冷たい風の吹く夜のことでした。
私は屋台のいすの下に、ぽいと放り出されました。
持ち主は戻ってきませんでした。
私は忘れられてしまったのです。
誰かひろってくれないかな。
食べかすやごみの散らばる地べたで、やって来る人たちを見上げていました。
でも、足蹴にされる毎日が続きました。
ぽつりぽつりと雨が降ってくると、いいところに傘があるじゃないか、と言う人はいました。
でも私を見ると、
変な傘。
ナスみたいな色してら。
こんな傘じゃ濡れて帰った方がましだわな。
と雨の中を走っていってしまうのでした。
そのうちに強い風が吹きました。
私は、飛ばされて飛ばされて。
転がって転がって。
雨が降ればずぶ濡れになって。
雨に打たれるのが私の役目だけれど、こんなのは悲しかった。
ほとんど傘として使われたこともないのに。
私は必要とされていなかったんだ。
そう気づきました。
それは忘れられていた、という言葉より、すっと胸に染みました。
私は何のためにつくられたのでしょうか。
誰かに必要とされたことがあったでしょうか。
私はもう、ただの捨てられた傘でした。
でも、このまま消えたくない。
それだけが私の願いでした。
いつか見返してやりたいな、そう思いました。
それからしばらく雨風に打たれているうちに。
いつのまにか、自由に動けるようになっていました。
私は妖怪になったのです。
とつぜん動き出した私に驚く人を見るのは、嬉しかったです。
それは昔のこと。
とても懐かしい思い出です。
◇
外に出かけようとして、傘を取ろうと思ったら困ったことになった。
傘立てに傘がささっていたからだ。
当たり前のことだ。普通、傘を使わないときはそこに置くだろう。大漁旗でも立ててあれば、おや、と思ったかもしれないが。
ナスがあった。いや違う。ナスのような色をした傘があった。妙な傘だった。
断っておくが、ナスみたいな色、というのは別にけなしているわけではない。おそらく、つくられたときからこの色だったのだろう。いわば生まれつきのものだ。それを瑕疵であるかのようにあげつらうことを僕はしない。道具をつくった人や、道具自身に対する侮辱だと思うからだ。ナスのような、とは色についての感想に過ぎず、欠点ではない。大きな傘だな、と思ったくらいだ。
ただの傘。それだけのことであるはずであった。
足が二本、傘から突きでていなければ、の話である。
からかさお化け。昔はよく見た妖怪だ。
足がぴしりと垂直に伸びていた。足には下駄。上半身は大きな傘の中に隠れている。頭の方を下に向けて、ミノムシみたいに傘にくるまっていた。シンクロナイズドスイミングのようなポーズだ。見たことはないが。
なぜうちの傘立てにこんなモノがいるのだろう。
まず僕は、店の商品がつくも神になったのだろうか、と考えた。いや、違う。それならばこの色の傘に見覚えがなければおかしい。どこからやって来たのか。
気づいたのは、ちょうど出かけようとした矢先だった。
困った。
妖怪が入り込んできたからではない。そんなものは幻想郷では珍しくも何ともない。
雨が降っているので、出歩くには傘が必要だからだ。だが、傘立てには彼女が居座って(逆立って?)いるので、他の傘を取り出すことができなかった。
少女の妖怪だろう。すらりとした足が伸びていたが、なにぶん逆さなものだから、スカートがめくれあがっている。
さて、どうしたものだろう。
放っておくことにした。
僕は面倒なものに近づかないことを信条にしている。魑魅魍魎が跋扈する幻想郷で、不可解なモノに近づかないようにするのは、自分の身を守るための最良の手段である。
そして、逆さに突きささっている妖怪は間違いなく面倒そのものと言ってよい。なぜこんな格好をしているのか、正直、意味さえ分からない。関わってしまえばやっかいなことに巻き込まれるに違いないのだ。
見なかったことにしておこう。
飽きればどこかへ行くと思う。
逆さの足がある光景というのは妙な圧迫感があったが、視界に入れなければ気にならない。奥に引っ込み、本を読んで過ごすことにする。
昼はそうめんを食べることにした。これは稗田家からの頂き物だ。
最近めっきり秋めいてきた。この時期にそうめんというのも妙だと思うが、実際に食べてみるとなかなかオツである。一本だけ赤いめんが混じっていた。これは彩りを鮮やかにするためだろうか。この季節だと紅葉の色のようにも見える。
最初にめんを着色することを考えた人は偉大だ。
僕はふと考えた。
そうめんは白い。それが白蛇の洪水のように盛りつけられている光景を思い浮かべてみるといい。それも、家で一番大きなざるの上に、だ。考えただけで食欲が失せるだろう。だが、ある人間はさっと一本の赤を混ぜた。それは曇天からさす一筋の光か、あるいは虹か。
