人、そして人外のものたちの住む幻想郷の一角を占める迷いの竹林。
「そういえば今日だったわね……」
そのなかにあると言われている永遠亭に彼女はいた。
「…………」
蓬莱山輝夜。
夜空に浮かび、今こうして望の姿を見せている月のお姫様……だった。
禁断の秘薬である蓬莱の薬に手を出し、月を追われることになった今では隠れ住んでいるこの屋敷、永遠亭の主でしかないのだ。
「姫様……」
「ねえ、永琳。あれから何度あの月を見上げたと思う?」
「…………」
彼女の従者であり、同じく月に住んでいた八意永琳は無言でこれを返す。
それは答えたくないのではない。
答えられないのだ。
「……そうよね。もう数えることもないくらいになるわよね」
風化しきってしまった悲しみが形作る微笑。
それほどまでに彼女たちは永い年月をこの幻想郷で過ごしていたのだ。
「…………」
「…………」
ただ、
「姫様、どちらへ?」
永琳は少し思い違いをしていた。
「……少し、夜風にあたってくるわ」
「姫様……?」
輝夜の想いはまだ風化しておらず、その胸に残り続けていたのだ。
ふらりふらりと、あてもなく歩き続ける輝夜。
月が、風が、花が、夜にしか聞こえぬ声に誘われるように、ただ歩き続けていた。
「…………」
そうしてやってきたのは幻想郷の東端にある博麗神社だった。
空を舞えるものたちからすれば大した距離でないかもしれないが、徒歩で、それも永遠亭からあまり出ることのない彼女からすれば、夜風にあたるだけの散歩にしてはいささか以上の距離である。
「こんなとこまで来ちゃったのね……」
そのことは当人も思わず苦笑せざるをえないほどだった。
「…………」
長い石段の先に建つ神社を見上げる輝夜を、
月はなにも言わずにただ、静かに見守っていた。
その頃博麗神社には一人の先客がいた。
「ふぅ……。たまには一人で飲むのも悪くないねえ」
今では彼女以外の姿を見ることのなくなった、鬼の伊吹萃香だ。
常であればまだ、この博麗神社の巫女である博麗霊夢や魔女の霧雨魔理沙らと酒宴の渦中にいてもおかしくない時分なのだが、今夜はその二名はおらず、萃香一人だけで酒が無限に出てくるひょうたんを片手に月を見上げていた。
「…………」
空に浮かぶ、彼女によって一度砕かれ、そして元の形を取り戻した満月は今も昔も変わらずに夜の世界を照らしている。
(やっぱり帰ってこない、か……)
はるか昔に鬼たちがこの幻想郷を去り、悠久。
もう二度と戻ってくることはないとわかっていても抱かずにはいられない幻想。
「まあ、当然だよね……」
そして、待ち望んでいるものが帰ってこないという事実を突きつけられる現実。
長きにわたってその日々を繰り返してきたというのに、いまだに思ってしまう『もしも』という、儚き可能性を。
「…………」
何度自分に諦めろと言い聞かせてもやめられない、叶うことのない願い。
しかし、そうだとしても彼女は願わずにはいられなかった。
「……っ…………」
霊夢たちと過ごす日々の楽しさでは埋められない、ぽっかりと空いてしまった穴のような空虚感を飲み込むように、ひょうたんの酒を呷る萃香。
「んくっ……んくっ……ぷはっ……。あはは……今日のお酒は質が悪いなあ……。なんかちょっと、しょっぱいや……」
そうして出てきた言葉は、
何百年もの間、そしてこれからも変わるはずのない酒の味についての評価だった。
春風が抜け、桜の花びらは雪のようにその身を舞い落とす。
夜空で星々とともに美しき姿を見せる満ちの月。
神社に植えられし桜の木々はその花を風に揺らし、静かに歌う。
雪月花揃うこの博麗の神社で、
「…………」
月に住まう民の姫、輝夜と、
「!?」
幻想郷に戻ってきた珍しき鬼の萃香は出会った。
「っ……珍しいねえ、こんな夜中に神社にお参りかい?」
「いいえ。ちょっと風にあたりにきただけよ」
指先で目元を擦る萃香に、風に揺れる黒髪に手を添える輝夜。
「風にあたりに、ねえ……。それなら竹林から出るだけでよかったんじゃない?」
「それは……そうだけど……」
「…………」
両者の揺れる瞳には、
「ちょっと……ね……」
いまだに癒えることのない悲しみの色が宿されていた。
月の光を受けて、妖しくその姿を魅せる桜の花。
その艶めかしさは舞い散る花びらにも宿り、神社に月の輝きを彩っていく。
(なんでこんなところに来たんだろ……)
神社の賽銭箱の隣に腰を下ろし、ひょうたんを口に傾ける萃香を目に、輝夜は自問、そして後悔していた。
