※本物語は無料ですが、時間の方は保証しかねます。
【彼女の黄昏とプラスチックダイアローグ/彼女の日常とプラスチックエピローグ】
――――――――咲いてしまえ
アリスを見ると、いつも胸元あたりに蕾が見える。見たこともない花で、かといって奇抜な形というわけでもない。極めて平凡である。ただ実在はしない。花は知らないが絵には覚えのある者がちょっと筆を走らせ、完成とは言えないまま放っておいた、そんな感じなのだ。だから色はわからないし、輪郭もラフ画のように頼りない。線が曖昧で、いくら眼を凝らしてもピントが合うことはない。そんな具合だから、きっと派手な色ではないのだろう。
茎はほっそりと伸びていて、葉はあまり多くない。根らしきものは見あたらず、天道虫の如く視線を上へ上へと向けると、子どものこぶし大の蕾が一つきりあるだけだ。
霞のような花片を何重もぎゅっと固く絞って纏め上げ―――――線はそこだけははっきりと描かれている――――――芯を作っている。それは緩む様子がまったく無い。
花弁はやわらかいのに、いつまでも綻ばない。
そういう蕾だ。
それが、ほんのりと月明かりのような、淡い光を発している。それも雲がかかったような朧気な光だ。あたたかくもないが冷たくもない仄かな光を滲ませて、夢見るようにひっそりと彼女の中に生えのびている。彼女を見ていると、そんなイメージが頭から離れない。
その蕾が綻びるのが見たかった。
だから会う度に彼女に揺さぶりをかける。
咲いてしまえと。
蕾が何を示しているのかはわかっていたから。
――――――――咲いてしまえ
抱きかかえている芯の花片は、きっと夢見るような色をしている。
【家具の音楽】
それを手押し車に乗せて彼女が現れたときから、広場にいた子供たちは気になって仕方なかったのだ。だから実際にピエロに扮した人形がライエルをぐるぐる回し出すと、話し声は一斉に止んでしまった。どの子もみんな、それが人形劇が始まる合図だと知っていたのだ。何十もの視線がさっと一つ――――彼女が建てた人形たちのための舞台―――に集まった。深紅色した幕が上がれば、そこには小さな別世界が待っている。
視線をすっかり舞台上に持ってかれたピエロ人形は、舞台横に慎ましく控えて、ハンドルで演奏していると言うよりは抱きついて遊んでいるだけのように見えた。彼女の愛用しているライエルは飴色をした木製で、どんな曲でもピンッと弾けるように鳴り始める最初の一音が外れる癖があった。ボタンとロールの切り替えで300曲まで演奏できるらしいが、幽香が聞いたことがあるのはまだ10曲程度だ。今流れている曲は、その数少ない覚えのあるものだった。確かジュ・トゥ・ヴーだ。これ以外の曲名は覚えていない。観客の誰かから何度となく聞いているはずなのだが、興味が無いので忘れてしまった。ジュ・トゥ・ヴーだけ覚えていたのは、彼女の口から直接聞いたからだろうか。軽快なリズムがいかにも楽しげで、好んでか彼女はこれまでに何度もオープニングで使っている。
演奏の間、横一列に並んだ人形たちは一体ずつ前に進み出て、こちらに向かって一礼してみせる。役者紹介を最初と最後に持ってくるのが彼女のやり方だった。最後に進み出てきたのは村娘に扮した人形で、その他を率いるように真ん中を陣取っている。この子が今日の主役だろうか。他の人形より目立つようにか赤いガウンを羽織っていて、心なしか自慢げに映った。その子が茶目っ気たっぷりに回って見せてると、左右に控えた人形たちが両腕でぱちぱちと手を叩くアクションをした。わっと観客も手を叩く。今日はずいぶんとノリがいい。ひょっとすると何度かやったことのある演目で、子供たちは最初からこの子が主役だとわかっていたのかもしれない。
観ているのは子供だけではない。付き添いの親や、初々しさの残る若い恋人たち、休憩時間なのか、先ほどまで屋台を切り盛りしていた男も怠そうに煙草をふかしつつ、視線は舞台の方に釘付けだった。よく見れば人に交じって妖精や妖怪の姿もちらほらと見かける。端から見えれば幽香もその一人であるが、向こうからこちらを認識することは出来ていないだろう。そうでなくても関心はすべて人形たちに行っているのだ。この場で観客に注目しているのは幽香ぐらいなものだった。
例えば、と幽香は視線をすぐ傍に立っている子供に定める。
ちょうど前にいる水色の帽子をかぶった子の様子と来たら本当に真剣だった。観るのは初めてなのか、糸もないのにくるくると動き回る人形たちに目を白黒させている。そんなに楽しいかしらねと笑う。あの程度のママゴト芸なんて、驚くに値しない。ねえ、そんなに夢中になって、地面に落ちたその林檎飴、まだ一口しか食べてないんじゃない?
