「こんな陽の光の届かない場所で、果たして満足に生きていけるんだろうか?」
それは、地底に封印されたばかりの妖怪が真っ先に感じる不安である。
だが彼ら・彼女らの大部分は、先輩地底ヤー(Titeiプラスer)によって旧都に導かれるや否や、目を輝かしてこう思い直すのである。
「なんだ、思ってたよりもずっと良いところじゃないか!」
と。
それどころか、旧都に暮らす内に価値観を180度転換させ、「地底>>>>>>地上」だと主張して憚らなくなる者も、珍しくは無い。
なにせ今の地底世界の姿は、お祭りと乱痴気騒ぎを何よりも好む鬼たちの主導によって造られたものだ。
そこに居て心が弾まぬ者など、ほぼ皆無だと言って良いだろう。
だが村紗水蜜という舟幽霊は、そんなレアな例外のひとりであった。
彼女という存在の特質をひとこと……いや、ふたことで表現するなら、「地味アンド陰気」である。
彼女は地上において、ただひたすら舟の転覆に努めてきた。
気管支を海水で詰まらせ、波の間に間にもがき苦しむ人間たちの姿を鑑賞しては、クスクスと薄ら寒い笑顔を浮かべてきたのだ。
物好きなロンゲ尼僧のおかげで、なんとか呪われた海域からは解き放たれたものの、体の芯まで染み込んでしまった慣習と性格はなかなか修正できるものではなく、今日も今日とて地底湖に笹を折って造った舟を浮かべては、小さな柄杓で水を浴びせかけることで長閑を忍ぶ有様であった。
「おっす、ムラサ」
水辺の孤独を楽しんでいた水蜜に、何者かが不意に声をかける。
水蜜が振り返ると、そこには黒い霧の塊が漂っていた。
「今日も不元気そうじゃない、ぬえ」
「あんたもね、ムラサ」
霧が散じ、代わってその場に現れたのは、黒ずくめの衣装に身を包む少女だ。
『正体不明』の4文字を己のアイデンティティーとして掲げ、いつ如何なる時も人目に隠れて生きてきた此の者こそ、伝説の妖獣「鵺」の正体であった。
名を、封獣ぬえ、と言う。
「あなたがここに来るなんて、久しぶりね」
「ん。なんとなく、気まぐれでね」
「そう」
「今日は、どのぐらい沈めたの?」
座り込む水蜜の傍らには、何十もの笹舟がずらりと並べられている。
ぬえは、そのひとつを取り上げると、軽く手首をひねって水面に放り投げた。
微かな音を立てて浮かんだ舟に、水蜜は容赦も間髪も入れず、柄杓の一閃を浴びせる。
「これで、281隻」
「ずいぶん、がんばってるじゃない」
「うん」
浮かべて、沈める。
浮かべて、沈める。
単純な作業を、まるで面白くもなさそうな表情で繰り返す水蜜。
しかし、そんな水蜜の横顔を見るぬえは、どことなく愉しそうだった。
ぬえは、旧都の連中が嫌いだ。
どいつもこいつも、地上を追い出された身分の癖に、そんなこと一切忘れたかのように明るく振舞っていて……そのうえ、目立つ格好をしている。
例えば、あのアイドル土蜘蛛なんかマジ見てらんない。
あのケバい金髪とか、面白すぎるデザインの膨らみ八つ目スカートとか、一体なんなの?
さらに、地底の親分ヅラしている一角鬼に至っては……もはや我慢の限界を軽くぶっちぎってくれている。
人気者のご多分に漏れず、ギラギラと輝く髪!
遠くからでもひと目で分かる角は、ただでさえ長身である鬼の存在感を否応無く倍増させており、混雑する待ち合わせ場所では大活躍!
そして、何よりも許せないのが……あの胸だ!
あの暴力的なサイズが、私の劣等感をチクチクと刺激するのよムキー!
他にも胸部とか、バストとか、Gカップとか、とにかくすれ違う全ての男たちが思わず振り返らずにはいられないほど、あいつの自己主張は激しすぎる。
違うだろ、と、ぬえは思う。
妖怪たる者、己の正体を消してナンボどすえ!と、雅な京都弁で、ぬえは常々憤っている。
誰の目にも留まるような姿かたちを誇示し、誰の耳にも聞こえるような大声ではしゃぎまわる奴らなど、ぬえは仲間として認めたくないのだ。
そんなわけだから……ある日、旧都の喧騒から逃れるようにして辺境をさまよう内、地底湖のほとりに庵を結んで静かに暮らす水蜜を見つけた時は、そりゃもう飛び上がりたくなるほど喜んだ。
(これだ! こいつこそ、私が待ち望んでいた理想の……ぐぎゃ)
と言うか、実際に飛び上がって洞窟の天井に頭をぶつけ、流血の大惨事となった。
意識不明の重態に陥ったぬえを、水蜜は「なんだ、こいつ?」と思いつつも放っておけず、とりあえず自宅に搬入することにした。
(鵺って子は不思議ね。一緒に居ると、なんか落ち着く……)
脳天の傷口に包帯を巻いてあげながら、水蜜は不思議なときめきを感じていた。
ちょっと癖のある、黒い髪。
それと色を揃えた、真っ黒な服。
今、部屋を照らしている蝋燭の灯火を消したなら、彼女はきっと体温すら残さず闇に溶けて消え去ってしまうだろう。
暗い海底を寝床としてきた水蜜は、相手の醸す儚い雰囲気に、親近感を覚えずにはいられない。
(下らない地下世界にもにも、まだこんな妖怪らしい妖怪が残っていたか)
消毒液の沁みる痛みに耐えながら、ぬえもまた感心する。
イマドキの妖怪には珍しく、地毛は自分と同じ黒色で、目に優しい。
それに、飾り気皆無のファッションも賞賛に値する。
薄手の白い小袖が一枚きりとは、舟幽霊として実にクラシックかつフォーマルな心がけである。
胸部の盛り上がりがつつましやかなことも、ぬえ的に高評価である。
「あの」
「ねえ」
沈黙が支配していた部屋で、ふたりが思い切って声をあげたのは、ぴったり同時だった。
「な、なにかしら」
「な、なんなのさ」
「言いたいことがあるなら、そちらからどうぞ」
「ううん、いいよいいよ、あんたから言ってみて」
「そ、そう? じゃあ、聞くけど……あなたって、もしかして……」
「目立つのは、嫌いかな」
「え!」
「私もね、それを聞こうと思ってたのよ。ねえねえ、あんたってさ、私と同じで……」
「ええ。人づきあいなんて、まっぴらごめんだわ!」
「きゃー! 素敵!」
「きゃー! 最高!」
ひとつの友情が、芽生えた瞬間だった。
それから時は流れ、西暦21世紀のある日。
大昔から常に歓声の絶えない旧都だが、その日は特に騒がしかった。
なぜなら、地上からひとりの鬼が訪ねてきたからである。
その鬼は、地底における鬼族の代表である勇儀とは古い友人とのことで、一歩旧都に足を踏み入れた途端、それはもう上へ下への大宴会が始まってしまったのであった。
「いよぉー、ゆうぎぃー! お前はあいかわらずデカいんだなー! 主に態度とか胸とかー!」
「がはははー、すいかー! お前だって、その気になれば山よりもデカくなれるくせに良く言うよー!」
「えへへへへー、最近は貧乳もステータスだ希少価値だとか言われてるけどねー」
「ほほう、地上は変態ばっかりだなー!」
「変態ばっかりだよおー! 今、この文章を読んでる奴だって、きっと人には言えない性癖のひとつやふたつは持ってるだろうよー!」
「二次元最高! だなー!」
「おお、二次元最高! ……っと、まあまあ、それはそれとして、ほれ、一献」
「おっととと、こりゃこりゃどうも。ほんじゃ、ま、ご返杯」
