『全てのものには、平等に価値がある。価値無きものなど無い。
即ち、あらゆるものには価値が無い。生きとし生ける、その全てが無価値だ。 ――― かたりてしらず』
『全ての人に、等しく死は訪れる。死無き人など無い。
なら、この私は? 妖にすら訪れる終わりを、私はどこに見つければいい?
・・・べっつに。何処にも無くたっていいわよねぇ。生きてるって、素晴らしいし。 ――― 藤原妹紅(生)』
*
十と少しの歳でも、昔を思い返すことがある。
物心付くよりも前の記憶を辿ると、いつもそこには父君と母君がいる。
記憶の中で、二人はいつも嬉しそうに、でもどこか悲しげな雰囲気に包まれて、
きまって、私の顔を見ているのだ。
ときどき、父君が喋っていたのも思い出せる。
『すまない』
ときどき、母君が泣いていたのも思い出せる。
『ごめんなさい』
母君はとうに土塊に還ってしまったけれど、父君は今もよくそう零しては、私を見ていかめしい顔をされる。
一体、何に対して謝っているのだろう。
今、私がこうして町人として暮らしている事か。
穴だらけの襤褸を着て、ろくな奉公にも出れず乞食のような暮らしを続けている私を。
それとも、母君が動かなくなった時、報せを聞いても一月姿を見せなかった事か。
縋る者の居なかった私を無視して、お屋敷で書簡に埋もれていた事の詫び。
さもなくば、公に己を父と呼ばせられない事か。
名も無き妾より生まれた子の不自由を儚んで。
まさか、よもや、そうではないと思う、思いたい、けれど。
母に恋し、母を愛し、母に私を産ませ、母に私を育てさせた、その事なのか。
もしそうなら、何故、産んだのだ。
私が今ここにある事を、何故に面と向って褒め称えてくれないのだ。
望んでのことではなかったのか。
私の誕生は、父君にとって、お祝い事では無いというのか。
無いの、だろう。
そんな事は、わかっていた。
私と会うとき、父君は笑って色んな事を話してくれるけれど、
目を合わせようとすると、戸惑うようにしてお顔を伏せるから。
でも、だからといって、私は父君を恨みはしない。
母君を看取れなかった事を責めたりしない。
だって、私は、
父君の、あの、悲しそうなお顔を見るのが、好きなのだ。
それは、私の為だけに作る、私の為だけのお顔だから。
明るい父君。
どんなお話も笑ってしてくれる父君も、
私のお話をするときだけは、本当に悲しそうなお顔になる。
父君のあのお顔は、私の為にだけあるのだ。
だというのに。
この間の父君は、私が遠くから見かけたあの人は、
私がここにいて、あの人を見ている事に気づいていないのに、
悲しそうな、顔をしていた。
ふらりと、お心を傷められた様子で歩いて、
眼はかたぶく夕の日に向けながら、空の只中を泳がせていて、
声を掛けるのも躊躇われる、
本当に、
悲しそうな、
哀しそうなお顔だった。
私の知らない所でも、ああして悲しむのだと知って。
その日の父君のお話は、あまりよく思い出せないままに。
月日が経った。
*
「お爺さん・・・」
茅葺き屋根の、質素ではあるが小奇麗な、周囲の家宅より一回り大きいその家の、宵闇の訪れを月明かりと共に迎えられる縁側、そこに、一人傾世の美女がいた。
爪先にも届こうかという長い黒髪に、今宵の妖しき月の光が艶めく様は、老いさらばえた晩年の夫婦に再び活気を取り戻させるのに充分な魔力を秘めている。
顔立ちはまだ幼いが、薄らに浮かべた微笑に含まれた落ち着きからその年齢を推し量るのは難しい。村一つを束ねる者などという位の低い者の家内に住まう女子とは思えぬ、確かな気品がそこにはあった。
少女の声が翁を呼ぶ。
「もし、お爺さん・・・」
「おう、おう。どうした、姫」
呼ばれて、洗い場から翁が顔を出す。
恰幅の良い老顔は童のようにつややかで、軽やかな身のこなしも相まってか経る年を感じさせない。
「少し、お話したいことが」
「うむ?」
声音に交じった、いくらか差し迫った空気を読み取って、翁が首を傾げる。
