12月の幻想郷。
幻想郷の冬は厳しい。今年も、もう辺り一面すっかり雪に包まれていた。
僕の店「香霖堂」も、例外なく雪景色に包まれている。
ただでさえ僕の店には客が来ない。
その上この雪じゃあ、年内中に客が来るのかも怪しいくらいだ。
いっそ店を閉めて春が来るまで冬眠でもしてしまおうか。
そんなことを考えながら珈琲を淹れていると、入り口に備え付けてある鈴が鳴り、僕に来客を告げた。
淹れ立ての珈琲の湯気の先にいる人物は、よく見知った顔だった。
「やあ、霊夢。いま珈琲を淹れたんだけど、君もどうかな」
「こんにちは、霖之助さん。せっかくだけど遠慮しておくわ」
博麗霊夢。
幻想郷と外界の狭間にある神社、博麗神社の巫女だ。
数少ない香霖堂の常連客・・・・・・いや、代金を払わない手合いは客とは呼べないか。
彼女が使っているお払い棒や、御札はだいたい僕が用意した品だ。
彼女はお茶党で、珈琲は滅多に飲まない。
「今日はなにを探してるんだ?」
「年末はいろいろと物入りでね。あ、これも・・・」
彼女は僕には目もくれずにゴソゴソと店の品を漁っている。
恐らく、いやほぼ確実にその代金が支払われることは無いだろう。
しかしもうそれも慣れっこだった。彼女には支払いという概念が無いのだ。
だから僕もそれを強要することはしないし、それが幻想郷のルールだろうと僕は考える。
僕は珈琲の味を楽しみながら、彼女の挙動を一つ一つ眺めていた。
そして、ふと思い出したことがあった。
彼女には話すべきであろう、ひとつの外の世界の話を。
例えそれが彼女を苦しませても、僕は話をする義務がある。
なぜなら僕は、聞いてしまったから、知ってしまったから。
「ふう、これだけあれば年は越せそうだわ。これ、もらっていくわ」
「ああ、勝手にもってってくれ」
そして僕は切り出す。
あくまで自然に、あくまで不自然に。
「そう言えば、ちょっとした噂を耳にしたんだ。いや、独り言だから聞き流してくれてもいいんだが」
彼女は店のドアへ向かって歩いていた足を止めて、こちらに振り向く。
僕が唐突に話を始めることに違和感を感じているような顔だった。
もったいぶる様に、珈琲を一口味わってから僕は話を続ける。
「仕入れ先で聞いたんだけどね。この時期、年末になると、外の世界で一度にたくさんの人が、神隠しに遭うらしいんだ。今年はまだ被害はでてないみたいだが・・・。いや、ただの噂話だよ」
珈琲は、なぜか少しだけ苦味を増していた。
****
夜の博麗神社。
私は沸かしたての湯に浸かり、今日霖之助さんから聞いたことを思い返していた。
寒空の下、芯まで冷えた体に、暖かいお湯が染みる。
身体が温まれば、心も温まるのではと思ったが、気分が晴れることは無かった。
湯気で視界が悪い。
そのおかげで今この空間は外界から完全に閉ざされ、何かを考えるには最適の空間になっていた。
『そう言えば、ちょっとした噂を耳にしたんだ。いや、独り言だから聞き流してくれてもいいんだが』
そう言って霖之助さんは私に話し出した。
今にして思えば、あの珈琲を飲むしぐさは、躊躇いを無くすためのスイッチだったのかもしれない。
『仕入れ先で聞いたんだけどね。この時期、年末になると、外の世界で一度にたくさんの人が、神隠しに遭うらしいんだ』
私は肩まで湯に浸かる。
身体は温まれど、気分は晴れることは無い。
そう。私はその話を聞いたときから気がついていた。
・・・・・・神隠しの原因は、紫だ。
八雲紫。
結界と境界を操る妖怪で、一度戦い、一度助け合った。
その後もちょこちょこ神社に遊びに来るし、一緒にお酒を飲んだことだって何度もある。
だが彼女は妖怪だ。妖怪は、人間を食料とする。
私は幻想郷の住人、そのことに今更どうこう言うつもりも無ければ、嫌悪感を感じることも無い。
幻想郷に生きる人間は、常にそのことを覚悟しなければならないし、そのリスクを理解したうえで幻想郷に生きている。
だけど、彼女が攫うのは外の人間だ。
いつだったか、彼女の口から冬は冬眠するという話を聞いたことがある。
恐らくこの時期に人間を大量に攫うのも、冬眠に対する備えだろう。
これまで彼女が毎年それをしてきたことについては、今更何も感じない。
知らなかったからだ。
でも、私は聞いてしまった、知ってしまった。
明日にでも紫は人間を狩りに出かけるかもしれない。
そうして冬眠にはいり、春になって起きてきた紫に対して、私はいままで通りに接することができるだろうか。
「・・・・・・無理だわ」
私は湯船から立ち上がる。
お湯がサブンと小気味良い音を立てて、それに呼応するように湯気が舞う。
窓を開けると、冷気が注ぎ込んできて、温まりすぎた身体に気持ちよかった。
****
チリン、チリン。
昨日とほぼ同じ時刻に、店の入り口に取り付けてある鈴が来客を告げる。
どうやら彼女にとって、この時間は買い物の時間と決めているらしい。
尤も、代金を払わない買い物は買い物と言えるのかどうか疑問ではあるが。
そして僕は、この時間の来客を予想して、今日は珈琲では無くお茶を淹れていた。
「やあ霊夢。いまお茶を淹れてたんだけど、君もどうかな」