三日と三晩が過ぎても、宴の終わる気配なぞ露も見えない。
つい先日、突如として湧き出した間欠泉を巡って、平和な地底世界にひと悶着が起きた。
その解決後、地上側は地底側との契約を一部改め、互いの行き来を昔ほど厳しくは制限しなくなった。
多くの妖怪たちにとって、それは喜ばしい出来事として受け止められた。
しかし、いつでも、何事にも、例外と言うものは存在する
(ちくしょー。ただでさえ目立ちたがり屋が多い場所へ、ハデハデしい新手がさらに押しかけてくるなんて)
ぬえは、心底うんざりしていた。
旧都を抜け出し、地底のどこに潜んでも、鬼たちの馬鹿でかい笑い声が響いてきて、気が狂いそうになる。
まして今さら地上の人間を誑かしてみたところで、大して気が晴れるわけでもない。
(こういう時は……ムラサだ)
ぬえは、湖畔にぽつんと立つ水蜜の姿を思い浮かべる。
するとどうだろう、あれほどささくれ立っていた心が、いくらか平静さを取り戻したではないか。
(あの地味さ! あの暗さ! 私を癒してくれるのは、もうムラサしか……)
ああ、早く彼女に会いたい。
会って、互いに無言のまま、一心不乱に柄杓でポチャポチャ水面を叩きたい。
飛ぶ翼に、力がこもる。
そしてマッハの速度で地底湖に辿り着いたぬえは……
信じられないものを見た。
「やあ、ぬえぬえ! 元気してる? ビタミンC摂ってる?」
静かな湖の、ほとりで。
水兵の制服を着こなした、見るからに健康そうな少女が。
どっかとあぐらをかいて……山と積まれたレモンを、がつがつ貪っていた。
「壊血病は、舟乗りの大敵。ビタミンCの切れ目が命の切れ目なのよ」
「す、すっぱくないの?」
いや、違う。
それ以前の問題だ。
「これは、一体……どういうことよ、何やってんだよあんた!」
驚き嘆き、さらに呆れ果てながら、ぬえは相手にビシリと人差し指を突きつける。
百歩譲って、この奇行を許すとしても……なんだか妙にツヤツヤしてしまった顔色と、今まで見たこともない変テコな服装だけは、どうしても看過できない。
しかし水蜜は全く動じることなく、尻についた砂を軽く払って立ち上がると、自信満々に腕を組んで、こう言った。
「私は生まれ変わったのよ! 根暗な村紗水蜜は、もう死んだ! 今、ここに居るのは……キャプテン・ムラサなのです!」
「はあ?」
「まあ聞いてよ。あのね、ついさっきね、ここに、ふたりの鬼が来たの。でっかいのと、ちっちゃいの」
ぬえの背筋を、嫌な予感が走る。
「ちっちゃい方がね、そりゃもう、こーんな大きい風呂敷包みを抱えていて。なんでも、地底の観光がてら、会ったひと全員に地上のお土産を配って歩いているんですって。『オチカヅキノシルシ』って奴で」
「それで……あんたは、何をもらったのよ」
「勇気よ!」
ぬえは、思わず目頭を押さえる。
なんてこった。
勇気?
勇気だと?
うわーポジティヴすぎて反吐が出る!
そんな言葉は、世知辛い社会の中で、人ごみに揉まれながら生きる覚悟を持つ者だけが吐けるものだ。
私の知るムラサには、全くもって似つかわしくない言葉ランキング堂々のナンバーワンじゃないか。
「ううう……何さ、勇気って」
「具体的には、このセーラー服よ!」
「せえら……?」
「いい? これはね、ただの服じゃないの。誇りある海の男の勝負服なの」
「あんた、女じゃない」
「そんな小さなことにこだわっている時代は、終わったのよ!」
嫌だ。
こんなのムラサじゃない。
まさか服が変っただけで、性格まで突然変異を起こしてしまうなんて。
……でも。
それはそれとして、よくよく見ると……この服……
結構、こいつに似合ってね?
もともと、陰のある美人? って言うの?
憂いに満ちた佇まいにこそ、魅力のある妖怪ではあったのだけど。
こういう清潔な印象を前面に打ち出した格好も、まあ……割と悪くない、かな。
つーか、マジ胸キュンなんですけど!
あー、やっぱムラサに白はよく似合うわー!
「その鬼は言ったわ。あんた、舟幽霊なんだろ? だったら、こんな小さな湖でくすぶっていていいのかい? お前の心には、もっと大きな海が広がっているんじゃないのか? そうだそうだ、せっかくだからこれをプレゼントしよう。外の世界の舟乗りは、みーんなこれを来て大海原に漕ぎ出しているんだぜ! ……ってね」
ぬえはもう、水蜜の話など聞いていなかった。
キュロットの裾からスラリと伸びた太ももに視線を釘付けたまま、ただただ恍惚の立ち呆け。
小袖の合わせからチラチラ覗く色気とは、また一風異なる趣き。
そんな、いわば開放の美学とでも呼ぶべき味わいに、ぬえの精神は虜となった。
(け、健康美……!)
不覚にも、ぬえはよろめいていた。
そう……性癖のどんでん返しとは、ある日突然、何の前触れも無しに、疾風怒濤の激しさと共に襲いかかってくるものなのだ。
だいたいさあ、この文章を書いている人間だって、もともと同人ゲームなんかまるで興味なかったのに……いつのまにか、東方百合なしでは生きられない体となってしまったんだぞ畜生!
おおキモいキモい!
でも、僕は悪くないんだ!
神主のキャラデザインセンスが、まさに一撃必殺の威力だったのが悪いんだ!
なあそうだろ……そうだと言ってくれ、みんな!
「私、決めたわ。これから私は、再び地上に舞い戻る。そして命の炎を燃やしつつ、ビッグでホットな舟の舵を握るのよ!」
筆者渾身のカミングアウトをよそに、水蜜の演説は続く。
「取り舵! 面舵! 目指すは魔界! 全ては、永年に渡り胸に秘め続けていた大望を果たすために! あの素晴らしい聖をもう一度!」
ぬえの耳には、相変わらず水蜜の言葉は届いていない。
新たに開けた己の内面世界に、彼女はとっぷりと浸っていた。
(この鮮やかなエメラルドグリーンの襟……パねぇ)
(その縁を清らかに飾る、2本の白ライン……ヤべぇ)
(そして、ルビーよりも眩い紅にきらめくスカーフ……かわええええぇぇぇぇぇ!)
小ぶりな鼻から、荒い息が気ぜわしく噴き出す。
(これぞまさしく、トリプルA! ええわー、とってもええどす!)
感情が高ぶると、つい故郷の京都なまりが出てしまう。
そんな封獣さんは、とっても良いものだと思いますグフフ。
「見て、ぬえぬえ! 今までの私は、生きる屍でしかなかった! まさに、そんじょそこらの舟幽霊に過ぎなかったわ! そんな私の生き方を表現するなら、えっと、こんな感じ?」
水蜜は唐突に柄杓を湖に突っ込むと、「ブン・・・・・・・・ブン・・・・・・・・ブン・・・・・・・」などと口ずさみながら、ゆっくりと辺りに湖水をばらまいた。
ぱしゃり。
冷え切った淡水を顔面にかけられ、ぬえはようやく我に返る。
「あ……え、何?」
「だめよ! こんなの全然だめだめ! 私の理想とする生き様は、こう!」
どこから取り出したのか、水蜜の手には巨大なイカリが握られていた。
「シェイシェイハ!!シェイハッ!!シェシェイ!!ハァーッシェイ!! 」
片手で軽々と、イカリをぶん回し始める水蜜。
その壮絶な回転力は、なんとハムスター三千万匹分!
