早朝。
慧音は咲夜の管理する焚き火の明かりと共に目覚めた。
「交代ね」
「……あぁ」
交代はおよそ三時間ごと、時間は太陽や月の位置から読み取る。
あの後、軽く話し合いをして色々なことがわかった。
慧音と同じく、咲夜が紫に連れて来られたこと。
自分が攻撃されたのは獲物だと勘違いしたこと。
この土地は小さな島になっていること(歩いて三時間で一周できたとのこと)。
昨日聞いたことはこれくらいだが、内容から察するに咲夜は自分より前にここに来たようだ。
起きたらそのことについても聞いてみよう。
波打ち際、ふっと空を見上げる。
まだ、下限の月がおぼろげながら見える。
腹が鳴った。
昨日の朝から何も食べていないことを思い出した。
(先に、空腹を満たす方法を聞かないとな)
孤島の月は沈み、太陽は東に現れる。
─────────
「残念だけど、私も来たのは昨日なのよ」
この一声で、再び慧音の腹は悲鳴を上げた。
「ここについてまず、土地を調べたわ。 それでどうやら孤島だということがわかったの。
食事は適当に木の実を取っただけよ」
「そ、それはどこに」
「さぁ? 適当に取ったから位置までは覚えてないわ」
愕然とした。
空腹が、こんなにも辛いものだと初めて知った。
自分は人間の里の飢饉を知った風に接していたが、それは上辺であったのだ。
知っているということと経験があるということは天と地ほどの差があるのだ。
「あ、でもほら、あそこにもあるわよ」
と、咲夜が指した場所は昨日、慧音が服を干した木であった。
まさに灯台下暗し。
二人はさっそく木の幹に近寄り、木の実を手に取る。
「見た目は、林檎のようだな」
一口、齧る。
とてつもなく味が薄く、すっぱかった。
しかし空腹と乾きは潤すことができたので、二人は黙々と果実を食べた。
慧音が三つ目に手を伸ばした時、咲夜は言った。
「人の育てる林檎は品種改良がされているため、美味しいと聞いていたけれど」
「あぁ、まさか野生の林檎がここまで不味いなんてな」
見た目だけは真っ赤に熟れている果実を、一口齧る。
やはり淡白、且つすっぱい。
すりつぶした林檎から甘さを取って青臭さをブレンドした感じ、と言えば少し伝わるだろうか。
「とにかく、何個か持って行きましょう、ないよりましよ」
協議の結果、二人は分担して島を探索することになった。
サクっと砂浜に棒を立て、倒れないよう固定する。
「これを目印にしましょう。 お粗末だけど」
「あぁ、どうやらここは島の東端のようだし、わかりやすい」
太陽の位置、星座などで方角はある程度把握できる。
この島が円形をしているなら、ここは東端であるはずだった。
「時間は今日の夕暮れあたり、私はまず北側に森を進んで、真ん中に行くから逆をお願い」
つまり、この地点を支点として慧音と咲夜で二等辺三角形を描くように移動するということだ。
これならばもし道中何かあっても途中で合流できる可能性がある。
「では」
「ああ」
二人は、歩を進めた。
─────────
(しかしまぁ、咲夜か)
妹紅や魔理沙ならばまた、全然違ったのだろう。
どうもこの組み合わせは、口数が少なくなる。
というよりも、咲夜自身紅魔館のメンバー以外にはあまり雄弁なほうではないだろう。
慧音も雄弁なほうではないので、自然と口数は減る……。
この探索の一番の目的は、水源の確保だ。
次点で拠点の確保、食料の確保に続く。
何をするにもまず水、そう昔読んだ書物にも書いてあった。
探検に限らず、人が生活するための最低条件は水なのだ。
現に、人間の最初に生まれた文化はどれも大きな川の周辺である。
(おや)
と、慧音は森の先を確認した。
少し開けているようである。
木々の開けたその先、そこには一面の湖が広がっていた。
(まず、飲めるかどうか、だな)
彼女がそう警戒したのは、知識ゆえである。
川ならば、いい。
それは常に流れており、常に新鮮な水が流れている。
しかし湖はどうだ?