「こんにちは、霖之助さん。外は寒かったし、せっかくだから頂くわ」
霊夢は僕から湯のみ茶碗を受け取ると、少しだけ背の高い椅子に腰を下ろした。
「ああ、霊夢。その椅子壊れ気味で、いつ崩れるかわからないんだ。そっちの大きいソファーのほうに座ってもらえるかな」
そう言ってソファーを指差す。
霊夢は一瞬不思議そうな顔をしたが、素直にソファーに移動して腰を下ろす。
そうして僕は、昨日と同じ質問をする。
「今日はなにを探してるんだ?」
「新しいお払い棒と、御札と護符がちょっと必要になって」
「へえ。また何かトラブルでもあったか」
わざとらしく僕は尋ねる。
「自分から伝えたくせに、よく言うわ」
そう、僕は霊夢がこの決断をすることを見越してあの話を伝えた。
彼女にとってそれが良い事か悪い事かはわからない。
でもいつかはたどり着くことだろう。なら早いほうがいい。
そう考えて僕は、霊夢に伝えた。
「・・・八雲紫を、退治するのか?」
「わからない。でも止めなきゃダメだわ。そうしないと春になったときに話が出来なくなるから」
「そんな中途半端な気持ちじゃ、逆に殺される。八雲紫は普段は人間のように振舞っているが本質は妖怪なんだぞ」
「そんなのわかってるわ!」
霊夢はわかってない。
彼女に八雲紫を殺すのは無理だ。
彼女は人間だから。
人間には、情という最大にして最悪の欠点がある。
その点妖怪はそれが無い。
もし霊夢が敵として紫の前に立ちはだかるのなら、八雲紫は霊夢を殺すだろう。
今回のケースは、妖怪と人間の本質に当たるケースだ。
彼女たちが普段興じている、”ごっこ”とは訳が違う。
殺し、殺され、殺しあう。そういった生命にダイレクトに関わる問題。
霊夢は紫に勝つことは出来るかもしれないが、殺すことは出来ない。
殺せなければ、殺される。そんな単純な方程式。
「人間は常に妖怪の食料で・・・・・・妖怪は・・・常に人間に・・・・・・・・・」
霊夢はそこまで言うと、湯飲みを床に落とし、ソファーにこてりと横たわった。
背の高い椅子からソファーに移動させておいて正解だった。
彼女を紫と戦わせるわけにはいかない。
だから僕は彼女のお茶に、睡眠薬を仕込んだ。
もし霊夢が八雲紫の神隠しを、見て見ぬふりをするつもりなら、僕もそれに従うつもりだった。
だが彼女は、戦う意思を見せた。
できれば、見て見ぬふりをしてほしかったんだが仕方が無い。
これも話を切り出した者の務めだろう。
「あまり争いごとは得意じゃないんだが・・・」
僕は、情けない話だが、こと戦闘に関しては霊夢よりはるかに弱い。
八雲紫に勝つことは難しいかもしれない。
でも僕は、紫を殺すことは出来る。
僕は八雲紫に面識は無いし、この刀さえあれば、どんな妖怪も敵にすら成り得ないのだ。
****
妖羅針盤を頼りに、ここ迷い家にたどり着くころには、もう日が落ちようとしていた。
夜。妖たちの時間。
できれば日が暮れる前に事を済ませたかったが、そうすんなりとは事は運んでくれないらしい。
今夜が満月じゃないのが、せめてもの救いだろうか。
空を見上げながら僕は雪道を踏みしめ歩く。
「しかし、迷い家か」
道に迷った者のみがたどり着けるといわれている場所だ。
ここにある物をひとつ持って帰ると幸福がもたらされるとか何とか。
まさかこの幻想郷に実在するとは、幻想郷はまだまだ僕の知らないことだらけだ。
だけど、それが面白い。
「せっかくだからひとつ持ち帰ってみるか」
「あら、人の家の物を勝手に持っていくの?」
迷い家の中へ踏み込もうとした時、背後からそんな声が聞こえた。
今までは気配すら感じなかったのに、実体化すらしてるのではと思うほど濃度の高い妖気が周囲一面に充満している。
―――八雲紫。
紛れも無く、彼女がそこにいる。
「ああ、すまない。人が住んでるなんて思わなかったんだ。道に迷ってね」
「最近の迷い人は、そんな物騒なものを持ち歩いているのね」
彼女の妖気に中てられ、半ば金縛り状態になっていた身体を無理に解いて振り返る。
そこにいたのは美しい少女だった。
銀色の世界によく栄える紫色の衣装を身に纏い、八雲紫はそこにいた。
刀を握り締めて、僕は八雲紫と対峙する。
「あんたみたいな、物騒な妖怪が最近多くてね。護身用にはこのくらいの刀じゃないと務まらない」
「あら失礼ね。物騒だなんて人聞きの悪い・・・。霖之助さん、だったかしら?」
ゾワリと。
彼女に名前を呼ばれるだけで、まるで背中に氷水を流されたかのような悪寒が全身を駆け巡る。
霊夢達は普段からこんな妖怪たちと対等に渡り歩いているのか。
そう考えると自分がいかに幻想郷では弱者の立場にいるのかと思い、自嘲の笑みがこぼれる。
こんな状況でも自嘲とはいえ笑うことが出来るとは、意外と僕にも胆力があるものだ。
「かの大妖怪、八雲紫に名を知られているとは。身に余る光栄だ」
「ふふ。この幻想郷で私が知らないことなんて何一つ無いわ。あなたの名前も、あなたがここにいる理由も、何一つね」
「それならば、話は早い」
僕は腰を落として刀を抜く。
この天叢雲剣。
斬れぬモノなど、何一つ、無い。
