因幡てゐは怒っていた。
それはもう、凄まじく赫怒していた。
後にも先にもこれほど純粋な『怒り』という感情を覚えたことはない。
血流の半分が頭に集中している状態。思考は『霧雨魔理沙』という単語を呪い殺す文言だけで埋め尽くされ、手足は持ち主の心理を表現するためブンブンと振り回されている。
そして、目からはしょっぱい水が溢れ、鼻からは粘性の高い液体が垂れ下がり、頭の奥がガンガンと鳴り響いて止まらない。
思わず粘液を鼻へ吸い戻してしまうくらいだ。ずず~。酷く情けない音がして、とても情けない気分になる。
きっとこれは、怒りの温度が高すぎるためなんだと、因幡は思考していた。
火と水は反する質のものである。
体内が『怒り』という火炎要素で埋まってしまえば、水は外に出てゆくのが必然なのだ。
他人からすれば『子どもが泣きわめいてる』と見えるのかもしれないが、これは自明の理だ。
そう、永遠亭兎統括者、因幡てゐは激怒しているのだ。
大切な一張羅を、お気に入りの服を、いつも慎重に手洗いしてるピンク服を泥で穢されのだ。
魔女が炸裂させた衝撃波によって、ぬかるんだ土へと直接ダイブさせられた為、左半身が茶に染まっていた。
目も当てられないほど酷い有様である。
ふつふつと、激怒が言葉に変換され、それは呪いの文言となる。
――これは、シミが落ちにくいのに、
――下手に洗濯したら色落ちしてしまうのに、
――このモコモコ感が最高であるのに、
――今は茶染めの泥うさぎ……?
…………その罪、万死に値するっ!
「あっさばからすでねやぁー!!」
兎地方古語を絶叫しながら、因幡てゐは霧雨魔理沙に向かって疾走した。
あの白黒をヌカ床に漬け込んで変色させてやると叫びながら偽廊下を滑走する。橙の光源が流線となって両側を行き過ぎた。
漬物はビタミンが取れるから良いんだ! でも塩分過多には注意しなきゃね! などと良く分からないことを考えながらも走り行く。
手足をジタバタさせる動作とは関係なく、意外なほど速いスピードで駆け抜けた。
「あ……う…?」
その姿を見たウドンゲは、ショックを受けた。
弾幕が当たらないことなど忘れてしまう。
目の前の、侵入者として来ている魔女の存在さえ、忘却の彼方だ。
脳みそが一時停止を起こし、行動がストップする。
巨大なハンマーで、後頭部を思いっきり殴られたみたいな衝撃力だった。
いつも冷静な態度を崩さない、どんな悪戯を次はしようかとしか考えていない余裕たっぷりの健康優良兎長が、鼻水と涙を撒き散らしながら突進して来ているのだ。
思考が誤作動を起こし、茫然自失となるには充分すぎる出来事だった。
その鼻は土で汚れ、泥に染まったピンク服を振り乱し何かを喚いている。普段から真っ赤なほっぺたは更に赤く、さながらリンゴか赤信号のよう。
(か、かわいい……♪)
頬擦りしたい緊急突発衝動がウドンゲ内で嵐となった。
その誘惑は耐えがたく、凶悪な吸引力を発揮する。
お、お持ち帰り~! と異次元からの電波が絶叫してた。
あのプクプクのほっぺたを一日中つつくんだよ~、と耳もとで囁いてる。
だが、ウドンゲの更に深い場所にある本能は、それに、否! と吠え返した。
まったくもって足りないっ! と咆哮した。
月兎の欲は深いのだ。
何か、もっとこう、心中奥底にまで突き刺さるような『何か』、それこそウドンゲが求めるものである。
あんな泣き叫ぶ姿を見てしまっては、単純に慰めるだけでは到底足りない。
普段は隙を見せぬ、高圧的な者が堕ちる姿とは、何故にこうも心を乱し欲求を噴出させるのだろう。
もっと行うべきこと、欲することは―――
――――えーと、たとえば座薬?