可能性としては、死海。
地殻変動によって陸に閉じ込められた海水が、水の蒸発量が多いために塩分濃度が高くなった塩湖など……
湖に関しては、そこにあるだけで飲めるというものではないのだ。
(魚は、いるな)
遠目にも確認できるほど、魚影は確認できた。
これで死海の線は消えた。
では、次に綺麗な水かどうかである。
いくら魚が住んでいようとも、人間が飲めるに値するほどかどうかはわからない。
指を水につけ、舐める。
(味は、しない)
どうやら少なくとも腐った水ではないようだ。
ひとまずは安心できた。
水の確保、これができたことは大きい。
できれば拠点も、ここの近くに作りたい。
「ん?」
ふと背後に何かを感じた。
振り向くと、熊がいた。
「うぉぉぉぉ!」
瞬間、尻餅をついたことが功を奏した。
慧音の鼻先に爪が掠り、風が巻き起こる。
そのまま横っ飛びに地を蹴り、距離を取る。
しかし相手は息をつく暇を与えない。
四つん這いの体勢で狙いを定め、一気に突進。
辛うじて避けた慧音は、熊が木に突っ込む瞬間をみて愕然とした。
木が根こそぎ倒されたのである。
確かにこの辺りの木は細めだが、あんな突進を食らえばまず、死ぬ。
「じょ、冗談じゃない」
洒落になっていない。
熊が、ゆらりと慧音に狙いを定めるがごとく、振り向く。
「ゆ……」
慧音は、森を駆けた。
「紫のあほーーーー!」
─────────
通常、人が熊から走って逃げることはできない。
熊の時速は40~60kmと言われており、オリンピックの短距離走者が時速40kmほどだと言えばその早さがわかるだろう。
よって、熊に出会った時にもっともやってはいけないことは背を向けて逃げることなのである。
慧音はもちろんそれを知っていた。
しかし、熊一匹にも敵わないほど非力な現在、混乱した頭はそんなことを考えられない。
「……っ!」
追いつかれた。
背後に強烈な寒気を感じ、これ以上の逃亡は死だと感じ取った。
振り返ると既に、熊の手は右手横から迫っていた。
横なぎの裏拳、慧音は咄嗟に横に飛び、衝撃を緩和しようと試みた。
「がっ……!」
鈍い衝撃が横っ腹に食い込み、体が中に浮く。
まるで大きな槌で殴られたような、凄まじい衝撃が慧音の体を吹き飛ばす。
一転二転し、幹にぶつかって何とか静止した彼女は、もはや立てなかった。
(まず……い)
心のどこかで、油断があった。
ピンチになれば紫が助けてくれると。
しかし、紫が慧音や咲夜を監視しているというのはあくまで慧音の推測にすぎない。
もし、この瞬間紫が見ていなければ、自分はただ死ぬだけである。
動けという彼女の思いとは裏腹に、体は頑として動かなかった。
目の前の黒熊が突進の構えを取った時、慧音は覚悟した。
ゆっくりと目を閉じる。
こうすると不思議なことに、荒い息遣いも聞こえなくなり痛みも無くなった。
しかし、いつまで経っても走馬灯が浮かばない。
不思議に思い目を開けると、熊の耳殻に銀に煌くものが刺さっていた。
「グ……ガァ」
と、呻くように声を上げようとするが、白目をむき、足元がふらついている。
慧音がまさかと気づいたその時、藪の陰から一筋の影が差した。
「はぁぁぁぁぁ!」
熊のやや上空に飛び出したのはメイド服の瀟洒かつ完璧な影。
それは空中で体を捻ると、遠心力を使って回し蹴りを熊の後頭部に打ち込んだ。
ゴリっと鈍い音をたて、熊が倒れ始めてから地に着くまでの間、その頭から二本の刃が生えた。
「今日の夕食ね」
この騒動が無かったかのように、普段通りに振舞う咲夜。
それに対し、慧音はただ
「あ、ああ」
と答えるだけだった。
─────────
「つまり、水源は見つけたのね」
「あぁ、少し舐めてみたが、恐らく飲めるだろう」
「そうね、熊がいたということは、飲めるんでしょう」
野生の動物というものは、人間よりもこういうことに対して数倍数十倍も敏感である。
野生の動物が飲んでいる水は飲んでもほぼ大丈夫だし、逆の場合、まず飲まないほうがいい。
この点、そういうところは人間は進化の代償に退化していったといえよう。
さて、熊だが、さすがに女二人の力で熊を運ぶことはできないので、その場で解体をすることにした。
この点は咲夜は慣れているらしく、見惚れるほどの手さばきで熊の身を捌いていった。
「哺乳類の解体なんて、コツさえ掴めばどれも同じようなものよ」
咲夜はそう、血みどろになっている手を動かしながら言う。
ここで彼女があえて"哺乳類"と言ったあたり、普段何を解体しているのかが気になるところである。
