昼下がりの命蓮寺。講堂にはひとつの影があった。
それは聖白蓮だ。
ただひとり、板張りの床に座りこんでいる彼女。
彼女は今、忙しなく腕を動かしている。その度に栗色の毛先が小さく揺れていた。
その背は何かを刻むように前後している。彼女は身体を倒す度に、ん、と小さく声を漏らしていた。
リズムを刻んでいるのだ。
そしてそのリズムは、時間が経つにつれて徐々に間隔を短くしていた。
リズムが乗ってきているのだ。
ん、と調子を付ける声が白蓮の喉から唸るように搾り出され、連続する。熱っぽい声が講堂に響いていた。
それに呼応するように彼女の頬は熱を持って赤くなっていた。聖の興奮が高まってきているのだ。手の動きが加速していく。リズムが早くなる。それが最高潮まで達したとき、
「――ああっ……!」
一際大きな声が、講堂にぶちまけられた。
それから、聖は力無く天井を見上げた。眉尻が下がったその目は、陶然と蕩けきっていた。煮だった頭を冷ますように、空気を求め、口を大きく開いて呼吸していた。聖は脱力して、心を落ち着かせようとしていた。
しばらくしたあと、聖は身体に力を戻した。彼女は再びその遊びに興じようとしているのだ。
これはもう半刻も続いていた。聖はそれだけの間、一人遊びに浸っていた。彼女以外には誰もいない講堂で、彼女は己を響かせていた。
□
「――」
その様子を、村紗水蜜は講堂の戸の影から眺めていた。
村紗は聖を止めねばならないと考えていた。一人遊びに溺れている聖は狂っていた。そんな聖の姿を他の誰にも見せてはならないと考えたのだ。しかし村紗の足は動かなかった。乱れている聖の様子に怖気づいてしまったのだ。だから、村紗は狂い続ける聖を見ていることしか出来なかった。
そこに雲居一輪が現れる。
彼女はこっそりと講堂を覗いている村紗を不審に思い、声を掛けようと口を開いた。
それを村紗は柄杓を口に突っ込むことで阻止した。それから、村紗は口の前人差し指を立てる。喋るな、というジェスチャーだ。一輪は柄杓を口に入れたまま、小さく頷いた。
村紗はそれを確認すると、口に手をあて、小さな声で言う。
「一輪。貴方はどんな聖の姿を見ても、聖に対する敬慕を失くしたりしない?」
それは、今の聖の姿を見ても失望しない覚悟があるのか、問うているのだ。同時に、一輪に対して警告を放っている。その先にある聖の姿は、一輪が幻滅してしまうような、見るのが憚れるような痴態なのだと。
一輪は考えた。けれどもその時間は長くなかった。答えを出すのに時間は掛からなかった。
一輪は口の柄杓を引き抜き、言う。
「私が信じた聖は、私に失意を与えるような行いはしない。だから私は聖を見ることに怯えを抱かないわ」
それから、一輪は微笑んでみせる。
「それが答えでは駄目かしら?」
その答えは一輪が聖に全幅の信頼を寄せているという意味だ。村紗は思う。最初から確認する必要もなかったのかもしれない、と。
村紗は小さく頷く。
そして、どうぞ、とでも言うように村紗は身体を引いた。一輪は村紗が居た場所に立つ。
見る。
視線の先は講堂の中央に向かう。
そこには床の上に端座し、一心不乱に手を動かしている聖の背が見えた。
彼女は前屈みになり、床に向かっていた。彼女が手を伸ばす先にあるものを、そして彼女が手にしているものを一輪は確認する。
それは、
「……と、トランプ?」
一輪は思わず尋ねた。
聖の前には、赤と黒の絵柄が描かれたトランプカードがいくつかの束になって並べられていたのだ。
答えるように、村紗はひとつ頷き、言い放つ。
「そう。あれは……ソリティア(一人遊び)よ」
聖はトランプ遊びのソリティアに興じていたのだった。
□
村紗は一輪が状況を飲み込むのを待って、解説を続けた。
「ソリティアは、トランプ遊びのひとつよ。ちなみにソリティアは本来一人遊びのことを指す語であって、聖のやっているトランプ遊びはクロンダイクと呼ばれるものよ」
村紗の説明に一輪は、はあ、と曖昧な答えを返した。一輪は最初の村紗の問いに身構えたが、結局のところ、聖がソリティア――クロンダイクをしていただけだった。
一輪が覗く講堂の中、聖白蓮はソリティアに熱中している。ひとりぽつんと部屋に座りこみ、やたら熱くなっているところを除けば極々普通の光景に見えた。聖が何かの遊びに熱中しているということもなかったから特別珍しく感じられるだけで、この光景におかしなところなど何一つないように感じられた。
だが、村紗は言う。
