それは夏も入ってしばらくの、特に蒸し暑い日であった。
「こんなものか……」
ここはこぢんまりとした小屋の中。
ちゃぶ台がある以外は何もない、シンプルな部屋。
畳に正座のスタイルで臨戦態勢に入ろうとしている者が一人。
「っと、どうも最近独り言が増えていけないな……」
彼女の名は上白沢慧音。
ここは彼女のひそかにお気に入りにしている避暑地である。
書物を読みふけるに丁度良い静かさと、涼しさをかねそろえている。
(しかし、家との往復だったから不安だったが、特に荒らされた様子もなかったのは意外だったかな)
この小屋と彼女の出会いは1週間前に遡る。
─────────
「えー! うそだろー!」
子供達のわめく声が教室内に響く、その原因は慧音の一言であった。
「静かに、とにかくこれは決定事項だ。 明日から寺小屋は無期限の長期休暇にする」
一方では勉強しなくてすむと喜び、また一方では格好の遊び場を失ったと悲嘆している。
もちろん、慧音とて意味もなく長期休暇にするわけではない。
「宿題はたんまり出すから、喜んでいいぞ」
ニヤっと口の端を吊り上げる慧音、ウワっと口の両端を引き下げる子供達。
再びザワつく教室内で、慧音は静かに子供達を見守っている。
今年はちょうど、人間の里が不作で貧していた年であった。
(数十年に一度と言われている今回の不作、これが何を意味するのか)
「まぁ、俺はどっちにしろ明日からこれねえよ。
いま家が大変でさ、今日だってこっそり抜け出してきたんだぜ? 帰るのが怖いよ」
「ふーん、大変なんだな」
寺小屋には様々な子供達がいる。自然、そこには貧富の差も存在する。
教室内ではそんなことはおかまいなしなのだが、現実は重くのしかかるものである。
言わずもがな、飢饉が起こるとまず困るのは貧しい家のものだ。
そうなると貧しい家の子は家の手伝いで学校に来ることが難しくなる。
よって授業に出ることができるのは裕福な者だけとなるのだが、それは慧音の望むところではないのである。
「はい、静かに! しばらくないんだから、今日はみっちり授業をするからな」
人間社会に数多くある問題のうち、慧音は教育に関しては独自の倫理観を持っていた。
曰く、こと勉学だけは平等に機会が与えられるべきである、とのこと。
幻想郷の里ではこのような考えは珍しく、事実慧音が寺小屋を開く前は教育というものは身分の高いものがするものであった。
今でもその慣習は根強く存在し、慧音の寺小屋には身分の高い家の子供はこない。
しかし、慧音の目的は教育の機会の均等化であるから、それはむしろ好都合だった。
「それでは今日はここまで。次の授業は……そうだな、吾郎に連絡しておくから各自そのつもりで」
はい、と少年が返事をすると、子供達は各自思い思いに散っていく。
ちなみに彼、家は裕福でも貧乏でもなく、家もちょうど里の中心あたりにあるのである。
そのため慧音は彼をよく連絡網代わりに使っていた。
「さて……」
これでひとまずは安心、と帰路につく。
帰ってからは普段の作業をこなし、寝るだけである。
次の日、慧音は居間で茶を啜りながら気づいてしまった。
「存外暇なもんだな……」
それもそのはず、このような本格的な長期休暇は初めてで、いつもは正月くらいしか長休みがないのである。
その正月もお馴染みのメンバーのおかげで暇はなく、今の今まで特に問題はなかった。
さて、読書以外に特に趣味もない彼女は困ってしまった。
(普段ならば読書をするのだろうが)
何故か、そんな気分ではなかった。
じっとしているのが逆におっくうであり、体が動くことを望んでいる。
こういう時、普段バリバリに頑張ってきた反動で休みたくなるものだが、幸か不幸か彼女は根っからの教師肌なのだ。
「んー……」
無意識に茶を啜ろうとして初めて、既に空になっていることに気づく。
(茶……茶葉……植物…………山菜)
「山菜狩り…………うん、それもいいか」
慧音は普段真面目であるが、一方で気分屋な所がある。
行動が早い彼女は準備もそこそこに大空へと舞ったのだった。
「これは……」
15023本目のワラビを摘んだ時、彼女はあるものを見つけた。
当時のワラビは語る。
「もう本当駄目だと思ったよ、仲間達がどんどん摘まれてね、次が僕だって時に助かったんだ」
見つけたものは小屋、しかしそれは小屋と呼ぶには荒れ果てすぎていた。
彼女がそれを辛うじて小屋だと認識できたのは、ひとえに森が抜けていたに過ぎない。
「ん、これは……猟師小屋かな」
腰まではあろう草むらを掻き分け小屋に辿り着く。戸口を外す。
中には草が無造作に生えており、文字通り藪から棒に薪から棒が突き出ていた。
恐らく昔は猟師達が冬篭りに使っていたのであろう、慧音はかつて鍋であったものを見つめつつそう思った。
特に珍しいものを見たわけでもない、彼女はそれきり小屋を出て帰ろうと思った。
しかしふと、彼女はここがどのあたりだか確かめたくなり、上空へと舞い上がった。
(……ここは風が心地良いな)
何とやらと煙は高い所が好きだと言ったものだが、なるほど高い所は人を魅了する。
そこは暑さを抜きにしても、ただそれだけで気持ちがいいものだった。
しばらく慧音は目を閉じ、もはやセミの鳴き声も聞こえない上空で、夏の吐息を感じていた。
おもわず寝てしまいたくなるような居心地の中、猛暑は彼女を現実へと引き戻した。
(ここは……そうか、なるほど)
改めて辺りをざっと見回すと、小屋の生い立ちの予想がついた。
この辺りは人里から少し離れているが、妖怪の山と別段近いわけではなかった。
以前までは。
最近の異変続きの混乱に乗じてか、妖怪の山は多少なりとも勢力を拡大していたようなのである。
それは非常にゆったりとした速度の拡大であったため、察しのいい人外以外は気づくこと自体稀だろう。
しかし人間にとって、生死の分かれ目となるラインが狭まることは文字通り死活問題である。
