(そういうものだろう)
晴やかならざる目覚めを経、私はそう、高い天井に向けて独りごちる。
完全に完璧になろうとすればするほど、そこに粗が見えるようになるのだから。
それを成長と、進化と思うためには、その段階の推移から圧倒的な歴史の変遷が待たれる。
生命は、発端の瞬間から確実に負のベクトルへ己を傾けるのだ。
鼓動は、呼吸は、思考は、歩行は、これ即ち、明日という名の終わりへ向う為に、神なる者が用意した自殺の手段である。
だが。
(それにつけても―――)
** 師走某日 火曜 朝
―――頸をもたげて窓の外を見遣ると、青い空が見えた。
かと思うと。
突然、バチィン、と何かがはち切れるような音がして、私はくるくると回る目を止める事も出来ずに意識を失った。
** 師走某日 火曜 昼
今日はおそらく、私にとっての厄日なのだろう、と思った。
時として、お節介は猫を殺す。
語の間違いではなく、この場のみの造語だ。しかし、意は読んで字の如くである。
この場合の猫とはつまり、私ことパチュリー・ノーレッジにあたる。
無論、譬えだ。私は健在であるし、誰かにお節介を焼いたのでも無い。況して猫などであろうものか。
多分に散逸的な思考になるが、単一の生命存在として見た場合の私は頑強であり、この命脈を断てるのは私の同業者に類する存在だけである。久遠に放置されようと時空の狭間にずらされようと、痛いし痒いが死に終わりはしない。
しかし、一個の具象個体としての私は脆弱の極みだ。一言、病人であるとそれに尽きる。放っておけば三日で死ぬ。
惰弱なこと限りなし。
繰言めいた思考は、自分の置かれた状況の悪辣たる様を見受けてのものだ。
意識の覚醒は時として復活の喜びを伴う。覚醒の前段階が睡眠であるか、否や、気絶であるかという点が大きな差だろう。
しかし私の場合、どちらであろうと覚醒は在り難いものだ。睡眠中は未読の文書に目を通す事が出来ない。夢を夢として見る事が出来ない私には、どんな夢であっても退屈なものでしかないのだ。いっそ途絶して時間を跳躍した方がマシだとさえ思う。
悪辣たる状況とは、そういった意味合いを多分に含んだ、私なりのジョークのようなものだ。
つまり、まともに本を読んでいられない、という。
私は今、木陰に隠れて陽光を避けている。そう、木陰だ。
外に、いるのだ。図書館の外。
紅魔館外庭の木々のうちの一つに背を預けて座り、私は湖上に浮かぶ紅魔の紅い島を見渡して、いつもより深みを増した長い溜息を吐いては、小憎らしい程に突き抜けた蒼穹に対し胸中で恨み言を連ねていた。
(分を弁えろ・・・冬空がこんなに生温くていいものか)
無論の事、八つ当たりだ。大体こんな愚痴が聞き入れられるはずもない。故に口には出さず静かに天を仰ぐ。一点を集中して見るつもりも無いのに、じっと目を細めて睨めつける。特に意識しての事ではないが、どうしても私にはこの青色が憎らしく思えて仕方が無いようなのである。そんな性癖がいつから私にあったものか、さてとんと身に覚えのないことなのだけれど。
詮無きことと知りつつも思う。
何という晴やかな、真実雲一つ無き晴天――お呼びではない、去ね、と。
「あのぅ・・・パチュリー様?」
蒼だけが映る視界の外から恐る恐るといった気配の声が聞こえ、私は空へ傾けた首をそのままに軽くそちらへと目を動かす。と、視界の端に、一人の女性の姿が映し出された。
女性、と一口に言ったところで、紅魔館には男性に属する生命存在が生息していないのだから、その人物が誰であるかということを端的に表した言葉とはなりえまい。
が、私自身は既に声の聞こえた時点でこの相手が何者であるかを推量し終えている。故に私はこの人物を容姿等外見的特徴の記述から想起させようとは思わない。至って面倒で、極めてどうでもよい事だからだ。
「何、キーパー。私に用でも?」
殆ど感情を篭めずに応える。キーパーと呼んだのはこの女性が紅魔館の門番であるためで、固有名詞ではない。
名は・・・
はて。
自慢ではないが私は記憶力が十全でない。しかし必要な事やかなり必要の無い事をそう易々と忘却しては魔女の名折れであるから、こうして名を思い出せずに逡巡するというのは実に珍しい事である。記憶喪失? まさか。人一人の名を思い出せないなどと都合の良い、あるいは悪すぎる冗談だ。
要するに、だ。私自身にとって、彼女という妖怪は居ても居なくても良い存在だということなのであろう。間違いあるまい、兎に角まともに応対するのも憚られるほどなのだから。
断っておくが、これもまた八つ当たりである。私とて、自分には無価値に思える生命であれば皆冷遇してよいと考えているわけではない。全ては、今、私の手元に本が無い、という厳然なりし残酷な現実の為せる業――これぞ正しく業というべきもの――なのだ。
「ええその、お加減を窺いに・・・いかがです? 眩暈とか、吐き気とか、治まりましたか?」
「まぁ、概ね。体調はすこぶる付きで良いわ」
目を再び空に向けそう言った私は額にうっすらと浮かぶ汗を感じていたが、それはこの暖かすぎる空気からすれば自然な事で、それさえ除けば頭痛も無く気管支も狭められていない現在の体調は良好だと言うより他無い。
その快調を齎したのが視界の端に居るこの女性であるという事実を考えれば、礼の一つも言えて然るべきであろうとは思う。思うのだが、私の貪婪な欲求はそれさえ押しのけて質問を望むのだ。
一刻も早く、私の居場所を取り戻す為に。
「それで、図書館はどうなってる?」
「あ、はい。今のところはメイド衆が四番隊まで出張って、なんとか館外への被害を防いでます。
肝心の図書館内部の状況ですが、ハッキリとしたことは何も・・・ただ、既に火口からの噴火活動は止んでいて、
流動しているマグマも今日中には固化するだろう、というのが私個人の見解ですね」
「ああ、私もそう思うけど・・・確信があるの?」
何やら自信ありげに答えるその声を受けて、私はようやく首を回し、何時の間にか傍らまで接近していた女性の姿を見遣る。言質を判然とさせるには、やはりどうしても表情を窺う必要があると思ったゆえの事だ。
その整った相貌は、声色と同様の自信に満ち満ちていた。ならば、今の言葉に偽りや誤りはあるまい。
「十中八九、違いは無いかと。気脈を測りましたので。
実物こそ見てませんけど、火口の相対位置も凡そ把握できていますよ」