「判らない、一輪? 命蓮寺の長たる聖がたったひとりでトランプをしてるのよ? 暇潰しとしてソリティアをやってるのよ? ――まるで私達が聖を省いているみたいじゃない」
「それは意地悪な言い方をすると、世間体を気にしているわけか」
「いや、私が居た堪れない気持ちなだけ」
見ると、村紗は目の周りが赤かった。今にも泣き出しそうな顔をしているのだ。その村紗の表情からは、禿頭にカツラを被っている上司の、そのヅラが壮快にずれているのを見つけてしまったような状況であることが察せられた。彼女の心が、ヅラずれを報告することと危険を冒さず自らの保身に走ることの二択の上で彷徨っているのだ。
しかし、今回の場合で言えば解決法はひとつではない。第三第四の選択肢がある。例えば、
「だったら上申すればいいじゃない。一緒にトランプやりませんか、と」
「そんなこと言える訳ないでしょ」
村紗は否定する。ソリティアに熱中する聖の背中を手で示して、彼女は言う。
「あれはただのトランプ遊びの域を逸しているわ! タイムアタックしてるわよ!? ソリティアの道を究めんとする自己研鑽の領域よ!? そんなところに「あ、聖。トランプですか? だったら私と七並べしません?」とか空気読めてなくて呼吸困難に酸欠で倒れてしまうわ!」
村紗は叫んでいた。
弁の熱くなったことに気付いた村紗は、聖が自分達のことに気付いていないか確かめる。その聖は天井を眺め「また一分を切ってしまいました」と呟いていているので多分こちらに気付いていないのだろう。彼女は周りが気にならなくなるほどソリティアに集中しているらしかった。
そればかりか、聖は懐から巻物を取り出した。軸だけで、実体の無い光を中空に描き出すエア巻物だ。聖が扱うそのエア巻物の力は、身体強化である。そしてそれを行おうと、彼女はエア巻物を両手で掲げた。
「――超人『聖白蓮』」
言葉から生まれるのは高速の動き。聖の腕が残像を残しながら床の上に広げられたトランプを回収し、場に配り直すのに要した時間はまさに一瞬間だった。それによって風どころか衝撃波を撒き散らしているが、しかしトランプは確実にあるべき場所に、一定間隔を持って静置されていた。
一息吐く聖。
そして、聖はゲームの攻略に取り掛かった。
聖の腕がどのように動いているのか、一輪には全く視認出来なかった。
これは、攻略だけでなく高速運動によってカードを吹き飛ばしてしまわないように配慮しなければならない。己の動きに対応出来るだけの高速思考が出来なければ実現しないことだ。その難関を越えてこそ超人的なカード捌きが実現する。その事実を認識した一輪は舌を巻いた。聖のソリティアに対する技術と情熱は計り知れないものだった。そして、何がそこまで聖を駆り立てるのか判らない上に余りにも全力過ぎるので村紗が思わず「ノー! 聖、ノー!」と小さく悲鳴を上げているのが耳に残っていた。
失意しかけていた村紗だが、どうにか意識と視線を戻し、口を開いた。
「とにかく、私はどうすればいいか判らないの。右も左も判らない!」
村紗はヒステリック気味だった。狂気に迫る村紗の姿を見て、一輪は並々ならない危機感を覚えた。
「ま、まあ、とりあえず、止めさせればいいんでしょ? 人数集めて「大富豪やりません?」と声を掛ければ姐さんだって断らないわよ」
「大富豪なんて、難易度高いわ。あのね、よく考えてみてよ。実際に大富豪をやり始めたとして、急に「魔界ルール!」とか言われたら対応できないじゃない。それで、そんな地方ルールなんて知らないなんて切り捨てるわけにもいかないじゃない。それより前に、「大富豪? 大貧民なら知ってるけど?」って言われた時点で心折れる」
心弱いな、と一輪はひとりごちる。
とりあえず大富豪は敷居が高いらしい。だったら別の遊びにすればいいだろう、と一輪は言う。
「例えば、ババ抜きとかどう?」
「"ババ"抜きとか喧嘩売ってるようなものよ!?」
「何か今日テンションおかしいわ船長」
村紗は狂っていた。その村紗の異常は、穏やかな日常が今にも崩れようとしているその徴のようであり、一輪にとって脅迫めいたものがあった。一輪にも聖がソリティアをしていることがまるでいけないことのように感じられて、そのことに真面目に対処せねばならないと考えなければならないように感じた。
しかし、他に手頃なトランプ遊びなんてあっただろうか? 一輪は思う。
似たような理由で神経衰弱もアウトだろう。字面的に。それから、七並べはさっき否定が入った。少し幼稚なところがあるからだろうか。
他にもっと別な遊びでなければならない。何があっただろうか?