****
ふと目が覚める。
頭にはまだ白い霧がかかっているが、時間と共にそれも薄れていく。
徐々に形を成していく視界。
そこに見えるのは、見慣れぬ天井だった。
ここは・・・・・・香霖堂。
「う・・・・・・ん・・・」
軽い眩暈を覚えながら私は身体を起こした。
こめかみに残る軽い鈍痛。
ピシャリ、と自分の顔をはたいて無理に覚醒させる。
「えっと・・・」
何で私はこんなところで寝ているのだろうか。
あやふやな記憶を探る。
紫と戦うための準備をするために、私は香霖堂に来た。
ここまでは間違いない。
香霖堂に入って、霖之助さんにお茶を勧められて・・・。
ん、待てよ。
お茶を勧められて、それから、このソファーに移動したんだった。
私は今まで寝転がっていたソファから立ち上がり、例の少し背の高い椅子のところへ移動する。
「やっぱり・・・・・・!」
背の高い椅子は壊れ気味どころかむしろ新品同様だった。
叩いても蹴っても軋みひとつしないほどの頑丈な椅子。
「なにが壊れ気味よ~!」
バコン。
癪なので思い切り椅子を蹴っ飛ばして本当に壊れ気味にしておく。
すっ飛んでった椅子にぶつかってつぼがひとつ割れたけど知ったことではない。
少し気分が晴れたところで、事態を整理してみることにした。
霖之助さんがわざわざ嘘をついてまで、広いソファに移動させたこと。
そしてお茶を飲んだ後の記憶が無いこと。
これから導き出される解は、どんだけ考えてもただ一つだった。
「・・・盛ったわね」
文句の一つでも言ってやろうと、霖之助さんを探す。
しかし店内のどこにも霖之助さんの姿は無かった。
「もー、どこへいったのよー!」
・・・・・・何かがおかしい。
何かが抜けている。
少し考えてすぐに思い当たった。
動機だ。
”何故、私に睡眠薬を盛ったのか?”
「・・・・・・!」
瞬間、まだ半分眠っていた脳が全て覚醒し、全てを私は理解した。
気がつくと私は店を飛び出していた。
霖之助さんは紫と戦うつもりだ。
いや、もうすでに戦っているかもしれない。
何でそんなことを・・・。霖之助さんが紫に勝てるわけが無い!
そうだ、魔理沙。
魔理沙のところへ行くべきか。
いやだめだ。今こうしてる間にも殺し合いが行われているかもしれない。
もし間に合わなかったら。
もし、紫が霖之助さんを殺してしまったら。
私はもう二度と、紫を許すことはできなくなってしまう。
「どいつもこいつも、勝手だわ!」
ちらちらと雪が降り始めていた。
粉雪が舞い散る幻想郷の空を私は飛ぶ。
目的地は、彼女たちの待つ、迷い家。
どこまでも白い、幻想郷の冬。
****
例えば、1つの蜜柑。
1つの蜜柑が2つあれば、それは2つの蜜柑。
3つの蜜柑、4つの蜜柑、5つの蜜柑、6つの蜜柑。
20も過ぎたころには、それは「たくさんの蜜柑」になる。
人は、自分の計り知れる範囲外の事象に遭遇すると、とたんに曖昧になる。
たくさん。広い。いっぱい。etcetc...
そして、今目の前にいる妖怪は、ただただ、強い。
「・・・ぐ・・・・・・」
今にも倒れそうな身体を、気力だけで踏みとどまる。
四肢の感覚はとうに消え失せている。
ただ右手に握り締めているこの刀だけは、確かにこの手にあった。
血を流しすぎたのか、視界が揺らぐ。
視界が曖昧になることによって、不思議と思考が冷静になっていた。
ああ、雪が降ってきている。
「正直、驚いたわ。ただの古道具屋の店主だと思っていたのに、案外やるものね」
当たり前だ。あまりなめないでほしい。
中途半端な力量じゃ、幻想郷の、それも妖怪の住む地域と人間の住む地域の中間地点に店なんて構えられない。
僕も、腕にそれなりの自信があった。
だけどそんなもの、八雲紫の力で割ればゼロに等しい。
圧倒的力量の差を補うのは、この刀だ。
八雲紫の攻撃をなんとか交わしながら、この天叢雲剣でそれを裂く。
こちらの攻撃も効いてないわけではない。
お互いの総ダメージ量は五分五分のはずだ。
だが、もとより体力の絶対値が違いすぎる。
僕の体力を10とするなら、八雲紫は1000はあるだろう。
故に、必殺の一撃で、決めなければならない。
決めなければ、ならなかったのだ。
「冷えるわ・・・。ほら、こんなにも雪が強くなってきた。そろそろ終わりにしましょう?」
サク、サクと。
雪を踏みしめて、八雲紫が僕に近づいてくる。
視界が曖昧で距離感が掴めない。
まだ数メートルは離れているのか、もう目の前にいるのか。
僕の目に映るものは、吹きすさぶ白い雪と、漠然とした紫色の恐怖。
ああ、やっぱり、慣れないことはするもんじゃあないな。
一度恐怖心を覚えてしまえば、後は崩れるだけだ。
気力だけで身体を支えていた両足はその機能を停止し、僕はその場に倒れこんだ。
ひんやりとした雪が顔に当たって、なんとも気持ちがいい。
・
・
・
死の直前は、時間がゆっくりと流れるのだろうか。
いつまで経っても八雲紫の手にかかることは無かった。
不思議に思い、顔を上げると、そこには霊夢がいた。
「・・・・・・紫。お願いだから、やめて」
「やめて?なにを?そこの人間を殺すこと?それとも・・・・・・」
