雪の降る朝だった。
私が珍しく一人で目が覚めた時、寝室には風の音すらない静かな朝だった。首を動かすと布団の生地が擦れてその音だけが唯一、寝室内に響き渡る。眠っているのには最適の静けさだった。なぜ目が覚めたのだろうと思い、私は首を動かして室内を見渡すと、理由はすぐに分かった。カーテンに遮られているとは言え、室内は十分な明るさを持っていたのだ。瞼を閉じても少し薄暗い程度の明るさは閉じられた瞼越しでも分かり、ほのかに闇の中へ混ざり込んでいた。朝になれば生き物は目が覚める、当然のことだけど、寝起きの私にはその明るさが少し鬱陶しかった。しかし一方で睡魔はゆっくり私を眠りに引き込もうとする。それに瞼越しの光が合わさり、身体が暖かい湯船の中を浮かぶような感覚が返って心地良さを誘った。誘われるまま温かさに身を任せていたら、闇の中で光が瞬いた気がして、目を閉じた瞼の裏側は真っ暗になる。やがては私を包む布団にも現実感が無くなった。
死ぬ時はこんな風なのかしら。意識が遠ざかって行く中で、ぼんやりと思い浮かんだ。眠る前にどうして哲学的なことを思ったのか分からないけれど、私にとって死とは程遠いことであって、決して無縁では無いのだとも考えた。周りにも、四季と言う形で生と死は満ち溢れているし、私にだっていつかは最後もやって来る。だから私は、自分の中で突発的に浮かんだ考えをこれと言った違和感も無く、当たり前のように受け入れていた。
出来るなら、良い最後を迎えたい。最愛の人が傍に寄り添ってくれ、皆に温かく見守られて。私は、いつか自分にも訪れるだろう最後を瞑想した。悪魔の私に物語のような最後が与えられるとは思えなかったけれど。
「……? 」
ふと喉の渇きを覚えた。
とは言っても、眠気に覆われていたせいか分からなくて、最初に感じたのは喉の違和感だった。つい私は意識をしてしまい、違和感は眠気に覆われた私の中で大きくなり始め、やがては私に水が欲しいと言う欲求を覚えさせた。息をすると口の中がパサパサして、喉の奥はまるで何かを塗りたくられたみたいに乾燥している。試しに大きく息をしたらと、喉がしゃくれて危うく咽返りそうになり、私がまともに出来たのは気持ち悪さに寝返りを打つことだけだった。
吸血衝動なのかと思った。朝から血が欲しいなんて、節操のない話だけれど。
血は、いつもスキマ妖怪から支給された人間から得ている。欲求も満たすことが出来ていた。衝動的に欲しくなることなど最近は無かった。私は浮かんだ自分の考えを、受け入れていない。私は喉の渇きを無視して寝続けるか、起きるかの二つの選択をしていた。しかしこれ程、喉が渇くなんて久々で、そう言えば最近は冬場だけに紅茶以外の水分を摂っていなかったことを思い出した。紅茶だけは毎日欠かさず嗜んでいたのは、私が飲みたくなる唯一の水分で、冬場に身体を暖める方法の一つだから。アルコールでは意味が無いし、結果として私はまともな「水分」を口にしていないのだ。故に、ようやく身体が私に言うようになったのかも知れない。まともな水分を採れ、と。事実私は、今の渇きに耐えられそうに無かった。
私は瞼を開けてベッドの上で身を起こした。柔らかい枕の上に肘を付いて、身を支える。ベッドの脇に添え付けられた小さな机に手を差し伸べると、上に置かれた手の平程のベルの柄を指先で摘んだ。流石にメイドの一人や二人は起きているだろう。その考えに同調するように室内の光を受けて、ベルの鐘が鈍く金色に光る。
私がゆっくりとベルを左右に揺すればリーンリーンと、小さくも澄んだ音色が流れた。目覚ましのような耳に響く音は寝起きには丁度良いけど、これは返って眠気を呼び覚ましそうな音で、空気が渇いているから余計に良い物だった。例えるなら季節外れだけど、風鈴のように伸びのある音色はしばらくの間流れ、やがては空気を震わせる微かな音となり、最後は低い音に変わると遂に途絶えた。音色が消えれば再び静寂が訪れ、音を聞いていただけにそれを強く感じる。
「耳鳴りもしないのね……。本当に、静かな朝だわ」
まるで、自分以外に誰も居なくなってしまったみたいだ。
けれど全てが静まり返った訳でも無い。時たま、森の方から小鳥の囀りが耳に届き、湖の湖畔から水面で魚が跳ねる音も聞こえる。私はそれらを聞き、外の様子はどうなっているのかが気になって、身体を窓際へと向けた。身体を捩ったことで身に纏っていたパジャマが緩み、外気に肌が晒されたことで私は寒さを知った。私は指先で生地を摘み、襟を整えると首筋を隠した。窓際では、カーテンの隙間から光が細長く差し込み、床を白く照らしている。それは日差しのような白さでは無く、温かみの無い言わば純白で、光を目にした私は空に朝日が浮かんでいないのだと直感した。
不思議な物だ。
昨夜は、あのカーテンの隙間から月が見えていた。けど目を閉じて、朝になればもう月は見えないのだ。眠りに落ちた後は、一瞬に感じる。月は私に吸血鬼を唯一照らす光を与えてくれるから、私はカーテンの隙間を敢えて毎晩開けていた。月が私を見ていて、優しい光で照らしてくれるようにと。けど、眠るまでに月は見ることのできる時間は僅かだ。長い間ずっと寄り添っていて欲しいのに、私の都合など関係無しに月は何も残さずに消え去ってしまう。せめて柔らかく頬を照らす、あの光だけでも残したいと願っても記憶の映像にしか残らなかった。
別ればかりで嫌になりそうだ。自分の生き方が疎ましいとは思わなくても、寄り添う者の少なさはどうしようも無かった。今や傍に居てくれる者達は指折り数える位しかいない。けれど皆大事な存在で、居てくれるだけで幸せを感じることだってある。しかし、例え寄り添う者が居ても私は長く生き続けてしまうが故に相手は一方的に去ってしまう。生きて来た中での哀しみも多く、いつかは積み重ねた悲哀と思い出意外に何も残らなくなるのかしら。その時に、私は曲げられなかった吸血鬼としての自分の孤独と運命を恨み、最後を迎えるのかも知れない。
私は俯いていた頭を上げる。喉の渇きも思索のせいで忘れかけていた。
どうして自分の人生など観ているのかしら。今日は色んなことが思い浮かぶ。死とか、分かれとか。そんな物はこの長い人生の中で、いくらでも経験してきたのに。まあ、慣れることなど無いから思い浮かぶ度に畏れるのだろうけど。哀しみに打ちひしがれたことも、背負った重石から、逃れることも許されなかった。
けれど私は今も生き続けている。しぶとく、周りに残ってくれた貴重な親友や心許した相手に縋り、求めて。
「……そうだ。今日はあの子の」
呟き、用事を思い出したらドアがノックされる音に私は我に返った。視線を寝室のドアへと向ける。メイドは起きていたらしい。まあ、当たり前のことか。ついでに申し付けることもあるのだし、思いだしがてら好都合だった。
「入りなさい」
私が答え、一拍置いてから音も無くドアが引き開けられると、廊下には一人のメイドが立っていた。彼女は部屋に一歩だけ踏み込み、私が起きている姿を目にすると、目が合い慌てて頭を下げる。挨拶と部屋に入る順番が間違っている。私はそんなメイドを見て相変わらず抜けていると思わずにはいられなかった。
「おはようございます」
「早速だけど、紅茶を用意して頂戴。ついでに水もお願い。……今日は用事があるから、少し外に出るわ。だから紅茶は熱いのをお願いね」
彼女が挨拶し終えると、私は要件を口にする。簡潔に伝えてはいるつもりだったけど、私はメイドから視線を離していて、最早彼女の姿を横目にすら捉えていなかった。心がここに無いのは、自分でも良く気が付いている。私自身、一体自分が何処を見ているのかなど分かりもしないのだ。
「はい。……用事、ですか。ご用意致す物はありますか? 」
随分と気が回るようになったものだ。まさか古株であったとしても、妖精メイドからこんな質問をされるとは思いもしなかった。なるべく私は、表面に滲みだしそうな驚きの気持ちを押さえ込み、平静を装いつつ首を傾げる。