一輪が長考し、村紗が頭を抱えて苦難している。
そこに、別の声が入った。
「だったらトリックテイキングゲームなんてどうかな?」
二人は同時に、新しく現れた声の主を見た。
それは、ナズーリンだった。
ナズーリンは意気揚々と言葉を続ける。
「トリックテイキングゲームとは、トリックというミニゲームを手札が無くなるまで繰り返し、最後に総合成績を見て優秀だった者が勝者となるゲームでね。コントラクトブリッジ、ゴニンカン、ナポレオン、ハーツなどがそれに当たり……」
「村紗、面倒だから花札でいいんじゃないかな」
「ちょっと、聞いているか?」
「でもトランプやっているところに花札をいきなり提言するには厳しいような……」
「聞けよ人の話!」
「うるさいネズミ」
「なんだとぉ!?」
そこに騒ぎを聞きつけた雲山が現れる。淡い赤色の、幻影のような影を揺らしながら一輪に耳打ちする。
「ええと――ブラックジャック?」
「もしもそれやって、聖がディーラーを買って出たらどうするの。あの人そういう性格よ? あと他に用意しなくちゃならないものがあるだろうし。ここはカジノじゃないんですよ雲山」
「男ってのはどうしてこうも賭博好きなんだか……」
全否定を受けた雲山はその身を小さくしていた。
それから、ああでもないこうでもないと話している内に現れた人影がある。
寅丸星だ。
星は集まっている四人に向かって提案した。
「――スピードなんてどうですか?」
それに皆は、ああ、と頷いた。スピードという速度と反射神経を求められるゲームは、聖がソリティアに求めているものと合致しているように思えた。加えて参加する人数が少なくても成り立つし、ゲームルールもソリティアに近いところがある。星の提案は適切なように思われた。
だから、今度は聖にそれを提案しに行こうと、一輪は振り向いた。これで聖をひとりにしなくて済むのだと。
しかし一輪は予想外の影を見つけた。講堂の別の入り口から顔を覗かせている影だ。
それは、
「ぬえ……?」
封獣ぬえが居た。ぬえが聖の様子を窺っていたのだ。
ぬえは、超人ソリティアに没頭している聖に臆することなく近づいていった。その眼差しは好奇心に満ち溢れた子供のそれと、相手の様子を窺う小動物のそれとの相の子のようなものだった。
聖に何か話しかけようとタイミングを計っているのだと、その場に居た誰もが直感した。同時に、その口から放たれるようとしている言葉を思い、戦慄した。自分達の想像する失言の数々がまさに彼女の口から発せられるように思われ、今すぐにでもぬえを寺の外に突き飛ばしたくなるような衝動に駆られたが、しかし聖の前でそれは叶わないことだった。だから誰もが、頼むから余計なことは言わないでくれ、それだけを祈った。
ぬえが聖を眺めている時間は短くなかった。空気に耐えられなくなった村紗が「ノー! ぬえぬえ、ノー!」と小さく悲鳴を上げているのが耳に残った。
いつまで待ってもぬえは黙りこくったままだった。
だからとでも言うように聖は手を止め、ぬえに向いた。
「どうしましたか、ぬえ?」
ぬえはその言葉を聞いて、戸惑った。何か答えようとしてどもったようでもあった。それでも、はっきりと自分の意志を固めるように一度ぎゅっと目蓋を開閉し、聖の前に展開されたトランプを指差した。
「あのさ……聖も、ソリティアするんだ」
最初はたどたどしく、そして次第に口調に力が込められる。
「私も、ソリティアするんだ……」
その次の言葉は続かなかった。ぬえは躊躇っていた。相手の懐に飛び込んでいいものか計りかねているのだ。
ぬえが言わんとしていることはその場の誰もが予想できた。
戸惑っているぬえに、聖は優しく微笑む。聖はぬえの結論を待たなかった。
「だったらやって見せてくれませんか?」
「……え?」
ぬえは問い返す。それに対し、聖はさらに笑みを深めて、言った。
「ぬえがソリティアしているところ、私に見せてくれませんか? 私、他人がソリティアやっているところ、見たことないんですよ」