めんを赤くする、ただそれだけのことだ。しかし、この発想の意義は大きい。
それまでのめんは、ただ白い物に過ぎなかった。もちろん、それ自体に価値がないというわけじゃない。単調で退屈な食材ではあったかも知れないが。
だが、純絹の赤糸のような一本のめんがそれを変えた。雪の降り積もった死の世界にいのちが生まれたのだ。そして職人の手で連綿と受け継がれてきたそうめん文化は新たなステージに立つ。一本の赤が混じった瞬間は、そうめんがそうめんを超えた瞬間であったのだ。
なんだか支離滅裂のような気もする。
まあつまり、赤いめんは特別なものだ、ということさえ分かってもらえたらいい。最後のお楽しみにとっておくことにした。
食事をしていると魔理沙が「じゃまするぜー」と窓から入ってきた。彼女はよく無遠慮に僕の店に遊びに来る。窓からやってくるのも、よくあることである。
僕は今日も「せめて玄関から通れ」と注意をした。だが魔理沙はそんなこと聞きやしなかった。「堅いこと言うな」と言い、次に「私は柔らかいものが好きだ」と言い、とっておいた赤いめんを食べて窓から出て行った。犯行は全て僕の目の前で行われた。たぶん二十五秒にも満たなかっただろう。後に残ったのは空っぽのざるばかりである。
そのときの僕の気持ちはどう説明すれば伝わるだろうか。どれだけ言葉を尽くしても足りないと思う。
あいつは何をしにきたんだ? 僕のそうめんを食べるためか?
ああ、めん。アワレにも僕の幸せなひとときは魔理沙の胃袋に奪われてしまった。
さらに、魔理沙がヌレネズミのまま上がり込んできたので、そこらじゅうが水浸しになっていた。これを片付けるのはいったい誰がするというのだろう(当然僕だ。魔理沙ではない)。
人生という無色の糸枷には殺人という真っ赤な糸が混じっているものだ。覚えていろ。
夕食はそうめんにする。
言っておくが先ほどの雪辱を果たそうとして同じものを食べるわけではない。頂いたそうめんが大量にあって、消費しなければならないのだ。そうめんというものは少し食べるにはいいが、量を食べるのは非常に苦しい。ずっと食べ続けていると、大声でわめきたくなったり、旅に出たくなったり、青酸カリのことを考えたくなる。
憂鬱だ。
しかし、食べないという選択が許されるほど甘い量ではなかった。あと三箱はある。食わねばならぬ。僕は決心した。だから、念のためもう一度言っておこう。魔理沙にめんを盗られたのが悔しかったからではない。断じて。天地神明に誓ってもいい。
悪いときには悪いことが重なるものである。
めんつゆがなくなっていた。神はめんつゆなしでそうめんを食べろと言うらしい。
ふと、今朝出かけようとしていたことを思い出した。つゆを買い溜めておこうと考えたのだった。
はて。なぜそれを取りやめたのか。思い出せない。
今日はそうめん一色の日だったように思う。どうでもいい一日のようだが、後で振り返ってみると案外こんなのがいい思い出になったりする。まあ、それはいい。問題は、めんつゆをあきらめるほどの事情とは何か、という点だ。
たぶん、大したことではないだろう。ちょっと風が吹けばすぐに吹き飛ばされるくらいの障害だったに違いない。
「ひもじい」
か細い声が玄関から聞こえてきた。そうか。完全に忘れていたな。傘がいたから外に出られなかったのだ。まさかまだ居るとは思わなかった。
「むにゃむにゃ。巫女め。きょうこそおどかしてやる~」
その逆直立不動のオブジェは寝言を言っていた。
腹が立った。あの子は何をしているんだ。勝手に僕の店にやってきて眠りこけている。
大股で傘の所へ近づき、むんずと足をつかんで引っ張った。ひんやりとした足だった。
「ひゃう!」
傘は悲鳴をあげて飛び起き、その衝撃で傘立てごと倒れ込んだ。そして床を転がりまわり、あたりを忙しく見渡し、僕の顔を見つけるとこう言った。
「う、うらめしやー。おばけだぞー」
傘は真っ青になりながら舌をぺろっと出した。店のペコちゃん人形に似ている。
「あれー? 驚かない。あのう、おばけですよ?」
「見れば分かる」
ちっとも怖くない。どちらかといえば驚いたのは彼女の方だろう。
「なぜこんな所で寝ている。ここは僕の家だ」
「近づいてきた人をびっくりさせようと待ってたら、ついウトウトと」
なるほど。傘のふりをしておいて、誰かが手を伸ばした瞬間にパッと動き出そうとした訳か。からかさお化けがよく使う手だ。だが、普通、そうするときはもう少し傘っぽい格好で待ち受けているのではないだろうか。足がにゅっと突き出た傘立てに近づく人間がいるとは思えない。かなり抜けた子のようだ。
「よくこんなところで寝られるね」
「傘は傘立てで休むものですよ。床で寝てるといつ踏みつけられるか分かったものじゃない。この傘立ての寝心地は天来のものであるぞ。おぬし、ただ者ではないな」