人間達はその僅かな領土拡大に反応し、小屋を手放さざるを得なかった。
(と、こんなところだろう)
つまり、この小屋は妖怪も人間もいない中立地帯なのだ。
人間が近寄ることはなく、妖怪がごくごく稀に現れる程度の場所。
幻想郷でもこのような地点は五指に満たないだろう。
そう思うと俄然、慧音はここが気に入ってしまった。
普段は我欲が少ないが、一度決めたことはそうそう変えないのが上白沢慧音である。
彼女はどうしてもこの小屋を直したくなった。
「ま、幸い時間はたっぷりとある」
こうなると全てが運命のように思えてくるから不思議なものである。
自分が休校を決めたのも、山菜を狩りに来たのも、全てはここを見つけるためだったような気がしてくる。
こうして彼女と小屋との、奇妙な日々が過ぎていった。
以下は慧音の日記から抜粋したもの。
一日目:今日は不思議な小屋に出会った。
私はこれを修復し、避暑地にしたいと思う。
自分でも変だとは思う……が、理屈ではないのだ。
そうしなければいけない気がするのだ。
不思議なもので、こんなことは初めてなのだがひどく懐かしい想いが湧き出る。
せっかくなので今日を一日目として修復日記をつけようと思う。
二日目:何はともあれ、草抜きだ。
人が入らなくなって少なくとも数年は経つだろう、ひどい有様だった。
まず小屋周辺を円形に大きく切り払い、草を抜いていく。
なんと今日はそれだけで終わってしまった。
少し几帳面にやりすぎたかもしれない。
効率を気にする気はないが、これではいつまで経っても完成しないだろう。
三日目:
草木の萌え、成長する速度というものには驚かされる。
今日は小屋の内部の掃除のはずだったが、夕方前に完了して出てみると雑草が大量に生えていた。
ある程度の草は許容するかないのだろうか……
四日目:小屋の内部が大分綺麗になった。明日には内装に取り掛かれるだろう。
私は妖怪だが、人間の里に住んでいるためか、いわゆる日曜大工ができる。
生活のために必要な技術だな。
まさか人間の大工に頼むわけにもいかないしというのもある(言えばしてくれるだろうが)。
食用品等の買出しとは違い、そこまでいくと"縁"が発生していまう。
私は寺小屋をやっているが、あくまで妖怪は妖怪だ。
人間と妖怪の差別はしない。が、区別というか、住み分けは必要なことだろう。
五日目:草対策に家畜でも飼おうと考えたが、やめた。
どこの世界に避暑地で家畜を飼う者がいるのだろうか、落ち着かない。
それはそうと、壁と地盤が完成した。
といっても木を切って貼り付けただけである。
専門的な知識はないので私にはこれが限界だ。
六日目:そろそろ完成だろうか。
今日は畳を敷いた。
すると俄然それっぽくなり、思わず頬が緩んだ。
草に関しては放置することにしよう。
自然にあるがままというのもまた一興。
……寺小屋が再開すると管理ができないからというのが本音だが。
七日目:ちゃぶ台を置いてみた。
本棚はいらないだろう。
その日に読みたい本を持って行き、持って帰ることでこと足りる。
別段遠いわけではないしな。
さて、とりあえずこれで完成ということにしておこう。
明日からはようやく目的のために使うこととする。
楽しみだ。
─────────
「こんなものか……」
ちゃぶ台がある以外は何もない、シンプルな部屋。
畳に正座のスタイルで臨戦態勢に入ろうとしている者が一人。
本の山を持ち込み、終日ここで過ごす準備は完了した。
「っと、どうも最近独り言が増えていけないな……」
(しかし、家との往復だったから不安だったが、特に荒らされた様子もなかったのは意外だったかな)
小屋が荒らされていない事実に、慧音は益々ここが気に入った。
それは妖怪や人はおろか、鳥獣や神出鬼没のいたずら小僧である妖精達でさえここには存在しないということを意味する。
読書が目的の避暑地、静かで涼しく目障りもないここは理想を絵に書いたような場所であった。
「…………ん?」
読書にも一区切りがついた場面、慧音は昼食にと持ってきた握り飯を取り出す。
"それ"に気づいたのはその時だった。
「…………」
自然と、体が硬直する。
生物の気配、それを感じた。
無論、いくらここでも小動物や虫の類は存在する。
しかし修復を開始してからこっち、中~大型生物と呼べるほどのものは見ていない。
そして加え、ある決定的な一点が今回の気配に対し彼女を警戒させた。
気配が一瞬で消えたのである。
(よほどの手錬れか……)
野生動物の場合、このようなことはあり得ない。
正座の姿勢のまま、目を閉じる。
そして心の眼で部屋を観察するよう努めた。
空気が張り詰め、弛緩する。
やがて蝉の声は遠ざかり、彼女は部屋と混ざり合って一体化する。
上白沢慧音それ自体が部屋であった。
(くるなら、こい)
正座の姿勢のまま、植物よりも更に気配を薄くした慧音に"それ"は突然牙を向いた。
「そこ!」
彼女が気づいた時、既に自身の手は何かを掴んでいた。
「っ───!」
それは腕だった。
「ちょ、うわ、何だ」
"それ"の腕は空中から生えていた。
慧音に掴まれ一瞬震えたその腕は、しかしすぐに彼女の腕を掴み返した。
腕のつけねあたりから徐々に広がっていく亜空間のひずみ。
飲み込まれる慧音はただ、それを眺めることしかできなかった。
─────────
「で、話はそれだけか」
むくれた慧音に、"それ"こと八雲紫は微笑みで返事をした。
何のことはない、さっきはいきなりのことに平静を失ったが、よく考えればわかるものだ。
こんなことをするのも、できるのも幻想郷には一人しかいないのである。
「あー……その、なんだ…………帰っていいか?」
呆れ半分、苛立ち半分という感じで紫を睨む慧音に、紫は言った。
「あら、せっかく来たんだし練習の成果だけでも見ていってくれないかしら」