慧音はそれが兎やももんじ(獣肉)であることを願った。
さて、解体した熊肉であるが、これを置く場所には困った。
とりあえずはと、熊の皮に包み湖に移動をした。
さて、湖畔をひとまずの拠点にするのはいい。
そうなると焚き火やらの準備がいるのだが、肉をここに置いていくことはできない。
しばらく悩んだ後、仕方なく一人が残り、一人が焚き木を拾ってくることとなった。
拾ってくることになった慧音は、再び森に入り、一人考えた。
(このままでは、駄目だ)
今回助かったことは、完全に運によるものだ。
次は無いと考えなければならない。
この未開の地。自分の身くらい自分で護らなければならないのだ。
慧音は焚き木を拾う傍ら、手ごろな棒を捜し求めた……
「おかえりなさい、準備はできているわ」
どうやら、咲夜も肉を監視できる範囲で色々と拾って回ったらしい。
後は火を焚くだけで肉が焼けるようセッティングされていた。
自然の中で自力で火を点ける、といえばまず大抵の方はキリモミ(錐揉み)式を思いつくだろう。
木の板の上に木の棒を押さえつけてくるくると回すあれである。
しかしそこは運と、慧音の知識がうまくあわさった。
それは燧石(ひうちいし)と呼ばれる。通称火打ち石。
それが偶々この島の海岸にはあったのだ。
昨日は気づかなかったが、今日、二手に分かれた直後に慧音が見つけた。
そのような事情で、火を点けることについては不自由しなかった。
火を焚き、肉を手ごろな枝に刺すと、熊肉の丸焼きの完成である。
辺りは既に暗くなりかかっている。
季節が夏ゆえ、昼が長いことは二人にとって大きなメリットだった。
焚き火の薪を節約できるし、なにより暗闇というものはそれだけで不自由なものだからだ。
「なぁ……少しいいか」
肉を頬張りながら慧音は切り出した。
とても、臭くて食べられたものではない。
加えて味がしなく、硬い。
それでも食べることができたのは空腹と選択肢のなさからであろう。
腹が減っては戦はできぬと言うが、慧音は既にそれを身にしみて経験していた。
咲夜は返事はせずに、何? といった顔をこちらに向けた。
「いや、ナイフを一本貸してくれないかと思ってな」
更に一口、齧る。
あぁ、と咲夜はどこから取り出したのか、ナイフを一本手渡してくれた。
「確かに、探索をするならこれくらいはいるわね」
「ありがとう。いやなに、これで槍でも作ろうかと思ってな」
と、慧音はさっき取ってきておいた焚き木にするには長すぎる棒を手に取る。
「ふーん、あなた槍なんて使えたの」
「いや……」
彼女は別段、槍術が使えるわけではない。
かといって咲夜のように体術に長けているわけでもなかった。
ならばと、リーチの長いほうが色々と役に立つだろうと思ったのだ。
「そういうことなら、こっちも持っておきなさい」
そう言う咲夜は、もう一本ナイフを取り出した。
「サバイバルの基本はナイフよ。槍もいいけど、持っておきなさい」
ここでようやく、咲夜が昔、このような生活を経験したことがあると気づいた。
彼女の経歴は不明だが、生まれついての紅魔館のメイドではないことは知っている。
仕える以前の時、彼女はどこかで普通の人間とは違う生活をしていたのだろう。
そもそも、そうでなければ紅魔館に近づくこともなかっただろうから。
「すまない、貰っておく」
「返してもらうけど」
「もちろんだ」
思い返せば、慧音は昔本で読んだことがあった。
サバイバルについて、だ。
それはサバイバルのというよりは、忍術書であった。
野山で一人、生き延びるための術がこと細かに書かれていたのを覚えている。
あれはなかなか興味深かったもので、もちろんナイフ(苦無)の扱い方や応用方も載っていた。
ナイフは何かを切るのはもちろんのこと、叩く、抜く、刺す、ぶら下げて重りにする、など色々と用途がある。
達人ならば、これ一つで一生を野山で生きることができるともいう。
「咲夜さん」
意外にも、名前を読んだのはこれが初めてである。
「いつ帰れるかはわからないが、これからよろしく頼む」
火の粉がパチパチと跳ねている。
焚き火は二人の顔をゆらゆらと照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
しばらく、差し出された手を眺めていた咲夜だが
「ええ、よろしく」
と微笑み、手を取った彼女は、慧音から見てもドキっとするほど美しく、焚き火の炎で揺らいでいた。
─────────
「はぁっ!」
咲夜の投げたナイフは猪の眼に突き刺さり、視力を奪い去る。
猪突猛進。