+++
色々な問題が起こっている永遠亭廊下内と異なり、その最奥では今まさに殺し合いが始まろうとしていた。
黒い髪を靡かせながら、輝夜は手をすっくと示し、怨念すら込めて命じた。
「龍の頸の玉よ!」
五色の光刃が虚空から出現し、巨獣の顎の如く妹紅を噛み砕こうとする。
隙無く敷きつめられた刃に逃げ場所は無く、対抗手段がなければ瞬殺される布陣だ。
「滅罪寺院傷!」
それを妹紅は無尽の符で対処する。
妹紅の服、そのあらゆる場所から符が湯水の如く溢れ、瞬時に陣を形成した。
並ぶ符に隙間は無く、百戦錬磨の軍隊さながらの整然さで突き進む。
月少女の秘術と不死者の秘技は秒を待たずに接触し、ひとつひとつが小規模な爆裂を起こした。
たちまちのうちに塵芥が狭い屋内いっぱいに広がり、何ひとつ見えなくさせる。
「フっ!」
「はあっ!」
だが、そんなことで二人の闘志は衰えない。
煙を押し退け二種の火炎が燃えさかった。
ここは本能寺の変の真っ最中なのだと言わんばかりに部屋は燃え上がり、滅びの予感を濃く漂わせる。
「来たれ、火鼠の皮衣!」
炎が意志を与えられ、輝夜の周囲を円状に巡る。
一定の動きを見せる火炎は、その名の通り、動物の皮のように蠢き、波うっていた。
輝夜の号令の下、炎壁はそのまま妹紅を喰らい尽くそうと移動する。
――妹紅は冷めた半眼で見ているだけだった。
炎壁は瞬く間に対象を飲み込んだ。
炎を押し出した分の空白地帯にいる輝夜は、「これだけでは足りない」と言わんばかりに幾つもの炎槍を作り出し、仇敵がいる場所へと投擲した。
軽い金属音を生じさせながら、槍は炎壁の向こうへ飛翔した。
そして、血を吐くような、苦しげな言葉を輝夜はこぼす。
「あなたが! あなたが薬をくすねなければ……っ!」
眦からは涙がこぼれた。
炎槍を幾本も、子供がする駄々のように投げ、なお糾弾した。
「永遠はあなたの手に相応しくない! あの人たちが死んでしまったのに、なぜ、あなたが生きてるのよ!」
炎はますます勢いを増し、歓喜しながら酸素を消費する。
輝夜の周囲以外は火の海に沈み、劫火となって荒れ狂っていた。
「あなたなんて死んでしまえばいい! 生きてる価値なんて在りはしないのよ! 立って空気を吸うことさえ穢らわしい! 存在してることさえ許せない! とっとと、今すぐ消えてっ……!!」
「――――巫山戯てるの?」
氷よりも冷たい、永久凍土に彩られた声が炎壁の向こうから漏れた。
言葉を合図に炎が姿を変えた。
いままで輝夜の意に従っていた赤色が、彼女の手を離れ一箇所に集中する。
熱された空気がわれ先に妹紅へと押し寄せ圧縮し、一つの巨大なオブジェを作った。
巨翼の羽ばたきが高温の風を発生させ、翡翠の目が冷徹に輝夜を見おろす姿。
――それは、鳳凰だった。
「こんな身体に作り変えた張本人がいまさら何を言う?」
火の精髄が形を持つ。
復活を司る霊鳥が妹紅の背後に顕現する。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「生? 死? それが何? それが何だって言うの?」
火炎より生まれた鳥は、余裕を持って優雅に羽ばたく。
妹紅の優しげな声とは真逆に、鳳凰は咽の奥から物騒な威嚇音を鳴らしていた。
「あんたは知らない。何も知らない。
人間にとってその死が、どれだけの安寧を齎すのかを知らない。
どれだけの救いなのかを知らない。
――――時の非常さを、絶望を知らない――」
鳳凰が、巨体に似合わぬ俊敏さで舞い上がり、高い天井近くから睥睨した。
「少し頭を『燃やし』てくることね、堕ちて穢れた月の姫――――行け、鳳翼天翔っ!!」
巨鳥が舞い落ちる。
分裂を繰り返しながら、幾つも火炎鳥が輝夜へと殺到した。
「くっ」
それを避け、或いは弾き無効化する。
月製の服は燃えることも無く、鳳凰を打ちのめした。
火炎鳥の中を的確に、踊るように動く。
「知らない!? 何を知らないっていうのよ人殺しっ! なにをどう言ったところで、あなたのせいであの人たちが死んだのには変わりないじゃないの!」
「それが罪だっていうのよッ!」
吠えるように叫び、妹紅は手を床へと叩きつけた。
三本爪が炎と畳を蹴散らし、まっすぐ輝夜へと伸びた。
「不老不死が幸せだなんてなぜ思う! 永遠が人に何をもたらすかなぜ考えない!