「はて、何ぞかな。話してご覧なさい」
「いえ、すぐには・・・お婆さんも、ご一緒になってください」
「ほう?」
翁の耳に、少女の言葉の真剣さが伝わると、訝りながらも翁は奥の座敷で既に寝静まっている嫗を起こしに向う。
(前にも、このようなことが・・・)
と考える翁の心の内には、自分たちが老いてから授かった最愛の娘の、ああして言葉を慎重に選ぶ様が浮かんでいる。
(不思議な子じゃ、ほんに・・・)
鳶が、鳳凰を産んだようなもの、と譬えたのは、村の識者だった。長の妻を讒謗したこの言を、誰もが笑って受け止められたのは、長く子を持たぬままに老いた夫婦の間に産まれた子が、既にして世を傾ける絶界の美女であった所為である。
余りにも美しき赤子は、育つにつれその艶やかさに磨きをかけていった。否、誰が磨く事も無く、なよ竹と名付けられた少女は、世にあるどんなものよりも美しくなっていったのだ。両親は、そんな彼女を見て、本当に自分たちから産まれたのか、と疑ることも少なくはなかった。
美しき少女は、また賢くもあった。賢しらなわらしとは違い、十を越すより前から、何か達観の域にあるような言動を見せ、周りの人々を大いに戸惑わせてきたのだ。生みの親である長夫婦を父母と呼ばずお爺さんお婆さんと呼んだり、また逆に自分の事を姫と呼ばせたり、遊びたい盛りに一度たりと家の外に出ず、同年の娘が嫁入りする中、その奇異を聞きつけた多くの男たちの求婚に見向きもせず。
さりとて、その美しさを鼻にかけ、高くなることもなかった。心優しく、山野を、人を、二親を愛し、常に笑顔を絶やさず。
だが、時たま、そう、今このときのように、何か思い詰めたような顔になる事があった。笑みはそのままでも、親である翁たちには裏に隠れた不安が知れたのだ。
それはいつも夜中で、虚空に月の白光が粛々と佇んでいる時。
(しかし、どんなに辛く思い悩むことがあっても、のう、姫よ。
わしらは、いつだろうと、お前の親じゃ、助けてやろうよ、なあ)
嫗を揺り起こしながら、翁は唇を線と引き絞って、そう、固く思った。
「姫。お婆さんを呼んできたよ。ほら、話してごらん」
「まあ、急にどうしました、姫や。こんな遅くに。明けてからではいけないのですか、ねぇ」
「お婆さん、ごめんなさい。どうしても、今夜の内にお話しないといけないのです。
でないと、私の―――決心が、鈍ってしまいます」
「何、決心、と」
「ああ、そんな哀しげな顔をして。
話したくない事なら、無理に話さずとも良いのですよ」
「駄目なのです、いけないのです。
宜しいですか、宜しゅうございますか。
私が、今日このときまでひた隠しにしてきたことを、
これよりお二人にお話したく思います。
どうか、お聞き届け下さいまし。
これをお聴きいただければ、これまで私が取ってきた、いくつかの不可解な行動を、
幾許かご理解いただけるかと存じまする。
家より外に出でざる理由、殿方を退ける理由、婚礼を厭う理由―――」
「姫。わかった。聴く。
いや、聞かせてくれまいか。
本当に不思議じゃった。長い間―――」
「いいえ、お爺さん、姫。
私は、聴きたくないように思います。
その言葉が、姫の口から出るのを、ずっと怖れていたように、私は思います」
「いや、姫がこうして自ら、話したい、と言っておるのじゃ。
お婆さん、二親であるわしらには、この子の言葉を、受けてやる義務がある。
いいや、義務なんぞではない。わしは、この子の、本心からの言葉を、ずうっと待っていたのじゃ。
お前の姫の言葉を怖がる気持ちも、きっと、わしのこの思いと、根っこでは寸分違わぬはずなのじゃから」
「ありがとう、お爺さん。
では、お話します。
本当の理由を、そして、お別れになる言葉を」
「なんと、ああ! 姫! 今、今なんと――」
美女は、つい、と縁側に浮かぶ月影を指し示して。
「実は、私は―――」
*
月影の影、月人の都を、一つの報せが席巻していた。
迫り来る羅喉の徒との戦いで多大な戦果を上げ、ついには撃退した一人の月人が望んだ恩赦の内容。