「ふうん」
気脈。この場合は流れ、そのものとして意見を取り入れるべきなのだろう。彼女の言は、その本人のみが持ち得る東洋の神秘、気という概念を元にした一つのパラダイム、私とは根の異なる体系に基づくものだ。大元を辿るなら全ては同根と見ても良いのかもしれないが、今この場においてそれを論議するのは浅薄だろう。同種と信じるには思想の偏りに差がありすぎる。
だから私は彼女に解説を求めず、「じゃあ」と繋ぐ形で重ねて質疑をぶつける。
「紅魔館内部に異常区域は? それと、レミィや咲夜はどうしたの?」
「紅魔館は普段から異常だらけですけど・・・お嬢様は、メイド長をお供に、博麗神社へ」
「ああ・・・そう」
半ば呆れの入り混じった嘆息を添えて、またか、と胸中で呟いた。
レミィ――レミリア・スカーレットは紅魔館の主だ。私の数少ない友人であり、この紅魔館に私が居候する事になった原因でもある彼女は、とある夏の日に引き起こした騒動をきっかけに彼の境界、博麗の御社に立ち入る機会を得、以来というもの何かに付けて日々の暇をその場にて過ごすようになった。友人を得たと言えば聞こえはいいが、実情、住民である巫女にとっては迷惑以外の何者でもあるまい。
とは言え、神職にある者が、妖魔の類を己の神の庵へと簡単に迎え入れてしまうという事実、それこそが問題の発端であると言えるのだから、その事で私が当事者たちにとやと言うべきでも無いのだろう。
しかし、真昼間に自宅を離れ、あまつさえ神社へ向かおうという悪魔の心理というのは、一体どういった構造をしているのか。歴史の浅い百年魔女程度には計り知れない深謀遠慮が介在しているのかもしれないが、彼女に限ってそれはあるまいとも思える。それは私にとって、彼女を少なからず理解している、或いは理解していたいという自意識の表れだ。喜ぶべき幸い、なのだろう。
にしても、今この場に立ち会っていない、というのが彼女のスタンスとして正しいかどうか等という事は余人の判断を待たない、筈なのだが。
「呼び戻せない?」
「有事の際も、緊急を要さなければ個々の裁量でどうにかせよ、とのお達しで・・・」
「・・・これは緊急ではない、と」
「失礼ながら、モデルケースと比較した限りでは、現状は無傷と言っても差し支えが無い程ですね。
少なくとも今お二方を呼びに行った者は、二度とこの湖を拝む事は出来ないと思います」
キーパーの、何故かこれも自信に満ち溢れた言葉を聴いて、私は何度目かの嘆息を重ねる。人使いの荒さは流石に人外だ。もっとも使われる方も人外だらけだから、心配するのもお門違いではある。
「物騒な話だわ、どちらにせよ。
――ったく。一体何処の誰なの、人様の居住空間をホットスポットと繋げた奴は。どう考えたって、正気の沙汰じゃない」
「人里に発生してたら、えらいことになってたでしょうね~」
「あなたも暢気ね・・・他人事だと思ってるでしょう」
「そそ、そんな。そこまで薄情じゃないですよ、私」
「ま、そんなことはどうでもいいのよ」
ばっさりとキーパーの弁解を断ち切り、目線を彼女のそれから外して紅魔館の全貌に向けた。
紅い、紅い、悪魔の館。
「・・・?」
何か、言い知れぬ違和感を覚える。いつもと、どこかが違う、のか。
しかしキーパーは確かに言った。紅魔館はいつも通りだと。言われてみればその通り、なのだろう。私にしたところで、この館の外観をそう日常的に見るわけではない。であればこの場に立つことが仕事である彼女の言こそが真だということになる。
どちらにせよ、どうでもいいことなのだ。
「どちらにせよ、どうでもいいことなのよ。あなたが薄情であろうと、館が薄情であろうと、ね」
突き放すように言う。すぐ隣でキーパーの息を呑む音が聞こえたが、構う事は無い。魔女とは嫌われ者という意味だ。そんな奴に協調性を期待するほうが間違いというものである。それをも解らないようでは、こんな館のゲイトキーパーは務まるまい。
況して、彼女の力は気だ。私の言わんとしている所は既に察知しているだろう。
足手まといはいらない。
「それじゃ、此処は任せたわ」
キーパーに見向きもせず言い捨て、私は木陰を離れ館の門へと向って歩き始めた。
背後に、憮然とした面立ちを思い浮かべながら。
『しゅわしゅわと引っ切り無しに泡を立てる
その水玉模様が 爽快を想起させるその原始的な運動が
どうしてこんなにも
劣悪に感じられるのだろうか
大切なのは泡の中身なのに
それも判らないきみたち
いつまでもそうしている
そう
だから、暑すぎる火曜は蒸発する』
遠い追憶から揺り起こされた詩を、無意識に口ずさむ。昔読んだ詩集にあったものだ。
この詩を書いた詩人は薄命の天才であった。彼は、とある日曜日から一週の間、曜日ごとに違う詩を書き、週の終わり、土曜日にその短い生涯を閉じた、と。
などと、役にも立たない知識を掘り起こして思い返す。大いなる無駄だ。しかし、無駄こそが知識の骨頂である。道具として活用するのは知識そのものに対する最大限の冒涜行為だ。知識はそれだけで知識として完成している。役立つようなものは最早知識でなく、泥臭いただの知恵と成り下がる。純度が失われるのだ、情報であるという純粋さが。
そんな泥臭い知性を好むのが、人間という生き物だ。その事を否定するつもりはさらさら無い。それは、そういう生き物であると運命付けられているのだから。私自身が、単なる知識たる知識を好むのと同じ根拠で、である。
そしてこの図書館は、そんな人間にとっては壮大な無駄の塊としか思えないのだろうと思う。私にとってのこの場の重要性を裏返しにした形、無駄に対してただ無駄だと思うその雑感こそが彼らの全てであるからだと、私のような人ならぬ魔女は考えるのだ。
私にとっての無駄とは、書の中にある空白部分、改行によって生じるスペースのみである。それは読めないものだから、読み飛ばすより他に為す術も無く。
ヴワル魔法図書館。果てしなく広く、また掌にも収まるほど小さいこの矛盾禁書空間は、世の本という本が全て記録された“知識の巣窟”である。
何故にこの異常が、現在時制に存在する紅魔の館に、そのセグメント・ワンとして係留されているのかは、私の百年の魔道を持ってしても知り得ない『不思議』でもある。
