その赤い紅い館は、大きな湖の中央に立っている。
少女は、困っていた。
少女は、流れる水が渡れない。
怖い、とか泳げない、といった話ではなく、ただ渡れない。その前で足が止まってしまう。
少女には翼があったから、空からなら渡れるかもと試してみたが、同じだった。
流れる水の前で、翼は羽ばたくのを止めてしまうのだった。
他にも苦手なものは沢山ある。まず、太陽の光。
これは、とりあえず日傘を差せばなんとかなった。
ニンニクも苦手だったが、これは食事に気を使えば何ということはない。
でも、流れる水だけは、どうしようもなかった。
少女は散歩が好きだった。
月夜に翼を広げて、どこまでも空を舞う。肌に映える月光を全身に受けて。
少し憂鬱な晴れた昼下がり、日傘を差して森を散策する。陽に灼けないように気をつけて。
でも、流れる水があると、少女の散歩はそこで終わってしまうのだった。
もっともっと、遠くへ行きたいのに。
ある日の散歩道、例によって小さな川の前で足を止めていた少女は、いいことを思いついた。
流れを止めてしまえばいい。
少女には力があったから、それを使えば簡単だった。
近くの山を眺めて、目を細める。
あれね。
山を支える要の岩に手のひらを添える。岩は一瞬で粉々になった。
やがて地鳴りと共に山肌が崩れてきて、目の前の川を埋め尽くした。
これでよしっ、と。
少女は上機嫌で散歩を再開した。
こんなことで今まで困ってたなんて、バカみたいだった。
しばらくして、大きな河に出た。向こう岸が少し霞んで見えた。
これを埋め尽くすのは大仕事だった。
仕方がないので、少しの間だけ堰き止めることにした。
これね。
近くの森に生えていた樹を一本、とん、と蹴った。
樹は根こそぎ倒れ、周囲の樹々を次々巻き込んで、終には森の樹すべてが河に倒れ込んだ。
今だ。
水が流れなくなったのを見計らって、渡り切った。ここまで来たら、行けるところまで行こう。
やがて、大きな湖に出た。本当に大きかった。
見渡す限りに青く碧く、どこまでも広く、果てはない。
滲んでぼやけた空との境界線が、緩やかに弧を描いているようだった。
あんまり大きくて、流れていないように見えた。
けれど、少女の足は止まっていたから、流れているのは確かだった。
嗚呼、こんな大きな湖があったんじゃ、流れは止まらないわ。
埋めるのも、堰き止めるのも無理だった。
けれども、少女はどうしても、この先へ行ってみたかった。
あの空との境界線がどうなっているか、見てみたい。
そこで少女は、友人に頼むことにした。
友人は魔法使いで、読書家だった。少女の知らないことを沢山知っていた。きっと知恵を貸してくれる。
あの大きな湖の流れを止めたいの。
少女の言葉に、友人は分厚い本から顔を上げると、けだるそうな目を少しだけ開いて、云った。
――それには、大きな栓が必要だわ。
栓?
――そう、栓。あの大きな湖の中央には、大きな穴があるの。昔、大きな島が沈んだらしいわ。確か、アトランティスとかいう。
なんで沈んだの?
――さあ。何か重いものでも載せたんじゃないの。とにかく、その島の跡にできた大きな穴、そこに水が流れ込んでいるのよ。
だから、大きな栓をして、流れを止める。
――そういう事よ。
じゃあ、その大きな栓を作ればいいのね。
――ええ。
あなたも手伝って。
――えー。
少女と友人は、二人で術をこしらえた。一週間かけて。
天道を理する運命に働きかけ、星の欠片を誘う。
視えた。
友人が描いた魔方陣の中央で、少女は星空を指差し、そして結えられた糸を引くように、指を軽く折った。
星空に、微かな赤い光。
――どう、見える?
ええ、見えるわ。ほら。
大きな大きな赤い星が、大きな大きな青い水面へ向けて落下してゆく。
ややあって轟く雷鳴の如き音、巻き起こる雲。星が撥ね上げた水が、にわか雨となって降り注ぐ。
少女は、慌てて傘をさした。そういえば、少女は雨も苦手だった。
暫くして雨が上がり、雲が晴れた。ふたたび星空が広がる。
――上手くいったようね。
ええ。
少女は上機嫌に、大きな湖にできた新しい島の上を飛んだ。翼を伸ばし、くるりと宙返り。
もう、流れていない。
落とした星で、うまく大きな栓ができたから。
これで、どこまでだって飛んでいける。あの境界線までも。
――ところであの栓だけど。
なに?
――あのままだとそのうち抜けるわ。
なんで?
――軽すぎるの。星は水に浮かぶものだから。
そうなの?
――そうなの。だから重石が必要よ。
そう。解ったわ。
重石を探すのは面倒だったので、少女は自分の住んでいる館を重石にすることにした。
そうすれば栓を見張る手間も省けて一石二鳥だ。
また友人に手伝ってもらうことにした。
――このお代は高くつくわよ。
友人がとっておきの魔法を使って、館から島まで、一直線に石の道を作った。
石の道は少し傾いていて、その上を館が少しづつ、島まで滑ってゆく仕掛けだった。
一週間かけて、館は島の中央に収まった。
――まだ少し軽いかしら。
大丈夫よ、これから館の中にも重石を増やしていくつもりだから。
――何を?
そうね、とりあえずは本かしら。
――本?
本は重いでしょ?
――そうね。
一日十冊、でどうかしら。
――百冊。それから書斎が欲しいわ。
書斎?
――この前のお代。
えー。
だからその赤い紅い館は、大きな湖の中央に立っている。
* * * * *
――約束よ。私の書斎を用意して。
わかったわ。
――あと、蔵書もね。
一日に百冊。ちゃんと憶えているわ。
――重くない本は駄目よ。重石にならないんだから。
はーい。
だから少女の友人の書斎は、館の中にある。
蔵書はどんどん増え続けている。
増やし過ぎて、その重さで館のある島が少しづつ沈んでいることには、少女も、少女の友人も気づいていない。
かつてこの場所にあった大陸も、同じ理由で沈んだのかもしれない。
私もそんな感じに解釈してますねぇ。
淡々とした語り口が昔語りみたいで素敵。
でも締めがもっと素敵です。GJ
どこか説話にありそうな、そんな雰囲気のあるお話でした。