「そうね……。防寒着でも用意してもらいましょうか」
「分かりました。お出掛する時には用意しますので、その時はお申し付け下さい」
「ええ、頼んだわよ」
メイドは一歩下がり、廊下へと出たのか扉を閉じる。今度は先程とは違って少しだけ音がした後、室内に廊下の冷たい空気が流れ込んで来た。私は妙な気分だった。最初の方は相変わらずだったけど、無能だったはずの妖精メイドに要件を伝えるやり取りはスムーズに済んだ上に気まで回されたのだ。私を含めた紅魔館が変わり始めているのか、それともただ単に今日のことは偶然なのかしら。どちらなのか決めかねて、私は美鈴の変わらないそこそこの仕事ぶりやパチェの引き籠り加減を絡み合わせ、考えてみた。すると、私は後者なのではと言う結論に辿り着いてしまう。当然のことか。幻想郷に引っ越して来てから今まで、紅魔館を変えるような大きな進化や変化は起こり得なかったのだ。せいぜいあるのは、庭の景色が変わるとかフランが活発になるか位のモノ。
しかし、変わらないが故に思い出や習慣は残り続けている。何百年時を経ようが、変化が無ければそこにあるモノは求められ形を残し続ける。今日は、私の中でずっと大切だと想い続けていた日だ。これも私が毎年のようにしている習慣、言わば『大事な日』なのだ。
「そう、今日は大事な日なのよね」
呟きを受け止めてくれる者はおらず、一人佇んでいると部屋の静謐さが返って虚しさを募らせる。溜息が洩れた。メイドが居なくなってから大して時間は経っていない。だけど飲み物を待つだけの時間はただ長く感じて、私の目線は再び窓際へと移っていた。閉じられたカーテンの向こう側には何があるのか、と。いつも当たり前のように見ていた景色に今は興味を寄せ、一方的に想いを馳せていた。私の想いは我儘で自分勝手なものだから、私の抱くこの気持ちは片思いみたいな物。
どんなに平凡な風景でも構わない。純粋な好奇心に背中を押されていて、先にある景色を見たいと思っているだけ。
私は気持ちを抑えられず、ついには靴も履かず素足のまま床へと降りた。ベッドの周りには長方形の奇麗な赤絨毯が敷かれていて、足裏に伝わったのは厚い羊毛の感覚だった。窓際に向かうと辺りは普通の床板で、絨毯とは違いそこが冷たいのは察しがついたけど、私は構わず窓際へ歩み寄る。
床板を素足で歩けば、冷たさは無く拍子抜けしてしまう。暖炉の熱がまだ残っているのかしら。私は窓の前に立つとカーキ色のカーテンを指先で摘み、引き開けた。
「あら……」
しかし窓ガラスは蒸気で白く曇り、外の景色を見ることは叶わない。もちろんこの程度で諦める気はせず、むしろ日差しの出ていない時に窓を開けることが出来ると言うことに、私は若干の高揚感と楽しさを見出し始めていた。随分と沢山の感情を持っていたけど、それらは私の背中を押すと言うことでは皆同じ。
今の私は情景への憧れに胸が一杯だ。窓枠に手を掛けて、観音開きの窓を手の平で押せば、硝子が振動する音と共に、窓が開け放たれた。
すると、部屋の中へ冷たい空気が流れ込む。眩しい光は目を覆い、視界が一瞬で真っ白になった。
「雪、か……」
視界を覆った光が消えると、私の目に一面の見渡す限りの銀世界と、しんしん降り続く雪が映り込んだ。太陽が出ていなくても、これほどの雪が互いに光を反射し合っていれば、確かに景色は明るくなるかも知れない。しかし、こんな大事な日に限って雪とは皮肉な物で、厚底のブーツを用意させなかったことが少し悔やまれた。後で言っておこう。
私は窓際に手を掛けて、一面に広がる光景を黙って眺めた。流れ込む寒気は、布団によって暖められていた身体を冷やしてしまうけれど、すっかり魅入った私が身体を気にすることはなかった。
「思えばあの日も、こんな風に雪が降っていたわね」
私はスコールに阻まれ、シルエットすら良く見えない山並みに向かって目を凝らした。風は無く、故に雪は舞い上がらないけど量が多く、まるで煙幕のように視界を阻んでしまう。それでも尚眺めていたのは、近くの湖とか森を眺めても、雪化粧をしただけで何ら変わりが無いように思えて、ならばいつも見ている景色より見えない物を見ようとすることの方が価値のあることと考えたからだった。これから行くのも、そんな風景のように不確かで、けれど想いの強い価値のあること。
山並みを目にしたくても阻まれ見れないことは、「一方的に訪れた別れ」と似ていた。故に私は二つを重ね合わせて、孤独を覚えつつも、眺めることに魅了されている。気持ちも静かになって、景色へ馳せた想いは違うことへ向き始めた気がした。
「―――今日も行くわよ、咲夜……」
私は、風景を眺めながら私が愛した一人の従者の名前を口にする。風が吹き、スコールが晴れて、その時だけ私は眺めていた山並みをはっきりと目にした。
私は防寒着を着こみ、厚底のブーツを履き締めて中庭に積った雪の上を歩いている。気分とはコロコロ変わる物で、凍えるような外の寒さに躍り出て、止み掛けた降雪の中を歩いていると、さっきまでは気に入っていた筈の白さを、今度は変化の無さと受け止めてしまった。春夏は色とりどりの花を咲かせ、私の目を楽しませた庭園は今やその面影も無い。花壇はまっさらな雪に覆われ、庭の所々に立つ骨組みだけを残した黒いアーチが、中庭の物寂しい様子を引き立てていた。
整然と植えられた木々は、周りの白とは一線を画する趣があった。葉を全て落としていた枝々に純白の花が咲き、寂しげな景色の中美しい。あくまで枝にのった雪を比喩したのだけど、それは花が咲いていると言うのに相応しい姿だった。枯れ木に花が咲いた。お伽話を用いて言うならそんなところ。けれど、中庭の木々に咲いた花に心を向ける気はしなかった。窓越しから見た絵画のような冬の情景に私の姿を重ね合わせて、この目で冬を満喫していたのに。我が身で雪や冬を感じたら、それらが私を重ねられる存在ではないことに気が付き、ただの単調な白にしか見えなくなってしまった。遠くから眺める冬は私を魅了する美しさがあったけれど、今私の見ている冬は雪と白だけの世界だった。これが好きだと言う者もいるだろうけど、私の感性にとっては近くにある雪は所詮雪でしかないのだ。飽きたのでは無く、ただの違いと言った方が良いわ。
首に巻いたマフラーを右手で握り締めて、私は目指すところへ歩き続けた。サクサクと足音が鳴る。やがていくつもの花壇に囲まれたところの中心に、厚い雪を被った石碑があるのを見つけた。私の歩調は速まり、石碑は僅かに灰色の身体を雪の中から覗かせている。目指している物はもうすぐそこにあり、速足のせいか呼吸が震え、昇り立つ白い息の感覚は短くなって行った。
――――今日は咲夜の命日だった。
咲夜が亡くなった時は雪が降っていて、情景が今日と重なる。だから私にとって雪は、単に興味を魅かれるだけではない特別なモノだった。自分を重ねたのも雪に感慨を抱いたからだ。私は、現実とも向き合えている一方で咲夜を忘れることはなく、今は亡きその存在は心の支えになっている。咲夜が亡くなってから、何度目の冬を迎えたのかしら。残ったのは風化してしまった咲夜の生きた証しと、忘れることのない思い出だけ。咲夜の使っていた物はいつか形を失ってしまうけれど、記憶と言う名のフィルムは生きている限り、私の中で残り続けるから、咲夜と過ごした思い出の方が私には大切な宝物だった。
私は石碑の前で立ち止まって、息を整えると表面を覆う雪を払った。渇いた雪は、私の手に直に触れるとすぐに溶け出す。指先に絡み付く冷水はひたすら凍てついていて、手がかじかみ指先は痺れる程に痛い。手袋を用意しなかったのが悔やまれる。雪を被っていることくらい、良く考えれば分かったはずなのに。
「こんなに雪、被って……寒かったでしょう? 」