それは、とある大罪人の刑期短縮。永遠から須臾への大幅な縮退。
罪の名は、蓬莱。
*
逆恨みという言葉はずっと後になってから知ったけれど、
要するに、私がその時に感じた思いというのは、それだったのだろう。
私の父君から、私の為だけの悲しみを奪った、憎き相手というのを、
そのときの私はそれがどんな奴なのかも良く知らずに、ただ漠然と恨んでいた、いや、逆恨んでいたのだ。
上の空に聞いた話からは、その相手と思しき人物の名前しか思い出せなかった。
なよたけの姫。
星の瞬く宵の空を思わせる黒髪から、輝く夜、かぐやとも呼ばれていたという。
少なくとも、父君はそいつを終始かぐやと呼んでいた。
名前だけ知れば、後のことは世の口の端から零れる上澄みから判る。
幸か不幸か、いや確実に不幸なのだけれど、私にはそういった噂を拾い集めるのに適した身分だった。
公家の屋敷の塀を背に茣蓙を敷き、薄汚れた土器の椀をその端に置いて、往来に飛び交う行方知れずの世間話に耳をそばだてれば、この都に蔓延る噂で知れないことは無かった。
このような時代だから、物乞いの一人や二人に気を留める者は居ない。
噂は、思っていた以上の興味を私に持たせた。
かぐやというのは、ある山村の長夫婦が老年になってから授かった女子で、望月も己が身を顧みて恥じ入るほどの美人だという。
年の頃は私とあまり変わらないが、その美しさを聞きつけた多くの貴族がかぐやの住む庵に詰め掛け、かぐやはその一人一人に求婚され、あまつさえその全てを結局は突っ撥ねてしまったのだと。
更に噂は鰭を付け増し、今や帝の知れるところになったかぐやは、帝の寄越す遣いを介し、帝と文を交わすまでになっていると。
噂は噂と思っていても、思い当たる節があっては、思い込みとはいや増すものだ。
噂に曰く、かぐやはしつこく求婚を迫る五人の貴族に、それぞれ違う貢物を所望した。伝説にある、とても実在するとは思えないような品々を持ってくることができれば、その者に嫁いでもよい、と。
あの日。
哀しげな顔をして、三月ぶりに私の元に来た父君は、土産だ、と称して、妙な枝切れを私にくれた。
一つ一つ色の違う玉が五つ、分かれた枝先に付いている、ぴかぴかとした綺麗な枝。
これは何、と問う私に、父君は疲れた口調で、幸せの枝だよ妹紅、と頬を歪めて言ってから、そっぽを向いて、ぼそりと呟いた。
『偽物の、ね』
この時、私の逆恨みが、殺意に変わって。
父君の顔から、悲しみも、喜びも、何も無くなった。
私は、枝よりも食べ物が欲しかったから、おたからにならないと判ってすぐ、大橋から投げ捨てた。
ぱしゃん、と軽い音を立てた枝は、もう上がってこなかった。
それがまるで、私のようで。
みんながみんな、この枝のようになってしまえばいい、と思った。
*
満月の下。
ある山村の一角に、奇妙な陣が組まれているのが見える。
質素な、少しばかり立派な囲いを持った家の周りを覆う形で作られた陣には、やんごとなき御方の掲げる国の旗が揚がっていた。
いつもこの時刻にはまだ開かれている縁側は、既に雨戸で堅く閉ざされている。
その家の手狭な庭先に、槍を構えた丈夫が数十人。
茅葺き屋根の上、弓を番えた丈夫が十数人。
皆、仁王立ちになって月を見上げている。
その眼差しは、親の仇を睨むかのようであった。
全てが姫の為に動いていた。年端も行かぬたった一人の少女の為に、戦に慣れぬ帝までが陣頭に立ち、その誘拐を阻止せんと息巻いている。
だが、当の少女は、彼らのそのような動きを憂いていたのである。
意味が無い。やめよ、と。
しかし、満月の魔力と、それを凌ぐ魅力を醸す姫の美貌が合わさってか、その日、その場に集まっていた者たちは、姫とその両親を除いて皆、どこか、気でも違ったかのような、異様な雰囲気で夜戦に臨んだ。
無謀を諭す声が届かぬ事を嘆く姫に、翁と嫗が優しげに声をかける。
「姫よ。ここから出てはならぬ。
帝が、天が味方に居るのじゃ。