そして、この不思議は幾多の(あくまで図書館それ自体と比べるならの話であるが)小さな不思議を内包している。図書の一冊一冊が不思議であるし、それがグリモワールであれば更なる小不思議を含有している事になるわけで、言うなればこの普遍なる大ヴワルは一個のスペース、無数のコスモを包含した大宇宙のようなものだろう。
因むに、引用した詩集の題はとうに忘却している。さして重要な事項でも無いだろう。書名などというものは、著者が参照や引用の為に要するものだ。内容だけを覚えていればいいのだ。私はそれを他の誰かに伝えようと思っているわけではないのだから。
『題名は本の中で最も大切なものだ。だが、内容を忘れてはならない』とは、極論すればそういった意味合いと取れる。語の解釈など万別だ。画一化するばかりではお終いが近い。
ばたん、と。
何時の間にか、図書館の中に入っていた。鈍重な扉の締まる音が背後から響くのを聴いて初めてそれに気付いた私は、思わず片側の頬が吊り上がるのを自覚する。
妄想家の多分に漏れず、私も思索に耽ると近視眼的になりがちであるが、図書館の訪問者に対し重々しく立ちはだかる筈の鎧戸を押し開いた記憶も無いまま、こうして館内に佇む己を発見するというのは、さて自分の集中力の高さに自信を持つべきなのか、それとも注意力の無さに不覚を恥じ入るべきなのか。笑える話であることは確かだが。
果たして、私の予想に反し、館内には涼やかなしっとりとした空気が広がっていた。
(・・・妙な)
キーパーの伝えた報告――館外にてメイド衆が云々――を想い起こしながら、私は図書館の『上空』にふわりと舞い上がる。この図書館の天井は高く、書棚だけで形作られた巨大な迷路を眺め見下ろす事が出来る。そのまま私は異常の中心地を目指して、のたくたと入り組んだ本棚の迷宮を飛び越えてゆく。
異常の中心、即ち、この図書館内に突如空間を越えて勃興した、毒々しいほどに赤い“火口”の事である。
思い返すよりも早く、それが吐き出したマグマの、既に冷え固まって岩となった塊が、本棚の迷路を用水路のようにして、律儀に入り組んだ形を為してそこにあるのを見る。
黒々とした溶岩の道を辿れば、そこにはこれこの通り。
私が棲家としているこの図書館の、私がしばしば寝床としている木造りのデスクをどろどろに融かし焼き尽くしたその“火口”が、魔女の大釜のようにぽっかりと口を開け、中からぐつぐつと煮え滾ったモノとも何とも判別できない、ただ赤いだけの液体をぼこぼこと吹き出していた。
辺り一面がその火口の緋いゆらめきに照らされて赫く染まっている。近寄るにつれてそれがどんどんと大きく見え、肌に感じる温度の変化がその熱の凄まじさを否が上にも伝えてくる。
「・・・」
腹の立つ穴であると、そう思う。この紅蓮を招聘したものの意図が何であれ、私はこれのせいで大きな災厄を被っているのだ。
人の眠りを妨げ、我が愛用の机を粉砕溶解し、挙句棚の最下段の本に甚大なダメージを与えた罪は、この火口の繋がっている先よりも深い。深海、海底火山の爆火より、マントルそのものよりも、星の中心核自体よりも、だ。
深度とは引力発生源からの距離に他ならない。だから、私の心の奥底、私という存在の中心で勃発し、表面からは遠すぎて私自身にすら見る事の出来ないこの苛烈な怒りの持つ引力は、こんなちっぽけな火口如きの持つそれとは比べ物にならない程の重みを持っている。
四方を天衝く書棚に囲まれ膨大な熱量を放つ大穴は、そのギラギラとした緋色の輝きで私を周囲の景色と同じように赫く照らし上げる。思わず目を逸らしたくなる程の熱気に煽られ、私の皮膚が悲鳴を上げて涙を流す。
滝のような汗。
このまま呆けて見ていてはいけない。カラカラの喉では、ろくな魔法が使えないのだから。
さっさと始めて、さっさと終わらせなければなるまい。
キーパーの言はその不惑の態度の示す通りの真実だったようである。見た所、既に溶岩の噴出はピークを越えているようで、この場で私に取り得る手段は応急処置のようなものにしかなり得ない。
具体的には、水精を利用して溶岩を冷却、その全体を固体へと変化させたのちに、地精か金精を用いてそれを土壌の地下深くへと沈めて排斥する、といった程度の事で、館や私個人に齎された騒ぎのほどから見れば実に容易な作業だと言えるだろう。
思いながら目を瞑り、何気ない心持ちで息を吸う。吸気に要するのは数秒。己が臓腑に、吸い上げた魔力を深く浸透させる。
力の行使を意識して息を止めた。呼気と共に魔性を爆裂させんが為に精神を放出へと向けて集中しながら、その意識の片隅を取るべき手立てを考える事に使う。
まずは冷水を呼び出しての冷却。
ふと、一滴の汗が鼻梁を流れるのを感じた。私は、それが雫となって私の顔面から離れる瞬間をきっかけと定め、そのときを待つことにする。
心中には清涼な、ただ清涼な空気。その清涼さが流れを生み、流れに水色が混じると、程無くしてそこには一筋の河が生まれる。河の途上には大層な厚みの堰が築かれて思うさま流れを塞き止め、最早いつ何時決壊を来たしても異常とも思えないほどに充満した。
ここは暑くてたまらないが、私の体調はまだ崩れていない。故に、術式の詠唱や陣形の描画を用いずイメージだけで水の精を使役する程度の芸当であれば難くなく、出来るならそれで済ますのが道理だ。
最近の言葉では省エネというらしいが、しかしなんともはや、ものの本とは全く実に不必要な知識すら齎すものだ、という雑感を覚えるのには吝かでない。
いろはのい。実に、初歩的な魔術である。魔法を拠所とする生命なら、水量の多少を論外とすれば何の苦労もいらない。
が、単純に大量の水を流し込むのであればこれが最善と言えよう。
誰に誇示するわけでも無い。異空水銀の導入も“深海の女王”の招待も、ひとえに力の無駄遣い。どこぞかの黒白魔星とは違うのだから。
思うに、あの停止という言葉の対極にあるような光速の魔術師は、手加減という言葉を知らないのだろう。よしんば知っていたところで、奴はきっと知らないぜと言う。だから平然と陽電子砲ばりの魔術を乱発するのだ。あいつは自分が、その魔法のせいで無闇に有名人になっていることに、まるっきり気づく様子も無い。あんな目立ちたがりの魔法使い、私の生涯には二人といない。
全く、恥も外聞も知る必要は無い、だが頼むから、お前の踏みっぱなしのアクセルの隣にあるブレーキを偶には見てあげて欲しい。それが無理なら、せめて左足でクラッチを踏め。お前は私たちのようにオートマティックじゃないのだから。