私の前に姿を晒した石碑の上には、咲夜の名が刻まれている。彼女が生きた印の年歴と共に。そこにあるのは咲夜の墓標。私が刻まれた『十六夜咲夜』の字を撫でると、咲夜に寄り添った最後の日のことが思い浮かび、切なさと懐かしさが込み上げて来た。私達が過ごした日々の中で、様々な意味で本当に忘れられない日だったから。
咲夜は、私や大勢の者達に看取られる中で息を引き取った。最後まで彼女は人間としての生き方を全うし、安らかな死に顔は、彼女の歩んだ人生の重みを物語っていた。私の前に横たわる咲夜は眠っているみたいで、死んだとは思えない穏やかさだったのを覚えている。私は確かに泣いたけど流した涙は私の悲哀の情から来たものでは無い。咲夜と言う最愛の人の為に流した涙だった。人の為に泣いたことなど初めてで、私はありがとう、と咲夜の手が冷たくなり始めても、必死に握り締めたまま何度も唱えた。魂は去ってしまっていたけど。
――――私の所にいてくれてありがとう、美味しい紅茶をありがとう、私を守ってくれてありがとう、私を愛してくれてありがとう――――
気恥かしさ故に言えなかったことが、その時は取り留めも無く心から溢れ出てしまった。寝る前の語らい、また二人だけの昼下がり、テラスで過ごすティータイムの時に、ちょっとしたことで互いに確かめ合うような甘くて純粋な愛情と、口には出せなくても常に心で囁いていた咲夜への感謝が。堰きを切ったように溢れる気持ちとは裏腹に、私が何度も言っても遺体は答えることはなく、私は感情を吐き出すことで喪失感と押し寄せる哀しみから乗り切ろうとした。私は混乱していた。吐き出す度に『ありがとう』の意味は薄れ、やがては喉の奥が言い様のない苦しさで締め付けられたのだから。やっと声が挙げられた時に、私は嗚咽を混じらせて啜り泣いた。咲夜は私に仕えることが一番の幸せだと言っていた。咲夜の幸せを思えば泣きたくないのに、咲夜はそんな私を許し、受け止めてくれると思えて、もう居ない筈の存在に私は縋った。
でも、思い出すのは悲しいことばかりでは無い。全てが哀しみだけだったら、私はいつまでも思い出として覚えていないだろう。
私がベッドに横たわる咲夜に、何かしてあげられることはない? と聞いたら咲夜は「大好きな私にそばに居て欲しい」と、真剣な顔で言ったのだ。死期が近づき、立つこともままならない程に年老いた咲夜の願いがそれだった。願いを叶えてあげようと思い立っての発言だったから、流石にその言葉は予想外だった。でも可笑しくて、ここまで愛してくれることが嬉しくて、咲夜も本心の中にもちょっとだけ冗談めかしたところもあったのだろう、私達は一緒になって笑ってしまった。
「本当に、可笑しな願いだったわね」
鈍感なのに、真っ直ぐで。あの時を思い出したら自然と笑みが零れて来る。思い出し笑いはいけないわね、パチェだったらきっと眉を寄せて私を見ているだろう。けれど笑みは止まらない。
幸せだった。私と咲夜の過ごした日々に対して自信を持ってそう言える。咲夜の微笑みが近くにあって、咲夜が居てくれた日々が。私は永遠に咲夜を愛している。咲夜に変わる存在などなく、思い返すだけで、すぐ近くに居てくれるみたいだった。鮮明に覚えているからだろう、記憶の中で再生される咲夜の声は、まるで私に語り掛けて来るかのようだった。私は周りの変化を望まない。思い出に縋っているのではなく、私に咲夜と過ごした時よりも幸せな時間がやって来るとは思えないのだ。だって、今まで生きて来た中で一番幸せな時だったのだから。
「あ、おはようございますお嬢様。やっぱり一番乗りされていましたか」
墓標を挟んだ向かい側から声がして、顔を上げると墓標の周りを囲む花壇の先に美鈴がいた。いつものチャイナドレスの上から丈の長い茶色いコートを羽織っただけの簡素な出で立ちは、見た目より寒さを凌ぐことに意味を置いているみたいで、互いの組み合わせは少々不均等に見えた。けれど、美鈴がコートを身に着けているのは新鮮で、髪も長いのだから、服を変えればコート自体は長身の美鈴に似合うだろう。
「咲夜の主人は私だもの。当然よ」
新しいコートを買ったのかと聞く前に、美鈴が腕に抱えた白い花束に目が止まる。辺りの様子も相まってか、始めは白百合かと見間違えした。
やがて、花弁の形が見えるようになった時に、それがようやく見たことのない花だと言うことに気が付かされる。思い込みとは面倒な物ね……雪の降る季節に百合が咲かないこと位、普通に考えれば分かるだろうに。そう思っても尚、私は美鈴の持つ花束を見続けていた。花は百合のように可憐ではない。けれど、花弁や細い茎、葉の持つ素朴で綺麗な姿は私を惹きつけ、故に儚い美しさを見た。私の冬に咲く花のイメージは、パンジーやビオラのように力強く地を這い咲く花や、草木のようなモノだっただけに、尚更心を動かされた気がする。花弁の色が雪と同じだなんて、枯れ木の雪桜より、よっぽど冬らしい。良い花を持って来たわね、いかにも律義な美鈴らしいと思った。
「きっと咲夜さんも喜んでますよ~。朝一番から大好きなお嬢様に逢えたんですから」
美鈴も墓標の前で立ち止まり、お互いが向き合った。本心から言ったことは、この子が浮かべる素直な微笑みから疑う余地は無い。私は美鈴の言葉を聞いて、咲夜に起こしてもらった時のことを思い出して、頬が熱くなった。好きだったんだなって。
「そうね、綺麗な花まで添えて貰ってるし」
頬の赤さを隠す為にぶっきらぼうに答える私を、美鈴は向かい側に立ったまま微笑んで見ていた。こっちには来ようともしない。私に遠慮しているのかしら? 主人を赤面させといて、いまさら余計な気遣いだけれど。私が眉を寄せて大仰に手招きすると、ようやく美鈴は私の気恥かしさとメッセージを察知したらしく、表情を苦笑いに変えて私の隣へと移る。美鈴の足取りは軽く、おかげで上気していた私の頬の熱も下がって行った。
水差しの水は凍ってしまい、花を立てられそうに無い。美鈴は私の横で屈むと、花を墓前にたむけた。
「な~む~」
墓は洋風の造りだったけれど、美鈴はお構いなしに手を合わせて拝む。私も美鈴に倣って咲夜の墓に向かい手を合わせた。花すら用意しなかった自分に出来る物はなんなのだろうと考えたら、私がすることは咲夜を弔うことしか浮かばないのだ。
「その花は? 」
私は祈り終えてからからしばらくして、呟くようにして訊いた。
「水仙と言う花です。雪や寒さに強くって……それでいて綺麗だから、咲夜さんのお墓参りに供えるのには良いかなって」
吸血鬼が清廉な花に感動するなど、普段ならとんだ笑い話になってしまうだろう。けど、その水仙の姿に、今の私は確かに心動かされていた。そして心動かされたことが花の持つ素晴らしさ故だと言うことも、知っている。まるで人生のように、儚く眩い光を帯びていた。もし私が人間で、この花と出会っていれば己の短い人生を、月より水仙のような儚い花に映していたのだろうか。
「ええ、すごく綺麗だわ……流石ね、美鈴。ところで花言葉は? 」
美鈴は私に褒められて嬉しかったのだろう、苦笑いを浮かべていた顔が輝いた。
「えっと……意味は確か……あ、自己愛です」
自己愛、か。儚くて美しい水仙に、この花言葉はあまりに不似合いだ。見た目通り花言葉も清廉な物かと思っていた。花言葉は由来あって付けられるのだろうけど、期待を裏切られたみたいで少し惜しい。
「意外ね。もっと……綺麗な言葉かと。でも、人間みたい。自分への愛だなんて、私には持ち合わせそうにないわね」
花言葉を付けるのは人間だ。それは、自分達で花に意味を持たようとする程、人が自然への強い感性を持ち合せているから。人間からの様々な恩恵を享受している私が花言葉を理解出来ないのも当然かも知れない。私に、自分にはない物に魅入ることは出来ても理解することは出来ないから、表面の美しさ以外に私が花から見るモノは無い。しかし、自分の中で自己愛に準じた感情が無いとは言い切れなかった。でなければ、私は自らの命を絶つことに躊躇をしないし、人間に恋したことを許さないだろうから。
「他人を愛してやまないのに、ですか? 」