咲夜の二倍はあろうかという巨大な猪は一瞬怯みこそしたものの、なお突進することをやめない。
確かに、猪の直線の加速力は高い。
が、咲夜はその弱点を心得ていた。
体格に分相応な速度を出すあまり、将棋の香車のように直線にしか進めないのである。
咲夜は、横っ飛びで猪の巨漢を軽々と避けた。
直後、森に低く鈍重な呻き声が木霊した。
その落とし穴は巨大な猪よりもさらに巨大に掘られており、四肢を封じ込めた。
がさっ、と、もがく巨猪の真上から何かが飛び降りた。
槍を両手に抱え、全体重と重力による加速度全てを込めて猪の眉間目掛けて振り下ろす。
スローモーションに見える世界、ずぶずぶと矛先が眉間に吸い込まれていく。
やがて刃は頭蓋に達し、刃を押し返す反動が両手を襲う。
負けじと手に力を込め、渾身の力を振り絞って槍を押し返す。
「ぁぁああっ!」
ぐさり、という確かな手ごたえと共に、地面に着地する。
しばらくの呻きの後、猪の四肢は力なく垂れた。
槍を抜くため手をかけると、ひび割れた柄が根元から折れていた。
「やれやれ、作り直しだな」
「お疲れ様」
いつもと変わらぬ平静で、咲夜がねぎらいの声をかけてくる。
彼女は食事の時も、戦いの時も、同じ表情同じトーンで話すのだ。
瀟洒で完璧とは彼女のためにある言葉だと思った。
「じゃあ、さっそく解体して食事にしまっひゃぁ!」
突然、咲夜が飛び上がった。
飛び上がりつつナイフを投げているあたり、怖い。
慧音は今後何があっても彼女にだけは闇討ちせまいと誓った。
「はぁ……はぁ……」
息遣いの荒い彼女の視線の先、すなわち慧音の目の前の足元を見ると、そこには刺殺された蛇の死骸があった。
肉厚のナイフで頭を貫かれて即死である。
「…………」
「…………」
にやにやと微笑む慧音と、目を泳がせる咲夜の図。
「ひゃ……」
「あー! ほら、早く解体しないと! 肉が腐ってしまいますわよ!
ほら、慧音も手伝って下さいですね!」
意味ふーと思いつつ、仕方なく慧音は解体を手伝うことにした。
この時、既に島に来てからはや1週間が経過していた。
共同で生活するうち、二人は互いを呼び捨てで呼ぶことになった。
作業上そのほうが効率的ということももちろんあるし、親しみの点もあるだろう。
大きな収穫は二つ。
二日目時点でまだ探索していなかった島の西側を調べてみたところ、ある植物を見つけた。
慧音は初め、それを自然薯のようなものだと思ったが、どうやら形が違う。
頭の中の文献を検索していくと、それは馬鈴薯なるものに酷似していることがわかった。
調理法なども載っていたことを思い出し、さっそく咲夜にもそれを告げて調理した。
結論から言うと味は良好であり、なにより大量に自生していた。
先日の野生林檎の味をすっぽんとすると、この野生馬鈴薯の味はまさに月であり、その点慧音はとても気に入った。
もう一つはねぐらの確保。
最初湖畔で生活していた二人だが、これでは雨の日にどうしようもないということで、居住となりうる場所を探索した。
そしてこれも西側に見つかった。
丁度良い大きさの洞窟があり、中の先住民(蝙蝠)を追い払うとそこは雨露を凌ぐには十分な場所となった。
こうして、二人が完全に野生化していた折、事件は起きた。
「訂正しろ! 伊達や酔狂で教師をやっているわけではない!」
「詭弁ね」
「くっ……」
初めは、単なるすれ違いだった。
それが段々と言い争いに発展したのは、普段の彼女達ならばまずありえないことだろう。
いつになれば帰れるのかという不安や、慣れない生活によるストレス。
それが彼女達自身の気づかぬ間に蓄積していた。
人間好きで熱血屋の慧音。
人間嫌いで冷血屋の咲夜。
相反する二人は不思議とウマが合った。
むしろこうして言い争うことのほうが本来自然な形なのだが、それが不自然に見えるほどだった。
「もういい、それならば私はもう、お前の力は借りない!」
コト、とナイフを二本、洞窟の中に置く。
慧音はそう言い残したきり、洞窟を駆けて外に出た。
時刻は恐らく昼であろうが、辺りは曇っており、やや薄暗かった。
「…………」
咲夜はただ、洞窟の中で残されたナイフを二本、拾い上げて見つめていた。
─────────
(まずったか……)
昼に、あのような曇り方をしていた時点で気づくべきだった。
ぽつりぽつりと、小雨が振り出したのである。
心なしか風も強くなっている気がした。
島の西側、その北よりの場所には小高い丘がある。
そこに岩場があったのを思い出し、慧音は歩を進めた。
風が、どんどん強くなっている。
(これは、嵐か……!)