それに気づいたときの子供の反応を想像して、風見幽香はにんまりとする。
幽香にしてみれば、その様子の方がよっぽど見物だった。
子供向けの常として、人形劇は大団円を迎えた。赤いガウンの娘は知恵と勇気で見事敵の怪人に打ち勝ち、攫われた村の仲間たちを助け出した。めでたしめでたし。ハッピーエンドだ。知恵比べと言えば聞こえがいいが、騙し討ちのように勝利をつかんでしまうあたり、勧善懲悪というよりはドタバタ喜劇と言える内容だった。ディテールはともかく、展開自体は以前に観ている演目と大差ない。だが、ギャラリーの反応を見る限り、今日の人形劇は大成功と言えるだろう。子供受けするものはやはり冒険活劇が堅いと再確認できる。もう一つそこそこ受けがよいラブロマンスは、人形師の得意とするところでないのか幽香はまだ観たことがない。まだといっても今日をのぞいて4、5度ぐらいしかないのだが。
幽香に気づいたのか、いつの間にか彼女は訝しげにこちらを見ていた。普段はぱっちりと大きく開けている眼を細めている。さすが人形師の他に魔法使いを名乗るだけあって良い目をしている。それとも、昔の感覚で気づいたのだろうか。彼女は若い妖怪だ。あれからまた力を付けたとしてもなんら不思議はない。もっと早くに見破ってもいいぐらいだ。つい今し方まで子供に囲まれていたが、もう日も暮れるとあって今は彼女の周りに人はいない。黄昏時は逢魔が時。そして、夜は魑魅魍魎の時間だ。落日の鐘が鳴る。人の子は早くお帰りと。鳥目と人目には危険な時間だと。半妖でもないくせに半妖以上に人よりで、でもやっぱり人でない彼女は、これから森にある自宅に帰るのだろう。あそこには彼女のナカマがたくさんたくさんいる。本人はあれで妖怪じみているつもりらしいけれど。
傘をふわりと一回舞わしてやる。手を振るよりこちらのほうがわかりやすいだろう。
案の定、アリス・マーガトロイドは即座に嫌そうな顔をした。
「なんでいるのよ」
「貴女は見せ物でしょう」
「見せ物なのは人形の方。しかも貴女、タダ見じゃない」
「お金なんて取ってたの?」
「私にじゃなくて、屋台の食べ物を一人につき一つは買うのがルールなの」
「おどろいた」
「知らなかったの?チラシにも書いてあったじゃない」
「そうじゃなくて」
本当興味のあることしか見えてないんだから、と呆れるアリスの言葉を遮って、幽香は感心したように言う。
「そうじゃなくて。貴女がそんな最初から私に気づいていたことに、気づかなかったって言ったの」
くすくすと、何が面白いのか風見幽香は笑った。
春。霊夢の死後から60年。アリス・マーガトロイドの世界はそれなりに平和だ。
【うしろのしょうめんだぁれだ】
円があった。
円は子どもだった。
円の中には子どもがいた。
円の子供は十二人。
円の中の子はただ一人。
あわせて十三。
――――――――後の正面だあれ?