「ちょ、な、いきなり、危な……ごぎゃっ!」
勢い余ったイカリの先端が、ぬえの脳天に直撃した。
これが、決定打となった。
この瞬間、『目立たないっ娘、だーい好き!』を基調とする思考回路は完膚なきまでに叩き壊され、歪み……
代わりに、『セーラーっ娘、抱きしめたい!』という欲望が形成されたのである。
ひとりの変態淑女が、ここに生まれた。
「どうよ、ぬえぬえ! これが、新しい人生のテンポよ……って、あれ? どうしてそんなところで、血まみれになって寝てるの? もしもし、ぬえー、ノックしてもしもーし……返事が無い。ただのゴスロリのようだ。まあいいわ、もう言いたいことは全部言ったから。それじゃ、しばしのお別れね。希望の海路目指して、いざヨーソロー!」
飛び去る水蜜。
残されるぬえ。
地底の空洞を吹き抜ける風は、なぜか潮の香りをはらんでいた。
それからさらに、幾ばくかの時間が流れた。
ぬえは今、首根っこを掴まれ、無理矢理引きずられている。
彼女を捕まえている張本人は、東風谷早苗と言う名の現人神だ。
幻想郷においては新参ながら、すでに妖怪退治の腕前はルナティックという廃人シューターである。
(あーあ。面倒なことになっちまったなあ……)
己のしでかした所業を、ぬえは深く後悔する。
電撃的なセーラー属性開眼から、数日後。
ようやく意識を取り戻したぬえは、水蜜を追って地上に昇り、そこで飛宝ハンティングに精を出す命蓮寺一家を目撃する。
かつての仲間たちと共に困難なミッションに挑む水蜜は、とても活き活きとして見えた。
(ムラサが、楽しそうに笑ってる……あんな顔、私は今まで見たことが無い……)
(……あのネズミとか雲使いとか寅野郎とかは、何様のつもりなの? 私だけのセーラームラサと、当たり前のようにじゃれあって……)
そんな具合で心をプチ病んだぬえは、ついつい正体不明の種をばらまいて水蜜たちの仕事を邪魔し、さらには突如として状況に乱入してきた人間たちをも邪魔し、とにかく目に映るもの全てを邪魔して調子に乗っていたところを、早苗の手によってあえなく退治されてしまったのである。
「さあ、ぬえさん! 鴉天狗のハウスに着きましたよ!」
「……そうかい」
粗末な木造小屋の前。
疲れ切ったぬえに、弾んだ声の早苗が笑いかける。
「これまで正体不明だった侵略者の正体が、写真と言う明白な媒体をもとに、とうとう全国に知れ渡るのです! ワクワクしちゃいますね!」
「……うぎぎ。鵺として最高の屈辱だわ」
「それでは、カメラマンを呼びましょう! 文さーん! いますかー! いたら出てきて下さーい! 3秒以内に出てこないと、蛙アルテマ撃ちまーす!」
玄関が開かれるまでに要した時間は、実に0.04秒。
流石は幻想郷最速を自負するだけのことはあると、早苗は素直に感服した。
「はあはあ、ぜえぜえ……あら麗しの東風谷さん、こんな夜更けに一体どんな用ですか?」
明らかな作り笑いと共に現れたのは、パジャマ姿の射命丸文である。
「ええ、ちょっと記念写真を撮っていただきたいと思いまして」
「は?」
「ですから、この邪悪の権化たるエイリアンと、それを征伐した宇宙英雄たる私の、輝かしいツーショットを撮っていただきたい撮らぬなら殺してしまえカラススス! っつーわけです」
字余りを誤魔化そうとして誤魔化しきれていない。
文は思わず首をひねる。
ああいや、根本的な問題は、そこではなくて。
「あの、東風谷さん」
「はい?」
「エイリアンとやらは、どこにいるんで?」
「まあ! なんて! 頭の悪いカラスでしょうッ! ガボッ!」
「そこに立ってるのって……どう見ても、単なる鵺なんですけど」
「ガボッ! あなたにはこのエイリアンが、鵺に見え……え?」
「服こそ変わってますけど、顔と妖気の質だけは全く変わってませんね。大変お久しぶりです、封獣さん」
不意に名を呼ばれ、ぬえは驚愕する。
そして記憶の底から、古い屈辱が呼び起こされる。
「あ……あんた、まさか!」
「ふふ、いかにも。都を騒がす貴方の正体を、唯一スッパぬいた……あの鴉、ですよ」
ぬえは、大きな舌打ちを漏らした。
「こんなところで遇うとはねえ……名は確か、射命丸とか言ったっけ」
「ええ。あのスクープのおかげで、私は平安ピュリッツァー賞に輝くことができました。感謝してます」
「あんたのお陰で、人間や他の妖怪はともかく、天狗だけは騙すことができなくなっちまった」
「お察しします」
「いやらしいねえ、その慇懃無礼な態度! ふん、あんたこそちっとも変わってないじゃないか」
「いえいえ、あれから時代も大きく動きまして。今じゃ、ほぼゴシップ専門のカストリ記者に成り下がりました」
「お察しするよ」
「そりゃどうも」
ふたりは、互いに懐かしげな苦笑を見せ合う。
過去のことは、過去のこと。
かつての確執をいつまでも引きずらないのが、妖怪という種族の美点であった。
「それで、封獣さん。一体全体、どういういきさつで現人神に同行してるんですか?」
「ああ、それなんだけど……」
ぬえは早苗に振り返ってみて、ぎょっと目を丸くした。
早苗は顔面を真っ赤に染めて、まるで生まれたての小鹿のようにぷるぷる震えていたのである。
「あやややや? どうしました東風谷さん、まさか……おしっこ漏れそうなんですか?」
「いや、もしかしたら月のモノという可能性もある。射命丸、今すぐ生理用品の準備を……」
「ごめんなさい!」
「え?」
「え?」
「ほんと、ごめんなさいっ!」
そりゃもう目にも止まらぬ勢いで、早苗は頭を下げた。
「あの、わ、私、その……し、知らなかったとはいえ、とんだご無礼を……」
「む……そうか、やっと分かってくれたのね。私の真の正体を」
「えっと、鵺? そういうのって、私、今まで見たことなくて、それで、つい、うっかり」
「まあ……そもそも人間の前に、私が姿を現すことなんて滅多にないからねぇ」
「早合点でした、軽率でした、反省してます……あああああああどうしようどうしよう、また神奈子様と諏訪子様に怒られちゃうよう……」
見ているのが可哀想なぐらい、早苗は慌てふためいていた。
つい先ほどまでの高圧的な態度からは急転直下の、あまりにも必死すぎる涙目に、ぬえと射命丸は思わず……
「なっははははは!」
「うっひひひひひ!」
大いに、笑ったのだった。
それからさらに、30分後。
今度は守矢神社の内部に、ぬえは連れ込まれていた。
「こんな夜まで付き合わせてしまって……どうぞ今晩はウチに泊まっていって下さい」
「そうだね、夜道は危険だし。また、凶暴な巫女に襲われたらたまったもんじゃないし」
「うう……」
ちょっとした皮肉にも、しゅんと首をうなだれる早苗。
一度ハイテンションに火がつくと暴走するきらいはあるものの、根は善良な人間であるらしい。
だからぬえは、素直に早苗の好意に甘えることにした。
地上に寝床を持たず草枕を常とする彼女にとって、久しぶりの柔らかな寝床の誘惑は、逆らいがたいものであった。
「ここの主神たる二柱は、現在爆睡の真っ最中です」
「うん」
「ですので、お静かに願います」
「うん」
「あと、もうひとつお願いが……」
「分かってる。今日のことを、神様にチクったりはしないよ。私だって、これ以上誰かに正体を知られるのはごめんだしね」
「……どうも、申し訳ありません」
自分も丸くなったものだなあ、と、ぬえはしみじみ思う。
千年前だったら、少しでもスキを見せた相手は問答無用で食い殺していたものを。
悔しいことだが……暢気な地底の雰囲気に、自分もまた知らず知らずの内に影響されてしまったらしい。
「ありがとうございます。それでは、お上がり下さい」
神社内の一室、勉強机とベッドの置かれた六畳半に、ぬえは案内される。
「ここ、私の部屋です」
「ふーん。なんか、現人神って割には普通の部屋だね」
「まあ、もともとは普通の女子高生でしたから」
「じょしこ……何?」
「それでは、お風呂とお夜食の準備をして参ります」
「ああ、いや、そんなに丁重に構ってくれなくてもいい……ん?」
そこで。
「あ……」
ぬえは、見た。
「ああっ……あああああああ」
見てしまった!
