ふうん、里の人間ってわけじゃなさそうね。
こんな妖怪だらけの山の上に転がって、よく食われもせずにいたものよ。
へぇ?
ここがどこか分からない?
記憶喪失ではないみたいね。変な穴を見た覚えもないって言うならスキマに誘われたわけでもなし。気がついたら突然ここに?
……どう見ても、あんたは人間。
その服装も……ついこの間までいたから、わかるわ。外の世界から来たのね。
え? ああ、そんな目をしてた?
同類相憐れむというところかしら。
似たような身の上だから、気を悪くするには及ばないわよ。
スキマに誘われたわけでもなく、私たちみたいに意図したわけでもないなら、それは、つまり……そういうことだもの。
ごめんね、また一人で納得して。
とりあえず名乗っておきましょう。
私は八坂神奈子。
少し前まで、あなたのいた世界で。
神の一柱だったものよ。
そう。外見でわかるでしょ? 教会じゃなくて神社の方の神様。
何、その目。
向こう側の人間はつくづく常識に囚われてるったら。少しは早苗を見習って欲しいわね。
まあ、外がそんなだから、私たちはこちらに来たのだけれど……。
ここは幻想郷。
あちらの世界……元あちらの住人同士としては“現実”という言葉を使うべきかしら?
現実の世界で存在できなくなったものの居場所。
神、妖精、妖怪、魔法使い、そして人間……そんな連中の住むところ。
つまりは、おとぎの国、かしら。
ただ、ここじゃ幻想郷の方が“現実”だものね。
元々が幻想郷で長い人たちは普通にこっちを“現実”と呼ぶけれど。
私みたいな新参は、ここを“幻実”と呼んでいるわ。
あっちは“現想”ね。
つまらない言葉遊びだけど、なかなか面白いでしょう?
幻の実、現への想い。
たいして広い場所じゃないけど、息が詰まるほど狭くもないわ。
人一人、死ぬまで退屈しないくらいは十分ある。
人食いだらけの場所だから、長生きできるかどうかは保障できないけど、ね。
え?
帰りたい?
……本当に?
うーん、今までの説明じゃ察してもらえなかったかしら。
私の口からは言いたくないんだけど。
いい?
あんたは忘れられたの。
向こうで、あんたが消えて心配している者なんていない。
舌打ち一つで忘れられるか、そもそもいなかったことになるのか。
記憶が消えるとかそんな話じゃないの。
誰もがあんたを忘れたから、あんたはここに来た。
同情はしないわよ。
私も忘れられて、ここに来た身なんだから。
――気は済んだ?
泣いても何も解決しないでしょうけれど。
泣くことが必要な時はあるわよね。
気にしないで。
私だって、ここに来た時。来るって決めた時は泣いたんだから。
ん? どうしたの。
随分なつくわね。
まあ、同胞のよしみで今は甘えさせてあげる。
日が暮れる程度までは、ね。
ふぅ……ふふ。
日も暮れて来たわね……。
眠らないで。眠ったらこのまま置いて帰るわよ。
さあ、どうする?
そんなに戻りたいなら、私が帰してあげてもいいよ。
楽しい結果になるかどうか、わからないけどね。
どうやって、ってそりゃ腐っても神だもの。
あんたが信仰してくれれば、神威は灯り、乾は創られる。
この世界がいくら閉じようと、乾はどこでも見える。
……あちら側へも、続いているものよ。
高いところにはなるだろうけど、落ちて死ぬようなところに行かせはしないから、安心なさいな。
己が信仰した神の心くらいは信じておきなさい。
ふうん。
信仰なんてしてないって言うの?
……本当に、わかってないわね。
信仰するってことは、狂信者になることじゃないの。
洗脳と信仰は違うのよ?
ただ信じて、ただ仰げば、それが信仰。
相手のことを、どう足掻いても決して届かない相手であると、心根で納得すればいい。
そして、恐れずに怖れて、少しだけ好きになってくれれば、ね。
あんたは私と触れ合って、十分に神徳を知ったでしょ?