ただ一人の子は答えた。
それが、十月ほど前の話。
【暗転】
人形達を引き連れて、人形遣いは長い階段を上って行く。最近ではようやっと数時間飛んでも倒れることは無くなったが、眠りすぎて鈍った感覚を取り戻すには、こうして軽く運動をした方がいいだろう。ただでさえ、ほとんどの活動を停止させていた所為で、今の体は膨大な魔力を上手く制御できない。それに、あまり魔法に頼っているのもよくないとも思うのだ。人間と違って何十年寝たぐらいで筋力も体力も大幅に落ちたりはしないが、気力はそうでもないようで、現在、アリスの一日の睡眠時間は10時間を切ることが無い。
――――――――あんまりのんびりしてちゃ、帰る途中で寝ちゃうかも
滞在時間はこれから会う人間の性格にかかっているので、アリスとしては努力できる範囲はそんなに大きくないのだ。鳥居をくぐる。すると、思いもしない人影があった。人じゃないけど。獣の形をした耳を隠した独特の帽子を見て、はてとアリス・マーガトロイドは考え込む。
「ええと」
肌身離さず持っている魔導書を指で叩き、人形遣いは眉を寄せる。そんなアリスの不思議な行動に、相手はわかっている、とでもいうように素早く言った。
「八雲藍だ。話には聞いていたが、本当にいろいろと惚けちゃったんだな」
「いや、思い出したわ。あと、惚けたわけじゃないんだけど」
ちょっと記憶に制限がかかってるだけで、と言うと、それを惚けていると言うんだと素気なく返された。
「本当に違うんだけどね。まぁいいか。そんなことより、どうして八雲紫の式がここにいるの?私は“巫女”に会いに来たのに」
「博麗の巫女なら、ほれ、あっちで橙と遊んでいる」
「ちぇん?」
また一つ、記憶から溢れているらしい名前を出され、アリス・マーガトロイドは聞いた音をそのまま繰り返す。親しみはそれほど感じないが、なにか引っ掛かるものがあった。
「橙と言うのは……」
「待って。それはまた今度聞くわ。とにかく、巫女は神社にいるのね」
「そう。巫女というのは異変時以外、神社にいると相場が決まっている」
何で式が偉そうに巫女について語っているのだろう、とアリスは不思議に思う。魔導書から引っ張り出した記憶と目の前で竹箒を握る式とには、微妙どころでない差異を感じる。この式は確かに八雲紫の式に過ぎないが、それとは別に大妖怪であるはずで、大妖怪はあまり変化しないはずである。この違和感と彼女がここで巫女の真似事をしているには、何か関係があるのだろうか。自身の記憶に甚だ自身の無い人形遣いは混乱しかけたが、よくわからないがどうでもいいことである、と結論を出し、ここで式神と分かれる事にした。それじゃあお掃除頑張ってねと裏に回る。といっても目的地はほんのちょっと先で、今の会話が聞こえていてもおかしくない距離だ。聞かれたとしたら、ちょっと微妙な気分だった。
橙というのはすでにどこかに行ってしまったらしく、そこには巫女と思われる子どもが一人ききりいるだけだった。地面に何か描いている。近づいて確かめてみると、どうやらそれは自身の名前のようだった。“博麗”の麗の字が難しいのだろう。そこら中の土に鹿が足らない状態で放置されたのがいくつもあり、今書いている字も何度も書き直した跡があった。アリスは、その小さな肩に声をかけた。
「こんにちは。貴女が巫女ね」
やはり藍との会話が聞こえていたのだろう。驚いた様子もなく振り返った。
「そうですが、あなたは?」
「私は魔法を使う人形遣いで、人形を遣う魔法使いね」
「妖怪ですか?」
「もちろん」
当代の巫女はまだ幼かった。歳を聞くと六つだと返った。その後、多分と付け加えたが。
「多分?」
「私は捨て子で。拾われた時は、すでにそれなりに大きかったったとか」
「ふうん。博麗の巫女ってみんなそういうものなのかしらね」
「先々代はそうでもないみたいですね」
「ああ。そういえば、その子はまだ生きているんだっけ」
そんなことを紫が言っていた気がする。アリスの言葉に、当代の巫女がじっとこちらを見た。
「どうしたの?」
「いえ。“その子”だなんて言うものですから。やっぱり妖怪ですね。私と十も違わないように見えるのに」
「そういう貴女も子供っぽくないと思うけど。あと、私はこれでも若い方だから」
残念なことに、とアリスは笑うが、妖怪の微苦笑の理由がわからない人間は首を傾げるだけだった。
【暗転】