はぁ、と慧音がため息をつくのも仕方が無い。
つまりはこういうことだ。
「最近ね、そりゃもう暇で暇で、何か面白いことを起こそうかと思ったのよねぇ。
でもまぁ、あんまり大ごとにすると霊夢も黙っていないし、それはそれで面白いんだけど、何かそういう気分じゃないのよ。
そこである企画をしてみようと思ったの。それにあなたは偶然選ばれたわけね、これで」
と、【ゆかりん特性乱数発生器】 通称あみだくじを慧音に手渡した。
もちろん破る。
「あぁ! 何するのよ! 幻想郷の知り合い全員の名前書くのに丸一日かかったのにぃ……。
まぁ、いいわ、とにかくそういうことだから大人しく招待されてね」
とここまでが概要。
そして本題にはいるべく、紫は慧音を今いるのとは別の部屋に案内した。
慧音はというと、ぶっちゃけ帰りたかったが、何となく言い出せないでいた。
これは彼女自身気づいていないことなのだが、案外流されやすい性格なのである。
(しかし、来るのは初めてだが、不思議なところだな)
昼飯時に無理やり連れて来られた慧音だが、それはそれとして彼女は単純に好奇心に心動かされた。
噂では結界の狭間にあると言われていた八雲紫の住居。
恐らくここがそれなのだろうが、真偽は不明だ。
まずここには窓や、外が見える場所がない。
そしてさきほどの部屋には襖があったのだが、その襖の先にはまた同じような部屋が繋がっていただけであった。
そうして連続した和室を抜けていくうち、広い場所へと出た。
なんとも形容し難い、不思議な空間である。
「こほん、では……」
紫のはひとつ咳払いをし、指を鳴らした。
……しかし何も起こらない。
次の瞬間、拳が骨に食い込むような鈍重な音が聞こえた気がした。
慧音の本能はそれを気のせいだと決めた。
改めて紫は指を鳴らす。
ふっと、周囲を照らしていた蝋燭が消えて辺りが完全な闇に包まれる。
「や、八雲商店街ぃぃぃぃ!」
「だ、大抽選大会ぃー!」
スポットライトが付き、ばばぁーんという効果音とともに颯爽と登場をする狐と猫。
次の瞬間、拳が内臓に食い込むような鈍重な音が聞こえた気がした。
慧音の本能はそれを気のせいだと決めた。
「う……ぐぅ……さあ今年もやってまいりました年に一度の大抽選大会!」
「…………ごぅ……豪華景品を手にするのは誰かぁ」
大売出しと印刷されたハッピ姿に何故かマイクで叫ぶ二人。非常にうるさい。
「……こんなことを毎年やっているのか」
「ふふ」
紫は答えない。
満面の笑みがとても怖かった。
かわりに営業売り出し部長こと藍が大声で叫ぶ。
「さ・て! 今回幸運にもガラガラのチケットを手に入れた慧音さん! まずは感想をどうぞ!」
ずずい、とマイクを向けられる慧音。
「…………………………は?」
としか言えない。
「え、えっとですね、毎年あみだくじで選ばれた人はここでガラガラをするんです……」
営業売り出し係長こと橙が小声で囁く。
「ガラガラというのはあれか、商店街でよくやっている」
「「オフコース!」」
笑顔で答える二人。
息遣いが荒く、脂汗を流しながら腹をさすっている気もするが恐らく気のせいだろう。
「まぁまぁ、犬に噛まれたとでも思って諦めなさいな」
(どこの世界に一人だけやらせる抽選があるのだろうか。
というか景品が不明ってのがまた……
しかし、やらなければ帰れないだろう……
逃げられないだろうし、なまじ逃げられても連れ戻される。
まったく、スキマ妖怪なんて誰が作ったんだろう)
やがて、慧音は考えるのをやめた。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
ぐーるぐるとガラガラを回す。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
直ぐに終わらせるのもなんだかシャクなので、更にガラガラを回す速度をあげる。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
段々面白くなってきた。
親の敵の如く回す。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
「せぇい!」
ここで急にガッっと止める。
慣性の法則に従い、一つの玉が勢いよく飛び出した。
からんからんと、転がる玉の色は…………紫。
「で、でたぁー!」
「紫色は紫賞! つまり特等でーす!」
どんどんパフパフと、どこから出してきたのか騒ぎ出す式神達。
「おめでとう、特等よ」
掌を合わせて笑みを送る紫。
特等が逆に怖い慧音。
慧音は景品が一体何なのかをそろそろ教えてもらおうと思った。
そしてその瞬間、ガラガラに一筋の亀裂が走った。
【ガラガラ司令部】
「隊長! もうもちません!」
「ちぃ……第三障壁を切り離せ! すぐにだ」
「駄目です! 制御不能! 原因は先ほどの高速回転だと思われます」
「く……玉と玉がぶつかり合うガラガラ内、あれほどの早さで回されると崩壊は自明の理であったのだ……
上層部はそんなこともわからなかったのか……っ!」
「崩壊します! 総員退避! 総員退避!」
それは例えるなら、道で糞を踏んだときの喪失感に似ている。
やってしまったとか、めんどくせえとか、そんな感じである。
その瞬間は臭いだとかそういう感情はわかない。
ガラガラの中身は次々と床に跳ね、思い思いに転がっていく。
四人はただそれを、呆然と見守るしかなかった。
流れ行く玉を眺めた後、慧音はゆっくりと紫に向き直り、半笑いのまま白い目を向けた。
もちろん原因は中身の玉全てが紫色であった事だ。
「あはは……」
「えーっと……」
「あははは…………」
まるでガンをたれるチンピラのごとく、紫に熱い視線を送ってあげた。
「はい! 特等は南国バカンスの旅~! 用意はできてる? できてるわね!