「霖之助さんは殺させない。あなただって、無傷じゃないでしょう。その状態で私と戦えば、あなたに勝ち目は無い」
まったく、なんて情けないんだ僕は。
霊夢を紫と戦わせないために、わざわざこんなことをやっているというのに、最後の最後は霊夢に助けられているなんて。
これではしばらくは、ツケの請求はできそうもない。
「霊夢、あの日、あの夜、私たちは確かめ合ったでしょう。人間は常に妖怪の食料で、妖怪は常に人間に退治される立場にあることを」
「ええ、勿論、そんな基本的な幻想郷の大前提くらい、博麗の巫女として理解はしているつもりだわ」
「じゃあ、何故あなたがここにいるの?私が冬眠するのも、その蓄えとして人間を攫うのも、これは摂理なのよ」
しんしんと。
雪は一向に勢いを衰えずに、僕たち3人に降り注ぐ。
白い銀幕の舞台に立つ、2人の少女を、僕はまるで観客のように眺めていた。
幻想郷においてなおも幻想的な、なんて美しい光景なんだろうか。
僕は1人の観客で、舞台のクライマックスを今か今かと待ち望んでいる。
「・・・話は終わりかしら」
「紫・・・。私はその基本的な前提を放棄してでも、あなたとはいまの関係を続けたいの」
だから、と、彼女は繋ぐ。
「私が、あなたの冬眠中のご飯を作るから、あまり口に合わないかもしれないけど・・・それでもがんばるからっ」
人間を攫うのは、もうやめてください、と。
霊夢は消え入る様な声でそう願った。
照れ隠しなのか、自分でも無茶なことを言っているのがわかっているのか、最後の言葉は聞き取りにくかった。
それでも確かに、霊夢はそう言った。
恐らくは、八雲紫の耳にも届いているだろう。
一瞬の静寂。
そして、紫は・・・。
「それは、いいわね」
と。
その馬鹿げた人間臭い提案を、笑顔で承諾した。
僕はその間抜けで優美な光景が、ただただ可笑しくて。
壊れた人形のように雪に寝転がりながらげらげらと笑っていた。
ああ、こんな彼女たちがいるから、僕は幻想郷が大好きなんだ―――。
夜の幻想郷に、僕の笑い声だけがいつまでも木魂していた。
****
その数日後。
あの日受けた傷も、魔理沙が魔法薬を調合してくれたおかげで、もう完治しつつあった。
「まったく香霖は、弱いくせに無茶しすぎだぜ」なんて言いながらもきちんと薬をくれるところが彼女の良い所でもある。
いつもタダ働きをさせるくせに、薬の代金をきちんと取るところも彼女の良い所・・・なんだろうか。
怪我が治るまで閉じていた香霖堂も、今日から営業再開だ。
尤も、閉じていようが開けていようが、僕の店に客が来ることは極々稀だった。
その極々稀な来客の中でも、とびっきり珍しい来客が、営業再開初日の今日に訪れた。
「やあ、いらっしゃい。今日はなにをお探しで」
「そうね。草薙の剣なんて、おいてないかしら?」
「残念ながら、それは非売品なんだ。あれがないと物騒な妖怪が来客したとき身を守れない」
「物騒な妖怪?怖いわね、誰のことかしら」
そう言って、物騒な妖怪、八雲紫は微笑んだ。
「私、明日から冬眠にはいるの」
「へえ。じゃあ先に言っておこうか。良いお年を」
「良いお年を。それで、その前にあなたに聞いておきたいことがあって、わざわざこんなところまで来たのよ」
こんなところで悪かったな。
あの時から考えていたことだが、どうも八雲紫と霊夢はどこか似たようなところがある。
外見はまるで違うのだが、言動や考え方がびっくりするほどダブって見えるときがあるのだ。
「で?聞いておきたいことって?」
「あなた、何故一振りで私程度なら殺せるほどの威力を持った刀を持っていたのに、私を殺そうとしなかったのかしら」
と、八雲紫は、一番触れられたくない所を突いてきた。
そう。僕は彼女を殺せなかった。
出会い頭に、天叢雲剣の本当の力を出して斬り付ければ、それで八雲紫は殺せたはずだった。
でも僕は殺せなかった。
彼女が死んだら、霊夢や魔理沙が悲しむかもしれない。
そんな考えが一瞬頭をよぎり、結果この様だ。
結局、僕も霊夢も、初めから八雲紫を殺すことなんてできやしなかったのだ。
「さあ。なんでだろうね。それを言うなら君もだよ。君ほどの力があれば、僕なんて一瞬で殺せるだろう」
「さあ、なんででしょう。あなたと同じ理由、とだけ言っておきましょうか」
そう言ってまた八雲紫は微笑む。
「それじゃ、帰ります」
そういうと踵を返して紫は歩き出した。
本当にそれだけの用件でわざわざ「こんなところ」まで来たらしい。
明日から冬眠する紫の背中におやすみ、と僕は言う。
すると紫は一瞬だけ振り向いてこう言った。
「ええ、また春に逢いましょう」
春になったらみんなで桜を見に行こう。
そんなことを思いながら、今日も客の来ない香霖堂で、僕は春を待つ。
幻想郷の冬は厳しい。今年も、もう辺り一面すっかり雪に包まれていた。
僕の店「香霖堂」も、例外なく雪景色に包まれている。
ただでさえ僕の店には客が来ない。
その上この雪じゃあ、年内中に客が来るのかも怪しいくらいだ。
いっそ店を閉めて春が来るまで冬眠でもしてしまおうか。