ここに来れば一人になれると思ったから? いや違う。
ここに来れば昔を――忘れることのできないあの別れを思い出せるからだ。
(ほんとバカね……)
その経緯はどうであれ、死という避けようのない運命によって永遠の別れを受け入れざるをえなくなってしまった輝夜。
(いまさら後悔したってどうにもならないのにね……)
しかし、それはもう過去のことであり、今になってはなにをしようとも変えることのできない、絶対的なものである。
(でも……)
もしもあのとき、蓬莱の薬によって彼に永遠の命を与えていれば、
彼がもし、そのことをよしとしていれば――
(私は独りじゃなかったのに……)
自分たちの下した決断とは逆の、あたたかくて心地のよい幻を思えば思うほど、目に想いが集まり、心が折れてしまいそうになる。
(ねえ……)
美しくしく、尊かった感情も歳月の流れには風化してしまい、
(どうして……?)
今ではそんな想いだけが今の彼女には残されていた。
「月はどうしてあんなに美しいのかな……」
ポツリと漏れる輝夜の声。
「?」
「やっぱり、誰もいないから……なのかしら」
「あんた……」
彼女の頬を伝う輝線に萃香は思わず声を飲み込んでいた。
穢れなき美しさを持ちつつも、孤独の寂しさを内に秘めていそうな雫。
それはまさに、夜空に浮かぶ月そのもののようだった。
(もしかして、こいつも……?)
月を見上げ、呟く輝夜に思わずはいられなかった。
彼女もまた“自分と同じ”なのか? と。
(………………)
愛する誰かの帰りをただ待ち続け、悲しみにその身を染めてしまった自分を見ているようで、萃香は内心複雑だった。
悲しみに暮れたところでなにも変わらない。
そんなことは彼女もわかっているし、その悲しみを忘れようと酒に、宴に、仲間に楽しいひとときを求めた。
しかし、それらをもってしても萃香の抱える心の闇を――離別からくる孤独の想いを晴らすことはできなかったのだ。
(でも……)
彼女――蓬莱山輝夜なら、そして自分――伊吹萃香なら、
同じ愛ゆえの悲しみを持つものなら、
自分の気持ちをわかってくれる。逆に、自分になら彼女の吐き出せない悲しみをわかってやれる。
萃香はそのことに確信に近い自信を持っていた。
だからこそ、
「……ねえ、あなたはどう思う?」
月を見上げる輝夜の問いに、
「そうだねえ……月が綺麗じゃなきゃ、せっかくのお酒がおいしくなくなるでしょ?」
萃香はひょうたんを手に、穏やかでいて無邪気さを失っていない笑みで答えられたのだろう。
春夜の博麗神社。
その心まで優しく撫でてくれそうな風に舞う桜の花びら。
お猪口に注がれたお酒の波紋にゆらめく月影。
そして、神社の賽銭箱を背に二人の少女が腰を下ろしている。
「ふぅ……。たまには静かに飲むのも悪くないねえ」
「静かじゃない飲み方がどんなものか聞きたいけれど、こうして月を眺めながら飲むお酒もいいわね」
夜空に浮かぶ月を見上げ、お猪口とひょうたんで一杯。
このときばかりは萃香も口に運ぶ量は少なかった。
「月見酒もいいけど、せっかく桜も満開なんだし、花見酒も悪くないと思うけど?」
「ふふっ。それもそうね」
そうして今度は一面に広がる桜の花に乾杯。
「……また、お酒を飲みにきてもいいかしら?」
「もちろん。私は大歓迎だよ」
「そう……ありがと」
「もう一杯いっとく?」
「そうね――」
そうして再び杯を空ける。
「…………」
「…………」
二人の間に多くの言葉は必要ない。
月に、花に、そして自分に、
ただ杯を向ければよいのだから……。
「そういえば今日だったわね……」
そのなかにあると言われている永遠亭に彼女はいた。
「…………」
蓬莱山輝夜。
夜空に浮かび、今こうして望の姿を見せている月のお姫様……だった。
禁断の秘薬である蓬莱の薬に手を出し、月を追われることになった今では隠れ住んでいるこの屋敷、永遠亭の主でしかないのだ。
「姫様……」
「ねえ、永琳。あれから何度あの月を見上げたと思う?」
「…………」
彼女の従者であり、同じく月に住んでいた八意永琳は無言でこれを返す。
それは答えたくないのではない。
答えられないのだ。
「……そうよね。もう数えることもないくらいになるわよね」
風化しきってしまった悲しみが形作る微笑。
それほどまでに彼女たちは永い年月をこの幻想郷で過ごしていたのだ。
「…………」
「…………」
ただ、
「姫様、どちらへ?」