「セ、セセセセセセ」
「どうかなさいました?」
「セーラー服っ!」
「んえ?」
木目調の壁から飛び出た壁掛けに、それはごくごく普通、ごくごく無造作に吊られていた。
色は濃紺、下半身はキュロットではなく丈の短いスカートだという違いはあるものの、そのデザインは間違いなく、水蜜が着ていたアレと同一のものだ。
「なぜっ! どうしてっ! こんなところに、こんなものがあるっ!」
相手の興奮の理由に皆目見当がつかず、早苗は小首をかしげる。
「ですから……私、ちょっと前まで女子高生だったもんで。その時の記念として、こうして制服を飾っているんです」
「なに、なに、なに? あんたも、海の女だったの?」
「いやいやいや」
早苗はセーラー服の胸ポケットから、小さな手帳を取り出した。
「ほら、見て下さい」
手帳の最初のページには、「学生証」という文字の書かれた紙が挟んであり、さらにその上には、セーラー服を着た早苗のバストアップ写真が貼り付けてあった。
「がくしょう、ですって? あんた、巫女じゃなかったの?」
「巫女と言うか……風祝ですけど」
「うぬぬ……まさかカムナガラの道のみならず、聖と同様に仏道まで修めた人間だったとは……」
平安時代において、「学生」という言葉は「学僧」と同義であった。
だが、ぬえも早苗も、時代によってその意味が大きく変わったことを知らない。
「くっ、お見それしたわ。こんなに若くして、すでに三足のわらじを履いているなんて」
「なんだかよく分からないけど、まあ、現人神ですし。そんなの余裕? みたいな?」
「この私が敗れるのも、いたしかたなし……というわけね」
「参りましたか!」
「参りました」
三つ指突いて、ぬえは平伏する。
だが、一見完全に屈服したように見せかけつつも。
(ムラサの新しい魅力を開発するチャンス到来!)
その眼はなお、不敵かつ好色な光に輝いていた。
「あの」
「なんでしょう」
「かように完璧で、慈悲深き現人神様にお願いがあります」
「苦しゅうない。申してみよ」
「あの服、ください」
「……なっ」
「だめ?」
「だめーっ!」
ごますり作戦、大失敗。
するといきなり、ぬえは床に寝転がり……四肢を突っ張らせてバタバタ暴れ出した。
「やだやだー! セーラーくれなきゃやだー!」
「めっ! ワガママ言うんじゃありません」
「なんでだよー! いいじゃん服の1着や2着ぐらい」
「あれは、特別な服なんです。我が青春の血とか汗とか、とにかく色んな汁が思い出と共にじっくり染みこんでいるんです!」
「うわあ、なにそれ美味しそうジュルリ! ますます欲しくなったよハアハアハア」
「な、なんでそこでいきなり鼻息荒くなるんですか! 馬鹿? セーラー馬鹿なの?」
「馬鹿じゃないもん! ちょっとばかり、あの服を着せて360度あらゆる角度から眺め回してニヤニヤしたい相手がいるだけだもん!」
「そ、そ……そんな不純な理由で、私の青春を汚されてなるものですか!」
「ほほう」
ぬえは上体を起こすと、奇妙に低いトーンで、言った。
「それじゃあ……どうしても、渡すつもりはない、と?」
「無論です」
「ふーん。あっそう。まあ、それはそれで、いいけどね」
「やっと分かってくれましたか。じゃあ、改めてお風呂とお夜食の用意を……」
「言いつけちゃおっかなー」
「っ!?」
「あんたの崇める神様に、あんたが今夜しでかした失態をぜーんぶ、教えてあげちゃおっかなー」
涙声と怒号と弾幕が交差するネゴシエーションの結果、プレゼントは無理にしても、とりあえず1週間のレンタルが許可された。
夜明けの太陽が、一体の飛ぶ影を照らし出す。
それは焦茶色の紙袋をしっかり胸に抱き、希望に満ち溢れるあまり瞳孔全開の笑顔で、命蓮寺めざして一直線に飛んでいた。
「おはよう、みなさん」
境内に並び立つ妖怪たちに向かい、聖白蓮はおっとりとした動作で挨拶する。
「うむ、おはよう」
「おはようございます姐さん」
「良い朝です。天に登る朝日も、地に立つあなたの笑顔も、同じくらい美しく輝いていますよ」
「まあ。星さんはいつもお上手でいらっしゃるのね」
「いやいや、思ったままを舌に乗せたまで……あぐうっ!」
頬を膨らませたナズーリンに、突如として脛を蹴られ、寅丸星は地べたを転げまわる。
「な……何をするんですかナズーリン!」
「失礼。うっかり足が滑った」
「こら、それが主人に対する態度ですかっ!」
「ふん」
飛び散る火花。
おろおろする白蓮。
そこに、雲居一輪が割って入る。
「やれやれ、朝から見せ付けてくれるねえ鼠!」
「はて……どういう意味かな」
「心配しなくたって、誰もあんたの寅ちゃんを取りゃあしないよ!」
「ばっ、ばか! そんなんじゃないよ!」
「姐さんの深く大きな愛は、たった一個人にのみ向けられるものじゃあない。それは、あんたもよく分かってるでしょう」
「それはまあ……そうだが……」
話の流れがいまいち理解できず、当の白蓮と星は不思議そうにまばたきを繰り返すだけだ。
「まあ、とにかく……喧嘩はよくないわよ? ね?」
その白蓮の一言で、とりあえず事態は収束する。
春風のように優しくも、巌のように威厳たっぷり。
それが、白蓮という大魔法使いの特質なのである。
「そうだな。すまないご主人様。私ってば、いささかアレだったみたいだ」
「ぬ……なんだか知りませんが、反省してるなら良しとします」
「お待たせー!」
場の空気が再び和み始めたところに、水蜜が姿を現す。
「遅かったね、元・船長」
「ごめんね。今日の買い物があんまり楽しみで、それで昨日はなかなか寝付けなくて……」
「あらあら。幽霊が朝寝坊とは、珍しいわねえ」
寺の仲間に混じる水蜜は、セーラー服を着ていなかった。
その身を包むのは、ありし日のアーキタイプ・村紗と同じく、白い一枚小袖ポッキリである。
「それじゃあ、全員揃ったところで出かけましょうか」
「おー!」
白蓮の呼びかけに、全員が拳を突き上げて応える。
彼女たちの絆の固さが窺い知れる、実に微笑ましい一場面である。
しかし、このまま平穏無事のまま寺から出してしまったのでは、話が面白くならない。
起承転結のうち「転」を巻き起こすべく、遥か上空から、フェチ魂に燃える蒼紅の翼が急降下する。
「ちょおおおぉぉぉっっっと!」
あれは何だ。
「鳥?」
「飛行機?」
「UFO?」
いや、違う!
「待ったあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
『ぬ、ぬえだー!』
その名を呼ぶ一同の声が、見事に唱和した。
「くぉらっ! ムラサァァァァ!」
「ひいっ」
謎の剣幕に押され、水蜜は思わず、白蓮の背中に隠れてしまう。
「なぜだっ! あんたはん、そげな格好してはるのは、どげんしたっぺよ?」
激昂のあまり多種の方言が混ざり合い、あまつさえ鵺なのに鬼のような形相である。
「まあまあ、ぬえさん」
ますますもって震え上がる水蜜に代わり、白蓮がゆっくり問いかける。
「何をそんなに怒ってらっしゃるんですか?」
「だってっ! ムラサがっ! 私の大切なパーフェクト・ビューティ・ムラサがっ!」
フッと膝から崩れかと思うと、めそめそ、ぬえは泣き出した。
「セーラー服……着てないんだもん……」
「やれやれ。まあお聴きなさい、哀れな鵺よ」
星が、哀れみの表情をもってぬえに視線を落とす。
「彼女はもう……セーラーを捨てたのですよ」
「な……」
「理由は、ふたつ。ひとつは、先日の人間どもとの戦いで、服がボロボロになってしまったため」
ああ、確かにそれは一大事だ。
だが星は、さらに決定的かつ絶望的な要因を、冷ややかに告げる。
「もうひとつの理由は……過去と決別するためです」
「ど、どういうこと?」
「私が説明してあげるわ」
水蜜はおずおずと手を伸ばし、ぬえを立ち上がらせた。
「聞いて、ぬえ」
「意味わかんないよ、ムラサ……」
「私は、かつて邪悪な妖怪として、多くの命を殺めてきた……」
「うん。知ってる」
「でも、今は違う……生まれ変わった私は、聖と一緒に、人間と妖怪を仲良くさせるため一生懸命がんばってるわ」
「だからって、自分の出自を捨てて良い理由にはならない!」
「……聖輦船の船出が成功した以上、私にはもう……海とか舟とか、そんなものに囚われる理由はないの」
「そ、それで……こんな……古臭い格好を……?」
「見てください、ぬえさん」
聖が袂からがま口の財布を取り出し、ぬえの前に突き出す。
「……これは?」
「我々の貯蓄です。中には、かなりの額が入っています。だいたい、サラリーマンの平均年収と同じくらい?