何も心配せず、ここでじっとしておるのじゃよ」
「そうですよぅ、月なんて、あんな遠くに行ってしまったら、
もう、姫と一緒に暮らせなくなってしまったら」
「嬉しいのです。皆様のお気持ちは、本当に。
でも、無駄なのです。私は帰らねばなりません。
私が帰らねば、ここに居る人々は、あの者たちに皆殺しにされるでしょう。
その上で私を連れ帰ろうとするでしょう。
帝のおわす天は、かの者たちの月よりも低き天。
ひねもすを暗天で過ごす月の人々は、夜を味方にするのです」
姫の言に嘘偽りのあろう筈が無い、と翁は嫗は身を震わせる。
それでも、二親の意地と、娘への愛情を心に、二人は少女に寄り添って、決して離すまいと心に誓う。
前触れも無く、残酷にそれは来た。
はじめ、強く月が光ったかと思うと、次の瞬時には、その光を目の当たりにした数十からなる兵たちの悉くが白目を剥き、その場にくずおれて地べたを舐めた。辛うじて意識を保ったのは、家中に居た村長一家と陣内の帝を含む数名のみであった。
両足で大地に立つ数少ない人々へ向けて、上空から冷ややかな声が浴びせ掛けられる。
『去け』
同時に、閉じていた戸の全てが一斉に開け放たれた。
やはり、という諦観の面持ちの姫と、姫を護らんと、震えながらも立ちはだかる翁と嫗が、平等に月下に曝される。
そして三人は、真昼の炎天よりも明るい、狂ったような光を放つ月を背にした何者かが、音も立てずに庭に降り立つのを見た。
二親は思った。
『万事休す』
と。
しかし、震える両親の腕の中、なよ竹の姫だけは、舞い降りた月からの使者の姿を見て取ると、
『やっぱり、あなたの仕業、か』
そう心の中で呟いて、何故か、クス、と笑った。
その笑みを聴いた翁が不安げに姫の顔を見ると、そこには彼らの娘の美しい笑みがあった。だがその笑みは慣れ親しんだ娘のいつもしている微笑ではなく、今まで見たこともない満面の笑顔だった。
普段の微笑をしとやかに佇む朝方の月に喩えるなら、今の姫の破顔は正にこの瞬間天壌を支配している本当の満月のように、落ち着きをかなぐり捨て、一切の邪気が無く、ありったけの喜びと、大地を照らす月の狂気に満ち満ちていたのだ。
絶句する翁と目を伏せ震える嫗を意に介さずに、姫は、月を背にしたまま歩み寄る使者に向けてほっそりとした両腕を差し伸べ、そして一言、こう、言った。
「ようこそ、地上へ」
*
月影の影、月人の都を、一つの報せが席巻していた。
蓬莱宮にぽっかりと空いた女王の空席の埋まる予定が、またしても先延ばしにされたのだ。
今度こそは、永遠が須臾に化ける事はあるまい、との噂と共に。
大戦の英雄の、突然の反乱に対し、様々な見解があった。
羅喉による精神汚染。大罪の隠蔽工作。権力の忌避。
もっともらしい意見は数あれど、真実を射抜く弓手が消えた今、全てを知り得る者はいなかった。
月の可能性は、確実に狭まっていく。
*
逃した。
あの光はなんだったのだろう。
かぐやが外に出る、その瞬間を狙っていたのに。
気が付いたら朝になっていて、かぐやは、もう、いなくなっていた。
家族を置いて、どこへ消えたのだ。
親不孝者。
この私が、天に代わって罰を与えてやる。
いや、言い訳など必要ない。
あいつは殺す。
差し当たって、行き先を知らなければならない。
今日は疲れたから、明日、もう一度あの村長の家まで行くとしよう。
そして、かぐやの行方を聞き出す。
必ず。
*
茅葺き屋根の質素な、少し広い村長の家。
土間には、嫗が倒れ伏していた。深く皺の刻まれた首筋に、硬く撚られた紐がぴっちりと巻き付いて、首のその部分だけが、嫗の袖下に隠れた両腕のように細くなっている。
顔面は目玉が飛び出、真っ赤な舌が蛇のように長く、尖り窄まった唇の先からだらりと垂れ下がってい、間際に感じたであろう途轍も無い恐怖を、後に訪れる者にまざまざと見せ付けるかのようであった。
翁は家の裏、流し場の近く、垣根に背を預けるようにして、ぐったりとなっている。