いってらっしゃーい!」
「うわっ」
と言う暇もない。慧音は瞬く間に闇に呑まれた。
水中にいるような奇妙な浮遊感を一瞬感じたが、その浮遊感もすぐに消えた。
気づくと、そこは見たこともない光景が広がっていた。
─────────
ちゃぷ、と指を水面に浸して口に運ぶ。
「しょっぱい……な」
やはり、目の前のこれは海のようだった。
文献で知ってたいたものの、見るのは初めてである。
(しかし、これはなかなか……)
見れば見るほど、言葉にならない。
雄大、という言葉はこれのためにあるのだと思った。
海というものは人を魅了すると言われているがなるほど、それも不思議ではない。
幻想郷に海がないことが教育者としても、いち個人としても非常に残念に思えた。
いま、慧音の足元には俗に言う砂浜が広がっている。
彼女はもちろんそれを知識で知っていたし、砂を見るのが始めてではない。
彼女はこの時、単に好奇心からこの地の詳細を知りたいと思った。
「どれ」
と、力強くジャンプした彼女はそのまま力強く顔面から波に突っ込んだ。
こう書けば彼女がただの阿呆のように見えるかもしれないが、事情がある。
というよりも、一番驚いたのは彼女だった。
「ぶっはぁ!」
飛べない。
その言葉が脳内を駆け巡っていた。
もちろん、焦る。
スペルカードを取り出す…………が、不発。
妹紅にすら教えていない白沢の秘術を試す…………が、不発。
彼女は、この瞬間人に成り下がったといえよう。
紫の話からするに、すぐに帰れるというわけではなさそうだ。
この未知の地、何も知らずに放り出された彼女は、ただ我武者羅にその日を生き抜かなければいけない。
今、彼女にある武器は知識と、常人より少し劣る体力のみであった。
─────────
「ふぇ……」
と、出そうになってからクシャミが止まった。非常に気持ち悪い。
そう思い一瞬気を抜くと三回連続でクシャミが出た。
失敗だった。
妖怪だから風邪をひかないとタカをくくったのがそもそも甘かった。
どうやらこの土地は、妖怪としての特性全てを無効果してしまうらしい。
"この土地は"と彼女が思ったのはその奇妙な感覚によるものである。
どうも足元、というより地下のあたりから、むずがゆいような感覚がするのだ。
それは徐々に力が抜き取られている感じ、ちょうど注射器で血を抜かれる時の感覚に似ている。
とにかく、服が濡れているのはまずい。
そう思い服を脱ぎ始めた。
手ごろな枝を探し、服をかける。
ちなみにこの土地、彼女が着いた海岸の真逆には森が広がっている。
海岸沿いの、日当たりの良い場所を選んで服をかけた。
慧音はその下に腰を下ろし、膝を曲げて顎を乗せる。
いわゆる体育座りである。
(ここは、どこだろうか)
とか
(帰ることができるだろうか)
など、普通ならばそういうことを考えるだろう。
しかし彼女は(もちろんそういうことも考えていたのだが)まず
(寺小屋どうしよう)
とか
(腹が減ったな)
などということが頭に浮かんだ。
何しろ妖怪の身でありながら好き好んで人間に物を教えているような彼女のことだ。
どんな状況でも、教育のことと生理現象のことぐらいにしか頓着しない。
さて、腹といえばと慧音はあることを思い出した。
何事もなければ今頃彼女は昼食の最中のはずである。
そうなっていない原因はもちろん八雲紫。
そう思うと俄然、憤りを覚えた。
(いかに私が暇でも、スキマ妖怪の酔狂になどにいちいち付き合ってられるか)
しかしここでふと、気付く。
酔狂であるからには、やはり紫は今もどこかで自分を観察しているのだろうか。
そして挙句に倒れでもすれば、彼女とて幻想郷には帰すだろう。
そうなるとこれ幸いに彼女はそれをネタに話を言いふらすに違いない。
(上等だ。 ならば期待の逆をいってやろうじゃないか)
真面目、と言えば聞こえはいいだろう。慧音は根が単純なのである。
こうなればテコでも動かない。
この未知の土地、絶対に行き倒れになどはならない、と決心した。
─────────
目が覚めたのは偶然か、空腹によるものか。
とにかく、ここで慧音が目を覚ましたことは彼女にとって僥倖であったと言える。
【殺気】
それが全身を支配し、理屈ではなく先に体が反応した。
彼女は両手両足でダンと地を打ち、横っ飛びに身を転がした。
それまで寝ていた砂地にサクっと何かが突き刺さる音がする。
そのまま地面に這いつくばると、周囲の気配を探ることに努めた。
(何なんだ一体……)
目が覚めて早々、事態を飲み込むことを強要された。
仕方なくそれに従う。
辺りは真っ暗である。雲に隠れているのか、月光も届かない。
(襲われた。それは確実……何故? ……わからない)
とにかく、無駄な体力の消耗は慧音の望むところではない。
相手が言葉の通じる相手ならば極力戦闘は避けるべきである。
「誰だ!」
と叫び、大きな円を描くように砂浜を移動する。
声を頼りに敵が攻撃することを避けるためだ。
移動中、我ながら阿呆な質問だと思った。
しかし彼女の狙いは誰だと知ることではなく、言葉が通じるかどうかを反応で見極めることだった。
「っ…………」
微かに、それは本当に微かに聞こえた。
よほど注意しなければ聞き落としていたかもしれない。
一瞬のためらい、それによる衣擦れの音がはっきりと聞こえたのだ。
(相手は、人間……もしくはそれに準ずる、少なくとも言葉の通じる相手!)
ならば、することは一つである。
「私は上白沢慧音というものだ! ここの土地のものか?
勝手に入ったことを怒っているならば謝る。 しかしこちらに交戦の意思はない!