音も無く、雫が鼻先から垂れ落ち、私は慌しく思考の速度を引き戻す。想像していたタイミングから若干のズレが生じた。
その事実に軽い舌打ちを心中ですると共に、予めイメージしてあった決壊寸前のダムを思索のテーブルに据え置いて、口腔にうち含んだ純粋な魔力とそれを同期させる。波長の調和は吸気より圧倒的に早く、私は瞬時に天井から降り注ぐ激流を意識外に射ち放つ用意を済ませることが出来た。
口を開けば、すぐさま私の頭上から滝のような水流を迸らせ、眼下の腹立たしい溶岩を冷却せしめる。
そんな風に刹那の思考を走らせながら、私は、引き絞るように閉じていた唇の筋肉を、ふっ、と緩めようとした。
が。直後に私の耳朶を打った怒声が、魔力の炸裂を寸前で押し止める。
「パチュリー様、上・・・ッッ!!」
耳慣れた声の聴き慣れぬ色味に少なからぬ驚きを覚えると同時、運動反射神経に乏しい筈の私の身体は唐突に、ばぁん、と弾かれるように浮かんでいた場所から離脱した。上、と言われてそちらを見るよりも、その言葉に疑問を持つよりも早く、私の脳がそれらの指令を出すよりも早く、である。
衝撃を受けた私の口から体内の魔力が漏れ、紺碧と透き通る水色をしていたそれらは皆、空気に溶けて直ちに味気無い透明へと変わって消えてしまった。折角練ったのに、勿体無い話である。まあどうせ集中を欠いた魔法、あの程度では小川を作るのが精一杯というところだったろうから、省エネという観点から見れば結果的には良かったのだろう。魔力とは元々無色であるから、いくらでも再利用ができる。
しかし、踏む土も無いのに横飛びなどできるわけも無かった。私は自分の体の突然の反応が、己の不随意によって行なわれたものであると悟り、勝手に動く身体はそのままに、切り裂くように聴こえた声の方へと首を向けて、声の主の姿を確認する。
「・・・キーパー」
視線を向けた先、一つの本棚の天板にすらりとした両の脚で立つ見慣れた女性の、その燃えるような赤髪が、図書館に潜む暗闇を照らす鬼火のように感じられた。静かで、幽かで、美しい。
名前が思い出せないのは何かの呪いだろうか。よもやこの私の枯渇を知らない精神に翳りの一つも生じたとも思えないのだが、であるならば何故こうまで見えるはずの地点を見通せない。ここにかかっている薄曇りのガラスは何なのだ――、
いや待てよ、よくよく考えてみれば。
――と、考え始めた所で身体にかかっていた“弾き飛ばす力”が消えているのに気付き、私は飛ばされっぱなしの身体を自分の意志に基づいて操って、再び空中で体勢を整えた。間の悪い、と密かに気の毒に思うが、そんな私の気持ちを知る由も無い彼女は、私が姿勢を取り戻した事を見て取るや、こちらへ向って本棚を伝い駆けて来る。駆けてだ。彼女とて人外の身、空を飛ぶ程度は呼吸と同位の任意力のはずだが。
彼女の意図を測りかねた私は、取り敢えずと近場の本棚に降下して、一先ずこちらに近付くキーパーの到着を待つ事にした。
しかし、上、とは何だ? 落ち着いたところで眼下に再度目を落としたが、ぎらぎらと輝く赤い溶岩の穴はそのままに残っている。キーパーの伝えようとした上というのは、何の事なのだろう。
上とはつまり、頭上の事なのか。では、と上空を一通り見渡すも、だだっ広い図書館の、この場から見える範囲の天井には何らの異常も認めることが出来なかった。
一体全体、彼女は何を伝えようとしているのだろう。耳朶を打ったあの声には切迫が色濃く混ざっていたのだから、伊達や酔狂、冗談の類での呼び止めでは無かろうとは判る。しかしでは何故そのような声で呼び止められねばならなかったのかというと、これには皆目見当がつかないわけである。
「はぁ、はぁ・・・ふ、ぅぅぅ・・・」
幾度めかの跳躍の後、キーパーは私の居る本棚まで辿り着き、私たちは片時ぶりの邂逅を果たした。
「ま、間に合った・・・」
キーパーはぜぇはぁと肩で激しく息を吐いていて、その額に薄く浮かぶ汗からも、先刻居た紅魔館外からこの場、魔法図書館中奥部までを全力疾走で踏破したのであろうことが容易に想像できた。その想像を胸に私は、こいつはキーパーよりミッドフィルダに向いているんじゃないだろうか等という妄想をする。
間違いなく、妖怪よりはアスリート向きなフォルムだろう。彼女にはおどろおどろしさの欠片もない。どころか、気風の良さからか妙な爽やかさすら感じさせるのだ。これで人を食うというのだから、世の中には探せば不思議な事はあるものだな、と何とは無しに思った。
「何だかよくわからないけれど、お疲れ様」
言葉通り、彼女の言動を理解しきらぬままに労う。
と、キーパーは呼吸を瞬時に整え、その切り替わりの速さに多少なりと驚いた私に向けて、毅然とした態度で問いを発した。
「パチュリー様、今・・・魔法をお使いになられたでしょう」
悪戯っ子を咎めるかのような声色であった。それに怒りを覚えるではないが、その言に淀みが一つも見られなかった事から、言おうとしていることの重要さを窺い知る事が出来たので、私は軽く首肯して口を噤み、彼女が言葉を継ぐのを待つ。
「だめです。今、この図書館で魔法を使ったら、きっとマズイことになりますよ」
「どういうこと?」
手短に問い返す。俄かには納得しかねる言葉だった。魔女に魔法を使うなと言うのは、モノは上から下に落ちるなと言うのとほぼ同義である。つまりはルールの破壊だ。競馬で馬を使うな、鋏は紙を切るななどと言われて納得できるものか。
「いいですかパチュリー様、あれは“点穴”といって、その昔の中華にいた一人の仙道が編み出した鬼術。
あれ自体はただの空間を繋ぐ穴に見えますが、この仙道、実は西洋の魔性をたいそう嫌っていて・・・」
「ご説明有り難いけど・・・できたら結論だけ言って欲しいところね」
キーパーはもったいぶった言い方をしている。だがこの場の熱気は私の身体には毒だ。いつ眩暈が起きてもおかしくない今、術法の成り立ちやら何やらの長広舌をするつもりなら、それが判った時点で私はこいつをあの赤い奈落に突き落とすだろう。
私にとって知識とは書から得るもので、こんなところでキーパーに韜々と語られるものではないのだ。私は彼女をジト目で睨んで、それとわかるように苛立たしげな答えを返した。
「こうして立ってるのだって、結構辛いの」