丸々と赤かった顔面は今や蒼白で、言い知れぬ凄絶な恐怖に彩られている。
横に切り裂かれた喉元からは、まだごぽごぽと血潮が泡を吹いており、口からも吹き出た血糊は下顎を紅くし、血の色に染まった着物は童に着せる赤いべべのようで、それだけが生前の翁の子供らしさを物語っているともとれよう。
その家から、とぼとぼと歩いて離れる人影があった。
それはぽつり、
「東、か」と独りごちて、手に持っていた真っ赤な小刀を捨てた。
まだ日も落ちきらぬ、夕暮れ時。
いつも静かな山村は、いつもよりずっと、暗く沈んでいるように見えた。
*
月影の影、月人の都を、一つの報せが席巻していた。
先の戦いも忘れたかのような、本当にどうでもよいような報せだった。
その為、かの太陽へ棄却されて塵と化す予定であった大罪の薬が、
隠匿してあった蓬莱宮の宝物殿から、何者かによって盗み出されていた、
という事実は、月の人々に広く知られるところとはならなかった。
そしてまた、月の可能性が縮まる。
*
手頃な大きさの岩があったのは、私の日々の行いが良かったからだと思う。
ずたずたになった後頭部から夥しい量の汚らしいモノを撒き散らす男を尻目に、私はそいつの荷から取り出した薬壷を手に持って、まじまじと見詰める。
壷は小瓶程の大きさで、綺麗にすかれた和紙の札が貼ってある。
読み書きなど知る術も無いから、貼られた札に走り書きされた字は読めなかった。
二文字。画数が多くて複雑な、私の知らない形だ。
何と、読むんだろう。
少しの間、そうして壷を見ていた。だけど、そうこうする内に、誰かがやってこないとも限らない。
かぐや。忌々しい、下賎の輩め。こんな壷一つ残して、一体何処へ雲隠れしたのだろう。こんなものを残して。
―――売れば少しはおたからになるかな。
そう思いながら、私は札を剥がして封を解き、中を覗く。
そこには国があった。
山河があった。大海があった。
村があり、人が生きていた。
出来の良すぎる人形劇を見ている、とはじめは思った。幻を見ているのだとも。
だけど、空だけが見えないその国には、何よりも本物らしく人間が生きている。
皆がやがやと、日々を気ままに暮らしている。
小瓶の中には、一つの世界があった。
空が見えないのは、私の黒瞳が夜空になり、月になっている所為だと気付いた時。
彼らの声が漏れ聞こえ、私の耳に届いた。
『ああ幸せだ。我らより幸せな者など、どこにもおるまい』
身なりの貧しい青年の声が、今まで私の聴いたことの無い朗らかさを伴って響く。
それが私の癪に障った。
忌々しい、下賎の輩が。
貴き血の私がこうして民に零落れ、明日をも憂いて不安に生きているのに、何故。
貧民如きが、何故にそう満たされているのだ。
消してやりたい。殺してしまいたい。
後ろに倒れ伏す、名も知らない朝廷の使いのなれの果てのように、命乞いの暇も与えずに殺してやる。
私が、お前たち全てを、飲み干してやる。消えてしまえ、壊れてしまえ。
ごくり、と。
飲んでみれば、ただの液体だった。
沈殿がやけに喉に引っ掛かるのを感じたけれど、不味くは無い。
残りの雫まで飲み下した瞬間、私は、ざまあみろ、と心中に強く思った。
今はもうぴくりとも動かぬこの男が何を頼まれ遣われていたのか知らないが、私がそれを阻んでやった。
わけもなく口元から笑いが零れだす。
嗤う。私は嗤う。至極大変余りに凄絶な面白さで可笑しく狂ったように嗤い誇る。
あは、あはは。あはははは。
死体は焼いた。何だかよく燃えた。
周りの木に火がうつって、そのまま山火事にでもなりそうで、丁度よかったから、私もそこで死のうと思った。
こんな山奥で火事に紛れれば、骨も残らないだろうと思ったのだ。
罪人になった私では、もう父君の元にいられない。いない方がマシだから。
やがて火の粉で視界が一杯になって、熱さに少しずつ意識が遠のいて。
明るい夜の空を、地上の煉獄の中で見ながら、私は気を失った。