私はいっつもいっつも思ってた、『誰かこの身を本当に消滅させてくれないか』って! この身体で幸せを感じた日なんて、私にはなかった!!」
高く木葉のように乱舞する畳、その中心より来る三つの衝撃刃を、輝夜は手にした『蓬莱の玉の枝』で振り払う。
小犬のような鳴き声を上げ、魔獣が横へと吹き飛んだ。
「たかが千年生きたくらいで泣き言を言わないでよ!」
「あんたらと一緒の感覚にするな! 周囲の人間が『死につづける』のを平気で見れるわけがないっ!」
「根性なし!」
「んだってぇえ!?」
……ふたりが暴れる部屋の外では、八意永琳が「あらあら」などと言いながら、やんちゃな子どもを見る視線で室内を包んでいた。
+++
「ふふん……」
周りも自分も見えていない兎長、新たな性癖を発見して混乱する月兎と異なり、霧雨魔理沙はひとり冷静さを失っていなかった。
「考えてみれば単純な話なんだよな。難しく考えすぎたぜ」
言って箒を握る。
瞬間、スカートと髪が舞い上がり、魔の術法が凝縮した。
弾の一つがこめかみを掠め、火花を散らしたが気にも止めない。
熱っぽい魔眼をピンク服に向けているウドンゲを一顧だにせず、因幡てゐへと滑るように動き出す。つい先ほどまでとは違った、計算された慎重さがそこにはあった。
「ばっからでてのちがけでるでねえ! おでぅあしょうだでぅれねべやぁっ!! ばはらおどろぅげなすばらにさとぅ!!」
向かいから走り来る兎長の訴えは、残念ながら翻訳者がいないため意味不明であった。
だが、叫びと同時に湧き上がる、弾幕の数々を見ればその意は明らかだ。
即ち『死んじゃえっ、ばかー!!』である。
大輪の弾幕が、情けも容赦もなく展開された。
それはスペルカードと比べても遜色は無く、通常攻撃であることを疑うような大弾幕、いつもより三倍増である。
打ち上げ花火のように十重二重と弾輪は広がり迫る。
通常であれば、ここは魔符(ボム)を使用するか、最低でも後ろに下がって弾幕間が広がるのを待つ場面であろう。
そうしなければ、どう考えても生き残れない。
だが魔女は、その弾幕を確認した途端、特攻じみた加速を行った。
ためらいや逡巡などカケラもない、箒自身に風を纏わせ、神話の矢のように直進する。
生きていることが嫌になったのか、魔法薬を飲みすぎたのかと問い掛けたくなるほどの暴走っぷりである。
満ちて押し寄せる弾幕は、とてもじゃないが人間が避けれるだけの『隙間』がない。
悪戯っぽい眼と不敵な笑みを浮かべてはいるが、誰がどう見ても無茶苦茶だ。
魔理沙は絶壁状の弾幕へと、自殺行為とも思える突入を行なっていた。
――――もっとも、そうは思えない不幸な例外が、ここに一匹いたりする。
惚けて夢見る月兎からすれば、その姿は『魔女が姫を拉致しようとしてるっ!』と見えた。
恍惚としていた意識に冷水が注がれる。
先ほどまで戦っていた相手がウドンゲを無視して突然の反転、凄まじいスピードで突進したのだ。しかも、向かっている方向は出口側、連れて逃げるのにも最適である。
お前もてゐの可愛さに目が眩んだかっ! とウドンゲが想像しても仕方のないことだった。
ウドンゲの特殊なフィルターのかかった目には、弾幕なんて映っていない。
阻止しようと硬い誓いを立て、追走する。
――猛るウサ耳が天を突き、眼を真っ赤に血走らせる様は、誰がどう見ても昼メロの三角関係発覚による修羅場場面であった。
(――つまり、だ)
迫り来る弾幕を見、後ろから来る月兎を確かめ、大気と擦れる疾走音を聞きながら、魔女は心穏やかに独白する。
眼前の弾幕は、土石流のようにも見えた。
回避の成功率は1パーセントを下回ることだろう。圧倒的で破滅的な弾幕だ。
だが、霧雨魔理沙は顔全体で破顔しながら叫んだ。