私は美鈴に顔を向け見つめた。こんな時に限って美鈴は、私の気持ちを汲み取ったようなことを言う。生意気ね、てっきり内心を読み透かされているかと心配になったじゃない。私に見つめられた美鈴の視線がおどおどと泳ぐのを見て、すぐに杞憂だと分からなければ、私を驚かせたお灸を据えるところだった。美鈴も言葉が過ぎた意識はあったようだ。肩を縮ぢ込ませると耐え切れないとばかりに視線を落としてしまう。
「えぇ」
私に美鈴を責めるつもりはないけど。だって、咲夜の前で叱るなんて恰好が悪いじゃないの、折角だから今日くらいは勘弁してあげよう。私は美鈴の顔から目を逸らした。水仙の輝きのせいで、私はおかしくなっていたみたい。美鈴を許して、抵抗を感じながらも話し出そうとしている。相手の顔を見ていられなかった。
「……私はここの皆を愛しているつもり。紅魔館を統べる者だもの、全てを許容できなければならない。咲夜もパチェもフランも……愛しているし、代え難い存在よ。小悪魔だって、感心する時もある……頑張っているなって。もちろん貴女も、愛しているわ。ここまで付いて来てくれた大切な門番なのだから」
言い終えた後に、ようやく私は美鈴の顔を見ることが出来た。照れ笑いは浮かばない。皆への想いを口に出したのは久々だったけど、素直に言ったことで心を覆っていた恥ずかしさは晴れた。代わりに私の頬は緩んでいて、気分は温かだった。先程とは打って変わり美鈴は、照れ笑いを浮かべている。恥ずかしいのか、それとも嬉しさへの裏返しなのか。私にはどちらでも構わなかった。素直すぎた私の告白を美鈴が聞いてくれたのは事実だったのだから。
「えへへ……ありがとうございます。何だか照れちゃいますね~」
中庭に弾む美鈴の声は瑞々しい響き。その秀麗な顔が幸せそうに見えたのは気のせいではない。照れ笑いも、嬉しさの裏返しだったのだ。
「……でも、確かに水仙の花言葉は咲夜さんには似合いませんね」
美鈴は話し終えると、咲夜の墓標を眺めた。
咲夜の美鈴に対するプライベートでの接し方がどうだったかは知らない。けれど、二人にも当然上司と部下以上の感情もあったのだろう。咲夜に自己愛は似合わないと言えるのだから。
私が何となく美鈴を見ると、墓標を眺める美鈴の瞳はひたすらに穏やかで、咲夜との記憶を思い出すように遠くを眺めていた。美鈴の様子を一目見て彼女の咲夜との思い出が幸せだったのだと確信が持てる。咲夜は誰にでも優しくて、人情味のある一面を見せていたのね。咲夜の姿をまた一つ実感出来て、もっと知りたいと好奇心が生まれた。
「ねえ、美鈴。貴女は咲夜のことをどう思ってたの? 」
雪の上に腰を付き、私は美鈴に囁き掛ける。
「どう思ってたか、ですか? 」
美鈴にとって私の質問は唐突だったらしく、呆けた声で問い返して来た。
「そうよ。どんな気持ちを抱いてたのか、貴女を見ていたらちょっと気になってね。尊敬とか、恋心とか、親愛とか誰しも一つくらいは相手に感情を抱くじゃない」
「え、ええ?! こ、恋ですか?!」
別に美鈴をからかうつもりは無い。けれど、美鈴はどう言うことか顔を赤くして、恋と言う単語に対して反応を見せた。咲夜へ恋心を抱いていたのか、美鈴の反応を見たら私の中でそんな疑問が生まれ、私も追求しなければ良いのに美鈴のいじらしい様子を見ると、怪しい笑みを浮かべ美鈴に顔を近付ける。美鈴のいかに後悔した表情が、私の悪戯心を掻き立てた。
「あら、私は咲夜を愛していたし、恋もしてた」
別に美鈴が咲夜を好きだと言っても構わないのだ。私のニヤニヤ顔のせいでその真意が伝わるかどうかは分からないけど、真顔で言ったら勘違いさせて、尚更聞き出せなくなってしまうだろう。美鈴が私の咲夜へ対する恋心を知っているなら、私も美鈴に恋心があるかが知りたい。何より、ここまで美鈴と慣れ親しく話せる機会は珍しく、二人だけで会うなど一日にせいぜい数回で、今なら秘密の話しも出来る。自分の中だけの隠し事にしておきたいのなら、流石に私は諦めるつもりだけど。
「う、そりゃ……好きだな~って思っていましたけれど……」
美鈴は私に顔を近付けられたまま、瞳を横に逸らしてポツリと呟いた。やっぱり本音は好きだったんじゃない。面白くなってきた、まだまた弄り甲斐がありそうだ。私がそう思い、雪の上から腰を上げて、美鈴の前に出ようとしたら
「でも、やっぱり尊敬してました!! 」
突如美鈴は、両膝を手で叩き心を決めたと言わんばかりに大きな声を上げた。私には、美鈴の行動は予想外で、驚き仰け反ったせいか、不覚にも雪の上に尻から落ちてしまった。柔らかい雪のおかげで衝撃は無かったけど、私は大分美鈴の前で情けない格好を晒してしまう。自業自得の格好だ。
「咲夜さんはお嬢様と居る時が、一番楽しそうだったんですよね。私は咲夜さんに怒られてばっかりでしたし、やっぱり私よりお嬢様と咲夜さんの方が合っています。お嬢様の話題になるといつも以上に生き生きしてました。年をとっても変わらないモノって、あるんですね~……」
美鈴は認めていた。吸血鬼と人間、主人と従者と言う、想いが叶わないような私達の関係が一番似合っているんだって。美鈴がこんなことを言うのは初めてだった。私は咲夜に先立たれてしまったけれど、同じ時間を共に歩んで幸せな時間を過ごしたことは、思い出として残っている。だから私は未だに幸せなのだ。だって、記憶を思い起こすだけで実感が持てているのだから。
「だから……って、お嬢様?! 」
美鈴は一通り話し終えてから、ようやく私が雪の上に尻を付いていることに気が付いたみたいだ。美鈴が慌てて手を差し出したので、私はその手を取った。遅い、遅すぎる。この子が敏感に感じ取れるのは他人の恋心だけなのなら、門番失格ね。話に夢中になるより、私の変化に気が付くべき。
「よかった」
私は、態勢を立て直してスカートの尻の辺りに張り付く雪を払いながら呟いた。
「……ちょっと、話し過ぎましたね」
「いいえ、そんなことないわ。私が咲夜と出会い従えた責任、果せたのかしらって思ってた。あの子の運命を変えたのは絶対、私だから。咲夜はそれを知らなくて……知っていたとしても言わないでしょうけど。咲夜は私を愛し続けていて、責任うんぬんの前に、咲夜は私といるだけで幸せだったのね。貴女の話でそれが良く分かった。今更って感じだけど」
幸せだった証しが残るなら、私は何も言わない。なのに、美鈴は私の言葉を聞くと、寂しげな表情を浮かべる。
「……お嬢様は、咲夜さんをずっと愛し続けるのですか? 」
「えぇ。でもどうして? 」
「記憶も、残された遺品のように時間を経れば風化してしまいます。だから、お嬢様はこれからも続く永遠のような時間の中で、咲夜さんの記憶を守り続けられるのかなって……」
美鈴なりに心配、しているのかしら。愚問ね、そして稚拙な質問だ。記憶が風化するなど有り得ない。大切な記憶が風化するのは美鈴だからだ。私は貴女とは違う。そう思わなければ忘れてしまった、取り戻せない記憶の悔いを断ち切れないし、言い聞かせなければ本当に忘れてしまう。結局は自己暗示だった。
「馬鹿ね……。当たり前じゃない」
私は咲夜の墓標を撫でて呟く。冷たく、芯まで凍てついた石。これを咲夜とは重ねられないけど、生きた証しに触れれば私の中で咲夜の思い出は甦って来る。それに、記憶は守り続けられないとしても、咲夜の存在は守り続けられるだろう。だって、咲夜が愛した一番大切な所で、咲夜は生き続けて行くのだ。笑みが零れ、口元が歪んだ。
「――――咲夜は、私の中で生き続けるのよ。私は、これからもその咲夜を守って行くのだから」
そう、永遠に。
風が吹いて、私の新たにした決意に答えるかのように、水仙の花弁が揺れていた。
儚い白き花束 ――― End ―――