繰り返す! こちらに交戦の意思はない!」
再び、つつと移動する。
敵は、まだ動かない。
時間にすれば数秒、しかし慧音には数時間にも思える沈黙の後、敵の気配は移動を開始した。
やがて、気配の主は音も無く慧音の前に姿を現す。
闇につつまれ、相手の形は見えない。
漆黒の中、海岸で二人は対峙する。
時は流れ、風が吹き、雲は移る。
月光が徐々に、相手の顔を、体を照らし出す。
「まさか……」
目の前の者を、慧音は知っている。
「こんなところで何をしているのかしら?」
「それは、こっちのセリフだ……」
「十六夜咲夜」
「こんなものか……」
ここはこぢんまりとした小屋の中。
ちゃぶ台がある以外は何もない、シンプルな部屋。
畳に正座のスタイルで臨戦態勢に入ろうとしている者が一人。
「っと、どうも最近独り言が増えていけないな……」
彼女の名は上白沢慧音。
ここは彼女のひそかにお気に入りにしている避暑地である。
書物を読みふけるに丁度良い静かさと、涼しさをかねそろえている。
(しかし、家との往復だったから不安だったが、特に荒らされた様子もなかったのは意外だったかな)
この小屋と彼女の出会いは1週間前に遡る。
─────────
「えー! うそだろー!」
子供達のわめく声が教室内に響く、その原因は慧音の一言であった。
「静かに、とにかくこれは決定事項だ。 明日から寺小屋は無期限の長期休暇にする」
一方では勉強しなくてすむと喜び、また一方では格好の遊び場を失ったと悲嘆している。
もちろん、慧音とて意味もなく長期休暇にするわけではない。
「宿題はたんまり出すから、喜んでいいぞ」
ニヤっと口の端を吊り上げる慧音、ウワっと口の両端を引き下げる子供達。
再びザワつく教室内で、慧音は静かに子供達を見守っている。
今年はちょうど、人間の里が不作で貧していた年であった。
(数十年に一度と言われている今回の不作、これが何を意味するのか)
「まぁ、俺はどっちにしろ明日からこれねえよ。
いま家が大変でさ、今日だってこっそり抜け出してきたんだぜ? 帰るのが怖いよ」
「ふーん、大変なんだな」
寺小屋には様々な子供達がいる。自然、そこには貧富の差も存在する。
教室内ではそんなことはおかまいなしなのだが、現実は重くのしかかるものである。
言わずもがな、飢饉が起こるとまず困るのは貧しい家のものだ。
そうなると貧しい家の子は家の手伝いで学校に来ることが難しくなる。
よって授業に出ることができるのは裕福な者だけとなるのだが、それは慧音の望むところではないのである。
「はい、静かに! しばらくないんだから、今日はみっちり授業をするからな」
人間社会に数多くある問題のうち、慧音は教育に関しては独自の倫理観を持っていた。
曰く、こと勉学だけは平等に機会が与えられるべきである、とのこと。
幻想郷の里ではこのような考えは珍しく、事実慧音が寺小屋を開く前は教育というものは身分の高いものがするものであった。
今でもその慣習は根強く存在し、慧音の寺小屋には身分の高い家の子供はこない。
しかし、慧音の目的は教育の機会の均等化であるから、それはむしろ好都合だった。
「それでは今日はここまで。次の授業は……そうだな、吾郎に連絡しておくから各自そのつもりで」
はい、と少年が返事をすると、子供達は各自思い思いに散っていく。
ちなみに彼、家は裕福でも貧乏でもなく、家もちょうど里の中心あたりにあるのである。
そのため慧音は彼をよく連絡網代わりに使っていた。
「さて……」
これでひとまずは安心、と帰路につく。
帰ってからは普段の作業をこなし、寝るだけである。
次の日、慧音は居間で茶を啜りながら気づいてしまった。
「存外暇なもんだな……」
それもそのはず、このような本格的な長期休暇は初めてで、いつもは正月くらいしか長休みがないのである。
その正月もお馴染みのメンバーのおかげで暇はなく、今の今まで特に問題はなかった。
さて、読書以外に特に趣味もない彼女は困ってしまった。
(普段ならば読書をするのだろうが)
何故か、そんな気分ではなかった。
じっとしているのが逆におっくうであり、体が動くことを望んでいる。
こういう時、普段バリバリに頑張ってきた反動で休みたくなるものだが、幸か不幸か彼女は根っからの教師肌なのだ。
「んー……」
無意識に茶を啜ろうとして初めて、既に空になっていることに気づく。
(茶……茶葉……植物…………山菜)
「山菜狩り…………うん、それもいいか」
慧音は普段真面目であるが、一方で気分屋な所がある。
行動が早い彼女は準備もそこそこに大空へと舞ったのだった。
「これは……」
15023本目のワラビを摘んだ時、彼女はあるものを見つけた。
当時のワラビは語る。
「もう本当駄目だと思ったよ、仲間達がどんどん摘まれてね、次が僕だって時に助かったんだ」
見つけたものは小屋、しかしそれは小屋と呼ぶには荒れ果てすぎていた。
彼女がそれを辛うじて小屋だと認識できたのは、ひとえに森が抜けていたに過ぎない。
「ん、これは……猟師小屋かな」
腰まではあろう草むらを掻き分け小屋に辿り着く。戸口を外す。
中には草が無造作に生えており、文字通り藪から棒に薪から棒が突き出ていた。
恐らく昔は猟師達が冬篭りに使っていたのであろう、慧音はかつて鍋であったものを見つめつつそう思った。
特に珍しいものを見たわけでもない、彼女はそれきり小屋を出て帰ろうと思った。
しかしふと、彼女はここがどのあたりだか確かめたくなり、上空へと舞い上がった。
(……ここは風が心地良いな)
何とやらと煙は高い所が好きだと言ったものだが、なるほど高い所は人を魅了する。
そこは暑さを抜きにしても、ただそれだけで気持ちがいいものだった。
しばらく慧音は目を閉じ、もはやセミの鳴き声も聞こえない上空で、夏の吐息を感じていた。
おもわず寝てしまいたくなるような居心地の中、猛暑は彼女を現実へと引き戻した。
(ここは……そうか、なるほど)
改めて辺りをざっと見回すと、小屋の生い立ちの予想がついた。
