあるけど、この際遊び心を加えてもバチは当たらないと思うわ」
うーん……
これだけ沢山あると迷ってしまう。とりもあえず、ひとつひとつ手にとって確かめてみることにした。基本どれもまんまるいけど、かたちも様々。三角四角、星を象ったらしいものも在る。手触りはすべすべで、なんだか貝の内側に似ている気がした。
さて此処から、ぬえの服に取り付けるべきものを選んでみよう。無難なものなら割かし直ぐ見つけることが出来たので、それを脇に寄せておく。でも今「遊び心」という言葉を受け取ったからには、もう少し検討してみてもいい。
「釦、っていいわよね。服を留めるという役割を持っていながらにして、かたちや色を以てその存在を存分に主張する。この服は黒だからね、釦が映えるようにするには明るめな色がいいかと思うけど」
実際の処、私が候補と見込んだ釦は全部白っぽい色だった。決めてしまうのは容易かろうと、尚もざらざら釦の山を漁ろうと試みた……のだが。
えっと、何してるの?
「気にしないで、趣味だから。釦つけるついでにバージョンアップを図ろうかと。この辺とかどうかしら? 襟元にもついてるし、それに合わせる感じで裾にフリルつけてもいい? 可愛さ三割り増しになるわ」
……お任せします。
それ位しか返せない。そして私の言葉を受け取るや否や。彼女は嬉々とした様子かつ物凄い速さの手つきで、フリルを裾に縫い付けていく。替えはあるって言ってたし、一着くらい女の子女の子しても別にいいわよね?
目ぼしい釦はあらかた選んで、けれど服に縫い付けられるのは一個だけ。簡単に決められるものだと思っていたのに、いざとなると迷ってしまう。
暫く唸っていると、お人形が釦の山にぼすんと突っ込んでざらざら漁り始める。
「コレハイカガー?」
ん? ……え、こんなのあったんだ?
手渡された釦ひとつ、まじまじと見やって。多分この子は、私の服から情報を読み取った上でこれを選んでくれたのだろう。でも、私の服につけるんじゃ無いからなあ……うううん。
「あら、いいんじゃない? ひとつアクセントが利いてても。あなたからのプレゼントってことにしておけば」
そ、そうかしら。でもなんかこう、恥ずかしいというかなんというか……
「気にしない気にしない。あ、つけ終わったからね」
ひらひらと服を広げてみせる彼女だった。大袈裟になり過ぎない程度、そして胸元のそれとよく調和した感じのフリル。思わずほぅと溜息をついてしまった。ぬえはこれを見たら驚くだろうか?
そして、後は釦。釦をつければ……
「うん。ねぇムラサ、お裁縫の経験は?」
ほ、ほとんど……いや、無いです。
「そう。折角だからこの際覚えてみるのもいいかもね。案外愉しいわよ? 色んなものを縫いたくなってくるから。教えてあげる。最初の一歩がこの釦付けね。侮ってはいけないわ、固く糸を結びすぎても留め辛くなるし、緩くしすぎれば直ぐにほつれてしまう。それでいていつまでも、ずぅっとそれが取れてしまわぬように。大丈夫、案ずるより産むが易し! さ、やってみましょうか」
*
促されるままに私は針と糸を手に持って、そこから暫しの悪戦苦闘と相成った。まず、針に糸が通らない。唾で糸を濡らし指で捩って、狙い定めているのに入らない(アリスの言によるとお約束らしい)。細かい作業はきっと私には向かないんだな、と早々にしょんぼりしていると。「ガンバレー」とお人形に応援されたので何とかしてやる気を奮い立たせた。
そしていざ縫い付けが始まったら、その途中にて自分の指に針を刺してしまう(これもやっぱりお約束らしい)ことも少々。その度に涙目になりつつも指をちまちま動かし続ける。いったいってばもう針刺さるの……
つぃと布刺し針通し。程よく留まってくれたなら、きりと結びて出来上がり。
ちょん、と鋏で余り糸を切って。たったこれだけの事なのに、何だかとても満足感があるように思えた。
「お疲れ様、いい感じじゃないの。面白いでしょ? 慣れてくると、もっと愉しくなること請け合い」
ううむ、そうかも。彼女がフリルつけたくなるのも何だか判るような気がする。ちなみに聞いた話によると、アリスが今着ている服は自分で縫ったものだとか。到底私が至れない境地を彼女は体現している。
「私も久々に普通の服とか縫いたくなってきたわ。あなたの服も可愛らしくていいわよね、キュロットスカートってあんまり周りじゃ見ないし」
ああ、これ? 船乗りの正装みたいなものかしら。よく判らないけど。
「そう。動きやすそうね、機能と見た目が両立している感じ。次はそういうコンセプトで言ってみようかしら……うーん。ああでも」
うん?