去ってゆく人形遣いの背中を見つめ、当代の巫女は難しい顔をしている。およそ歳に似合わない顰めっ面は見慣れたもので、何だか流れで世話を焼いてしまっている身としてはどうにも放っておけない。もっと気楽で良いじゃないかと式は思う。藍の記憶の中の巫女達は、多くがふわふわと暢気なの多かった。偶に真面目な奴もいたが、難しく考えるのはほとんどいない。巫女は考えるより勘で動いた方が効率がいいのだ。式神である藍には理解し難いことであるが。
「紫さまは今日もいらっしゃらないのですか」
「故に私が代理を頼まれている」
さぁ稽古づけてやろうと式は巫女と向かい合った。幼い巫女は一瞬うんざりとした顔を見せたが、すぐにそれを引き締め、
「そうですね。それぐらいはしておかないと、食べられてしまうかもしれませんし」
ほとんどの妖怪が本当の意味では巫女に勝たないとわかっている癖に、そんなこと言って自分で自分を貶すのだ。
「いやいや、貴方は巫女だからね。その心配はないと思うけど」
「わたしはそこらの子どもとなんら変わりませんよ。ひとよりちょっと口が多いだけで」
「かごめかごめで後ろの相手を、連続して当てたじゃない」
「七回なんて半端な数字ですよ」
当代は頑なに認めない。自分は博麗の巫女の器ではないと言う。確かに藍にしても、選別方法が子どもの遊戯ってのは、聞いたときに不安には思ったのだが。
「あの博麗なら何度やっても当たるのでしょう?それこそ百の百中でしょう?」
「拗ねているのか?珍しい」
「貴女の主人がかまってくれないからですよ」
「ははぁ。この度の巫女は素直だねぇ」
彼女は八雲紫に連れて来られた巫女だが、その八雲紫が就かせたきり顔を見せないので不安なのだろう。おそらくその辺に起因しているのだろうが、どういうわけかこの幼い巫女は数代前の巫女である霊夢を強く意識している。この子どもが生まれるよりずっと前に霊夢は逝ってしまったから、二人に関わり合いなど無いというのに。これは予想だが、最近の若い者とは剃りが合わないと神社を出た先々代が、去り際に何ぞ吹き込みでもしたのではないかと式神は当たりを付けている。彼女は生前の霊夢を知る最後の巫女なのだ。
声を張り上げて祝詞を口にする幼い巫女を見て、式は午後には橙を呼び戻して遊ばせてやろうと思った。
【暗転】
楽しいわけじゃないことは見れば明らかなのに、せっかくの遊びの時間を、巫女は墓参りなんかに使うことがよくある。博麗霊夢と掘られた墓石ををじっと見つめ、何か問いた気に口を結んでいる。およそ歳に似合わない顰めっ面は見慣れたもので、何だか流れで遊び相手とされている身としてはどうにも放っておけない。もっと気楽で良いじゃないかと式の式は思う。巫女ってのはつまらない仕事なのかなぁとも。
「何だか知らないけど、藍様は紫様に間違いは無いって言ってたよ」
「聞いてたの?」
「私じゃなくて、しもべがね」
「なるほど。今度からは縁の下にもよくよく注意しておくわ」
「いやぁ藍様が気づいていないはずがないよ」
何も言われていないということは大丈夫なのだろう。うん。
「それなら、逆にあなたは藍さんがいるかいないかわかる?」
「いま?う~ん。別に隠れてる必要もないし、いないんじゃない?」
正直な感想を言うと、それは能力は関係ないと思うと可愛げの無いことを言われた。橙の中では巫女が可愛かったことなど一度も無いから、別にかまわないけれど。
「いないなら、言っちゃおうかなぁ」
「うんうん。なんか知らないけど、言っちゃえ言っちゃえ」
珍しく心の内を巫女が見せようとしているので、式の式はちょっとだけ嬉しくなる。これって藍様より信用されてるのかなぁと思えるから。
「実はね」
「うん」
「最後のだけはさぁ、狡なの」
「は?」
唐突にそれだけ言われてもわかるわけないので、思わず間抜けな返しをしてしまった。そんな橙に巫女はちょっと笑って、
「だから、勘じゃなくてね、最後の一人だけはわかってたの。鼈甲飴の声と、沈丁花の香り。ああ、花屋の子だってわかったの。だから、たかが六連続で当てただけ」
昔から耳とか鼻とか目とか、なんか利くんだよね。自嘲気味な声で巫女は言って、
「紫様には内緒ね?」
ぱしゃっ、と。
最後に一掬いだけ残った水を捨てた。
【真っ紅なアンテルカレールⅢ】
ベルを鳴らすと、予想通り其奴はどこからともなく嬉しそうに駆けてきた。喉が渇いたと言うと、感極まったように今すぐ用意しますと叫び、次の瞬間にはまた駆けだしていた。走るな、と注意する隙を与えない。レミリアはその子を見ていると、いつも子犬を連想する。それも大型犬の子犬だ。屈託の無い快活な笑いは、かつて一番近くにいた従者には無かった物で、どちらかというとこのお茶汲み兼その他万請負係は、前任と正反対と言える性格をしていた。すぐにポットを抱えて戻ってきた赤髪の妖怪に、レミリアはつくづく本質とは変わらないものなのだと思い知らされる。