そんなことを考えながら珈琲を淹れていると、入り口に備え付けてある鈴が鳴り、僕に来客を告げた。
淹れ立ての珈琲の湯気の先にいる人物は、よく見知った顔だった。
「やあ、霊夢。いま珈琲を淹れたんだけど、君もどうかな」
「こんにちは、霖之助さん。せっかくだけど遠慮しておくわ」
博麗霊夢。
幻想郷と外界の狭間にある神社、博麗神社の巫女だ。
数少ない香霖堂の常連客・・・・・・いや、代金を払わない手合いは客とは呼べないか。
彼女が使っているお払い棒や、御札はだいたい僕が用意した品だ。
彼女はお茶党で、珈琲は滅多に飲まない。
「今日はなにを探してるんだ?」
「年末はいろいろと物入りでね。あ、これも・・・」
彼女は僕には目もくれずにゴソゴソと店の品を漁っている。
恐らく、いやほぼ確実にその代金が支払われることは無いだろう。
しかしもうそれも慣れっこだった。彼女には支払いという概念が無いのだ。
だから僕もそれを強要することはしないし、それが幻想郷のルールだろうと僕は考える。
僕は珈琲の味を楽しみながら、彼女の挙動を一つ一つ眺めていた。
そして、ふと思い出したことがあった。
彼女には話すべきであろう、ひとつの外の世界の話を。
例えそれが彼女を苦しませても、僕は話をする義務がある。
なぜなら僕は、聞いてしまったから、知ってしまったから。
「ふう、これだけあれば年は越せそうだわ。これ、もらっていくわ」
「ああ、勝手にもってってくれ」
そして僕は切り出す。
あくまで自然に、あくまで不自然に。
「そう言えば、ちょっとした噂を耳にしたんだ。いや、独り言だから聞き流してくれてもいいんだが」
彼女は店のドアへ向かって歩いていた足を止めて、こちらに振り向く。
僕が唐突に話を始めることに違和感を感じているような顔だった。
もったいぶる様に、珈琲を一口味わってから僕は話を続ける。
「仕入れ先で聞いたんだけどね。この時期、年末になると、外の世界で一度にたくさんの人が、神隠しに遭うらしいんだ。今年はまだ被害はでてないみたいだが・・・。いや、ただの噂話だよ」
珈琲は、なぜか少しだけ苦味を増していた。
****
夜の博麗神社。
私は沸かしたての湯に浸かり、今日霖之助さんから聞いたことを思い返していた。
寒空の下、芯まで冷えた体に、暖かいお湯が染みる。
身体が温まれば、心も温まるのではと思ったが、気分が晴れることは無かった。
湯気で視界が悪い。
そのおかげで今この空間は外界から完全に閉ざされ、何かを考えるには最適の空間になっていた。
『そう言えば、ちょっとした噂を耳にしたんだ。いや、独り言だから聞き流してくれてもいいんだが』
そう言って霖之助さんは私に話し出した。
今にして思えば、あの珈琲を飲むしぐさは、躊躇いを無くすためのスイッチだったのかもしれない。
『仕入れ先で聞いたんだけどね。この時期、年末になると、外の世界で一度にたくさんの人が、神隠しに遭うらしいんだ』
私は肩まで湯に浸かる。
身体は温まれど、気分は晴れることは無い。
そう。私はその話を聞いたときから気がついていた。
・・・・・・神隠しの原因は、紫だ。
八雲紫。
結界と境界を操る妖怪で、一度戦い、一度助け合った。
その後もちょこちょこ神社に遊びに来るし、一緒にお酒を飲んだことだって何度もある。
だが彼女は妖怪だ。妖怪は、人間を食料とする。
私は幻想郷の住人、そのことに今更どうこう言うつもりも無ければ、嫌悪感を感じることも無い。
幻想郷に生きる人間は、常にそのことを覚悟しなければならないし、そのリスクを理解したうえで幻想郷に生きている。
だけど、彼女が攫うのは外の人間だ。
いつだったか、彼女の口から冬は冬眠するという話を聞いたことがある。
恐らくこの時期に人間を大量に攫うのも、冬眠に対する備えだろう。
これまで彼女が毎年それをしてきたことについては、今更何も感じない。
知らなかったからだ。
でも、私は聞いてしまった、知ってしまった。
明日にでも紫は人間を狩りに出かけるかもしれない。
そうして冬眠にはいり、春になって起きてきた紫に対して、私はいままで通りに接することができるだろうか。
「・・・・・・無理だわ」
私は湯船から立ち上がる。
お湯がサブンと小気味良い音を立てて、それに呼応するように湯気が舞う。
窓を開けると、冷気が注ぎ込んできて、温まりすぎた身体に気持ちよかった。
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チリン、チリン。
昨日とほぼ同じ時刻に、店の入り口に取り付けてある鈴が来客を告げる。
どうやら彼女にとって、この時間は買い物の時間と決めているらしい。
尤も、代金を払わない買い物は買い物と言えるのかどうか疑問ではあるが。
そして僕は、この時間の来客を予想して、今日は珈琲では無くお茶を淹れていた。
「やあ霊夢。いまお茶を淹れてたんだけど、君もどうかな」
「こんにちは、霖之助さん。外は寒かったし、せっかくだから頂くわ」
霊夢は僕から湯のみ茶碗を受け取ると、少しだけ背の高い椅子に腰を下ろした。
「ああ、霊夢。その椅子壊れ気味で、いつ崩れるかわからないんだ。そっちの大きいソファーのほうに座ってもらえるかな」