「弾幕を出さないんなら、『他は何でもオッケー』ってことだ!」
限りなく間違った考えを叫びつつ、身体を覆っていた魔光を遮断。
箒との縁を切り――
魔理沙は『箒から飛び降りた』。
「へっ!?」
「うが……?」
二匹の兎が呆然とする間にも、箒と魔理沙は分離する。
突如として物理法則を思い出した魔理沙の身体は、風圧で後方へと吹き飛ばされ、木の葉のように舞い飛んだ。
そして、すぐ後ろにまで追いついていたウドンゲに迫り、
「ぃよいっしょうっ!」
「うわっ!?」
魔理沙、渾身の空中ラリアットを放った。
無茶苦茶である。
それは、空戦中に外へと飛び出し肉弾戦を行なったようなものだ。
もはや宅急便とは何の関係も無い。
――ウドンゲは咄嗟に首をすくめ、寸前でこれを避けた。
豪腕は月兎の頭上に烈風だけを巻き起こして通過した。
振り抜いた体勢のまま、魔女は成す術もなく墜落する。
箒がなければ魔女は飛ぶことができない。どこぞの重力を操れる巫女とは違うのだ。
ウドンゲは頭を抱えた状態で、呆然とその様子を見ていた。
(な、なんて壮大な自爆っぷり……)
思わず心中、呟いた。
紐なしバンジ―によるカミカゼアタックだ。
呆れるを通り越し、感心するのも通り越し、意識を真っ白に漂白される。
大の字で落ち行く、何故か笑みを浮かべている魔理沙を見ることしかできない。
『姫を攫おうとした悪い魔女』が滅びる様を、硬直しながらただ見送っていた――
――――そう、『見送っていただけ』だった。
迫りつつある窮状を、まるで理解していなかった。
分離したもう片方、無人の魔箒が弾幕の壁を通り抜け、同じく『何が何だかよく分からない』という顔をしている因幡てゐを強打、昏倒させ乱回転をさせた姿を見ていない。
それどころか、土石流とも花火とも言える弾幕が消えもせず、今度はウドンゲに迫って来ていることすら、見ていなかった――――
+++
永遠亭最奥、最高級の設えが施された部屋は、いまや残骸しか残っていなかった。
あるものは焼け焦げ、あるものは破壊され、あるものは無数の穴が開けられている。
毛の生え変わる時期、兎たちが涙を呑んで提供した羽毛による座布団も、職人が全身全霊を込めた、「もう二度と同じモンはつくれねぇなぁ」と自慢げに語っていた箪笥も、八意永琳が月から持ち帰った掛軸も、何もかもが無残な姿を晒している。
そこかしこから、付喪神のすすり泣きが聞こえてきそうだ。
「あっしが何かしましたか!?」という無言の問いかけが、戦場跡に満ち満ちていた。
部屋中央では輝夜と妹紅の二人が、これもまた無残な姿で立ち尽くしている。
輝夜の白磁の肌は煤で汚れ、妹紅の蒼から白へとグラデーションを描いていた長髪は、黒で一様になっている。
攻撃の余波と穢れは、全てに対し例外なく影響していた。
――黙ったまま、二人は荒い呼吸だけを繰り返す。
視線は違いに縫いとめられているが、弾も言葉も吐き出していない。
それらはもうすでに出し切ってしまったのだ。
ただ睨みつけたまま、体力の回復を待っていた。
――また、これ以上の弾幕戦は無駄であるともお互い悟った。
あれだけの攻撃を繰り広げたのに、両者ともにかすり傷ていどのダメージしか受けていない。
被害の大半は部屋の中だけで荒れ狂っていた。
輝夜も妹紅も、いわば弾幕戦のプロだ。その経歴は大半の幻想郷人よりも長い。まして、初期の頃では『本当に殺し合いの為の弾幕』すらあったのだ。自然、避ける技術も上手くなる。
互いに、歴戦の兵(つわもの)なのだ。
「はあ……はあ……」
荒い呼吸の合間、襤褸襤褸の躰を叱咤しながら、蓬莱山輝夜は思う。
果たして、いままでこれだけ必死に戦闘を行なったことがあっただろうか?
これほどまでの怒りを覚え、誰かを憎く思ったことがあっただろうか?