感傷に浸りながらカップに口を付け、まずは一口飲む。それから一秒ほど一切の動作を停止させた後、落ち着きを払って傍らで主人の一言を待っていた従者を振り返った。
「……紅茶に、何か入れた?」
赤髪の従者は、何故か誇らしげに頷いた。
はい。今年最初の福寿草です、と。
そういうわけで、図書館へと逃げ込んだレミリアは、仕方なしに小悪魔の淹れる何の変哲のない紅茶を啜っていた。
「前より使えなくなるなんて、これはもうパチェの設計ミスじゃないの?」
あの門番は一応まともに紅茶を淹れるくらいできたはずだ。少なくとも、決して妙なものを混入させたりなどはしなかった。そう吸血鬼が親友の魔女に問い詰めると、魔女は心外だとばかりに言い返す。
「給仕に関しては、美鈴ではなく咲夜を参考にしろと要求したのは貴女だったと思うけど、レミィ?」
「あれのどこが咲夜なのよ」
「完璧な再現だと思うんだけど」
「咲夜はもっと出来る子だったわ!」
「思い出って美しくなるものよね」
魔女は意に介さない。吸血鬼ががなっても、本から顔も上げやしない。
「あー。あんたの中の咲夜像を、少し確かめさせて貰おうか?」
「だから、言葉通りだと……でも、そうね。そんなに紅茶の中身が気になるなら、レミィはこういう風にして飲めばいいわ」
「え?」
ぱちん、と魔女の指が鳴ると、一瞬でレミリアのミルクティーは紅茶とミルクに分離していた。紅と白がくっきり分かれて、目出度そうではあるけれど。
「ほら、これで何が混ざっても一発でわかるでしょう?」
「パ、パチェ」
自分でも驚くくらい情けのない声が出た。地味ながらにも、大変耐え難い嫌がらせだった。二つはまるで油と水のよう。かき混ぜてもかき混ぜても紅茶とミルクは混ざらない。仕方なく、覚悟を決めて飲んでみる。ええいままよ。
「…………」
「どう?」
まずかった。
吸血鬼の何とも言えない顔に、魔女はそこで初めて本から顔を上げて、久々に心から愉快そうに笑っている。魔女のこの表情を結構気に入っている吸血鬼としては、こうなったらもう一緒になって笑うしかない。
そんな光景を、実はレミリアが来る前から図書館にいたフランドール・スカーレットは、犬歯をいじりながら見つめていた。いろいろと思うところはあったのだが、ようやっといつも通りになったらしい姉にとりあえず満足をしたので、呆れとも安堵ともとれる溜息を一回だけ吐いて、こっそりとその場から抜け出すことにした。
【飛ぶ夢を暫くみない】
ねえ、と鼓膜を打ったのは、仄かに熱の籠もる声だった。
その日、八雲紫は機嫌が良かった。というのも、彼女は少し酔っていたのである。何故機嫌良く酔っていたのかというと、彼女と飲み交わしている相手は彼女よりずっと酔っていて、そのことが八雲紫を愉快にさせていたからだ。その相手とは博麗の巫女であった。すっかりアルコールの回った巫女は、普段から悩み知らずの暢気者だが、今は加えて態度も柔らかで陽気かつ大らかで、つまるところ全身で目出度い気を発していた。常ならば紫を胡散臭い胡散臭いと邪険にするが、酒とはそういった冷たさも熱っしてみせるらしく、先程から紫が何を言ってもうんうんそうねそうねと頷いている。巫女は誠にぐにゃぐにゃであった。そんな巫女に機嫌が良くなる妖怪の方もどうかという話だったが、生憎とそれを指摘する者は、今この場に誰一人としていやしなかった。全く不幸な話である。
季節は春の初めで、梅が今にも全て散ってしまいそうに咲いていた夜であった。
とにかく、二人は全く良い気分だったのだ。少なくとも紫の方はそう記憶している。そうこうしている内に夜は更けきり、紫はそろそろこの大層軟体動物に近づきつつある巫女を、人らしく布団に詰め込んでやらねばならないと思い出した。あらこれは名案じゃあないかしらと隙間を空けて、そのまま巫女を布団に落とした。これにはふわふわと地に足の付いていないことに定評のある巫女も、ぐえ、と花も恥じらう乙女にあるまじき声を上げざるをえなかった。
「あら、霊夢。妖怪に不意を突かれるなんて、修行不足なんじゃないの?」
「不思議ねぇ。酔っている方が体が軽くなった気がするのに」
「軽くなっているのは心だけなんでしょう。ほら、ちゃんと布団を掛けなさい」
「暑いんだけどなぁ」
「それは今だけよ」