そう思った時には既に、辺りはほぼ何も見えなくなっていた。
吹き荒れる暴風と、暴雨により辺りが霞み、数m先も見えないひどい状況だった。
「この辺りの……くっ…………はずなんだがな」
いよいよ雨も強くなり、頬に目に雨粒が勢いよく打ちつける。
ひとまず、岩場にさえたどり着ければ風と雨が凌げる。
数時間も経てば嵐も止むだろう、その後のことはそれから考えればいい。
風に飛ばされそうになりながらも、慧音は丘を目指して歩いた。
もはや方角もわからない。
完全に当てずっぽうだった。
その時。
「────っ!!」
しまった!
そう思った瞬間、時既に遅し。
慧音の半身は既に落下を始めていた。
風と雨のせいで、ろくに前を向けなかった。
そのおかげで目の前の崖の存在に今の今まで気づかなかったのだ。
咄嗟に片手を伸ばし、岩を掴む。
「ぐ……づぅ……」
次の瞬間、全体重分の衝撃が右手に集中した。
腕が抜けるような反動。
それでも慧音は、渾身の力を必死に右手に集めた。
離せばまず助からない。
先日、この丘に登ったときに見たこの崖を覚えている。
断崖絶壁になっており、下まで数メートルではすまない高さだった。
なんとか、無事な左手で這い上がるべく岩を掴もうとする。
が、不幸なことに雨が岩を濡らし、岩に張り付いた藻類がいっそうとぬるぬるしていた。
これではなまじ掴めたとしても、体を這い上げるほどに力を与える支点にはならない。
徐々に、右手が痺れて感覚が薄れつつある。
この時慧音は、死の恐怖がなかった。
それよりもまず自分を悔いる気持ちでいっぱいだった。
下らない口論で飛び出した自分。
生き残る決心をしたにもかかわらず、無謀な行動をとった自分。
世話になった相手を罵倒し、挙句謝ることなく死んでしまう自分。
胸中には、後悔の念で溢れかえっていた。
(悔いが残る……)
右手の感覚が、とうとう無くなった。
(悔いが、残ったまま、私は死ぬのか!)