なぜか傘は時代がかった口調で言った。
他にいい寝方はいくらでもあるような気がするが。まあ、傘としては譲れない何かがあるのだろう(だが傘にくるまるように眠ると、当然傘の骨が頭に当たるわけで、大変寝苦しい事この上ないと思うのだがどうだろう。それに傘の取っ手の部分はどこに行ったんだ? まあ、あまり深く考えてはいけない)。
「ここどこ? ゴミ捨て場?」
彼女は僕の店をきょろきょろ見渡して聞いた。
「違う。ここは道具屋、香霖堂だ」
「おー。ということは、あなたがコーリンドーさんですか! ウワサは聞いてますよ」
いや、香霖堂は屋号で僕の名前じゃないんだが。まあいいか。
「ひろったものを法外な値段で売るアコギな商売をしてるらしいですね!」
失礼な子だな。僕は道具に見合った値段をつけているだけだ。少し睨むと、
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
と青ざめながら何度も頭を下げ、大げさなほど怖がっていた。だが、すぐに上目遣いで、
「あの、すみません。お店に行ったら頼みたいものがあったんですよ」
と申し訳なさそうに言ってきた。それにしてもこの子の表情はくるくるとよく変わる。
「ああ、客だったのか。それなら歓迎するよ」
常連の中には(邪魔をしにくるという意味だ)客商売をしているとは思えないとか失礼なことを言うやつがいるが、こちらは物を売るのが仕事だ。店に人が来ないことにはどうにもならない。やって来た客をわざわざ追い返すわけがない。叱るのは勘弁してやることにした。
しかし「頼みたいもの」とは何だろう。うちの商品はすべて現品限りの一品物だから、注文は受け付けられないんだが。そう思っていると、傘はこう言ってきたのだった。
「スマイルください」
「は?」
「スマイルですよー。にこっと笑ってください」
「…………売り切れだ」
「売り切れるものなんですか! なんと! この店の売れ筋はスマイルだったのですね!」
「……いや、違った。うちでは扱ってないな」
「店なのにスマイルひとつ仕入れないとは! 驚いた! もっとやるきだせー。社長もだせー」
前言撤回。客ではなかった。すぐに放り出せばよかったかと後悔する。
なぜかこの子は僕に「笑え」と要求してきた。やはり面倒なことになったな、と思った。
大体そんなものを扱う店があるだろうか? どうやって儲けを出すというのだろう。ニカッと笑って、僕の笑顔にはいくらの価値がある、とでも言うのだろうか。
逆に、客が笑う、というのならば何とか理解はできる。つまり店員は客を笑わせるというサービスを売るわけだ。それは芸人にでも頼んで欲しいところだが。どちらにせよ、うちの営業内容とは異なる。
「早苗が言ってた。店員はスマイルを注文されたら、にっこりとほほ笑み返さなければいけないものらしいです!」
「……狂ってるな」
緑の巫女か店員のどちらかが。
ますます理解に苦しむ。いつそんな決まりができたのだろうか。初耳だ。
客はなんのためにスマイルを注文するんだ? 店員がにこりとほほ笑み返してくる。それで何を得るというのだろう。また、作り笑いを浮かべる店員の姿を想像してみた。背筋が寒くなった。理由もないのに笑うことほど不気味なものはない。
笑う門には福来たる、とか、笑いは人生の潤滑油だ、と言う。押しつけがましいと思う。
なぜ、おかしくも、嬉しくもないのに笑わなければならない? 笑いたくもないのに笑うなんて馬鹿馬鹿しい。ほほ笑むのは、何か良いことがあったときだけで十分だ(怒ったときにも笑うことはできるが、それは別の問題である)。
感情は演技でつくれない。それは自分の胸の内にしかないからだ。嬉しいという感情がにじみ出て来たものが笑顔になる。もし心で何とも思っていなければ、いかに幸せそうにしていたとしてもその顔は偽りだ。絶望的なまでに乾いている。つまり、他人に命じられても本当に笑うことなんかできないのである。
スマイルを注文する客と、それに応える店員がいるということが信じられない。それとも注文した客の愚かさをあざけるために笑うのだろうか。
まあ、僕は一介の古道具屋に過ぎない。他の人間がどうしていようとも関係はない。それに、もしかしたら店員は本当に何かが嬉しくて笑うのかもしれない。他人の考えていること何て分からない。
ただ、僕は今までそうして生きてきた、というだけのことである。多分これからも同じだろう。笑顔を安売りする気も、笑顔をばらまきながら商売するつもりもない。
「えーい!」
気がつくと顔にこんにゃくが押しつけられていた。冷たい。
「おどろいてー」
彼女はこんにゃくを果たし状みたいに突きつけてきた。目はおやつをねだる子犬のようにらんらんと輝いている。
どうしろと?