じゃあ、もう暫くしたら掛けておいてと甘えた事を抜かすので、隙間妖怪はちょいと境界を操って、巫女の宵をほろ酔いレベルにしてやった。
「いや、便利なことで」
「それほどでもないわ」
笑う。
不意に、「ねえ」と霊夢が言ったので、紫は同じ調子で「なぁに」と返した。
「幻想郷の巫女は博麗なのよね」と酷く当たり前のことを巫女に聞かれたので、「もちろんですわ」と隙間妖怪は返した。
「ふうん」
「霊夢?」
――――――――じゃあ、それならいいか
ぽつり、と鼓膜を打ったのは、熱の消え去った声だった。
【暗転】
嘘が嫌いな妖怪である鬼は、自分自身を騙した人形遣いに少し厳しい。だから、アリスをあっさりと結界内に戻して返ってきた紫にも、若干優しくなかった。
「甘過ぎじゃないの、紫」
率直に言われる。
「結界越えを見逃したのは、これが初めてじゃないのよ?」
「だからってさ、もうちょっと脅したって良かったと思うけど」
どうせ紫は、あの人形遣いが幻想郷(ここ)を好きだからという理由だけで、多めに見たに決まっている。長い付き合いだから、それくらいのことは容易に予想が付くことだ。どんだけがここ好きなんだと鬼は思う。この妖怪は、萃香が知る限り相当の幻想郷馬鹿なのだ。その為なら、時にちょっと損な役回りを進んで引き受けるくらいに。しかも、時々その愛し方は、萃香には理解できない形をしている。
「そんな顔してさぁ。向こうがいいって言ってるんだから、構わず腹に入れちゃえば良かったのに。消化だって良さそうだったじゃん。ほとんど魔法なんだから」
隙間妖怪がちょっと疲れた顔をしているから、鬼は少しだけ彼女に優しくて、人形遣いには少しも優しくないこと言った。けれど、その言葉に八雲紫は笑って、
「駄目よ萃香。残念だけど。この“饑え”はちょっと特別なのよ」
その特別な饑えとやらに、何故か浸るように瞳を閉じたのだった。
【暗転】
「花が人形を所有するなんて可笑しな話です」
鴉を腕に留まらせて、射命丸文はどこか小馬鹿にした笑いを浮かべる。
「貴方もですよ。絆されましたか?」
見当違いなことをよく言う新聞記者の言葉は挑発じみたものだったが、それにも紫はじんわりと笑うだけで、文の欲しがっているような事は何一つ口にしない。
「この前の冬、人形遣いが“越えた”と聞きましたが……」
どうせ他に大した事件も無い上、確認するほどの情報量でもないのに、わざとらしく手帳に目を落とし、慇懃無礼な新聞記者は鉛筆の端を噛んでみせる。
「大結界の守り手である賢者からは一切のお咎め無し! いや、大賢者らしい寛大な処置です。はてさて、両者の間にはどのような取引があったのでしょうか」
数ヶ月前に新しい巫女が就いた時以来の特ダネなのだろう。嫌にテンションの高い。この様子では、何か満足のいく情報が得られるまでは引き下がりはしないだろう。もっとも、如何に幻想郷最速を謳う天狗族であろうと、隙間を使えば逃げ切るのは容易い。だが、紫は少し考え、この応答に答えてやることにする。要は何か確かなことが得られたと思えば、この天狗は満足するだろう。例え、それが真実でなくても。紫は、口を開いた。
「義憤に燃えているところ悪いけれど、あれはただの事故なのよ?」
「事故?」
「そう、事故。最近はめっきり平和だから、そういう時はほら、眠くなるでしょう?」
「それはまぁ、静かなのは認めますが。え?ということはなんでしょうか。まさか、貴女が寝ぼけてあっちへ飛ばしちゃったんですか?冬眠中に?」
「いえいえ。冬だからというよりは春だからです」
要領を得らせる気のない紫の言葉に文は首を傾げる。
「はぁ、春はまだもうちょっと先なんですが」
「貴女は元は鴉なのに、物事を俯瞰する力がない。鳥が近くでも物を見ても、真実を見誤るだけだと言うのに」
「むむ。余計なお世話です。それに、貴女が何を言っているのさっぱりわかりません。私を煙に巻こうとしていませんか?」
「まさか」
もちろん、巻こうとしていた。だが、紫は言わなくても良いはずの真実も言っている。そのことに文が気づこうとしていないだけなのだ。
「ああ。なにか記事になりそうなことないですかね」
鴉天狗が溜息を吐くと、そこに三つ目の声が飛んできた。
「無いことも無いよ?」
鬼だった。いつからいたのか、鳥居の上からにやにやとこちらを見下ろしている。
「何かご存じなんですか?」
「そうだねぇ」
例えば、と萃香は盃を掲げた。
「今年の春は花が大層見頃になるよ」
ここは幻想郷なのだ。命がいくつか集まれば、事件か宴会が相応しい。
その様子を水面に夢想して、鬼はぐいと酒を煽った。
.