永琳は少し思い違いをしていた。
「……少し、夜風にあたってくるわ」
「姫様……?」
輝夜の想いはまだ風化しておらず、その胸に残り続けていたのだ。
ふらりふらりと、あてもなく歩き続ける輝夜。
月が、風が、花が、夜にしか聞こえぬ声に誘われるように、ただ歩き続けていた。
「…………」
そうしてやってきたのは幻想郷の東端にある博麗神社だった。
空を舞えるものたちからすれば大した距離でないかもしれないが、徒歩で、それも永遠亭からあまり出ることのない彼女からすれば、夜風にあたるだけの散歩にしてはいささか以上の距離である。
「こんなとこまで来ちゃったのね……」
そのことは当人も思わず苦笑せざるをえないほどだった。
「…………」
長い石段の先に建つ神社を見上げる輝夜を、
月はなにも言わずにただ、静かに見守っていた。
その頃博麗神社には一人の先客がいた。
「ふぅ……。たまには一人で飲むのも悪くないねえ」
今では彼女以外の姿を見ることのなくなった、鬼の伊吹萃香だ。
常であればまだ、この博麗神社の巫女である博麗霊夢や魔女の霧雨魔理沙らと酒宴の渦中にいてもおかしくない時分なのだが、今夜はその二名はおらず、萃香一人だけで酒が無限に出てくるひょうたんを片手に月を見上げていた。
「…………」
空に浮かぶ、彼女によって一度砕かれ、そして元の形を取り戻した満月は今も昔も変わらずに夜の世界を照らしている。
(やっぱり帰ってこない、か……)
はるか昔に鬼たちがこの幻想郷を去り、悠久。
もう二度と戻ってくることはないとわかっていても抱かずにはいられない幻想。
「まあ、当然だよね……」
そして、待ち望んでいるものが帰ってこないという事実を突きつけられる現実。
長きにわたってその日々を繰り返してきたというのに、いまだに思ってしまう『もしも』という、儚き可能性を。
「…………」
何度自分に諦めろと言い聞かせてもやめられない、叶うことのない願い。
しかし、そうだとしても彼女は願わずにはいられなかった。
「……っ…………」
霊夢たちと過ごす日々の楽しさでは埋められない、ぽっかりと空いてしまった穴のような空虚感を飲み込むように、ひょうたんの酒を呷る萃香。
「んくっ……んくっ……ぷはっ……。あはは……今日のお酒は質が悪いなあ……。なんかちょっと、しょっぱいや……」
そうして出てきた言葉は、
何百年もの間、そしてこれからも変わるはずのない酒の味についての評価だった。
春風が抜け、桜の花びらは雪のようにその身を舞い落とす。
夜空で星々とともに美しき姿を見せる満ちの月。
神社に植えられし桜の木々はその花を風に揺らし、静かに歌う。
雪月花揃うこの博麗の神社で、
「…………」
月に住まう民の姫、輝夜と、
「!?」
幻想郷に戻ってきた珍しき鬼の萃香は出会った。
「っ……珍しいねえ、こんな夜中に神社にお参りかい?」
「いいえ。ちょっと風にあたりにきただけよ」
指先で目元を擦る萃香に、風に揺れる黒髪に手を添える輝夜。
「風にあたりに、ねえ……。それなら竹林から出るだけでよかったんじゃない?」
「それは……そうだけど……」
「…………」
両者の揺れる瞳には、
「ちょっと……ね……」
いまだに癒えることのない悲しみの色が宿されていた。
月の光を受けて、妖しくその姿を魅せる桜の花。
その艶めかしさは舞い散る花びらにも宿り、神社に月の輝きを彩っていく。
(なんでこんなところに来たんだろ……)
神社の賽銭箱の隣に腰を下ろし、ひょうたんを口に傾ける萃香を目に、輝夜は自問、そして後悔していた。
ここに来れば一人になれると思ったから? いや違う。
ここに来れば昔を――忘れることのできないあの別れを思い出せるからだ。
(ほんとバカね……)
その経緯はどうであれ、死という避けようのない運命によって永遠の別れを受け入れざるをえなくなってしまった輝夜。
(いまさら後悔したってどうにもならないのにね……)
しかし、それはもう過去のことであり、今になってはなにをしようとも変えることのできない、絶対的なものである。
(でも……)
もしもあのとき、蓬莱の薬によって彼に永遠の命を与えていれば、
彼がもし、そのことをよしとしていれば――
(私は独りじゃなかったのに……)
自分たちの下した決断とは逆の、あたたかくて心地のよい幻を思えば思うほど、目に想いが集まり、心が折れてしまいそうになる。
(ねえ……)
美しくしく、尊かった感情も歳月の流れには風化してしまい、
(どうして……?)