煙が、夜空に高く立ち昇っているのを、遠い空から眺めていたような、そんな覚えが、あった。
夢だったのか、私の魂が見ていた光景だったのか、それはもう、判らない。
その煙は空高く、あの忌々しい月影まで届いていたように思う。
気づくと、丸裸になった山の斜面に一人、裸で寝ている自分がいた。
足元から顔まで、火傷の一つも無しに。
雨露の匂いがして、夜の内にやってきた雨雲が、火事を人里まで火が広がる前に消し止めたのだろう、とは推す事ができた。
だが何故、私が生き長らえたのか。
その時は皆目わからなかったが、今なら判る。
その日、私の死は死んでいたのだ。
そして。
月日が
* *
* *
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* *
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経った。
* * *
「永琳。懐かしい薬が落ちていたわ」
「お帰りなさいませ・・・って、あらら。
姫ったら、お召し物が赤塗れじゃありませんか」
聴覚が生きているのはおよそ奇跡みたいなもんだったと思う。視覚は眼球が引き裂かれたから死んでいる。
仲良さげな声音とは裏腹に、言葉そのものはどこか螺旋のずれたような胡散臭さに満ちて聴こえた。
「これ、どうしようかしら」
「姫・・・後先考えずに拾い物しないでください。
ただでさえお屋敷が動物園みたいになってるのに、これ以上珍獣を連れ込むなんて。
それに何ですか、薬って。ただの肉にしか見えないのですけど」
賢い神経はとっくに麻痺しているから痛みは無い。
毟られた脇腹も千切られた下半身も砕かれた下顎も抜き取られた背骨も削られた水晶体も、アタッチメントみたいなものだ。今はそれらが無いけれど、すぐにでも元通りに出来る。傷一つ無いパーツのストックが、いくらでもあるんだ。
なんて単純なつくりなんだろう、不老不死というのは。笑える。おかしくてたまらない、でも笑う口が無い。
さて折角だ。私をこんなズタボロにした奴の正体、このままで見極めてやるか。
ぐい、ぐい、と、音にならない音を立てて、私の体が“復活”していく。
「あれ? 永琳、見て解らないの。こいつ、こんなでも生きてるのよ」
「判ってますけど、生きているってのは語弊があるかと思います」
「死んでないんだから、どっちだっていいじゃない。
この肝が薬っていうのも間違ってないもの」
「そりゃそうかもしれませんけど、そんなことより早くお召し変え遊ばせ。
血の好きな兎にたかられますよ」
「うん、それは勘弁ね」
べんね、というくだりで眼球が生まれた。視界が顕在し、主観の中核を為す世界構成が、脳も無いうちに瞬間で行われる。私の目が私の目の前に居るものを私に教える。
「あら? お目覚めね」
清流のように涼やかで優しげな声。声だ。待て。待て。待て。待て。待て。待て。――待て。
この、声は。
視界が、私の認識する世界に固着する。
果たして、そこに見えたのは、
長い黒髪、愛らしくも美しく整った相貌、真っ黒な瞳は細められて、頬をうっすらと染め、そいつは、
かぐやは、笑っていた。
「何度目の死? まさか、初めてってわけでもないでしょう」
平然と言う、その鈴のような、コロコロと楽しそうな声音を聴いて、私は思った。
昔の事を思い返すまでも無く、思ったのだ。
殺す。絶対、こいつだけは殺そう。
一度や二度じゃない。殺せるだけ殺す。
大体気に入らないのだ、平民の分際でそんな綺麗な単を拵えてもらうなんて。
私なんて、絹に触った事も無かったのに。
こいつと和解する事だけは、未来永劫ないだろう。
何故かその自覚が、私にはとんでもなく楽しい錯覚に思えて、
再生した口と喉から、ひゅうごぉと激しく空気の流れる音を出す。
と、それを聴いてか、あはは、とかぐやも楽しそうに嗤う。
「変な子よ、永琳。声帯無しで笑ってる。死ぬのが楽しいんだわ。素敵」
本当に、腹の立つ奴だ。
まずは、どうやって殺そうか?