恐ろしいことに、答えはどちらも否だった。
輝夜は、常日頃から感情というものを出さないタチだ。
なにせ生まれた時でさえ泣かなかったという逸話を残しているくらいだ。
いまいち『哀しい』とか『憎たらしい』などというものがピンと来ない。
外面だけは大抵笑顔を浮かべているが、心中では、どんな感情も存在していなかった。
(いつも、どこか私はズレてるのよね……)
月から追放され、養父母の元で育てられた時だってそうだった。
感謝はしていた。有り難いとも感じていた。
だが、それらは全て『理性で割り切れる』ものだったのだ。
他人ごとのように、『何の関係もない自分を救ってくれて助かった』などと思っていた。
だから、八意永琳が月の使者として来た時も、あっさり養父母から離れることが出来たのだ。
本当に感謝したのは、本当に手に入れ難い日々であったと痛感したのは、遥かな月日を経てからだった。――――そして、その時には、何もかもが手遅れとなっていた。
いつでも自分はそうだ。
輝夜は自嘲する。
感情とやらは、いつでも一拍遅れてやって来る。
何もかもが過ぎ去ってから、ようやくひょっこりと『感情』とやらが顔を覗かせるのだ。
そう、だから、これほどまでの怒りを眼前の敵にぶつけたのは――死力を尽くし怨敵を滅ぼす作業は、実は初めてだった。
「くっ……はあ、はあ……くっ……」
藤原妹紅は唇を噛み締めた。
自分の甘さに嫌気がさしてくる。
生死の境を幾度も越え、文字通り『躰に刻み込むほど』の修練を繰り返した妹紅には、お座敷に在り続けた輝夜には無い『経験』というものがあった。
限界を越えた経験が生みだした、古兵が持つ直感的な予測があった。
そう、実は何度か仇敵を葬り去るチャンスはあったのだ。
だが、その度に、妹紅は踏みとどまってしまった。
全力を放とうとする一瞬前、脳裏をある囁きが過ぎるのだ。
妹紅と輝夜は同じ躰を持っている。
同じ不死人なのである。
「あの経験を、アイツにもさせるのか?」とそれは囁く。
(そのために、そのためにこうして此処にいるというのに……っ!)
妹紅は、元は一般の、ただの普通の人間である。
それが毅さを得られたのは、ここまでの攻撃力を放てるのは、『そういった経験をした為』に他ならない。
火炎に幾日も焼かれ続けた結果、火を操る術を得たのだ。
何人もの人間と妖怪に刺され続けた結果、刃を操る術を獲得したのだ。
妹紅を『祓おう』とする人間から霊符を投げれら続けた結果、それの使い方を覚えたのだ。
騙され、閉じ込められ、焼かれ、酷い時には噴火口に突き落とされた時すらあった。
血を絞り取られる作業を続け、遂には術を掴んだのである。
――――そして、その為に、術を使用することは、否応なく『その時の経験』を掘り返されることになる。
まして相手は、同じ不死者、同じ『死にたくても死ねない人間』なのだ――――
まったく同じ『あの時の経験をさせる』のだと思うと、反射的に手は緩んだ。
仇敵であるのに、恨みを晴らす絶好の機会であるはずなのに、妹紅のたましいが悲鳴を上げてしまうのだ。
「くうっ……」
「ふう……」
――互いの呼吸がゆっくりと整う。
もう、動くことが可能であった。
しかし、両者ともに動かない。いや、動けない。
瞳を睨みつけ合ったまま、時間だけが経過した。
外では何やら騒がしい声が、遠く聞こえる。
悲鳴と憎々しげな咆哮が混じる様子は、まるで鉄砲玉でも乗り込んできたかのようだ。
室内に満ちる熱い緊張と、それは対照的な雰囲気である。
二人は見つめ合ったまま、ただ思考を巡らせた。
――弾幕は無理だ。
かといってこのまま済ませるわけにもいかない。
悩みと焦りが、両者の中で均等に燻った。
――やがて、理解と閃きが襲う。
ゆっくりと、妹紅と輝夜の手が伸びあった――
+++
弾幕の接近を音で悟り、ウドンゲは急いで顔を上げた。
斜め後方で落下中の魔女から、目の前の惨状へと顔を動かす。
「わ、わあああああああ!??」
垂直の壁のような弾の数々が、もうすぐそこまで迫っていた。
恥じも外聞も無く叫び声を上げつづけ、ただひたすらに全力で、魔眼を『土石流弾幕』相手に放出した。
ゆあん、と弾幕全体が停止し、揺らぐ。
一瞬だけの、その静止を逃さずに、前の弾幕を上下左右――要するに自分以外の方向へと『針路を狂わせる』。
再び弾幕の進撃が開始した時には、目の前に、ぽっかりとマンホール大の穴が開いていた。