「こんなもので驚くわけがないだろう」
「そんな! こんにゃくですよ!」
「こんにゃくだな」
「ひやっとするんですよ?」
「するね」
「びっくりしましたか?」
「しない」
だから何だ。
さっきからこの子は何がしたいのだろう。バタバタと落ち着きがない。
「笑って気がゆるんだところを襲う作戦だったのに……」
そう言って彼女はがくりとうなだれた。
スマイル、と言うところから作戦のつもりだったのか。
そもそも僕は笑ってないのだが。
それにしても「こんにゃく」ねえ。
以前は、人間を驚かせるためによく使われた方法だ。だがこの手法はとっくに飽きられてしまっている。そんな分かりきったお約束に驚く人間はいないし、今の幻想郷で通用するほど肝が小さな者もいないだろう。こんにゃくはこんにゃくだ。それを押しつけられるだけでなぜ驚くことができるのだろうか。
彼女はどうも僕を驚かせたいみたいだが、下手だ。技術だけの問題ではないだろう。人を驚かせるには、簡単に予測できない意表を突いた手を考える必要がある。こんにゃくをショーにたとえるなら、三流のコントだ。ステージ上で滑ることは目に見えている。それで人の関心を集められるはずがない。
「からかさの私が人を驚かせられないなんて……。『スケキヨ』もダメでしたし」
「スケキヨ?」
「逆さになることを『スケキヨ』と言うそうです」
そんな言葉、本当にあるのか?
「いろいろ勉強したのに……これで全滅かぁ」
彼女はしょげ込み、顔はどんよりと曇っていた。
「これでも古い怪談をたくさん勉強したんですよ? 毎日休む時間がないくらいに。
でも全然驚かせることができなくて。
最近じゃ、人をビックリさせようとしても反撃を受けてしまったり。
さっきは原点に戻ってみようと傘立てで待ってたのに……。
でも、それもダメみたいですね……。
人を驚かせられないからかさなんて……」
彼女は大粒の涙をこぼしていた。
やる気はあるのだろう。
だが、すべて空回りしているようだ。沈み込む彼女を見て、少し気の毒に思った。
「まあ、こんなところで話していないで上がっていくといい。大したものはないがそうめんくらいならある」
二人分のそうめんを用意した。皿を二枚用意して、それぞれに盛りつけた。
彼女の名前は多々良小傘というらしい。
暖かい食事を出してやった方がいいかと思ったが、今はあいにく他に食べられる物がない。
小傘はそうめんに手もつけなかった。
彼女は自分の生い立ちを語り、最後にぽつりと言った。
「からかさお化けなんてもう古いんでしょうか」
それはあきらめたような口調だった。
「飽きられてしまったんでしょうか……。最近は誰も驚かすことができなくなりました。昔は違いました。私がわっと突然動きだせば、びっくりする人間がいて、とても嬉しかった。
でも今ではみんな知っています。傘は急に動き出すものだって。誰も私を不思議とも怖いとも思わない。それでどうやっておどかせばいいんでしょうか。強くて怖い妖怪なら他にもいっぱいいる。それに人間も強くなってきていて。
空を見上げれば巫女が飛んでいるのに。いまさら傘が動いても、だからなに、ってことですよね」
僕は彼女が話している間、相槌だけを打った。
最近、からかさお化けを見ていない気がする。
からかさお化けは人を驚かせて喜ぶ。彼らにとって、それはただの楽しみではない。傘が雨をしのぐためにつくられたように、それは自分の存在意義そのものだ。人のびくりとした表情を見ることを糧に生きている。
妖怪が驚かすためには、人間を恐怖に陥れなければならない。
だが、人は知識も力も得た。からかさお化けというモノがいることを知り、妖怪を退治できるまでになった。それは日常から怪異を奪ってしまったのだろう。ちょうどランプに火をともせば闇が消えてしまうかのように。彼らには幻想郷で生きることが難しくなったのかもしれない。
彼女はゆっくりと首を回しながら惚けたように商品棚を見ていた。