そう言ってソファーを指差す。
霊夢は一瞬不思議そうな顔をしたが、素直にソファーに移動して腰を下ろす。
そうして僕は、昨日と同じ質問をする。
「今日はなにを探してるんだ?」
「新しいお払い棒と、御札と護符がちょっと必要になって」
「へえ。また何かトラブルでもあったか」
わざとらしく僕は尋ねる。
「自分から伝えたくせに、よく言うわ」
そう、僕は霊夢がこの決断をすることを見越してあの話を伝えた。
彼女にとってそれが良い事か悪い事かはわからない。
でもいつかはたどり着くことだろう。なら早いほうがいい。
そう考えて僕は、霊夢に伝えた。
「・・・八雲紫を、退治するのか?」
「わからない。でも止めなきゃダメだわ。そうしないと春になったときに話が出来なくなるから」
「そんな中途半端な気持ちじゃ、逆に殺される。八雲紫は普段は人間のように振舞っているが本質は妖怪なんだぞ」
「そんなのわかってるわ!」
霊夢はわかってない。
彼女に八雲紫を殺すのは無理だ。
彼女は人間だから。
人間には、情という最大にして最悪の欠点がある。
その点妖怪はそれが無い。
もし霊夢が敵として紫の前に立ちはだかるのなら、八雲紫は霊夢を殺すだろう。
今回のケースは、妖怪と人間の本質に当たるケースだ。
彼女たちが普段興じている、”ごっこ”とは訳が違う。
殺し、殺され、殺しあう。そういった生命にダイレクトに関わる問題。
霊夢は紫に勝つことは出来るかもしれないが、殺すことは出来ない。
殺せなければ、殺される。そんな単純な方程式。
「人間は常に妖怪の食料で・・・・・・妖怪は・・・常に人間に・・・・・・・・・」
霊夢はそこまで言うと、湯飲みを床に落とし、ソファーにこてりと横たわった。
背の高い椅子からソファーに移動させておいて正解だった。
彼女を紫と戦わせるわけにはいかない。
だから僕は彼女のお茶に、睡眠薬を仕込んだ。
もし霊夢が八雲紫の神隠しを、見て見ぬふりをするつもりなら、僕もそれに従うつもりだった。
だが彼女は、戦う意思を見せた。
できれば、見て見ぬふりをしてほしかったんだが仕方が無い。
これも話を切り出した者の務めだろう。
「あまり争いごとは得意じゃないんだが・・・」
僕は、情けない話だが、こと戦闘に関しては霊夢よりはるかに弱い。
八雲紫に勝つことは難しいかもしれない。
でも僕は、紫を殺すことは出来る。
僕は八雲紫に面識は無いし、この刀さえあれば、どんな妖怪も敵にすら成り得ないのだ。
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妖羅針盤を頼りに、ここ迷い家にたどり着くころには、もう日が落ちようとしていた。
夜。妖たちの時間。
できれば日が暮れる前に事を済ませたかったが、そうすんなりとは事は運んでくれないらしい。
今夜が満月じゃないのが、せめてもの救いだろうか。
空を見上げながら僕は雪道を踏みしめ歩く。
「しかし、迷い家か」
道に迷った者のみがたどり着けるといわれている場所だ。
ここにある物をひとつ持って帰ると幸福がもたらされるとか何とか。
まさかこの幻想郷に実在するとは、幻想郷はまだまだ僕の知らないことだらけだ。
だけど、それが面白い。
「せっかくだからひとつ持ち帰ってみるか」
「あら、人の家の物を勝手に持っていくの?」
迷い家の中へ踏み込もうとした時、背後からそんな声が聞こえた。
今までは気配すら感じなかったのに、実体化すらしてるのではと思うほど濃度の高い妖気が周囲一面に充満している。
―――八雲紫。
紛れも無く、彼女がそこにいる。
「ああ、すまない。人が住んでるなんて思わなかったんだ。道に迷ってね」
「最近の迷い人は、そんな物騒なものを持ち歩いているのね」
彼女の妖気に中てられ、半ば金縛り状態になっていた身体を無理に解いて振り返る。
そこにいたのは美しい少女だった。
銀色の世界によく栄える紫色の衣装を身に纏い、八雲紫はそこにいた。
刀を握り締めて、僕は八雲紫と対峙する。
「あんたみたいな、物騒な妖怪が最近多くてね。護身用にはこのくらいの刀じゃないと務まらない」
「あら失礼ね。物騒だなんて人聞きの悪い・・・。霖之助さん、だったかしら?」
ゾワリと。
彼女に名前を呼ばれるだけで、まるで背中に氷水を流されたかのような悪寒が全身を駆け巡る。
霊夢達は普段からこんな妖怪たちと対等に渡り歩いているのか。
そう考えると自分がいかに幻想郷では弱者の立場にいるのかと思い、自嘲の笑みがこぼれる。
こんな状況でも自嘲とはいえ笑うことが出来るとは、意外と僕にも胆力があるものだ。
「かの大妖怪、八雲紫に名を知られているとは。身に余る光栄だ」
「ふふ。この幻想郷で私が知らないことなんて何一つ無いわ。あなたの名前も、あなたがここにいる理由も、何一つね」
「それならば、話は早い」
僕は腰を落として刀を抜く。
この天叢雲剣。
斬れぬモノなど、何一つ、無い。
****
ふと目が覚める。
頭にはまだ白い霧がかかっているが、時間と共にそれも薄れていく。
徐々に形を成していく視界。