その言葉に、ぬえの顔は明るくなった。ぬえの言わんとする結論はつまりそれだったのだ。
聖がカードを集め、手渡したそれをぬえは慣れた手付きで床に配った。その様子を聖はにこにこしながら見ていた。しかしそれは消極的な雰囲気を持つものではなく、時にはカードの動かし方について意見するような積極的な立ち振る舞いだ。聖とぬえは、今まで誰にも明かすことのなかった己のソリティアに対する考え方について抑圧から放たれた思いをそのままに語り合っていたのだ。
そもそも、ソリティア――一人遊びというものは、ほとんどの場合他人に見せることはない。相手がいるのなら一人遊びをする必要がないからだ。そしてその事実は、ソリティアという趣味が決して他人と共有されるものではないということを意味している。故に一人遊びなのだ。
しかしここに、ソリティアがその垣根を越えて繋がった。煢独から解き放たれた彼女達は、ソリティアから離れることなく他人との対話という不足を満足させた。ソリティアがコミュニケーションツールとして発展した瞬間だった。
□
五人は何も言わず、ソリティアについて熱く議論を交わす二人を眺めていた。
ソリティアという孤独の趣味が、救われたのだ。その様子を見ていて、ナズーリンは思わず呟いた。
「何はともあれ、良かったな」
ナズーリンは感慨深い気持ちだった。ぬえが聖と打ち解けたようなのもそうだ。が、更に言うべきは、ソリティアが一人遊びのままに誰かと互いを認めあう遊びになった瞬間を目撃したことだった。
このとき、ソリティアのことを「一人遊び」と呼ぶには相応しくない。ならば一体どのように呼ぶのが正しいのだろう、とナズーリンは疑問に思った。
考えた末に「見せ合いっこ」という単語が浮かんできた頭を振った。それは何か響きが悪いと思った。
「さて」
ナズーリンは転換の言葉を放ち、踵を返した。
「もうあの二人はあのままにしておいていいだろう」
そう言って、場の解散を促し、自分も立ち去ろうとした。
しかし他の四人は講堂の中を覗き見たまま動こうとはしなかった。覗きなんて見苦しく浅ましいものだと、忠告しようと思ったが、皆は取り憑かれたように聖とぬえの姿に見入っていた。
これは何事か、ナズーリンが疑問に思ったとき、村紗は二人を凝視しながら、全体を代表するようにぽつりと呟いた。
「……羨ましいなあ」
□
それから、命蓮寺の様子は活発とは言えなかった。廊下を行き交ったり講堂に出てきたりしているのは、ほとんど聖とぬえとナズーリンだけで、他の者は自らの部屋に閉じこもったままだった。
違和感を覚えた聖は、ナズーリンに尋ねた。
「他の皆は、どうして部屋から出て来ようとしないんですか?」
それに対し、ナズーリンは少し悩みながらも、正直に答えた。
「皆どうにか一人遊びに習熟したいとのことで……。やり方とか、あとまあ、出来れば一分切れるほどに」
それは聖白蓮だ。
ただひとり、板張りの床に座りこんでいる彼女。
彼女は今、忙しなく腕を動かしている。その度に栗色の毛先が小さく揺れていた。
その背は何かを刻むように前後している。彼女は身体を倒す度に、ん、と小さく声を漏らしていた。
リズムを刻んでいるのだ。
そしてそのリズムは、時間が経つにつれて徐々に間隔を短くしていた。
リズムが乗ってきているのだ。
ん、と調子を付ける声が白蓮の喉から唸るように搾り出され、連続する。熱っぽい声が講堂に響いていた。
それに呼応するように彼女の頬は熱を持って赤くなっていた。聖の興奮が高まってきているのだ。手の動きが加速していく。リズムが早くなる。それが最高潮まで達したとき、
「――ああっ……!」
一際大きな声が、講堂にぶちまけられた。
それから、聖は力無く天井を見上げた。眉尻が下がったその目は、陶然と蕩けきっていた。煮だった頭を冷ますように、空気を求め、口を大きく開いて呼吸していた。聖は脱力して、心を落ち着かせようとしていた。