この辺りは人里から少し離れているが、妖怪の山と別段近いわけではなかった。
以前までは。
最近の異変続きの混乱に乗じてか、妖怪の山は多少なりとも勢力を拡大していたようなのである。
それは非常にゆったりとした速度の拡大であったため、察しのいい人外以外は気づくこと自体稀だろう。
しかし人間にとって、生死の分かれ目となるラインが狭まることは文字通り死活問題である。
人間達はその僅かな領土拡大に反応し、小屋を手放さざるを得なかった。
(と、こんなところだろう)
つまり、この小屋は妖怪も人間もいない中立地帯なのだ。
人間が近寄ることはなく、妖怪がごくごく稀に現れる程度の場所。
幻想郷でもこのような地点は五指に満たないだろう。
そう思うと俄然、慧音はここが気に入ってしまった。
普段は我欲が少ないが、一度決めたことはそうそう変えないのが上白沢慧音である。
彼女はどうしてもこの小屋を直したくなった。
「ま、幸い時間はたっぷりとある」
こうなると全てが運命のように思えてくるから不思議なものである。
自分が休校を決めたのも、山菜を狩りに来たのも、全てはここを見つけるためだったような気がしてくる。
こうして彼女と小屋との、奇妙な日々が過ぎていった。
以下は慧音の日記から抜粋したもの。
一日目:今日は不思議な小屋に出会った。
私はこれを修復し、避暑地にしたいと思う。
自分でも変だとは思う……が、理屈ではないのだ。
そうしなければいけない気がするのだ。
不思議なもので、こんなことは初めてなのだがひどく懐かしい想いが湧き出る。
せっかくなので今日を一日目として修復日記をつけようと思う。
二日目:何はともあれ、草抜きだ。
人が入らなくなって少なくとも数年は経つだろう、ひどい有様だった。
まず小屋周辺を円形に大きく切り払い、草を抜いていく。
なんと今日はそれだけで終わってしまった。
少し几帳面にやりすぎたかもしれない。
効率を気にする気はないが、これではいつまで経っても完成しないだろう。
三日目:
草木の萌え、成長する速度というものには驚かされる。
今日は小屋の内部の掃除のはずだったが、夕方前に完了して出てみると雑草が大量に生えていた。
ある程度の草は許容するかないのだろうか……
四日目:小屋の内部が大分綺麗になった。明日には内装に取り掛かれるだろう。
私は妖怪だが、人間の里に住んでいるためか、いわゆる日曜大工ができる。
生活のために必要な技術だな。
まさか人間の大工に頼むわけにもいかないしというのもある(言えばしてくれるだろうが)。
食用品等の買出しとは違い、そこまでいくと"縁"が発生していまう。
私は寺小屋をやっているが、あくまで妖怪は妖怪だ。
人間と妖怪の差別はしない。が、区別というか、住み分けは必要なことだろう。
五日目:草対策に家畜でも飼おうと考えたが、やめた。
どこの世界に避暑地で家畜を飼う者がいるのだろうか、落ち着かない。
それはそうと、壁と地盤が完成した。
といっても木を切って貼り付けただけである。
専門的な知識はないので私にはこれが限界だ。
六日目:そろそろ完成だろうか。
今日は畳を敷いた。
すると俄然それっぽくなり、思わず頬が緩んだ。
草に関しては放置することにしよう。
自然にあるがままというのもまた一興。
……寺小屋が再開すると管理ができないからというのが本音だが。
七日目:ちゃぶ台を置いてみた。
本棚はいらないだろう。
その日に読みたい本を持って行き、持って帰ることでこと足りる。
別段遠いわけではないしな。
さて、とりあえずこれで完成ということにしておこう。
明日からはようやく目的のために使うこととする。
楽しみだ。
─────────
「こんなものか……」
ちゃぶ台がある以外は何もない、シンプルな部屋。
畳に正座のスタイルで臨戦態勢に入ろうとしている者が一人。
本の山を持ち込み、終日ここで過ごす準備は完了した。
「っと、どうも最近独り言が増えていけないな……」
(しかし、家との往復だったから不安だったが、特に荒らされた様子もなかったのは意外だったかな)
小屋が荒らされていない事実に、慧音は益々ここが気に入った。
それは妖怪や人はおろか、鳥獣や神出鬼没のいたずら小僧である妖精達でさえここには存在しないということを意味する。
読書が目的の避暑地、静かで涼しく目障りもないここは理想を絵に書いたような場所であった。
「…………ん?」
読書にも一区切りがついた場面、慧音は昼食にと持ってきた握り飯を取り出す。
"それ"に気づいたのはその時だった。
「…………」
自然と、体が硬直する。
生物の気配、それを感じた。
無論、いくらここでも小動物や虫の類は存在する。
しかし修復を開始してからこっち、中~大型生物と呼べるほどのものは見ていない。
そして加え、ある決定的な一点が今回の気配に対し彼女を警戒させた。
気配が一瞬で消えたのである。
(よほどの手錬れか……)
野生動物の場合、このようなことはあり得ない。
正座の姿勢のまま、目を閉じる。
そして心の眼で部屋を観察するよう努めた。
空気が張り詰め、弛緩する。
やがて蝉の声は遠ざかり、彼女は部屋と混ざり合って一体化する。
上白沢慧音それ自体が部屋であった。
(くるなら、こい)
正座の姿勢のまま、植物よりも更に気配を薄くした慧音に"それ"は突然牙を向いた。
「そこ!」
彼女が気づいた時、既に自身の手は何かを掴んでいた。
「っ───!」
それは腕だった。
「ちょ、うわ、何だ」
"それ"の腕は空中から生えていた。
慧音に掴まれ一瞬震えたその腕は、しかしすぐに彼女の腕を掴み返した。
腕のつけねあたりから徐々に広がっていく亜空間のひずみ。
飲み込まれる慧音はただ、それを眺めることしかできなかった。
─────────
「で、話はそれだけか」
むくれた慧音に、"それ"こと八雲紫は微笑みで返事をした。
何のことはない、さっきはいきなりのことに平静を失ったが、よく考えればわかるものだ。
こんなことをするのも、できるのも幻想郷には一人しかいないのである。