百年を経た器物は魂を得てつくも神になるという。しかし、すべてが妖怪になるとは限らないようだ。店には気の遠くなるほど昔につくられた物も並んでいたが、元の形のまま存在し続けている。
彼女はそれをうらやましそうに眺めている。
その目に宿るのは懐古の念だけではないだろう。瞳の奥に、捨てられた子犬のような悲しみが見えた気がした。
妖怪化する道具としない道具。違いはどこにあるのだろう。
僕は思う。
器物から妖怪になった者。彼らは、心の真ん中に空洞を抱えているのかもしれない。たとえば粗末に使われたり、捨てられたり。または彼女みたいに人に忘れられたり。妖怪になってからもその隙間は埋まることがない。だから、たぶん彼女は人に意識されなくなることを一番に恐れている。必要とされなくなることに。誰からも見てもらえなくなれば、昔の記憶がよみがえるのだ。
私は昔話のようなものです、小傘は言った。
「怪談を読んでいると、もしかしたらこれは私なんじゃないか、と思うことがあります。皿をずっと数えていたり、小豆を洗っていたり。それはずっと昔の、とっくに消えていったものです。ただ懐かしがられているだけのものたち。誰も恐がりなんかしない。私は一緒に忘れられていくのかもしれません」
形あるものは、いつか消えてしまう。時が経れば、色はあせてゆく。まるで色と一緒に存在までが薄れるようだ。
それらは元々どんな色だったのか。元の姿を知っていれば思い出すことができる。昔を懐かしがっているとき、それは輝く。だが、時間は全てを変えてしまう。現実は色あせ、記憶の中にしかその姿は見いだせない。
小傘はこの世の終わりが来たかのような表情を浮かべていた。
彼女は「また人を驚かせられるようになりたい」、その一心で勉強をしたのだろう。
だが、怪談の中に自分の可能性を見つけることができなかった。たどり着いた答えは探していたものの逆だった。
雨は止む気配がなかった。
それどころかますます強くなっているかもしれない。
窓が開いていて、そこから今にも雨が入り込んできそうな気がした。
小傘は自分の体を抱え込むように小さくなっている。
窓を閉めよう。
僕は立ち上がって窓の方に歩いた。背中に追いすがるようなつぶやきが聞こえてきた。おもわず振り返った。とても悲しげな声音だ。
「ナスみたいな色をしていなければ捨てられなかったのかな」
「そんなこと考えるものじゃないよ」
彼女は多分「誰かに必要とされたい」、ただそれだけ、ずっとその思いを抱えてきたのだと思う。
小傘は店の棚をじっと見つめていた。その目は焦点が合っていないようだった。
妖怪になんかならなければ、彼女は言った。
「ねえ、コーリンドーさん。からかさお化けにならなければ、私もこうしてお店に並んでいたのかな」
それきり、彼女は黙り込んだ。
部屋には雨音しかない。
口を開くことができなかった。僕が彼女にしてやれることは何もない。
僕は半分人間だし、からかさお化けでもない。驚かせ方の具体的な助言ができるわけではない。
僕はただの道具屋に過ぎない。
それは、僕の能力の限界だ。
彼女にとって、どうすれば人を驚かすことができるか、ということは重大な問題だ。それに答えるだけの器はないような気がした。彼女に「他の生き方もある」とか口先だけで言うことはできる。しかし、それはただの気休めだ。人を驚かすことは彼女が生きる上で必要不可欠なのだから。
僕はずっと道具屋として生きてきて、他のことは分からない。それ以外のことは語れない。道具屋が、どうすれば人が驚くか、なんて答えることはできないだろう。
彼女はあてもなく視線を動かして、何かを決心したようにゆっくりと口を開いた。
「ここに、置いていただけませんか」
彼女はそう言ったきり口をつぐんだ。
意外な言葉だった。
戸惑った。
どういうことだろう。
意味がわからない。
ここに居候させてほしい、ということだろうか?