しばらくしたあと、聖は身体に力を戻した。彼女は再びその遊びに興じようとしているのだ。
これはもう半刻も続いていた。聖はそれだけの間、一人遊びに浸っていた。彼女以外には誰もいない講堂で、彼女は己を響かせていた。
□
「――」
その様子を、村紗水蜜は講堂の戸の影から眺めていた。
村紗は聖を止めねばならないと考えていた。一人遊びに溺れている聖は狂っていた。そんな聖の姿を他の誰にも見せてはならないと考えたのだ。しかし村紗の足は動かなかった。乱れている聖の様子に怖気づいてしまったのだ。だから、村紗は狂い続ける聖を見ていることしか出来なかった。
そこに雲居一輪が現れる。
彼女はこっそりと講堂を覗いている村紗を不審に思い、声を掛けようと口を開いた。
それを村紗は柄杓を口に突っ込むことで阻止した。それから、村紗は口の前人差し指を立てる。喋るな、というジェスチャーだ。一輪は柄杓を口に入れたまま、小さく頷いた。
村紗はそれを確認すると、口に手をあて、小さな声で言う。
「一輪。貴方はどんな聖の姿を見ても、聖に対する敬慕を失くしたりしない?」
それは、今の聖の姿を見ても失望しない覚悟があるのか、問うているのだ。同時に、一輪に対して警告を放っている。その先にある聖の姿は、一輪が幻滅してしまうような、見るのが憚れるような痴態なのだと。
一輪は考えた。けれどもその時間は長くなかった。答えを出すのに時間は掛からなかった。
一輪は口の柄杓を引き抜き、言う。
「私が信じた聖は、私に失意を与えるような行いはしない。だから私は聖を見ることに怯えを抱かないわ」
それから、一輪は微笑んでみせる。
「それが答えでは駄目かしら?」
その答えは一輪が聖に全幅の信頼を寄せているという意味だ。村紗は思う。最初から確認する必要もなかったのかもしれない、と。
村紗は小さく頷く。
そして、どうぞ、とでも言うように村紗は身体を引いた。一輪は村紗が居た場所に立つ。
見る。
視線の先は講堂の中央に向かう。
そこには床の上に端座し、一心不乱に手を動かしている聖の背が見えた。
彼女は前屈みになり、床に向かっていた。彼女が手を伸ばす先にあるものを、そして彼女が手にしているものを一輪は確認する。
それは、
「……と、トランプ?」
一輪は思わず尋ねた。
聖の前には、赤と黒の絵柄が描かれたトランプカードがいくつかの束になって並べられていたのだ。
答えるように、村紗はひとつ頷き、言い放つ。
「そう。あれは……ソリティア(一人遊び)よ」
聖はトランプ遊びのソリティアに興じていたのだった。
□
村紗は一輪が状況を飲み込むのを待って、解説を続けた。
「ソリティアは、トランプ遊びのひとつよ。ちなみにソリティアは本来一人遊びのことを指す語であって、聖のやっているトランプ遊びはクロンダイクと呼ばれるものよ」
村紗の説明に一輪は、はあ、と曖昧な答えを返した。一輪は最初の村紗の問いに身構えたが、結局のところ、聖がソリティア――クロンダイクをしていただけだった。
一輪が覗く講堂の中、聖白蓮はソリティアに熱中している。ひとりぽつんと部屋に座りこみ、やたら熱くなっているところを除けば極々普通の光景に見えた。聖が何かの遊びに熱中しているということもなかったから特別珍しく感じられるだけで、この光景におかしなところなど何一つないように感じられた。
だが、村紗は言う。
「判らない、一輪? 命蓮寺の長たる聖がたったひとりでトランプをしてるのよ? 暇潰しとしてソリティアをやってるのよ? ――まるで私達が聖を省いているみたいじゃない」
「それは意地悪な言い方をすると、世間体を気にしているわけか」
「いや、私が居た堪れない気持ちなだけ」
見ると、村紗は目の周りが赤かった。今にも泣き出しそうな顔をしているのだ。その村紗の表情からは、禿頭にカツラを被っている上司の、そのヅラが壮快にずれているのを見つけてしまったような状況であることが察せられた。彼女の心が、ヅラずれを報告することと危険を冒さず自らの保身に走ることの二択の上で彷徨っているのだ。