「そんなに大量の容積があるようには見えないんだけど」
「四次元魔法です」
なんでもありだな、こいつは。
「このお金は、水蜜さんが一生懸命、遊覧船事業に勤めてくれたおかげで貯まったものです。ザ・浄財オブ浄財です」
「それが……何だと言うの?」
「私たちは今日、人里に降り、水蜜さんのために新しい服を買います。フリルとリボンでコテコテに彩られた、これぞ神主の趣味!って感じの一張羅を」
力強く、白蓮が立ち上がる。
その顔は、至って真剣そのものだ。
「どうか祝ってあげてください。彼女の新しい門出を」
大魔法使いの微笑みは、どこまでも慈愛に満ち溢れている。
「そして……どうか喜んであげて下さい! 彼女のドロワーズデビューを!」
うわおー!
爆発的な歓声が、命蓮寺境内に響き渡った。
「おめでとう元・船長!」
「おめでとう村紗! ほら雲山もスマイルよスマイル……うわっキモッ!」
「おめでとうございます水蜜!」
「み、みんな……本当にありがとう!」
この世に生を受け、そして不運にも幽霊に化けてしまってから幾星霜。
気の遠くなるような時間を、ずっとノー腰巻のまま過ごして来た水蜜は、まだ見ぬ純白の下着に思いを馳せ、うっとりとした表情を浮かべた。
ああ、これからこの足首を、この太ももを、この鼠径部を、コットン100パーセントの滑らかな布が通過していくのだ……
その瞬間の肌触りの心地良さを想像するだけで、どんぶり飯が軽く10杯は食えそうである。
早くも絶頂に達しそうなぐらい高濃度の多幸感を、水蜜は周囲に振り撒いている。
そんな彼女の笑顔に、ぬえの熱きセーラー欲も、流石にいささか萎えそうになった。
だが。
このままでいいのだろうか。
彼女たちの言い分は、至極もっともだ。
それでも、その主張をここで認めてしまったら、以後未来永劫に渡り、彼女のセーラー姿を拝むことは叶わなくなるだろう。
(許せるものか)
たぎるリビドーに突き動かされるまま、ぬえは己の脳細胞を懸命に鞭打つ!
(論破する! 絶対に!)
うつむいて黙り込んでしまったぬえを見て、己の理念が伝わったものと早合点した白蓮は、静かにその華奢な肩を抱く。
「よければ、ぬえさんも一緒に来ませんか? カフェーで、何か甘いものをご馳走しますよ。」
「ふざけるな……」
ぬえの手が、白蓮の手を払いのける。
「はい?」
「甘いのは、あんたらの方だっ! 聖白蓮!」
ざわり。
静かな鬼気が、場を包み込む。
「はて。それはどういう……」
いつになく剣呑なぬえの気色に、白蓮もまた、頬の筋肉を固くする。
「過去との決別? 生まれ変わる? はん、こいつぁ伝説の尼公様とも思えない生臭説法だね!」
「なんだと? 貴様、姐さんを愚弄するか!」
一輪が、強く掴んだ金輪を振り上げる。
途端、周囲の空気が重量を持ち、憤怒の相が燃え立つ時代親父が出現する。
「ボコボコにされたくなければ、その薄汚い口をさっさと閉じろ!」
「やだね! 私は間違っちゃいない!」
「こ、このクソガキ……」
「お待ちなさい、一輪さん」
さっと片腕を上げ、聖は雲使いを制する。
入道は悔しそうに一声唸った後、霧散した。
「続けて下さい、ぬえさん」
「ムラサに問いたい。あんたは、己が葬ってきた人間たちが今際に味わった苦悶と無念を、ぜーんぶ! きれいさっぱり、なかったことにしようと言うのかい?」
強い眼差しが、水蜜を射る。
「過去の一切を捨て去るなんて、大それたことをして……それで本当に、後悔はないのかい?」
「う、く……」
「私に言わせりゃ、ただの逃げだよ。そんなものは」
対する水蜜は、視線を弱々しくさまよわせた。
どこかでワーハクタクが小さくくしゃみをする音がしたが、緊迫する命蓮寺に、それは届かなかった。
「あんたでも、聖でも……とにかく誰でもいい。いざ、答えてみなよ。自分の犯した罪に目を背けることが、本当に御仏の教えに沿った行為なのかどうか……さあ、さあ、どうした! 答えろ!」
一同は顔を互いに顔を見合わせ……そして、沈黙した。
「過去も現在も未来も、鵺はずっと鵺だし、舟幽霊はずっと舟幽霊だ。いかに時勢が移ろうと、そのキャラ設定だけは金剛不壊。それならば……」
「あい、分かった」
しばしの間をおいて、白蓮が重々しく口を開く。
「その論旨、誠に筋が通り、公明正大であるッ!」
続いて、ナズーリンが肩をすくめる。
「これはどうやら……一本取られたようだね」
「そうですね。ねえ水蜜、後は君の気持ち次第だけど……どうしますか?」
星が、水蜜を促す。
「私は」
ぬえの手を握り、水蜜は涙に詰まる声で、囁く。
「間違ってたわ。ごめんね、ぬえ」
「ううん。分かってくれれば、いいのよ」
「私、強くなるわ。自分の原点を見失うことなく、もう一度、セーラー精神の権化として……キャプテン・ムラサとして、頑張ってみる!」
静かに、しかし熱っぽく見詰め合うふたり。
「くっ、泣かせるじゃないの」
百合百合しくも感動的な情景に、一輪も思わず、目じりを拭った。
いつのまにか再出現していた雲山に到っては、滝のような涙と鼻水を惜しげもなくドバドバ流し、境内を大いに潤していた。
「あのねムラサ。私、あんたに贈りたいものがあるの」
「何?」
着陸時の勢いで、つい、そこら辺に投げうってしまった紙袋を、ぬえは懐に抱き寄せる。
「どう?」
「わあ……!」
袋の中から飛び出したのは、早苗から奪ったもとい借りたセーラー服だった。
「えー、本日は乗船まことに有難うございます。私は本日の船長を勤めさせていただく、村紗水蜜と申します。どうぞお気軽に、キャプテン・ムラサ! とお呼び下さい。 えー、現在の気温は摂氏23度。春らしいポカポカ陽気で、風も穏やか。絶好の遊覧フライト日和であり……」
河童から買った拡声器を手に、乗客たちに向けて離陸前の挨拶をする水蜜。
甲板上に所狭しと並べられたテーブル席は全てふさがっており、立ち見を余儀なくされている客も多い。
当初の物珍しさも薄れ、次第に客足が遠のきつつあった寺型遊覧船だが、ここ数日に限っては乗船希望者が大量に押しかけてきている。
その理由は、言うまでも無く……
(いやー、今日もキャプテンはかわいいなあ……)
(もともと別嬪さんだったけど……あの格好に着替えてからから、一段と魅力的になったっつーか……)
(くうう……あのいでたちを見てると……なんかこう、甘酸っぱい気持ちがこみ上げてくるんだよなあ……)
船上に結集した男たちは、人間にしろ妖怪にしろ、ひとり残らず水蜜から眼を離すことができない。
落ち着いたネイビーブルーで統一された上下のセーラーからは、『現役女子高生が着用済!』という最高級ブランドにふさわしい胸きゅんオーラを常時立ち上っており、見る者の煩悩を刺激して止むことが無い。
また足首から膝頭までのラインは、雪よりも白いニーソックスによってぴっちりと覆われており、ふくらはぎの若々しい膨らみが否応無く強調されている。
さらに、ミニスカートの紺と靴下の白に挟まれた、膝上15センチ圏内の肌色夢世界に至っては……まさに一見必殺の超威力!