+ + +
―――それが、姫たちの馴初めというやつだろう。
彼女らの因縁は、この私のような一介の薬師程度には計り知れないものだ。
また、知る必要もあるまい。
知ろうと思えば瞬時に明察できる私に今もって判らないということは、私がそれを知ろうと思っていないということ。
兎にも角にも、そうして二人は邂逅して、それからずっと長い間、もう千年以上の期間を殺し合っている。
姫が直接手を出すとき、大抵勝負は一方的。
蓬莱人がコナゴナにされて、夕飯前には姫が帰ってくる。運動した後はお腹が減るからって。
そうじゃなくて、姫が刺客を仕向けたとき、やっぱり勝負は一方的。
一度として、刺客が帰ってきたことは無い。多分、姫に二度と会いたくないからだ。肝試しなんていって、そういった手合いは皆ろくな目に合わない。蓬莱人がどうなったかは、そんなときの姫の興味の対象外。
一度、姫に質問をしたことがある。
なぜ、あの蓬莱人を殺し続けるのですか、と。
なにか、恨みでもおありなのですか、と。
そうしたら姫、事も無げに、そんなの無いわ、って仰って。
もう少し問い詰めたら、一息に、こう。
「あの子はいい子ね。死にたがりの不死でも、永遠をなげうった不生でもないのよ。
ただただ、生きていることが楽しいの。幸せ者。
私が殺してあげているのは、あの子が、何度も死を繰り返す生もまた良し、
と楽しめるような、とても気持ちの良い子だから。
往生際を無くした者の、最高のお手本ね。私も永遠の住人。
あの子を見習いたいから、時々わざと殺されてあげるの」
仰って。
私は、やっぱり、狂ってる人は違うなぁ、なんて思ったわ。
続けて姫、永琳もたまに死んだら、とか仰るの。
冗談ね。痛いのが嫌いだから薬なんて創ってるんですもの。
でも、私は、姫と蓬莱人の、そんな永遠が、綺麗な恋人たちのように見えて、
少しだけ、羨ましく思う。
煙は、月まで届いたのかもしれない。
Ah,oh... Life is beautiful !
私はとても嬉しいです。
そして作品の方・・・・・怖!
最初はとても悲しい感じのお話だったのが、復讐に狂った妹紅で凄い事に。
やっぱり蓬莱の薬は殺して奪ったんですね。
月日が経った。の後の文は震えが止まりませんでした。
たとえ妹紅が輝夜を殺しても、輝夜は永遠の住民の為死なない。
逆に殺されたとしても蓬莱の薬により妹紅は死ぬ事はない。
どのように輝夜を殺すか、その事を考え実行するのが楽しくてしょうがない妹紅は永遠にそれを繰り返す事が出来るわけか。
だとしたら、生きるって楽しいでしょうね。
自分の楽しみが死なないんですから。
この倒錯した二律背反、実に御しがたい。
作中、復讐に燃える妹紅さんが色々な意味で素敵でした。しかし、また輝夜の狂いっぷりも大変で、行っちゃう所まで行っちゃうと、それはそれで幸せなのかもしれない・・・。けど正直自分も分かりたくはないなぁ。死なないってのは、存在の本質を変えちゃうのかもしれない。
輝夜と妹紅、二人の関係を考えていた時に浮かんだ漠然とした物語。
自分でも書いてみながらも、何処か納得がいかず筆が止まっていました。
でも私の中の漠然とした妄想のそれより遥か上に、この物語がありました。
狂気=ルナティック……そうだよなぁ、ノーマルクリアがやっとの俺が
手を出せるものじゃなかったなぁ。
満足させて頂きました。ありがとうございました。
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これ何?