「あー……その、なんだ…………帰っていいか?」
呆れ半分、苛立ち半分という感じで紫を睨む慧音に、紫は言った。
「あら、せっかく来たんだし練習の成果だけでも見ていってくれないかしら」
はぁ、と慧音がため息をつくのも仕方が無い。
つまりはこういうことだ。
「最近ね、そりゃもう暇で暇で、何か面白いことを起こそうかと思ったのよねぇ。
でもまぁ、あんまり大ごとにすると霊夢も黙っていないし、それはそれで面白いんだけど、何かそういう気分じゃないのよ。
そこである企画をしてみようと思ったの。それにあなたは偶然選ばれたわけね、これで」
と、【ゆかりん特性乱数発生器】 通称あみだくじを慧音に手渡した。
もちろん破る。
「あぁ! 何するのよ! 幻想郷の知り合い全員の名前書くのに丸一日かかったのにぃ……。
まぁ、いいわ、とにかくそういうことだから大人しく招待されてね」
とここまでが概要。
そして本題にはいるべく、紫は慧音を今いるのとは別の部屋に案内した。
慧音はというと、ぶっちゃけ帰りたかったが、何となく言い出せないでいた。
これは彼女自身気づいていないことなのだが、案外流されやすい性格なのである。
(しかし、来るのは初めてだが、不思議なところだな)
昼飯時に無理やり連れて来られた慧音だが、それはそれとして彼女は単純に好奇心に心動かされた。
噂では結界の狭間にあると言われていた八雲紫の住居。
恐らくここがそれなのだろうが、真偽は不明だ。
まずここには窓や、外が見える場所がない。
そしてさきほどの部屋には襖があったのだが、その襖の先にはまた同じような部屋が繋がっていただけであった。
そうして連続した和室を抜けていくうち、広い場所へと出た。
なんとも形容し難い、不思議な空間である。
「こほん、では……」
紫のはひとつ咳払いをし、指を鳴らした。
……しかし何も起こらない。
次の瞬間、拳が骨に食い込むような鈍重な音が聞こえた気がした。
慧音の本能はそれを気のせいだと決めた。
改めて紫は指を鳴らす。
ふっと、周囲を照らしていた蝋燭が消えて辺りが完全な闇に包まれる。
「や、八雲商店街ぃぃぃぃ!」
「だ、大抽選大会ぃー!」
スポットライトが付き、ばばぁーんという効果音とともに颯爽と登場をする狐と猫。
次の瞬間、拳が内臓に食い込むような鈍重な音が聞こえた気がした。
慧音の本能はそれを気のせいだと決めた。
「う……ぐぅ……さあ今年もやってまいりました年に一度の大抽選大会!」
「…………ごぅ……豪華景品を手にするのは誰かぁ」
大売出しと印刷されたハッピ姿に何故かマイクで叫ぶ二人。非常にうるさい。
「……こんなことを毎年やっているのか」
「ふふ」
紫は答えない。
満面の笑みがとても怖かった。
かわりに営業売り出し部長こと藍が大声で叫ぶ。
「さ・て! 今回幸運にもガラガラのチケットを手に入れた慧音さん! まずは感想をどうぞ!」
ずずい、とマイクを向けられる慧音。
「…………………………は?」
としか言えない。
「え、えっとですね、毎年あみだくじで選ばれた人はここでガラガラをするんです……」
営業売り出し係長こと橙が小声で囁く。
「ガラガラというのはあれか、商店街でよくやっている」
「「オフコース!」」
笑顔で答える二人。
息遣いが荒く、脂汗を流しながら腹をさすっている気もするが恐らく気のせいだろう。
「まぁまぁ、犬に噛まれたとでも思って諦めなさいな」
(どこの世界に一人だけやらせる抽選があるのだろうか。
というか景品が不明ってのがまた……
しかし、やらなければ帰れないだろう……
逃げられないだろうし、なまじ逃げられても連れ戻される。
まったく、スキマ妖怪なんて誰が作ったんだろう)
やがて、慧音は考えるのをやめた。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
ぐーるぐるとガラガラを回す。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
直ぐに終わらせるのもなんだかシャクなので、更にガラガラを回す速度をあげる。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
段々面白くなってきた。
親の敵の如く回す。
「何がでるかな♪」
「何がでるかな♪」
「せぇい!」
ここで急にガッっと止める。
慣性の法則に従い、一つの玉が勢いよく飛び出した。
からんからんと、転がる玉の色は…………紫。
「で、でたぁー!」
「紫色は紫賞! つまり特等でーす!」
どんどんパフパフと、どこから出してきたのか騒ぎ出す式神達。
「おめでとう、特等よ」
掌を合わせて笑みを送る紫。
特等が逆に怖い慧音。
慧音は景品が一体何なのかをそろそろ教えてもらおうと思った。
そしてその瞬間、ガラガラに一筋の亀裂が走った。
【ガラガラ司令部】
「隊長! もうもちません!」
「ちぃ……第三障壁を切り離せ! すぐにだ」
「駄目です! 制御不能! 原因は先ほどの高速回転だと思われます」
「く……玉と玉がぶつかり合うガラガラ内、あれほどの早さで回されると崩壊は自明の理であったのだ……
上層部はそんなこともわからなかったのか……っ!」
「崩壊します! 総員退避! 総員退避!」
それは例えるなら、道で糞を踏んだときの喪失感に似ている。
やってしまったとか、めんどくせえとか、そんな感じである。
その瞬間は臭いだとかそういう感情はわかない。
ガラガラの中身は次々と床に跳ね、思い思いに転がっていく。
四人はただそれを、呆然と見守るしかなかった。
流れ行く玉を眺めた後、慧音はゆっくりと紫に向き直り、半笑いのまま白い目を向けた。
もちろん原因は中身の玉全てが紫色であった事だ。
「あはは……」
「えーっと……」
「あははは…………」
まるでガンをたれるチンピラのごとく、紫に熱い視線を送ってあげた。
「はい! 特等は南国バカンスの旅~! 用意はできてる? できてるわね!