だが、僕は彼女をうちに置く気は全くなかった。
一人一人はみんな別々に生きている。そして僕は人妖で、彼女は妖怪で。つまり僕と小傘は他人なのだ。僕は冷たすぎるだろうか。だが、それは当然のことである。
ふと、机の上のそうめんを見る。なぜ僕は一つのざるに二人分を盛りつけるのではなくて二枚の皿を用意したのだろう。別の言葉に換えるなら、そう言うことだ。自分の問題は、自分で解決するしかない。
だが、それよりも重要な問題はある。
彼女をここに置いたとしても、何の解決にもならないということだ。仮にうちに居候させてやることになったとして、彼女が人を驚かせられるようになるわけじゃない。だからといって、僕がわざと驚いてやるわけにもいかないだろう。
小傘は長い沈黙の後、言葉を続けた。
「もし……私が傘に戻ったら。
ごめんなさい。……迷惑ですよね」
彼女はかすれた震える声で、振りしぼるように言った。
――そういうことか。
彼女の言葉に金槌で打たれたような衝撃を受けた。
もし「傘に戻ったら」、この言葉の意味はあまりに明白だ。
彼女は元々道具だった。そして妖怪として生を受けた。だが、傘に戻るとは?
考えるまでもない。
それは妖怪としての彼女の死だ。人が死んだ後に骨が残るように、傘だけが残るだろう。そしてたぶん二度と生き返ることはない。
そう彼女は言ったのだ。
道具屋として僕が言える事なんてどれだけあるだろうか。
「……そんなことないさ。少なくとも、大切に扱ってやることはできるよ」
「よかった」
彼女は小さくため息を漏らした。
傘。少なくとも僕は道具屋としてそれを必要とする。存在意義を与えてやることができる。人を驚かせられなくなった彼女に、死と引き替えに。
それは一つの結論である。
僕は彼女に背を向けて戸外を見た。体に水しぶきが当たる。
外は陰鬱な色。日も沈みかけ、そこにはただ激しい雨が降っている。
道具はいつかなくなってしまう。だから僕はいつも幻想郷中から探し出してここに持って帰る。それらは誰かが価値を見いださなければ雨に打たれて壊れてしまう。きっと今も雨の下で壊れかかっているのだろう。それが時間の流れというものだ。
取り残されたらどうなる?
物は朽ちて、やがて土に帰ってゆく。
人に忘れられた妖怪も、同じだ。
妖怪が人を襲うモノならば。
人を襲えなくなった妖怪は、妖怪ではない。牙を失った狼のように飢えるだけだ。
彼女は死ぬ、しかないのだろうか。
人間なら。人間であれば、たとえ壁にぶつかったとしても、別の生き方を探せばいい。たとえ他の道を探すことが難しくても、必ずどこかに可能性は眠っている。だが、彼女が生きるための道は、常に一本しかない。その一本を守りきることができるかどうか。全てはそれで決まる。
驚かし方、か。
本当に、古道具屋には答えらない問題、だろうか?
……違う。
確かに僕は彼女に方法を教授してやることなんかできない。
だが、道具屋としての僕が一つだけ持っているものがある。仕事への自信と誇りだ。
香霖堂には幻想郷中から集めた道具が所狭しと並んでいる。
この目で数多くの道具を見てきた。人によってはただのがらくたに見えるかもしれない。でも、本当にそれは価値がないのか?
それが分かるのは僕しか居ない。道具を掘り出し、それに見合う値段をつけてやる。幻想郷でそれができるのは僕だけだ。
骨董品のような、何時つくられたかすら分からない商品が棚に並んでいる。それは人に忘れられ、ただ、今の人間が昔を懐かしむための物でしかないのか。
答えは否だ。
古い道具は情報の宝庫だ。幻想郷の様々なことを僕に教えてくれる。過去の出来事、人々の暮らし。道具を見れば読み取ることができる。
ここには幻想郷中のあらゆる道具が集まっている。
それは過去のあらゆる情報に触れることができるということだ。僕は、誰よりも深く幻想郷を知ることができる。
そう。
だから、香霖堂は幻想郷の中心だ。
――どうかしてたな。
僕はすぐに気づくことができたはずだ。
彼女が死ぬはずがない。古い怪談を学んだ彼女なら。その努力が無駄であるはずがない。
それは古道具屋を営む僕にしか分からない。
窓を閉めた。
雨の音が消える。
部屋の中は暗かった。
暗闇の中に小傘の影が不安の固まりのようにこごっていた。その姿はおびえているようにも見えた。
ランプを手探りでたぐり寄せ、火を入れる。
小傘の向かい側に座り、机にランプを置いた。
「大丈夫。君は死なないよ」
小傘はあっけにとられたように目を白黒させた。
ランプを指でつついた。壁に映った小傘の影が軽く揺れた。
「なぜ、君が驚かすことができなくなったか。傘立てで待ち受ける、こんにゃくをぶら下げる。すでに使い古された手段だ。みんな、それに慣れてしまった。
ならどうすればいいか。簡単なことだ。新しい方法を考えればいい」
人は既知のものより未知のものの方を恐れる。分かりきったものからは恐怖という感情は生まれない。未知とは暗闇の中を手探りで歩き回るようなものである。どこから何が出てくるか、身構えて進まなければならない。なら、暗闇に人間を放り込んでしまえばいい。
「新しいこと、ですか……。
それじゃあ私はムダなことをしていたんですね。怪談なんて古くさいものを勉強したりして」
僕は首を横に振った。
小傘は意外そうに首をかしげた。
どうやらこの子は昔のことを知る意味が分かっていないようだ。古物は昔を懐かしむためだけにあるのではない。それは、未来を知るためにある。
「完全なゼロからつくることができるものは無いよ。
新しい道具はどうやってできると思う? その発想はどこから生まれてくるのか?