「ああっ、御免なさい。じゃ、結論だけ言います。
あれは転移性の病根細胞を模した、魔法使いを絶滅させる為のトラップです。
『魔蝕(ナリッジ・バイト)』とも呼ばれるあの穴は、魔力とその宿主を食べて成長する、気のカタマリの化け物なんです」
「ふうん、絶滅、ねぇ」
聞きながら、知識食いとは皮肉な名だ、と思った。
何故に私も知らないそんな怪物の事を、目の前のこの華人が知り語ることができるのかと考えれば、それが風聞鳥瞰の根も葉も妖しさも無い噂に過ぎないのだということは自明だ。
だから苦笑した。今までにどんな悪食を重ねてきたか知らないが、
他ならぬ知識そのものであるこの私を食べもせずに、ナリッジバイトも無いものだ、と。
だが、そう思う心を嘆息に乗せてみせると、キーパーは眉根を寄せ、指差しまでして私に言った。
「笑い事じゃないです。――ええ、この際ですからはっきり申し上げましょう。
パチュリー様、あなたは今日、既にあいつに“喰われてる”」
「――は」
何を、と笑い飛ばすよりも先に、知識とは別、失われていない私の知性が、自分自身の記憶の矛盾を指摘する。
『ええその、お加減を窺いに・・・いかがです? 眩暈とか、吐き気とか、治まりましたか?』
「どうしてご自分がお外の木陰でお昼寝なさっていたのか、お忘れでしょう」
それに乗じるようにしてキーパーが言葉を重ねるのを聴きながら、私はしばし慄然とした。苦笑いを貼り付けたまま。
『何時の間にか、図書館の中に入っていた』
「お外からここまで、どうやって来られたか覚えてませんね?
パチュリー様、体調だけはよろしかったから、お心の空白が空間の空白になってしまわれたのです」
思い出せない。紅魔館の廊下を歩いた記憶が無い。いや、それどころか紅魔館の内装をまるで覚えていない自分に、私はむしろ、ああなるほど、と納得を示す。
私は今の今まで慣れた調子で廊下を歩いたつもりになっていたが、そうではなかったのだ。
慣れ親しんだものが突然に失われると、心というものはその空白を認めることが出来ずに捩れる。既に無いものを在るものと思い込むそれを、人は心の病と呼ぶ。何故ならば人間の精神は脆弱で、一度壊れてしまったら元に戻らないからだ。故に、普通の人間にとって、幻視は狂視にしかなり得ない。故障は致命的で、治したいなら全部を入れ替えるしか手は無いが、魂の挿げ替えは即ち別人への変化である。だから人間の精神は繊細だというのだ。取り返しがつかないから。
ではそれが、一度や二度の故障ではびくともしない、たとえ崩壊しても日毎に蘇るような頑丈な精神に起こったらどうなるのか。
つまりはそれが本日の異常だ。この私に記憶の綻びなどあっていいはずが無いのに、その事実すら私は忘れていた、という。
キーパーは私に起きた異常を正確に理解しているようだ。心の空白が空間の空白になった、というのは言葉通りの意味だ。
空白とは空いた白、スペースであり、『文中においてスペースは読み飛ばすもの』なのである。
心中に生じた記憶の空白、この場合では紅魔館にまつわる欠落は、私には本来生じる筈の無い現象だった。忘れるときには忘れようという意志を持った記憶を残すから。
そしてこの異常は更なる異常を齎した。何時の間にか図書館の中に入っていたのは、私の心が『紅魔館の内装』を『読み飛ばした』所為だ。思索に耽るままに歩く私は、無意識の内に紅魔館の門から先の空間を跳躍、省略し、慣れた道を通って歩いてきたと錯覚して先刻のとおり図書館の中に辿り着いていた、ということ。
「今朝方、借り出していた書籍を返そうと図書館を訪れた私は、まずそこに充満していた熱気に気付きました。
また何事かが起こったのだと知ってパチュリー様の文机まで出向くと、
そこに私は破裂寸前の風船みたいになった魔力のカタマリ、
即ちあの“穴”と、そこからボコボコ吹き出してる溶岩と、
それに噛み付かれてお身体が半分くらいになって、残り半分も焼け爛れてるパチュリー様を見付けたんです。
それで私、顔面蒼白のパチュリー様からあの穴を思いっきり引っぺがして、
また憑かれないようにその場から思いッッッきりブン投げてお助けしました。
出来た壁の穴から私も飛び出して、その後はもう覚えてますよね?」
そう、その後は覚えている、ということだ。私としては今日の目覚めからして既に曖昧なものなのだが、その後館外にて彼女の介抱を受け、それはもう見られたものではない状態になっていた私は昼頃になってようやく意識を取り戻した、わけか。
キーパーもなかなか、さらりと早口にグロテスクな事を言ってくれるものだ、と思った。
しかしそうか、先程紅魔館の外観を見たときに受けた印象の差異も、このキーパーによって生じたものだったわけだ。全く、人の体を使って壁を破らないで欲しいものである。その記憶も残っていない自分というのも笑える話だが。
「つまり、私は運が良かったわけ?」
貼り付けたままの笑いを、少しだけ潤いを取り戻して続けた。彼女に助けられたという認識はあったのにも関わらず、何から助けられたのかという記憶が抜け落ちている事に、単純に笑ったのだ。私もまだまだ修行が足りない、という証左か。
「不幸中の幸い、ってところです。もし見つけたのが私じゃなかったら、
ここにいる人たちは皆ミイラ取りでしたよ。
あれは気そのものの怪物で、並大抵の魔法使いじゃあ間食にもならずに食べられちゃいます。
その点私は力の大小を問わずに気を操れますから、直接あれに触っても平気なんです。
私の力も、お役に立つでしょう?」
「ふむ。ま、それは置いといて」
「うわぁ置いとかれた」
「まぁ感謝はしてるわよ。でも今はその穴をどうするかが先決」
「うう、そうですけど、何だか扱いが酷い気がします・・・」
そう言ってキーパーはさめざめと泣くフリをして見せたが、事実、彼女への感謝はしてもし足りないぐらいだ。私だってそんな間抜けな形で百年の歴史に終止符を打ちたくはない。
でもそんな事を直接言うのも私の趣味ではなかった。魔女というのは捻くれ者という意味だ。第一、面と向って人を誉めるなんて、気恥ずかしくてそれだけで死んでしまいそうだし。
「で、貴女は具体的に何をしに来たの? まさか私が魔法を使おうという瞬間に横槍を入れるためでもないでしょうに」
ようやっと、本題を聞くことが出来たような気がした。そう、私は彼女に来るなと言ったのに。何故だ?