いってらっしゃーい!」
「うわっ」
と言う暇もない。慧音は瞬く間に闇に呑まれた。
水中にいるような奇妙な浮遊感を一瞬感じたが、その浮遊感もすぐに消えた。
気づくと、そこは見たこともない光景が広がっていた。
─────────
ちゃぷ、と指を水面に浸して口に運ぶ。
「しょっぱい……な」
やはり、目の前のこれは海のようだった。
文献で知ってたいたものの、見るのは初めてである。
(しかし、これはなかなか……)
見れば見るほど、言葉にならない。
雄大、という言葉はこれのためにあるのだと思った。
海というものは人を魅了すると言われているがなるほど、それも不思議ではない。
幻想郷に海がないことが教育者としても、いち個人としても非常に残念に思えた。
いま、慧音の足元には俗に言う砂浜が広がっている。
彼女はもちろんそれを知識で知っていたし、砂を見るのが始めてではない。
彼女はこの時、単に好奇心からこの地の詳細を知りたいと思った。
「どれ」
と、力強くジャンプした彼女はそのまま力強く顔面から波に突っ込んだ。
こう書けば彼女がただの阿呆のように見えるかもしれないが、事情がある。
というよりも、一番驚いたのは彼女だった。
「ぶっはぁ!」
飛べない。
その言葉が脳内を駆け巡っていた。
もちろん、焦る。
スペルカードを取り出す…………が、不発。
妹紅にすら教えていない白沢の秘術を試す…………が、不発。
彼女は、この瞬間人に成り下がったといえよう。
紫の話からするに、すぐに帰れるというわけではなさそうだ。
この未知の地、何も知らずに放り出された彼女は、ただ我武者羅にその日を生き抜かなければいけない。
今、彼女にある武器は知識と、常人より少し劣る体力のみであった。
─────────
「ふぇ……」
と、出そうになってからクシャミが止まった。非常に気持ち悪い。
そう思い一瞬気を抜くと三回連続でクシャミが出た。
失敗だった。
妖怪だから風邪をひかないとタカをくくったのがそもそも甘かった。
どうやらこの土地は、妖怪としての特性全てを無効果してしまうらしい。
"この土地は"と彼女が思ったのはその奇妙な感覚によるものである。
どうも足元、というより地下のあたりから、むずがゆいような感覚がするのだ。
それは徐々に力が抜き取られている感じ、ちょうど注射器で血を抜かれる時の感覚に似ている。
とにかく、服が濡れているのはまずい。
そう思い服を脱ぎ始めた。
手ごろな枝を探し、服をかける。
ちなみにこの土地、彼女が着いた海岸の真逆には森が広がっている。
海岸沿いの、日当たりの良い場所を選んで服をかけた。
慧音はその下に腰を下ろし、膝を曲げて顎を乗せる。
いわゆる体育座りである。
(ここは、どこだろうか)
とか
(帰ることができるだろうか)
など、普通ならばそういうことを考えるだろう。
しかし彼女は(もちろんそういうことも考えていたのだが)まず
(寺小屋どうしよう)
とか
(腹が減ったな)
などということが頭に浮かんだ。
何しろ妖怪の身でありながら好き好んで人間に物を教えているような彼女のことだ。
どんな状況でも、教育のことと生理現象のことぐらいにしか頓着しない。
さて、腹といえばと慧音はあることを思い出した。
何事もなければ今頃彼女は昼食の最中のはずである。
そうなっていない原因はもちろん八雲紫。
そう思うと俄然、憤りを覚えた。
(いかに私が暇でも、スキマ妖怪の酔狂になどにいちいち付き合ってられるか)
しかしここでふと、気付く。
酔狂であるからには、やはり紫は今もどこかで自分を観察しているのだろうか。
そして挙句に倒れでもすれば、彼女とて幻想郷には帰すだろう。
そうなるとこれ幸いに彼女はそれをネタに話を言いふらすに違いない。
(上等だ。 ならば期待の逆をいってやろうじゃないか)
真面目、と言えば聞こえはいいだろう。慧音は根が単純なのである。
こうなればテコでも動かない。
この未知の土地、絶対に行き倒れになどはならない、と決心した。
─────────
目が覚めたのは偶然か、空腹によるものか。
とにかく、ここで慧音が目を覚ましたことは彼女にとって僥倖であったと言える。
【殺気】
それが全身を支配し、理屈ではなく先に体が反応した。
彼女は両手両足でダンと地を打ち、横っ飛びに身を転がした。
それまで寝ていた砂地にサクっと何かが突き刺さる音がする。
そのまま地面に這いつくばると、周囲の気配を探ることに努めた。
(何なんだ一体……)
目が覚めて早々、事態を飲み込むことを強要された。
仕方なくそれに従う。
辺りは真っ暗である。雲に隠れているのか、月光も届かない。
(襲われた。それは確実……何故? ……わからない)
とにかく、無駄な体力の消耗は慧音の望むところではない。
相手が言葉の通じる相手ならば極力戦闘は避けるべきである。
「誰だ!」
と叫び、大きな円を描くように砂浜を移動する。
声を頼りに敵が攻撃することを避けるためだ。
移動中、我ながら阿呆な質問だと思った。
しかし彼女の狙いは誰だと知ることではなく、言葉が通じるかどうかを反応で見極めることだった。
「っ…………」
微かに、それは本当に微かに聞こえた。
よほど注意しなければ聞き落としていたかもしれない。
一瞬のためらい、それによる衣擦れの音がはっきりと聞こえたのだ。
(相手は、人間……もしくはそれに準ずる、少なくとも言葉の通じる相手!)
ならば、することは一つである。
「私は上白沢慧音というものだ! ここの土地のものか?
勝手に入ったことを怒っているならば謝る。 しかしこちらに交戦の意思はない!
繰り返す! こちらに交戦の意思はない!」
再び、つつと移動する。
敵は、まだ動かない。
時間にすれば数秒、しかし慧音には数時間にも思える沈黙の後、敵の気配は移動を開始した。
やがて、気配の主は音も無く慧音の前に姿を現す。
闇につつまれ、相手の形は見えない。
漆黒の中、海岸で二人は対峙する。
時は流れ、風が吹き、雲は移る。
月光が徐々に、相手の顔を、体を照らし出す。
「まさか……」
目の前の者を、慧音は知っている。
「こんなところで何をしているのかしら?」
「それは、こっちのセリフだ……」
「十六夜咲夜」