例えばこのランプだ。これがまだ発明されていないと仮定しよう。
その場合、夜中に本を読もうとする人間は月や星の光に頼るしかない。雲が出れば字を読むことは不可能になる。そんな時、どうしても本を読みたいという人間はどうするのか。光を発する太陽のような道具があれば、と思うだろう。そして、誰かがランプというものを考え出す。
さて。ランプをつくった人間は、なぜ、それをつくることができたのか?
違う例を出そう。今度は言語も未発達な、削った石を使っての狩猟採集生活を送る時代で同じ事を考えてみるとしよう。本は読まないだろうけどね。まあ、それでも夜道を歩く時に明かりがあった方が心強いとは思うだろう。だから、みんなが頭を振り絞って夜に昼を連れてこようとする。でも、絶対にランプを発明することは不可能だ。
なぜだろう。
その道具をつくるための条件が整っていないからだ。
ただの石ころしか使っていない人たちにいきなりランプを考えろ、というのは無理だ。それが発明されるまで人間は、一段一段文化を発展させる必要がある。多くの人たちが幾代にもわたって地層のように積み重ねていく。その後でしかランプは生まれ得ない。
全ての発明品は必ず同じ過程をたどってできあがる。後からつくられる道具は、昔の道具の延長線上にしかない。既存のものにどんな価値を加えていくか、と言っていいかもしれない。新しいものは、前の世代を土台にしているんだよ。突然ぱっと現れる事なんてありはしない。
だから先を考えるには、過去を知ることが大切になるんだ。今を生きる人間は、先人の残したものをどう発展させるか、と考えていくことになる」
それは他の分野でも同じ事だ。思想、芸術。新しい世代の担い手は必ず前の世代の文化の影響を受けている。たとえ、時代への反抗でも。
「それが人を驚かすための答えだよ。古典的な驚かし方を知ることが、新しい方法を考えるための唯一の道だ。
だが過去そのままの方法を使ってもびっくりする人は少ない。それはもう知られているからね。だから、発明する必要があるんだよ。そして障害を越えるには君自身が考えるしかない」
「でも……そんなの思いつく自信はありません」
小傘はさらにへこんでしまった。
「そうでもないさ。たとえば、君がさっきやったスケキヨはそこまで悪くない。あれなら驚く人もいるだろう」
「え? あれは、からかさがよくやることですよ? 傘立てで待ってるなんて……」
「いや、僕は、傘のふりをして待つからかさお化けの怪談しか知らない。一目で異常と分かるほどあからさまに逆立ちをしている話、なんて聞いたことがないよ」
しかも二本足で。
「でも、やってることって変わりませんよね」
「そう思うかい? だが、傘の柄と足では見た人の印象が変わる。受ける衝撃は大きく違うだろう」
「……コーリンドーさんも驚きましたか?」
「圧倒はされたかな、少なくとも」
驚く人間がいるかもしれない、というのは本当にそう思う。人間には正体不明のものの方が怖い。少なくとも僕は外から帰ったとき足に出迎えられるのはいやだ。
「それってビックリしたってことですか?」
「ううん、まあ……ね」
笑顔がぱあっと広がった。
「ホントですか! 驚きましたか!」
「いや、そこまででは……」
「やった! 何ともないような顔して実は心臓が飛び出るくらい驚いていたんですね!」
いや、別にそこまでのものじゃない。まあそれを言うのは押さえる。彼女が跳ね回らんばかりに喜んでいたからだ。思わず目を引きつけられるような輝いた笑顔だった。
小傘は一気に機嫌が良くなり、彼女はいちばんに赤いめんをとり、つるんと吸い込んだ。
現金な子だ。
「おー! すっごいのびてますよ、これ!」
そりゃそうだ。
僕の方はもうほとんど食べ終わっていたので、皿の上には一本の赤いめんだけが残っていた。食べるのがもったいないので、いつもとっておくのだが。誰かが長話をしているうちに伸びてしまったじゃないか。どうしてくれよう。