「もう少し裾を絞るともっといい感じかしら? それだと口が広いし、隙間から下着を覗かれる可能性も否めないわ。絶好のシャッターチャンスになってしまうかもしれない」
さっきからそればっかり気にして無い!?
「大事なことよ。常識に囚われてしまってはこの幻想郷において生き辛い。常に狙われてるくらいの意識で丁度いいくらいだわ。それならいっそのこと服の素材を部分的なシースルーに……いやそれだとかえってあからさま過ぎて」
ええー……
そうやって若干自重しなくなってきた彼女を余所に。ふと窓の外を見やれば、紅色のひかりが部屋に差し込んできている。もう夕方か、寺では食卓の準備が始まっている頃合だ。
えっと、今日はありがとう。そろそろ戻らないといけないんだけど……
「どういたしまして。ああ、もう夜が来るわね。送ってあげましょうか?」
ううん、お構いなく。地図もあるし、多分迷わないで帰れるから。
「気が向いたらまた遊びに来てね。あと、夜の森には気をつけて。あなたなら大丈夫だと思うけど、お日様が昇ってる時とは全然違う顔になるから」
*
ほう、ほう、ほう。
昼時には聴こえなかった獣の声らしきものが耳に届く。
ざし、ざし、ざし。
懐にぬえの服を抱いて、一歩一歩踏みしめながら私は寺へと続く道を歩く。
夕暮れ時が終わってしまうのは本当に早かった。辺りはとっぷりと闇に漬かっていて、アリスに持たされたランプがあっても視界が何だか心許ない。
別にこの夜の森が恐ろしい訳では無い。何かに襲われても撃退出来る自信があるし、そもそも一度死んでるし。
行きは目的地が森の中と知っていたから歩いたけれど、空を飛んで帰れば寺には直ぐ辿り着ける筈なのであって。でも、もうちょっとそもそもな処を言うと。何だかこの森を彷徨いたい気分だったのだ。
少しだけ予想出来ていた通り、そしてアリスが言っていた通り、夜の森は日中のそれとは別の顔を現した。
道らしきものは在る。けれどそれが何処に繋がっているのか、地図が手元に無ければきっと全然判らないことだろう。
ざぁ、ざぁ、ざぁ。
風は吹いていない筈なのに、森の樹々が揺れている。
この音が、ほんの少しだけ。私がよく知る「海」と何だか似ているような感じがした。
海の上には何も無い。昼ならばお天道様が、夜ならば星のひかりだけが進む頼り。
今はどうか。周りには草が。花が。樹の幹が。そして枝が。様々なものが「在り過ぎる」。それらが複雑に絡まりあって、網を張っているかのよう。在り過ぎて、判らなくなりそうになる。
同じだ。全てを呑み込み、返さぬもの。此処は陸(おか)に在る海だ。
暗いのは恐ろしい。そんな恐ろしい場所に、ずぅっと私は佇んでいた。
今は違う。周りには一緒に居たいひとが居て、笑ったり怒ったり、偶に泣いたり……でもきっと、喜びに溢れた過ごし方が出来るに違いない。
柄にも無いなぁ、って。そんな事を思ったりしていると。
『……ぉー』
森のざわめきに紛れ、微かに声が聴こえる。森の上、その遥か向うから。
『……、せんちょぉー! ……』
ああ、起きたんだ。見上げれば、樹々の隙間から覗く空に正体不明の影が見える。
『船長もといみっちゃーん! ご飯だよお家帰るよー! あと服盗らないでよ幾らシャッターチャンスだからってー! 心の準備とかあるからー!』
その声を聴いた瞬間に私の準備は全て完了していた。
ぃよっし忍び寄れ私の柄杓ぅー!