そこに見えるのは、見慣れぬ天井だった。
ここは・・・・・・香霖堂。
「う・・・・・・ん・・・」
軽い眩暈を覚えながら私は身体を起こした。
こめかみに残る軽い鈍痛。
ピシャリ、と自分の顔をはたいて無理に覚醒させる。
「えっと・・・」
何で私はこんなところで寝ているのだろうか。
あやふやな記憶を探る。
紫と戦うための準備をするために、私は香霖堂に来た。
ここまでは間違いない。
香霖堂に入って、霖之助さんにお茶を勧められて・・・。
ん、待てよ。
お茶を勧められて、それから、このソファーに移動したんだった。
私は今まで寝転がっていたソファから立ち上がり、例の少し背の高い椅子のところへ移動する。
「やっぱり・・・・・・!」
背の高い椅子は壊れ気味どころかむしろ新品同様だった。
叩いても蹴っても軋みひとつしないほどの頑丈な椅子。
「なにが壊れ気味よ~!」
バコン。
癪なので思い切り椅子を蹴っ飛ばして本当に壊れ気味にしておく。
すっ飛んでった椅子にぶつかってつぼがひとつ割れたけど知ったことではない。
少し気分が晴れたところで、事態を整理してみることにした。
霖之助さんがわざわざ嘘をついてまで、広いソファに移動させたこと。
そしてお茶を飲んだ後の記憶が無いこと。
これから導き出される解は、どんだけ考えてもただ一つだった。
「・・・盛ったわね」
文句の一つでも言ってやろうと、霖之助さんを探す。
しかし店内のどこにも霖之助さんの姿は無かった。
「もー、どこへいったのよー!」
・・・・・・何かがおかしい。
何かが抜けている。
少し考えてすぐに思い当たった。
動機だ。
”何故、私に睡眠薬を盛ったのか?”
「・・・・・・!」
瞬間、まだ半分眠っていた脳が全て覚醒し、全てを私は理解した。
気がつくと私は店を飛び出していた。
霖之助さんは紫と戦うつもりだ。
いや、もうすでに戦っているかもしれない。
何でそんなことを・・・。霖之助さんが紫に勝てるわけが無い!
そうだ、魔理沙。
魔理沙のところへ行くべきか。
いやだめだ。今こうしてる間にも殺し合いが行われているかもしれない。
もし間に合わなかったら。
もし、紫が霖之助さんを殺してしまったら。
私はもう二度と、紫を許すことはできなくなってしまう。
「どいつもこいつも、勝手だわ!」
ちらちらと雪が降り始めていた。
粉雪が舞い散る幻想郷の空を私は飛ぶ。
目的地は、彼女たちの待つ、迷い家。
どこまでも白い、幻想郷の冬。
****
例えば、1つの蜜柑。
1つの蜜柑が2つあれば、それは2つの蜜柑。
3つの蜜柑、4つの蜜柑、5つの蜜柑、6つの蜜柑。
20も過ぎたころには、それは「たくさんの蜜柑」になる。
人は、自分の計り知れる範囲外の事象に遭遇すると、とたんに曖昧になる。
たくさん。広い。いっぱい。etcetc...
そして、今目の前にいる妖怪は、ただただ、強い。
「・・・ぐ・・・・・・」
今にも倒れそうな身体を、気力だけで踏みとどまる。
四肢の感覚はとうに消え失せている。
ただ右手に握り締めているこの刀だけは、確かにこの手にあった。
血を流しすぎたのか、視界が揺らぐ。
視界が曖昧になることによって、不思議と思考が冷静になっていた。
ああ、雪が降ってきている。
「正直、驚いたわ。ただの古道具屋の店主だと思っていたのに、案外やるものね」
当たり前だ。あまりなめないでほしい。
中途半端な力量じゃ、幻想郷の、それも妖怪の住む地域と人間の住む地域の中間地点に店なんて構えられない。
僕も、腕にそれなりの自信があった。
だけどそんなもの、八雲紫の力で割ればゼロに等しい。
圧倒的力量の差を補うのは、この刀だ。
八雲紫の攻撃をなんとか交わしながら、この天叢雲剣でそれを裂く。
こちらの攻撃も効いてないわけではない。
お互いの総ダメージ量は五分五分のはずだ。
だが、もとより体力の絶対値が違いすぎる。
僕の体力を10とするなら、八雲紫は1000はあるだろう。
故に、必殺の一撃で、決めなければならない。
決めなければ、ならなかったのだ。
「冷えるわ・・・。ほら、こんなにも雪が強くなってきた。そろそろ終わりにしましょう?」
サク、サクと。
雪を踏みしめて、八雲紫が僕に近づいてくる。
視界が曖昧で距離感が掴めない。
まだ数メートルは離れているのか、もう目の前にいるのか。
僕の目に映るものは、吹きすさぶ白い雪と、漠然とした紫色の恐怖。
ああ、やっぱり、慣れないことはするもんじゃあないな。
一度恐怖心を覚えてしまえば、後は崩れるだけだ。
気力だけで身体を支えていた両足はその機能を停止し、僕はその場に倒れこんだ。
ひんやりとした雪が顔に当たって、なんとも気持ちがいい。
・
・
・
死の直前は、時間がゆっくりと流れるのだろうか。
いつまで経っても八雲紫の手にかかることは無かった。
不思議に思い、顔を上げると、そこには霊夢がいた。
「・・・・・・紫。お願いだから、やめて」
「やめて?なにを?そこの人間を殺すこと?それとも・・・・・・」
「霖之助さんは殺させない。あなただって、無傷じゃないでしょう。その状態で私と戦えば、あなたに勝ち目は無い」