「もしかして、それいりませんか?」
「そんなことはない」
食べるに決まってるだろう。何のために残したと思っているんだ。
でも、たまにはこんなのも悪くないかな。めんつゆはないけど。
いざ食べようと思ったら、頭の片隅に何か引っかかるものがあった。
赤いめん。
――糸。
馬鹿馬鹿しいなあ。
くだらない連想だ。そうめんはそうめんであって、それ以上のものではない。
最後のめんはよく噛んで食べた。
「おせわになりましたー」
「僕は何もしていないよ」
自分の問題を解決できるのは、結局のところ自分しかいないのだ。別に僕が何かをしたわけではない。
小傘は大きく手を振りながら歩いていった。
彼女はたぶん心の弱い妖怪ではないな。立ち直れるだけの強さは持っている。
――スケキヨ、か。
幻想郷も狭いようで広いから、似たような怪談はあるだろう。それにスケキヨという言葉がある以上、同じ事をやった者もすでにいるかもしれない。
でも実は、それは大した問題じゃない。
もし人を驚かせられなかったり、その方法が気に入らなくなったら、また違う手段を考えればいい。それは昔の怪談を知る者にしかできないことだ。実力が足りなければ自分を磨けばいい。大切なのは、転んだときに立ち上がることができるかどうか。
ふと、僕にもあんな頃があっただろうか、と思った。それは霧雨商店の門をたたいた日のこと、あるいはこの道具屋を始めようと決心した日のこと。まあ、どちらにしても遠い昔のことだ。
彼女なら、できる。僕は確信していた。
そうして、彼女は去っていったのだ。
うちの傘立てに。
「おどろけー」
「…………」
開いた口がふさがらない。彼女はまた、傘立てでスケキヨをしていた。
「驚いてー、コーリンドーさん。しくしく。わちきには才能がないということか」
「もう僕は驚き終わっている。よそでやってくれ」
「なるほど! 盲点でした!」
何て子だ。普通こんな間違いをするだろうか。やっぱり厄介な目にあった。
「ああ、そうだ。それをやるときはズボンをはいた方がいいよ。まあ、なんだ、見苦しいから」
「? よく分からないけど、コーリンドーさんが言うならそうすることにします」
一生懸命ではある。見ていてほほえましい。
雨もそのうち上がるだろう。
「とにかくそこから出てきなさい」
彼女は勢いつけて飛び出そうとしたが、傘立てごと倒れてしまった。何をしているのか。少しは落ち着けと言いたい。からかさお化けらしいと言えばらしいだろうか。
「ほら、つかまるといい」
手を伸ばした。彼女は僕の手にしっかりとつかまって立ち上がった。
彼女はえへへ、と照れ笑いをして、僕の顔を見ると驚いたように言った。
「あ! スマイル、入荷したんですか?」
そうか。僕は笑っていたのか。ずいぶん久しぶりだったから言われるまで気づかなかった。
しかし笑うほどの理由が僕の心にあっただろうか? 不可解だ。
でも、まあ、ばらまくためのものではないだろう。これも一品物かな。
「非売品だよ」
熱いね、お二人さん!
人と適度に距離をとりつつも、根は割りとお人よしなのが、彼らしく思えます。
個人的な合致なのかは判別は出来ませんが。
内容も面白かったし。
小傘がまた傘立てに入った場面が微笑ましいですねぇ。
中盤の悲しい雰囲気から明るくなる終盤まで見事なお話でした。
ところで麺つゆがなかったんじゃありませんか?w
もう小傘は後ろから「ワッ!」って驚かしたらいいんじゃないか?w
器物の怪と道具屋の、思いと想いがしっくりすとんと良い感じですね。
おもしろかったです。
こんな感じをまっていた!
いいものを見せて頂いたッ!
…イカすねぇ
非売品だからこそ価値があるもの。
くそう、霖之助の笑顔がほしい。
……かっこよすぎる!