*
「きづいたら、ささってたの、あたまに」
大声で誤解を招きそうな発言をした輩が何を言う。
渾身の投擲が見事ファイナルストライクした暁に、正体不明は私の眼の前に墜落した。ひょっとしたら服を着ないままに空を飛んでいたんじゃないかと心配したけど、そこはどうやら大丈夫だった様子。いつもの服に身を包んだぬえが眼の前で頭をさすっている。
「遠距離でも頭狙うとかさぁ、ほんと……船長はスナイパーに改名するべきだと思うんだけど」
何よそれ……
「それでさ、船長。私の服で何がしたかったのさ? きれいにしてるつもりだけど、それで船長が何をしてたかと思うと……やだもうみっちゃん何言わせるのさうふふ」
自重しない思考から離れろ。……えっとね。これね? はい。
手持ちの服を手渡すと、ぬえその肩部分を摘んでぴらりと広げる。
「なんかスカートにふりふりしたの付いてる! 何これかわいい!」
うん。私もそれ可愛いと思う。
「あっ、……」
そう、彼女は一声漏らして。
「おそろいだ!」
そのままくるくると回り始めた。
……まぁ。お揃いなのよ。どう? その新しい釦。
「よくこんなの在ったね! ふふ、やったぁ。みっちゃんとおそろい! ありがと、大事にするね!」
あんまりにも屈託なく喜ばれたものだから、何だか照れてしまう。
あー、大事にしてよね、って。後ろ頭を掻きながら返すくらいしか出来ない。
彼女の服から取れてしまった釦がひとつ。その代わりに今、新しいものが取り付けられた。
普段彼女にぶちかまして居るもの。私がいつも被っている帽子、そこに描かれている錨を象った釦。
結構頑張ったのよ? そのくらいでも。
「ううん、嬉しいよ。よし決めた、これ勝負服にするから!」
何と闘うのよ何と。
よく判らないことを言いながら、ぬえはぴょんぴょん飛び跳ねている。こんなにも喜んでくれるなら、指を絆創膏だらけにした甲斐があるというもの。
まぁ。とりあえず帰りましょう? お腹空いちゃったわ。
「そうだね。家までなんてひとっ飛びだってば。皆待ってるよ、船長が帰ってくるの」
なら、急がないとね。
大事そうに服をぎゅっと抱いたぬえとふたり、夜の森を抜け出し空を飛ぶ。
暗い森。その陸の海に、私たちは呑み込まれたりなんかしないのだ。
* * *
冬の足音が聴こえ始める命蓮寺。寒い朝はお布団から出るのが辛い。
でも何とかかんとか這い出ねば。今日は定期巡航の日、仕事と自らが決めたものにはしっかと赴くことが肝要。
もそもそとお布団から出て、それを畳んで部屋の隅に寄せておく。
寝巻きからいつもの正装に着替えようと思い、箪笥に手をかけ開いてみると。
……服が無かった。
どういうこと?
いつも着替えをしまっている段はからっぽで、残りの段も確かめてみると下着とか靴下とかそういうのは残ってる。でもきっかり服の上下だけ無い。
何にも見当たらないと思われた箪笥の段をよくよく確かめてみると、紙きれが一枚入ってる。なんだこれ。
『服、借りてくね! 盗ったんじゃないから! みっちゃん起きる頃に帰ってくるから!』
あんにゃろう……一体どうするつもりだ戻ってきたらファイナルストライクだな、と起き抜けで上手く働いてくれない頭で考える。
そんな折で、ぴしゃーんと部屋の襖が開け放たれる音が響いた。
「おはよう船長! いい天気だよ!」
……おはよう。なんでそんなテンション高いのよ。
予想を裏切らず、眼の前に居るのは正体不明そのものだった。
「見て見て! 私頑張った!」
んー?
私の箪笥から奪っていったらしい服を受け取った。その際、ぬえの両手の指が絆創膏だらけになってるのに気付く。
ああ、そういうこと?
手元の服には、ぬえが普段着ている服にも描かれている正体不明な柄があしらわれていた。そうは言っても、大分小さくしたワンポイント程度のやつが胸元にちょこんと。
あとはキュロット。裾が絞られてる……考慮してくれたのかしらね、色々と。
「ほらほら。おそろいだよ私のと」
恥ずかしいことするなあ、もう。
でもまぁ、いいか。そんな風にも思えた。だから素直に、感謝の言葉をお返ししよう。
ありがと、ぬえ。
「いやいやそれほどでも! 今日はお披露目だね。とりあえず朝ごはんだよ、頑張ったらお腹空いちゃった」
はいはい、着替えるから先行ってて?
「判ったー」
部屋を出る際。フリル付きのワンピースを翻しながら彼女は言う。その胸元にある錨型した釦が、朝日を浴びて輝いているような気がした。
着替えてから、新しく増えた服の模様に手をやってふと考える。
今日もいい一日になるかしらね、と。
そしてぬえ自重w
上海の台詞も可愛いと思うものから、笑ってしまうものまであって良いですね。
>部分的に魔理沙が吹き込んだ台詞も入ってるの
バカジャネーノの謎が今とかれました。
あとは、えーと、えーと……言いたいことがたくさんありすぎて語りつくせないジレンマ。
みっちゃんもぬえもアリスも、みんな可愛かったです。
ありがとうございました!
自重しないメンバーが素晴らしい。
ぬえメインの話しを読んでみたくなった。
ニヤニヤしながら読める作品って読んだ後も気分がいい
素敵な何かが聞こえてきそうなお話でした。
やわらかみっちゃんで間違いないです。
白蓮さんはふかふかです。
さぁ、胴上げだ。
とりあえずおかわりを書こう、な!
ぬえもアリスもいい感じに暴走してますねー。
そうか……ぬえは穿いてないのかw