刻は午前4時を回っている。
まだ冷え込みは激しく、身も凍る大気。
その研ぎ澄まされた空気の中、バルコニーに置かれた一脚の椅子。
月と星の放つ輝きの中、ただ一つの異物として映るパラソル。
バルコニーから見える風景は、いまだ続いている季節を象徴していた。
目下に広がる湖は厚い氷で覆われており、その周囲に広がる森には穢れ無き雪が積もったまま。
広がる銀の大地と暗青色の空を繋ぐ紅い石造りの館にも、例外なく覆い被さっている白。
見下ろせば真白い世界の中、唯一地の色を見せているバルコニーに佇むは一人の少女。
少女は東の地平線をじっと見つめ始めてから半刻ほど。
ゆっくりとその踵を返し、椅子に座る。
僅かな間をおいて、すぐに出される紅茶。
さも当然の様にそれを受け取る少女だが、ここまで短時間で淹れるためには常に湯を沸かしておく必要がある。
何故ならば。
完全で瀟洒な従者は今、この館に居ないから。
しかし従者たちの長の教育は、やはりその通り名に恥じず完璧である。
主の求める事を事前に察し、それに対応できるような準備が常に取られている。
もっとも、それがどれだけ高いレベルで為されているか、に気が付いている者は従者の中にも居ない。
この館の中では、それが自然なのだろう。
あまりの冬の長さに、冬の蓄えも心許無くなってきている。
ならば冬を終わらせれば良い、との結論に達した従者長は、早速暇をいただくことにした。
しかし、その前に彼女は何人かの従者を連れてバルコニーの除雪を始める。
何をしているのか、とのお嬢様の問いにも明確な答えを返す事無く言葉を濁す彼女。
全ての雪を取り払った後に主の為の席を設けてから、彼女は悪戯っぽい笑顔で言葉を漏らした。
「全く、咲夜の言う『良い物』ってのはまだなのかしらね」
誰ともなしに呟く少女。
その膝には咲夜の用意した毛布が掛かっている。
そして、彼女の付けた従者たちの入れた紅茶を飲みながら、言われた通り東の地平線を眺める。
彼女が――咲夜がこの館を出てから既に数時間が経つ。
始めのうちはその寒気すらも含めて、周囲の環境をじっくり眺めるのも楽しめた。
普段見慣れているものでも、時間をかけてみるとまた違った趣があることを改めて感じるのはなかなかに新鮮だった。
けれどそれにも些か飽きてきている。
それでもまだ此処に留まっているのは、他ならぬ咲夜の言葉があるからだ。
だが、そろそろそれも限界と思い始めていた。
それもそのはず、今彼女のいる場所は。
静かで寒く、動くものが無い空間は、まるで時が止められているようだった。
誰一人として動くものが無いその空間で、唯一時の流れを示すものは東の空の向こう側のみ。
東の最果て… 地平線の向こうだろうか?
ある一点が、煌めいたような気がした。
薄桃色の、いや、桜色の輝点。
気のせいかも知れないが、どうせ何もすることがない今。
何かあるかもと淡い期待をよせて、やや北よりの東――今座っている椅子のちょうど正面――をじっと眺めてみる。
じっくりと… だが確実な変化が。
冷たく静謐な空気が、少しずつ、熱を帯びる。
蒼みがかった白と黒の境界が、ゆっくりとその暗さを失ってゆく。
時と共に地平線を覆うように、虹色の層が創り出される。
虹の層が中天へ向けて広がるにつれ、空の蒼黒さが白く反転してゆく。
大地に伝わった熱が生み出した霧の海が、彼女の見る世界を包む。
世界を覆う海原から昇るは、あかくしろく輝く太陽。
それは、奇しくも彼女が桜色の輝点を見たと感じた場所と同一だった。
世の闇を侵食しつつ広がる光は、館の東に広がる湖に達して、凍れる鏡面にその姿を落とす。
ヒトにも、アヤカシにも創る事の出来ないその景色に、夜を統べる眷属である彼女ですら、息を飲んだ。
数時間後。
今まで以上の暖かい陽射しと共に、館の従者の長が、戻ってきた。
それは、冬の終わり。
それは、春の訪れ。
それは、彼女が連れてきた季節の移ろい。
それは、彼女の知る光の欠片。
「…ふぅ。咲夜には敵わないわね」
「何の事でしょうか?」
「あなたの言う通り、良いものだったわ」
「それは何よりです」
「でも、何故今になって?」
「お嬢様、本来日光は…」
「だからパラソルを用意したのでしょう?」
「雪かきって、結構大変なんですよ。
けれど、冬の終わりなんて例年では正確にわかりませんから。
そして…冬の日の出というのは、空気が澄んでいてとても美しいものなのですよ」
夜を統べる吸血姫すら魅了するその情景。それを予告してから出発する咲夜さんは、まさに瀟洒。
私もその情景を目にしてみたいものです。
……そういえばここ数年、日の出なんてものを見てないなぁ。