それは、遮断されていた向こう側の景色を覗かせる。
廊下を照らす橙の灯り、背景として在る偽廊下の薄暗さ――そして目を回している因幡てゐの接近する様子もまた。
「ああ!! ウソっ!?」
兎長は乱回転をしながら、かなりの速度で接近していた。
よほど箒の攻撃が的確だったのか、正気に戻る様子もない。
第一攻撃の魔女ラリアット、第二攻撃の弾幕と違い、月兎はこの第三攻撃を回避することができなかった。
愛する者が真っ直ぐにコチラへ向かって来てるのだ、これを避けては兎が廃る。
上下左右を弾幕が通り過ぎ、不吉な轟風が髪や服を乱した後に、ウドンゲは、むしろ望んで兎長と激突した。
運動エネルギーが相殺され、二人はその場で停止する。
周囲を荒れ狂っていた風がゆっくりと収まり、ウドンゲの長い髪はもとの位置へと帰還した。
しっかと、二度と離さないとばかりに、てゐを抱き締めていた。
――月兎の脳は一瞬でバラ色に染まる。
泥でウドンゲ自身の服も汚れたが、そんなことは気にもならない。
桃源郷の心地を味わい、「結婚式はどこがいいだろう? 子どもは何人がいいかな?」などと考えている最中、ウドンゲに残るかすかな理性は、視界に映った情報をただ伝えた。
迷うことなく驀進していた箒が――霧雨魔理沙の魔箒が、ぽうっと光を放ったかと思うと、下方へと向かってすばやく進路を変更、Uターンを行なっていた。
それまでを問題にしないほど速く、常識を外れたスピードを箒は見せ、カミソリで空間を斬ったかのような、消せない曲線残像をウドンゲの目に刻み込む。
人という重荷が乗っていては不可能な、最小半円の軌道と加速だ。
それは、因幡たちの下方を抜け、そして――
「よいしょっと」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
斜め後ろ下方で、聞き覚えのある声が響く。
弾けるように振り返ると、魔女は舞い上がるエプロンドレスを貞淑に抑え、もう片方の手に符を握りつつ着地してた。
――魔箒は地面ギリギリまで沈みこみ、魔理沙の回収に成功していた。
振り返り、ニヤリとした笑みをコチラに見せつけている。
――――魔女が行なったことは単純である。
魔理沙へ向かって突っ込む二人を、『少しばかり撹乱』させることで、激突し合わせ、その隙に逃げただけだ。
――ただ、その撹乱方法が無人箒の特攻と、本人によるラリアットなのが、問題といえば問題だろう。
「…………ちょ、ちょっと待ちなさいよぅ!」
ウドンゲの脳裏を『しまった、逃がしたらまたあの八意印の健康ドリンクがぁっ!』という思いがよぎった。引きとめようと再度画策する。
てゐを抱えたまま、顔だけを強引に向け、眼を炯々と光らせ、ふたたび『感覚を狂わせ』ようと魔眼を発動させる。
「じゃあな!! 世話になったっ!!」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
だが、魔理沙はそれより先に前を見据えて腕を振り上げ、符を箒へと叩きつけた。
符は魔力を解放し、光が乱舞した。
膨大量の魔力が魔箒を駆け巡り渦を巻き、余剰魔力が蒼白い小雷となって宙を彩る。
ウドンゲの頬が引き攣った。
魔女が「ヤバッ」と小声で言った。ウドンゲは思う、それはコッチの台詞だ。
見る間にも箒の枝が『成長』を始めた。不気味な音を立てて広がり、葉緑素が酸素を取り込む吸音が偽廊下を覆う。
霊木内の魔陣と膨大な魔力とが反応し、通常はありえない『進化』を起こさせた。
魔法防護壁が縮小し色を銀へと変え、箒の前方にだけ展開した。柄が高音の咆哮を上げ始める。
――ばしん、と音を立てて魔眼の効力は無効化された。巨大すぎる魔力渦が荒れに荒れ、『狂気』がもはや通じない。
悟った瞬間、ウドンゲは、てゐを抱えて出口方向へと走り出した。
間に合うとは到底思えないが、一歩でも離れずにはいられない。
目の端で、枝の先端が輝き、巨大な魔法陣を形成したのが見えた。
唸りを上げ、魔力を吐き出そうと回転する。
絶望的な、真っ黒な気分で月兎は思い出す。
あの符の名は――
――――恋符・マスタースパーク――――
+
――空間が揺れた。
世界が悲鳴を上げ、音は海嘯となって駆け巡る。
絶大な熱が速度へと変換されていた。
「お、おおおお!?」
箒の柄がロデオのように暴走する。