私が珍しく一人で目が覚めた時、寝室には風の音すらない静かな朝だった。首を動かすと布団の生地が擦れてその音だけが唯一、寝室内に響き渡る。眠っているのには最適の静けさだった。なぜ目が覚めたのだろうと思い、私は首を動かして室内を見渡すと、理由はすぐに分かった。カーテンに遮られているとは言え、室内は十分な明るさを持っていたのだ。瞼を閉じても少し薄暗い程度の明るさは閉じられた瞼越しでも分かり、ほのかに闇の中へ混ざり込んでいた。朝になれば生き物は目が覚める、当然のことだけど、寝起きの私にはその明るさが少し鬱陶しかった。しかし一方で睡魔はゆっくり私を眠りに引き込もうとする。それに瞼越しの光が合わさり、身体が暖かい湯船の中を浮かぶような感覚が返って心地良さを誘った。誘われるまま温かさに身を任せていたら、闇の中で光が瞬いた気がして、目を閉じた瞼の裏側は真っ暗になる。やがては私を包む布団にも現実感が無くなった。
死ぬ時はこんな風なのかしら。意識が遠ざかって行く中で、ぼんやりと思い浮かんだ。眠る前にどうして哲学的なことを思ったのか分からないけれど、私にとって死とは程遠いことであって、決して無縁では無いのだとも考えた。周りにも、四季と言う形で生と死は満ち溢れているし、私にだっていつかは最後もやって来る。だから私は、自分の中で突発的に浮かんだ考えをこれと言った違和感も無く、当たり前のように受け入れていた。
出来るなら、良い最後を迎えたい。最愛の人が傍に寄り添ってくれ、皆に温かく見守られて。私は、いつか自分にも訪れるだろう最後を瞑想した。悪魔の私に物語のような最後が与えられるとは思えなかったけれど。
「……? 」
ふと喉の渇きを覚えた。
とは言っても、眠気に覆われていたせいか分からなくて、最初に感じたのは喉の違和感だった。つい私は意識をしてしまい、違和感は眠気に覆われた私の中で大きくなり始め、やがては私に水が欲しいと言う欲求を覚えさせた。息をすると口の中がパサパサして、喉の奥はまるで何かを塗りたくられたみたいに乾燥している。試しに大きく息をしたらと、喉がしゃくれて危うく咽返りそうになり、私がまともに出来たのは気持ち悪さに寝返りを打つことだけだった。
吸血衝動なのかと思った。朝から血が欲しいなんて、節操のない話だけれど。
血は、いつもスキマ妖怪から支給された人間から得ている。欲求も満たすことが出来ていた。衝動的に欲しくなることなど最近は無かった。私は浮かんだ自分の考えを、受け入れていない。私は喉の渇きを無視して寝続けるか、起きるかの二つの選択をしていた。しかしこれ程、喉が渇くなんて久々で、そう言えば最近は冬場だけに紅茶以外の水分を摂っていなかったことを思い出した。紅茶だけは毎日欠かさず嗜んでいたのは、私が飲みたくなる唯一の水分で、冬場に身体を暖める方法の一つだから。アルコールでは意味が無いし、結果として私はまともな「水分」を口にしていないのだ。故に、ようやく身体が私に言うようになったのかも知れない。まともな水分を採れ、と。事実私は、今の渇きに耐えられそうに無かった。
私は瞼を開けてベッドの上で身を起こした。柔らかい枕の上に肘を付いて、身を支える。ベッドの脇に添え付けられた小さな机に手を差し伸べると、上に置かれた手の平程のベルの柄を指先で摘んだ。流石にメイドの一人や二人は起きているだろう。その考えに同調するように室内の光を受けて、ベルの鐘が鈍く金色に光る。
私がゆっくりとベルを左右に揺すればリーンリーンと、小さくも澄んだ音色が流れた。目覚ましのような耳に響く音は寝起きには丁度良いけど、これは返って眠気を呼び覚ましそうな音で、空気が渇いているから余計に良い物だった。例えるなら季節外れだけど、風鈴のように伸びのある音色はしばらくの間流れ、やがては空気を震わせる微かな音となり、最後は低い音に変わると遂に途絶えた。音色が消えれば再び静寂が訪れ、音を聞いていただけにそれを強く感じる。
「耳鳴りもしないのね……。本当に、静かな朝だわ」
まるで、自分以外に誰も居なくなってしまったみたいだ。
けれど全てが静まり返った訳でも無い。時たま、森の方から小鳥の囀りが耳に届き、湖の湖畔から水面で魚が跳ねる音も聞こえる。私はそれらを聞き、外の様子はどうなっているのかが気になって、身体を窓際へと向けた。身体を捩ったことで身に纏っていたパジャマが緩み、外気に肌が晒されたことで私は寒さを知った。私は指先で生地を摘み、襟を整えると首筋を隠した。窓際では、カーテンの隙間から光が細長く差し込み、床を白く照らしている。それは日差しのような白さでは無く、温かみの無い言わば純白で、光を目にした私は空に朝日が浮かんでいないのだと直感した。
不思議な物だ。
昨夜は、あのカーテンの隙間から月が見えていた。けど目を閉じて、朝になればもう月は見えないのだ。眠りに落ちた後は、一瞬に感じる。月は私に吸血鬼を唯一照らす光を与えてくれるから、私はカーテンの隙間を敢えて毎晩開けていた。月が私を見ていて、優しい光で照らしてくれるようにと。けど、眠るまでに月は見ることのできる時間は僅かだ。長い間ずっと寄り添っていて欲しいのに、私の都合など関係無しに月は何も残さずに消え去ってしまう。せめて柔らかく頬を照らす、あの光だけでも残したいと願っても記憶の映像にしか残らなかった。
別ればかりで嫌になりそうだ。自分の生き方が疎ましいとは思わなくても、寄り添う者の少なさはどうしようも無かった。今や傍に居てくれる者達は指折り数える位しかいない。けれど皆大事な存在で、居てくれるだけで幸せを感じることだってある。しかし、例え寄り添う者が居ても私は長く生き続けてしまうが故に相手は一方的に去ってしまう。生きて来た中での哀しみも多く、いつかは積み重ねた悲哀と思い出意外に何も残らなくなるのかしら。その時に、私は曲げられなかった吸血鬼としての自分の孤独と運命を恨み、最後を迎えるのかも知れない。
私は俯いていた頭を上げる。喉の渇きも思索のせいで忘れかけていた。
どうして自分の人生など観ているのかしら。今日は色んなことが思い浮かぶ。死とか、分かれとか。そんな物はこの長い人生の中で、いくらでも経験してきたのに。まあ、慣れることなど無いから思い浮かぶ度に畏れるのだろうけど。哀しみに打ちひしがれたことも、背負った重石から、逃れることも許されなかった。
けれど私は今も生き続けている。しぶとく、周りに残ってくれた貴重な親友や心許した相手に縋り、求めて。
「……そうだ。今日はあの子の」
呟き、用事を思い出したらドアがノックされる音に私は我に返った。視線を寝室のドアへと向ける。メイドは起きていたらしい。まあ、当たり前のことか。ついでに申し付けることもあるのだし、思いだしがてら好都合だった。
「入りなさい」
私が答え、一拍置いてから音も無くドアが引き開けられると、廊下には一人のメイドが立っていた。彼女は部屋に一歩だけ踏み込み、私が起きている姿を目にすると、目が合い慌てて頭を下げる。挨拶と部屋に入る順番が間違っている。私はそんなメイドを見て相変わらず抜けていると思わずにはいられなかった。
「おはようございます」
「早速だけど、紅茶を用意して頂戴。ついでに水もお願い。……今日は用事があるから、少し外に出るわ。だから紅茶は熱いのをお願いね」
彼女が挨拶し終えると、私は要件を口にする。簡潔に伝えてはいるつもりだったけど、私はメイドから視線を離していて、最早彼女の姿を横目にすら捉えていなかった。心がここに無いのは、自分でも良く気が付いている。私自身、一体自分が何処を見ているのかなど分かりもしないのだ。
「はい。……用事、ですか。ご用意致す物はありますか? 」
随分と気が回るようになったものだ。まさか古株であったとしても、妖精メイドからこんな質問をされるとは思いもしなかった。なるべく私は、表面に滲みだしそうな驚きの気持ちを押さえ込み、平静を装いつつ首を傾げる。
「そうね……。防寒着でも用意してもらいましょうか」
「分かりました。お出掛する時には用意しますので、その時はお申し付け下さい」
「ええ、頼んだわよ」