まったく、なんて情けないんだ僕は。
霊夢を紫と戦わせないために、わざわざこんなことをやっているというのに、最後の最後は霊夢に助けられているなんて。
これではしばらくは、ツケの請求はできそうもない。
「霊夢、あの日、あの夜、私たちは確かめ合ったでしょう。人間は常に妖怪の食料で、妖怪は常に人間に退治される立場にあることを」
「ええ、勿論、そんな基本的な幻想郷の大前提くらい、博麗の巫女として理解はしているつもりだわ」
「じゃあ、何故あなたがここにいるの?私が冬眠するのも、その蓄えとして人間を攫うのも、これは摂理なのよ」
しんしんと。
雪は一向に勢いを衰えずに、僕たち3人に降り注ぐ。
白い銀幕の舞台に立つ、2人の少女を、僕はまるで観客のように眺めていた。
幻想郷においてなおも幻想的な、なんて美しい光景なんだろうか。
僕は1人の観客で、舞台のクライマックスを今か今かと待ち望んでいる。
「・・・話は終わりかしら」
「紫・・・。私はその基本的な前提を放棄してでも、あなたとはいまの関係を続けたいの」
だから、と、彼女は繋ぐ。
「私が、あなたの冬眠中のご飯を作るから、あまり口に合わないかもしれないけど・・・それでもがんばるからっ」
人間を攫うのは、もうやめてください、と。
霊夢は消え入る様な声でそう願った。
照れ隠しなのか、自分でも無茶なことを言っているのがわかっているのか、最後の言葉は聞き取りにくかった。
それでも確かに、霊夢はそう言った。
恐らくは、八雲紫の耳にも届いているだろう。
一瞬の静寂。
そして、紫は・・・。
「それは、いいわね」
と。
その馬鹿げた人間臭い提案を、笑顔で承諾した。
僕はその間抜けで優美な光景が、ただただ可笑しくて。
壊れた人形のように雪に寝転がりながらげらげらと笑っていた。
ああ、こんな彼女たちがいるから、僕は幻想郷が大好きなんだ―――。
夜の幻想郷に、僕の笑い声だけがいつまでも木魂していた。
****
その数日後。
あの日受けた傷も、魔理沙が魔法薬を調合してくれたおかげで、もう完治しつつあった。
「まったく香霖は、弱いくせに無茶しすぎだぜ」なんて言いながらもきちんと薬をくれるところが彼女の良い所でもある。
いつもタダ働きをさせるくせに、薬の代金をきちんと取るところも彼女の良い所・・・なんだろうか。
怪我が治るまで閉じていた香霖堂も、今日から営業再開だ。
尤も、閉じていようが開けていようが、僕の店に客が来ることは極々稀だった。
その極々稀な来客の中でも、とびっきり珍しい来客が、営業再開初日の今日に訪れた。
「やあ、いらっしゃい。今日はなにをお探しで」
「そうね。草薙の剣なんて、おいてないかしら?」
「残念ながら、それは非売品なんだ。あれがないと物騒な妖怪が来客したとき身を守れない」
「物騒な妖怪?怖いわね、誰のことかしら」
そう言って、物騒な妖怪、八雲紫は微笑んだ。
「私、明日から冬眠にはいるの」
「へえ。じゃあ先に言っておこうか。良いお年を」
「良いお年を。それで、その前にあなたに聞いておきたいことがあって、わざわざこんなところまで来たのよ」
こんなところで悪かったな。
あの時から考えていたことだが、どうも八雲紫と霊夢はどこか似たようなところがある。
外見はまるで違うのだが、言動や考え方がびっくりするほどダブって見えるときがあるのだ。
「で?聞いておきたいことって?」
「あなた、何故一振りで私程度なら殺せるほどの威力を持った刀を持っていたのに、私を殺そうとしなかったのかしら」
と、八雲紫は、一番触れられたくない所を突いてきた。
そう。僕は彼女を殺せなかった。
出会い頭に、天叢雲剣の本当の力を出して斬り付ければ、それで八雲紫は殺せたはずだった。
でも僕は殺せなかった。
彼女が死んだら、霊夢や魔理沙が悲しむかもしれない。
そんな考えが一瞬頭をよぎり、結果この様だ。
結局、僕も霊夢も、初めから八雲紫を殺すことなんてできやしなかったのだ。
「さあ。なんでだろうね。それを言うなら君もだよ。君ほどの力があれば、僕なんて一瞬で殺せるだろう」
「さあ、なんででしょう。あなたと同じ理由、とだけ言っておきましょうか」
そう言ってまた八雲紫は微笑む。
「それじゃ、帰ります」
そういうと踵を返して紫は歩き出した。
本当にそれだけの用件でわざわざ「こんなところ」まで来たらしい。
明日から冬眠する紫の背中におやすみ、と僕は言う。
すると紫は一瞬だけ振り向いてこう言った。
「ええ、また春に逢いましょう」
春になったらみんなで桜を見に行こう。
そんなことを思いながら、今日も客の来ない香霖堂で、僕は春を待つ。
涙も雨も砂に飲み込まれて・・・
急ぎ廻れ 砕けても 儚く散るが故にも
今を待たずに 廻れ HURRY MERRY GO AROUND
逝きおぼれても また春に会いましょう
って、これはちょっと違いますが、何となくこれを読んでこの曲を思い出しました。
面白かったです。
八肢大蛇を倒したのは十束剣であって、草薙剣はその名の通り草を薙いで野火を逃れた位しか知らないのですが…。
まぁ十束剣は草薙剣に当たって欠けたと聞くし、いいのかな?