しかし、今回の場合で言えば解決法はひとつではない。第三第四の選択肢がある。例えば、
「だったら上申すればいいじゃない。一緒にトランプやりませんか、と」
「そんなこと言える訳ないでしょ」
村紗は否定する。ソリティアに熱中する聖の背中を手で示して、彼女は言う。
「あれはただのトランプ遊びの域を逸しているわ! タイムアタックしてるわよ!? ソリティアの道を究めんとする自己研鑽の領域よ!? そんなところに「あ、聖。トランプですか? だったら私と七並べしません?」とか空気読めてなくて呼吸困難に酸欠で倒れてしまうわ!」
村紗は叫んでいた。
弁の熱くなったことに気付いた村紗は、聖が自分達のことに気付いていないか確かめる。その聖は天井を眺め「また一分を切ってしまいました」と呟いていているので多分こちらに気付いていないのだろう。彼女は周りが気にならなくなるほどソリティアに集中しているらしかった。
そればかりか、聖は懐から巻物を取り出した。軸だけで、実体の無い光を中空に描き出すエア巻物だ。聖が扱うそのエア巻物の力は、身体強化である。そしてそれを行おうと、彼女はエア巻物を両手で掲げた。
「――超人『聖白蓮』」
言葉から生まれるのは高速の動き。聖の腕が残像を残しながら床の上に広げられたトランプを回収し、場に配り直すのに要した時間はまさに一瞬間だった。それによって風どころか衝撃波を撒き散らしているが、しかしトランプは確実にあるべき場所に、一定間隔を持って静置されていた。
一息吐く聖。
そして、聖はゲームの攻略に取り掛かった。
聖の腕がどのように動いているのか、一輪には全く視認出来なかった。
これは、攻略だけでなく高速運動によってカードを吹き飛ばしてしまわないように配慮しなければならない。己の動きに対応出来るだけの高速思考が出来なければ実現しないことだ。その難関を越えてこそ超人的なカード捌きが実現する。その事実を認識した一輪は舌を巻いた。聖のソリティアに対する技術と情熱は計り知れないものだった。そして、何がそこまで聖を駆り立てるのか判らない上に余りにも全力過ぎるので村紗が思わず「ノー! 聖、ノー!」と小さく悲鳴を上げているのが耳に残っていた。
失意しかけていた村紗だが、どうにか意識と視線を戻し、口を開いた。
「とにかく、私はどうすればいいか判らないの。右も左も判らない!」
村紗はヒステリック気味だった。狂気に迫る村紗の姿を見て、一輪は並々ならない危機感を覚えた。
「ま、まあ、とりあえず、止めさせればいいんでしょ? 人数集めて「大富豪やりません?」と声を掛ければ姐さんだって断らないわよ」
「大富豪なんて、難易度高いわ。あのね、よく考えてみてよ。実際に大富豪をやり始めたとして、急に「魔界ルール!」とか言われたら対応できないじゃない。それで、そんな地方ルールなんて知らないなんて切り捨てるわけにもいかないじゃない。それより前に、「大富豪? 大貧民なら知ってるけど?」って言われた時点で心折れる」
心弱いな、と一輪はひとりごちる。
とりあえず大富豪は敷居が高いらしい。だったら別の遊びにすればいいだろう、と一輪は言う。
「例えば、ババ抜きとかどう?」
「"ババ"抜きとか喧嘩売ってるようなものよ!?」
「何か今日テンションおかしいわ船長」
村紗は狂っていた。その村紗の異常は、穏やかな日常が今にも崩れようとしているその徴のようであり、一輪にとって脅迫めいたものがあった。一輪にも聖がソリティアをしていることがまるでいけないことのように感じられて、そのことに真面目に対処せねばならないと考えなければならないように感じた。
しかし、他に手頃なトランプ遊びなんてあっただろうか? 一輪は思う。
似たような理由で神経衰弱もアウトだろう。字面的に。それから、七並べはさっき否定が入った。少し幼稚なところがあるからだろうか。
他にもっと別な遊びでなければならない。何があっただろうか?