『今世紀最強の絶対領域』が、拝める船。
その噂は噂を呼び、命蓮寺は今や、癒しに餓えた男たちの聖地となった。
山門の前には連日長蛇の列が形成され、乗船チケットを手に入れるためにヤフオクで大枚を払う者も出始めているらしい。
もちろん、そんな客たちにまじって、ぬえもまた随喜のヨダレを垂らしまくっていたことは言うまでもない。
そんなこんなで、幸福な7日間があっという間に過ぎ去り……白蓮ら一向は、モナコで1年間ぶっ通し豪遊ができるほどの財産を築いた。
ついでに、とある紅白巫女からも多大な嫉妬を貰い受けることとなったわけだが、それはまあ別の話。
陽が暮れ、遊覧船の営業時間が終了した後も、命蓮寺には朗らかな笑い声が絶えない。
「素晴らしいです、マーベラスです!」
湯の代わりに金貨と高額紙幣で満たされたバスタブに浸かりながら、星はハバナの葉巻をくゆらせる。
「ぷはー……いやはや、セーラー水蜜さえいれば、私の能力を使うよりもバリバリ稼げちゃうじゃないですか! いやー、楽ちん楽ちん!」
「ああ。どっかの台所に忍び込んでは残飯を荒らす日々とは、これで完全におさらばだな」
「その節は苦労をかけましたねえ。ああ、荒れ果てた寺の中で、隙間風に吹かれながら齧った大根のしっぽ……あのせせこましい味が、懐かしく思い出されます」
「だが、今は違うぞ。私のハイソでセレブな舌に乗ることが許されるのは、おフランス直輸入のフロマージュ・ブランだけだモグモグガツガツ……うむ、うまい」
唇の周りにベタベタとチーズのかすをくっつけたまま、ナズーリンが満足そうにうなずく。
「見てよ姐さん! この最新型加湿器の威容を!」
「え? どうしてそんなものを買ったの?」
「むふふふ。これをね、こうやって……室内に新鮮な水分を充満させて……それからおもむろに、雲山召還!」
「あらあらまあまあ! あんなに老け衰えていた雲山さんが、ジャニーズ系のイケメンに!」
「ねー! いいでしょ、これ!」
「うん、いい! よーし、私も思い切って木魚を新調しちゃうぞー! 樹齢300年の杉を使った特注品だぞー!」
皆、思い思いに楽しい時間を過ごしていた。
稼ぎ頭の水蜜もまた、ワインボトルの栓を抜きながら鼻歌でオーケストラを奏でている。
「ふんふふーん。セーラー効果で、ハウメニいい顔! ほんと、あなたには感謝してるわ」
部屋の片隅でぼんやり頬杖をついているぬえに対し、水蜜はブルゴーニュ産30年モノのグラスを勧める。
ところがぬえは……お気に入りの娘がお気に入りコスプレに身を包んで接待してくれているというのに、何故か鬱々とした顔をしており、ついぞグラスを受け取らることなくため息を吐いた。
「あれ? ボルドーの方がお好みだったかしら」
「……んん」
「あっそうか、ぬえは和食派だもんね。今、大吟醸を持ってきてあげる」
幻想郷紳士withぬえの眼を大いに楽しませてくれた、紺色セーラー。
その貸与期限が今日までだということを、ぬえは未だ皆に伝えていなかった。
と言うか、セーラー水蜜があまりにもキャピキャピ☆ルンルンすぎるせいで、レンタル契約のことなどすっかり忘れてしまっていたのである。
今回のキャンペーンは、多大な知名度および富を寺にもたらしてくれた。
それでも……こうして、うっかり落としたコルク栓を拾おうと上体を曲げてミニスカの裾からファンタスティカをチラリさせる水蜜の艶姿は、今宵を限りに失われてしまうのだ。
うんうん、やっぱセーラーときたら、ドロワーズよりショーツだよな。
「やだやだやだー! セーラー服返すのやだー!」
何の前触れも脈絡もなく、急にバタバタ床上を転がり始めたぬえに、一同は驚愕の表情を禁じえない。
「ぬえ……? ちょっと、さっきからあなた、おかしいよっ!」
「うえーん! 聞いてよムラサぁ……」
そして語られる、濃紺セーラー入手の経緯。
「なるほど。そんなことがあったのね」
「ぐすん……ムラサ、こんなにかわいいのに……私、お別れしたくないよぉ」
「まぁまぁ。別にセーラーを返したからって、私が消えていなくなるわけじゃないし」
「いやなのー! ムラサはセーラー姿じゃないとダメなのー! ふええええーん!」
よしよし、とばかりに、水蜜はぬえの髪を優しく撫でた。
ぬえは鼻先に揺れるスカーフに瞼を押し当て、涙をぬぐい、ついでの役得とばかりに胸元に深く顔を埋め、スーハースーハー深呼吸をしてみた。
何かが弾けてしまいそうな香りがしました。
「やれやれ。君は実にフェチだな」
駄々をこねるぬえに、ナズーリンが蔑意に満ちた視線を送る。
「聖に向かって、あれだけ大袈裟な啖呵を切っておきながら……結局のところ、己のセーラー欲を満たしたかっただけとはね」
「うっさい!」
ぬえは、噛み付かんばかりに反論する。
「セーラームラサを失えば、あんたたちだって困ることになるんだよ!」
「ん? どういうことかな?」
「遊覧船のリピーターがどういう層なのか、考えてみな」
「それは……船長のセーラー姿を目当てとするキモオタばかりで……はっ!」
賢将の頭脳は、すぐ解答にたどりついた。
すなわち。
水蜜がセーラーを脱ぐ → 客が激減 → 収入も激減 → 貧乏 →チーズ食えなくなる
「やだやだやだー! 贅沢できなくなるの、やだー!」
今度は鼠がローリング・オン・ザ・フロアー。
「セェーラァー服をっ! ちゅちゅちゅちゅちゅちゅちゅ、ぬぅーがーさーないでっ! ちゅちゅちゅちゅちゅちゅちゅ」
ナズーリンは死ぬほど混乱している。
「こらこら。見苦しいですよ」
対照的に、星はいたって落ち着いている。
「毘沙門天の眷属ともあろう者が、これしきのことで何を騒ぐのです」
「し、しかしだな……」
「こういう時こそ、仏法の守護者としてふさわしい態度が求められるのですよ」
「むうう……」
「まあ、さすがは星さん。頼もしいですわ」
白蓮、うっとり。
ナズーリン、がっくり。
「はははははは、当然です聖! さあ!」
じゃきん!