メイドは一歩下がり、廊下へと出たのか扉を閉じる。今度は先程とは違って少しだけ音がした後、室内に廊下の冷たい空気が流れ込んで来た。私は妙な気分だった。最初の方は相変わらずだったけど、無能だったはずの妖精メイドに要件を伝えるやり取りはスムーズに済んだ上に気まで回されたのだ。私を含めた紅魔館が変わり始めているのか、それともただ単に今日のことは偶然なのかしら。どちらなのか決めかねて、私は美鈴の変わらないそこそこの仕事ぶりやパチェの引き籠り加減を絡み合わせ、考えてみた。すると、私は後者なのではと言う結論に辿り着いてしまう。当然のことか。幻想郷に引っ越して来てから今まで、紅魔館を変えるような大きな進化や変化は起こり得なかったのだ。せいぜいあるのは、庭の景色が変わるとかフランが活発になるか位のモノ。
しかし、変わらないが故に思い出や習慣は残り続けている。何百年時を経ようが、変化が無ければそこにあるモノは求められ形を残し続ける。今日は、私の中でずっと大切だと想い続けていた日だ。これも私が毎年のようにしている習慣、言わば『大事な日』なのだ。
「そう、今日は大事な日なのよね」
呟きを受け止めてくれる者はおらず、一人佇んでいると部屋の静謐さが返って虚しさを募らせる。溜息が洩れた。メイドが居なくなってから大して時間は経っていない。だけど飲み物を待つだけの時間はただ長く感じて、私の目線は再び窓際へと移っていた。閉じられたカーテンの向こう側には何があるのか、と。いつも当たり前のように見ていた景色に今は興味を寄せ、一方的に想いを馳せていた。私の想いは我儘で自分勝手なものだから、私の抱くこの気持ちは片思いみたいな物。
どんなに平凡な風景でも構わない。純粋な好奇心に背中を押されていて、先にある景色を見たいと思っているだけ。
私は気持ちを抑えられず、ついには靴も履かず素足のまま床へと降りた。ベッドの周りには長方形の奇麗な赤絨毯が敷かれていて、足裏に伝わったのは厚い羊毛の感覚だった。窓際に向かうと辺りは普通の床板で、絨毯とは違いそこが冷たいのは察しがついたけど、私は構わず窓際へ歩み寄る。
床板を素足で歩けば、冷たさは無く拍子抜けしてしまう。暖炉の熱がまだ残っているのかしら。私は窓の前に立つとカーキ色のカーテンを指先で摘み、引き開けた。
「あら……」
しかし窓ガラスは蒸気で白く曇り、外の景色を見ることは叶わない。もちろんこの程度で諦める気はせず、むしろ日差しの出ていない時に窓を開けることが出来ると言うことに、私は若干の高揚感と楽しさを見出し始めていた。随分と沢山の感情を持っていたけど、それらは私の背中を押すと言うことでは皆同じ。
今の私は情景への憧れに胸が一杯だ。窓枠に手を掛けて、観音開きの窓を手の平で押せば、硝子が振動する音と共に、窓が開け放たれた。
すると、部屋の中へ冷たい空気が流れ込む。眩しい光は目を覆い、視界が一瞬で真っ白になった。
「雪、か……」
視界を覆った光が消えると、私の目に一面の見渡す限りの銀世界と、しんしん降り続く雪が映り込んだ。太陽が出ていなくても、これほどの雪が互いに光を反射し合っていれば、確かに景色は明るくなるかも知れない。しかし、こんな大事な日に限って雪とは皮肉な物で、厚底のブーツを用意させなかったことが少し悔やまれた。後で言っておこう。
私は窓際に手を掛けて、一面に広がる光景を黙って眺めた。流れ込む寒気は、布団によって暖められていた身体を冷やしてしまうけれど、すっかり魅入った私が身体を気にすることはなかった。
「思えばあの日も、こんな風に雪が降っていたわね」
私はスコールに阻まれ、シルエットすら良く見えない山並みに向かって目を凝らした。風は無く、故に雪は舞い上がらないけど量が多く、まるで煙幕のように視界を阻んでしまう。それでも尚眺めていたのは、近くの湖とか森を眺めても、雪化粧をしただけで何ら変わりが無いように思えて、ならばいつも見ている景色より見えない物を見ようとすることの方が価値のあることと考えたからだった。これから行くのも、そんな風景のように不確かで、けれど想いの強い価値のあること。
山並みを目にしたくても阻まれ見れないことは、「一方的に訪れた別れ」と似ていた。故に私は二つを重ね合わせて、孤独を覚えつつも、眺めることに魅了されている。気持ちも静かになって、景色へ馳せた想いは違うことへ向き始めた気がした。
「―――今日も行くわよ、咲夜……」
私は、風景を眺めながら私が愛した一人の従者の名前を口にする。風が吹き、スコールが晴れて、その時だけ私は眺めていた山並みをはっきりと目にした。
私は防寒着を着こみ、厚底のブーツを履き締めて中庭に積った雪の上を歩いている。気分とはコロコロ変わる物で、凍えるような外の寒さに躍り出て、止み掛けた降雪の中を歩いていると、さっきまでは気に入っていた筈の白さを、今度は変化の無さと受け止めてしまった。春夏は色とりどりの花を咲かせ、私の目を楽しませた庭園は今やその面影も無い。花壇はまっさらな雪に覆われ、庭の所々に立つ骨組みだけを残した黒いアーチが、中庭の物寂しい様子を引き立てていた。
整然と植えられた木々は、周りの白とは一線を画する趣があった。葉を全て落としていた枝々に純白の花が咲き、寂しげな景色の中美しい。あくまで枝にのった雪を比喩したのだけど、それは花が咲いていると言うのに相応しい姿だった。枯れ木に花が咲いた。お伽話を用いて言うならそんなところ。けれど、中庭の木々に咲いた花に心を向ける気はしなかった。窓越しから見た絵画のような冬の情景に私の姿を重ね合わせて、この目で冬を満喫していたのに。我が身で雪や冬を感じたら、それらが私を重ねられる存在ではないことに気が付き、ただの単調な白にしか見えなくなってしまった。遠くから眺める冬は私を魅了する美しさがあったけれど、今私の見ている冬は雪と白だけの世界だった。これが好きだと言う者もいるだろうけど、私の感性にとっては近くにある雪は所詮雪でしかないのだ。飽きたのでは無く、ただの違いと言った方が良いわ。
首に巻いたマフラーを右手で握り締めて、私は目指すところへ歩き続けた。サクサクと足音が鳴る。やがていくつもの花壇に囲まれたところの中心に、厚い雪を被った石碑があるのを見つけた。私の歩調は速まり、石碑は僅かに灰色の身体を雪の中から覗かせている。目指している物はもうすぐそこにあり、速足のせいか呼吸が震え、昇り立つ白い息の感覚は短くなって行った。
――――今日は咲夜の命日だった。
咲夜が亡くなった時は雪が降っていて、情景が今日と重なる。だから私にとって雪は、単に興味を魅かれるだけではない特別なモノだった。自分を重ねたのも雪に感慨を抱いたからだ。私は、現実とも向き合えている一方で咲夜を忘れることはなく、今は亡きその存在は心の支えになっている。咲夜が亡くなってから、何度目の冬を迎えたのかしら。残ったのは風化してしまった咲夜の生きた証しと、忘れることのない思い出だけ。咲夜の使っていた物はいつか形を失ってしまうけれど、記憶と言う名のフィルムは生きている限り、私の中で残り続けるから、咲夜と過ごした思い出の方が私には大切な宝物だった。
私は石碑の前で立ち止まって、息を整えると表面を覆う雪を払った。渇いた雪は、私の手に直に触れるとすぐに溶け出す。指先に絡み付く冷水はひたすら凍てついていて、手がかじかみ指先は痺れる程に痛い。手袋を用意しなかったのが悔やまれる。雪を被っていることくらい、良く考えれば分かったはずなのに。
「こんなに雪、被って……寒かったでしょう? 」
私の前に姿を晒した石碑の上には、咲夜の名が刻まれている。彼女が生きた印の年歴と共に。そこにあるのは咲夜の墓標。私が刻まれた『十六夜咲夜』の字を撫でると、咲夜に寄り添った最後の日のことが思い浮かび、切なさと懐かしさが込み上げて来た。私達が過ごした日々の中で、様々な意味で本当に忘れられない日だったから。