「ですからパチュリー様、あの穴は魔法使いにはどうにもならない代物なんですって。
私、パチュリー様が自身満々に言うもんだから、どうするんだろうと思って。
こっそり後をつけようと内門を開けたら、パチュリー様、もういらっしゃらなくて」
つまり、門を開けた時点で私は、既に図書館の扉を開けてその中に入っていたのだ。門内からすぐに追いかけたのに、追いついて私の所作を止めようとするまでに時間がかかったのは、そういった時間差があったせいだったということ。ただでさえ距離に差がついてしまったというのに、ここは紅魔館である。あの廊下もまたこの図書館に似て捩れているから、あれだけの時差で私の元まで辿り着くのには凄まじい爆走を要しただろう。
「やっとパチュリー様を見つけたと思ったら、何だかいきなりでっかい魔法使おうとしてるし、
私ってば動転して手加減無しの遠当てしちゃいましたけど、平気でした?」
「遠当て?」
「気を直接、距離を無視してぶつける技です。波動ですので見えませんし、普通には感じ取れません。
悪意を持ってやれば、相手の体組織を一網打尽にしたりできますけど、
さっきはちょっと反復横飛びをしていただくだけに止めましたから、平気ですよね?」
「概ね。急に動かされて、少しだけ目が回ったけど、脳震盪まではいってないわ」
答えながら、気というのも便利なものだな、と思った。キーパーの意外な多芸ぶりを知って、少なからずそこに興味を覚える自分が居るのを自覚する。しかし、まだまだ私は魔女として魔法を学ばねば。気に手をつけるのはまさに五千年は早かろう。
「はぁ、良かった。じゃ、そんなわけで。
パチュリー様は自室にお戻りくださいな。この穴は私が何とかしますから」
「へぇ?」
何時になく強気な発言である。キーパーとは保守だ。その彼女がこう言い放つのを聞いて、私は妙な、と思うのと同時に何やら嫌な予感がするのを止められずに訊ねる。
「どうにかしてくれるならそれに越した事はないけど・・・」
「はい、お任せください。
溶岩の熱気も数時間で大分収まりましたし、穴を閉じるだけならそんなに時間はかかりませんよ」
予感は強まる。こいつはこれで結構なのんびり屋だ。私の欲求を知った上であっても、私はこいつの時間はかからないという言葉に不安を覚えずにはいられなかった。
「ちなみに聞くけど、キーパー。何時間ぐらいかかるの?」
「そうですねぇ、この大きさだと大体・・・」
予感は最大級に募る。
ううん、と眼下の本棚を見遣りながらキーパーは唸り、そして答えた。
「三日ほどお時間をいただければ」
やっぱり。
三日三晩も、手元に書を抱けずに眠れというのか、この大戯けは。
「 却下ね、キーパー 」
「え」
言うなり私は地を、本棚の天蓋を蹴って空に身を浮かべ、キーパーが言葉を失っているうちに『私の魔法』を唱え始めた。
水流の生成なんてみみっちい魔術じゃない。
私だけが使える、七曜の魔法。
今日は静寂曜日の次の日、つまりは――
【火曜よ】
撃ち放たれた空気が鳴らす少し擦れた私の声が、それでもなお力強く空間に響き、
それよりやや遅れて、ぎぃん、と歯軋りのように耳障りな音が図書館の淀みを瞬時のみ透過して走る。
音に引き寄せられて、多くの本棚から物好きのグリモワールが飛び急いで私の周りを踊る。
「ちょっと、パチュリー様ッッ!?」
【七代の過客は臨海を越え 七宝の行者は残空を翔け
始まりは告げられ お終いはなお遠く
残月を食い破るまじなひの草伏せに あいみて 逢い診てと聞こし召す】
私の呼気が世界を支配する。
誰も知らない灰色で仕切られた七極のステンドグラスワールド。
眼下の赤が揺らぎを寄せられてバラバラのピースに、本棚は巨大な茶色に固まって、私自身は紫紺の六角に定義される。
不要なテクスチャを摩滅させれば、全てがただの情報になる。
「魔法は駄目だって・・・言ったのにッ・・・!!」
慌てた声で騒ぎ立てるキーパー。
でも彼女も、飾り立てる極彩と衣服の緑を無くし、紅く赤く燃える炎の租界に定められて音を失う。
散逸した個性がたった一種類の祖を拠所に帰り来る、その為の魔法に音色は必要ない。
鳴り響く鈴のような声は聴こえなくなった。
【赤濫に立ち向かう過たぬ軍神
勝ちて克ち続く音速の変移
汝 火産み 戦の為に戦し勝利の為に勝利せよ】
莫大な魔力が無限の閉鎖空間に満ちると、“穴”は私という魔女の存在を感知してか、
その面積をそれまでの数倍に広げ、巨大な顎で目の前に突然現れた高級料理を食い散らかさんという意思を顕わにする。
でもそれは、紅蓮のだんびらを突き出すことも適わずにただぐらぐらと揺れ動くだけ。
私の魔法は、火曜の掌握は、既に一言目の段階で終了している。頭上に穴が空こうと、そこから溶岩が噴出すことは無い。
今、この空間の火にまつろう全ての事象は私の掌中にある。
さっきのキーパーの説明から推察するに、この溶岩、“穴”自体とは特に関係のない現象のようだ。
ならば、穴の中に溶岩を発生させている原因が入り込んでいるのだろう。そしてそれは、穴に取り込まれて後、相応の時間が経過しても魔力を喰らい尽くされていない所を見ると相当の質と量を誇るものである事は確かだ。
だからまずはこの炎の大元を取り出す。溶岩を噴出すようなものなら火にまつわる何かには違いあるまい、火曜の掌握でその何かを穴から引っこ抜く事ができる。その力を利用して“穴”を私の魔法、火曜の光輝で焼き尽くしてくれよう。
記憶に欠落があろうが何だろうが、私は魔女だ。
“魔女狩り殺し(カウンターキラー)”なんて朝飯前である。午後になってまで長々続けていられるものか。