既知の間柄の、様々な顔が出ては消えていく。
先日は見れなかった走馬灯が、今はっきりと見えた。
それは、なんだこんなものかと言いたくなるような出来で、ほんの一瞬しか写らなかった。
そして、驚くことに、最後に写った相手は
「咲夜ぁぁ!!」
元々自分とは縁も紫も無い、十六夜咲夜の顔だった。
───慧音の指は、大地から解放され、空に舞った。
「まったく、世話がかかる人ね」
空に、カチューシャが飛び、崖の底に沈んでいった。
慧音の腕を掴むその手は暖かく、見下ろすその瞳はいつも通り冷たかった。
「さ、咲夜!」
「咲夜咲夜って、そう何度も連呼しないでくれる? 私はあなたの家来じゃないわ」
慧音はその冷たい瞳の奥に、本当の彼女がいることを知っていた。
この冷たさは彼女なりの照れ隠しなのだ。
そうでなければこの嵐の中、このように髪を、服をずぶ濡れにして来る道理がなかった。
「ちょっと待って、安心するのはまだ早いわ」
そう言う彼女の顔は、慧音が始めてみるほど焦っていた。
額に流れるその水滴は、雨ではない。
「こういう物語みたいなシーンに出くわせたのはいいんだけど、どうやらそうそう上手くはいかないみたい」
ずり、ずりと。
咲夜の体が、徐々に慧音の体を下におろしていく。
彼女を支える地が、都合の悪いことに粘土質だったのだ。
おまけに、辺りには掴めるものは何もなかった。
「慧音、お願いがあるわ」
「あ、あぁ、何だ」
あまりに、咲夜の顔が真剣になったため、慧音はそう言うしかなかった。
予感がした。
「おぜう様に、伝えてくれる? 咲夜は」
この時、慧音は嫌な予感が現実になったと確信した。
──最期までお仕えできませんでした、すみません って──
二人は、宙に浮いた。
咲夜は落ちる瞬間、逆に地を蹴った。
落ちるその反動で、慧音を崖に投げ返す。
まだ足りない。
咲夜は、いつもの如くどこからかナイフを二本取り出し、投擲した。
吹き荒れる嵐の中、それでもなお真っ直ぐに飛ぶナイフは、慧音の服だけを正確に貫いた。
それは壁に突き刺さり、慧音が重力により落下することを防ぐ杭となった。
(言ったでしょ、サバイバルの基本はナイフだって……)
そう、聞こえた気がした。
既に咲夜の姿は、霧の先に隠れて見えない。
「さ……く、や…………」
(まだ、謝っていない……私は謝っていないというのに!)
もはや、声もでなかった。
次の瞬間、どこからともなく飛来した石が頭を打ち、慧音の意識はそこで絶えた。
─────────
目が覚めると、そこは見覚えのある場所だった。
そして、咲夜がいた。
「さささ、咲夜!」
はしっと抱きつく。
もはや、恥もなにもない。
ただただ、彼女の無事が嬉しかった。
「ちょ、やめなさい、や、やめてってば」
口では嫌がる咲夜も、慧音は離さない。
そうこうしているとやがて、畳に襖だけというこの部屋に来客が現れた。
バンっと勢いよく襖が開かれ、プラカードをもった二名と鼻眼鏡が一名出迎えた。
「はい! ドッキリ大成功ー!」
フルボッコにした。
─────────
あれから十数日、再び満月の季節がきた。
寺小屋を休校にしたのが満月の次の日だから、ちょうど一ヶ月くらいだろうか。
私は、結局また寺小屋を再開することにした。
飢饉についてだが、これについて考えがあったからだ。
島で見つけた馬鈴薯、これを調査してみた。
改めて調べてみたところ、栄養が豊富であり、腹が膨れて味もよく、何より年に数回も収穫ができ、更に寒さに強い。
まさに飢饉のためにあると言っていい、これは天佑だと思った。
八雲紫に島まで送ってもらい、島の馬鈴薯をいくつか取ってきた。
その種芋を、寺小屋で子供達に配ったのだ。
育て方や毒の取り方、食べ方を教えると、里では瞬く間に馬鈴薯が流行した。
上記のような理想的な食物であることに加え、幻想郷の里の人間は珍しいものに対する受け入れが素直であることが理由だろう。
普段、人間の問題に干渉しないと決めていた私だが、今回の小旅行で気づかされたことがあった。
教育と同じく、食に関して、人間にとってはそれは非常に重要なものであるということだ。
これまでは妖怪の身であったため、気づかなかったことを多く気づかされた。
「しかし、あれだな」
今回の馬鈴薯のことといい、結果だけを見ればどうも、八雲紫の手の平の上で踊らされた気がする。
「事実、そうかもしれないわね」
今、私達は件の避暑地で茶を飲んでいる。
向かいに座るのは、十六夜咲夜。
あの一件以来、たまにこうして会っている。
「咲夜」
「ん?」
これだけは、言っておかなければいけない。
「あの時、私は酷い事を言ってしまった。 すまない」
それをずっと謝りたかったと、付け加えた。
「……」
咲夜はきょとんとしていたが、やがて目を細め、微笑んだ。
「お互い様、よ」
季節は移り、秋に入ろうとしていた。