宝槍を振り上げ、星は爽やか極まりない笑顔で叫ぶ。
「今こそ緑巫女をブッ殺し、金のなるセーラーを我が物に!」
「スターメイルシュトロム!」
「げふそ!」
彼女は、名前の通り夜空に輝く星となった。
「とにかく……喧嘩や戦争はいけません。約束を破るのも、当然なりません。私たちは、仏に仕えるもの。お洒落や金銭などではなく、衆生の信用をこそ財産とすべきなのです」
たっぷりと浴びた返り血もそのままに、説教にいそしむ白蓮。
もちろん、逆える者など誰もいない。
「水蜜さん。あなたは明日から、平常どおりの和服で出勤するのです」
「……はい」
「ナズーリンさんと一輪さんは、明朝の運転に備えて機関部の整備を」
「了解」
「合点」
「星さんは息を吹き返し次第、動力部にフライングパワーを充填しておいて下さい」
「……」
「返事が無い。ただのうっかり者のようだ」
ぐったりしたままの星を、雲山が担ぎ上げる。
それと一緒に、ナズーリンと一輪は部屋を出て行った。
「さて」
順番に一同を見やってきた白蓮の視線が、とうとうぬえの顔に留まる。
「最後に、ぬえさん。やるべきことは、分かってますね?」
「ムラサの脱いだセーラーを隅から隅までしゃぶりつくした上で、しぶしぶ山の神社に返却します」
「マジックバタフ……」
「もとい! セーラーを丹念に洗濯さらに乾燥させた上で、可及的速やかに返却します!」
「よろしい」
ぬえは、無念この上ないという面持ちで、水蜜に向き直る。
水蜜は、ぎこちなく微笑む。
「……残念だったね、ぬえ」
「ごめんなさい」
「ううん、あなたが謝る必要なんて、全然ないわ」
「でも、私……世間の役に立ちたいというあんたの気持ちを、踏みにじるような真似をしたわ」
「そんなこと、ないよ。素敵なお洋服が着られて、私、すごく嬉しかった」
「……本当?」
「この7日間で、私は幻想郷アイドルチャートぶっちぎりのナンバーワンになれたわ。 ……あはっ! かつてあれほど忌み嫌われていた、この私がよ?」
じわじわと、水蜜の目の底が潮っぽくなる。
「私のコスプレが、みんなに元気を与えている。私がセーラーを着ることで、たくさんの人妖を幸せにしてあげられる。私……わたしっ! それが、ぐす、とっても、嬉しくて……」
「ムラサ……」
「でも、もういいの。あなたの言った通り、地味と陰気に生まれついた宿命からは逃げられないものね」
するする、すとん。
衣擦れの音と共に、セーラーが床に落ちる。
「私、普通の舟幽霊に戻ります」
水蜜は、笑いながら泣いていた。
ぬえの胸が、潰れんばかりに締め付けられる。
(大事なムラサを、私は、傷つけてしまった)
彼女を高みに登らせたのも、そこから転落させたのも、全ては己の浅はかさが引き起こした事態だ。
ぬえは、大いに絶望した。
そこに追い討ちをかけるように、白蓮の平坦な声が響く。
「さあ、ぬえさん。あまり夜が更けてしまっては、先方に迷惑です。有言実行、今すぐ服を返しに行ってらっしゃい」
下着姿のまま、水蜜は立ち尽くしている。
そこには、水蜜の泣き顔と同様、ぐしゃぐしゃに皺の寄ったセーラー服が散らばっている。
全ての元凶が自分にあることを理解しながらも、ぬえは、内心で舌打ちをせずにはいられなかった。
(ムラサは、あんたの教えを信じて頑張ってきたんだぞ。なのに……こんな……)
カッと、頭の中で火花が散った。
「……もうちょっと……なんとかしてやろうって気は……」
「なんですか?」
「なぁ白蓮! あんた、こいつの友達なんだろ!」
「いかにも」
「だったら……だったらさあ!」
胸倉に、掴みかかる。
「どうして、そんなに平然とした顔をしていられるのよ!」
ぬえの唐突な豹変ぶりに、水蜜は驚き、しゃくり上げるのを止める。
「私が悪かった! 謝れというなら、何度でも謝るわ! だから、何か良い智慧を貸して下さい!」
「ぬえ、やめて! もういい! 私なら、だいじょうぶだから!」
「離してムラサ! 頼む白蓮! 頼みます! こいつが明日からも、ずっと立派なキャプテンでいられるように! みんなから愛される舟幽霊であるように! あんたの大魔法で、なんとかしてあげて!」
「……それは」
白蓮の細い指が、ぬえの手首を掴む。
超人的な圧力に、骨がきしむ。
「あなたの本心ですか? あなたは、心の底から、村紗水蜜の幸せを願っているのですか?」
「私はかつて、孤独であることが妖怪の本分だと思っていた。でも、どうやらそれは間違いだったみたいだ」
「しかしあなたは、己の欲得のために、一度は彼女を裏切った」
「反省してる! 自分が今、どれだけ虫のいいことを言っているのかも、分かってる! だから、今度こそ信じて!」
手首の痛みも、意に介さず。
ぬえは、ひたすら真っ直ぐ、白蓮を見つめる。
「ムラサは……私にとって、とても大事な友だちなの……だから……」
「ふっ……その言葉を、待っていたのですよ」
白蓮は、そっと指を解いた。
「いいでしょう。明日の朝、もう一度ここに来て下さい。とっておきの大魔法をお目にかけますよ」
と、尼公様は自信満々に言っていたものの。
その晩、ぬえは一睡もできなかった。
ずっと、ずっと、昔。
妖怪は、毎日のように人間と戦っていた。
妖怪は強い。
人間は弱い。
だから、その差を埋めるべく、人間はうんざりするほど多様の嘘と謀略を駆使してきた。
そして……数多くの妖怪が、あえなく地下に封じられた。
この地上に、妖怪の生きられるような場所は、もうほとんど残っていない。
そんな忌まわしい記憶が、白蓮を信じようとする気持ちを薄れさせるのだ。
ぬえが神社に現れるや否や、早苗は彼女から己の青春の証をひったくり、さらにはそれをさっさと金庫の中にしまってしまった。
あまつさえ、
「今度ここに来たら、穴という穴に神代大蛇を突っ込みますよ?」
などと凄む始末で、再び貸してくれる可能性は、限りなくゼロに近い。
森の奥深く、手ごろな岩にもたれかかりながら、ぬえは考える。
(私は……ムラサの幸福を取り戻してあげられるんだろうか?)
一夜明けて、午前10時。
遊覧船の搭乗受付が始まる頃。
ぬえは、紛糾真っ最中の命蓮寺に降り立った。
「おいおい、冗談キツいぜ! 俺たちゃ、もうそんな古臭い着物じゃ我慢できねぇんだよ!」
「キャプテーン! もう一度だけでもいい、あの神々しいセーラー姿を見せて下さい! キャープテーン!」
「何もかもおしまいだ! セーラーの無い世界なんて暗黒だ!」
「あああ! 黙示録に予言された終末の瞬間が、ついに来てしまったんだー!」
寺門前に集まった猛者の群れが、口々に悲嘆と慷慨を叫ぶ。
他ならぬ水蜜自身が語った、セーラー船長キャンペーン中止のお知らせ。
それは、世知辛い世の中においてセーラーのみを救いとしていた男たちにとって、死刑の宣告も同然であった。
「ムラサッ!」
ひたすら群集に向かって「ごめんなさいごめんなさい」と頭を下げる水蜜のもとに、ぬえは慌てて駆け寄る。
「なんなのよ、この惨状は! 白蓮はどうしたの?」
「それが……」
水蜜いわく……自分が目覚めた時にはもう、寺の主は姿を消しており、そのまま今に到るまで戻って来ていないのだと言う。
さらにはナズーリンまでもがどこかに行ってしまっており、場の収集には、自分と一輪と雲山のみで当たっていたとのこと。
ちなみに、星はまだ死んでいる。
「そんな……」
ぬえは、目の前が真っ暗になった。
(ふっ……その言葉を、待っていたのですよ)
そう言った時の白蓮の眼差しは、とても暖かかった。
この人間なら、もしかしたら本当に私たちを救ってくれるかもしれない。
そんな予感が、微かながらも確かにあったのだ。
しかし、現実はどうだ。
「ばっくれやがったんだ……」
拳が、怒りで打ち震える。
あいつめ。
いかにも聖人君子めいた面をしながら、その場しのぎの出まかせを言って……
結局は何の策も用意できず……
そのまま寺が没落していくのを見るのが嫌だからって、逐電したに違いない……!
「雲山、ふんばれ!」
一輪が、かすれた声で叫ぶ。
自棄のあまり、今にも暴徒と化して境内に雪崩れ込んで来そうな群衆を、めいっぱいに腕を広げた雲山が必死に抑えている。
怪力無双を誇る大入道も、これだけの数を一度に相手するのは流石に辛いらしく、その大目玉は血走り、こめかみには青筋がくっきりと浮き出ている。
「逃げよう! こんなところ、長居は無用だ!」
「何を言ってるの?」
ぬえの伸ばした手に、水蜜は関心を示さない。
「白蓮は、私たちを騙したんだ」
「そんなことない!」
「そうだよ、封獣!」
肩で息をしながらも、一輪は金輪を掴む手を決して降ろそうとはしない。
「姐さんは、きっと帰ってくる! あの方は、そういうお人だ!」
「でもっ!」
「お願いぬえ! 聖を信じてあげて!」
ぬえは思う。
なんてお人よしのムラサ。
私のような不良にたばかられたばかりだと言うのに……また誰かを信じて傷つこうと言うの?