やはりあなたの作品は何か違う、個人的には信仰の対象として奉りたいほどに好きな世界観です。
野暮を承知でお願いしたいのですが、もしも宜しければ解説や設定の開示などをメールにして頂けないでしょうか。
全てを、とは申しません。読者としてではなく創作家の端くれとして答え合わせをしてみたいのです。
失礼かと存じますがもしも宜しければ(駄目元ですので拒否して下されば諦めます)お願い致します。
素晴らしい作品を読ませていただきありがとうございました。
そして、それを描写する作者様のスタイルも格好よくて読んでいてとても幸せでした。
キャラ萌え的には幽香視点から見るアリス、アリス視点から見る幽香がたまりませんでした(笑)
いつも朝に創想話を見に来て、氏の名前を見ると小躍りしてよろこんでしまいます。
また、新たな物語をつづられるまで作品を読み返してきます。
今シリーズの解説と、【Ending No.31:Sabbath】の完全版を送っていただければ幸いです。
こんな読了感はあなたの作品でしか味わえない。
そして、美鈴の登場にちょっと安心。お疲れ様でした。
Ⅰを見つけてから「ラストがでたら一気に読もう」と我慢してました
途中で挫けそうになりましたがw
待ってて良かった…
綺麗な物語でした。ありがとう
歪な夜空の星空観察倶楽部さんの新作が出ていて小躍りしました。
一挙に読まないとたぶん混乱するだけだと思っていたので、完結してから読み始めたものの、
一気に読んだのが逆に駄目だったのか、やっぱり混乱してしまいました。
また読み返そうとは思いますが、今シリーズの解説をメールしてくれると嬉しく思います。
答え合わせをしたいので。
歪な夜空の星空観察倶楽部さんの、どこか硝子細工のような切なさと儚さを感じる、綺麗な物語が大好きです。
綺麗だけどふわっと暖かくて、今回もエピローグを読んでほっとしました。
人形のようなアリスには、胸がきゅうっとなってちょっと泣いてしまいましたし(笑)
それぞれの幻想郷の日常が大好きです。
文章の反復が螺旋階段のようで、気がつくと随分と惹きつけられていて。
読めば読むほどに引き込まれて、何度でも読みたくなる物語だなって思います。
この感想を書き終えたらもう一度、今度は一気に読みたいと思います。
『Childhood's end』や『Anywhere but here』もまた読んでこようかな(笑)
後書きの成分?もチェックしたいし…なんだか楽しみがいっぱいですw
私も今シリーズの解説と【Ending No.31:Sabbath】の完全版をご送付いただきたいです。
時期はいつでもいいですので。歪な夜空の星空観察倶楽部さんの都合の良いときにお送りいただければ幸いです。
ストーリーの良い作品はほかにあっても
言葉そのものが美しい詩のような作品はなかなかありません
時間がかかっても、次回作を待っております
ps是非解説をば送っていただきたく思います
無粋な気もしますが確かめたいことが2、3あるので
綺麗な詩のような描写を楽しみ、もう一度読み返すとセリフや情景が意味を持って突き刺さってくる、そんな感覚が大好きです。
既にメールにてお願いしていますが、解説を心待ちにしています。
内訳の内容と重なっているかも知れませんが、せっかくなので特に気になっている点を1つ。
「子供の情景」で語られている少女と2人のアリス、この3人の関係は敢えて詳しく語らないことにされたのだと思いますが、
やはり解説との答え合わせがしてみたいと思います。一番嬉しいのは、その物語を作品の形で語ってもらえること、ですけれど。
暫くはお別れとのことで、あの歌に合わせて言えば寂しさを教えられてしまうことになりそうです。
書きたいことがないのに書け、などとは言えませんから、読者のわがままとして、お帰りをいつまでもお待ちしています、とだけお伝えしておきます。