私のことが、好きでしょ?
ああ、言わなくてもわかってるわかってる。
人間は言葉を作ればウソにしてしまうわ。
私は、あんたの信仰をちゃんと感じている。それでいいのよ。
信仰とは神興。
すなわち神を興すこと。
神がいるから信仰するんじゃないわ。
信仰されるから神が生まれるのよ。
人にはそれぞれ、その人の中の神がいる。
たくさんの人に共有してもらえる神が、力を得る。
もちろん、人それぞれの中の神は一柱だなんて限らないわ。
でもね。
理解してほしいの。
あんたは、私を信仰した。
言葉でどう言えなんて言わないわ。
心ですがって、私に祈りを捧げた。
それで私には十分。
あんたのことを、救ってあげる理由なのよ。
だから余計な世話を焼かせてもらうの。
自覚しておいた方がいいから、はっきり言うわ。
向こうで、あんたを思い出した人間なんていない。
向こうは何も変わってないわ。
きっと、あんたが死んでも消えても、何も変わらない。
社会も人も、忘れる必要すらなく勝手に流れていくわ。
ああ、ああ、わかってるから。
黙って聞きなさい。
あんたを一番忘れてたのは、あんた自身。
今ココで、私と語り合って、あんたが己を思い出したからこそ。
あんたは、“幻実”でも“現想”でもでもない、“現実”に戻る足がかりを手に入れたの。
いい?
幻想郷に来てしまった最大の原因は、あんた自身が己を忘れたことにある。
誰も彼もが忘れたって……いや、覚えてもらえる人間の方が少なくて当たり前なのに。
あんたは己自身を忘れた。
あんたの中に、あんたはいなかった。
家畜や機械といっしょになってた。
はっきり言っておくけどね。
戻っても周りは何も変わらないのよ。
私との話を、ただの夢だと思ってまたいつもの毎日に戻ったら。
すぐにまた、ここに来るわよ。
あんたが変わらないと、何も変わらないんだから。
もう、運よく生きて帰れるかどうかはわからないわよ。
私が会っても助けたりしない。
他の連中がやろうとしても、させない。
ほら、どうするの?
しばらくここで暮らしてみる?
命の保障はできないけれど、神頼みの相手くらいにはなってあげるわよ。
それとも、帰る?
責任持って、ここにあんたが来たことなんて、きれいに忘れてあげるわ。
さあ、決めなさい。
神は本気の願いしか、聞き届けないわよ?
「あらあら、甘いこと」
神奈子の背後に、隙間が開く。
「――何か悪いことをしたかしら?」
神奈子は振り返らない。
顔を合わせるべきではないから。
「山には人を食いたくて仕方のない子も多いでしょうに」
……打算的な女だ、と内心で嘆息する。
「信仰は力や打算で得るものじゃないの。徳で得るものでしょう」
神社に帰るべく、足を進める。
「へぇ。向こうに信者を作って、分社でも作るつもり? 神様の征服欲には頭が下がるわぁ」
神奈子は足を止める。
「賢者殿が諍いを望んでいるとは思わなかったけど?」
「神様が人の縄張りを踏み荒らすとも思えないけど?」
わずかの沈黙。
神奈子はただ背を見せるのみ。
「ふふふふふふ、さすが山の神様は、どっしりしてるわね」
くすくすと境界の妖怪は笑った。
神奈子は足を進める。
早苗や諏訪子にいらぬ気苦労はかけたくない。
しかし、八雲紫の言葉が追いすがる。
「ねえねえ、あの人間が向こうでどうなってるか知りたくない?」
「あの人間? 誰のこと?」
もう神奈子は、完全に興味をなくした様子で、歩き去る。
きょとんとした顔で見送る紫をそのままに。
冥界は白玉楼の廊下。
「ああ、つまらない。つまらないわ」
どすどすと優雅とは言いがたい足音が響く。
「紫様、来られるなら廊下から来てくださいよ」