「くうっ!」
一輪が、片膝をつく。
「ちきしょうめ。雲山が、もう限界だって言ってる」
「ええっ?」
雲山の存在が、薄れつつある。
水滴の粒子がじわじわと蒸発し、雲山は歯を食いしばりながらも、自身の透明化を止めることが出来ない。
「一緒に死のう、キャプテン!」
「あのヘヴィーなイカリで、俺を叩き潰してくれ!」
「最後にせめて、何色のパンツ履いているか聞かせてくださーい!」
非常に残念な状況が、出来上がりつつあった。
ぐわお、と一声吠えて、雲山がついに霧消する。
門が破られ、力尽きた一輪がばったりと倒れる。
「ひゃあああ……」
水蜜は、押し寄せてくる人波の恐怖を直視できず、頭を抱えてその場にうずくまってしまう。
哀れ水蜜の運命は尽き、後はそのまま男幕に圧殺されるのを待つだけ……
かと思われた、その時。
きぃぃぃぃぃぃん。
鋭く高い金属音が、虚空から鳴り響いた。
それが余りにも奇妙で耳障りだったので、群集の意識は、地上の水蜜から上空の「それ」へと一斉に転じられた。
「おい……あれを見ろよ」
「飛んでる……セーラー服が」
「宙を舞っているぞ、俺たちの希望が!」
「ひとつ、ふたつ……ああ、数え切れないほどたくさん!」
大歓声が、わいた。
「えー、みなさん!」
小さな体に似合わぬ大声で、ぬえが語り始める。
「ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ございません。当遊覧船サービスは、ただいま、乗船前の余興として、空飛ぶ不思議なセーラーショーを演じております。どうぞしばしの間、ごゆるりとお楽しみ下さい」
一同、どよめく。
「並びにご案内申し上げます。昨日を持ちまして終了いたしました船長のセーラーキャンペーンに代わり、当サービスは、本日からアッ!と驚くような新キャンペーンを披露する運びとあいなりました。ただいま、資材の搬入に手違いが生じたため、その実体をお伝えできるまでにはまだ幾ばくかのご猶予をいただかなくてはなりませんが、皆様のご期待を決して裏切らぬ内容となっておりますので、どうぞご理解とご協力を賜りたく存じます」
「なあんだ、そんなサプライズが用意されていたのかよ」
「おう。もう少しで人生を早まるところだったぜ」
「それより……あの空とぶセーラー、すげぇ俺好みのデザインだなあ……はあ、胸キュン度数高すぎ」
「お、奇遇だな。俺も、あんなセーラーが欲しいと思っていたところなんだ」
皆が楽しげに指差す「それ」は、水蜜の目にはただの鳥の群れにしか見えない。
「なんとか、落ち着いたね」
ぬえは、得意げに片目をつぶって見せた。
「使ったのね。あなたの能力を」
「ええ。これで良かったんでしょ?」
「うん……ありがとう、おかげで助かった」
「さあ、白蓮を待ちましょう。ここで、一緒に」
水蜜は、己の指をぬえのそれに絡めた。
「もともとは、私のまいた種だからね。もう少しだけ、付き合ってあげる」
それでも、鳥たちが全て過ぎ去ってしまったら、もう誤魔化しはきかなくなる。
(その時は、私の命に代えてでも……)
ムラサを、守る。
そう決意して、彼女の手のひらを、しっかりと握り締める。
すると、まるでそのタイミングを図っていたかのように。
「……ちょっとすみませーん、通してくださーい。ごめんなさーい、道開けてー」
門塀の向こうから、暢気な聖者の声が聞こえてきた。
「聖! それにナズーリンも」
「ふう……ああ水蜜さん、ぬえさん、大変お待たせしました」
「すまなかったね船長。今回の探し物も、なかなかに骨の折れる代物でね」
人ごみをかきわけかきわけ、待ち焦がれていた者たちが、やっと戻ってきた。
「おかげで、私ゃいい迷惑だったよ」
ぬえが睨む。
白蓮は、悪びれない。
「でも……これであなたも、騙される痛みが骨身に染みて理解できたのではなくて?」
「う」
「だがあなたは、その痛みを乗り越え、友の信念を支える道を選んだ。自分よりも、友の身を第一に案じる優しさを得た」
ぬえは、直感する。
白蓮は、私を試すためにわざと姿を消したのだと。
「そうそう。なかなかカッコよかったぞ!」
ケロッとした顔の一輪が、いつのまにかぬえの横にいて、その脇腹を肘で突っつき始めた。
「このまま潰されたらどうしようって思ったけど……やっぱり、ぬえは頼りになるね」
水蜜が、本当に嬉しそうに、笑う。
柄にもないことをしてしまったなあ……と照れつつ、ぬえは紅くなった頬を指で掻いた。
ちなみに、この期に及んでなお、星は死んでいる。
「さて……ぬえさんの覚悟、確かに見届けました! 誠に実直で、無私無偏であるッ!」
ナズーリンが、懐から一枚の手鏡を取り出す。
「高度成長期に少女時代を送った者なら、誰もが憧れたであろう大魔法。そのキーアイテムは、すでに幻想のものとなっていたのさ」
「いざ、南無三!」
鏡を受け取った白蓮の体から、膨大な魔力があふれ出す。
詠唱が始まる。
「手玖魔玖、摩耶魂! 手玖魔玖、摩耶魂! セーラー服の現役女子学生になーれっ!」
大魔法「フジオ・アカツカ・フォーエヴァー」。
眩い光が、ぬえたちを包み込む……!
「ふう、首が疲れちまった」
セーラー服の群流を見送った男たちが、再び地上に視線を戻す。
そこでは、奇跡が待っていた。
「本日はご来場いただき、まことにありがとうございます!」
そう挨拶する白蓮は、学○院女学院の制服を身に纏っていた。
「かくも大勢の殿方からご贔屓をいただき、スタッフ一同、光栄至極に思ってるよ」
小柄なナズーリンに、田園調布双○中学の制服はよく似合う。
「そこで我々は、日ごろのご愛顧に感謝し、本日より特別大感謝キャンペーンを発動させることにしたわ!」
僧衣を脱ぎ、思い切って白百○学園に挑戦してみた一輪。
雲山はこの日、自分の相棒に恋をした。
「すなわち、はあはあぜえぜえ、船長のみならずスタッフ全員セーラー服でお出迎えしちゃうよスペシャル!」
土壇場で復活し、息せき切ってクライマックスに駆け込んだ星は、名前にちなんで星○高校を着こなす。
「どうぞこれからも、命蓮寺遊覧船サービスをよろしくお願いいたします!」
清冽なるホワイトに輝く、十○字学園の夏服。
水蜜が服の魅力を引き出し、服が水蜜のポテンシャルを開化させる。
完全無欠、驚天動地の五人集!
楽園中の楽園にいきなり放り込まれ、男たちは勿論のこと、ぬえもまた、腹の奥からこみあげてくる法悦に我を忘れていた。
「ほら、ぬえぬえも挨拶しなよ」
水蜜に軽く肩を揺さぶられ、ぬえは、大魔法の威力が己の身にまで及んでいることを認識した。
さあ読者諸兄、あなたがもっとも好ましく思うセーラー服の種類を思い浮かべたまえ。
僕らの封獣ちゃんは、今まさにそれと寸分違わぬモノを着ているぞ!
「ぬえさん。あなたはもう、私たちの仲間です」
「同志だ」
「姉妹も同然ね!」
「朋輩ですとも」
みんな、私と同じだ。
私も、みんなと同じだ。
私はもう、ひとりじゃない。
セーラーは、ただ見て楽しむだけの骨董品ではないのだ。
それは、絆だ。
みんなで一緒に実際に着てみて、その喜びを共にキャッキャと分かち合うことにこそ、セーラーの真価はあったのだ!
「ねえムラサ」
「なあに、ぬえ?」
「今さらな質問だろうけど、私たちってさ……」
「親友、でしょ?」
互いに頷きあう。
そしてぬえは、自分と同じ魂を持つ全ての者たちに向け、己の正体を高らかに告げた。
「私の名前は、封獣ぬえ! 永遠の高校1年生です!」
祝福の拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
(了)
ぬえムラに限って書いた方がわかりやすかったかも。
雲山を人物としてではなく、召喚物として書いているのを評価して点数を上乗せ。
他の作家さんで個人として闊歩しているのを見ると、違うような気がしていたので。
でもぬえムラはもっと大好きです
ぬえムラ、大好きです。
うおおぉぉおお! 二次元最高!
青春トキメキパワーを
…全裸でさえなければ。流石に「服なんていらない、むしろ無くて(・∀・)イイ」の境地には到れねーよ……w
さらにメイド服派の紅魔館とナース服を至上とする永遠亭戦力と脇巫女服の博麗神社も巻き込んで第一次幻想郷大戦が勃発するわけですね。