【Ending No.31:Sabbath】の完全版と今作品の解説を送っていただければ嬉しいです。
本当、おもしろかった。
アリスがそれなりに幸せそうで一安心。
シリーズ開始から最終回まで。
その話の中身はもちろん後書きやレス返し、新作を待つ期間まで
楽しい時間だった。
それにしても、元ネタの数の多さとバラエティーの豊かさには脱帽。
思わず笑ってしまうくらい。
やっぱりこれだけ説得力とボリュームのある物語には、面白さの裏打ちとしての下地ってのが
あるんだなあ、と納得してしまう。
今作もとても楽しみにしながら拝見させて頂きました。
歪な夜空の星空観察倶楽部さんの世界を堪能したいので
「解説のような物」を送って頂けると小躍りして喜びます。
短編でも新作でもとても待ち遠しいですが、
真っ紅なアンテルカレールの続きも心待ちにしております。
素晴らしい世界観でとても引き込まれました。
こんなに素敵な幻想郷をありがとうございました。
少し出遅れてしまいましたが、
歪な夜空の星空観察倶楽部さんの都合のよろしい時で構いませんので、
私も【Ending No.31:Sabbath】の完全版と「解説のような物」を送って頂きたく思います。
まだ一度読み通したばかりなので正直なところ混乱している部分も大きいのですが、もう何度か読んで、自分に出来る限りの解釈を構築させていただこうと思います。その後の答え合わせの時のお供にしたいといってはなんですが、解説のようなもの、送っていただければ幸いです。
詩のような言葉で語られる、綺麗で繊細な貴方の世界が大好きです。
素晴らしい作品を読ませて頂き、ありがとうございました。
それと、もしよろしければ今作品の解説と【Ending No.31:Sabbath】の完全版を送って頂けないでしょうか。
作品堪能させていただきました。
素敵な幻想郷、素晴らしかった。
「解説のようなもの」を送っていただきたく存じます。
よろしくお願い致します。
乙でした 雰囲気が素敵過ぎる・・・
所々に出てくる詩的な言葉が意味深でいつもいろいろ考えながら読んでますがそれがまた楽しいです。 氏の他作品も読ませていただいておりますがどれも素晴らしい作品ばかりです
私は読み程度の能力しか持ちませんがいつかこんな文章をかけたらなあ・・。と思う今日
このごろです
お手数かけさせるようで申し訳ないですのが是非私にも【Ending No.31:Sabbath】の完全版と「解説のような物」を送っていただければ幸いです よろしくお願いします
美味しくて、最後だけ甘すぎる(紅茶的な意味で)お話ありがとうございました。
誤字報告
>鳥が近くでも物を見ても
も、が一つ多いかと。
真っ赤なアンテルカレール完結してるかな?と思って読んでみたのですが番外編でとまってしまってるようで、少し残念です。
とはいえ新作も楽しみでなりません。この彼女と黄昏も~もまだ読んでないのですが、このたびEnding No.31:Sabbath】の完全版と「解説のような物」を送っていただきたくコメントしました。以前も送っていただいたんですが、紛失してしまいまして、真に申し訳ないのですが再度送っていただけないでしょうか?パチュアリの世界にどっぷりと浸りたい気分なので・・・お手数ですが、よろしくお願いします。
読む度に、新たな発見や疑問がわきがあってくる、そんなお話ですね。
特にアリスとアリス・マーガトロイド、また幽香との間に交わされる端的な言い回しやそこに含まれているであろう心理描写が美しく、惹かれます。
誰が何を想っての言葉なのかを知りたくて何度も読み返していますが、もっと堪能したく、出来ましたら今シリーズの解説を送信していただけますでしょうか。お手数ですがよろしくお願いいたします。