【指先の灯火 万里を走りて地平を染め
夢の花びら 七曜に開きて散り急ぐ】
すう、と指の先で大きな円を描くと、眼下に揺らぐ穴から炎が吹き出、
描いた円に凝り固まって、やがて一個の巨大な炎塊になる。
はじめ揺らめく炎のようだったそれは次第に確固たる形を呈し、穴からの火が止まる頃には一冊の本を象っていた。
その本は私が読んだことのある本だったが、あの穴の所為だろう、内容を忘れてしまっている。
でもきっとすぐに思い出せる。指先でもう一度本を指し示すと、それは元通りの炎塊になって私の掌に納まった。
それが私の知識であり、それが私の魔法だ。
七つの絵の具が窪みから湧き出る、灰色のカラー・パレット。
塗りたくる先は、誰かの描いた遠い記憶か、はたまた眼前の、真新しい網の目の世界か。
どちらにせよ、それは無限のキャンパス。
【産み落とせ、光輝】
掌握していた炎が内から排除され、鎖から解き放たれた獣のように、
穴は遠慮無く私を飲み込もうと口を巨大に押し広げた。
だが遅い。
私の魔法は色分けの技術。紫紺が統べるカラーカテゴリ。
混ぜて溶かして、闇から闇に、世界を彩る。
本日は火曜。
夕暮れ時には、地平線が導火線になる。
【 ― アグニレイディアンス ― 】
掌の業火が炸裂し、視界をありったけの光で覆う。
灰色の仕切りが真っ赤に燃え上がり、そして―――。
** 師走某日 火曜 夕
「――おみそれしましたっっ!」
そう言いながら大げさに上体を振り被って私に詫びを入れているのは、紅魔館門番を務める女性、紅美鈴だ。キーパーなどという他人行儀な呼び名もまた、かの魔蝕によって食い荒らされた私の記憶の欠落の所為で発生したものだった、ということである。
「別に大した事はしてない。私の体調が良かっただけよ」
「でもまさか、魔法食いを魔法で焼き尽くすなんて・・・」
「貴女が私の体調を良くしたのだから、今回のは貴女のお手柄だと思うわ」
火曜の掌握によって取り出された本は、地獄の劫火を記した書物で題を『ゲヘナ沿海の熱量区分に関する50の命題』といった。
本当に、本の題名などどうでもいいことだ。訳の判らない題でも、事実全てを焼き払う神の炎、火の中の火たる三昧の真火を宿すだけの魔性を秘める事ができるのだから。
あの炎は全てを焼く。全てを焼き焦がして太源のゼロに還元する、“焼却”という概念の最果てにして極致の火である。あの炎で燃やせないものなど無い。理外の化け物だろうが宇宙の法則だろうが、例外無く消し炭にできる。
故に、地獄にゴミは溜まらず、何処の世界よりもクリーンで清潔感に満ち溢れているのだ、と地獄の土地柄を事細かに記述した文献の一節を思い出した。
馬鹿馬鹿しいトンデモ本である。地獄とは現世の事に他ならないというのに。
軍神の戦火は穴を消し飛ばすと、ステンドグラスをただのひび割れガラスと化して叩き割り、その結晶と共に消え去った。
私は何だかただの真っ黒な物体になってしまった文机に腰掛けながら、時間操作者の帰還までの間、今日の立役者であるところの門番に私の独断で暇を許して、本日の騒動についての雑談に興じる事にしたのだった。
「それにしても、ここまで凄い魔法を使えるとは思ってもみませんでしたよぉ。
パチュリー様って、本読んでるだけじゃないんですね~。私、感激しました」
「・・・そう。それはどうも」
――誉めてすぐ貶すというのはちょっとした技術だろう。別段気落ちするような事も無いが・・・。
どうにも、こういう認識が広まりすぎているように思える。
実際的な話、私は居候の身であり、普通ならメイドの手伝いでもしろと命じられるところだろうが、生憎この身体はそう融通の利くものではないから、掃除一つとっても、モップがけも窓拭きも十全にこなせずに邪魔をするだけであることは誰の目にも明らかで、また私も自ずからそのようなことを望むほど殊勝な輩でもなかった。
だから仕方の無いことだ、と諦めるべきなのだ。こういうことを言われる度に情けない思いで一杯になるのは、おそらく一時的な気の迷いというやつで、所謂錯覚だ、としておくのが、処世術というものだろう。
しかし、今日は気という奴に翻弄されすぎた感がある。
正にだ。今しも、気がかりな事がいくつか残されているのだから。
「ま・・・何はともあれ、お疲れ様。
さっき小悪魔を招聘しておいたから、もうすぐお茶の一つも持ってくると思う」
「わ、今日は本当にどうしたんですか? サービスは一年に一度とか言う協定ですか?」
「何か文句でもあるの?」
「無いです無いです、是非とも頂きたく思いますよぅ。
そんな、怖い目で睨まないで下さいって」
成る程私のジト目は怖いのか、と認識も新たに首をもたげると、斜め前方に空間の裂け目が出来ていて、裂け目に沿った形で天井が割れているのが見えた。美鈴の莫迦力が及ぼした影響は驚異的なものだと言える。外と直接繋がった事によって、事実上無限だったこの図書館の平米が数えきれないものの有限に定義され、こうして図書館から窓という境界を介さずに空を見上げる事ができるようになってしまったのだから。
「しかし、美鈴。判らない話よね」
「え、何がです?」
「あの穴、一体なんでまた突然発生したのかしら。
少なくとも私が少々てこずる程度の面倒なものであったことは確かじゃない。
脈絡も無くぽんぽん生まれるようなものなの、あれ」
「うーん、“点穴”を作ること自体は誰にでも出来てしまうんですよ」
「意外だわ」
「嫌らしいのは、作ることは簡単でも、消すのは作った本人にも容易じゃないというところにあります。
パチュリー様はあんな風にして吹き消してしまわれましたけど、