偽廊下の四方が、ギロチンのように迫り、また後方へと過ぎ去った。
オレンジの灯りが線となり、かすれ、周囲の壁と溶けてただの『色』となる。
魔箒によって霊的に精錬されたマナは烈光となり、常識外れの規模と威力を噴出してた。
魔理沙の頭に二人の兎への心配が過ぎったが、己の窮状の方が危険だった。手を僅かにでもズラすとそのままどこか知らない方向へとすっ飛ぶ、一瞬でも他に意識を取られれば破滅へ一直線だ。
――『速度』に恐怖を感じたのは初めてのことだった。
箒にしがみついたまま、腹の抜けるような恐怖を味わっている。
全身が振動と衝撃によりビリビリ痛んだ。
接着した右手からは絶えず膨大な魔力を吸い取られる。
キャンセルしきれないGが全身を打ち据え、弾き飛ばそうとしていた。
魔理沙としては、『攻撃できないのだから噴射光で弾き飛ばそう』程度にしか考えていなかったのだが、あまりに予想外の威力であった。
もはや、できることは何も無い。
膨大な魔光に導かれるまま、このまま突っ切る以外に術はなかった。
「ははっ……ロケットパイロットにでもなったみたいだぜ」
震えて呟く言葉ですら、この騒音の前に掻き消されていた。
展開している銀の防護壁が、獣のように粗野で下品な風音を発している。
広がった枝々は風を巻き、高音の叫び声を上げていた。
手を横に広げるか顔をわずかでも上げれば、きっと、肉片となって千切れ飛ぶだろう。
凶悪なまでの速度であった。
何もかもが通り過ぎ、何もかもがやって来る。
その循環はテンポを底なしに上げていた。
空気が摩擦で燃え、魔理沙の横で踊っていた。
魔女の思考能力は徐々に低下しつつあった。
頭は霞み、明らかに血が上手く廻っていない。
魔力は尽きかけている所を、更に搾り取られてる。
『箒にしがみつく』という体勢ですら、気を抜くと崩れそうだった。
そんな中、霧雨魔理沙は仄かな甘さを感じていた。
自分でも下らないと思えるプライド。
愚かで何の意味もない証明だった。
(間違いなく、私が幻想郷最速だ…………やったぜ……っ!)
壁がやって来るスピードが更に更に上昇し、限界まで迫り――
通路がなくなり、空が大きく解放された。
狭い通路を乱流していた風が歓喜する。
明滅する意識で見た。
高い空には偽の夜空があまねく満ち、無限の光芒を放つ狂気の月が睥睨していた。
耳がおかしくなったのか、音は聞こえなくなっていた。
無音のまま、魔理沙はむしろ安心した心地で箒を掴んでいた。
魔箒は行く、どこまでも高く、
どこまでも高く、
どこまでも、
どこまでも…………
……魔力が尽き、
……意識が消え、
……閃光が点滅し、消失した。
推進力はそのままに、高く高く箒と魔女は上昇したが、月に届くこともなく、空の果てには触れられず、速度がゆっくりゼロへと近づく。
残量わずかなマナにより右手と箒は接着しているが、最早それだけでしか『魔たる法』は成されていない。
老木の高さは越えていた、夜闇に彩られた雲を抜けていた、冷たく透明な夜の半ばの高さまで、月だけが大きく見える位置まで来ていた。
だがそれでも、呆気なく急上昇はかき消え、ただの降下へと取って変わられる。
箒の先が天から地へと、ゆっくり転換した。
霧雨魔理沙は、力なく墜落する。
地面では、永遠亭の全貌が待ち構えていた――――
+++
その閃光は凄まじかった。
以前、魔理沙が敵として訪れた時にも見せたものだが、その威力を更に増しているように思える。
鈴仙・優曇華院・イナバは出口に向かって疾走しながら、目を回している因幡てゐの懐をまさぐった。
別段、いやらしい気持ちからではない。
最後なのだからできるところまで! などという不純な気持ちは一切ないような気がしないでもない。
その手に獲得したのは、因幡てゐ、唯一のスペルカードである『エンシェントデューパー』だ。
自身の持っている最強符『幻朧月睨(ルナティックレッドアイズ)』と重ね合わせた。
魔力を込め腹の底から叫ぶ。
「お願いっ! 重符・『月地双兎(ダブルイナバ)』!!」
ウドンゲの頭にあるのは、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドの姿だった。
ふたりで行っていた『重ね合わせの通常攻撃』。
1+1を3にも10にもした、あの現象。
(彼女たちにできるのであれば、きっと私たちだって……!)