一輪が長考し、村紗が頭を抱えて苦難している。
そこに、別の声が入った。
「だったらトリックテイキングゲームなんてどうかな?」
二人は同時に、新しく現れた声の主を見た。
それは、ナズーリンだった。
ナズーリンは意気揚々と言葉を続ける。
「トリックテイキングゲームとは、トリックというミニゲームを手札が無くなるまで繰り返し、最後に総合成績を見て優秀だった者が勝者となるゲームでね。コントラクトブリッジ、ゴニンカン、ナポレオン、ハーツなどがそれに当たり……」
「村紗、面倒だから花札でいいんじゃないかな」
「ちょっと、聞いているか?」
「でもトランプやっているところに花札をいきなり提言するには厳しいような……」
「聞けよ人の話!」
「うるさいネズミ」
「なんだとぉ!?」
そこに騒ぎを聞きつけた雲山が現れる。淡い赤色の、幻影のような影を揺らしながら一輪に耳打ちする。
「ええと――ブラックジャック?」
「もしもそれやって、聖がディーラーを買って出たらどうするの。あの人そういう性格よ? あと他に用意しなくちゃならないものがあるだろうし。ここはカジノじゃないんですよ雲山」
「男ってのはどうしてこうも賭博好きなんだか……」
全否定を受けた雲山はその身を小さくしていた。
それから、ああでもないこうでもないと話している内に現れた人影がある。
寅丸星だ。
星は集まっている四人に向かって提案した。
「――スピードなんてどうですか?」
それに皆は、ああ、と頷いた。スピードという速度と反射神経を求められるゲームは、聖がソリティアに求めているものと合致しているように思えた。加えて参加する人数が少なくても成り立つし、ゲームルールもソリティアに近いところがある。星の提案は適切なように思われた。
だから、今度は聖にそれを提案しに行こうと、一輪は振り向いた。これで聖をひとりにしなくて済むのだと。
しかし一輪は予想外の影を見つけた。講堂の別の入り口から顔を覗かせている影だ。
それは、
「ぬえ……?」
封獣ぬえが居た。ぬえが聖の様子を窺っていたのだ。
ぬえは、超人ソリティアに没頭している聖に臆することなく近づいていった。その眼差しは好奇心に満ち溢れた子供のそれと、相手の様子を窺う小動物のそれとの相の子のようなものだった。
聖に何か話しかけようとタイミングを計っているのだと、その場に居た誰もが直感した。同時に、その口から放たれるようとしている言葉を思い、戦慄した。自分達の想像する失言の数々がまさに彼女の口から発せられるように思われ、今すぐにでもぬえを寺の外に突き飛ばしたくなるような衝動に駆られたが、しかし聖の前でそれは叶わないことだった。だから誰もが、頼むから余計なことは言わないでくれ、それだけを祈った。
ぬえが聖を眺めている時間は短くなかった。空気に耐えられなくなった村紗が「ノー! ぬえぬえ、ノー!」と小さく悲鳴を上げているのが耳に残った。
いつまで待ってもぬえは黙りこくったままだった。
だからとでも言うように聖は手を止め、ぬえに向いた。
「どうしましたか、ぬえ?」
ぬえはその言葉を聞いて、戸惑った。何か答えようとしてどもったようでもあった。それでも、はっきりと自分の意志を固めるように一度ぎゅっと目蓋を開閉し、聖の前に展開されたトランプを指差した。
「あのさ……聖も、ソリティアするんだ」
最初はたどたどしく、そして次第に口調に力が込められる。
「私も、ソリティアするんだ……」
その次の言葉は続かなかった。ぬえは躊躇っていた。相手の懐に飛び込んでいいものか計りかねているのだ。
ぬえが言わんとしていることはその場の誰もが予想できた。
戸惑っているぬえに、聖は優しく微笑む。聖はぬえの結論を待たなかった。