咲夜は、私や大勢の者達に看取られる中で息を引き取った。最後まで彼女は人間としての生き方を全うし、安らかな死に顔は、彼女の歩んだ人生の重みを物語っていた。私の前に横たわる咲夜は眠っているみたいで、死んだとは思えない穏やかさだったのを覚えている。私は確かに泣いたけど流した涙は私の悲哀の情から来たものでは無い。咲夜と言う最愛の人の為に流した涙だった。人の為に泣いたことなど初めてで、私はありがとう、と咲夜の手が冷たくなり始めても、必死に握り締めたまま何度も唱えた。魂は去ってしまっていたけど。
――――私の所にいてくれてありがとう、美味しい紅茶をありがとう、私を守ってくれてありがとう、私を愛してくれてありがとう――――
気恥かしさ故に言えなかったことが、その時は取り留めも無く心から溢れ出てしまった。寝る前の語らい、また二人だけの昼下がり、テラスで過ごすティータイムの時に、ちょっとしたことで互いに確かめ合うような甘くて純粋な愛情と、口には出せなくても常に心で囁いていた咲夜への感謝が。堰きを切ったように溢れる気持ちとは裏腹に、私が何度も言っても遺体は答えることはなく、私は感情を吐き出すことで喪失感と押し寄せる哀しみから乗り切ろうとした。私は混乱していた。吐き出す度に『ありがとう』の意味は薄れ、やがては喉の奥が言い様のない苦しさで締め付けられたのだから。やっと声が挙げられた時に、私は嗚咽を混じらせて啜り泣いた。咲夜は私に仕えることが一番の幸せだと言っていた。咲夜の幸せを思えば泣きたくないのに、咲夜はそんな私を許し、受け止めてくれると思えて、もう居ない筈の存在に私は縋った。
でも、思い出すのは悲しいことばかりでは無い。全てが哀しみだけだったら、私はいつまでも思い出として覚えていないだろう。
私がベッドに横たわる咲夜に、何かしてあげられることはない? と聞いたら咲夜は「大好きな私にそばに居て欲しい」と、真剣な顔で言ったのだ。死期が近づき、立つこともままならない程に年老いた咲夜の願いがそれだった。願いを叶えてあげようと思い立っての発言だったから、流石にその言葉は予想外だった。でも可笑しくて、ここまで愛してくれることが嬉しくて、咲夜も本心の中にもちょっとだけ冗談めかしたところもあったのだろう、私達は一緒になって笑ってしまった。
「本当に、可笑しな願いだったわね」
鈍感なのに、真っ直ぐで。あの時を思い出したら自然と笑みが零れて来る。思い出し笑いはいけないわね、パチェだったらきっと眉を寄せて私を見ているだろう。けれど笑みは止まらない。
幸せだった。私と咲夜の過ごした日々に対して自信を持ってそう言える。咲夜の微笑みが近くにあって、咲夜が居てくれた日々が。私は永遠に咲夜を愛している。咲夜に変わる存在などなく、思い返すだけで、すぐ近くに居てくれるみたいだった。鮮明に覚えているからだろう、記憶の中で再生される咲夜の声は、まるで私に語り掛けて来るかのようだった。私は周りの変化を望まない。思い出に縋っているのではなく、私に咲夜と過ごした時よりも幸せな時間がやって来るとは思えないのだ。だって、今まで生きて来た中で一番幸せな時だったのだから。
「あ、おはようございますお嬢様。やっぱり一番乗りされていましたか」
墓標を挟んだ向かい側から声がして、顔を上げると墓標の周りを囲む花壇の先に美鈴がいた。いつものチャイナドレスの上から丈の長い茶色いコートを羽織っただけの簡素な出で立ちは、見た目より寒さを凌ぐことに意味を置いているみたいで、互いの組み合わせは少々不均等に見えた。けれど、美鈴がコートを身に着けているのは新鮮で、髪も長いのだから、服を変えればコート自体は長身の美鈴に似合うだろう。
「咲夜の主人は私だもの。当然よ」
新しいコートを買ったのかと聞く前に、美鈴が腕に抱えた白い花束に目が止まる。辺りの様子も相まってか、始めは白百合かと見間違えした。
やがて、花弁の形が見えるようになった時に、それがようやく見たことのない花だと言うことに気が付かされる。思い込みとは面倒な物ね……雪の降る季節に百合が咲かないこと位、普通に考えれば分かるだろうに。そう思っても尚、私は美鈴の持つ花束を見続けていた。花は百合のように可憐ではない。けれど、花弁や細い茎、葉の持つ素朴で綺麗な姿は私を惹きつけ、故に儚い美しさを見た。私の冬に咲く花のイメージは、パンジーやビオラのように力強く地を這い咲く花や、草木のようなモノだっただけに、尚更心を動かされた気がする。花弁の色が雪と同じだなんて、枯れ木の雪桜より、よっぽど冬らしい。良い花を持って来たわね、いかにも律義な美鈴らしいと思った。
「きっと咲夜さんも喜んでますよ~。朝一番から大好きなお嬢様に逢えたんですから」
美鈴も墓標の前で立ち止まり、お互いが向き合った。本心から言ったことは、この子が浮かべる素直な微笑みから疑う余地は無い。私は美鈴の言葉を聞いて、咲夜に起こしてもらった時のことを思い出して、頬が熱くなった。好きだったんだなって。
「そうね、綺麗な花まで添えて貰ってるし」
頬の赤さを隠す為にぶっきらぼうに答える私を、美鈴は向かい側に立ったまま微笑んで見ていた。こっちには来ようともしない。私に遠慮しているのかしら? 主人を赤面させといて、いまさら余計な気遣いだけれど。私が眉を寄せて大仰に手招きすると、ようやく美鈴は私の気恥かしさとメッセージを察知したらしく、表情を苦笑いに変えて私の隣へと移る。美鈴の足取りは軽く、おかげで上気していた私の頬の熱も下がって行った。
水差しの水は凍ってしまい、花を立てられそうに無い。美鈴は私の横で屈むと、花を墓前にたむけた。
「な~む~」
墓は洋風の造りだったけれど、美鈴はお構いなしに手を合わせて拝む。私も美鈴に倣って咲夜の墓に向かい手を合わせた。花すら用意しなかった自分に出来る物はなんなのだろうと考えたら、私がすることは咲夜を弔うことしか浮かばないのだ。
「その花は? 」
私は祈り終えてからからしばらくして、呟くようにして訊いた。
「水仙と言う花です。雪や寒さに強くって……それでいて綺麗だから、咲夜さんのお墓参りに供えるのには良いかなって」
吸血鬼が清廉な花に感動するなど、普段ならとんだ笑い話になってしまうだろう。けど、その水仙の姿に、今の私は確かに心動かされていた。そして心動かされたことが花の持つ素晴らしさ故だと言うことも、知っている。まるで人生のように、儚く眩い光を帯びていた。もし私が人間で、この花と出会っていれば己の短い人生を、月より水仙のような儚い花に映していたのだろうか。
「ええ、すごく綺麗だわ……流石ね、美鈴。ところで花言葉は? 」
美鈴は私に褒められて嬉しかったのだろう、苦笑いを浮かべていた顔が輝いた。
「えっと……意味は確か……あ、自己愛です」
自己愛、か。儚くて美しい水仙に、この花言葉はあまりに不似合いだ。見た目通り花言葉も清廉な物かと思っていた。花言葉は由来あって付けられるのだろうけど、期待を裏切られたみたいで少し惜しい。
「意外ね。もっと……綺麗な言葉かと。でも、人間みたい。自分への愛だなんて、私には持ち合わせそうにないわね」
花言葉を付けるのは人間だ。それは、自分達で花に意味を持たようとする程、人が自然への強い感性を持ち合せているから。人間からの様々な恩恵を享受している私が花言葉を理解出来ないのも当然かも知れない。私に、自分にはない物に魅入ることは出来ても理解することは出来ないから、表面の美しさ以外に私が花から見るモノは無い。しかし、自分の中で自己愛に準じた感情が無いとは言い切れなかった。でなければ、私は自らの命を絶つことに躊躇をしないし、人間に恋したことを許さないだろうから。
「他人を愛してやまないのに、ですか? 」