同じ兎、同じ仲間だ。
出来ないはずがないと確信し、力を込める。
だが――
(――ウソっ!?)
何も出なかった。
弾幕ひとつ、光線のひとつも出ない。
膨大な閃光は、すぐそこまで迫っている。
もはや打つ手はない。絶望的だった。
「くっ」
せめても、と思い。てゐを庇う。
自分の身体が盾になるとも思えないが、万が一、千が一の可能性に賭け、力の限り抱き締める。
目を閉じ、震えながら待った。
烈光によって生じる影が濃くなるのを、他人事のように感じていた――
――――手にした重符から、ひょんっ、と『兎』が飛び出した。
真っ白な身体と蒼の目を持った、光で描かれた兎であった。
光兎はぴょこん、ぴょこん、と呑気に跳ね、海嘯となって押し寄せくる烈光を『真っ二つに割った』。
「へ……」
その光波は紙製なのだと言わんばかりに、あっけなくこれを切り裂く。
符からは次々に光兎が湧き出し、因幡てゐとウドンゲを球状に取り囲む。
それは兎だけで形作られた満月のよう。最初の兎が消耗して消える頃には、隙間なくスクラムを形成し、マスタースパークを完全に遮断していた。
地上と月とで生まれた兎は、その術を以って完全な月を顕現させていた。
「まったく――」
「あ、てゐ……?」
「何が何だかだけど、こうしてれば良いのよね」
痛む頭を振りながら、てゐは重符に手を添えていた。
反対側は、ウドンゲが添えている。
二人の符は、二人の力が注がれ、その真なる力を発揮した。
爆流と化している光にも負けない、完全球の結界がそこに或る。
てゐとウドンゲは、その中で向かい合っていた。
「まったくもう何で、アタシが何したっていうんだろ…………これシミ落ちないんだろうな、もう……」
ぶつぶつと、てゐは何かを呟きつづけた。
グチを、誰に対してともなく口にしている。顔中に悲哀が漂っていた。
いまだ暴力的な攻撃光が吹き荒れる中、呑気といえば呑気であるが……
危険である。
彼女は幸運をつかさどる兎。
笑う角には福来たるを本当に起こしてしまう生き物だ。
不満顔で不平不満を言おうものなら、その効果はてき面に現れる。
しかめ角には不幸が訪れるのだ。
もっとも、幸不幸とは相対的なものである。
誰かが不幸であることは、時に誰かを幸福にする。
――てゐと向かい合っているウドンゲは、黙ってその話を聞き、『魔眼を発動させ、部屋へと連れ去るタイミング』を、今か今かと待ち続けていた。
繰り返すが、月兎の欲はとても深いのである――――
>えーと、たとえば座薬?
なんだかこのフレーズが私的名言になりそうです。
そんな風にウドンゲがトチ狂っているその一方で、妹紅と輝夜が壮絶な殺し合いを繰り広げている。
雰囲気は正反対なのに、どちらかが浮いているなんて事が無いのは、それだけ作品の構成が上手いからでしょうね。
……で、そんなウドンゲと、妹紅&輝夜の戦いに魅了されていて、「魔理沙はそもそも輝夜に届け物をしに来たのだ」という事を作品のタイトル見返すまで忘れてました(コラ)。