「だったらやって見せてくれませんか?」
「……え?」
ぬえは問い返す。それに対し、聖はさらに笑みを深めて、言った。
「ぬえがソリティアしているところ、私に見せてくれませんか? 私、他人がソリティアやっているところ、見たことないんですよ」
その言葉に、ぬえの顔は明るくなった。ぬえの言わんとする結論はつまりそれだったのだ。
聖がカードを集め、手渡したそれをぬえは慣れた手付きで床に配った。その様子を聖はにこにこしながら見ていた。しかしそれは消極的な雰囲気を持つものではなく、時にはカードの動かし方について意見するような積極的な立ち振る舞いだ。聖とぬえは、今まで誰にも明かすことのなかった己のソリティアに対する考え方について抑圧から放たれた思いをそのままに語り合っていたのだ。
そもそも、ソリティア――一人遊びというものは、ほとんどの場合他人に見せることはない。相手がいるのなら一人遊びをする必要がないからだ。そしてその事実は、ソリティアという趣味が決して他人と共有されるものではないということを意味している。故に一人遊びなのだ。
しかしここに、ソリティアがその垣根を越えて繋がった。煢独から解き放たれた彼女達は、ソリティアから離れることなく他人との対話という不足を満足させた。ソリティアがコミュニケーションツールとして発展した瞬間だった。
□
五人は何も言わず、ソリティアについて熱く議論を交わす二人を眺めていた。
ソリティアという孤独の趣味が、救われたのだ。その様子を見ていて、ナズーリンは思わず呟いた。
「何はともあれ、良かったな」
ナズーリンは感慨深い気持ちだった。ぬえが聖と打ち解けたようなのもそうだ。が、更に言うべきは、ソリティアが一人遊びのままに誰かと互いを認めあう遊びになった瞬間を目撃したことだった。
このとき、ソリティアのことを「一人遊び」と呼ぶには相応しくない。ならば一体どのように呼ぶのが正しいのだろう、とナズーリンは疑問に思った。
考えた末に「見せ合いっこ」という単語が浮かんできた頭を振った。それは何か響きが悪いと思った。
「さて」
ナズーリンは転換の言葉を放ち、踵を返した。
「もうあの二人はあのままにしておいていいだろう」
そう言って、場の解散を促し、自分も立ち去ろうとした。
しかし他の四人は講堂の中を覗き見たまま動こうとはしなかった。覗きなんて見苦しく浅ましいものだと、忠告しようと思ったが、皆は取り憑かれたように聖とぬえの姿に見入っていた。
これは何事か、ナズーリンが疑問に思ったとき、村紗は二人を凝視しながら、全体を代表するようにぽつりと呟いた。
「……羨ましいなあ」
□
それから、命蓮寺の様子は活発とは言えなかった。廊下を行き交ったり講堂に出てきたりしているのは、ほとんど聖とぬえとナズーリンだけで、他の者は自らの部屋に閉じこもったままだった。
違和感を覚えた聖は、ナズーリンに尋ねた。
「他の皆は、どうして部屋から出て来ようとしないんですか?」
それに対し、ナズーリンは少し悩みながらも、正直に答えた。
「皆どうにか一人遊びに習熟したいとのことで……。やり方とか、あとまあ、出来れば一分切れるほどに」
相変わらず誤解を恐れない人だなぁ。そこが好きなんですが。
そして相変わらずぬえ好きすぎだろ作者!
マインスイーパとかも人前ではやりませんしね
まじで解脱しそう
見せ合いっこじゃねーよwwwグレイズすぎるwww
ほのぼのとした中にほのかに感じる卑猥さがたまらん。
じゃねえよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ひじりんとぬえぬえの見せあいっこを第三者視点でじっくりねっとり観察したい