消したくらいじゃ普通は消えないんですよ。転移性の細胞だって言いましたけど、それは本当で、
この穴は消されてもすぐ、何処か近くの巨大な魔力を持った別の魔法使いの元に転移して残るんです」
・・・おや? 今、何か、引っ掛かるものがあったような。
「転移?」
「ええはい。作られた点穴はまず最も身近に居る魔法使いを探知して襲い掛かります。
その場で一定の魔力を溜めるか、表面的に消されるかすると転移するわけですね。
そんな感じで、普通の魔法使いが創造したりすると即座に喰われて、駆け付け一杯ってなもんです」
「へぇ・・・そう。ふうん・・・ぞっとしない話だわ。
そうそう美鈴、この本ね――あの穴から私が引きずり取ったのだけど」
言って、仕舞っていた懐から『ゲヘナ(略)』を取り出すと、私はぱらぱらと片手で頁を捲って読み流す。
「ああそれ、すごい本ですねぇ。
持続的な魔力で言えば、禁書焚書の類でも最大級じゃないですか?」
「そうね。でも今はそれはいいの。
そんな事よりこの本――
――確か、貸し出し中だった筈なのよ」
ぴきん、と空気の凍りつく音が聴こえた、気がした。
私の表情は美鈴をねめつけた時そのままのジト目で、口元をやや歪めて笑っている点だけが違う。
然して今の錯覚は、もう一方の人物である美鈴によるものであると判ぜられる。
「あ、のぅ・・・つかぬ事を訊ねるようですけれど、パチュリー様?」
「何かしら、美鈴?」
「貸し出し・・・って、あの、どなたに」
「森の黒いのよ」
さぁ、という、血の引いていく音が聴こえた、気がした。錯覚だ。
だが目の前の彼女は、見る見るうちに顔面を土気色に染め替えていき。
「わ、わわ、私、あの黒白に」
「ようやく判ったわ、どうして貴女が、そんなにあの穴について詳しいのか」
「ご、ごめんなさ」
「返しに来た本、見たわよ。『万気綽々 ~ 天龍と地脈の蜜月』、ね。
大方、あの黒いのが貴女の気を操る力に興味を持って、何か役に立つのを教えろって言ったんでしょう。
然したる知識も無いくせに、調子こばって本なんか借りて。
知ったかぶりして無知な奴にものを教えて、さぞ気分は良かったでしょうけど、
挙句が今日のこのザマじゃない。
あの黒白は作り方さえ知れば、平気で核を自作して、記念にと一番乗りにボタンを押すような奴よ。
今の私なら会話が容易に想像できるわね。
ほらこんなものもあるくらいですから危険ですよ、判った絶対に使わないぜ、絶対にな。
大体合ってるでしょう? 莫迦に莫迦を重ねて莫迦よ、貴女は。
でも」
そこでちょっと息をつく。一息に捲し立てられるうち、美鈴の顔色は私の舌禍を受けて覿面に青褪めていったが、最後にでも、と括った所で変色を一旦止め、それはまるで私が言葉を繋ぐのを待っているかのように見えた。事実その通りだったのだろうが。
「まぁ、万事丸く収まったし。私の命の恩人にも順逆的になるわけだから、許してあげるわ。
貴女が、一つだけ条件を飲めば」
容貌に喜色が広がる。これもまた、ぱぁっ、という幻覚の音が聴こえるほどだった。感情の起伏が激しいのは良い事なのだろうか、私にはすぐにそれと判断する術が無かったけれど、その気色を見ればこちらも少しばかり嬉しい気分になってくる。
「申し訳ありませんでしたっ! それに、どうもありがとうございます!」
「礼には及ばないわ。ええ、本当に」
「それで、その、条件というのは?」
「大した事じゃないわ。ある人物に、本の返却を催促しに行って欲しいの」
「――へ、って」
「皆まで言わせないでよ。ほら、早く行ってらっしゃい、魔法の森に。
小悪魔、そろそろ紅茶を持ってくるわ。冷める前に帰ってきなさいね」
森には二人の魔法使いがいる。一人は黒くて、もう一人は私と似て七色だ。
そして、ここヴワルから本を無断で借り、そのまま返さずに所有するうつけ者は前者である。
「いっ、嫌ですッッ! きっと、とんでもない目に遭ったぜとか言って閃光銃を報復に突きつけてきますよぅ!
交渉どころじゃないです! ホントにチリになっちゃいますってばぁ!」
何をか言わんや。私は無言で、口元を歪めたまま美鈴の狼狽を眺めて答える。
知識とはそう軽はずみに伝授するものではないと、私がこうして教えてあげようというのだ。
大人しく塵にでも芥にでもなって、海底に堆積するといい。海よりもマントルよりも深く反省すればいい。
「ちょ、本気ですか!? 洒落になりませんって!」
「うっさいわね。
―――塵になるのが嫌なら、蒸発して気体にでもなりたいのかしら?」
「ッッッッきゃーーーーーーーーーーー!!!!!
行きます行きます、行かせて下さいっ!!」
元気溌剌とは、彼女のような人物を指し示すのに全く適していることだ、と思った。
そんな風に、外に見える夕日のように熱く。
熱く、暑すぎる火曜は蒸発する。
そうして、私の今日が閉じていくのだ。
まだ見ぬ水の星を空に想って。
<ブギーマジックオーケストラ・一 了>
いやはや、素晴らしい!
キーパーって言い方に違和感を感じたりしましたが理由を知ったときなるほどと思いました
本編の見事さはもはや言うまでもないので省略で気分的なコメント。
館シリーズごぞんじですかー。綾辻、叙述トリックの魔術師。言をもって幻を生み出し源を隠して現を表す。あのレベルになりたいものです。目標として、ですけれど。
紅魔館、白玉楼、マヨヒガ、永遠亭。どれも場所にはもってこいですが事件を作り上げるには登場人物の重複が。あと建築家が足りない。そこをうまくすればもしかしたらー。
これからも期待させていただきます。がんばってくださいー
一瞬某戯言シリーズの作者本人かとの考えが過ぎったほどです。