今ではそんな想いだけが今の彼女には残されていた。
「月はどうしてあんなに美しいのかな……」
ポツリと漏れる輝夜の声。
「?」
「やっぱり、誰もいないから……なのかしら」
「あんた……」
彼女の頬を伝う輝線に萃香は思わず声を飲み込んでいた。
穢れなき美しさを持ちつつも、孤独の寂しさを内に秘めていそうな雫。
それはまさに、夜空に浮かぶ月そのもののようだった。
(もしかして、こいつも……?)
月を見上げ、呟く輝夜に思わずはいられなかった。
彼女もまた“自分と同じ”なのか? と。
(………………)
愛する誰かの帰りをただ待ち続け、悲しみにその身を染めてしまった自分を見ているようで、萃香は内心複雑だった。
悲しみに暮れたところでなにも変わらない。
そんなことは彼女もわかっているし、その悲しみを忘れようと酒に、宴に、仲間に楽しいひとときを求めた。
しかし、それらをもってしても萃香の抱える心の闇を――離別からくる孤独の想いを晴らすことはできなかったのだ。
(でも……)
彼女――蓬莱山輝夜なら、そして自分――伊吹萃香なら、
同じ愛ゆえの悲しみを持つものなら、
自分の気持ちをわかってくれる。逆に、自分になら彼女の吐き出せない悲しみをわかってやれる。
萃香はそのことに確信に近い自信を持っていた。
だからこそ、
「……ねえ、あなたはどう思う?」
月を見上げる輝夜の問いに、
「そうだねえ……月が綺麗じゃなきゃ、せっかくのお酒がおいしくなくなるでしょ?」
萃香はひょうたんを手に、穏やかでいて無邪気さを失っていない笑みで答えられたのだろう。
春夜の博麗神社。
その心まで優しく撫でてくれそうな風に舞う桜の花びら。
お猪口に注がれたお酒の波紋にゆらめく月影。
そして、神社の賽銭箱を背に二人の少女が腰を下ろしている。
「ふぅ……。たまには静かに飲むのも悪くないねえ」
「静かじゃない飲み方がどんなものか聞きたいけれど、こうして月を眺めながら飲むお酒もいいわね」
夜空に浮かぶ月を見上げ、お猪口とひょうたんで一杯。
このときばかりは萃香も口に運ぶ量は少なかった。
「月見酒もいいけど、せっかく桜も満開なんだし、花見酒も悪くないと思うけど?」
「ふふっ。それもそうね」
そうして今度は一面に広がる桜の花に乾杯。
「……また、お酒を飲みにきてもいいかしら?」
「もちろん。私は大歓迎だよ」
「そう……ありがと」
「もう一杯いっとく?」
「そうね――」
そうして再び杯を空ける。
「…………」
「…………」
二人の間に多くの言葉は必要ない。
月に、花に、そして自分に、
ただ杯を向ければよいのだから……。
が、それぞれ楽しくない過去がある。
それは到底今の楽しさで忘れられる物ではない。
だが、これはこれ。それはそれ。
ま、いっか。