私は美鈴に顔を向け見つめた。こんな時に限って美鈴は、私の気持ちを汲み取ったようなことを言う。生意気ね、てっきり内心を読み透かされているかと心配になったじゃない。私に見つめられた美鈴の視線がおどおどと泳ぐのを見て、すぐに杞憂だと分からなければ、私を驚かせたお灸を据えるところだった。美鈴も言葉が過ぎた意識はあったようだ。肩を縮ぢ込ませると耐え切れないとばかりに視線を落としてしまう。
「えぇ」
私に美鈴を責めるつもりはないけど。だって、咲夜の前で叱るなんて恰好が悪いじゃないの、折角だから今日くらいは勘弁してあげよう。私は美鈴の顔から目を逸らした。水仙の輝きのせいで、私はおかしくなっていたみたい。美鈴を許して、抵抗を感じながらも話し出そうとしている。相手の顔を見ていられなかった。
「……私はここの皆を愛しているつもり。紅魔館を統べる者だもの、全てを許容できなければならない。咲夜もパチェもフランも……愛しているし、代え難い存在よ。小悪魔だって、感心する時もある……頑張っているなって。もちろん貴女も、愛しているわ。ここまで付いて来てくれた大切な門番なのだから」
言い終えた後に、ようやく私は美鈴の顔を見ることが出来た。照れ笑いは浮かばない。皆への想いを口に出したのは久々だったけど、素直に言ったことで心を覆っていた恥ずかしさは晴れた。代わりに私の頬は緩んでいて、気分は温かだった。先程とは打って変わり美鈴は、照れ笑いを浮かべている。恥ずかしいのか、それとも嬉しさへの裏返しなのか。私にはどちらでも構わなかった。素直すぎた私の告白を美鈴が聞いてくれたのは事実だったのだから。
「えへへ……ありがとうございます。何だか照れちゃいますね~」
中庭に弾む美鈴の声は瑞々しい響き。その秀麗な顔が幸せそうに見えたのは気のせいではない。照れ笑いも、嬉しさの裏返しだったのだ。
「……でも、確かに水仙の花言葉は咲夜さんには似合いませんね」
美鈴は話し終えると、咲夜の墓標を眺めた。
咲夜の美鈴に対するプライベートでの接し方がどうだったかは知らない。けれど、二人にも当然上司と部下以上の感情もあったのだろう。咲夜に自己愛は似合わないと言えるのだから。
私が何となく美鈴を見ると、墓標を眺める美鈴の瞳はひたすらに穏やかで、咲夜との記憶を思い出すように遠くを眺めていた。美鈴の様子を一目見て彼女の咲夜との思い出が幸せだったのだと確信が持てる。咲夜は誰にでも優しくて、人情味のある一面を見せていたのね。咲夜の姿をまた一つ実感出来て、もっと知りたいと好奇心が生まれた。
「ねえ、美鈴。貴女は咲夜のことをどう思ってたの? 」
雪の上に腰を付き、私は美鈴に囁き掛ける。
「どう思ってたか、ですか? 」
美鈴にとって私の質問は唐突だったらしく、呆けた声で問い返して来た。
「そうよ。どんな気持ちを抱いてたのか、貴女を見ていたらちょっと気になってね。尊敬とか、恋心とか、親愛とか誰しも一つくらいは相手に感情を抱くじゃない」
「え、ええ?! こ、恋ですか?!」
別に美鈴をからかうつもりは無い。けれど、美鈴はどう言うことか顔を赤くして、恋と言う単語に対して反応を見せた。咲夜へ恋心を抱いていたのか、美鈴の反応を見たら私の中でそんな疑問が生まれ、私も追求しなければ良いのに美鈴のいじらしい様子を見ると、怪しい笑みを浮かべ美鈴に顔を近付ける。美鈴のいかに後悔した表情が、私の悪戯心を掻き立てた。
「あら、私は咲夜を愛していたし、恋もしてた」
別に美鈴が咲夜を好きだと言っても構わないのだ。私のニヤニヤ顔のせいでその真意が伝わるかどうかは分からないけど、真顔で言ったら勘違いさせて、尚更聞き出せなくなってしまうだろう。美鈴が私の咲夜へ対する恋心を知っているなら、私も美鈴に恋心があるかが知りたい。何より、ここまで美鈴と慣れ親しく話せる機会は珍しく、二人だけで会うなど一日にせいぜい数回で、今なら秘密の話しも出来る。自分の中だけの隠し事にしておきたいのなら、流石に私は諦めるつもりだけど。
「う、そりゃ……好きだな~って思っていましたけれど……」
美鈴は私に顔を近付けられたまま、瞳を横に逸らしてポツリと呟いた。やっぱり本音は好きだったんじゃない。面白くなってきた、まだまた弄り甲斐がありそうだ。私がそう思い、雪の上から腰を上げて、美鈴の前に出ようとしたら
「でも、やっぱり尊敬してました!! 」
突如美鈴は、両膝を手で叩き心を決めたと言わんばかりに大きな声を上げた。私には、美鈴の行動は予想外で、驚き仰け反ったせいか、不覚にも雪の上に尻から落ちてしまった。柔らかい雪のおかげで衝撃は無かったけど、私は大分美鈴の前で情けない格好を晒してしまう。自業自得の格好だ。
「咲夜さんはお嬢様と居る時が、一番楽しそうだったんですよね。私は咲夜さんに怒られてばっかりでしたし、やっぱり私よりお嬢様と咲夜さんの方が合っています。お嬢様の話題になるといつも以上に生き生きしてました。年をとっても変わらないモノって、あるんですね~……」
美鈴は認めていた。吸血鬼と人間、主人と従者と言う、想いが叶わないような私達の関係が一番似合っているんだって。美鈴がこんなことを言うのは初めてだった。私は咲夜に先立たれてしまったけれど、同じ時間を共に歩んで幸せな時間を過ごしたことは、思い出として残っている。だから私は未だに幸せなのだ。だって、記憶を思い起こすだけで実感が持てているのだから。
「だから……って、お嬢様?! 」
美鈴は一通り話し終えてから、ようやく私が雪の上に尻を付いていることに気が付いたみたいだ。美鈴が慌てて手を差し出したので、私はその手を取った。遅い、遅すぎる。この子が敏感に感じ取れるのは他人の恋心だけなのなら、門番失格ね。話に夢中になるより、私の変化に気が付くべき。
「よかった」
私は、態勢を立て直してスカートの尻の辺りに張り付く雪を払いながら呟いた。
「……ちょっと、話し過ぎましたね」
「いいえ、そんなことないわ。私が咲夜と出会い従えた責任、果せたのかしらって思ってた。あの子の運命を変えたのは絶対、私だから。咲夜はそれを知らなくて……知っていたとしても言わないでしょうけど。咲夜は私を愛し続けていて、責任うんぬんの前に、咲夜は私といるだけで幸せだったのね。貴女の話でそれが良く分かった。今更って感じだけど」
幸せだった証しが残るなら、私は何も言わない。なのに、美鈴は私の言葉を聞くと、寂しげな表情を浮かべる。
「……お嬢様は、咲夜さんをずっと愛し続けるのですか? 」
「えぇ。でもどうして? 」
「記憶も、残された遺品のように時間を経れば風化してしまいます。だから、お嬢様はこれからも続く永遠のような時間の中で、咲夜さんの記憶を守り続けられるのかなって……」
美鈴なりに心配、しているのかしら。愚問ね、そして稚拙な質問だ。記憶が風化するなど有り得ない。大切な記憶が風化するのは美鈴だからだ。私は貴女とは違う。そう思わなければ忘れてしまった、取り戻せない記憶の悔いを断ち切れないし、言い聞かせなければ本当に忘れてしまう。結局は自己暗示だった。
「馬鹿ね……。当たり前じゃない」
私は咲夜の墓標を撫でて呟く。冷たく、芯まで凍てついた石。これを咲夜とは重ねられないけど、生きた証しに触れれば私の中で咲夜の思い出は甦って来る。それに、記憶は守り続けられないとしても、咲夜の存在は守り続けられるだろう。だって、咲夜が愛した一番大切な所で、咲夜は生き続けて行くのだ。笑みが零れ、口元が歪んだ。
「――――咲夜は、私の中で生き続けるのよ。私は、これからもその咲夜を守って行くのだから」
そう、永遠に。
風が吹いて、私の新たにした決意に答えるかのように、水仙の花弁が揺れていた。
儚い白き花束 ――― End ―――
美鈴との会話や、その中でレミリアが言った『私の中で行き続ける』という言葉や心情など、とても良いお話でした。
脱字の報告です。
>自分達で花に意味を持たようとする程~
『持たせようとする程』かと。
切なくも決してネガティブではなく豊かに生きるレミリア達が目に浮かぶ様な素晴らしいお話でした。
やっぱ紅魔組は良いもんだなぁ。