妖夢が慌てて追い越し、主に先触れをせんとするが。
「あらあら、何を拗ねてるのかしら、紫ったら」
主もまた襖を開き、妖夢の前に姿を見せる。
居場所をなくし唇を尖らす妖夢の頭を一撫でし。
白玉楼の主、西行寺幽々子は庭師を、門に戻らせるのだった。
紫を迎え、閉じる襖に。
妖夢はいつものことと背を向けて。若々しい足音で、立ち去った。
二人になると紫は幽々子に甘えるようにしがみついてくる。
膝枕を求めているのだ。
仕方ないわねぇ、と幽々子が膝を貸せば。
始まる話はいつも決まっている。
要するに、紫は愚痴を言いに来たのである。
今日の品目は守矢の神への当てつけ。
今しがたの出来事を、かいつまんで説明すると。
紫は悔しそうに、じたばたと畳を蹴る。
昔から変わらぬ童女のような仕草に、幽々子は母性を抱いてしまう。
「ああ、本当につまらないわ。あの連中ってばまだまだ神でいるつもり満々なのよ。
土蜘蛛や天狗みたいな、妖怪になってくれればよかったのに。
カッコつけて人間を帰しちゃってさぁ……あんなの、一人の信仰でできるわけないじゃない」
「あら、それはまた死んで何百年経っても亡霊続けてる私への皮肉かしら?」
「そんなわけじゃないけどぉ」
悪戯っぽく聞いてみれば、眉を寄せてむくれて見せる。
「なまじ境界を操れるせいかしら、紫は境目を重視しすぎるのよ」
「…………だってぇ」
説教めいた言葉にいやいやして見せる。
幽々子の脚に、長い髪を絡ませる。
紫のそんな仕草を、幽々子は本当に愛らしいと思う。
「まだまだ月に含むところがあるの? あの薬師みたいに還俗してくれればいいのかしら?」
「あれは還俗って言うのかしら……まあ、そうよね。
神って名を捨てて、幻想郷にふさわしい存在になってくれれば歓迎するんだけど」
紫の髪に指を絡める。
別に何ということもないのだけれど。
幽々子の顔に笑みが浮かんだ。
「気苦労ばかりじゃ、この髪もなくなってしまうわよ」
「逆に私が出家するって言うの?」
そういえば、最近は寺ができたのだったと、幽々子は思い出す。
もっとも、そんなところに紫を渡すつもりはない。
「あら、出家するくらいならウチに隠居して欲しいわ。紫といっしょに暮らすのも楽しそうですもの」
「……藍に恨まれるわよ」
少し本気になってくれていることが、嬉しい。
紫のことだから、幽々子をつなぐ打算かもしれないけれど。
西行寺幽々子は、餌があれば罠にかかることを厭わないのだ。
「ふふ、ちょっといいかもって思ったでしょ」
「…………ちょっと、よ」
そのまま、あくび一つして。
紫は眠ってしまった。
一度眠った紫はなかなか起きない。
それはさすがに、打算ではない。
紫自身のバランスの問題だ。
「ねえ紫。神様だってお互いにしてるのよ。変な意地張ってないで。気楽に神頼みしちゃいなさいよ」
起きてる紫には言えないことを。
そっと言う。
「神様だって、いいじゃない。私だっていつでもなれるし、博麗の悪霊だって、半ば神霊よ。
月の人たちと山に来た神は無関係なのでしょう? 歓迎してあげればいいじゃない。
少しトラブルメーカーみたいだけど、平和の中ならトラブルだって悪くないわ」
小さく肩をすくめるけれど。
紫は、幽々子の仕草をあまり見てくれない。
「忘れられた人間が向こうに戻されて。妬けるのかもしれないけれど。
あなたの懐にはもう十分な住人たちがいるじゃない。
私にも、みんなにも。まだまだ飽きたなんて言わせないわよ」
起きてる?と、問いかけるように閉じた紫のまぶたを撫でる。
「それに」
唇にそっと手を添えて、囁く。
「幻想郷は全てを受け入れるんでしょう?」
紫の唇が、苦笑して見せたような気がした。